まえがき 第1章日本の道徳 第2章教育の変遷 第3章世界の宗教と道徳 第4章修行のすすめ あとがき
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第一章  日本道徳の荒廃                                         
1−1 道徳荒廃の現状
1−2 オモシロ族
1−3 学級崩壊
1−4 なぜ人を殺してはいけないのか
1−5 金銭第一主義
1−6 道に迷って
1−1・道徳荒廃の現状

 神戸連続児童殺傷事件がありました。1997年5月27日朝、神戸市須磨区の中学校の正門前に、小学6年生の男児の切断された頭部が置かれていました。「愚鈍な警察諸君、ボクを止めてみたまえ、ボクは殺しが愉快でたまらない」などと書いたメモがあったそうです。その後、神戸新聞社に「酒鬼薔薇聖斗」という名前で「透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れていない」投書があったと伝えられています。この小学6年生の事件より約3ケ月前から同一地域で
1. 小学6年生の女児2人が後ろから金づちでなぐられた事件
2. 小学4年生の女児1人が後ろから金づちでなぐられて1週間後に死亡した事件
3. 小学4年生の女児が刃物で腹を刺された事件
があり、連続児童殺傷事件といわれています。犯人は当時、中学3年の男子生徒でした。
翌年の1998年1月28日、栃木県黒磯市の中学校で一年生の男子生徒が学校の廊下で注意した女性教師をバタフライナイフで腹を刺して死亡させた悲しい事件がありました。
 このほかに西鉄高速バスジャック事件、図書館で騒いで注意されたことに腹を立て、ホームレスの男性を殴り殺した少年たちの事件、などあって、少年の凶悪犯罪があとを絶ちません。
 そのようになるには、戦後50年にわたる道徳教育の欠陥、家庭のしつけの欠陥が大きな影響を及ぼしているといわれています。戦後の占領政策、経済復興第一主義、自由放任主義が児童生徒をのびのびと自由に育てた結果がこのようになったのだという話しをよく聞きます。確かに何か事件があると、いつもマスコミに登場する有名人、進歩的文化人、評論家、コメンテータ、特徴的なキャラクター、パーソナリティといわれる人々まで、一億総評論家のようないいかたで何か耳ざわりのよい言葉を投げかけて、それでおしまいとなるケースが多いような気がします。
 「なぜ人を殺してはいけないのですか」とごく当たり前のことを聞かれて、おずおずと自信のない態度で十人十色の理由をいってみるだけでは、日本の道徳復興はまことに程遠いのではないでしょうか。「おなかがすかない飢餓感」に襲われてイライラしている若者にどんな「食べ物」を用意したらよいか、考えてみましょう。

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1−2オモシロ族

 戦後、輝く湘南の海に誕生したのは、カッコーイイ太陽族でした。経済成長の波にのり、夜の銀座をわがもの顔で闊歩した、社用族といわれたサラリーマンのグループがいました。
近頃、世間を騒がせている悪のグループにオモシロ族と名前をつけてその特徴をまとめてみました。
1. イジメ系オモシロ族
 小学生の「弱いものイジメ」がエスカレートしたものとして、いじめグループによるマット殺人事件がありました。体操用具の部屋の巻いたマットの中から小学生の死体が発見された事件ですが、結局犯人グループ(イジメグループ)は「疑わしきは罰せず」として迷宮入りのようです。
巧妙な「イジメ」は「あそび」と区別がつきにくいという特徴があります。加害者の仕返しを恐れて、被害者は「あそび」だったと、心ならずも嘘をつき、その「イジメ」はさらに巧妙になってゆきます。
あまり適切なたとえではないけれども、「李下に冠を正さず」です。「まぎらわしい遊びはするな!」と私は強く主張したいと思います。
2. 集団暴走系オモシロ族
 乗用車、オートバイ、スクータのマフラーを改造して、大きな爆音を轟かせて、集団で暴走行為を繰り返すことを特徴としています。自分たちの集団の示威意欲を満足させているようにも見受けられます。
警察の交通取り締まり、沿道の住民の迷惑などは一切無視して、自分たちだけの「オモシロサ」を追求しているようです。年齢としては、10代の後半から20歳前後までの若者で構成され、30歳過ぎの集団暴走族はあまり聞かないように思います。殊に真夏の夜間の夕涼みがてらの大勢の見物人の前でマシンの性能と運転テクニックを披露するのは、一種の生きがいかもしれませんが、まことに近所迷惑なことです。
3. 残忍系オモシロ族
 単独行動が多いようです。犬、猫、鳥を相手として、残忍な行為を繰り返すことを特徴としています。果ては死に至らしめて、一種の優越感、ゆがんだ快感を覚えているような気がします。犬や猫に限らず、ついには自分よりも弱い人間を標的にすることがあります。
 残虐行為から、殺害に至り、さらに遺体のバラバラ事件にまで発展することがあります。大抵の場合、本人が未成年だということ、病的な異常行動をしたという理由で、その異常性を根拠として、「心神耗弱」と判断され、じきに社会復帰するように見受けられます。
 犬、猫、鳥などへの残虐行為の段階で早めに発見し、適切な保護観察と適正な治療が必要と思われます。
オモシロ族の共通点とその対策
 自分または自分たちの感じる「オモシロサ」を最高の判断基準・価値観として行動しているように見受けられます。自分たちがオモシロければ、それで満足する。隣人がどんなに迷惑をこうむろうが知っちゃーいないという態度で行動する。社会的規範、ルール、秩序、他人への思いやりなどは全く無視する。ただ「のびのびと自由に、自分の好きなように振舞う」ことをモットーとしているように考えます。この「のびのびと自由に、個性豊かに、自分の好きなことを、好きなようにやる」というのが、戦後教育の指導方針の基本をなすものとして、尊重されてきたように思われます。
 しかし現在のこのような道徳の荒廃した社会が正常だとは到底思えません。ではどこで歯車が狂ってきたのでしょうか。
 終戦直後、GHQ(連合国軍総司令部)の要請により、アメリカ教育使節団が来日しました。その報告書の呪縛からやっと開放されて、道徳科の授業が復活しました。しかし30項目以上の多数の道徳項目を羅列しただけでは、児童の頭に正確に残らないのではないでしょうか。知育・徳育という言葉があります。特に道徳では知識だけではなく、「言行一致」の実践が重要です。「言」が印象に残らない程度であれば、「実践」まで習慣となって身につくはずがありません。この問題を改めて見直し、老いも若きも、人間としていかに生きるべきか、真剣に考えることが必要です。
 刹那的なオモシロ族に「修行が足りない!」と一喝したいと思います。

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1−3学級崩壊

 小学校、中学校で生徒の授業中の態度が非常に悪いといわれています。なかには先生の指示に従わずに、勝手に騒いで歩き回り授業が成立しない、いわゆる学級崩壊があちこちの学校で発生するようになりました。戦前の小学校では到底ありえないことです。
 「学級崩壊」(河上亮一1999.2)に具体的な特徴が書かれているので、箇条書きにしてみます。
1. 頑固でわがままになった
2. 怒鳴りつけても反応しなくなった
3. 学校行事が成り立たなくなった
4. 授業がつまらないと思ったら、しゃべっていてもいいんだと思っている
5. 授業中に勝手に立ち歩くようになった
6. ごく基本的な生活動作ができなくなった
7. 自分さえ心地よければいいんだ、個人の自由だろうといっている。
8. 「一人前になるために」という考え方を理解できなくなっている
9. (受験勉強以外に)勉強に目的が見いだせなくなっている
 これに対してその親については
A.先生はうちの子のことを悪くいっている。友だちはうちの子のことを変に思っているという反応をする親が多くなってきた
B.「学校に行ったら教師の言うこと聞けよ」
「学校に行ったらおまえは学習するんだよ」
「修業の場なんだから自分を抑えるんだよ」
と親がいっているのだろうか(言っていない?)
 授業中に騒いでいて、先生が厳しく注意すると、すぐにキレてしまう生徒や教室を飛び出してしまう生徒、そのまま教室に居座って騒ぎを止めない集団など深刻な問題となっています。
 「三つ子の魂百まで」といわれているように、幼児期の家庭の「しつけ」に学級崩壊の原因があるのだという意見があります。確かにそれもあるでしょう。しかし「子供は親の背中を見て育つ」といわれているように親の受けた義務教育に何らかの問題があったのかも知れません。
こんにちの学校教育の荒廃の底には四半世紀に及ぶ「文部省と日教組の対立」があったという意見があります。
 戦後10年を経過すると、学校制度においても、終戦直後の混乱がようやく治まりました。道徳教育の必要性が世間一般に認められるようになりました。昭和33年の二学期から道徳教育が小中学校に特設されました。これに対して日教組は「戦前の修身科の復活」、「政府に都合のよい人間をつくるためのもの」、「政府が道徳教育の徳目を押し付けてきた」として激しく反対しました。
 参考までに、中教審路線に対する日教組の反対意見を記載して置きます。
 「時の与党が政策実現のために教育を支配するものである。内容的に国家主義・差別選別の能力主義、学校を管理監督する管理主義である」。
1957年(昭和32年)の勤務評定反対闘争
1960年代の教科書課程改変についての反対闘争
1976年(昭和51年)主任制反対闘争
などがありました。それでも東西冷戦の終結後はさすがの日教組も影が薄くなったように感じられます。ただ意外なのは、あれだけ強力に反対闘争を繰り広げ、声を大にして叫びながら、日教組としての「理想とする人物像」が具体的に、わかりやすく示されていないことです。もしかして、小中学校の教職員組合がマルクス的イデオロギー闘争に明け暮れていたのではないでしょうか。そのようなことでは、子供たちへの道徳教育がおろそかになります。日本の道徳の荒廃、学級崩壊には、教育現場を混乱の渦に巻き込んだ日教組の反対闘争がその一因となっているように思われます。

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1−4なぜ人を殺してはいけないのか

 「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問が意外に大きな波紋となって広がり、各界の著名人が答えています。ある宗教家は戒律で決められているといいました。ある人は他人を思いやる心を持てば、そのようなことにはならないといいました。ある人は他人の命を奪えば、自分の命も奪われるといいました。そしてある人は「なぜ人を殺してはいけないのか」という本を書いています。
 しかしこのような最も重要にして、明白な質問に対して、きちんとした簡潔な正解が用意されていないのが、日本の道徳教育の現状ではないでしょうか。
 「なぜ人を殺してはいけないのか」と質問されたら、私は「法律で規制されています」と答えます。人を殺せば裁判所で刑法によって、死刑、無期懲役をはじめとして、各種刑罰に処せられます。このような罰則を設けているのは、「人を殺す」という行為が人間社会の秩序を乱し、人々に恐怖心を惹き起こすからです。いつ殺されるかわからないような混乱した恐ろしい社会を是正するために、「人を殺してはいけない」といっているのが「法の精神」です。
 ただし法律というのは、必要最低限の規制です。法には触れないけれども、世の中の良識に反する行為があります。これらのよからぬ行為に対しては、道徳律という判断基準があります。各国の歴史を反映して、道徳律に多少の違いはありますが、いずれの道徳律も住みよい社会、平和な美しい社会を目指していると思います。

 「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に対して、用意してある正解を述べたとします。すると多分次の質問は「では戦争になると、なぜ大勢の人を殺した人が賞賛されるのか」だと思います。この第二の質問について私の意見を述べさせていただきます。国家間の戦争期間においては、戦闘行為によって敵兵を殺すことは賞賛されます。平時においては常々「人を殺してはいけない」といっていることと矛盾しないのでしょうか。ではなぜ戦争のときには多くの敵を殺さなければならないのでしょうか。なぜ戦争になると敵と味方に分かれて、殺しあわなければならないのでしょうか。これだけ人類の文化の進歩・発展がめざましいのに、なぜ戦争という集団的殺人行為が行われるのでしょうか。
 過去の実例から考えてみましょう。国家と国家の利害の対立が原因となったことが多いようです。落ち着いて、相手の立場に立って、問題を解き明かしてゆけば、話し合いの糸口は必ず見つかるはずです。
 しかし問題がこじれたら、戦争で、武力で、叩き潰してみせると、脅かしながらの交渉では、解決はむずかしいのではないでしょうか。ある国が物質的な戦争準備と仮想敵国に対する国民精神の一致団結、敵愾心の昂揚に努めれば、相手国もそれに負けじと戦争準備に狂奔するでしょう。これでは問題の解決どころか一触即発の危機に突入してしまいます。不幸にして国際的緊張からこのような危機的状況に陥らないようにするにはどうしたらよいと思いますか。問題を冷静に解きほぐし、相手の立場に立って話し合うことが必要です。もしかしたらその戦争によって利益を得る第三国の謀略かもしれないと一応は疑ってみることも必要です。「夷を持って夷を制す」という言葉があります。
 国際的緊張が高まったとき、とかく自己顕示欲の強い政治家は国家・民族の存亡の危機が切迫していると、大向こうをうならせる大アジ演説をぶちたがるものです。そのようなカリスマ的政治家、独裁者的自信に満ちあふれた政治家に扇動されてはなりません。わずかひとにぎりの人々の恣意的行動に同調して、数百万、数千万人の人類が現代科学の粋を凝らした武器によって、殺しあうという事態はなんとしても避けなければなりません。もしそのようなことになれば、人類の歴史に汚点を残すことになります。昔流のいいかたをすれば、当事者間の犠牲と恨み、怨念は数世代にわたって語り継がれて、末代までの恥となるでしょう。
 第二次世界大戦をひきおこしたヒトラー、あるいは日本軍部は早くから特定されていたのだから、これらを適切に押さえこんでいたら、戦争を避けることができたはずだという意見があります。当時のイギリス首相チャーチルは、第二次世界大戦を「不必要な戦争」と呼んでいたそうです。
 EU(ヨーロッパ連合)の活動はすでに軌道に乗っているように見受けられます。せいじにも、特に経済的にも相互の信頼にもとづいて、共存共栄をはかっているように思われます。
 現在の情報量、伝達・流通速度には目をみはるものがあります。旧ソ連のゴルバチョフ大統領のころ、ペレストロイカ(民主主義的要素を取り入れた大改革)、グラスノスチ(言論・表現の自由化)が強力に推進されました。その結果、東西冷戦は回避されました。人類滅亡の危機は一応遠のきました。
 このときの教訓を生かして、情報の国際的流通を推進し、拡大に協力してはいかがでしょうか。いたずらに他国の人々を敵視することなく、自分たちの素直な気持ちを相手に伝えましょう、相互の理解をはかり、相互の尊重の精神で偶発的トラブルの解決をはかることが必要です。
 このようなとき、ミエ、意地、メンツ、イキガカリなどはできるだけ、できれば見えなくなるくらいまで縮小しましょう。
 二つのグループの人々が相互の理解を得るには、共通のモラル、道徳が必要です。宗教・生活習慣の異なる人々が話し合うとき、まず必要となるのは、同じ心情を持ち、同じ判断基準により、情報を理解することではないでしょうか。

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1−5金銭第一主義

 戦前の義務教育は基本的には尋常小学校の6年間だけでした。卒業するとそのまま社会に出て行く者、さらに2年間の高等科に進む者、上級の中学校へ行く者に分かれました。
 戦後は義務教育が新制中学まで延長されました。戦後の経済復興を担うため、地方から上京した中学卒の人たちは「金のたまご」と大切にされました。しかし「もはや戦後ではない」といわれるくらい経済が復興してくると、高校(新制)への進学率が向上し、高校への全入(希望者の全員入学)まで声高に叫ばれるようになりました。さらに大学への進学率も格段に向上して、教育の普及には目をみはるものがあります。しかし伝え聞くところによると、意外に全般的な学力の低下が激しいといわれています。入試制度の欠陥もあって、なかには「生物」を受験せずに医学部へ進学してくる者もいて、受け入れ側で問題になっているようです。戦前は考えられなかったけれども、現在猛威をふるっている「偏差値」絶対主義は受験テクニックの向上にだけ役立っているような気がします。極端ないいかたをすれば、機械的に「偏差値」によって、その人物のすべてを判断し、評価しようとする社会の風潮があるように思われます。小・中・高校の教育の成果を「偏差値」という点数だけで決め付けるのは行き過ぎだと思います。教育は「知育」と「徳育」から成り立っているといいながら、現実的には受験科目の点数だけで、人物評価をする制度になっているようです。そうなれば手っ取り早く、学習塾・予備校に通って、「偏差値」を上げる人たちが増えるのは当然のことでしょう。そうなれば当然のことながら、学校の授業は「ゆとり」教育と称して、最低限度のことだけを教えて、落ちこぼれの少ないようにしていれば、よいことになります。「偏差値」を気にする人はお金を払って、塾なり、予備校に通いなさいということになります。
 「地獄の沙汰も金次第」といいますが、小さい頃からお金に左右される「偏差値」のみで判断されて成長してきた子供たちが、金銭第一主義、経済第一主義を生活信条として、道徳の荒廃をさらに助長するのは目に見えています。
 汚職などによって、アブク銭を握ってどうしたかというと、外車を買って乗り回した、クルーザを買って海を走らせた。大きい家を買って住んでみた、遊興費に使った程度のことが報じられていて、うらやましいというよりもむしろわびしい感じがします。

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1−6道に迷って

 近所のセブン・イレブンというコンビニに行ったとき、文庫本の棚の一番目につくところに、「自助論」(スマイルズ著竹内均訳)がありました。明治初年に「西国立志編」(スマイルズ著中村正直訳)として、当時の若者に愛読されたものとほぼ同じ内容の本が現在コンビニで売れ筋の筆頭あることは大きな驚きでした。明治維新とは別の意味で大きな転換期にさしかかった現在の日本で、スマイルズの本が若者に静かに読まれているのです。
 活字離れ、本離れといわれながら、若者たちも道に迷って暗中模索しているのでしょう。世界の七つの海を制覇して、絶頂期にあったイギリスで「自助論」は書かれました。そして当時の若者たちに、「やればできる」という大きな勇気を与えました。現在はバブル経済がはじけて、デフレスパイラルに落ち込み、構造改革という名前のリストラのすさまじい嵐が日本中を吹き荒れています。このような時に一番危険なのは極右勢力の台頭、極端なナショナリズムの台頭、自国利益最優先主義でしょう。このような風潮が世界中にひろまると、たちまち国際紛争が頻発し、絶え間ない国家間・民族間の殺し合いが「憎しみの連鎖反応」を助長するでしょう。どうすればイスラエル対パレスチナの紛争は解決するのでしょうか。東西冷戦が解決しても、まだ世界平和には程遠いのが現状のようです。
 2030年頃には米国の人種勢力が逆転するだろうという説があります。これまでマジョリティであった白人の割合が次第に減少の一途をたどりつつあり、マイノリティであった非白人がついにマジョリティになるという話です。当然、米国社会にも大きな構造改革・意識改革が訪れることでしょう。世界で最も勢力のある大きな国が自国利益最優先ではなく、良識ある国に成長することを願っています。
 現在米国は強いドルを背景に海外から高利率で資金を導入し、累積貿易赤字の巨大化から、ドル建てで世界最大の対外債務超過国となりました。しかしバブル経済と同様にこのようなアブノーマルな状態が長つづきするはずがありません。第二の世界大恐慌にならないように、世界中の叡知を集めて対策をねり、実行してください。お願いします。
 「温故知新」という言葉があります。日本では戦後50年が経過して、一応経済的には自立できたけれども、その間、おろそかにしてきた精神的、道徳的荒廃がますますひどくなっていくようです。もう一度ふりだしに戻って考えてみましょう。現在の教育の荒廃の原因は占領軍から与えられた新憲法のせいだという意見があります。たしかに一理はあるかもしれません。しかしそれをいうなら、新憲法ではなくて、教育基本法ではないでしょうか。
 スローライフ、シンプルライフというライフスタイルが重要なキーワードとなってきているようです。

 道に迷って あと振り返り よく見よく聞き よく考える

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