阪本雅城の水墨画


鹿島灘 水墨画
690*460mm
 

なまず図 水墨画
690*460mm
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はす図 水墨画
690*460mm
 


■南画家の雅城
阪本雅城は東京府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)に入学した時はすでに画家を自分の天職と決意していたといいます。多摩川の清らかな流れや武蔵野の静かな雑木林のたたずまいは、いくら描いても描きつくせない美しさでした。

雅城の画業には画についての師を求めた記録はどこにもありません。機会もないままに、レンブラントを師と仰ぎ、中国の画僧・牧谿(1279)や梁楷の南画を手本として、禅の修行と自習自得の錬磨の道をたどったのであります。
伝統の画にはそれなりの流派の臭味とでもいうものが意識されますが、雅城の作品にはそれがありません。

雅城は昭和14年に友人の招きで満州(中国東北部)に渡ります。その中国大陸で、牧谿の崇高、幽玄の根底になるものは、尨大極りない大陸の自然であることを知りました。

昭和20年に終戦となり、日本に戻ることになりますが、その間の忍苦は言語に絶する一年間でありました。雅城を慰め鼓舞したものは橋田邦彦著「正法眼蔵釈意」の一冊と、北朝鮮の裏山に続く松林であったといいます。

戦後の雅城は禅の修行を大森曹玄老師に師事し、画家として南画に終始しました。
「無相の自己の不在のところに、禅芸術の生まれでてくる余地はない」と大森曹玄老師のことばにありますが、芸術の深さは、禅機の現れにほかなりません。
阪本雅城の画は、南画の本道を直指するものであります。


中央は大森曹玄老師 左から4人目が阪本牙城

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