まえがき 第1章日本の道徳 第2章教育の変遷 第3章世界の宗教と道徳 第4章修行のすすめ あとがき
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第三章 世界の宗教と道徳                                       
3−1 アメリカ・イギリスの道徳教育
3−2 モーセの十戒
3−3 イスラム教の聖典 コーランの教え
3−4 古代ギリシャの道徳  真・善・美
3−5 儒教の考え方
3−6 仏教の戒律と教え
3−7 天国と地獄
3−8 勧善懲悪
3−1アメリカ・イギリスの道徳教育

 「あなたがたの学校では、宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」と著名なベルギーの法学者ラブレー氏が新渡戸稲造氏にたずねたそうです。「武士道」という本の序文にのっています。新渡戸氏が「ありません」と返事をすると、ラブレー氏は驚きのあまり、突然歩みをとめました。そして容易に忘れがたい声で、「宗教がないとは、一体あなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と繰り返した、と書かれています。
 私たち日本人の道徳教育とアメリカ・イギリス等のキリスト教国の道徳教育では根底からその構造が相違していることの一端を示すエピソードと思います。
 現在でもアメリカ人の40%は定期的に教会に行き、その宗教心の維持に努めているといわれています。家庭における幼児期の「しつけ」はかなり厳しいそうです。「三つ子の魂百まで」という諺の通り、物心つくまでに、道徳心の根本をすり込んでおけば、死ぬまで持続するでしょう。さらにつね日ごろ教会に行き、説教を聴き、話し合いを続ければ、義務教育の課程で特に道徳教育を行わなくとも、充分に社会全般に宗教をベースとした道徳心は行きわたっていることでしょう。終戦直後に来日した米国教育使節団の報告書でも「道徳」という教科は必要がないと報告しています。他の国語・社会などの授業の中で、教師が児童に話して聞かせればよいことだとしています。
 では彼等のいうキリスト教・ユダヤ教の道徳に対する影響力について、少し考えてみましょう。アメリカの小学校で教師が児童の悪い行動について注意をすると、「何に書いてありますか」という質問が児童から返ってくることが多いそうです。アメリカ・イギリスでは社会全般は契約の精神によって、成り立っています。宗教的にも モーセの十戒に始まり、ルールを重視し、明文化された聖書に頼り、義務・責任・権利を明確にしています。何か意見の食い違いが生じれば、その根拠を聖書のどの部分に書かれているかを論じなければ道徳の問題が解決しないそうです。しかしカトリック系は統一見解で固まっているけれども、プロテスタント系は聖書の解釈について自由なので、さまざまの見解が存在するといわれています。そのためアメリカで道徳教育の教科書をもし作ろうとしても、その道徳の根拠をひとつひとつ明示するとなると、結局収拾がつかなくなるのではないでしょうか。各宗派によって解釈が違うので、統一見解の道徳教科書が作れないのかも知れません。
 アメリカ生活の道徳的な基本項目として、次の徳目があります。
1. 人格(human personality)
2. 道徳的責任(moral responsibility)
3. 奉仕の制度(institutions as the servants of men)
4. 同意(common consent)
5. 真理に対する献身(devotion to truth)
6. 優秀さの尊重(respect of excellence)
7. 道徳的平等(moral equality)
8. 友愛(brother hood)
9. 幸福の追求(the pursuit of happiness)
10. 精神的豊かさ(spiritual enrichment)

イギリスの道徳教育の特徴
 日本では一般的に使われている「道徳教育」という言葉が、イギリスではほとんど用いられていないそうです。いいかえれば、道徳科という教科はイギリスのどの学校にも存在しないそうです。しかしその代わりに「宗教科」が道徳教育の責任を負っています。この宗教教育の実際は単なるキリスト教的信仰を強化することではなく、これを人間教育の基本として重視しているようです。そこでは
人格教育(character training)
人物教育(character formation)
という言葉が盛んに使われているといわれています。

西ドイツの道徳教育の特徴
 だいぶ古い話ですが、西ドイツについて次のように紹介されています。
イギリスと同様に道徳教育という言葉はほとんど使われておらず、道徳という教科もなかったそうです。基本的な態度としては、真理を愛し、神に対して責任を果たし、聖書の教えに従うことです。高学年になると児童は、十戒によって、人間の社会生活の根本法則を、神に対する責任として認識することを、学ばなければなりません。道徳教育に限定せず、人間の生き方の問題、人生観・世界観の問題として究明しようという傾向があったそうです。

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3−2モーセの十戒

 アメリカ・イギリス・ドイツなどのキリスト教圏の国々では、モーセの十戒が社会生活の基本ルールとなっているようです。西欧の道徳の根本といっても過言ではないでしょう。この十戒は旧約聖書、出エジプト記20章にのっています。
1. 他の神々を持ってはならない
2. いかなる像もつくってはならない
3. あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない
4. 安息日を憶えて、これを聖とせよ
5. 君の父と母とを敬え
6. 殺してはならない
7. 姦淫してはならない
8. 盗んではならない
9. 隣人に対し偽りの証しを立ててはならない
10. 隣人の家、妻、奴隷、牛、驢馬、すべての物を欲しがってはならない

1.2.3.4.は唯一神教の教理として重要な事項と思います。
5.〜10.に道徳戒が並んでいます。
「5.君の父と母とを敬え」というところは儒教の教えによく似ていると思いませんか。日本の教育勅語には「父母に孝行に」と書かれています。
「6.殺してはならない」、「7.姦淫してはならない」、「8.盗んではならない」は仏教の在家の五戒のうちの「不殺生」、「不邪淫」、「不偸盗」と同じです。
「9.隣人に対し偽りの証しを立ててはならない」は社会生活の基本となる裁きの場を前提としているように思われます。偽証によって意図的に隣人を貶(おとし)めてはなりません。仏教の在家五戒には「不妄語」として禁じています。
「10.隣人の家の妻、奴隷、牛、驢馬、すべての物を欲しがってはならない」は人間の物欲のすさまじさと、そのコントロール(自制)の重要性について、強調していると思います。日本では「小欲知足」という言葉があります。人間の物欲には限りがありません。他人の持ち物を次々と入手しようとすれば、争い事が絶えないのは当然の成り行きでしょう。
 イスラム教では殺人、傷害については「同害報復刑」があって、「目には目を、歯には歯を」という言葉がよく知られています。他人の命を奪った者は報復刑として、その命を奪われるという意味です。五つの固定刑のなかに「姦通刑」、「中傷刑」、「窃盗刑」、「追剥刑」があります。この「中傷刑」がモーセの十戒の「9.隣人に対し偽りの証しを立ててはならない」に相当するでしょう。

 「ソロモンの箴言」という言葉を聞いたことがあると思います。
 ソロモン(Solomon)はイスラエル(ヘブライ)王国第3代の王で、在位は前960年〜前922年といわれています。その箴言の中からいくつか参考になりそうな部分を選択して、列記してみます。
1. 智慧を得、聡明(さとり)を得よ、これを忘るるなかれ
2. 智慧は第一なるものなり、智慧を得よ、すべての汝の得たる物をもて、聡明(さとり)を得よ
3. 手をものうくしてはたらく者は貧しくなり、勤めはたらく者は富を得
4. 怨恨(うらみ)は争端(あらそい)をおこし、愛はすべてのとがをおおう
5. 愚かなる者はただちに怒りをあらわし、かしこきものは恥をつつむ
6. いきどおり易きものはあらそいをおこし、怒りを遅くする者は争端をとどむ
7. 目の光は心をよろこばせ、好き音信(おとづれ)は骨をうるほす
8. 怒りを遅くする者は勇士にまさり、おのれの心を治める者は城を攻め取る者にまさる
9. いつわりの証人は罪をまぬかれず、いつわりをはくものはほろぶべし
10. 鞭と譴責(いましめ)とは智慧をあたう、任意(こころまま)になしおかれたる子はその母を辱しむ
この中で特に10.に注目しましょう。気ままに自由放任に育った者は人間としての基本の「しつけ」がなされていないので、その親の恥となり、はずかしめるということが気になります。日本の教育基本法の「のびのびと自由に、自分のしたいことをしなさい」と児童・生徒にいうのは、ソロモンの箴言とは正反対のいいかたのように思われます。
同じような諺を列記して置きます。
鞭を惜しむと子供が駄目になる(Spare the rod and spoil the child)
子供に教えるのは石に刻むようなもの、大人に教えるのは海に波を起こすようなもの
ただし子供に対する「しつけ」のつもりが、児童虐待にならないように、充分な注意が必要です。冷静に、よく言ってきかせなければなりません。子供が納得することが必要です。親がカーツと腹を立てて、子供を殴っては、子供の反抗心が増すばかりです。「しつけ」をしたら2倍も、3倍もかわいがって、アフターケアーをしなければならないと考えます。

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3−3イスラム教の聖典 コーランの教え

 モーセ、キリスト、マホメットは三人の予言者として、ほぼ同じ地域でユダヤ教、キリスト教、イスラム教を始めました。マホメットは、632年6月8日に死亡していますが、生年月日については、確定されていません。キリスト教誕生の約600年後に、マホメットはあえてユダヤ教、キリスト教の流れを汲む一神教のイスラム教を創唱しました。
 むずかしいことはわかりませんが、マホメットが折りにふれて語った「神の声」を集めたのがコーランだといわれています。つまり唯一絶対の神アッラーの言葉をマホメットが代弁しているので、コーランは「神の声」というわけです。「天啓の書」ともいわれています。この他にハデイースといって、予言者の伝承を集めたものがあります。
 キリスト教には教会の牧師、仏教には寺院の僧侶がいて、一般の信者を教え、導いていますが、イスラム教にはそのようなシステムはないそうです。ここではコーランの道徳関連の項目をいくつか記載します。
1.挨拶 お前たちが挨拶をされた時は、一層ていねいに挨拶するようにせよ。少なくとも同じ程度の挨拶は返せ
2.盗みの罰 ものを盗んだやつは、男であれ、女であれ、その両手を切り落としてしまえ。それは彼らがかせいだものへの報いであり、アッラーのみせしめである
3.密通 「密通した男女は石で打ち殺すべし」というのがマホメット以前からのアラビアの社会的通念だった。しかし神の啓示により百回の鞭打ちで許すことにした。
4.断食 信仰を持てる者たちよ、お前たちより以前の人々にも定められていたように、お前たちにも断食が定められている。それはお前たちが、アッラーを畏れかしこむためである
5.禁酒 悪魔は酒とばくちで、お前たちのあいだに敵意と憎しみをおこさせ、お前たちがアッラーを念じたり、礼拝を守ることを妨げようとしている
6.ベール 女の信者たちに言ってやるがよい。「その視線を伏せ、その操を守り、外にあらわれる部分のほかは、その美しさが、目につかぬようにせよ。またベールをその胸もとまで垂らすがよい。
7.喜捨(ザカート) 両親、親戚縁者、みなし児、貧しい人、および旅人たちのためにお金を使うのが最もよい。
8.利息の禁止 アッラーは商売はお許しになったが、利息を取ることは禁じておられる。
9.食事 お前たちが食べることが禁じられているのは、死獣の肉・血、豚肉、アッラー以外の名を唱えて屠られたもの、絞め殺されたもの、打ち殺されたもの、墜死したもの、他の獣に突き殺されたもの、野獣が食い残したものなどである。
10.戦陣訓 (マホメットは宗教的リーダーで、同時に部族の最高指導者、軍の最高指揮者でした。)
約束を破り、使徒の追放を企て、最初にお前たちを攻撃した連中と、お前たちはどうして戦おうとしないのか。お前たちは彼らを恐れているのか、もしもお前たちが信者なら、アッラーをこそ畏れるべきである。彼らと戦え。アッラーはお前たちの手で彼らを罰し、彼らを辱しめ、お前たちが勝つように助け、信者たちの胸を癒ししてくださるだろう。

 キリスト教に十字軍があり、イスラム教に聖戦(ジハード)があり、互いに戦争を繰り返していては、世界の平和は遠のくばかりです。
 予言者の言葉をその弟子たちが書き残したのが聖書とコーランです。コーランには、その当時の政治・社会状況、生活様式、実生活が投影されているので、その軍の最高司令官としての戦陣訓や一言半句をよりどころとして、他を攻撃する口実にするのは、間違いだと思います。それこそ創唱者の精神に反するのではないでしょうか。
 イスラム教では出家という制度はなく、全員が日常生活の中で、その教義を具体的な生活規範として、厳しく生活することになっています。そのような戒律宗教により、現世の福祉と、来世の救いを求めるのも人類の選択肢の一つでしょう。

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3−4古代ギリシャの道徳 真・善・美

 中世の長い精神的暗黒時代の中をさらにさかのぼってゆくと、その上には、ひかり輝く花々の咲き乱れる、ギリシャ哲学の美しい花園があります。そこではまだ哲学と科学が一体の融合した状態でした。ソクラテス、プラトン、ストア、エピクロスなどさまざまな哲学的思想を知ることができます。
 エピクロス派の智慧の理想は、無礙、こだわり・とらわれ・ひっかかりのない心だといわれています。簡素な、金のかからない、放埓でない生活を人々に説いています。
 ストア学派によれば、「理に従うのはすなわち自然の法則に従うのであって、これが人間において唯一の善である」と主張しています。別の表現では、「内心の自由と平静が最上の善である」と考えたようです。この「内心の自由と平静」を別の言葉でいえば、晴れ渡った、すみきった大空のようなひろい「澄んだ心」ではないでしょうか。
 ヨーロッパ哲学は古代ギリシャにその淵源をもつといわれています。事物のそれ自身の真実の姿を尋ねる、およそ存在する限りのすべてのものについて、第一の原理を尋ねていく哲学(智慧を愛する学問)が生まれました。古代ギリシャのソクラテス(BC469〜399)は「いかに生きるべきか」という問題を「何に価値を置くべきか」という観点から考えました。金銭や名声ではなく「魂の善さ」に最も価値を置くべきだと主張したと言われています。この「魂の善さ」とは別の表現では「徳」のことをいうのではないでしょうか。
 「最も善きものには、最も美しく立派なこと以外の他のことをするのは許されない」
 「善を目指すのは理性であり、必然が善を目指すのは、ただただ理性の説得があってのことである」という言葉は妙に心を惹かれるところがあります。
 アリストテレスは「中間」のおしえを説いています。「一般に我々の道徳的生活は過度と過小の間に動揺しているので、もしそこに適正なる中間が見出されるならば、人生の善すなわち徳が達せられたものと認められる」。この中間という考えは儒教の中庸の考えにかなり近いと思われます。なお戦前の学生が愛読した「善の研究」(西田幾太郎)という有名な本がありますので、ご覧になってください。
 日本では一般に「美」といえば、美術を連想すると思います。「美しい行為」といえば「人を感動させるような行為」のことで、「美しい」は多分に情緒的、視覚的な意味を持つと思います。しかし古代ギリシャでは「美しい行為」といわれるのは、人々が賞賛するような立派な行為であり、「美しい」は倫理的、道徳的意味が強かったようです。
 近頃は文化交流が盛んになりました。高い評価を与えるような時の感嘆詞として「ビューテイフル」を使う人がふえてきたのは喜ばしいことと思います。ぜひそのようにして真・善・美のうちの「美」が理解され、人々の賞賛のことばとして定着することを願っています。
 「真」は真理を探究すること、物事の真実の姿を科学することなどといわれています。善/悪、美/醜、と同様に対比すれば、真/偽、となるのではないでしょうか。とかく「真」は真心、真人間、真夜中などとただ単に形容詞的な意味しか持たないと受け取られがちです。しかし偽物の偽、他人をおとしめるための偽証の偽などの正反対の位置に「真」は存在し、正義のシンボルとして認識を新たにしてもらいたいと思います。「真」は真実といえるかも知れません。偽物(贋物)ではなくて、本物志向でいきましょう。
 「真・善・美」は物事を見極めるときの「判断基準」と私は考えます。何かある物事を評価するとき、「真・善・美」の判断基準に照らし合わせて考えれば、見誤ることはないはずです。それは偽ではないか、悪ではないか、醜ではないかと厳しく吟味して、真なるもの、善なるもの、美なるものを見出すべきではないでしょうか。
 「仲よきことは美しき哉」(武者小路実篤)はよく目にする心あたたまる言葉です。
 「人類は進化の法則に従って動くが、その理想とするところは、真・善・美の極致に至ることである。日本人も人類の一部である以上、この理想の実現にあずかる使命をもっており、日本民族の特色を発揮することこそが使命の達成である」。この一節は「真善美日本人」(1891年三宅雪嶺)から引用しました。
 ヨーロッパの重要な価値観として、「真・善・美」があるという話は古代ギリシャ哲学の智慧を現代に伝えることとして、充分に共感できます。各宗教・各宗派の枠を外して、「真・善・美」を判断基準として、物事を見極めてゆけば、人類共通の道徳の目標が見えてくるはずです。

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3−5儒教の考え方

 孔子を祖とする儒教とは、人の道を説く学問だといわれています。つまり宗教のように、迷える魂の救済をめざすものではなく、人間はいかに生きるべきかという命題についての学問だといえるでしょう。インド哲学、ギリシャ哲学と並んで、中国哲学といってもよさそうに思いますが、あまり一般的には使われていないようです。漢の武帝(前141〜前87)の時代に儒教は国教となっていますので、人々の行動、国の政治の基本方針について規範となるものと考えられていたのでしょう。
 儒教には四書五経があります。
 四書には、大学、中庸、論語、孟子があります。
 五経には、易経、書経、詩経、礼記、春秋があります。
 四書五経を学ぶのを儒学といい、その先生を儒学者といいます。
 戦前の小学校の校庭には、二宮金次郎の負薪読書像が設置されていました。1910年岡崎雪声氏が制作し、彫刻家の松田裕康氏が複写・拡大したのが原型と伝えられています。その二宮金次郎が読んでいるのが「大学」でした。江戸時代には徳川幕府によって重用された儒学者によって、全国津々浦々にいたるまで儒学は広められました。読書百遍意おのずから通ずといって四書五経の漢文を素読するのが「読み・書き・そろばん」の読みの基本コースとなっていました。
「論語」に「十五志学、三十而立、四十不惑、五十知命、六十耳順、七十而従心所欲不踰矩」という文があります。
 「六十になって、自分と異なる説を聞いても抵抗を感じなくなり、素直に聞くことができる」というところが、  「ビューティフル」と思います。相手のいうことを先入観とか色眼鏡とか、損得勘定、優劣、自説への影響などもろもろの思惑をはずして、素直に聞くことができれば、内容もよくわかるし、相互信頼も増すでしょう。
 「七十になって、心の欲するままに自由に振舞っても、人の道を踏み外すようなことはない」はさすがに聖人にふさわしいと思います。
 中庸に「誠者天之道也誠之人之道也」(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)という言葉があります。人の歩むべき道つまり道徳の淵源を唯一絶対の神の意思ではなく、永久不変の天に求めています。
「天罰覿面」、「天網恢恢疎にして漏らさず」という諺が思い浮かびます。「天の意思」に道徳の基礎を置くことにより、唯一神教という宗教なしでも、充分に人の道を歩むことができると思います。
 中国の道徳は「五常」から成り立っているといわれています。
 「仁、義、礼、智、信」がそれです。
 仁 人間同志の認め合い、親和感、思いやり
 義 仁の実践における立場の認識(親子関係、夫婦関係)
 礼 対人関係の心づかいと方法
 智 人間として向上し、成長してゆく方向
 信 相互信頼                 「道徳・教育・宗教への断章」(井上真六)より
 儒学により人の道がわかったとして、その実行により、本当にわかったことになるのでしょう。「言行一致」といいます。頭の中の知識だけでは単なる物知りです。実行してこそ、はじめて人格を高め、人々から尊敬される人格者となるのでしょう。

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3−6仏教の戒律と教え

 大乗仏教には人の道を説いた十戒があります。
1. いのちを大切にし、殺さない・・・・・不殺生
2. 人のものを盗まない・・・・・不偸盗
3. 夫婦生活の道をはずさない・・・・・不邪淫
4. いいかげんなことをいわない・・・・・不妄話
5. お世辞をつかわない・・・・・不綺語
6. 人の悪口をいわない・・・・・不悪口
7. うそをつかない・・・・・不両舌
8. けちにならない・・・・・不慳貪
9.腹をたてない・・・・・不瞋恚
10.まちがったものの見方をしない・・・・・不邪見
 仏教では最初に原始仏教から正統派を自称する小乗仏教が形成されました。現在は東南アジアに伝えられています。この小乗仏教と現在中国、日本などに伝えられている大乗仏教では戒律について大きな相違点があります。大乗仏教は在家主義といって、普通の生活を営みながら、信仰することを建前としています。したがって、最初に示した十戒を見てもわかると思いますが、特別に厳しい戒律を設けていません。これに対して小乗仏教では出家中心主義、戒律至上主義といっても過言ではないほど厳しい戒律を定めています。もちろん全員が出家してしまうと、農業などの労働をする人口がなくなり、全員の生活ができなくなります。そこで出家グループは厳しい戒律を守りながら、人々の絶大な尊敬をあつめ、仏教の普及と感化に勤めるわけです。ただし一度出家しても、出家グループの戒律をどうしても守ることができない人は、もう一度俗世間に戻ることができるそうです。別のいいかたをすれば、厳しい戒律を守れる人は労働から離れて仏につかえ、厳しい戒律を守れない人は労働して、これらの出家者の生活を支えていくことになります。
 日本の仏教の戒律について考えてみましょう。
 日本に仏教が伝えられた当時は、密教としての要素が強く、「加持祈祷」が盛んに行われました。この行事をつかさどる僧侶は戒律が厳しく、世の中の人々から尊敬されていました。しかし世代交代が進むにつれて、僧侶でありながら、その戒律を破る者が多数派となり、「末法の世」といわれるようになりました。
その後、日本の仏教には新しく自力本願と他力本願の二つの流れが生まれました。自力本願とは、自分の精進、努力により「悟り」に近づくことをいいます。他力本願とは、仏の力にすがって救われることをいいます。
鎌倉時代に盛んになった禅寺は「葷酒山門に入るを許さず」といわれるように、イスラム教と同じように禁酒を厳格に守っているそうです。禅寺といえば座禅、座禅といえば禅寺というように切っても切り離せない関係にあります。只管打座(しかんたざ)といって、悟りを得、解脱するには、ただひたすら座禅すべきだといわれています。数々の厳しい戒律を守り、心身をととのえて、精神を統一すれば、解脱できるかといいますと、かなりむずかしいようです。除夜の鐘は百八つ鳴らしますが、数多くの煩悩が次々と湧き上がってきて、それとたたかうのは大変な苦労と思います。
 「きのうは悟りきょうは悟らず秋の暮れ」という達磨禅師の作といわれている句を思いだします。
 座禅を行い、自力を頼りに、現世において解脱を目指すのが、禅宗の自力本願だとします。これに対して、浄土宗の他力本願は阿弥陀仏の救済力という他力を頼りに、来世の極楽浄土往生に救いを求めることをいいます。
 「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という歎異抄に出てくる親鸞上人の言葉は究極の救いをあらわしているといわれています。世の中の「因果応報」も「勧善懲悪」も「積善の大きさ」もすべて無視して、まず悪人に救いの手をさしのべるのが仏の慈悲だと説いています。別のいいかたをすれば、善人、悪人の区別をせず、戒律を守ったか、守らなかったかには関係なく、ただひたすら阿弥陀仏の名を唱えた者が救われるということです。
 念仏とは別に宗派によって、唱題(南無妙法蓮華経)、称名などがあって、やはり一心不乱に唱えた人が救われるといわれています。
 日本では法華経から生まれたといわれている在家の観音信仰が盛んです。観音菩薩はさまざまに姿を変えて現れて、人々に現世利益を与えるといわれています。見たこともない来世のことよりも、まず現世でご利益があるといわれれば、とりあえずお参りに行ってこようとなるのではないでしょうか。
 「病は気から」と申します。悩みぬいてノイローゼになった人、精神的にパニック状態になった人が、素直に観音信仰に入れれば、平静な心になるかも知れません。精神安定剤として効くことがあれば、それはそれで、立派なご利益ではないでしょうか。「信ずる者は救われる」といわれています。延命十句観音経の中に「常楽我浄」という言葉があります。「永続的で、楽しく、他に拘束されることもなく、清らかに澄んだ心でいる」という意味かと思います。念仏三昧とは少し意味が違いますが、心の平静を得ることでは共通の概念だと考えます。
悔い改めて福音(聖書)をひもとく余裕もなく、只管打座の気力も残っていないところまで疲れ果てた人々がいます。人生に疲れ、刀折れ、矢つきた、精根尽き果てた人々が最後に頼って行く先は、念仏、唱題、称名の世界ではないでしょうか。念仏三昧に、いきなり飛び込むことができれば、これは立派な智慧の修行といえるでしょう。その人の歩んできた人生経験、人生観、宗教観、自尊心、教養などいくつもの障害があって、なかなか念仏三昧に飛び込むのはむずかしいかも知れません。しかし心の重荷に押しつぶされそうになったとき、その重荷を代わりに背負い、預かってくれる「人」がいるということは、まことに心強いことではないでしょうか。

 しかし社会的生活について考えると、善人、悪人の区別をせず、危機的状態に陥った個人を救済することと、住みよい社会にすることとは、かなり大きな隔たりがあるように考えます。人間社会の道徳の基礎は「最後の審判」の思想に見るような「勧善懲悪」ではないでしょうか。現実の世の中では悪がのさばることが多いように思われるけれども、決して永続きするものではありません。
「汚職は美しいか?」という言葉があります。私利私欲にふけり、汚職に走るのは、文字どおり汚れた行為です。品性下劣といわれないように、人格の向上につとめましょう。
大乗仏教の十戒を見直しましょう。

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3−7天国と地獄

 「地獄におちるぞ!」
 脅し文句として、さまざまな場面で使われています。ある時は契約不履行に対して、またある時は入信を拒んだ人に対して、そしてある時は恨みの一種の呪いとして用いられているようです。幼少の頃から地獄の恐ろしさについて繰り返し教えられ、しつけられた人には、かなりこたえるもののいいかたと思われます。このような感受性の高い人には、脅迫と同じダメージを与えることになるので、気をつけましょう。深刻な苦悩にさいなまれている人に、そのような言葉を浴びせかけるのは、さらに追い討ちをかけるようなもので、その罪は非常に重大だと思われます。
 では地獄に行くか、天国に行くか、判定するのは誰でしょうか。
 キリスト教でも、イスラム教でも「最後の審判」という思想があります。
 イスラム教ではこの世の終わりになると、人間はひとり残らず墓から出されて、死ぬ前と同じ姿になって復活します。復活した人間は神の前で審判を受け、天国行きか、地獄行きに判定されます。そのときの判定の基準はその人の生涯にわたって積み重ねてきた行いの善悪によります。キリスト教では死ぬ前と同じ姿とはいわないようですが、「最後の審判」の考え方はほとんど同じです。つまり、善い行いの人は天国に行くことが約束され、悪い行いの人は地獄におちることになっています。
 日本の仏教では極楽と地獄に分けています。地獄に行くか、極楽に行くか、閻魔大王が閻魔帳を見ながら判定するといわれています。この閻魔帳にはその人の行いがことごとく、事細かく記入されているので、言い逃れはできないといわれています。このように見てきますと、洋の東西を問わず、「善行を積んできた人には天国が用意されていて、悪行を重ねてきた人には地獄の苦しみが待ち受けていますよ」ということでしょう。もしかしたら、古今東西を問わず、善い行いの人には天国に行って欲しい、悪行のかずかずを重ねてきた憎いやつには地獄の苦しみをあじあわせてやりたいという人々の思いが込められているのかも知れません。
「天網恢恢疎にして漏らさず」、「天罰覿面」という言葉が連想されます。

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3−8勧善懲悪

 「水戸黄門」というテレビの時代劇があります。放映期間と充電期間を交互にとってはいますが、とにかく記録的なロングランとなり、根強い人気があります。筋立てはいたって単純明快で、勧善懲悪そのものといってよいでしょう。たとえていえば、悪代官と悪徳商人が結託して領民を苦しめています。そこに通りかかった水戸黄門ご一行が、悪人どもをやっつけて、善政に戻すというハッピーエンドの物語です。
 「懲悪而勧善」という言葉は中国の「左伝」にのっているそうです。仏教の因果応報の思想、キリスト教、イスラム教の「最後の審判」を念頭に置いた、積善の思想とも相通じるものがあると思います。
 古代ギリシャの哲学には「真善美」という究極の目標があって、「善」を最高の判断基準のひとつとしています。
 ところで、日本で最も親しまれている般若心経では「勧善懲悪」について、どのように説かれているか、ひととおり目を通してみましょう。「不増不減」、「不垢不浄」などはありますが、「不善不悪」という言葉はありません。色即是空といい、不生不滅といい、生もなければ、死もないのだ、と極限のもののいいかたをしています。しかし善とか悪とか社会生活の規範となるような共同生活の智慧については何も触れていません。別のいいかたをすれば、般若心経では個人の心の煩悩を絶つことを説いています。しかし住みよい社会をつくるにはどのようにしたらよいかというテーマについては次元が異なっているように思われます。この世の中で悪が蔓延することなく、善良な市民が安心して暮らしてゆけるようにするには、「勧善懲悪」が重要なキーワードだと思います。ただ単純な勧善懲悪の痛快時代劇にとどまらずに、人間社会の理想的な共通理念のようなイメージで、「勧善懲悪」をとらえてみてはいかがでしょうか。
 人間社会の共通規制として法律があります。憲法を基本として、各種法律があります。これらの法律の条文について、詳しく知っていることも必要だけれども、もっとも大事なのは「法の精神」を理解することだと、昔、授業で聞いたような気がします。この法の精神と相通ずるものとして、道徳があるように思います。住みよい社会を実現するには、道徳の尊重と実行がどうしても必要と考えます。社会的な高い評価の手段として「勧善」があり、社会的制裁の手段として「懲悪」があると考えます。「勧善懲悪」のもととなる善悪の区分の判断基準について、もっと話し合いましょう。より住みよい社会をつくるには、それを構成する人々の道徳性、品性を高めることが必要です。金銭第一主義、経済至上主義、弱肉強食主義、植民地・帝国主義などの自分たちさえよければ、何をやってもいいんだという我利我利にはしってはいけません。お金に目がくらんで狂奔するその姿はあさましく、決して美しくありません。もっとビューテイフルに生きましょう。

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