Manila, February 1945
アジア太平洋戦争とフィリピン

  

目次
日本のフィリピン占領体制
戦争被害と戦後補償
戦争の記憶(1)
戦争の記憶(2)
史料集
文献目録
これらのページについて

 

 

戦争の記憶(1)レイテ湾上陸50周年記念式典参加記

中野 聡

 「レイテ湾上陸50周年記念式典参加記」『季刊・戦争責任研究』第6号(1994年冬季号、1994年12月15日):84-87頁より転載。一部インターネット用に修正しました。 

 文部省在外研究員としてフィリピンに滞在する筆者は、去る1994年10月20日、レイテ島パロで行われたフィリピン政府主催「レイテ湾上陸50周年記念式典50th Anniversary: Leyte Gulf Landings」に参加した。すでに日本のマスコミ等でもその概要は紹介されたことと思うので、ここでは筆者の個人的な参加記録と印象を記すこととしたい。 

 10月17日夜、私は妻と共にマニラ南港から客船プリンセス・オブ・ネグロス号に乗船した。同船は宿泊・輸送を兼ねて政府が仕立てた客船3隻のうちの1隻(日本の内航フェリーの中古船)で、一般参加者用であった。ほかにメディア用にスーパー・フェリー号、政府要人・招待客等用に豪華客船グランド・オデッセイ号がチャーターされた。 

 事務局の見込み違いで私たちの船の乗客は百人足らず、しかもその半数は事務方の観光省関係者で、あとは私たちのような若干の観光客とフリーのジャーナリストなどが乗り、フィリピン人ベテラン(退役軍人)はわずか数名。陽気な観光省のスタッフも、さすがに顔を曇らせる客の入りであった。 

 ともあれ、穏やかな天候と200名あまりにのぼる船員・スタッフ・ミュージシャンの過剰なサービスに恵まれて、美しい多島海を行く約36時間の優雅な船旅を経て、10月19日午後、私たちはタクロバンの港についた。レイテの州都でもあるタクロバン市は東ビサヤ地方きっての中心都市だが、私たちの目にはごく小さな港町という印象であった。市の経済は、ほとんど華人系の資本に掌握されている様子であった。 

 式典会場があるパロはタクロバン市の中心街から車で南に7キロほどの所にあった。その海岸(通称レッドビーチ)に、50年前、マッカーサー一行が上陸第一歩を記したのである。 

 式典会場は、フィリピンの物産・観光展示館やフード・センターがあるエリアと、海岸部のマッカーサー・パークの二手に分かれていた。マッカーサー・パークには、一行の上陸の瞬間を彫像化したランディング・メモリアルを中心にして、今回の式典を記念して各国首脳から送られたメッセージを各国産の石版に刻んだ記念碑(ロックガーデン)や、式典用の大きなテント会場が設営されていた。会場は、片隅で第2次世界大戦関係の小さな写真展が行われていたほかは、歴史的行事を記念するイベント会場という印象は薄く、到るところ東ビサヤ各地から詰めかけた人々でごった返していた。地元からみれば空前絶後の一大祭典なのであろう。埠頭に停泊する3隻の客船にも、夜遅くまで地元の見学客が詰めかけていた。 

 式典当日、私たちはメディア関係者にまぎれて、一般のフィリピン人とは別に自由に会場を移動できた。乗船用のIDカードを胸にぶら下げて歩いていたところ、係員が勝手にマスコミと勘違いして通してくれたのである。全体として、VIP・外国人・役人・メディア関係者は特別扱いされている感じであった。また、警備体制は良くも悪くもルーズであり、私たちは儀仗隊を閲兵するラモス大統領を至近距離から拝見することができた。 

 言うまでもなく式典のハイライトは、比米豪軍を中心に(仏海軍艦艇も参加)演じられた「当時の再現Reenactment of "then"」であった。その様子はハリウッド映画、あるいはテーマ・パーク風の展開と言えばまず間違いがないと思う。まず最初に、零戦らしき飛行機が会場上空を飛ぶのにあわせて、アナウンサーが、戦時期のニュース映画の口調で日本軍侵攻に始まるフィリピン戦の歴史を語りはじめ、次いで抗日ゲリラ活動やフィリピン戦に従事した米比豪正規軍の部隊名を挙げ(その中には独立後の内戦で弾圧されたフクバラハップの名前も含まれていた)、マッカーサーの「私は帰る」という約束が、これら部隊の奮戦の支えになったことを語った。ここで、おや、と思ったのは、アナウンサーが間をおいて力を込めて発生した「アイ・シャル・リターン」の声に、観衆の何処からも拍手が沸かなかったことだった。 

 そして今回の行事に参加した米海軍を中心とする艦艇が沖合いから空砲を発射、観衆の目の前の砂浜で、爆薬の仕掛けられた椰子の木が次々と吹っ飛んだ。そして硝煙の漂う会場に向けて上陸用舟艇が続々と乗りつけ、米軍部隊を演じるフィリピン軍兵士が上陸、ウォーっと叫びながら観衆の間を通り抜け、背後の椰子林あるいはリゾート・ホテルの庭へと駆け込んでゆく。私の近くで見物をしていた米国のベテラン・家族の一行は盛んに拍手を送り「ビューティフル!」「グッド・ジョブ!」と声援を送っていた。 

 米比国旗をそれぞれもった兵士が観客の前の砂浜を駆け抜けると、いよいよ、マッカーサー一行「そっくりさん」の上陸。このとき、我々の目の前で「マッカーサー」が、思ったより深い水にはまってズッコケてしまったのが、何ともご愛嬌であった。このあとレイバンのサングラス姿の「マッカーサー」は会場を巡回、米比ベテラン諸氏の盛んな握手攻めに会っていた。50年前にマッカーサーと共に上陸したフィリピン自治政府(コモンウェルス)大統領オスメーニャの「そっくりさん」が何処に行ってしまったのかは、不幸にして確認することができなかった。 

 それにしても会場はなみ大抵の暑さではなかった。用心して水分をとり、ゆっくりと体を動かしたつもりでも、この暑熱と湿気は相当に体にこたえた。しかもこの暑さのなか、会場からタクロバンへの帰路の輸送が一般客用には全く手当されていない様子で、大半の人が歩いて帰っていた。一応、フィリピン人ベテランのためには若干のバスが手配されてはいたが、絶対数が足らず、多くの老人が酷暑のなか取り残されている様子は、外国人旅行者の特権を利用して、政府専用の、しかも定員の半分しか乗っていないエアコンバスにうまく乗せてもらった私と妻には、いささか後味の悪い光景であった。いかになれているとはいえ、老人には厳しい暑さだったと思う。 
 

 この式典をめぐっては、歴史的回顧の機会であるべき行事をなぜ「お祭り騒ぎ」にするのか、あるいは米国によるフィリピン支配の戦前から戦後への継続を象徴し、多数の犠牲者を出したフィリピン戦の始まりを告げる出来事でもあった米軍・マッカーサーの再上陸をなぜ祝わなければならないのかという批判が、計画当初から歴史家等からなされて、私が客員で所属するフィリピン大学歴史学科では一様に不評を買っていた。 

 一方、フィリピン政府は、今回の式典を歴史的回顧の場とする問題意識はそもそも希薄で、この50周年式典を、「治安の回復した、停電のない、経済成長の軌道にのりつつある」フィリピンの存在を海外にアピールして、観光開発や資本誘致の呼び水とする絶好の観光イベントとして捉えていたようだ。ラモス大統領は、式典の公式パンフレットに寄せたメッセージのなかで「敗北を勝利に変える能力を奮い起こすことができるという確信」が、フィリピンや連合諸国の太平洋戦争における長い戦いを支えたと述べているが、そこにも「フィリピン2000年」をスローガンにして、長い経済的低迷からの脱出をめざして経済最優先の政策を推進する現政府の立場がよく表われていると思う。 

 このような行事の性格からも容易に想像されるように、式典は「平和・より良い世界PEACE・A BETTER WORLD」を標語にして、加害者・侵略者としての日本あるいは日本人を直接イメージさせるような展示・発言は、式典・関連行事を通じて──「再現」冒頭の零戦を除いて──慎重に避けられていた。 

 要するに「心に刻む」記念式典というよりは「お祭り」であり「時代行列」みたいなものだな、というのが私たちの率直な印象であった。50年前にこの島で戦火を交え、あるいはジャングルに朽ち果てていった人々、あるいは戦争被害や残虐行為の対象となった人々の苦しみを想像させるものといえば、猛烈な暑さと湿気だけだったと言っては言い過ぎであろうか。 

 もちろん私のこのような印象は、「レイテ湾上陸」という、比米両国の勝利を祝う祭典という今回の行事の性格によるところが何と言っても大きかったと思う。1995年2月に、フィリピンはマニラ戦50周年を迎える。日本のフィリピン占領あるいはフィリピン戦の歴史的意味や、加害・被害の事実をめぐる真の意味での比・日・米の対話が期待されるとすれば、それはこのときになるのではないだろうか。