本の紹介「画と禅」

画と禅(22P〜24P)


 先日、アメリカから帰ってきたある画かきが、「あちらでは禅のブームです」と語った、と新聞に出ていた。一体禅というものが、ブームに乗るような性質のものであろうか。鈴木大拙博士でさえ、あちらで禅のわかる者は極めて少ないということを言っていたのを記憶する。禅のブームなどいう言葉を平気で使える人は、禅を歌謡曲ぐらいにしか考えていない。凡そ安ものの人間にちがいない。鎌倉時代に武士の間に盛んに禅が行われ、いわばブームとでも言うところだろうが、それとても、その修行に打ちこんだ武士の数は知れたもので、況んや正見し得た者は、暁天の星の如くであったのである。禅は流行だのブームだのいうものに乗るようなお手軽なものではないのである。

 禅は人間を根本から練り直すものであり、鋳直すもので、生やさしい修行で得られるものでなく、鋳直しても尚正見なくして禅はない。ブームなどと安直な寝言ではないのである。白隠や鉄舟の書を一見しただけでわかると思うが、その一字だけでも、常人には持ち上らない重量があるのである。一般には、それがどのくらいの目方かさえ見当がつかないであろう。百錬万鍛の日本刀の鉄もバケツのブリキ板も区別のできないのが一般なのである。

 先日、あるお寺の催しによる現代禅僧の墨蹟展というのを見た。現在の日本全国の禅寺の住職方の全部といっていい程のたくさんの陳列であったが、その中で境崖ここに到るかと、驚くようなものには、沢山はお目にかからなかった。歴史的にも有名なお寺を継ぎながら、よくもまあ恥かしくもなく、と思われるようなものさえあった。もっとも、これが修行のむずかしさの証明であって、普通一般には立派な作品ができないのが当り前で、出来たらそれこそ不世出の豪傑で、白隠や鉄舟が芋の子のようにゴロゴロ出てきたら、それこそ大へんなことになってしまうであろう。

 この間、ある美術批評家が、日本画が曲り角にきている、という意味のことを言っていた。在来の日本画の様式も内容も転換しなければならぬ、画家もそのことでもがきを見せている、というのであった。これも今日に始ったことではなかろう。画は、いつの時代でも伝統や因習から脱け出そうと努力するものである。何派何流と称する封建的な流派の中で身動きもできない画家でも、何とかしてその殻から脱け出そうと、もがいているものである。天才だけが、そこから飛躍できるのであるが、普通の画家は、古い殻の中で、それを打ち破ることができないで終ってしまう。

 禅というものは、こういう古い殻を打ち破る手段を教えてくれるものである。錯、錯、錯と斬りつくし、仏が来れば仏を殺し、祖に遭えば祖を倒して、根元的ないのちにふれて、融通無碍にはたらく。そのはたらきが書になり画になる。そうなった時、その書も画も新しく生れた美しいものとして光り輝くのである。これ以上新しい芸術はない。

 曲り角も横道もあったものではなかろう。この意味でわたくしは改めて南画の精神を省みたいと思うのである。