まえがき 第1章日本の道徳 第2章教育の変遷 第3章世界の宗教と道徳 第4章修行のすすめ あとがき
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第四章 修行のすすめ                                         
4−1 仏教の六波羅蜜(多)
4−2 「シンプルライフ」というキーワード
4−3 六修行 その1 愛の修行
4−4 六修行 その2 戒の修行
4−5 六修行 その3 耐の修行
4−6 六修行 その4 励の修行
4−7 六修行 その5 礼の修行
4−8 六修行 その6 智慧の修行
4−9 生涯学習と修業・修養・修行
4−10 澄んだ心と住みよい社会
4−11 シンプルライフで真善美
4−12 愛・戒・耐と励と礼と智慧
4−13 生涯修行 六修行
4−14 住みよい地球
4−1仏教の六波羅蜜(多)

 釈迦は豊かな王城から出て、6年あまりの期間、断食を主体とした難行苦行をしました。その後、座禅と瞑想により「悟り」を開きました。釈迦は弟子たちに教祖として、仏教を教えています。そのうち、最も重要な「悟り」に到るための実践行として「パーラーミッター」を説いています。「パーラーミッター」を漢訳すると「波羅蜜多」となります。この波羅蜜多は六つの要素によって構成されています。
 すなわち布施、持戒、忍辱(にんにく)、精進、禅定、智慧の六つの波羅蜜多です。それらのなかで最も重要な智慧波羅蜜多は般若波羅蜜多ともいいます。日本で一番親しまれている般若波羅蜜多心経は、この智慧波羅蜜多の教えを簡潔に説いています。
 薬師寺の高田好胤管長はさらにわかりやすく、
 「かたよらない心 こだわらない心 とらわれない心
   ひろく ひろく もっと広く
     これが般若心経の心なり」
と説明しています。
 簡単に六波羅蜜多(六つの実践行)を紹介しておきます。

1.布施行 食物、衣類、金銭等を寄付すること(財施) 仏教をひろめること(法施)
 人々の恐怖心をやわらげること(無畏施)
 四国遍路の人々に対して、沿道の人々が行う「お接待」も布施行といわれています。ただし教団等への寄付 の功徳を強調しすぎると、家庭崩壊などいろいろと支障をきたすことがあるようです。

2.持戒行 出家者には出家者としての非常に厳しい戒律があります。南方にひろまった小乗仏教(上座部仏 教)は、別名戒律仏教ともいわれていて、男性出家者には250戒があり、女性出家者には348戒あるそう  です。
 在家者にはたとえていえば、大乗仏教の十戒があります。

3.忍辱行 忍耐と同じような意味です。「一切有情の罵辱、撃打等及び非情の寒熱、飢渇等を忍受すること」 といわれています。もっとわかりやすく「他人からめいわくや侮辱を受けたとき、じっと耐えしのぶこと」(ひろさ ちや)ともいいます。「ならぬ堪忍、するが堪忍」といって、堪忍袋の緒が切れないように自重することが肝要 です。「がまんしなさい」というしつけの言葉をよく耳にします。

4.精進行 ひとの心には怠惰と臆病が巣をつくり、潜んでいるので、日頃の勇気と精進、努力によって、これ らの悪徳を克服しなければなりません。理性をはたらかせて、強い克己心によって自分の心をコントロール  することは、よりよき人生につながると思います。

5.禅定行 主として座禅によって、精神統一をはかり、煩悩を絶つことをいいます。物事をありのままに見て、 そのまま受け入れられれば、心の迷いや、苦悩はかなり軽減されることでしょう。「観自在」という言葉が連  想されます。

6.智慧行 般若波羅蜜多心経でかなり念入りに説かれているので、「空」の教えだということはよくわかると  思います。

 ところで実践行として実際の社会生活にどのようにとりいれ、実行すればよいと思いますか。布施によって物欲を捨て、持戒によって自らの行いを正し、忍辱によって争いを治め、精進によって積極的に行動し、禅定によってありのままに受け入れる。これら五つの実践行に支援されて、智慧行が完成するとみるのが妥当と考えます。いいかえると、他の五つの実践行によって智慧行は支援され、五つの実践行は智慧行によって統括されているのではないでしょうか。

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4−2「シンプルライフ」というキーワード

 「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を顕す 奢れる人も久しからず 只春の夜の夢のごとし、猛き人も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵におなじ」平家物語の冒頭の一節として、よく知られているところです。「もののあわれ」、「滅びゆくもののあわれ」というその無常観は胸せまるものがあります。日本の茶道の「わび」、「さび」もそのような「もののあわれ」と合い通じるものがあるように思われます。
 アメリカ文化の特色として、「アメリカンドリーム」、「サクセスストーリー」、「ハッピーエンドの物語」等の明るさをとりあげることができます。このような気風と「もののあわれ」とは物事の表裏の関係にあるように思われます。アメリカのようにまだ歴史の浅い国では、表面的な明るさが持てはやされ、数千年の古い歴史と伝統を継承する古い国では、栄枯盛衰の理(ことわり)に共感するのではないでしょうか。栄耀栄華を誇った平家の滅亡の物語は人々の心を無常観にさそい、般若心経の「色即是空」、「五蘊皆空」の思想が人々の心にしっくり合うように思います。
 ある大学の卒業式の挨拶で、「ふとった豚になるよりも、痩せたソクラテスになれ」という言葉があったそうです。あらゆる悪知恵をはたらかせて、策を弄して、金銭的に、経済的に優位に立ち、思う存分私腹を肥やして、贅沢三昧に暮らすべきではない。むしろさほど経済的に豊かにならなくとも、正義を貫き、真理を愛する立派な人生を目指してほしいという意味ではないかと考えます。
 「清く、貧しく、美しく」(庶民に生き続けてきた清貧の思想)が「清貧の思想」(1996年中野孝次著)にのっています。良寛の詩の一節に「僧伽は清貧を可とすべし」という言葉があって、「清貧」というキーワードが生まれたそうです。この「清貧」という言葉を素直に受け入れられる人もいれば、どうも語感がしっくりしないという人もいると思います。この本のなかで中野孝次氏は「外国で清貧の話をするとき、まず「清貧」という言葉について「自由でゆたかな内面生活をするためにあえて選んだシンプルライフと訳すことにしたと書いています。私は「清貧の生活」というよりも、「シンプルライフ」のほうがいいやすいと思います。ここではキーワードとして、「シンプルライフ」のほうを使わせていただきます。「少欲知足」といって、物質的な欲望、権力的な欲望もほどほどにして、中庸の精神を大切にしようとするのが、シンプルライフではないでしょうか。
 「ゆっくり行くものは、遠くまで行く」という諺があります。スローライフといってもよいと思います。安定したシンプルライフで人格を磨くのが、人生の指針と思います。拝金主義に走るとか、私利私欲にふけるとか、我利我利亡者になりさがるとか、金に目がくらんで悪事に手を染めるといったようなことは、シンプルライフとは正反対の考え方だと思います。
 「浮世離れした人」とか「世捨て人」という言葉がシンプルライフを目ざす人々に投げかけられるかも知れません。確かに兼好法師や鴨長明の生活は一般社会の仕組みから少し離れていたかも知れません。しかし、バブル景気がはじけて、社会が落ち着いてきた現在、「田舎暮らし」といって晴耕雨読の生活が、一種の羨望の目で見られるようになってきました。やっとバブル経済に踊っていた人々が本来の自覚をとり戻しつつあるような気がします。

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4−3六修行 その1 愛の修行

 「何事でも、人から自分にしてもらいたいと望むことを、ほかの人にもしてあげなさい」ということを黄金律といいます。別の表現としては「隣人を自分のように愛せよ」ともいいます。キリスト教の聖書にあります。儒教では人間どうしの認め合い、親しみ、思いやりのことを「仁」といいます。中国道徳の五常は仁、義、礼、智、信といって、仁をまず先頭に置いています。墨子は次のようにいっています。「人を愛し 人を利する者は 天必ず之にさいわいす」。では仏教ではどうかといいますと、六波羅蜜多の先頭にある「布施」がこれに相当します。
「惜しみなく布施する現世の浄土かな財施、法施、にボランテイア」 ボランテイア精神こそ愛の精神といっても過言ではないと思います。慈悲の心と愛の心は同じ心といってもよいでしょう。
 フランス革命の三つのスローガン「自由・平等・博愛」は封建社会を大改革する精神をあらわしています。その中の「博愛」も黄金律の愛と同じです。
 マルチン・ルータの宗教革命に対して、日本仏教の革命的変革は鎌倉仏教の出現ではないでしょうか。それまでの比叡山延暦寺に代表される密教系・貴族系の仏教から、鎌倉仏教として、末法の世の中を救うために禅宗、浄土宗、日蓮宗などいろいろの宗派がいっせいに導入され、誕生しました。
 この鎌倉を訪れる機会がありましたら、鎌倉大仏に立ち寄ってください。この大仏に向かって左側の木立の中に、1991年(平成3年)に建てられた赤御影石の石碑があります。1951年(昭和26年)サンフランシスコで開かれた対日講和会議で、日本に対する寛容と愛情を説き、賠償請求を放棄することを宣言したスリランカ国(当時セイロン)のジャヤワルデネ元大統領のメッセージが刻まれています。
 「Hatred ceases not by hatred but by love」
直訳すると、「憎しみは憎しみによって止まず 憎しみはただ愛によってのみ止む」でしょうか。なお蛇足ですが「cease fire」は「撃ち方止め」というように軍事用語として使われていたようです。報復、仇討ち、仕返しなど憎しみの連鎖を断ち切るのは愛の力、慈悲の力ではないでしょうか。
愛を語るとき必ず出てくるのが、キリスト教の新約聖書の有名な言葉です。すなわち
 「愛は寛容にして慈悲なり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を思わず、不義を喜ばずして、真理の喜ぶところを喜び、おおよそ事信じ、おおよそ事望み、おおよそ事耐うるなり」
 愛の修行は実践行ですから、知識として頭で理解するだけでなく、言行一致というように、実際に行われなければなりません。実践によってはじめて、修行を積むことができるのです。「一日一善」といいます。一日のうちに何かひとつでも、小さな親切運動でもよいから、他人のためになる、社会のためになる善いことをしてみましょう。自分の修行になるし、住みよい社会のために貢献することになります。

 「愛は慈悲なり して欲しい ことを他人に するが愛」

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4−4六修行 その2 戒の修行

 「なぜ人を殺してはいけないんですか」と突然、少年に聞かれたら、あなたならどのように答えますか。「なぜ人を殺してはいけないのか−新しい倫理学のために−」(小浜逸郎)では「共同社会の成員が相互に共存を図るためにこそ必要なのだという平凡な結論に到達する」と説明しています。
 戦前ならば、「なぜ人を殺してはいけないんですか」と人に聞くことは、自分の無知と両親のしつけのなさ、自分の教養の低さを公衆の面前に暴露するようなものだったと思います。そのような質問は大変恥ずかしいこととして自覚していたことでしょう。しかし現代のおとなたちはなんとか少年にわからせるために、各種回答を用意しています。宗教者は自分の属する宗教上の根拠を示して戒律を説明するでしょう。進歩的文化人は他人の痛みに思いをいたせというでしょう。ただし「小学校の道徳の授業で繰り返し教えているとおり、人を殺してはいけないのだ、忘れたのならば、もう一度教科書を開いて見なさい」という声はあまり聞こえてこないようです。
 キリスト教徒にはキリスト教の戒律があります。イスラム教徒にはコーランの戒律があります。仏教徒には仏教の戒律があります。それでは無宗教の人々にはどのような戒律があると思いますか。無宗教の人は何をやっても、心にやましいことはないのでしょうか。
 刑法では殺人罪があって、その人の宗教に関係なく、すべての人々に対して、人殺しについて歯止めをかけています。しかしなぜ人を殺してはいけないのかという質問に対しては、少し長くなりますが、法の精神を説明する必要があると思います。
 数千年という長期間にわたって、人類が生き抜いてきた社会生活・共同生活には、おのずから基本的なルールが出来上がってきたと考えます。いろいろな宗教の戒律はそれぞれの宗教から見た人類の共同生活の智慧といえるかも知れません。つまり人々が仲良く平和に暮らしてゆくには、最低限として法律を守らなければなりません。そして宗教、宗派の違いを超えて、共通社会の戒律をつくる必要があります。信心の厚い人も、無宗教の人あるいはそれに近い人も、共通の戒律(道徳律)を守ることによって、安心して、おだやかに暮らすことができると思います。私たちは宇宙船地球号の乗組員として、たまたま乗り合わせたようなものです。各宗教、無宗教の人々はお互いに相手の存在を認め合い、共通ルール(戒律)を決めて、平和共存を実現したいものです。
 私利私欲にふけることなく、相手の立場に立って物事を見て、判断するだけの智慧を得、それを実践することが大切です。
 戒律というと、何か教会とか、寺院に特有のもので、われわれには関係がないと思う人がいるかも知れません。しかし共通の戒律(道徳律)は人類の数千年にわたる智慧の尊い結晶ではないでしょうか。

「戒律は 人間社会の 基本のルール 殺さず 奪わず 傷つけず」

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4−5六修行 その3 耐の修行

 「忍耐不足をたとえていえば、ブレーキ故障の欠陥車 行方も知らぬ事故の道かな」
 ブレーキの効きの悪い、またはときどき効かなくなる欠陥車と同じように、すぐにカーツと頭に血がのぼる人がいます。そうなると何をしでかすのか、本人にもよくわかっていないのではないかと思われます。前後の見さかいもなく、他人の痛みを感じるどころか、自分を侮辱した相手に対する憎しみで目がくらみ、われを忘れて暴力行為に及ぶのだと思います。はっと気がついたときには、自分が殴った相手が倒れていた、というほうがあたっているかも知れません。
 公共図書館内で仲間うちで騒いでいて、注意した人にうらみをいだき、公園で殴り殺した、という中学生の話があります。電車の中でちょっと注意した人をプラットホームで殴り殺した若者がいました。自分の思いどおりに動かない随行公務員を恫喝し、顔を殴って一週間の傷を負わせた国会議員がいた、という話があります。このような話を聞く度に、これらの人々は「まだ修行が足りない」のではないかと思います。
 「ならぬ堪忍、するが堪忍」・・・・とても我慢できないようなひどい仕打ちを受け、もう堪忍できないと思ったとき、これに耐えるのが本当の堪忍なのだといわれています。
 「やわ肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君」(与謝野晶子)を見ると、人の歩むべき道の厳しさと、なま身の熱い情念に、いささかたじろぐ感じがします。
 贈収賄罪、公金横領罪などいろいろな法律の規制があるにもかかわらず、相変わらずこのような事犯が新聞、テレビなどをにぎわしています。公金を横領して何をしたかといえば、競走馬の馬主になって自分の趣味を満たしていたという話がありました。自分の勝手に使えそうな公金の誘惑に負けて、つい手が出てしまったのかも知れません。「忍」と「耐」、どちらでも結構ですが、瞬間湯沸し器のようにすぐに沸騰しないのが、人物の大きさかも知れません。
 「耐」の修行は克己心の修行ともいえるでしょう。
 侮辱に耐える、嘲りに耐える、食欲に耐える、色欲に耐える、誘惑に耐える、金銭的誘惑に耐える
 怒りの衝動に耐える、暴力を振るいたい衝動に耐える、いじめたい、嘲りたいという悪のささやきに耐える

「侮辱・誘惑 艱難辛苦 耐えて忍んで 自己を磨く」

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4−6六修行 その4 励の修行

 「あの時、こうしていれば・・・・・」と後から、悔やむことが多いものです。なぜその時にそれができなかったのか、よく考えてみましょう。
1. 決断がつかなかった。そのうちにしようと思っていた。
2. 判断がつかず迷っていた。相談相手が見つからなかった。
3. 実行するだけの勇気がなかった。
4. 臆病風に吹かれていた。なんとなくある種の恐怖心に怯えていた。
5. なんとなく気が進まなかった。意思が弱かった。
6. 気が滅入っていて、マイナス思考に偏っていて、プラス思考ができなかった。
7. 目標のイメージがまとまらなかった。
8. 他人を説得するだけの自信がなかった。
9. パニック状態になっていて、正常な判断がつかなかった
数え挙げれば、かなり多くの原因というか、言い訳というか、とにかくできなかった理由がありそうです。だからできないのだ、だからやらないのだといっても、それは単なる自己弁護にすぎません。むかしの上司から云われた言葉を今でもときどき思いだします。
 「よく見、よく聞き、よく考えよ、やるときは思い切ってやれ」
 落ち着いて、パニック状態に陥ることなく、冷静によく事態を正視すること、あらゆる情報をすばやく受け取り、他人の意見もよく聞くこと、その上で自分の頭でよく考えて、しっかりした結論を出すこと、そしてやると決まったときは、強い意志と絶大な勇気を持って、チャンスの瞬間をとらえて、全力で遂行すること。一番悪いのは、やりかかってからまだ迷って右往左往することです。「後悔先に立たず」といいます。チャンスには後ろ髪がないともいいますので、やるときは思い切って遂行しましょう。
 「継続は力なり」
 「点滴岩をも穿つ」
といって精進、努力を継続することが大切です。そのような一貫した行動の積み重ねがあってこそ、生きがいのある人生を獲得し、人格を向上させることができます。
 明治時代初期のベストセラーとして「西国立志編」(サミュエル・スマイルズ)があります。彼は勇気について次のように述べています。「人間社会において最高の秩序を特徴づけるのは、真理を求めてそれを発表する勇気、公平な判断を下す勇気、誘惑を退ける勇気、そして義務(使命)を遂行する勇気などに代表される精神的な勇気である」
 文系では励起という言葉をあまり使わないようですが、理系ではエキサイテイションの意味で使われています。エキサイトするといえば、興奮することをいうようですが、何か事をなそうとしたならば、精神的エネルギーレベルを押し上げて、やる気を起こし、元気をつけ、士気を高揚させ、やればできるのだ、やり遂げるのだ、と自分に強く言い聞かせ、気持ちを奮い立たせましょう。励の修行を積み重ねて、充実したやりがいのある生涯をつくりましょう。

 「意思と勇気を 友として 奮励努力 日々の精進」

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4−7六修行 その5 礼の修行

 「親しき仲にも礼儀あり」といわれています。対人関係の心使いと具体的な行いの重要性について強調していると思います。「以心伝心」といって言葉で伝えなくとも、心と心が通じ合えばよいのだ、という意見があります。しかしそういうことができるのは、ごく親しい少人数の人との関係に限定されるのではないでしょうか。
 欧米では夫婦でも、日常会話の中で「I love you」と繰り返し、繰り返し口に出していい、互いに愛を確認し合うそうです。日本ではまだそこまで発展していないようですが、せめて言葉の端々とか、さりげない心使いが欲しいものです。
 もう少し交際の範囲を拡げ、社会生活を営んでいくとき、すぐに相手に対するつきあいかたを考えなければなりません。それが国際社会を考慮した場合は、当然育ってきた精神的風土が異なり、生活習慣も異種のものになります。食事のマナーをとりあげてみても、茶碗を持って食べる国があり、茶碗を持ってたべてはいけない国があります。行儀作法はそれぞれの民族が長年かかって培ってきた固有の伝統文化ですから、それをさらに洗練されたものとして次の世代に大切に引き継いでいってほしいと思います。マナーの違いにいちいち目くじらを立てずに「伝統文化」なのだと自分に言い聞かせましょう。中国道徳には五常といって五つの重要なテーマがあります。「仁、義、礼、智、信」がそれです。礼の実践では相手に対するあたたかい心づかいを持ち、行動にそれが現れなくてはなりません。異文化については行儀作法の違いを充分に理解し、心づかいを尊重したいと思います。
 「礼に始まり、礼に終わる」という言葉を聞いたことがあると思います。たとえば柔道の国際試合のとき、二人の選手はコートの両端で互いに一礼してから試合を開始します。たとえどんなに激しい試合内容でも、終わればまた元の両端の位置に戻って一礼して、試合が終了します。柔道、剣道、書道、茶道、華道といっていずれも「道」がついています。この「道」には「人を導く」、「人格の陶冶」という意味が含まれているそうです。相手の人格と立場を思いやり、それを具体的に態度で示すのが、「礼の修行」ではないでしょうか。
 「メンツ」という言葉を聞いたことがあると思います。中国語も日本語も「面子」と書きます。人と人、国家と国家の交際の中で、意外にむずかしいのが、このメンツの問題ではないかと考えます。他人または他国のメンツを立てる。自分たちのメンツ丸つぶれ、というようないいかたもあります。辱めを受けたとき、尊厳を冒涜されたと感じたとき、このようなとき、名を惜しむ人々は、怒りの気持ちを抑えるのに苦労すると思います。国と国の間で紛争が発生して、それが国辱的事件として、騒ぎが異常に盛り上がり、国際的緊張が一気に高まることがあります。意地の張り合いから互いに一歩も譲らず、議論が過熱することがあります。そうなると日本の国際連盟脱退当時の急進派リーダー内田康哉外相のような「焦土となるまで、生命を賭して戦う」という過激なアジ演説が横行することになります。まことに由々しき一大事といわなければなりません。メンツにこだわった集団的自殺行為のようなものです。人道的にも、世界の平和どころか、外交も、戦略も、シミュレーションも、先の見通しもなく、事を起こしたあとの収拾方法とタイミング、前後の見さかいもなく、ただメンツにこだわって大戦争に突入するのはまことに人類の不幸です。このような不幸な事件にしないために、常日頃から養っておかなければならないのが、「互譲の精神」ではないでしょうか。相手の立場を理解し、互いに相手の立場に立って考えることができれば、紛争は軽減できると考えます。「礼」を重んじる心があれば、国際連盟リットン調査団への日本側の対応がもう少し変わっていたかも知れません。相手の身になって考え、それを形に表すのが  「礼」の基本と考えます。
 混んだ道を歩いていれば、肩が当たることもあります。混んだ車内で他人の足をふんでしまうこともあるでしょう。まずひと言、わびをいいましょう。自分は絶対に悪くないのだ、電車が揺れるからいけないのだ、後ろの人たちが押したからこうなったのだ、と自己弁護に終始しては、相手に対して失礼ではないでしょうか。

 「礼の基本は 相互の尊重 かたちで入り 心に到る」

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4−8六修行 その6 智慧の修行

 六修行の六つ目、最後に登場するのが智慧の修行です。
 知恵者とか、知恵の輪、生活の知恵のように、やや軽い意味のときは「知恵」と書きます。ここでは、ある意味では宗教的な、またある意味では哲学的な意味合いを持たせて、「智慧」と書きます。
 ソロモンの箴言には「智慧は第一なるものなり、智慧をえよ、すべての汝の得た物をもて、さとりをえよ」と書かれています。仏教では六波羅蜜多の六番目には智慧(般若)波羅蜜多があって「色即是空」の「空」の思想によってすべての煩悩から解脱できると説いています。
 個人的には百八つに余る多数の煩悩に苦しみながら、さとりの境地にはほど遠くとも、せめて安らかな心、おだやかな心、澄んだ心を得たいと思っています。禅宗では「只管打座」といってただひたすら座禅することによって、迷いを打破し、智慧とさとりを得る伝統的な方法があります。昔ある僧が老齢のため座禅の結跏ができなくなったとき、膝関節を折って結跏し、座禅を続けたという話があります。出家し、長年の修行を積んできた人だからこそ、座禅にこだわったのかも知れません。プロ級の上級者は「只管打座」、一般の初級者は写経、ときどき座禅、体調不良のときは、仰臥禅ではないでしょうか。白陰禅師の「内観の法」、呼吸をととのえ「気」をコントロールする気功法等々、気を静め、平常心をとり戻す方法がいろいろとありますので、智慧の修行のひとつとして、試みてはいかがですか。詳しくはそれぞれ専門書をご覧になって自分に適した修行をしてみてください。
 荒れ狂う気持ちを落ち着かせるには、これまでの日常生活から離れて、四国遍路の旅に出るのもひとつの修行かと思います。それほど重症ではないときには、般若心経の写経がよいといわれています。精神を集中しないと字が乱れますので、雑念、妄想を振り払って、般若心経の世界に入り、一心不乱に筆を運べば、そこにはさとりに近い落ち着いた心境を感じられると思います。写経は立派な智慧の修行ではないでしょうか。

 しかし人生に疲れ果て、刀折れ矢尽きた、精根尽き果てた人に、自力本願の修行をしなさいというのは、少し酷な話と思います。すでにそこまで行き着いてしまった人には「称名による帰依」という最終的な救いがありますので、思い切って飛び込むのがよいのではないでしょうか。これまでの精神生活から思い切ってジャンプするのも、智慧の修行のひとつではないでしょうか。「念仏三昧」という状態になれば、個人としての精神的安定になると思います。
 幸いにして、回復してきたら、社会とのかかわりを少しずつ増やしていけばよいでしょう。
 ソロモンの箴言の「智慧をえよ、さとりをえよ」という言葉の意味について考えてみましょう。智慧を得、さとりを得たらどんなことが生じると思いますか。
 物事の真理がわかるのではないでしょうか。本物か偽物か、善か悪か、美しいか醜いか、過去、現在から未来に到る、真実相が見えてくるかも知れません。私利私欲、我執にとらわれていたら、とても見えないものが、「観自在」の洞察力によってはっきり見えてくるでしょう。これは別の言葉でいえば、「先見の明」、先が見える人になれるということでしょう。物事の成り行き、将来への展望、予測の確かな智慧は右往左往した混乱と争いを静め、協力し合う平和な、住みよい社会を実現するでしょう。

 「智慧とさとりは この世の光 迷わず進め 人の道」

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4−9生涯学習と修業、修養、修行

 生涯学習(life long education)という言葉を見たり、聞いたりしたことがあると思います。1990年の中教審第4次答申「生涯学習の基盤整備について」によって、各都道府県に生涯学習センターが設置されました。地元の市役所などの自治体に生涯学習課がある例が多いと思います。
 各地のコミュニテイセンターを中心として、各種教養講座、サークル活動が運営されています。子育てのすんだ人、定年後の自由時間を手にした人々がそれぞれの趣味に合った楽しい時間を過ごしていると思います。  でもどちらかというと、男性群よりも女性群のほうが集まりがよく、和気あいあいと、まとまりがよいように見受けられます。男性も一匹狼を気取ってないで、もうすこし仲間を作ったほうがよいと思いますが、DNAからいってむずかしいのでしょうか。
 「論語」の為政編にのっているそうです。
「吾十有五にして学に志し、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず」
 世界の聖人といわれている孔子でさえも、七十歳にしてはじめて、心の欲するままに振舞っても、道徳律を踏み外すことはなかったというのです。私たちが数多くの煩悩に迷うのも無理からぬことと考えます。
 「自己中心的な人」は、いつも「これはおもしろいだろうか」と考えて、それを判断基準として行動しているように見受けられます。ある種の愉快犯は騒ぎが大きければ大きいほど、おもしろいと感じるのでしょうか。おもしろさのためならば、他人が傷つき、場合によっては死んでもよいと思っているのでしょうか。騒ぎが大きくなればテレビに出られるという考えから、ドでかい事件を起こして、世間をあっといわせることが生きがいとなっているのでしょうか。特に挫折感に打ちのめされて、世の中に失望し、夢も希望も、大切な誇りも、自尊心も、全部喪失してしまった若者には、刹那的なおもしろさしか残っていないのでしょうか。自分のしたい事をのびのびと自由にするのが、戦後の教育方針とすれば、それはブレーキの効かないクルマを若者たちに与えるようなものではないでしょうか。
 「虎は死んで皮を残し、人は死んで名を残す」といわれています。儒教的表現によれば、このときの名を後世に残すということは、立派な家名に恥じない名誉ある実績を歴史に残すという意味です。決して重大事件の犯人として事件簿に名を連ね、悪名を後世に残すという意味ではないはずです。

 「修業」という言葉があります。何か技術を身につけることを修業といいます。業(わざ)を磨く、業を極めるといって、テクニックを主体としたトレーニングが重視されています。人間国宝として最高の名誉を与えられている人々は、若いときから晩年に到るまで、営々として修業を積んでこられたことと推察します。このような場合は生涯学習ではなくて、生涯修業といえるかも知れません。その道における最高の業を作品に残しているということは、精神的にも一流の境地に到達していることでしょう。

 「修養」という言葉があります。「修養のすすめ」(川上源太郎)に次のようなことが書いてあります。「人格を高め、人生の意味を深める努力を修養とよんでいる。この修養こそ今の日本の家庭に最も欠けているものだ。そして最も必要なものだ、家庭こそ「修養」の場なのだ。家庭教育の中心は親の子供に対する躾だ。しかしそれは子供にだけ努力と忍耐を押し付けてもはじまらない。家庭の中に親子ともども修養にはげむ姿勢がなければ、子供は親の注意や指導に決して耳をかたむけないだろう。そして修養の道は最後には信仰にたどりつくだろう。」

 私の個人的見解としては、人格と品性を高め、生きがいを求める修養の道は、最終的には、宗教的・哲学的理念にたどりつき、それを修行というのだと考えます。「ローマは一日にして成らず」といいます。修行の道は決して平坦な安易な道ではなく、時として人々は奈落の底につき落とされたような絶望感におちいることもあるでしょう。しかし長い人生にはいろいろなことがあります。「好事魔多し」といいます。好調のときにも有頂天になることなく、絶体絶命のピンチにも冷静に対処すればやがて春がめぐってきます。「日はまた昇る」、
「明日は明日の風が吹く」と映画の題名のような言葉がつづきますが、「人事を尽くして天命を待つ」の心構えが大切かと考えます。天寿を全うするまで修行に励みましょう。
 いたずらに金銭や地位を追い求めず、名誉に固執せず、シンプルライフで、真善美を尊重しましょう。六修行 (愛・戒・耐・励・礼・智慧の修行)によって人格を高め、心の迷いを治め、澄んだ心にしましょう。思いやりのある澄んだ心の人々の集まりから、よりよい智慧が生まれて、住みよい社会を実現することができるでしょう。その新しい波は民族紛争の火種を消し、宗教戦争を沈静化させ、南北対立をやわらげ、地球汚染を軽減化し、住みよい宇宙船地球号となるでしょう。

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4−10澄んだ心と住みよい社会

 大晦日の除夜の鐘を聞くと必ず思い出すのが、百八つあるという煩悩、心の迷いではないでしょうか。釈迦のように悟りの道を極めた人、煩悩から解脱した人、解脱したと自分で思い込んだ人、いろいろな人たちが悟りを得よう、智慧を得ようと努力しているけれども、なかなかその境地に達するのはむずかしいようです。
「きのうは悟り、きょうは悟らず、秋の暮れ」という句があります。一時期、悟りまたは解脱したと思っても、しばらく時間が経つと、また煩悩に満ちた生活に戻ってしまうのが、現実のすがたではないでしょうか。
 それでは究極の智慧と悟りの境地は無理としても、せめて「澄んだ心」に到達できないでしょうか。ひろびろと澄み切った青空のような、一点のくもりもない晴れやかな心になる方法はないのだろうかという課題が考えられます。煩悩を完全に消去するのではありません。人間がもっている色々な煩悩を直視して、これを出発点にしましょう。心の中で渦巻く様々の欲望、払っても、払ってもまた湧いてくる心の迷いを沈静化しましょう。只管打座といって座禅によって心を落ち着かせる人々がいます。称名・念仏によって仏に全面的に帰依し、すべてを、死さえも安心して任せられる人々がいます。すべての出来事は唯一絶対の神の思し召しと信じて疑わない人々がいます。神に愛されることを理想としている人々もいます。信心心が確立し、不動の心を持った人々は多分煩悩とは無縁でしょう。幸せなことです。
 しかしそれ以外の多くの人々に申し上げたいと思います。心に迷いの黒雲、煩悩の暗雲がひろがってきたら、「澄んだ心」を思い出しましょう。六修行(愛の修行、戒の修行、耐の修行、励の修行、礼の修行、智慧の修行)を思い出しましょう。心の迷い、煩悩はまだ修行が足りない証拠ではないでしょうか。「日暮れて、道遠し」といいますが、「明日また陽は昇る」です。

 「澄んだ心」は確かに精神衛生上、非常に重要なことです。しかし人間社会の基本的なルールを考えてみますと、「澄んだ心」だけでは不充分のように思われます。「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という慈悲深い言葉を曲解して、「悪人のほうが善人よりも優先して救われるのだ、早く救われたかったら悪人になれ」、といって悪行をする言い訳にした時期があったそうです。人間社会の理想像は「住みよい社会」のひと言につきるのではないでしょうか。そこでは防衛線(生命線)の衝突による国際紛争、宗教紛争をからませた資源争奪戦争、テロ事件もなくて、平和な共存共栄の世界が実現することでしょう。そこでは国家の名誉、メンツにかけて、宿敵を抹殺しようと、科学の粋を凝らした大量殺戮兵器を使用することは、もうないでしょう。個人も国家も修行は同じです。たとえ宗教が異なっても、民族が違っても、同じ宇宙船地球号の乗組員として住みよい社会をつくり上げましょう。

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4−11シンプルライフで真善美

 昔、ある国の皇太子がお后選びの条件について聞かれたとき、「同じような価値観を持った人」と答えたそうです。同じ価値観、同じ行動規範、同じモラル・生活信条を持つことは非常に重要なことではないでしょうか。そこでは性格の不一致は生じないでしょう。
ある大学の卒業式の挨拶に「ふとった豚になるよりも、やせたソクラテスになれ」という言葉があったそうです。これらを書きつらねてみると、ものごとの判断基準として、古代ギリシャでいわれた「真善美」が思い出されます。人生の究極の目標とまでいわれている、この言葉については、各人各様の解釈がされているように見受けられます。バブル経済の最盛期には、各地に美術館を建設し、世界中から高価な美術品を買い集めることが流行りました。この美術品の美と「真善美」の美と混同している傾向がごく一部ですが見受けられます。この真善美の美はむしろ、人の行為に対する「ビューテイフル」という賞賛の言葉のほうがより近いと考えます。  「仲よきことは美しき哉」(武者小路実篤)と日本でも有名な言葉があります。
 「美」の反対は「醜」。目的のためには手段を選ばず、どんな汚いやりかたでも、ゴリ押しで相手をやっつけるのが、世に言うところの「やり手」なのでしょう。世に言うサクセスストーリーの裏には、その他大勢の人々の悲哀が隠されていると思います。「ヴェニスの商人」では厳しい借金の取り立てが書かれています。イスラム教のコーランには、利子を取ってはいけないと書かれているそうです。それも一理あると考えます。人の弱みにつけこんでぼろいもうけをするのは、法律には触れないかも知れないけれども、儲け過ぎないようにして欲しいと思います。
 地上げ、土地ころがしで大儲けをすることが、もてはやされたことがありました。不動産関係の会社だけでなく、われもわれもと、銀行までひっくるめて、日本中がバブル経済に浮かれた時期がありました。その後バブルがはじけて、冷酷なリストラ旋風が吹き荒れています。「・・・猛き者も遂には亡びぬ、偏に風の前の塵に同じ。」平家物語の冒頭の一節が思い出されます。
 もしお金が儲かったら、金持ちになったら、高級住宅を買う、高級車を買う、クルーザーを購入して乗り回す。豪華客船で世界一周の旅に出るというようなことをしても、人情の常として、直に飽きてしまうのがオチではないでしょうか。真に心から満たされる思い、生きがいは、むしろ平凡な日常生活の中にこそ見出されるものと考えます。嘘・偽りのない、騙し合いのない、相互の信頼感のある、心あたたまる人間関係にこそ幸せは訪れてくるのではないでしょうか。
 最近「田舎暮らし」といって、大都会の喧騒から離れて、豊かな自然に囲まれて、自然を相手として、作物の手入れでもしながら、落ち着いた生活を楽しむことが話題となっています。昔ながらの「晴耕雨読」かも知れません。その生活ぶりはまことにシンプルであり、質素であり、それでいて心からの満足感があることでしょう。 「浮世離れ」とか「世捨て人」とか世間の人は色々というでしょうが、言わせて置きましょう。シンプルライフであれば、金銭的にまつわるトラブルからも離れ、権力争いからも遠ざかり、「まとも(真)に生き、善人として暮らし、美しい人間関係を保つ」ことができると思います。
 朝日新聞(2002,9,1)に、豊かさ、「物」より「心」という記事がありましたので、その一部分を引用いたします。
「物の豊かさ」よりも「心の豊かさ」を重視する人が60.7%いることが、内閣府の「国民生活に関する世論調査」でわかった。80年代に入ってから「心の豊かさ」を求める傾向は年々高まっており、今回は前回調査より約4ポイント増えて過去最高に。一方「物の豊かさ」は前回より約2ポイント減の27.4%で過去最低だった。
この世論調査の結果を真摯に受け止めましょう。「物の豊かさ」の経済発展よりも、「心の豊かさ」の行き届いたシンプルライフで、真善美に生きがいを感じる、住みよい社会にしましょう。
「吾唯足知」という漢字の組み合わせ図案があります。このような「足ることを知る」という心の境地は難行苦行とか荒行とか、幻覚を覚えるような「特殊な行」によってのみ得られるとは思いません。六修行によって人格を磨きましょう。
「真善美」という古代ギリシャの最高の判断基準を大切にし、その価値観を共有し、少欲知足のシンプルライフを心がけましょう。

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4−12愛・戒・耐と励と礼と智慧

 「澄んだ心と住みよい社会」、「シンプルライフで真善美」は寝て待っていれば、自然に届けられるようなものではありません。そこまで到達するには、それなりの修行が必要です。仏教の修行、カトリック修道院の厳しい生活、イスラム教徒の日々決められた礼拝、戒律、断食月や巡礼、神道の禊など各宗教によってそれぞれ方法があるようです。そして共通するのは、一般の人々が目指し、宗教者が模範となるような、高度の人格者となることではないでしょうか。難行苦行も断食行も山岳回峰などの荒行も宗教上の立派な修行と考えます。ともすれば低俗に流れそうになる精神を鍛錬する方法としての実践行といえるかも知れません。
人格者とはどんな人のことをいうのでしょうか。

1. 愛の人。他人にやさしい人は博愛の精神に富んでいて、その人がいるだけで、その場がなごやかになると思います。ボランテイア精神によって、各種ボランテイラ活動をしていることでしょう。尊敬します。

2. 耐の人。人はただひとりでは生きて行けません。必ず人間社会の一員として生活してゆくわけです。その社会には基本のルールがあって、それによって社会秩序が保たれて、安心して暮らしてゆけます。もしも各人が勝手気ままに行動しては、世の中に争いごとが絶えないでしょう。殺してはいけません。他人のものを奪ってはいけません。ぶん殴ってはいけません。刃物で傷つけてはいけません。それらのほかに、他人をおとしいれるための中傷や偽証もいけません。法律に反しないことは勿論のこと、戒律、道徳律を厳守するひとが人格者でしょう。

3. 戒の人。克己心という言葉を聞いたことがあると思います。セルフコントロールともいいます。自分の心にふと湧いてくる欲望、他人から加えられる故なき侮辱、なんとなくあやしげな誘惑、自然の過酷な猛威など数え上げれば、きりのないくらい多くの外乱が渦巻いています。これらにいちいち振り回されていては、自己を見失ってしまいます。人々から尊敬されるような人格者となるには、耐えて、忍んで、自己を磨くことが必要です。他律ではなく、自律してゆきましょう。おのれの怠け心、誘惑にふらつく心、カーッとして頭にきた憤怒の心をコントロールしましょう。

4.励の人。「意思あるところ道あり」といいます。頭ではわかっていてもなかなか実行するのはむずかしいものです。まず強い意志と勇気をもって、実行しましょう。日々の精進、奮励努力によって、悔いのない有意義な、生きがいのある人生を全うしましょう。

5.礼の人。「親しき仲にも礼儀あり」といいます。家庭内暴力のような、昔は表に出なかったような内輪のことが、世間を騒がせるような規模にまで発展し、傷害罪となるような時勢になったことはまことに嘆かわしい限りです。相手の人権を尊重すれば、家庭内暴力のようなことは起こらないはずです。道を歩いていて、肩が触れた、当たったといって口論となり、殴り合いの喧嘩から、ついに殺人事件に発展することがあります。その場合、肩が当たったとき、両者がすぐにあやまれば、事はそれほど発展しないはずです。すぐ素直にあやまるのが礼儀の第一歩と思います。100%相手側の過失であると、強硬に主張し、自分たちの過失は絶対にあり得ないと頑張れば、まとまる話もこわれてしまいます。
 別に小笠原流の礼儀作法についてとやかくいうつもりはありません。各国、各民族の伝統文化を互いに尊重するように心がけることがたいせつだと思います。相手の固有の伝統文化を理解することが、礼義のはじまりだはないでしょうか。スープをすする音が気になる人が同席したときは、なるべく音を立てないように気をつけましょう。食器を持つ人、持たない人、それぞれのマナーで食べればよいと思います。それが伝統文化なのですから、ただ食べ方にそれなりの気品が感じられれば、礼にかなっていると思います。
交際費に分不相応の無理をするのは、シンプルライフの趣旨に反しますので、ほどほどに失礼のない程度にしたらいかがでしょうか。折々の便りにシンプルライフを宣伝しておけば、きっとわかってくれるはずです。失礼にはならないと思います。 「挨拶と 態度で示す 礼の修行」

6.智慧の人。智慧と悟りを得るためならば、これまで得たすべての貯蓄をはたいても惜しくはないといわれています。といっても、すべての貯蓄をどこかの宗教団体に献金したら、直ちに智慧と悟りが得られるわけではありません。その献金は六波羅蜜多の布施行に相当するでしょうが、智慧の修行とはまだかなり距離があると考えます。「欲に目がくらんで・・・」とよくいいますが、煩悩の大部分は個人または集団の私利私欲が原因ではないでしょうか。「少欲知足」といって、欲を少なくして、足ることを知るようになれれば、観自在の目、先見の明を得て、将来の予測にすぐれた才能を発揮し、智慧の人に近づくでしょう。
 来世とか最後の審判とかいわずに、この現世において、澄んだ心を得て、住みよい社会に貢献する、智慧と悟りの修行の道があると考えます。

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4−13生涯修行 六修行

 幼児期の家庭におけるしつけ、小中学校の道徳教育はあるとして、それからあとはどうなるのでしょうか。  「世間の目を気にしながら、まあ適当に、気ままにいたせ」では日本の道徳の荒廃はますますひどくなってゆくと思います。子どもは親の背中を見て育つといわれています。その親の世代が戦後50年の道徳教育欠如の結果として、現在のような保険金殺人事件の頻発に代表されるような、「金のためならば、手段を選ばず」では困ったものです。
 人は灰になるまで、色気が抜けないようなので、灰になるまで修行の道を歩むことが必要なのだと思います。生涯学習の中に生涯修行を位置づけて、六修行に励みましょう。そして生きがいのある、有意義な人生にしましょう。
 六修行により、智慧を得て、澄んだ心、ひろい豊かな心になるでしょう。真善美を最高の判断基準として、シンプルライフを楽しみましょう。「物の豊かさ」よりも「心の豊かさ」です。
 国家・民族・宗教の枠を超えた、人類共通の道徳がきっとあるはずです。話し合いの輪をひろげましょう。

 「六修行により 澄んだ心となり 住みよい社会に 貢献しましょう」

愛は慈悲なり して欲しい ことを他人に するが愛
戒律は 人間社会の 基本のルール 殺さず奪わず 傷つけず
侮辱・誘惑 艱難辛苦 耐えて忍んで 自己を磨く
意思と勇気を 友として 奮励努力 日々の精進
礼の基本は 相互の尊重 かたちで入り 心に到る
智慧と悟りは この世の光 迷わず進め 人の道

澄んだ心と住みよい社会
シンプルライフで真善美
愛・戒・耐と励と礼と智慧
生涯修行 六修行

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4−14住みよい地球

 朝日新聞の第一面の下段に「天声人語」というコラムがあります。朝日イブニングニュースの英訳「天声人語」には、ラテン語の「VOX POPULI VOX DEI」が当てはめてあります。このラテン語を逆に日本語に直訳すると、「民の声は天の声」ということでしょうか。この「天声」について少し考えてみましょう。
「天は自ら助くる者を助く」(Heaven helps those who help themselves)という非常に有名な言葉があります。「天」は人々のおこないを常に細大漏らさず、見守っているのでしょう。しかし「天」の声を直接的に聞くことのできる人は、極めて限定されているのではないでしょうか。たとえばモーセ、キリスト、マホメットは予言者といわれています。神の声、いいかえれば天の声を直接的に聞き、天の意思を人々に伝えることができました。そしてそれぞれの弟子たちが、その教えを後世に伝え、書き残していったのが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖書、聖典です。これに対して、釈迦と孔子は予言者とはいわれていません。むしろ聖人というのにふさわしく、人の道についての教えを説き、立派な業績を上げています。釈迦も孔子も天の声を聞いたという言い方をしていないようですが、瞑想のすえに、ひらめいたのが、天の智慧だったのではないでしょうか。人間が頭で考えて、つくり出したという、いわば作りものではなくて、直接的に天の智慧に共感してひらめいたというほうが、実相に近いのではないでしょうか。
「三人予言者 二人の聖人 元はひとつの 天の智慧」
ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒、そして儒教の教えを守る人々は元をたどれば、ひとつの天の智慧に行き着くことを自覚してはいかがでしょうか。それぞれの宗教、あるいは教団はその発展過程において、勢いあまって、他の宗教、宗派を排斥することがあったようです。しかし世界中を唯一の自分たちの宗教によって独占的に支配しようとするのは、宗教的帝国主義ではないでしょうか。自分たちの支配する宗教の拡大につとめ、独占欲にかられて、全地球を自分たちの宗教によって統一しようとするのは、天の意思に反するのではないでしょうか。それぞれの民族、国家にはそれぞれ固有の文化があり、それぞれの文化と融合した宗教が共存するのが、望ましい姿と思います。聖書、聖典、経典の一言一句にこだわって、宗教紛争、国際紛争を繰り返すのは天の智慧、天の意思に反することだと思います。聖書、聖典、経典は予言者、聖人の教えを弟子たちが書き残し、編集したものです。その段階で宗教紛争の種というような意見が意図的に、あるいは偶然混入したとすれば、それは予言者、聖人の心に反し、ひいては天の意思に逆らうことではないでしょうか。
生まれたときから原罪という重荷を背負い、意識しながら生きてゆく人たちがいます。生まれたときから死ぬまで厳しい戒律の枠の中で暮らしてゆく人たちがいます。来世に望みを託して苦労に耐えている人たちがいます。なんとか現世の利益を得ようと、神仏に朝夕祈っている人たちがいます。
 信仰の自由を認識しましょう。各人各様の宗教、宗派の存在を相互に尊重しましょう。確固とした自分に適した宗教に拠って、生活している人がいるかと思えば、無宗教かそれに近い人たちも大勢います。いずれにしても、たまたま宇宙船地球号に乗り合わせたのは天の思し召しと素直に受け止めましょう。各人が、または各国が、したい放題、やりたい放題、勝手気ままに私利私欲にふけっていると、この世は百鬼夜行の、まさに地獄のような悲惨な社会になってしまいます。
 「修行が足りない」のです。「六修行が足りない」ことを自覚しましょう。修行したらどうなると思いますか。悟りの境地に到達するのはまだ無理かも知れないけれども、晴れ晴れとした、澄んだ心になります。心のわだかまりがいつの間にか消え去ります。欲をコントロール能力が身に着きます。少欲知足によって心豊かなシンプルライフを楽しみ、真善美を生活信条として、住みよい地球を実現しましょう。

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