Manila, February 1945
アジア太平洋戦争とフィリピン

  

目次
日本のフィリピン占領体制
戦争被害と戦後補償
戦争の記憶(1)
戦争の記憶(2)
史料集
文献目録
これらのページについて

 

   


日本のフィリピン占領体制

中野 聡
 


このテキストは、「日本の東南アジア占領体制─フィリピン、インドネシアを比較して─」『歴史学研究』651号(1993年10月、1993年度大会報告集):179-188頁を改題してインターネット上での公開のために若干の修正を加えたものです。 

1.報告のねらい

 アジア・太平洋戦争における日本の東南アジア占領は,はたしてこの地域に,どの程度,いかなる歴史的衝撃を与えたのか。それは,この地域の(a)民族独立・国家形成を促進したといえるのか,そして,(b)政治・社会的体制に変化をもたらしたのか。これらの問いをめぐり,これまで内外の研究者の間で,活発な議論が交わされ,多様な評価がなされてきた。やや強引に図式化すると,(a)については,日本の占領が,結果として東南アジアの民族解放を促進した,少なくともその「触媒」になったとする評価がある一方,「触媒」説と「貢献」説が結びつくことに対する批判,独立国タイの場合や戦前すでに独立付与が決定されていたフィリピンなど,戦前の各地域の法的地位・国家形成の進展度などによって日本の占領が持った意味にも大きな差があったとする批判がある(とくに「触媒」説と「貢献」説の混同を批判する観点から東南アジア占領史研究を整理・批判した論文として、岡部牧夫「大東亜共栄圏と東條政権」『歴史評論』508号, 1992年8月) 

 また,(b)については,マッコイが,フィリピンにおけるエリート支配の連続性を念頭において,日本の占領が東南アジア社会内部の政治・社会構造に与えた衝撃を過大視すべきでなく,戦前・戦時・戦後の連続性にこそ注目すべきだと論じる一方(Alfred McCoy, "Introduction," Southeast Asia Under Japanese Occupation, Yale University Southesat Asia Studies, 1980),インドネシア研究者の間では,ベンダの研究(Harry J. Benda, The Crescent and the Rising Sun: Indonesian Islam Under the Japanese Occupation, 1942-45, Hague, 1958)以来,日本軍政期の衝撃がまずナショナル・レベルで強調され,さらに倉沢愛子のジャワ占領史研究などにより,地域社会でも日本の占領が「伝統社会に流動性,多様性,そして不安定性をもたらした」という評価(倉沢愛子『日本占領下のジャワ農村の変容』,草思社,1992年,517頁)が,実証研究に裏づけられて定着しているように思われる(インドネシア占領史の研究史については,以下を参照:後藤乾一『日本占領期インドネシア研究』,龍渓書舎,1989年)。このように,日本の東南アジア占領史については,民族独立・国家形成に与えた影響,戦前・戦後における各地域の歴史の非連続・連続の解釈をめぐってさまざまな評価が存在しているのである。 

 ここでふたつの問題点を指摘しておきたい。まず第一に,これら評価の多様性が主として東南アジア社会の地域的・歴史的多様性に起因していることは言うまでもなく,地域研究者がこの点に最も注目してきたのは当然であった。だが,地域別の占領史の展開は,もっぱら被占領地の事情から説明され得るわけではなく,日本がその戦争目的に応じて地域別に実施した占領政策の側の多様性にも注目する必要があるのではないか。第二に指摘したいのは,地域による歴史の非連続・連続の差異が,あたかも日本による占領の歴史的衝撃の大小・深浅の差異として把握されがちな点である。フィリピンにおける歴史の連続性を強調するマッコイは,東南アジアにとって日本による占領の数年間は,幾つかの例外を除くと,バンブー・ハウスの村を襲った台風のようなものだったという(McCoy, p.6)。台風が去ればすぐにバンブー・ハウスが易々と再建されるように,日本の占領が与えた歴史的衝撃は小さなものだったとするのである。しかし報告者は,たとえフィリピンにおいて戦前と戦後の政治・社会体制に著しい連続性が見られたとしても,それが,日本による占領の歴史的衝撃が小さかったことを意味するものではないと考える。 

 上述のふたつの問題点を念頭において,この報告では,a)日本の占領政策自体がその戦争目的に応じて地域によってどのように異なり,被占領者がこれにいかに反応して,歴史が結局どの方向に動いたのかという相関関係に注目し,また,b)歴史的衝撃の多様性は,大小・深浅ではなく,むしろその衝撃が変化に向かうか,連続に向かうかのベクトルの差ではなかったのかという仮説に立脚して,ここでは,日本の占領の影響が──国家形成や社会変動という観点から──最も大きかったとされるインドネシアとりわけジャワと,極めて軽微であったとされるフィリピンを比較してみたい。前者は,報告者の専門外であるが,占領史研究が最も蓄積された分野であり,当部会でも1988年度に倉沢愛子が報告している(「日本軍政下のジャワにおける大衆動員政策」『歴史学研究』586号,1988年10月)。したがってインドネシアについては,これら既存研究の結論を参照し,比較の指標としながら,具体的には主としてフィリピンの事例について検討してみたい。 

 日本のフィリピン占領史に関しては,アゴンシリョの研究(Teodoro A. Agoncillo, The Fateful Years,Manila, 1965; The Burden of Proof, Quezon City,  1984)をはじめ,「占領下フィリピン史」については,数々の優れた著作があるが,日本側資料の発掘の遅れにより,占領者・被占領者関係を総体として論じた「日本のフィリピン占領史」の全体像に迫る研究はまだない。しかしこの分野でも,近年,内外の研究者とりわけリカルド・ホセ(Ricardo T. Jose),寺見元恵(Motoe Terami-Wada)をはじめ,報告者も参加している「日本のフィリピン占領期に関する史料調査フォーラム(代表・池端雪浦)」などによる史料発掘・研究が進展しつつある。本報告に直接関連する研究は,折にふれて紹介したい。なお,本報告の利用資料および研究の視点は,特に断らない限り,報告者の責任で収集・分析したものであるが,防衛庁防衛研究所における資料収集は前出フォーラム・メンバーの川島緑が収集した資料を借用したことを断っておく。また,比較の視点としては,戦後東南アジアの社会秩序の形成に戦時期がもった意義を検討するという視点に立脚して,倉沢がジャワ占領史研究で指摘した,日本の占領政策が現地社会に与えた具体的影響、とりわけ人的・物的資源の獲得を目的とした動員政策と被占領地の政治社会的変動の相関関係を重要な比較の指標として分析を試みたい。 
 

2.被占領地の事情と占領者の意思

──フィリピン占領の特殊な位置づけとその背景

 i.南方占領政策の共通性と多様性:よく知られているように,日本の東南アジア占領政策は,1941年11月20日に定められた「南方占領地行政実施要領」で,その方針が初めて公式に示され,南方作戦準備中の各軍(第14軍・フィリピン,第16軍・ジャワなど)に通達された。同要領はまず,「占領地域の治安回復・国防資源の急速獲得・作戦軍現地自活」の3大原則を示し,ついで,現地に残存する統治機構を極力利用すること,従来の組織や民族的慣行・宗教等を保護・尊重すること,そして,国防資源取得と占領軍の現地自活のためには民生への圧迫をある程度やむなしとするなど,各占領地に共通する方針を示したものであった。しかし実際の軍政は,占領地域によって,これらの方針の貫徹度や運用の方向にはかなりの差があり,さらに,1943年5月31日の「大東亜政略指導要綱」で,ビルマ,フィリピンは日本軍占領下での独立,マライ,スマトラ,ジャワ等は帝国領土と決定して軍政を継続しながら「原住民の政治参与」に道を開くという,地域別の占領地帰属方針が示されていった。それでは,このような地域別の軍政の展開や占領地帰属方針は,どの程度,占領地の実情に規定された日本の対応であり,どの程度,日本側においてあらかじめ区分され予定された占領政策だったのだろうか。 

  ii.被占領地の政治的初期条件と軍政の展開・インドネシア:まず,被占領地の政治的初期条件の相違は、軍政や占領地帰属の方針にどのような影響を与えたのだろうか。インドネシアの場合,戦前,植民地の行政・経済の全般を支配していたのは,あくまで,オランダ人をはじめとする欧米人であった(昭和17年人口推計で欧米人計25万9千人。岩武照彦『南方軍政論集』,厳南堂書店,1989年,248,255頁)。一方,インドネシア側では,ジャワ社会における伝統的貴族層であるプリヤイ(priyayi)が原住民行政官として温存された一方,西欧的教育を受けたエリートの形成は遅れ,民族独立運動や,台頭しつつあったイスラム改革運動も弾圧・抑圧されていた。このような事情を反映して,初期日本軍政いわゆる今村軍政は,残存統治機構利用の原則に従い,オランダ人をはじめとする敵国人を直ちには追放・収容しないで利用した。しかし軍政の本格実施後もオランダ人を全面的に利用することは不可能であったから,軍政要員や接収した敵産の委託経営にあたる日本企業の派遣要員の到着を待って順次これと交代させ,収容していった。一方,現地住民に対しては「同祖同族」「兄弟民族」といった標語のもと,軍政に協力する民族指導者を急速に育成・登用する方針が採られ,オランダ時代には抑圧されていたイスラム改革運動の担い手達や,スカルノ,ハッタなど投獄・流刑されていた民族主義者が軍政協力組織のオルガナイザーとして利用されることになった。そして,戦況の推移に伴い民衆動員が軍政の主要な課題となるにつれて,軍のこれらインドネシア人指導者層への依存は深まっていったのである。 

 iii.被占領地の政治的初期条件と軍政の展開・フィリピン:一方,フィリピンの場合,すでに1946年の完全独立を前提として,1935年,合衆国主権下に自治政府(Commonwealth)が成立しており,また,欧米的教育を受けた比較的層の厚い政治経済エリートが形成されていた。これらのエリートは概ね地方社会における地主名望家層の出身であり,地主エリートと呼んで差し支えない。彼らは1907年以来,すでに長年,米国の自治化政策のもとで植民地議会政治を営み,1935年の自治政府発足後は,議会政治家とポピュリスト的独裁者としての要素を合わせ持つ大統領ケソン(Manuel Quezon)のもと,ナショナリスタ党(Partido Nacionalista)一党支配体制に結集していた。一方,米国人および欧州諸国系人の存在は,在比米軍を除くと産業界では鉱山業,糖業,貿易業など一部に限定されていた(1939年人口統計で,在比米軍関係を除き,米国人8,709人をはじめ,英,米,蘭,西,仏,独をあわせて15,903人にすぎなかった)。また,すでに1920年代はじめには政府官吏の95%がフィリピン人となり,自治政府発足後は,米国は大使館規模の高等弁務官事務局をもつにすぎず,政府の民族化はほぼ完成していた。このような事情から,日本軍は残存統治機構利用の原則に抵触することなく,早くから敵国人を収容,戦前の自治政府を概ね温存して事実上の間接軍政をとることが可能であった。 

 さらにここで無視できない政治的初期条件として,戦前から日比両政府の間には十分に深い関係が存在していたことが指摘できる。ケソン自身,戦前,日米戦争の際に予想される戦禍の回避のため,1937,38の両年にわたり訪日,日本側から不侵略の言質を得ようとした。また,日本軍占領下に発足したフィリピン共和国の大統領ラウレル(Jose P. Laurel)は,1936年に最高裁判事に就任するまで日本総領事館の顧問弁護士であり,判事就任後も総領事館の重要な助言者であった(ラウレルの名を公信に用いぬように注意する内山清総領事発広田外務大臣宛電報,1937年10月16日,外務省記録S.10.1.1.0.18)。さらに,ラウレル政府閣僚のアキノ(Benigno Aquino),ロハス(Manuel Roxas),オシアス(Camilo Osias),パレデス(Quintin Paredes),サビド(Pedro Sabido)などもまた,戦前,移民問題やダバオ土地問題をめぐって日本総領事館が「わが方」と頼る有力政治家であった(木原次太郎総領事発有田外務大臣宛電報,1938年11月14日,外務省記録A.6.0.0.1.33.1.)。したがって,開戦時,日本がケソン政権を温存して取り込もうとしたのは,日本側から見れば成算のある戦略であった。しかしケソンは,マニラ残留を強く希望しながら,結局,米国側の説得を受け入れ1941年12月末,マッカーサー(Douglas MacArthur)とともにコレヒドール要塞に逃れ,さらに42年3月末にはオーストラリアに脱出,米国に亡命した。亡命後のケソンは,日本の敗戦後を睨んで米比間の戦友としての関係を強調したが,1944年8月,持病の肺結核で死亡,副大統領のオスメーニャ(Sergio Osmena)が昇格した。一方,フィリピンでは,ケソン政権を支えてきた閣僚・有力政治家が,日本に忠誠を誓う以外のあらゆる方法を用いて国民の苦難を和らげるため努力せよとのケソンの指示を受け,ケソン大統領秘書官長であったバルガス(Jouge B. Vargas)を長として対日協力政府(行政委員会)を発足させたのである。 

 iv.フィリピン占領の特殊な位置づけ:しかし,このような政治的初期条件だけが軍政展開の相違をもたらしたわけではなく,日本の戦争目的に応じた明確な方針の区分がインドネシア,フィリピンの間には存在していた。そもそも,日本の東南のアジア占領目的は,1941年6月の「対南方施策要綱」や11月開戦決意の際の帝国国国策遂行要領で強調されたように「帝国の自存自衛」にあり,日本自身が英米蘭経済圏に資源とりわけいわゆる国防資源を依存している現状を打開するため排他的経済圏を軍事力によって確保することがめざされていた。その構想は短期的な国防資源の確保に最も重点がおかれ,この目的に沿って占領確保が不可欠とされたのは,石油,ゴム,錫を筆頭とする重要資源が存在するオランダ領・英領植民地であり,また実際に,これら地域では資源の獲得が一貫して軍政当事者の問題意識の中心を貫いていた。 

 これに対してフィリピンの場合はどうであったか。参謀本部第一部研究班が1941年3月に起案した「南方作戦に於ける占領地統治要綱案」は,岩武照彦がその研究で「南方占領地行政実施要領」の叩き台になったのではないかと指摘する文案であるが(岩武前掲書,22-26頁),同案の第6項「対米戦争に伴う比島処理方策案」は,とくに他と区別して「比島作戦ハ比島ニ於ケル米軍ノ根拠地覆滅ヲ主トシ,比島ノ物資獲得ヲ重視セス」とする基本方針を示し,現(ケソン)政府を懐柔できる場合には軍政を施行せず「其ノ主権ヲ尊重シ」,軍政施行の場合も「簡易ヲ旨トシテ治安ヲ維持スレハ足ルモノトス」としていた。このような方針の根拠として,第7項「比島処理方策案説明書」は,資源という点ではフィリピンは「手ニ収ムルモ獲ルトコロ僅少」であり,あくまで対米戦遂行上その占領が止むを得ないのであって,「資源ノ為ニ戦フニアラサル主義ヲ明確ニスル要アリ」と断じていた。さらに,軍政を施行しない場合の「主権尊重」の真意は,フィリピン「政府ノ軍ニ対スル依存排撃ノ遁辞」であり,軍政施行の場合もそれは「政府ノ屈従スル迄一時的ノモノナルヲ以テ当座ノ便宜ニ従フヲ可トスレハナリ」として,軍政施行に伴う統治責任を回避し,できるだけ早期に「帝国ニ反抗セサル」比島政府を樹立する方針を示していた。同案はまた,横浜に亡命中の反米民族運動の老闘士で日本軍と共にフィリピンに帰還したリカルテ(Artemio Ricarte)将軍について,リカルテを尊敬するケソンの懐柔・説得を期待している点や,ケソン懐柔に失敗した場合,若手実力者のロハス(Manuel Roxas)を軍が利用し得る最適任者と指摘している点など,相当に比側の事情に相当精通した者が起案に参加したことを窺わせる内容となっている(「対米作戦ニ伴フ比島処理方策案」,「同説明書」,防衛研究所所蔵南方軍政資料62) 

 同案が実際の軍政方針に具体的にどのような影響を与えたのかは今のところ詳らかではないが,1943年1月14日,ビルマ・フィリピンへの独立付与,その他の地域の帝国領土としての確保の方向を示した「占領地帰属腹案」は,対比独立付与を戦争遂行上の「負担煩累」を回避する上で得策としている点で「比島処理方策案」との認識の一貫性を見出すことができる。また,陸軍参謀本部作戦課長の服部卓四郎も戦後,合衆国陸軍情報部戦史課の聴取に対して,フィリピンが南方攻略作戦に含まれたのは政治・経済上の理由からではなく,純粋に戦略上の考慮,とくに海軍のそれによると述べている(Statements of Japanese Officials on World War II, Reel 1, Vol.1, Doc. No. 62013:国会図書館現代政治資料室所蔵マイクロフィルム)。このように「大東亜戦争」の「経済戦」としての枠組の中でフィリピンは瑣末な位置を占め,「負担煩累」とさえ見られていた。このような認識を背景として,物資獲得を重視せず,米軍根拠地の覆滅・治安確保を最優先して,自治政府を温存した間接統治を旨として進められた日本の軍政(および独立付与後の占領政策)は,フィリピンにおいて実際にいかなる占領者・被占領者関係を形成したのであろうか。この点をインドネシアの場合と比較しながら,幾つかの指標ごとに検討してみよう。 
 

3.占領者−被占領者関係の形成と展開 

──動員と社会変動の相関に注目して 

 i.占領者とエリート:後藤乾一の指摘によれば,インドネシア軍政の当事者は一様にインドネシア住民の民度は低く「教化・練成」が必要であるとの認識を示していた(後藤乾一「『大東亜戦争』の意味」『講座東南アジア学10』,引文堂,1991年,179-180頁)。一方,比島軍政監部総務部長を勤めた宇都宮直賢は,その回顧録で「フィリピン人はインドネシア人に比べてその民度が比べものにならぬくらい高かった」と述べている(宇都宮直賢『南十字星を望みつつ:ブラジル・フィリピン勤務の思い出』,1981年,53頁)。後者の認識は,日本軍が占領支配のために掌握しようとした階層が,フィリピンの場合,既成の政治経済エリート層であったことを示している。このようにエリートとの協力を占領地支配の要とした軍政方針の延長線上に1943年10月,ラウレルを大統領としてフィリピン共和国が発足したのである。 

 しかし,日本軍とエリートの協力関係は,治安回復の失敗,抗日ゲリラ活動の活発化につれて動揺し,憲兵隊などによる協力者周辺の圧迫・弾圧,協力者側の対日不信の増幅を招き,危機を深めていった。そもそも,対日協力政府を構成したエリートは,その教育・出自,対米輸出農業に依存していた戦前の経済利害からいって圧倒的に対米依存の傾向を示していたし,中央・地方の対日協力政府と,全土に展開した米比軍ゲリラいわゆるUSAFFEゲリラを各地で指揮した地方の有力者は,戦前はナショナリスタ党体制のもと一心同体の関係にあり,戦争開始時の偶然の事情から協力と抵抗に分かれた面もあり,占領下では各地の治安維持のため事実上協力しあい,対日協力者の多くはゲリラとも連絡をとりあい情報を流す「二重協力者」であった。日本軍指導部は,こうしたエリートの協力の実状を概ね黙認したが,米軍の逆上陸が切迫すると,反米・反エリートを掲げて1935年には武装蜂起事件を起こしたサクダリスタ(Sakdalista)党を前身として,戦前,日本に一時亡命していたラモス(Benigno Ramos)を指導者とする──ほとんど唯一の積極的対日協力勢力──ガナップ(Ganap)党を本格的に利用する方針に転換した。そしてルソン戦も間近に迫った1944年12月,兵補・義勇軍としての役割を期待してマカピリ(Makapili,フィリピン愛国同志会)を創設,これに反発するフィリピン政府と日本軍の緊張は一気に高まった。しかし結局,両者の協力関係は,村田省蔵大使,ラウレル大統領顧問・通訳の浜本正勝,宇都宮らの努力によって,ラウレル一行の日本亡命(1945年3月)に至るまで維持されたのである(サクダリスタ党については,Motoe T. Wada,"Benigno Ramos and the Sakdal Movement."Philippine Studies 36-4 (1988): 427-41.など,寺見元恵の一連の研究がある。また,マカピリ問題に関する当事者の証言としては以下を参照:宇都宮前掲書,福島慎太郎編『村田省蔵遺稿 比島日記』,原書房,1969年) 
 ii.占領者と民衆──宣伝政策:次に,占領者と被占領地民衆の関係を,宣撫・宣伝政策を通じて考えてみよう。そもそもアジア・太平洋戦争における日本軍の宣伝にはふたつの側面があり,作戦軍の行動を直接に支援して占領地の治安の回復・維持を目的とする本来の軍宣伝とならんで,占領地民衆を国防資源獲得や作戦軍自活に協力させるため,「大東亜建設の本義を徹底」させるいわゆる教化宣伝が行われた。インドネシアの場合,宣伝の重点は早くから教化宣伝におかれ,倉沢によれば,それは過酷な軍政にもかからわず民衆を抵抗運動へと駆り立てるのを阻止するひとつの要因となったという(倉沢前掲書,307頁)。一方,フィリピンの場合,軍宣伝の主要な関心は地方における治安の回復・維持におかれ続け,教化宣伝は概ねマニラにおいて試みられるにとどまった。また,フィリピン各地を宣伝隊を率いて巡回した軍宣伝班・報道部元大尉の人見潤介の回想によれば,地方の民衆宣撫工作では大東亜共栄圏イデオロギーの類は用いず,この戦争は日米戦争であってフィリピン人はその局外に身を置き,勝敗の行方を見ているのが最も得策である旨を強調したという(人見潤介氏インタビュー,1992年6月27日)。また,宣伝班とならんで宣撫工作の重要な柱とされた宗教宣撫班も,カトリック教徒が人口の大多数を占めるフィリピンに,価値観と組織を同じくする日本のカトリック教会関係者が主として派遣され,日本軍と現地の教会・信徒との仲介の労をとった(以下を参照:寺田勇文「日本占領下の宗教政策:いわゆる比島宗教宣撫班の活動を中心として」『東南アジア史学会会報』57号,1992年11月)。これらの事例は何れも,民衆の教化よりも占領地の人心の安定を優先した「宥和的」宣伝の特徴を示している。一方,治安が一応確保されていたマニラなど都市部では,フィリピン人の「西洋かぶれ」や「対米依存心」を排撃して「対日依存心」の喚起をはかる教化宣伝に重点がおかれたが,それらは多くの場合,市民の間に冷淡な反応しか呼ばなかった。市民の多くは,それがたとえ欧米崇拝と言われようとも,「アジアに帰る」ことではなく,寧ろ戦前からの自己の価値観を守ることこそ,勇気ある生き方であるという反応を示したのである(日本軍宣伝,宣伝に対するマニラ市民の反応・文化的抵抗運動については以下を参照:Motoe T. Wada, "The Japanese Propaganda Corps in the Philippines." Philippines Studies 38-3 (1990): 279-300;リカルド・T・ホセ「たわめども折れず」『岩波講座 近代日本と植民地7』,岩波書店,1993年) 

 iii.国防資源急速獲得問題:インドネシアでは一貫して軍政最大の眼目とされた国防資源の獲得は,すでに指摘したようにフィリピンについては研究段階では低い意義しか与えられていなかった。ただし,開戦直前から緒戦勝利の段階では,少なくとも大本営の政策文書に見る限り他と区別のない位置が与えられ,鉱物資源とりわけ銅,クローム,マンガン等の獲得が要請された。フィリピンの場合,治安問題,鉱山から積み出し港までの輸送のための資材不足,船舶不足などが資源獲得上の制約要因となったが,こうした問題解決のために,大本営が他と比較してどの程度の物資・人員の手当を検討・実行したのかは,今後の検討の課題である。ただし,本報告が主たる問題としている,社会変動を誘発する動員・徴発政策の有無に関して言えば,既存鉱山の接収・経営は,ほとんどの場合,被占領地の社会経済に大きな変化を与えずに進められるものであった。インドネシアの場合も,石油・鉱産資源の獲得自体は,大規模な動員・徴発の問題を生むことはなかった。ジャワ軍政部企画課に勤務した斉藤鎮男が回想するように,むしろ戦況の推移にともなってインドネシアとりわけジャワが南方全域における軍自活のための労働力徴発および食糧補給の基地と化したことが,強力な民衆統制・動員を必要とさせたのである(特定研究「文化摩擦」『インタビュー記録Dー1:斎藤鎮男』, 1980年,2-5頁)。そこで次に,労働力徴発と食糧供出問題がフィリピンの場合どうであったかを検討してみよう。 

 iv.労働力徴発:ジャワは,その人口稠密なことが注目されて,東南アジア諸地域における防衛施設建設等の労働力として悪名高いロームシャの徴発が行われた。一方,フィリピンでは,対米輸出農業の崩壊に伴い失業者が溢れ,労働力は余剰であったが,労働力の国外送出は少なくとも軍によって組織的には行われなかった。ただし,石原産業が受託経営したパナイ島アンチケ銅山では労務者の強制徴発が行われた事実が,報道部人見大尉の軍司令部宛報告書に記録されている。同島は,後述するように中部ルソンをのぞくと全土でも最もゲリラの強力な地域であり,ゲリラ側の逆宣伝により労働力の募集が捗らないことから強制徴発が行われ,これが治安をさらに悪化させる悪循環をもたらしていた。同報告は,治安確保の観点から労務者の徴発中止・労務政策の緩和を求めており,ゲリラの逆宣伝の威嚇の下では,大規模な動員は不可能であったことを窺わせる内容となっている(「パナイ島アンチケ州サンホセ付近一般民情ニ就テ」,1942年12月20日,人見潤介氏所蔵資料) 

 v.食糧供出問題:次に食糧問題に注目すると,フィリピンの場合,戦前,米の自給を達成しておらず,このため,問題は専らフィリピン内部における米自給にとどまらざるを得なかった(占領当初二年間は各五万t程度,サイゴン米を輸入した)。特に民生安定上問題となったのは,マニラの食糧問題である。当初,日本軍は戦前からの米穀供給公社ナリック(NARIC)を軍の統制下におき,米の収買と配給制度を実施,1943年10月のフィリピン共和国発足後は,共和国政府に米の統制が移管された。しかしいずれも,戦前,主として華僑により担われた米穀流通の水準を回復することはできず,徒にヤミ市場が膨張した。さらに共和国発足直後の洪水後,米価は暴騰しはじめ,1944年8月には捷一号作戦準備が始まって日本軍の米供出に対する要求が激増,食糧問題は急速に深刻の度を増した。このような状況は,マニラなど内地向けの米作が行われていた中部ルソン平野における治安確保の失敗(抗日運動の活発化),米穀流通の復旧・統制の失敗などによって,ジャワのように組織だった米の供出を産地に強制し得なかったことから生じたものであった。その結果,中部ルソン地方では米作農民の生活が向上する一方,マニラ市民が飢餓地獄に陥り,食糧を求めて物々交換用の家財道具を抱えた地方疎開・買い出しなど,敗戦後の日本に類似した状況が生じたのである(Benedict J. Kerkvliet, The Huk Rebellion, Berkeley, 1977, pp.75-77.渡辺正人「ジャパン・パタイ」『集録ルソン』17号,1989年3月,199ー200頁;「ルソン戦と食糧不足」同48号,1992年8月,234頁)。 

 vi.エリートと民衆:このように,フィリピンでは当初から最優先の課題とされた治安回復に失敗したことが,占領政策をあらゆる面で制約した。それではこのような状況はフィリピン社会におけるエリートと民衆,とりわけ戦前の地方社会における支配層であった地主層と農民の関係にどのような影響を与えたのであろうか。ここでも,まず,報道部人見大尉の報告および同氏の回想からふたつの事例を挙げたい。まず,1942年5月のコレヒドール要塞陥落後,「人見宣伝隊」は北部ルソンのイロコス・ノルテ州で米比軍ゲリラ投降工作に従事したが,当時の状況報告によると,同州では戦前の有力者や行政首長がUSAFFEゲリラ化し,日本軍に対してだけでなく,戦時の無警察状況において流入するさまざまな余所者に対して,現地の治安を維持する民衆の保護者の役割を果たし,「一般民と当地区敗残兵(注・USAFFEゲリラ)トノ関係ハ極メテ密接」であった(「状況報告 於北イロコス州バドック」,1942年8月9日,人見潤介氏所蔵資料)。さらに先述したパナイ島において強力なUSAFFE系抗日ゲリラを率いていたのは,同島イロイロ州の前知事コンフェソール(Tomas Confesor)であったが,日本軍政下の同州知事カラム(Fermin Caram)は,戦前,コンフェソールと政治的盟友関係にあった。そして,1943年夏頃,人見大尉は同地で現地部隊に協力していわゆる匪民分離工作に従事していたところ,突然,宇都宮軍政監部総務部長に直接呼び出されて中止命令を受け,同地における任務を解かれたという(人見潤介氏インタビュー,1992年6月27日)。これは,恐らくゲリラ側の意向を受けたカラム知事からの苦情が対日協力政府(当時は行政委員会)を通じて軍政監部に届いた結果と推測され,宇都宮ら軍政指導部のフィリピンに対する宥和的姿勢とともに,日本軍とUSAFFEゲリラの仲介者として行動した対日協力者のあり方をも示す事例である。いずれの場合も,地方社会における戦前の支配層が対日協力と抗日ゲリラの双方に分岐して互いに通じあい,戦争によってもたらされた無秩序な状況や日本軍の横暴から住民を守る立場に立ち,その権威を維持することに成功している。これがフィリピン全土に概ね共通する特徴であった。 

 一方,重要な例外となっていたのが,中部ルソン地方であった。同地方ヌエバ・エシハ州の軍政支部報告(1942年4月)は,「本州ハ共産党ノ盛地ニシテ....皇軍ニ特米ヲ提供シ或ハ進ンデ親日ノ陣頭ニ起タントスル知名ノ士ノ心中同情ニ堪エズ」と述べている(「軍政実施概況報告第9号」,1942年4月18日,国会図書館現代政治資料室所蔵旧陸海軍関係文書マイクロフィルム)。この地方では,1930年代,地主・小作関係の悪化を背景に成長した同地方の社会党・共産党系農民運動勢力が,日本軍上陸後,敗走する米比軍の残した武器を手に独自に非USAFFE系の抗日ゲリラ・フクバラハップ(Hukbalahap:抗日人民軍)を結成していた。同報告は,フクバラハップとの対抗上,地主層の一部が占領初期から積極的に対日協力に転じていたことを示している。当時,フクバラハップは一定の地域で警察・行政権さえ確立,抗日収穫闘争を展開して,農民の生計は改善,地主・小作の力関係には大きな変化が生じつつあった。それゆえ,中部ルソン地方では,支配の維持を望む地主層と米の獲得を望む日本軍の思惑が一致したのである。 

 戦後,フクバラハップは民主同盟(Democratic Alliance)に参加,対日協力者の処罰・追放・財産没収を求めた。そして,1946年4月に行われた大統領・議会選挙では,ナショナリスタ党が分裂してロハス・自由党(Liberalista Party)とオスメーニャ大統領・ナショナリスタ党の争いとなったが,民主同盟は対日協力政府で食糧問題の責任者をつとめたロハスを批判してオスメーニャ・ナショナリスタ党と選挙連合を結び,中部ルソン地方から農民勢力として初めて本格的な議会進出を果たした。しかし,全国的には自由党・ロハスが勝利,さらに民主同盟の議席が剥奪されたことなどを契機にして,1946年7月の共和国独立直後から中部ルソン地方は内戦状態に突入,10年あまりにわたる内戦,いわゆるフク反乱がはじまった。このように中部ルソンの戦時の状況は,史上はじめて地主支配が動揺し,戦後史の展開に大きな影響を与えることになった。ただしそれは,あくまで重要な例外にとどまり,フィリピンの社会体制に根本的影響を与えるものではなかったのである。 
 

4.まとめ----戦後秩序の形成と占領史の解釈 

 i.両者の共通性:以上,インドネシアと比較しながらフィリピン占領史の幾つかの側面を紹介してきたが,両者はふたつの点──「戦時秩序」と「戦後秩序」の担い手の連続性,大多数の民衆にとっての日本占領時代の「暗黒時代」としての記憶──で共通していることにも注目すべきであろう。インドネシア独立後の初代内閣閣僚16名中10名は,ジャワ軍政監部に参与(顧問)として配属された対日協力者であった(『インドネシアの事典』,同朋社,1991年,193頁)。またフィリピンでも,1942年1月,本間司令官に対して行政上の協力を約した書簡に署名した政財界実力者30名中,少なくとも17名が,戦後,政財界の要職に復活,更に少なくとも6名が本人は死亡・引退したものの子息・近親者が政財界で活躍した(中野聡「フィリピンの対日協力者問題とアメリカ合衆国」『歴史学研究』600号,1989年11月,57-58頁)。両国の対日協力者は,民衆の暗黒の戦争体験にもかかわらず,なぜ戦後秩序の担い手として生き延びることができたのだろうか。 

 インドネシアの場合,労務者問題など民衆に悲惨な犠牲を強いたスカルノら民族主義者の対日協力は,独立直後には対日非協力派の厳しい追及を受けたが,スカルノは独立実現の大義のための行為として自らの対日協力の正当性を主張(後藤前掲書,94-95頁),この主張が概ね容認されてきた。一方,フィリピンの場合について,アゴンシリョは,戦後の選挙で対日協力者,抗日ゲリラ参加者の双方が議会に選出されたのは,フィリピン国民が協力者問題を争点とは考えず,それまでの国家に対する貢献や候補者の能力・資質を判断して投票した結果であると指摘している(The Burden of Proof, p.221-222)。つまり,インドネシアの場合,エリートの協力は独立運動指導者のやむを得ざる選択として容認され,フィリピンでは,協力・抵抗の如何ではなく,民衆の擁護者としてエリートの責務を果たしたか,また果たすことが期待できるかどうかが,戦後の公職選出の正当性の基準になったというのである。ここにも,過酷な点では同じ日本の占領が,それぞれ別のベクトルに社会を動かしたことがあらわれている。 

 ii.異なるベクトル:インドネシアでは,日本軍が求める民衆動員などへの協力を通じて,ナショナル・レベルでは民族主義者とイスラム改革運動の組織化が促進される一方,地方では,米や労務者の徴発に協力した伝統エリート層の地位が動揺し,戦争末期から独立戦争期を通じて,新しい支配秩序,国家形成を担う新エリートが形成される契機となった。岩武照彦は,南方軍政を,1931年以来,日本がめざしてきた軍事的占領下における植民地体制建設の最終的形態であったと指摘しているが(岩武前掲書,110頁),このように植民地として本格的に資源と民衆を利用・収奪しようとした日本の試みが,ここでは,インドネシア社会を大きく変化の方向へと向かわせたと言うことができるだろう。 

 一方,フィリピンでは,日本による占領の衝撃は,米国植民地期以来のフィリピンの体制を,ふたつのレベル──米国への依存従属と,地主エリート層の民衆支配──で固定する方向に働いた。そのひとつの要因は,日本の占領政策が,もともと占領地の軍事的確保という消極的枠組の中にとどまり,既存秩序の担い手たるエリートとの協力が最後まで貫かれた,すなわち,日本がフィリピン社会を変えようとしなかったからであり,いまひとつの要因は,日本の占領下における経済の急速な崩壊,国土・人心の荒廃が,民衆とエリート,フィリピンと米国の紐帯を弱めるのではなく,寧ろ強める方向に働いたからであった。 
 占領下フィリピン経済の急速な崩壊については,戦前からフィリピンが東南アジアの地域経済の中で孤立していたことと関連させて考える必要がある。小林英夫が指摘するように,戦前の東南アジア植民地には,いずれも宗主国との直接貿易の比率が高いとはいえ,「大英帝国がマレー半島のゴムと錫を軸にタイ,仏印,蘭印を包みこんで形成した」国際貿易の多角的決済体系の一環としての「東南アジア域内交易圏」が存在していた(小林英夫「東アジアの経済圏----戦前と戦後」『岩波講座 近代日本と植民地1』,1993年)。このため,日本の東南アジア軍政は,当初,戦争の破壊によって麻痺した域内貿易の循環的な流れを復活してある程度の自給体制を確立することをめざし,このような施策は,民生の崩壊をある程度遅延させる効果をもたらした(岩武氏の回想。インドネシア日本占領期史料フォーラム編『証言集』,龍渓書舎,1991年,15頁) 

 ところがこのなかにあって,フィリピンは,戦前,突出して宗主国への貿易依存度が高い反面,域内経済からは孤立していた(1936-40年平均で,米国への輸出依存度78%,輸入依存度67%;日,中,東南アジア向けは,あわせてそれぞれ9%,18%にすぎなかった。U.S. Congress, 79th 2d sess., Appendix to Hearings on S.1610, USGPO, 1946, p.220.)。このためフィリピンの場合,域内交易の復旧では問題を解決することはできず,それゆえ,東南アジアの他の占領地のどこよりも早く経済的破局に至らざるを得なかったのである。そして日本は,独立と主権尊重の「遁辞」によって経済運営の責任を回避し,戦前,対米貿易に深く依存していたフィリピン経済は「強いられた自立」のもとで崩壊したのであった。むろん,鉱山経営や失敗した綿作転換事業など,日本にもフィリピンを経済的に利用して「共栄圏」に位置づけようとする意志や試みが無かったわけではないが,「大東亜共栄圏」の中でフィリピンに向けられた経済上の関心・政策上の優先順位は,他と比較して明らかに低かったと報告者は考えるものである。 

 要するに,日本は終始フィリピンを軍事的に確保することにのみ関心を抱いていた。しかし,ゲリラ勢力と常に相対していた日本軍にとって,民生の安定なくして治安回復・占領地の軍事的確保が出来ようはずもなかった。その意味で,先に検討した陸軍参謀部の「比島処理方策案」は,軍事・政治謀略的発想の一方で,民生安定の基礎となる経済施策が無視されていた点で,大きな落とし穴があった。そして占領末期には,日本はフィリピンを日米の決戦場にすべく大量の軍を派遣し,民間の食糧を略奪に近い形で吸い上げ,占領軍と民衆の関係は極端に悪化し,日本軍のフィリピン民衆に対する無数の残虐行為の発生という最悪の破局に到ったのである。 

 このように混乱した,生命の確保が唯一の目標となるような社会において,殺戮と飢餓の恐怖に直面した人々がとり得る道は,戦前からの保護者を頼ることであり,大半のフィリピン民衆にとってそれは地主エリート層であった。地主が保護者としての機能を失い,戦後,対日協力者の追放問題と地主支配の打倒が結びついた中部ルソン地方が例外にとどまったという点に,まさに当時のフィリピン社会のベクトルの方向があらわれていたのである。このように,軍事占領的性格が突出していた日本の支配は,フィリピン人に,政治的にも,経済的にも,文化意識の面でも,何かを奪われることへの懸念や恐怖の念を植えつけ,自己の生命,自由・価値観,財産の防衛に関心を集中させることになった。マッコイにならって例えると,天上から眺め下ろせば,バンブー・ハウスの村が猛烈な台風に襲われながら簡単に再建されたように見えたとしても,地上の人々は,吹き飛ばされないように木にしがみつき,嵐が去れば懸命にかつての姿に似せて村を再建しようとしたのではないだろうか。また,再建された村がもはやかつての村と全く同じではあり得なかったことも見逃すことはできないであろう。リカルド・ホセは占領期の生存至上主義の経済がフィリピン人の道徳性を揺るがせたと指摘している(ホセ前掲論文,100頁)。エリートと民衆の関係についても,支配関係そのものは著しい連続性をみせたものの,支配層の権威の拠り所が,スペイン植民地期以来の教養階層(ilustrados)としてのそれから,政治・経済・社会上の実力そのものへと不可逆的に移行する契機として,日本のフィリピン占領期が重大な契機となったのではないかと思われるのである。 

 iii.むすびにかえて:以上,検討してきたインドネシアの社会変動,フィリピン社会の連続性,いずれも,戦争目的に応じた地域別占領方針からみれば,「意図せざる」結果であった。そういう意味で,占領者の意志,被占領地の事情,社会体制(エリートと民衆の関係)など幾つかの方向力の合成として歴史的衝撃の方向を見定めるベクトル的あるいはビリヤード的分析が日本の東南アジア占領史についてはとりわけ必要とされるのではないだろうか。また,このような視点から分析を試みるために,東南アジア,その旧宗主国,日本を対象として多様な方法論から分析を行う研究者の共同作業が必要なことは言うまでもないことを指摘して報告の結びにかえたい。