Manila, February 1945
アジア太平洋戦争とフィリピン

  

目次
日本のフィリピン占領体制
戦争被害と戦後補償
戦争の記憶(1)
戦争の記憶(2)
史料集
文献目録
これらのページについて

 

 

 
戦争被害と戦後補償 
中野 聡

 「白書・日本の戦争責任:フィリピン」『世界』(1994年2月号):162-163頁より転載。一部インターネット用に修正しました。


 
軍票支払請求 今日入手できる比島軍票の中には戦争直後、支払請求運動をした団体のスタンプが押印されたものがあるという。なお米軍系ゲリラの発行した軍票の一部は米国政府によって支払われた。 
 

日系人補償問題 フィリピン日系人連盟は、戦後、日本に強制送還された日本人を親にもち敵国人の子供として差別されてきた日系二世・三世への謝罪と補償を求めている(1992年1月決議)。また、日本人の子としての戸籍記載と戦死遺族年金の交付を求める動きもある。 
 

従軍慰安婦訴訟 日本の裁判所に提訴された元慰安婦訴訟としては、韓国に続いて2件目(1993年4月・8月提訴)。フィリピン各地に設営された軍管理慰安所では、日本・朝鮮・台湾人とともに多くのフィリピン人女性が働かされたが、フィリピンの市民運動組織と日本人弁護団による現地調査の結果、強制連行・拘禁により慰安婦にされた事例が明らかになった。またフィリピンの場合、慰安所だけでなく日本軍各部隊がフィリピン人女性を個別に連行・拘禁・暴行した事例も多く、その被害者も集団提訴に加わっている。 
 

残虐行為に対する補償請求 フィリピンでは従軍慰安婦問題とならんで、日本軍の残虐行為に対する補償を求める声が強い。フィリピン議会では1992年から93年にかけて、米国政府の日系人強制収容に対する補償に倣って1人2万ドルの補償を求めたり、80億ドルの負債帳消しを求める決議案が提出された。捕虜虐待についても、退役軍人による補償請求の動きがある。また、戦争終結後にミンダナオ島でおきた虐殺・人肉食事件について、元兵士と政府に謝罪と補償を求める提訴が準備されている。 
 
 

  アジア・太平洋戦争でフィリピンは、日本軍侵攻から在比米軍降伏まで(1941年12月?42年5月)、米軍レイテ島上陸から日本降伏まで(44年10月?45年8月)の二度にわたって日米決戦の舞台となった。とりわけ戦争末期には、日本軍の激しい抵抗と米軍の爆撃・重砲火の結果マニラをはじめとする都市部の大部分が灰燼に帰すなど被害は全土に及び、直接の戦闘による物的・人的被害は東南アジアでも最悪であった。 

  また、ルソン島南部リパの虐殺事件やマニラ市街戦における虐殺事件など、婦女子を含む非戦闘員に対する日本軍の残虐行為が戦争末期に多発したこともフィリピンの戦争被害の大きな特徴であった。米極東軍に登録したUSAFFEゲリラをはじめとする抗日ゲリラの掃討に苦慮した日本軍が米軍再来を前に戦闘員・非戦闘員の区別の無い粛清をはかったことが主な原因であったが、それだけでは説明のできない、日本軍将兵の道徳心の崩壊と狂気の結果と言わざるを得ない事例も多い。このほか戦争末期には、敗走する日本軍の食糧強奪による山岳少数民族の飢餓や日本軍による人肉屍食の被害なども発生した。また、3年にわたる日本軍占領下(1942-45年)でも、多くのフィリピン人がスパイ嫌疑などによる弾圧・粛清の犠牲となり、「民生への重圧を厭わず」を原則とした日本の占領政策(転作強制、米徴発など)のもとでフィリピン経済は壊滅的打撃を受けた。 

  このようにフィリピンは、戦争の全期間を通じてあらゆる種類の戦争被害の犠牲となった。フィリピン政府の戦後の推計によれば、民間人死亡者総数は111万1938名(ちなみに1939年国勢調査人口は約1600万人)、賠償請求の基礎として算出された戦争被害の総額は161億5924万8000ペソ(1950年価格・約80億8000万ドル)にのぼった。被害総額の内訳は、物的損害が約58億5000万ドル、人命損害(民間人死亡者総数に1500ドルを乗じたもの)が約16億7000万ドル、軍票支払いを含めた供出財・サービスが約5億6000万ドルであった。 

 むろんフィリピンの戦争被害は日米戦争の結果であり、米軍の圧倒的火力などが与えた被害も大きく、米国は物的損害に対する補償の必要を認めてフィリピン復興法(1946年)で総計6億2000万ドル(公共施設復元1億2000万ドル、個人財産補償4億ドル、余剰物資の引き渡し1億ドル)を交付した。 

 一方、1952年に始まった日比賠償交渉は、56年、難航のすえ賠償総額5億5000万ドル(1980億円、支払い期間20年)で妥結した。交渉過程を研究した吉川洋子氏は、日本側の認識には総じて「償いの精神」が欠け、賠償を経済進出の手段とする見方が強かったことを指摘している。妥結した賠償の内訳は資本財5億ドル、現金2000万ドル、役務3000万ドルで、ほかに賠償を補充する目的で2億5000万ドルの経済開発借款が供与された。このように他の対東南アジア賠償と同様、賠償の大部分は資本財・役務によって支払われ、賠償の執行は日本の企業進出を実現するとともに、賠償・借款・援助に寄生するフィリピンの政治家・エリート、日本政府・企業の癒着の構造を生み出した。また、交渉当初は人命損害が賠償請求総額の積算の基礎に含まれていたにもかかわらず、被災者・遺族に対する個人補償は行われなかった。このためフィリピンでは、従軍慰安婦問題とならんで残虐行為に対する個人補償請求の声があがっているのである。 

 補償請求権を裏付ける被害事実の立証という点では、フィリピンの場合、戦後の山下・本間裁判、BC級戦犯裁判の資料に被害事実が記録されているものも多い。ただしこれらの記録の利用にあたっては、元軍人・軍属とその遺族の間で戦犯裁判の誤審や冤罪に対する憤りをもつ人が少なくないことや、韓国朝鮮・台湾人戦犯問題にも配慮する必要があるだろう(戦犯裁判については、米比両国にも誤りを認めて自己批判する声がある)。 

 日本の侵略の結果とはいえ、フィリピンでは日本人もまた約50万人が死亡し、生還者も多くの苦難を嘗めた。その犠牲や苦難を無にしないためにも、償われていない人々に対する補償の実現による日比両国民の歴史的和解が求められている。そのためにも、戦争被害の実態を知る存命の日本人関係者の協力が期待されているのである。 
 

[参考文献 T・アゴンシリョ『運命の歳月』第1巻(勁草書房、1991年)、吉川洋子『日比賠償外交交渉の研究』(勁草書房、1991年)、リカルド・T・ホセ「日本のフィリピン占領の遺産」細谷千博ほか編『太平洋戦争』(東大出版会、1993年)]。