1999年2月の雑記

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最終更新 1999/2/11 2:39

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板ばさみ

学会に行ったら仕事が進まない。仕事をやろうと思ったら学会に行けない。

んでもって結局どうしたかというと…

挟まれたら横に逃げる

が高校のとき以来のぼくの行動パターン(ただの無気力無責任ともゆう)。というわけで、土日(1/30〜1/31)の二日間、ひたすら日記の読み書きをしていたぼくであった。ああ、しよ〜もな。

「毎日更新」

毎日更新についてのぼくの疑問についてのコメント(1/23)に対するコメント。

Web上の日記というのは人に見られることを前提として書かれてあるので、「更新が滞ってしまって...」という自責の言葉が出てくる

という意見は予想通りであり、なおかつ賛成です。

ただその場合、(将来の自分以外の)他人には見せないという前提で書いている日記を毎日つけるのとは意味が違ってきます。その違いを飛び越えて

「日記だから毎日書く(更新する)のが当然なのに…」

という方向にもっていってる人に出会うと、「え?」と思ってしまうのです。だから

Web日記というのは日記には遠く、随筆に近い

にも賛成

で、そうなると

今度は「日記には遠く、随筆に近い」ものとしてのWeb「日記」と普通の日記の両方を含む『日記』という概念がどういう構造になっているのか、というのがぼくの関心事だったりするわけです。

もしかしてこれってここで問題にするより某同僚に聞くべきことなのかもしれない。というか、吉野さんが学内の研究会で話したこと

(ぼくは別の仕事で欠席、というか研究会やってる部屋の向かいの小部屋に某教授と二人でこもってうんうん唸ってました。)

を違う観点から見直しただけなのかもしれない。ううむ。灯台下暗し、かな? もちろん「土佐(左?)日記」みたいな「日記」を現代の日記と一緒にしていいかというのも問題なのですが。

「本当の自分」

ついでに、ということではないのだけれども、 「本当の自分」(1/29)について。

「作られている自分」と「作っている自分」があって後者がコンスタントな「本当の自分」なんだから、「本当の自分」は常にあるのだ

というような話を想像しました。外してるかもしれませんが。

関係あるかどうか分かりませんが、鷲田清一氏が書かれたこんな本があります。本自体は研究室においてあって手元にないのでうろ覚えなのですが、

自分なんて結局は他者とのインターフェースにしか存在しないものだ

というような話だったと思います。認識の社会的構成とかNeisserの自己論とか

(この「とか」のあやしい雰囲気は何なんだ。「認識の社会的構成」と「Neisserの自己論」は別物なのか?)

とつながりそうだったのでぼんやりと覚えているのです。

でも、鷲田氏風に見切ってしまった上で、なおかつ「(本当の)自分探し」に意味を見出すことも可能なのではないか、と漠然と思いはじめたりもしている今日このごろのぼくです。(もしかしたら鷲田氏の本はその辺までちゃんと書いていたかもしれない。よく覚えていない。)

本当の自分を探し求めるということと人との出会いを求めるということが重なっているというのも、そのあたりに絡んでいるような気がします。

時限爆弾方式その2

最後だけ、何かやるかも。

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2/2

ぼんやりしている間に

「講義概要」の依頼到着(2/1)。そうだ4月から非常勤やるんだった。

土曜の午後。それでも構わないといったのはぼくの方。というか、講義要項書かなくていいような科目(普通の英語とか)だったら他の日でもいいんだけど、それだったら受けてなかったと思うし、それだったらぼくのところに話が来る可能性はそんなに高くない。そして講義要項書かなくちゃいけないような科目の場合、頭を使って準備しなくちゃいけないので、土曜日が一番楽、ということになるのであった。能力と休日確保のトレードオフ。

土曜の午後。きゃあ学会行けない。もともと行ってないという噂もあるけど。

土曜の午後。きゃあ本務校の仕事優先。話を持ってきてくれた人の了承は得てある。

阪神タイガースファンの言語学者必見のページ

ここ、つまり、ここ。

方言といえば

祖母(80代半ば、某関東からはすごく遠い地域の方言の母語話者)に小型マイクをつけてみたいと思うことがある。イナカに行けば地元の人が作った方言辞典があるのだけれどもああいうのは

ということで、全然役に立たないのであった。

祖母不孝な、不肖の孫である。

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2/3

状況可能と能力可能ふたたび

大分弁には区別があるらしい。今の今まで気がつかなかった。

情報処理学会のページ

なんと、更新されている。

ぼくらのところに関しては、リンクのはり方も希望した通りにやってくれている。

リンク先に関してはきまりとしては「著者のホームページ」なので、ぼくらのは例外。でも筆頭著者(柏野さん…って違う人みたいだ。ひとり言。)はホームページを作ってないし、それにぼくのページには「関連情報」はないし、それにぼくらの研究はIPALという大きなプロジェクトの一環としてやってたものだし、ってなわけで、あのはり方がベスト。

そうか自己評価…

IPAL関連の多義の研究についての自己評価とこれから

「区分間の意味的関係」についてのぼくらの研究は、理論的な枠組みとしてはほとんど目新しいところはない。メタファー、メトニミー、シネクドキーが多義に関係しているということは認知言語学者の間では共通理解みたいになっていたわけで、ぼくらの研究は基本的にはそれを実際の記述に適用できるようなかたちにまとめただけである。あの研究に新しいことがあるとしたら、それはその枠組みを実際の辞書記述に持ち込んだということ。それはそれなりに意味のある仕事だったと思うし、なおかつ大変な仕事でもあった。

(ぼくの方は、地方入試の帰りに一人別行動をとって校閲用ファイルを取りに寄って、翌日高熱を出して結局仕事にならなかった、なんてこともあった。)

そしてその仕事が可能になったのは、IPALの研究開発という場があったからである。言い換えると、IPALのプロジェクトが終了した現在、ぼくらの研究が新しい局面を迎えられる見通しはない。

ただ、これまでの成果を取りまとめて紹介するという作業は、それなりに意味があることだと思う。紹介する相手として考えられる人々は、次の三種類である。

  1. 何らかの形でIPAないしIPALに関わりをもっている人々。
  2. 計算機業界の人々(情報処理ないし自然言語処理に関わっている人々)。
  3. 言語学関係者(辞書学関係者)。

もちろん、人によってはこの中の二つ以上に該当する場合もある。

1.に関して言えば、1997年秋の技術発表会で済んでいる。これは実は、名詞辞書でやったことのうち、解説編で書ききれなかった部分(解説編執筆時にはまとめきれずに、言語処理学会に先に出してしまった部分)をIPA/IPAL関係者向けに解説するものという位置づけも与えられている。2.に関しては、『情報処理学会論文誌』の論文でやった。そして、『日本語学』の辞書特集への寄稿が3.に該当する。要するに、『日本語学』の辞書特集への寄稿によって、知ってほしい人すべてがカバーできることになったわけである。

研究に実質的な進展がないのに論文や発表の数だけが水増し的に増えていくのは望ましいことではない。ということで、自分としては、IPALでやったことの範囲を大きく超えることのない内容の論文は、打ち止めにしたいと思う。どうしてもやらなければならない場合には、「すでに終了した研究の紹介ないし報告」という形を取ることになる。

柏野さんが何らかのかたちで独自に研究を進めてその新しい成果を発表する分には、構わない。

2/3は一般入試の初日。

ぼく的には、ヒマであることを期待したい。

Niftyの日記フォーラム

あるということを知って、入った。何をするわけでもないけれども。お知らせすら読んでいない。会議室発言も一つも読んでない。とりあえず入っただけ。

アクセスカウンターについて

公開!「うそぉ!」と思われた方は、こちらへ。

これまでカウンターを公開してこなかったのは公開すると意味もなくリロードする人が出てきそうだから(自分の姿を人に投影しているという噂あり)。でもそれも最近どうでもよくなりつつあります。

「にせカウンターでもリロードする人は現れるだろうな」と思いつつつけるのは、そんな心境の変化があって、「アクセス数をきちんと把握したい」という気持ちより「ええい遊んじゃえ」という気持ちが勝つようになったから。

昨日の大阪弁フィルターだって、リロードに近い影響がありそうなんだけど、それを分かっててやったのも、同じ理由から。

意味もなくまじめに、アクセス行動の分析

前からの固定読者はホーム(index.html)経由でこのページに来ることが多いようだ。ホームにはこのページの更新日を書いているので、そこを見て新しくなっていればこちらに来て、新しくなっていなければそのまま帰る、というパターンがあるらしい。

それに対して、純猿人系の人々のほとんど(猿人系日記からのリンクでこのページを知った人々のほとんど)は、いきなりこのページ(zakki1999no01.html/zakki1999no02.html)に飛んできているらしい。今月のページの頭の「最新へ」ははこちらのタイプの人のためのもの。こちらのタイプの人の中には、1月から2月に切り替わるときに道に迷った人や撤退した人もいたような気配があったりもします。

このページは最新のファイル名が固定していない(月ごとに変わる)のでリンクをはってくださっている方はそれぞれ考えてくださっているようで、トップにはってくださっている方もいますが目次(ayasii.html、月に1回か2回くらいのペースでしか更新していなかったりする)にはってくださっている方もいます。って他人事みたいに書いていますが、もともとリンクはられることを想定していなかったのです。

時限爆弾方式その2解決編

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雑記リターンズ!

なかなか面白いかも。どなたがなさるのかは分かりませんが、言い出しっぺの法則というのもあることですし。これを続けるのに必要なのは、週休三日以上の生活で、休日の時間とエネルギーのすべてを日記の読み書きに投入すること。要するに廃人になればいいんです。簡単簡単。

「やめる」宣言は場合によっては「私に注目して!」「お願いだから「やめないで」といって!」というメッセージの場合もあって、そういうオオカミ少年少女は「他人にとっての自分の意味」を確認することによって「自分発見」をしようとする、ある意味とても人間らしいといえないこともないけどでもはたから見るとちょっとしんどい面もあるかなというタイプの人だったりします(まあ、命かけちゃう人よりはいいかもしれませんが)。

↑この辺、ちょっと危ない発言かも。

ぼくの場合もそういう面もないわけではないのですが、それとは別に、「ネットワーク依存症から抜け出したい」「これに費やしている時間とエネルギーを大学の仕事や論文の読み書きに向けたら、どれほど生産的になれることか」という気持ちがあります。それで自分に向かって「やめようよ」と言っている。たとえてみれば、「来月から禁煙する」と決めてその決意を周りの人にも話している、みたいなものです。

1月、2月と特に書き込みの量が多いのは、「来月から禁煙」と決意した人が「せめて今月くらい、好きなだけ吸いたい」ということですぱすぱ吸いまくっている、みたいな感じです。今たくさん吸っちゃったらやめた後つらくなるのは分かってるんですが。

まあ、そんなところです。

鷲田氏の「自己」

読み直したわけではないのだけど、少し思い出しました。「他者にとっての意味ある他者」。

2月3日のお仕事

期待通り、ひま。

2月4日のお仕事

まずまず順当な展開。

猿人で投票してくださった方

ありがとうございます。ぼくも投票できるようになりました。自分に投票してみて、研究室の機械では「surugadai.ac.jp」がばっちり残ってしまうことも分かりました。

これから投票は、基本的には自宅でやります。自宅からの投票では「surugadai.ac.jp」は出ません。別にメールアドレスを偽るわけではなくて、まあ、複数のアドレスを持っているということ自体は珍しいことではないと思うわけで。

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「出席重視」の意味と「学歴信仰」の意味

外国語や体育の授業は、「出席重視」である。ここまでは教員の理解と学生の理解の間に食い違いはない。が、「出席重視」とは具体的にどういうことか、という点になると、解釈の違いが出ることがある。

学生の中には、「出席重視」に関して次のような解釈をする人が結構いるように思う。

出席は、単位取得のための十分条件である。

これは、学生が普通使うような言い方で言うと、次のようになる。

語学の授業は、きちんと出席さえしていれば、単位が取れる。

あるいは

語学の授業は、出席点が60点である。

これに対して、教員は(確認したわけではないが)つぎのように解釈していると思う。

出席は、単位取得のための必要条件である。

これを、普通の言い方で言うと、次のようになる。

語学の授業は、出席しなければどうにもならない。出席して当たり前。その上で授業にどのように参加するかが問題。

ということなので、ぼくは、学生から「出席点は何点なのですか?」と聞かれた場合、次のように答えることにしている。

出席点は0点!

これは学生の常識としての「出席重視」に反するので、一瞬「え?」という顔になる。それに対して、ぼくはたたみかけるように次のように言う。

出席しなければマイナス100点!

これでだいたい話は通じるようだ。

この辺のことに関して教員と学生の間で行き違いがあると、

○○(きょーじゅ)の授業は毎回出席してレポートも全部出したのに落とされた!

と不満を言う学生が出ることになる。

で、話は変わる。最近このページを見て気がついたのだが、「学歴重視」「学歴信仰」に関しても「出席重視」の場合と同じような理解の落差があるように思う。

NHKの番組も見てないし、有馬氏の発言も聞いていないので以下はぼくの単なる臆測なのだが、有馬氏が「学歴信仰が崩れつつある…」と言うときの「学歴信仰」は

「学歴がある」ということがプラスに評価されるということ

あるいは

「大学卒=エリート」という図式

ということなのではないかという気がする。いっぽうでこのジオの日記書きさんが「学歴信仰はちゃんと残っている」というときの「学歴信仰」は

「学歴がない」ということがマイナスに評価されるということ

あるいは

「大学卒=普通の社会人であるために最低必要な条件」という図式

である。この解釈のずれは、「出席重視」に対する「出席点は60点」と「出席点は0点」という二つの解釈の間のずれと同じ性格のものだと思う。

例によって例のごとくだけれど

学歴に関して上に書いたような図式が世間で流通している(していた)ことに関して、それを「いいこと」と思うか「よくないこと」と思うかということは、上に書いたこととはまったく別の問題だったりします。要するに上の議論はそのような図式を是認したいわけでも批判したいわけでもないのです。ただ、是認したり批判したりする前に現実がどうなっているかを知っておきたいだけ。それが言語学者の姿勢というものだとぼくは思っている。「人妻」の場合と同じ。

2月5日のお仕事

仕事の量は少なかったが、でも一番疲れた。でもまあ、こんなもんでしょ。

来年度のお仕事

今年担当した某雑用を来年もやれというリクエストあり。確かに今年はがんばりました。ぼくなりに。100メートルを20秒で走る短距離選手が一生懸命がんばって17秒までタイムを縮めた、という感じだった。17秒というのも短距離選手としてはなかなかなダイタンな記録なんだけど、ぼくにはそれが精一杯。そして来年同じことをやったら力尽きて25秒かかる恐れがある。

そうなったら某氏(100メートルを10秒台で走る)に手を引いてもらおっか。

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2/6

2月6日のお仕事

以前立てた予想が100パーセント的中。しかもそのことに対してまったく驚くこともなかった。ということで今日は仕事の量も疲労度も極限状態。能力と責任感の関係について考えさせられた一日でもあった。

ということで

しばらく出勤しなくていい。うちでやる仕事は残っているけど(大学の仕事)。落ち着いて腰を据えてでもだ〜っとやるつもり。

何日かかかってしまいそうではあるが、それが終わったら研究者モード全壊(げろげろ)、ぢゃなくて全開。

来年度のお仕事ふたたび

この時期、わずか一日の間にも状況がぐわらっと変わる。今年担当した某雑用から来年は解放されることが今日確定した。その他いろいろ変更あり。100メートルを10秒台で走る(かのような仕事ぶりの)某氏(ぼくの後任)は、さすがにやることがしっかりしている。

ということで、とりあえずぼくに関しては前例踏襲。

当たっているような、でもちょっとずれてもいるような、某辛辣な面もあるけどやさしい人のコメント

休憩所でお茶を汲んでいるときに「はああ」と大きくため息をついたら某同僚に見つかって

ため息なんて仕事でついたらもったいない。

ぼく:

こんなしようもないことで悩むなってことですか。

同僚:

そう、どうせならもっと人生に関わることでつかなきゃ。たとえば恋の悩みとかさ。

最近ため息をつくことが多いのは確か。

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入試おもて話

さすがに裏話を書くわけには行かない(まだ解雇されたくない)ので、おもて話を少々。

毎年、入試の日の朝に必ず見られる光景がある。駅からスクールバスのバス停に行く道にアルバイト学生が現れて、ビニール袋に入った何やら平べったいものを配っている。ぼくは年齢よりずいぶん若く見られるのだけれども、それでもさすがに受験生と間違われることはないようで、さりげなく近づいていっても完璧に無視されてしまう。でも去年だったか一昨年だったか、一度だけ、もらえたことがあった。一緒に歩いていた同僚も若く見える人なので、「受験生とその兄!」と思われたに違いない、ということだった。

開けてみると、入っていたのは下宿の案内。かなり分厚い本で、写真もいっぱい。例によってぺらぺらめくってみると

(この「ぺらぺらめくってみると」って、書店で金払って買った翻訳論の本と同じ扱いだったりする)

関東地方の(ほとんど)すべての路線の沿線がカバーされている。ということは言い換えれば、駿河台大学の学生の役に立つような情報はほとんどない、ということ。その時ぼくが見た奴では、辛うじて通えそうなところの情報は見開き2ページだけ。あとはぜ〜んぶ、全く使えない情報ばかり。

しかも、である。言語学者のくせに語彙が乏しいぼくは思わず何も考えずに「下宿の案内」と書いてしまったのだが、実際に宣伝されているのはとても「下宿」とは呼べないものばかり。要するに超高級ワンルームマンションで、当然家賃も超高い。バブル期ならいざ知らず、この不況の中

(学生の家計の状況の話を小耳に挟んで胸が詰まることあり。具体的な話はここには書けないけど。)

あんな通学に不便なところにあんな高い金を払って住む学生が一体どれくらいいるんだろうか。

配布アルバイトの学生の足下においてある袋を見ると、相当な部数を持ってきている。駿河台大学の場合、あれは100パーセント無駄になると見ていいと、ぼくは思う。

(あの広告を見てあそこに住む人が1人でも出れば上出来だろうが、実際は1人もいないだろうなと思う。)

もちろん、他大学でも配っているのだろう。あんな立派な印刷でしかも部数も多いとなると、大家が払う広告費も相当なものに違いない。この実態を、大家たちは分かっているのだろうか。もうちょっとセンスのいいことをやったら?、と思うんだけど。

入試の日の裏話

入試の裏話ではない。あしからず。

監督とも採点とも関係なかったのだが、ちょっとした用事があって、入試実施本部に行った。約束の時間ぎりぎりだったこともあって、急いで行った。すると

某事務責任者:

走ってきたから、何かあったのかと思った。

学部長:

本多さんはいつだって走ってるじゃない。

某事務責任者:

あ、そうでしたっけ。

この場合、学部長の認識が正しい。でもぼくが事務の人に余計な心配をかけてしまったことも確か。

入試の日の裏話

これまた入試の裏話ではない。あしからず。

まだ試験をやっている最中に某英語教員といっしょにコンピューター教室のメンテの手伝いをやってた私は何者?

自分であの教室を使っているわけではないし、関係する委員でもないので恒常的に関わることはない(と思われる)のが救い。

トラブルの原因は、結構げろげろ。

Wordを削除

来年の講義要項執筆まで不要。これでまたディスクがずいぶん広くなった。

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2/8

オリジナリティをめぐる逆説

前振り

例によって仕事さぼって某日記(複数)を見ていて思ったこと。思うところあって、リンクは張らない。どれを念頭においているか、このページを読みに来るタイプの猿人さんたちにはすぐに分かると思う。あれについて一言でコメントするならば、研究者とそうでない人との違い。長々と述べるならば…

「オリジナルであるということ」の多義性

「オリジナルなアイデア」というときの「オリジナル」には二つの意味がある。一つは「これまで自分以外には誰も考えたことがない」という意味。二番目は「ほかの人の力に頼らずに、自分だけの力で考えた」という意味。

ちょっと逆説的になるが、研究の世界では、特に理論的な研究の場合には、「(第一の意味での)オリジナルなことをやるぞ!」という気負いがあるうちは(第一の意味での)オリジナルなことはできない。このような気負いから生まれてくるアイデアというのは、全部とは言えないだろうが大抵はとうの昔に先人が考えたことであり、したがってそれは普通は次のうちのどちらかである。

だから、自分の考えを本当に(第一の意味で)オリジナルなものにするためには、ひたすら先人の研究を勉強しまくるのが結局は一番の早道である。

ただ、そのような気負いから生まれる研究は(その気負いゆえに)第二の意味でのオリジナリティを持つことができる。そしてそれゆえに、そのような研究はやった人に達成感を与える。だからそれはまた(そのような気負いの恐ろしさを知らない人にとっては)楽しいものでもある。だから一度その楽しさを味わってしまうと、そこから抜け出せなくなる可能性もある。

「自分」に対するこだわりを捨てるということ

人間の学習の特徴は、「何かができるようになる前に、それをやってしまう」ということである。「できるようになる前」と「やってしまう」の間(「充足されていない意味」)を埋めるのは、他者である。その意味で、人間の学習は社会的である。(この段落は(c) Edward Reed: Encountering the World: Towards an Ecological Psychology、邦訳進行中。)

同じことは研究活動にもいえる。したがって、研究活動を始めたばかりの比較的早い時期に優れた先人に出会ってそこから学ぶ姿勢を身につけることが望ましい。優れた先人に出会えなかったり(変な人に出会って逃げられなくなってしまったり、そもそも周りに誰も人がいなかったり)、あるいは出会っているのにその人から研究のワザを盗むことができずにみょ〜に「自分」にこだわってしまったりすると、(成果が上がるかどうかとは別のレベルの)努力することそれ自体から来る達成感に溺れ、しかも妙な癖がつく、ということになってしまう。そうなると本人の努力量の割には(ほかの人の目から見て)成果が上がらないままという、悲しい人になってしまう。この状態を日本語で「ひとりよがり」という。

(さらにメタ的に悲しいことには、本人は自分自身の悲しさに気づいていなくて、「自分はけっこう創造的」と思って満足してたりする。)

「自分」にこだわる気負いのある人に、(第一の意味での)オリジナルな研究ができないかというと、かならずしもそうではない。が、これはしょせん確率の問題で、それもゼロではない、という程度の話。そして、この手の人々には、「100年後に評価されるか、それとも永久に評価されないか」という究極の選択が待っている。もちろん本人たちはそれに気づいていない。

それに気づけば、言い換えれば「自分のやってることはひとりよがりなのかもしれない」という疑念/不安にとらわれることがあれば、その瞬間に状況は好転する。

このあたりを悟りきって自分を縛る「自分」を捨てることができるかどうかが、original/creative/seminalな研究者とcomplacentな研究者の境目になる。あるいはコンスタントに70点の研究を発表する人と、一度だけ120点を出してあとはずっと0点続きの人の境目になる。そんな気がする。

ぼくの場合

ぼくが学部のころにファンだったある理論言語学者(1982年に自殺)は自分たちのグループのオリジナリティをものすごく強調する人だった。その人の論文に参考文献リストというものはなかった(本当の話)。そしてある日ぼくは文学部の図書館で、思った。

○○氏の言う通りだとすると、ここにある雑誌に載っている論文はぜ〜んぶごみということになるが、それは本当なのだろうか?

とても本当だとは思えなかった。そしてとどめを刺したのが板倉聖宣氏の『模倣と創造』。(第一の意味で)オリジナルであることと模倣することを相互排他的に捉えてはいけないのだということ学んだ。 それがこの雑記ではここに書いたことにつながっている。

でも、今でも自分は○○氏の流儀から抜けきってはいない、と思うこともある。(←なんかずるい発言かも。)

そういえばIPAL関連の論文も参考文献欄はほとんど空っぽ。関わりはじめた当初(博士課程のころ)は「この人たちこれでよく恥ずかしくないな」と思っていた。

↑これ

自分が何を言っているのか、自分でもいまいちよく分かっていない面があるような気がする。

1999/2/8 23:47 小見出しつけた。

そういえば

研究論文というものはintertextualなものの典型だったりもするのであった。

お約束だった授業アンケート

アンケートに答えてくれた学生からの評価が一番高かったのは、次の条件を満たす授業だった。

考えてみれば当たり前の話である。アンケートの対象となるのは実施日に出席していた学生ということになるのだが、これだけの条件がそろった授業にちゃんと出席してくれる人というのは、大学での勉強についてまじめに考えている人か、そうでなければ授業内容 and/or 担当教員に相当深い思い入れを持っている人であって、そういう学生を対象にしたアンケートが他の授業より評価が高いのは当然なのである。

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2/9

「自分が変わっていくのが分かる。それがとっても楽しい」

昨日書いたことはぢょしゅさんとシンクロしていたらしい。それから、よく考えたらちはる先生のスキーマの話とも絡むのであった。

今日もまたその辺の話。「オリジナリティ」は出てこないけど、自分による縛りから解放されることによって自分が生きるということ。今度はこちらも学生の話。ただしぼやきではなくて学生自慢。

現代文化学部の営業部では、1997年の年末に一部学生を対象にインタビューを実施した。目的は、受験生向けのパンフレット(紙)の作成と、学部ホームページの作成。ぼくは思うところあってそのインタビューには出なかったのだが、直接関わった教員の一人から翌日、様子を聞いた。そのときその教員はインタビューに協力してくれた学生を褒めていたのだが、特に「すごい!」と言っていたのが、ある学生が次のように言ったということ。

この学部の授業に出ていると、物事に対する自分の見方がどんどん変わっていくのが分かる。それがとっても楽しい。

その話を聞いて、ぼくもうなってしまった。この学生は、駿河台大学の学部の一年生のブンザイで、学問をすることのいちばんの醍醐味(と、ぼくが思うもの)を理解している。東大の博士課程の学生だって、ここまでちゃんと分かっている人ばかりではないというのに。素晴らしすぎる。ぼくはインタビューページの出来上がりに対して怖いもの見たさ的な期待感を抱き始めた。どんなすごいページになるのだろう。

そして編集を担当した教員たち(手分けしてやったということだった)から来た原稿を見て、またびっくり。「自分が変わっていくのが分かる。それがとっても楽しい」という発言を思わせるところは一箇所もない。その発言がなされたと思しき箇所は、非常によくあるタイプの大学教育観に置き換えられている。

この三人のうちのどれがその学生でどこが問題の部分か、分かりますか?)

どうしてこういうことになったのか、ぼくには分からない。その学生の発言の編集を担当した教員(ぼくにインタビューの様子を話してくれた人とは別)の判断によるものだろうが、どういう判断だったのか。

いずれにせよ、受験生にアピールするようにということが最優先事項だから、この変更に異議を申し立てているわけではない。確かにその学生の発言をそのまま掲載したとしても、受験生にはそのすごさが伝わりにくかっただろうし。

でも、できればあの発言はあのままのっかって欲しかった、と思うぼくなのである。ぼく個人的な好みになるけど。

もちろん、現代文化学部の学生全員がこんなに素晴らしい人ばかりというわけではない。だが、中にはこんな人もいるんだよ、という話でした。 (その学生の発言を「すごい」と認識して話してくれたその教員も、すごい人です。)

知りすぎた私、喋りすぎた私

某氏

本多さん、電子メールを大学と自宅と両方で読めるようにすることって、できます?

わたし

できますよ。いくつかやり方ありますけど。

某氏

今度いつかやっていただけます?

わたし

ぼくのこと信用していただけます?

某氏

???

わたし

*********とかだって、やろうと思えばできちゃうんですけど。もちろんやるつもりはありませんけど。それからそのやり方教えるのも、ちょっと問題あるからできない。だからとにかく信用してもらうしかないんです。

某氏

う〜ん、いいよ、何かあったら真っ先に本多さんのこと疑うから。

わたし

何かあったということがそう簡単には分からないようにやることだってできるんですけど。

某氏

…自分で設定することはできないの? やり方を教えて。

わたし

UNIXマシン、さわったことあります?

某氏

ゆにっくすってなに? パソコンとどう違うの?

典型的なパターンだったりします。悲しい。

でも何かあった場合に真っ先に疑われるのはネットワーク管理者なので、できればネットワークがらみの仕事はやりたくない。そしてセキュリティの問題に関しては一般ユーザーもある程度のことは知っておくべきだというのが、ぼくの意見なのです。

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爆発

いつかのもう一つのエッセイは2月の終わりか3月の初めに 研究室 に置く予定。タイトルは「日本人とは誰のことか」。内容は、分かる人には分かるでしょう。実質的な進展はありません。父母会誌に載せるエッセイとしては堅すぎる内容だった。

それ以外の書きかけのものは、いつかそのうち(っていつ?)。

目次の未整理分は近日中に整備します。

それではまた。

(↑これ、ぼく的には、昔仲良かった女性とたまたま電車の中で会って、ちょっと話して、そのあとすぐ降りる駅になって別れる、というようなときの定番のあいさつ。)

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