「皆さん、今日一日お疲れ様でした。えー、本番に入る前に中江君と結子ちゃんが雪合戦をして、衣装をぐちゃぐちゃにするという不祥事が…」あちこちで笑いが起きた。
「中江君、聞いてますか? えー、そういう不祥事もありましたが、何とか無事に最終ロケも完了いたしました。今夜はスタッフ一同、このペンションに泊まることでもありますので、ささやかながら最終ロケの打上げを行いたいと思います。皆さん、明日の出発に差し障りのない程度に、どうか楽しくやって下さい」
押田ディレクターのよく通る声が食堂に響いた。
支笏湖畔に立つ「ペンション支笏」では、夕食を兼ねて打上げが行われていた。ドラマは放送開始以来、高視聴率を維持してきたこともあって、皆、気分が良く、盛り上がっている。木調で統一された食堂には笑い声が絶えなかった。暖炉の前では、中江と結子が、ペンションのオーナー夫妻と談笑していた。
慣れた手つきで薪をくべながらオーナーが中江に尋ねた。
「今日はどんなシーンを撮ったのですか?」
「最後のラブシーンなんです」と中江がはにかみながら答えた。
その言葉を継いで「ラブシーンと言ってもね、中江さん――」と言いながら、結子は隣にいる中江にチラリと目配せをした。
「僕が医師で、彼女は看護婦なんです。二人はお互いに惹かれあっているのですが、僕の方がいつも冷たい態度をとってしまう…。でも、二つの氷がお互いの熱で溶かしあって、溶け出した二筋の水が最後には一つになるように、色々と時間を共有する中で僕が徐々に心を開いていく。そして、この湖の前でお互いの気持ちを確かめ合う。そんなピュアなシーンなんです」
それを黙って聞いていた夫人が「昔お泊りになった方のことを思い出してしまいましたわ…」と、暖炉の炎を見つめながらポツリと言った。夫人は古い記憶をたどるように、当時のことをゆっくりと話し始めた。
二十年程前のこと、医師と看護婦のカップルがこのペンションに泊まった。若々しく、新婚のように見えた。奥さんは病院でのことなども明るく話してくれていた。二日ほど滞在をして、奥さんの方は仕事の都合で先に東京に帰っていった。その直後、ご主人がこの支笏湖に身を投げて自らの命を絶った。
「あの仲睦まじいお二人がどうしてそんなことになったのか……」
夫人はしばらく遠くを見つめる目をしていたが「ごめんなさい。こんな話をしてしまって」と言って、中江と結子に視線を戻した。
結子は夫人の話を聞いていて、自分と関わりのあることのように感じた。
――支笏湖。亡くなった父が大事にしていた写真
――東京から来た医師と看護婦
――二十年程前。私が生まれた頃
「あのー、ペンションによくある宿泊者の自由帳のようなものはありませんか? そのご夫婦、何か書き残してはいないのですか?」
結子は夫人の話を、過去の話として聞き流すことができなくなっていた。
「ウチには自由帳のようなものはないんですよ。ごめんなさいね」夫人はそう答えたが、結子の表情から思い詰めたものを感じて「そうですねえ、宿帳でお名前くらいならわかるかもしれませんけど……」と応じた。
しばらくして、夫人が帳場から戻ってきた。
「お名前が残っていましたよ。特別にお教えしますね」
小さなメモを結子に差し出した。その紙片には
直江 庸介
倫子
と記されていた。