本の紹介「画と禅」白隠

白隠 161pー165p

 白隠の絵は、上野の博物館で数点の大作を見たことがあり、森田大耕氏の紹介で沼津市原の松蔭寺で、たくさん拝見した。また同氏の世話で一点入手して愛蔵している。またその後、昭和三十二年初夏のデパートにおける白隠遺墨展でもたくさんの書画を見る機会を得たが、いつ見ても白隠老漢の豪快目のあたりという気がする。わたくしは、白隠禅師の画こそ仙和尚のそれと同じく南画の本道をゆくものと思っている。白隠の画には、画かきらしい臭味が全然感じられない。白隠は画が好きで、画を習い、たくさんの画を描いている。それだのに、その画に全然職業臭がない。こういうのは世に稀れなのである。これだけでも驚いてよかろう。白隠にとっては、画は日常の会話と変ることがなかったのであろう。芸術などとこと改めて考えることはなかったのであろう。芸術のための芸術などいうものは、白隠にとっては凡そ世迷いごとであったにちがいない。白隠にあっては、硯は飯もり茶碗、筆は箸とちがわなかったろう。

 白隠の自画頂相というのがある。また大応国師や大燈国師、関山国師や慈明和尚や観世音などを描いた密画もあるが、ちっとも専門臭がない。子供のように大真面目に描きながら、別に自由画臭があるわけでもない。これらの大作を見ると木炭らしいものであたりがつけてあるのがそのまま残っている。狩野派の粉本によるものであろうが、デッサンもタッチも正直に専門絵画の通りに描いているくせに渋滞がない。さりとて筆の走りすぎもない。専門家がつけてくれたあたりの上でも大真面目で筆をなでていったろうと思う。大胆不敵などとそんなものでもなく、力みかえることもなく、文章を書くことと変りがなかったように見える。筆というものはどうも妙なもので、これをとると心が改まる。よそいきの気持ちになる。専門家には専門家的要心が起るし、素人には素人的疑心が起る。剣道家が剣をとる時にもやはりそうであろうと思うが、武蔵の言うように剣をとって敵に対する時も常の心にかわらぬようにはなかなかならぬらしいが、筆をとっても常の心のままにいることができないのである。筆が指とおなじ人体の一部分とはなかなかならないのである。大雅堂が指で描いた画を見たことがあり、わたくしも試みたことがあるが、指をじかに紙に落すことはたしかに直接的である。ところが白隠の筆はそのまま指になっているかのようである。

 白隠は、諱は慧鶴といい、その禅室を鵠林と号した。また闡提翁、沙羅樹下老衲などと称した。霊元天皇の貞享二年(一六八五)十二月二十五日、駿河国駿東郡浮島原に生れた。俗姓は杉山氏、幼名を岩次郎と呼んだ。年十五歳はじめて原駅の松蔭寺単嶺和尚について得度した。白隠は幼いころ富士山にかかる雲の去来を見て世の無常を感じたという話が残っている。白隠の名もそれに関連があると聞いた。白隠は後年よく富士山を描いた。その賛に、「おふじさん霞の小袖ぬがしやんせ雪のはだへが見たふござんす」というのがあるが、そんな話と思い合せるとはなはだ愉快だ。十一歳の時母にともなわれて村の昌源寺に詣り、地獄のおそろしい話をきき、夜風呂にはいったところが、女中のたく薪がしきりに燃えさかる、薪のはぜる音、風呂釜のわく響が、地獄の釜さながらの思いがして恐怖のあまりに泣き叫んだということである。後年の白隠の作品の中には、線の細いところはまるでないが、人物の顔などに、とてもグロテスクなものがある。人並はずれて物を深く見つめたものであろう。人間の顔でも動物の顔でも徹底的に見つめれば見つめるほど、ほんとうはグロテスクなものである。こういう画も白隠の白隠たる面であろう。

 白隠は「姿貌奇偉、虎視牛行」と評されたというが、彼の描くところの人物も姿貌奇偉で虎視牛行の感が強い。達磨でも大燈国師の像でも自画像でもその眼は虎視そのもので、射すくめられるような気がする。

 白隠禅師木像というのが、竜沢寺安置と松蔭寺安置と二体ある。いずれも容貌はなはだ魁偉である。松蔭寺の木像のごときは、見ていて射すくめられる思がする。自画像でも獅子のように見える。ギラギラ光った大きな眼は竜の眼を想わせる。ほっすを握った掌も、握りこぶしも、飛びかかってきそうで怖い。おふじさんの雪の肌を見たがった禅師だから、くだけたやさしさがあったにちがいないが、一方人間原爆みたいな和尚であったろう。松蔭寺の墓地には昔の仏弟子の墓がたくさん並んでいる。禅師のあの大きな目玉ににらみ殺されたのも多いことだろうと思った。

 白隠の絵の中で一般的に有名なのは達磨の図である。顔を大きく現し、一筆描きの衣もすべて典型的な狩野派の筆法である。頭、眼、鼻、耳など力のこもった荒い筆法で描きながら、黒い瞳だけを丁寧に塗り込み式に描いているのがある。このあたり甚だ子供っぽいところが見える。これを見ると白隠の作画態度がはっきりするような気がする。白隠は大雅堂とは交渉があったようである。京都での出合もあったろうし、大雅堂は富士山に数度登っているから、原駅で会っているかも知れない。大まかな筆の運びは大雅堂から得たところが或いはあったかも知れないが、大雅堂に会う以前に、白隠の狩野派は既に出来上っていたものであろう。弟子の邃翁が画の上手で、画の方では白隠の先導者であったという話である。

 邃翁は大雅堂の指導をうけ、それを白隠、東嶺に伝えたともいわれる。邃翁の画は画かき臭い絵で、白隠の画とはちょっと位取りがちがうのである。白隠の画を見ていると、言いたいことだけ言ってしまってケロリとしているようなところが見える。一応粉本には忠実に描くが、さてゆっくり観賞というところまではやらなかったように思える。文字も徳川時代の御家流で、原稿でも書くように書き流しているのがある。

 白隠の画には「慈明和尚」の図のようなおそろしい深刻なものもあるが、「おたふく女郎粉引歌」のさし絵のような軽妙な絵もある。説教代りの絵ときに描いたようなものは、非常に自由に描いてある。すり鉢にすりこ木の図などそのすり鉢の感じなどよく現れている。ものの円味すなわち立体感がおのずからに出ているのにはおどろく。一本の棒をかいても巧まずして円味がでているのはふしぎだ。

 白隠の描く人物には、妙に色気のあるのも見のがせぬことであろう。布袋でも大黒でも観音でもあごの小さな自画像のような顔であるが、いずれも色白のぽちゃぽちゃである。あらわにむき出している布袋の肩や腹の線も、つきたての餅のように柔かく弾力をもっている。白隠自身がこういう雪のように白い餅肌であったのではなかろうか、などと余計なことを考えたくなるのである。

 とにかく、白隠の画を見ていると、東洋独特の作画の境地というものが理解できるのである。印可証に画を用いる心がわかるのである。そして白隠の画は勿論その文業よりは劣るが、これらの先哲の画に対する考え方が判るのである。

 近ごろ白隠の画の研究も行われているようである。写真集も二、三出版されている。国民新聞社編の『白隠和尚遺墨集』は大正三年版で遺墨展の集大成で、大部のものである。当時の社長徳富蘇峯の序文がある。雑誌「日本及日本人」の附録の『白隠禅師隻手帳』は、写真が五十七葉あり、大内青巒居士の白隠禅師の伝記がついている。また京都マリア画房から発行された淡川康一氏著『白隠――生涯と芸術』がある。著者は経済学博士であり、『白隠』の以前に仙墨蹟の著があり、この道の権威である。この『白隠』の生涯とその芸術については該洽博洽な智識をかたむけ、その墨蹟の解説のごときは懇切丁寧を極めている。今後もおそらくこれ以上は誰にも望めそうもないほど間然するところがない。