食堂では打上げが続いていた。いつの間にか気の会う仲間同士で小さなグループができ、皆、酒を酌み交わしながら思い思いに談笑していた。出入口に一番近いテーブルには、中江と押田ディレクターがいる。
中江は意図的にその席に座っていた。ちょうど押田ディレクターを挟んで玄関ホールが見通せる位置だった。
中江は、メモを見た時の結子の反応が気になっていた。とたんに落ち着きをなくし、その後の会話は明らかに上の空だった。
五分と経たぬうちに「疲れていますので、今日はこれで上がります」とだけ言い残し、食堂を後にした結子。いつもの結子ではなかった。この三ヶ月間、週に何度も顔を合わせ、同じ時間を過ごしてきたことで、中江は結子の変化を敏感に感じ取れるようになっていた。
ベージュのダウンジャケットを着込んだ結子が押田ディレクターの肩越しに見えた。外階段を下りようとしている。
(どうした、志村……)
結子の姿を目で追った。
(おまえ、こんな夜に……)
中江は、会話を中断してしまうことがわかりながらも、唐突に「押田さん、じゃあこれで僕は」と告げ、いまだ盛り上がっている食堂を抜け出した。部屋に戻った中江は、革のコートを手に取ると、ポケットに紫の小箱を押し込み、結子の後を追った。
外階段を降りてみると、そこは別の世界だった。
暗闇の支配。厚い雲は月の光をさえぎり、湖を闇に隠している。風雪が湖面を打ち、ボートの桟橋に当たる波の音が心なしか騒がしい。ペンションからもれる灯りは、わずかにその周囲を浮かび上がらせるに留まっている。
光りが闇に吸い込まれていく狭間。そこに結子が立っていた。結子のシルエットがにじんでいる。
中江はしばらくの間、距離を保ったまま結子の後ろ姿を見つめていた。
(あいつに何かが起きている。このままにしてはおけない。とにかく今できること……)
――降り積もる粉雪。結子のもとへと続く音の無い歩み
「志村」
斜め後ろより中江が声をかけた。
結子の肩がその声にピクリと反応したが、振り向こうとはしない。
前に回ろうと歩み出た。
「見ないで下さい。放っておいて……」力なく言うその言葉の語尾は風雪にかき消された。
「俺も考え事をしたくてさ…。ここにいてもいいよな」
中江の言葉には結子の同意を必要としていない強さがあった。
結子の返事はない。中江は黙って結子の右隣に寄り添うようにして立った。
漆黒の世界 たたずむ二人
寄せる波 樹々を通り抜ける風
中江は一言もしゃべらない。ただ立っている。結子に押しつけがましくその理由(わけ)を尋ねたりはしない。人には、悩みを聴いてもらいたい時とそうでない時がある。今はあれこれ聞き出すよりも、ただそばにいてあげることが大事だと考えていた。