anila, February 1945アジア太平洋戦争とフィリピン

  

目次

日本のフィリピン占領体制

戦争被害と戦後補償

戦争の記憶(1

戦争の記憶(2

史料集

文献目録

これらのページについて

 

 


戦争の記憶(2戦後50年とフィリピン

中野 聡


「戦後50年とフィリピン」『季刊・戦争責任研究』第11(1996年春季号、1996315)50-54, 75頁より転載。一部インターネット用に修正しました。(2016131日、マニラ戦犠牲者数についてのデータを訂正しました)


はじめに

 19441020日、米軍のレイテ湾上陸作戦にはじまったいわゆる「フィリピン戦」は、4519日のルソン島リンガエン湾上陸、凄惨なマニラ戦(23?33日)などをへて、日本の対連合国無条件降伏後の4593日、北部ルソンで第14方面軍司令官・山下奉文が米軍に降伏、まもなく諸島各地に残存していた日本軍各部隊も降伏して終結した。このあいだにフィリピン諸島各地の人々は、戦況の推移に翻弄されながら、それぞれに、戦禍の苦しみと、3年にわたる日本の支配からの解放の喜びを味わった。 

 そして、かつての戦いのあとを追うように、199410月から昨年にかけて、日本軍からの解放50周年を記念する行事がフィリピン各地で行われた。ちょうどこの時期、筆者はフィリピン大学客員研究員としてフィリピンに滞在する機会を得た。そこで本稿ではこれら行事の紹介を含めて、フィリピンにおける50周年の迎え方について考えてみたい(なお、このうちレイテ湾上陸50周年記念式典については、すでにその参加記を本誌952月号に寄せる機会があったので、そちらを参照していただきたい )。 
 

リンガエン湾式典と50年目の日本イメージ

 199518日から10日にかけて、パンガシナン州リンガエンで、米軍リンガエン湾上陸50周年記念式典が行われた(筆者は参加しなかった)。レイテのときよりは小規模な国内向けイベントだったとはいえ、パンガシナン州がラモス(Fidel V. Ramos)大統領の地元ということもあって、米海兵隊、日米両大使も参加、レイテ同様の戦争映画さながらの「再現(re-enactment)」もあって、式典はそれなりに盛大に行われた。 

 レイテ湾式典参加記で、筆者は、式典を歴史的回顧の場というよりはフィリピン経済回復のイメージを対外的にアピールするイベントとして捉えるラモス政権の経済最優先の問題意識を指摘した。リンガエンでもラモス大統領は、「戦争で互いに戦うことは災いだが、全人類の平和の達成のために和解と友好のなかで互いに抱き合おうとしないのは、もっと愚かなことだ」と述べ、さらに「我が国がアジア太平洋の近隣諸国に(経済的に)遅れをとる原因となってきた全ての国内的紛争をおわらせなければならない」と強調した 。ここには、対外的には旧敵国・日本との経済協力の増進に期待し、国内的には内戦や政争をやめて経済発展のために団結すべしとの現政権の論理があらわれていた。 

 これもまた前回の参加記で触れたことだが、国際的イベントをめざしたレイテ湾式典では、加害者・侵略者としての日本を直接イメージさせるような展示・発言は慎重に避けられていた。一方、新聞報道によれば、リンガエン湾式典初日のパレードに出場した山車(float)には、戦時中の対日協力者を主題にしたものがあり、日本兵が日本式敬礼を対日協力者に強いる様子を演じていたという 。国内向けイベントということもあって、フィリピン人の歴史的記憶にある日本軍の圧制のイメージがこのように表現されたことは、ごく自然なことであった。 

 マニラの北に位置するブラカン州で見たキリスト教聖週間の受難劇(セナクロ)でも、興味深い日本占領期のイメージが表現されていた。この受難劇ではユダが道化を演じるのだが、盛んに劇中人物たちに「トモダチ、トモダチ」と言ってすり寄り、お金をつかませる。つかんだ人が「ジャパン・マネー」と言うと観衆が笑う。この「ジャパン・マネー」とは、現代日本の強い円ではなく、占領時代の役に立たなかった軍票のことだという。そして「トモダチ、トモダチ」もまた、かつて、日本兵たちのフィリピン人に対する語りかけの言葉であった。 

 このように日本占領時代のイメージが一種フォークロアの世界に染み込み、おそらくは語り継がれてゆくだろうという印象をもつ反面、1970年代までにフィリピンを訪れた日本人の多くが経験したような、生々しい戦争体験に基づく強烈な反日感情を新聞報道やフィリピン人との日常の接触から感じ取ることは難しくなっている。その理由は、ひとつではないと思う。寛容な国民性というのも、否定のできないひとつの要素だ。殺戮と残虐が身近に感じられるフィリピン社会の日々の現実も、過去の残虐の記憶がメディアの興をそそらない理由のひとつかもしれない。米国との特殊関係が、1992年の米軍全面撤退でひととおり終焉したことの影響もあるだろう。いずれにせよ、結果として見れば戦争体験の風化としか言いようのない現実があることは否めない。そうしたなか、19952月から3月にかけて行われたマニラ戦50周年記念行事は、メディアでもかなり報道され、ある意味では、唯一、日本軍の戦争加害やフィリピンにおける日米戦をめぐるフィリピン人の歴史意識のあり方をかいま見せる機会となった。 
 

マニラ戦50周年と日本の「謝罪」

 194523日にサント・トーマス大学の民間人収容所解放に始まったマニラ解放戦は、翌33日をもって日本軍が完全に掃討されるまで約1ヶ月にわたり続いた。この間にマニラ市街は文字通り廃墟と化し、米軍記録によれば、日本軍はほぼ全滅(16665名の遺体を確認)、米軍戦死者は1010名、負傷5565名であった。しかしなんと言ってもマニラ戦最大の犠牲者は、約10万にのぼると言われる非戦闘員・民間人であった。その恐らく6割が日本軍による殺戮と残虐行為の犠牲者、残り4割が米軍の重砲火による犠牲者だとされる 。このように第2次世界大戦でワルシャワに次ぐ都市の破壊と言われ、また日米間で戦われた初めての、また最大の市街戦であったマニラ戦は、その結果の悲惨さゆえに、解放戦であると同時に「マニラの破壊」あるいは「マニラの死」とも呼ばれている。 

 このときの日本軍の残虐行為については、マニラのフィリピン国立文書館の日本人戦争犯罪記録(Japanese War Crime Records 戦犯裁判の捜査・公判記録)などでかなりくわしく知ることができる。残虐行為がもたらした復讐心ゆえに戦後の戦犯裁判に幾つかの誤審があったことは事実だが、裁判の原因となった残虐行為の被害事実の確定という点では、マニラ戦直後に生存者から細かい事情聴取が行われているだけに、本記録は信頼のできる史料となっている。 

 しかし、マニラ戦体験者の間では、この悲劇が、国際的にも、またフィリピン国内でさえ、若い世代にはあまり知られていないことへの不満がある。そうした問題意識を背景として発足した市民団体「メモラーレ・マニラ・1945(MEMORARE-Manila 1945) 」が行った祈念行事は、一連の50周年関連行事のなかでも、もっとも強い感銘を筆者に与えるものだった。 
行事の中心は、マニラ戦で日本軍が市民を人質にとって最後まで立てこもり、米軍の重砲火で歴史的建造物の大半が破壊されたイントラムーロス(スペイン時代に構築された城壁都市)の一画に建立された、マニラ戦の「非戦闘員犠牲者(non-combatant victims)10万人を追悼する祈念碑(写真参照)の除幕式と、続けてマニラ大聖堂にハイメ・シン枢機卿(Jaime Cardinal Sin)を迎えて行われたレクイエム・ミサであった。 

 除幕式は、街角公園という風情のささやかな場所で、百脚に満たない椅子をおいて夕刻から行われた。お祭り騒ぎのレイテ式典とは対照的に、祈りと、マニラ戦体験者の語りで構成された静かな除幕式であった。続いて大聖堂で行われたミサは、モーツァルトのレクイエムで幕を開いた。その鎮魂の言葉を幾行がここに引いておこう。 

 主よ、私たちの祈りをお聴き下さい/犠牲の山羊たちのように屠殺された罪のない子どもたちのために/家族の安らぎから離れて家畜のように囚われの身となり死んでいった男たちのために/殺される前に虐待され、あらゆる苦しみと屈辱を舐めさせられた女たちのために/殺し、強姦し、屠殺した者たちがその罪を認め赦しを乞いますように/主に祈りましょう  

 最後の一節は、言うまでもなく日本人に向けられたメッセージである。これに関連して筆者にとって興味深かったのは、マニラ解放戦の開始記念日である23日前後に「日本が謝罪」という見出しが各紙一面を飾ったことであった。そのひとつは、同日、バタンガス州で行われたもう一つの上陸50周年記念式典で、ラモス大統領と同席した日本大使館代表(松田大使の代理)が「深い悔悟(deep remorse)」という言葉を使って謝罪した、というものであった 。 

 いまひとつは、21日に行われた高山右近の顕彰ミサで、日本のカトリック教会を代表して白柳大司教が謝罪したというものであった。実はこの日は、かつて日本を追放されたキリシタン大名・高山右近がマニラに客死して280周年の日で、日比和解の意味も込め、松田大使も列席して顕彰ミサが行われたのである。このとき白柳大司教は「私たち日本のカトリック教会司教一同は、第2次世界大戦中日本によってもたらされた悲劇に対して、神とアジア・太平洋の兄弟姉妹に対して心から赦しを乞います」と謝罪し、日本のカトリック教徒にも戦争責任があることを認めた。この発言が、カトリック教徒が8割以上を占めるフィリピンの国情も手伝って、大きく取りあげられたのである 。 

 日本大使の声明は、実際には「過去に対する深い悔悟と遺憾の意」をもって日本はアジアおよび世界諸国民との友好信頼の増進に努めてきた、という内容の、日本政府のお定まりの抽象的表現の域を出ないものだった。また、白柳大司教が日本の政府・国民を代表していたわけではないことは言うまでもない。しかしフィリピンの新聞報道は概してこれを「日本の謝罪」ととらえていた。そこには、罪人が悔い改め神の赦しを乞いまた赦されるというキリスト教徒フィリピン人の思考の枠組みのなかで、日本および日本人が心から罪を悔いているはずだ、という推定が働いているように思われた。しかし実際には日本では、阪神大震災の直後ということもあって、マニラ戦50周年はほとんど報道されなかったと聞いている。 

 筆者自身、神戸からフィリピンに留学していただけに震災のニュースは衝撃であったと同時に、フィリピン社会や周囲の友人たちの同情と思いやりに満ちた反応には感激させられた。また、マニラ戦のそれとは質量ともに比較にならないとはいえ、愛する町を喪う体験の幾分かを理解することもできたようにも思う。それだけに、日本におけるマニラ戦50周年への関心の低さには、おおいに失望させられたのである。 
 

マニラ戦とヒロシマ・ナガサキ

 この「関心の低さ」に関連して、筆者はメモラーレ・マニラ1945の主催者のひとり、エドガー・クローン氏(ドイツ系だがすでにフィリピンに帰化しているビジネスマンで、マニラ戦のときには10代なかばの少年であった)と何回か話す機会があった。そこで知ったのは、「ヒロシマ、ナガサキのいずれよりも多くの市民がマニラでは犠牲となった。それにもかかわらず、この悲劇的な戦闘の罪のない犠牲者たちを顕彰するために何ひとつ行われてはこなかった 」という彼らの問題意識であった。 

 犠牲者数の比較については議論のあるところであろうが、女性・子どもを含む多くの非戦闘員が不条理な犠牲を強いられたという点で、マニラ戦体験者はヒロシマ・ナガサキの被爆者と体験の共通性を感じている。それだけに、「ヒロシマ・ナガサキ」だけが、日本でも、また国際的にも、戦争被害の代表としてパブリシティを得ていることに、マニラ戦体験者の間では割り切れない思いが強いのだ。 

 有力紙『フィリピン・スター』社主ソリベン(Max V. Soliven)23日の同紙に寄稿した、自らのマニラ戦体験を交えての社説は、より強い調子で「中国人が南京大虐殺の記憶を怒りをこめて保っているのに、マニラの虐殺は忘れられ、無視されている」と述べ、戦後日本がヒロシマの原爆投下を利用して加害者ではなく戦争犠牲者としての日本のイメージを世界に与えることに成功してきたと批判している。そしてマニラの残虐行為の事例をあげたうえで、「私にヒロシマ・ナガサキのために涙を流せと言わないでほしい。彼らがこの酷い戦争を始めたのだ。そしてその報いを受けたのだ 」と述べている。 
 

対米意識と自国史像

 一方、同じ社説でソリベンは、米軍の重砲火による犠牲と破壊、市民の生命よりも米軍将兵の被害を最小限にとどめることを優先した作戦に対しても憤りを表している。また最有力紙の『インクワイアラー』には、22日から3日連続で、「解放か再占領か?」と題した、戦時から戦後1950年代にかけてフィリピン共産党の指導者であったラヴァ(Jesus B. Lava)による論説が掲載された 。 

 このように今日のフィリピンでは、米国にも戦争による国土破壊と人命損失の責任の一半を求める考え方、あるいは圧制からの解放者としてではなく帝国主義的権益の確保を求めた再占領者としての米国像が新聞やTVなどでもとりあげられるようになっている。この背景には、フィリピンの「米国離れ」を背景として起きている歴史観の変化がある。この傾向を反映して、最高学府・フィリピン大学の歴史学科でも、外国人ではなく「私たち(フィリピン人)自身の見方」で歴史を見直す、すなわち民族史観の確立という方針に沿って、現在、歴史教育カリキュラムの大幅な見直しと授業のタガログ語化が推進されている。 

 このこと自体はフィリピンの遅すぎた「米国離れ」の過程で当然おこるべき健全な現象である。しかし第2次世界大戦史に関する限り、この「私たち自身の見方」のなかに、しばしば歴史認識の歪みが見られたことは、筆者にとっても残念なことであった。たとえば、マニラ戦などの国土の破壊については、もっぱら米国の責任が強調されがちである。抗日ゲリラ運動についても、共産党系農民ゲリラで、戦後の内戦で反米民族主義を掲げたフク団が評価される一方、米軍指揮下に入っていたユサフェ(米極東軍)ゲリラは間違った忠誠心をもった植民地根性の持ち主として批判される 。このような反米民族主義的見解は、日本の圧制と残虐行為を軽視することにもつながっている。 

 「私たち自身の見方」が生まれるうえで大きな影響を与えたフィリピンのマルクス主義的民族主義史学の生みの親コンスタンティーノ(Renato Constantino)は、その著書で、ユサフェ・ゲリラの愛国心が米国への忠誠心と2重になっていたとして、国民の圧倒的な親米感情を植民地化された国民意識の負の特徴として指摘している 。しかし同氏は、日本軍の圧制と残虐行為そのものまで米国支配と同列視して相対化しているわけではない。日本軍占領期の実体験をもつ世代には、そのような視点はナンセンスである。 

 筆者自身は、第2次世界大戦でフィリピン人が米国を解放者として迎えたのは、もちろんコンスタンティーノが指摘するような植民地的意識の問題も無視できないものの、基本的には日本の圧制に対して自己の生命・財産・価値観を守るためにフィリピン人が行った主体的選択であったと考えている。つまり、フィリピンでは、第2次世界大戦における「ファシズム対民主主義」の構図が存在していたのである。戦時の抗日ゲリラ運動を、日本の圧制に対する民族的反抗としてとらえず、単なる植民地根性の産物としてとらえることは史実に反するし、それこそ自虐的な歴史観とは言えないだろうか。フク団の場合も、日本軍占領下では米国政府とコモンウェルス(フィリピン自治政府)に忠誠を誓っていたのであり、彼らが反米に転じたのは戦後のことだった。そして独立後のフィリピンの親米主義あるいはアジアから遠く隔たった国民意識の弊害が深刻であればあるほど、そのような国民意識をもたらした歴史経験としての日本の占領と残虐行為の責任が問われなければならないと思うのである。 

 日本に帰国後、筆者が出席したある国際シンポジウムで 、スミソニアン博物館の原爆展示問題をめぐって、米国における原爆投下決定への批判的見解(とくにその人種主義的要素を強調する見方)が日本の右翼・民族派を喜ばせ、逆に日本における侵略責任を追及する議論が、米国の超保守主義者を喜ばせるねじれた関係があるという、米国人の指摘を聞いた。日比間には、そのような「ねじれ」が存在するほどに歴史観をめぐる対話が成立しているわけではない。しかしフィリピン歴史家の反米民族主義的見解が日本で誤用または利用される懸念は否定できない。 

 もちろんフィリピンにも、日本語史料に精通して実証的で総合的な日本占領時代の研究を進めつつあるリカルド・ホセ(フィリピン大学)のような研究者が、実績をあげつつ る。「私たち自身の見方」を強調する歴史家たちを含めて、日比間に史実の確認と歴史認識をめぐる対話と共同作業が行われなければならない、と痛感した次第である。