本の紹介「画と禅」 鑑賞について

鑑賞について 100pー107p

「どういう画が、いいのでしょうか」と、聞かれることがある。
「さあ、やっぱりあなたが見て、いいなあと思う画がいいでしょう」と答えるが、そうですか、とそのまま納得する人は少ないようである。
「そいつが、どうもハッキリしないで??」と、いう。
「新聞や雑誌の評判にたよらないと、安心できませんか」
「いや、それほど世評など信用していませんけれど。画の価値を決める目安がありそうに思うのですよ」そこで、わたくしは言うのである。
「画には生きている画と、死んでいる画とありますよ」
「相撲にも生き体と死に体とあるそうですがあれですね。だが、どうしてそれがわかりますか」
「相撲をとらせてみるとわかりますよ。つまり画を並べてみるのです。並べてみると、生き死にも、勝ち負けもハツキリします」
「実は、いま展覧会を見てきたところですよ。たくさん並んであるのを見たのですが、サッパリわからない」そういう時には、とわたしは言う。
「その画と、それを見ている人間とを比べて見るといいですよ。その人間が女で、しかも美人なら尚更いいですよ」
「画と人間と相撲をとらせるのですか」
「そうですよ。その時人間を打ち負かすだけの力のある画だったら、その作品は本ものだ」

 これは、わたくしの持論、というと大げさだが、なまじっかの画を見ているより、そこに立っている人を眺めているほうが、よほど楽しく生甲斐を感じることが多いのである。画と人間をくらべて見ると、大概の画は、生きた人間にはかなわないものである。それはその画が生きていないということである。凡そ世の中で人間ほど完全な生きものはないであろう。そして生きてそこにいるという事実ほど力強いものはないからである。生きとし生けるものの中、人間ほど生命に満ちたものはなかろう。ここにある人間は、完全な一個のオブジェとして空間を占め、時間の中に息づいている。存在するという驚くべき事実。わたくしの言いたいのは、画は人間以上のものでなくてはならない、ということである。

 今、ここにひとりの美人が画に見入っているとする。その後姿の形のよさ、色気のほのぼのとただようところを見ると、画はおろか周囲にあるものの総てを消してしまうだろう。髪の毛の色具合、襟足の白い輝き、きものの作る肩の線、お尻を抱く帯の張り、流れ落ちる脚の線と、それを受けとめている、少しみだらな足の位置??。こういう目のあたりに生きている「物」に出合ったら、大概の芸術は逃げだしてしまうだろう。
「そういう人間に負けない画がありますか」「ありませんね。少くも今時の画かきの画にはありません」
これはまことに淋しいことである。美術雑誌や美術新聞に掲載される新画を見ると、墓場のように淋しい。
「昔の画には、人間以上の画がありますか」「あります。牧谿や梁楷の画の前に立ってごらんなさい。人間などふっ飛んでしまいますよ。こういう作品を見ていると、人間が実にみすぼらしく見えてくる。そうかと思うと、また人間であることが、うれしくてたまらないという気になったりしますよ」

 これが画の力なのである。人間が時に苦しみにあって、よたよたと倒れようとする時、内側から支える力なのである。そういう力をもたない画は芸術としてのねうちがない。どうして今の画には、そういう力がないのであろうか。もっとも昔の画かきにだって、ピンからキリまであった筈である。それが今までの永い年月の間に、いい画だけが残ったのである。いい画は時間的にも長く生きぬく力があるのである。
「画というものは、むずかしいものですね」「画かきが画かきであるうちは、画はかけませんよ」

 画かきのかいたものは画である。画は画以外の何物でもない。画が画でなくなって「物」にならなくてはダメである。画かきが画かきを卒業して、画を忘れ、「物」に徹して、「物かき」になって「物」をかくのでなければ力のある画(すなわち物)はできないのである。力は画にはなく、力は「物」の中でなければ宿らない。

 その「物」を徹底的に掴んだのが昔の南画家である。そのほとんどが禅僧であった。唐宋時代の南画家は総て然り、梁楷しかり、牧谿しかり、日本にあって如拙、周文、蛇足、雪舟等々みな禅僧ならざるはない。これらの禅僧たちは禅修行によつて人間になったが、画かきという職人にはならなかったのである。だから、本とうの「物」が描けたのである。

 禅は物を知ることではなくて、物になりきることであろう。多くの画かきは、物を知ることに急で物になりきることを忘れている。道元禅師の法語に「天童先師に見えて当下に眼横鼻直を認得して人に瞞せられず、すなわち空手にして郷に還る」とある。物そのものをありのままに見る眼は横に、鼻はまっ直ぐについているのを、そのままに認得することができて、ありのままの物がかけるのである。

 人に瞞せられず、物にも気分にも瞞せられず歩々清風起るで、運筆のまにまに画が生まれる。そういう画でなければ人の心を捉える画にはならない。
この肝心を忘れて、画の画に非ざることを思わず、画は手先きの芸と心得るから、いつまでたっても画から脱けだすことができない。画人はよろしく道心を堅固にもって、只管精進よりほかないのである。



 刀剣家の山田研斎氏の話によると、日本刀の鑑定というものはよほど困難なものであるらしい。鑑賞眼を養うためには、歴史的に地理的に、科学的にまた芸術的に、あらゆる面から研究しなければならぬ。だから、極端にいえば全国にある何万という刀剣の全部を見つくし、憶えこんでの上でないと完全とはいえないということになる。まして、このごろのようにニセものやゴマカシものの横行する世になっては、いよいよことは面倒で、例えば中身の銘にしても、写真で複写して刻みこむというのだから恐れいった次第である。一点一劃をそのままに刻みこんで、錆まで植えつけるのだというから、よほどすぐれた鑑識眼がないと見破ることができないであろう。だから結局の最後は、心の鏡に映して見ての断定より外ないことになるらしい。

 山田氏のごときは、一般の愛刀家とはちがって、研ぎという具体的な体験を通して刀剣の肌にふれて何十年という深い修錬を経てきた人である。その人にして最後の直観に頼らざるをえない、という。もちろん一口に直観といっても山出しの素朴なもので間に合うはずはなく永年の勉強、研究、博覧、強記の積み重ねの上にひらめく直観である。それは、いよいよに磨かれた心鏡の浄面あって始めてできる技である。鑑賞を楽しむ域に達するまでの途は、容易なことではないと、しみじみ考えた。

 鑑賞という言葉は、芸術作品を吟味し、賞美することで、これによって遊び楽しむ気分が多分にあって、それでこそ甲斐があるのであるが、ニセものを本ものと思いこんで喜んでいる図は、およそこっけいで悲惨である。やっぱり物を愛し楽しむからには正しく真価を知っての上でなければつまらないではないか。狐にばかされて、饅頭だと思って馬糞を頬張っていたなんて話は画にもならないではないか。ところが、正しい鑑賞眼がなくて名声にだけ化かされているのは、大凡このたぐいであろう。鑑賞の鑑の字は、かがみだから、凸凹の鏡には凸凹にうつるし、曇った鏡には曇ってうつる。鑑賞には曇りのない明鏡をもってしなければならぬ。したがって、曇りをなくすためには鏡を磨かねばならぬのである。

 わが国には「読画」という語がある。これは鑑賞と同義語と見てよかろう。画を心読することで、なかなか味のある語である。マスコミのこのごろでは、作品よりは作者の名声のほうが先きで、人々は画を見るにも目で見ないで耳で見るのが多い。まして、心で画を読み味わおうなどいうことは思ってもみないのが一般のようである。何度も何度も、くりかえし読まないことには、画だってわかるものではない。

 「読書百遍意おのずから通ず(又は義自ずからあらわる)」という言葉がある。よい書は百遍でも二百遍でも読みかえすのでなければ読むことにはならない。松本洪先生の漢籍の講義をうけたまわっていると、先生がいかに繰り返し繰り返し一つの書物を読んでいられるかがわかる。その抽出された「意」「義」は錬鍛された刀の地金のように重量をもっているのに驚かされる。「読書百遍意おのずから通ず」というと、読書の繰り返しで自ずから意義が通じてくるように聞えるが、百遍読みかえすから通ずる意ではなくて百遍も二百遍も繰り返さなければ通じないものが意というものなのである。意一つにも重みがあり厚みがあり、裏があり表があり、拡がりがあり、働きがある。自分自身の裡にある意義が読書百遍で躍り出すのである。「一書の人恐るべし」というのは一書に徹し一書になりきって、吾とわが身内の意をつかみ出した人のことである。要するに読書も人、読画も人で、「鑑賞眼の低い人格者というものはあり得ない」道理が、ここに存するのである。

 鑑賞の大事なことが忘れられ、この大切な的がぼやけたる、今日のごとき時代は少ないであろう。この的をかくもぼやけさせたものは、スポーツをはじめ近ごろのラジオやテレビによる娯楽の普及ではなかろうか。スポーツは野球でも拳闘でも一定のルールをきめて、競技者も見物もそのルール内で娯しむ。このルールを外れたら競技は成り立たないし、見物の興味も索然とするであろう。ところが、真の芸術や日本古来の「道」と称するものは見物を目安におくようなルールなどはなく、自由無制限の拡がりの中にある。しかも深い魂の問題で、安っぽい娯楽とはちがう。

 娯楽は狭いワクの中で行われるので、深さなどは要求されず、要はただ興味だけ、面白さだけである。例えば落語や万才みたいなもので、聞いている間だけの面白味で後には何も残らないし、残らないのがねうちとされる。かくして娯楽の流行やショウの氾濫によって人間の頭はますます浅く軽くなってくる。より高いものやより深いものを求めようとする人の目は、これによってふさがれ、探求の意慾は踏みつぶされてしまうのである。うっかりすると何もかもがショウ化してしまいそうである。かくして剣道もショウ、相撲もショウ、茶道も花道もことごとくショウとなる。??かくして総ての「道」が堕落の底に沈む。

 真の鑑賞精神は、芸道をかかる不幸から救い上げる叡知なのである。そして本ものとニセものを見分け、本ものの中に人間の栄光を讃える努力なのである。ニセものにだまされないで、ありのままの真の姿をつかむ修行が鑑賞なのである。そして、道元禅師の法語にいう「眼横鼻直を認得して人に瞞せられず」に到って、はじめて真の鑑賞のはたらきとなるのではなかろうか。