まえがき 第1章日本の道徳 第2章教育の変遷 第3章世界の宗教と道徳 第4章修行のすすめ あとがき
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第二章  教育の変遷                                          
2−1 明治維新とその時代背景
2−2 植民地・帝国主義戦争と防衛線戦略
2−3 学問のすすめ
2−4 教育勅語
2−5 世界大恐慌から第二次世界大戦へ
2−6 米国教育使節団報告書
2−7 教育基本法による自由放任
2−8 菊と刀
2−9 世間の目 恥を知る
2−1明治維新とその時代背景

 阿片戦争という戦争がありました。中国がまだ清国といっていた1840年頃のことです。その頃、茶の供給源は世界中で中国しかなかったので、イギリスは金額にして大量の茶葉を清国から買わなければなりませんでした。その当時はまだ、セイロン紅茶などはなくて、日本はまだ鎖国中でした。イギリスはインドで阿片という麻薬を大量に生産し、東インド会社の専売品として、清国に輸出しました。その代金を茶葉の支払いに当てることを計画したのではないかと思います。当然のことながら、清国内の麻薬の被害は全土で続出し、清国政府はこれを禁止して、イギリスと衝突したのが、この戦争の原因です。1840年〜1842年の第一次戦争で、清国はイギリスに降伏しました。さらに1857年にアロー号の積み荷の阿片を焼き捨てたアロー号事件によって、第二次阿片戦争が起きました。イギリス・フランスの連合軍が年内に広東を陥れました。1858年に天津、1860年には北京をこの連合軍が占領しました。
 日本が徳川三百年の鎖国を解いて、アメリカ・イギリスに開国したのは、1854年のことです。日本は1855年にロシア、1856年にオランダに開国しています。
 このような欧米列強の東亜侵略による、極東地域の緊迫した情勢により、日本国内には
「尊皇攘夷」の気運が高まり、倒幕運動により、1868年に明治維新が達成されました。朝鮮が開国したのは、日本の明治維新より約8年後の1876年のことです。
 江戸幕府を黒船艦隊によって威嚇し、日本に開国を迫ったアメリカがこの頃、極東地域で活躍していません。たぶん国内で南北戦争(1861〜1865)や、先住民アパッチ族の反乱(1871〜1886年)などのアメリカ西部開拓史にまつわる数々の先住民族の反乱に手をやいていて、極東まで手が回らなかったからでしょう。
 明治政府の中核をなした薩長勢力は、中国の阿片戦争の数年後に、イギリス艦隊などと砲撃戦を経験しているので、急速に「富国強兵」を実現する必要を痛感していたことでしょう。ロシアの中国東北部へ南下、イギリス・フランス・オランダなどの列強の侵略は日本をひとのみにする勢いだったと思います。鳥羽伏見の戦い、上野の彰義隊、会津、函館などで戦いはありましたが、幸い外国勢に助勢を求めるようなことはなく、列強の介入による国内を二分するような内戦の激化、長期化の危機を回避できたのは、国を愛する先人たちの「先見の明」によるものと考えます。

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2−2植民地・帝国主義戦争と防衛線戦略

 無敵スペイン艦隊を打ち破って、世界の七つの海を制覇したイギリス帝国はインドをはじめとして、世界中に植民地を造り、多大な利益をあげました。中国に対する阿片戦争もその一環と言えるでしょう。これに対して、後発のロシア帝国も北部において強大な勢力を築き上げ、中国東北地方(旧満州)からさらに南の大連まで、その勢力を拡げてきました。アメリカは国内の先住民の土地没収、強制移住によるトラブルを治めると、ハワイからフィリピンまでその版図を拡げてきました。二つの強大な勢力がぶつかりあう地域では、小競り合いが頻発し、紛争が絶えないのが歴史的事実です。バルカン半島、中近東はさらに石油資源がからんで、複雑な紛争要因となっているようです。
 明治維新で「尊皇攘夷」から「富国強兵」に発展した日本は、外敵の侵入に対して、もっと離れた地域に防衛線を敷き、その線で外敵の侵略を食い止めることを考えたと思います。そして朝鮮半島出兵、満州の利権をめぐる日露戦争、さらに満州から中国全土に広がった日中戦争は、アメリカの介入により、第二次世界大戦へ発展しました。
 例えば、ドイツのヒトラー総統はその著書「わが闘争」のなかで、防衛線はできるだけ本土から離れたところに設定しなければならないと強調しています。そうすることによって、もしも戦争になっても、迎え撃つ準備の時間を稼げるし、本土に戦火が及ぶのをできるだけ避けることができると考えたのでしょう。
 防衛線戦略といえば、朝鮮半島を南北に分断し、ベトナムを南北に分断して、そこに防衛線を設定して、勢力のバランスをとった米ソ両陣営の戦略を思い出します。つまりアメリカ本土からも、ソ連本土からもはるか遠い、朝鮮半島とベトナムに防衛線を設定したのでしょう。北朝鮮が共産圏諸国の内諾をえて、武力による統一を企画したのが朝鮮戦争だと思います。これに対して南ベトナム政府の弱体化、崩壊の危機による東南アジアの赤化ドミノ現象を阻止するために、アメリカが仕掛けたのがベトナム戦争だと考えます。このようにして、防衛線戦略は一方では国家安全保障のため、その他方では国際紛争の火種となっているようです。天気図を見ると、二つの気団のぶつかりあう前線のあたりでは、荒れ模様の天気が続き、突風・落雷等があり、前線が居座ると、集中豪雨による被害が発生することがあります。アフガニスタンのように、20年間も防衛前線が居座り、継続して戦火にさらされるという不幸な状況を回避するには、軍事的防衛線戦略を見直す時期にきているのではないでしょうか。
 2001年ニューヨークを襲った9・11同時多発テロを見てもわかるとおり、昔流の防衛線戦略は植民地・帝国主義時代の遺物なのだと、認識を新たにする必要があると考えます。

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2−3学問のすすめ

 「天は人の上に人を造らず人の上に人を造らずと言えり」という言葉は明治初期のベストセラー「学問のすすめ」に載っています。著者は福沢諭吉です。慶應義塾大学の創立者として、その後世への影響力は偉大なものといえます。「学問のすすめ・初編」(明治5年1872年)は20万部、初編〜17編まで、約5年間に340万冊流布したといわれています。徳川時代は約300年間にわたって、士農工商という四つの身分があって、一番上の士族がこの国を治めることになっていました。しかし明治維新によって徳川幕府の世襲制は封建制度と共に崩壊しました。そして、真に実力のある者が政権を握り、国を運営してゆくことになったわけです。
 「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」
 「人は生まれながらにして、貴賎貧富の別なし、ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり、下人となるなり」
 このようにして封建制度、身分制度の呪縛から解放されて、自由になった人々はまず第一に学問を開始しました。その学問は主として経済活動を活発化するものからスタートしたようです。西欧の先進国から技術導入し、鉱工業を盛んにしました。鉄道、道路網の建設、港湾の整備等をフルスピードで邁進したことでしょう。「富国強兵」のスローガンのもとに軍需産業を興し、明治維新当時の欧米列強の侵略の脅威に対抗しました。日本の経済基盤を強固にし、軍備を充実することが、わが祖国を守るためにどうしても必要だったのだと思います。
 「学問のすすめ」では、「人間普通用に近き実学」を西洋の先進国から学ぶべきだと説いています。つまり学問といっても、広い各種学問分野の中の経済的な「実学」をすすめているように思われます。
 戦後の「傾斜生産」から始まった経済復興はめざましい進展を見せました。「所得倍増計画」から「日本列島改造論」と進化して、「バブル景気」におどったあげくの果ては「バブル経済の崩壊」となりました。現在リストラの嵐が吹き荒れています。アメリカ経済にもかげりが見え始めています。今後の世界経済の中で日本経済の進むべき道を明らかにすることが必要です。さらに欲を言えば、経済的繁栄にとらわれない学問、住みよい社会に貢献する学問、人類共通の智慧をさがしましょう。

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2−4教育勅語

 明治の新政府ができると、それまでの寺子屋、私塾のような私立から公立の学校制度が発足しました。しばらくの間は文部大臣が交代するたびに、個人的見解により、教育方針がしばしば変更され、教育現場は混乱したそうです。そこで教育の根本をはっきり示した文書をつくり、広く日本国民に周知徹底する機運が高まり、素案がつくられ、検討が重ねられました。文部省の通達のようなものではなく、法律でもなく、天皇の勅語として示されたのが大きな特徴といえるでしょう。
 戦前の小学校に学んだ人々は、教育勅語を暗誦させられたので、今でも部分的にはかなりはっきり記憶していると思います。教育勅語の日付は明治23年10月30日となっています。今でも教育勅語には良いことも書かれていたという意見があります。確かに戦後まもなく、新憲法ができ、教育基本法ができてからも、教育勅語を全廃するのか、それとも民主国家にふさわしい、新しい形に改造して教育界に残すか議論されました。しかし結局のところはGHQ(連合国総司令部)民政局の主導により、1948年6月19日、教育基本法から約1年3ヶ月遅れて、国会の議決を経て、全廃となり、その良いところは保存されませんでした。
 では教育勅語の主要な部分をご覧ください。
「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信ジ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵イ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ・・・・」
 これに対して涛川栄太氏は「今こそ日本人が見直すべき教育勅語」(1998年)の中で次のように訳しています。
 「国民は父母に孝養をつくし、兄弟姉妹は仲良く力を合わせ、夫婦は互いにむつまじくとけ合い、友人同士は互いに信じ合い、人に対してはうやうやしく、自分の行ないを慎しみ、広い愛の心をすべての人に及ぼし、学問を一心に修め、職業の習得に励み、それによって知識や能力を開き伸ばし、人格・人徳を磨き上げ、さらには進んで広く世のためを考え、世の中に出てつとめをはたし、憲法を重んじ、法律を守り、ひとたび危急のときがあれば、忠義と勇気をもって公のために奉仕し、それによって天地にきわまりない国運を助けるようつとめるべきです。」
 教育勅語は、全国民が天皇とともに生涯にわたって守ることを求めています。これに対して戦後の教育基本法は日本国民の意識の中では、小中学校の義務教育の基本として
 「子供たちをのびのび育てること」をかかげたようなものだという程度にしか認識されていないと思います。
教育基本法の誕生の当時に、文部大臣であった田中耕太郎氏は「教育勅語は自然法ともいうべきものであり、儒教、仏教、キリスト教とも共通する普遍的な倫理である」としています。全世界の列強が植民地・帝国主義の侵略戦争を繰り広げ、弱肉強食の戦争が続き、国家存亡の危機にさらされていた時代にできた教育勅語に、国家主義・民族主義を重視する傾向があるのは、当然のことではないでしょうか。
 教育勅語は明治40年に英訳、仏訳、独訳などが完成し、在外公館を通して各国に配布されたそうです。第二次大戦後、ドイツのアデナウアー首相が自室に「教育勅語」の独語訳文をかかげていたという話しがあります。
 戦後の混乱した時期に、占領軍の指示により抹殺された教育勅語は日本人の精神的なバックボーン、教育的バックボーン、生き方のバックボーンでした。サンフランシスコ講和条約が批准されて、被占領国からやっと独立しても、やはり教育勅語は「勅語」というだけで見直す気運はなく、具体的な改定案もなく、無視され続けています。
 小中学校の児童・生徒だけではなく、全国民が生涯をかけて推進する自己研鑽のあるべき理念(生き方のバックボーン)を明らかにする時期がきていると考えます。

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2−5世界大恐慌から第二次世界大戦へ

 国内では殺人に対して厳しく罰し、死刑を適用することがあります。しかし第二次世界大戦では、全世界を巻き込んだ激しい戦闘が繰り広げられました。日本では数百万人、全世界では数千万人の人命が失われました。そして身体に残った傷も、肉親を失った人々の心の深い傷も、原子爆弾のケロイドも、現在もまだ継続しています。
 このような不幸な世界大戦がなぜ起きたのか、考えてみましょう。戦後、ドイツのニュールンベルグ裁判と日本の東京裁判がありました。そして日本・ドイツのA級戦犯の主要メンバーは死刑となりました。つまりこれらの戦犯は第二次世界大戦を引き起こし、世界中の人々を不幸のどん底に叩き込んだ戦争犯罪人として、処刑されたといわれています。しかし「東京裁判」という言葉はその後なぜか世間一般に使われるようになった略称です。正式には「極東国際軍事裁判」といいます。軍事裁判という名前のとおり、裁くのは戦勝国の裁判官たち、被告は敗戦国の指導者たちでした。満州事変から太平洋戦争までの各種事変・戦争はすべて被告たちの共同謀議に基づく侵略戦争だったと結論づけ、その責任を追及して死刑を宣告しました。
極東国際軍事裁判は裁判管轄権を持つ犯罪として、
1. 平和に対する罪
2. 通常の戦争犯罪
3. 人道に対する罪
を根拠としています。しかし日本が無条件降伏し、ポツダム宣言を受諾した当時の国際法には、1.平和に対する罪、3.人道に対する罪はなかったので、戦勝国の身勝手な軍事裁判の一面をのぞかせる事柄と思います。2001年9月11日のアメリカのニューヨークを襲った同時多発テロに対して、アフガニスタンを攻撃し、「悪の枢軸」として、イラクなどに圧力をかけているアメリカの姿勢に第二次世界大戦当時の枢軸国(日本・ドイツ・イタリア)に対する連合国(アメリカ・イギリス・ソ連等)を連想してしまいます。
 植民地・帝国主義の列強諸国は世界各地に進出して、国際紛争を引き起こしてきました。ある人々は防衛線をより遠くに設定して、自国内の戦争を回避するといい、ある人々はその版図を拡張することにより、自国の経済的発展を図ることができるといいます。時には、赤化(共産化)ドミノ現象を防止のための予防的戦争だと説明するケースもあったようです。「ローマは一日にして成らず」といいます。第二次世界大戦も三ヶ月や半年で勃発するようなものではありませんでした。この世界大戦の最大の原因は世界大恐慌だったという説がありますので、これについて考えてみましょう。
 1929年(昭和4年)から1936年(昭和11年)までの8年間に限定して、日本の歴史をふり返ってみましょう。

1. 1929年(昭和4年)不況が全世界に拡大しはじめました。

2. 1930年(昭和5年)アメリカの1352行の銀行が破産しました。
 アメリカの失業者数は450万人、日本では250万人、ドイツでは400万人。11月14日浜口雄幸首相が東京駅で愛国社員佐郷屋留雄に狙撃され、重傷となりました。浜口内閣は財政緊縮、軍縮促進、米英協調外交等のデフレ政策を推進していました。全国的に一種のデフレスパイラルに陥り、全く先の見えないどす黒い焦燥感が渦巻いていたのかもしれません。そのような絶望的財政危機のときには、強力なリーダーシップが全国民から求められていたのかも知れません。

3.1931年(昭和6年)
 8月5日上野と日比谷で「対満蒙強硬策」を主張する国民大会が開催され、全国的な運動への口火を切りました。
 9月18日この「対満蒙強硬策」に後押しされたように、柳条湖付近で満鉄爆破事件が発生し、満州事変へと発展しました。

4.1932年(昭和7年)
 満州国誕生の直前、1月に日本の海軍陸戦隊わずか約7百名に対して、圧倒的多数の中国の第19路軍、第87師団、第88師団が上海で衝突しました。第一次上海事変と呼ばれています。この時は米英仏三国の休戦勧告などの国際的圧力により、5月に停戦協定が成立し、日本軍は撤退しました。この第一次上海事変はその当時、日本、中国とも相手側の先制攻撃だったと主張していましたが、東京裁判後は日本が企画した陽動作戦だといわれているようです。しかし、結果的にはその当時、上海の租界等に所有していた権益を守るため、欧米列強は一致団結して、日本に対抗することになりました。国際連盟に対する、中国の提訴・調査団派遣要請、さらに日本の国際連盟脱退へ道筋をつけた深慮遠謀の布石といえるかも知れません。
 3月1日満州国が誕生しました。建国の理念は「五族協和」「王道楽土」でした。五族つまり満、漢、蒙、日、朝の各民族が協力して満州国を立ち上げようということです。国際政策的にはロシア勢力の極東地域における南下阻止を目的とした五族共同防衛国家といえるかも知れません。
 これに対して北伐作戦といって満州地区に進出中の蒋介石の率いる中国は国際連盟に提訴して、調査団が派遣されました。リットン調査団といいます。

「5・15事件」
 5月15日午後5時半頃クーデター計画による5・15事件が発生しました。三上卓中尉、古賀清志中尉らの海軍青年将校、陸軍士官候補生の計9人が首相官邸に乱入しました。犬養毅首相は「話せばわかる」と説得しましたが、しかし彼らは「問答無用」といって、首相を暗殺しました。その他のグループは内大臣邸、三菱銀行、政友会本部、警視庁などを襲撃しました。
 国際的にも、国内的にも緊急重大事のときに、党利党略の勢力争いに終始して、抜本的改革案を示せない政党政治にアイソをつかしてこのようなクーデターが計画されたといわれています。この事件によって、日本の政治は、大きく進路変更することになりました。この犬養内閣は最後の政党内閣といわれています。その後、日本軍部は日本の政治の実権を握り、日本の針路を意のままに操るようになります。なおこのクーデター計画の中心人物の藤井斉海軍将校は約4ヶ月前の第一次上海事変で戦死しているそうです。
 10月にリットン調査団の報告書が国際連盟に提出されました。芦田均氏は時事新報(昭和7年10月14日)に
1. 満州を支那へ還せというが如き結論をなしている。
2. 日本軍の満州事変における正当なる行動を正当なる自衛権の発動と認めていない。
3. 満州国の治安維持を支那の憲兵に委ねるというが如きは到底できない。
と主張しています。

5.1933年(昭和8年)
 1933年2月24日国際連盟はリットン報告書に基づき、満州国不承認の総会決議をしました。つまり満州における現有政権を法律的にも、事実的にも承認しないという方針を厳守することを申し合わせわけです。これを受けて、日本では3月27日に国際連盟脱退の詔勅が降り、政府はこれに基づき連盟事務局に脱退を連絡しました。残念ながらこの時点で日本はイギリス・アメリカ・フランスなどから離反して、国際的に孤立無援となる道を選んだことになります。前年(昭和7年)の5・15事件がリットン報告書にかなり大きな影響を及ぼしているような気がします。

6.1936年(昭和11年)

「2・26事件」
 1936年(昭和11年)2月26日陸軍皇道派青年将校らの主導によるクーデター事件が発生し、その反乱は4日間続きました。歩兵第一、第二連隊、近衛歩兵第三連隊など約1500人の在京の部隊が首相官邸、蔵相官邸、警視庁をはじめ政府首脳などの官邸、自宅、朝日新聞社などを襲撃しました。高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負いました。4年前の5・15事件ではその目的の一つであった、戒厳令まで到達できなかったけれども、2・26事件では翌日の27日に戒厳令が公布されました。この2・26事件の責任問題により、陸軍の実権は皇道派から新統制派に移ったといわれています。この新統制派には寺内寿一、梅津美治郎、杉山元、東条英機といった名前があります。
 ではなぜこのようなクーデターを計画したのか、読みにくい漢字や独特の表現方法を使っていますが、その決起趣意書の一部をそのまま掲載しておきます。
 「・・・・・然るに傾来(けいらい)遂に不逞凶悪の徒簇出(ぞくしゅつ)して私心我欲を恣(ほしいまま)にし、至尊(しそん)絶対の尊厳を藐視(びょうし)し、僣上(せんじょう)之れ働き、万民の生成化育を阻害(そがい)して塗炭の痛苦を呻吟せしめ、随(したがっ)て外侮(がいぶ)内患日を逐って激化す、所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元凶なり。・・・・・・」発起人は陸軍歩兵大尉野中四郎外同志一同となっています。
 この趣意書では、日本国内を襲った「昭和恐慌」により人々が塗炭の生活苦にあえぎ、諸外国からの経済的、軍事的圧力が日増しに強まっていく様子をうかがい知ることができます。3年前の国際連盟脱退は、世界大恐慌に加えて、日本に対する米英をはじめとする諸外国の政治・経済的包囲網の形勢を促進したようです。
 「昭和恐慌」といわれたこの深刻な経済不況の遠因はアメリカの株式投機の過熱による「バブル景気」とその崩壊によるといわれています。
 1925年以来、アメリカの株価は倍以上となり、1929年(昭和4年)9月には熱狂的な取引となりました。しかしそのような狂乱のバブル景気が長続きするはずはなく、10月19日に大量の売り注文が出ると、5日後には最悪のパニック状態に陥ってしまいました。当然のことながら、このバブル崩壊は全世界に波及することになり、先進国・後進国の区別なく、世界中のすべての国が経済不況、つまり世界大恐慌に突入しました。
 日本では1930年(昭和5年)は豊作でしたが、恐慌のため、米価は半額となりなした。貴重な外貨の稼ぎ手の絹製品は欧米の大不況のため、輸出が大幅に減少し、原料の繭の価格は3分の1にまで暴落しました。 翌年1931年(昭和6年)は前年の豊作から一転して、北海道から東北地方にかけて冷害により大凶作となりました。収穫はおよそ7割減というひどいものでした。このため農民はわずかな雑穀で飢えをしのいだと思います。家族の自家消費米と引き換えに農村の娘の身売りが続出し、大きな社会問題となったそうです。豊作でも駄目、大凶作にさらに追い討ちをかけられ、農村出身の軍青年将校たちの焦燥感・危機感は想像するにあまりあるものだったと思います。
なお1934年(昭和9年)にも東北地方は江戸時代の天明の大飢饉以来といわれた冷害による大凶作に襲われています。
 世界大恐慌の引き金となったアメリカでは1931年(昭和6年)には、失業者が800万人を超え、職を要求する「飢餓行進」がホワイトハウスに押しかけています。
 ドイツの極右勢力のナチの党員数は1925年に2万7千人でしたが、経済不況を追い風として、世界大恐慌初年の1929年には17万8千人と急速に勢力を拡大しています。1930年には失業者は400万人を上回っていました。ヒットラーは「過剰人口を移民させるために新しい土地の領土を求めることは、現在をではなく、特に将来を注視するならば、無限に多くの利益がある」と「わが闘争」(アドルフ・ヒットラー著)の中で述べています。
 アメリカはルーズベルト大統領になると、効果的なデフレ対策を次々と打ち出して、ニューディ―ル政策と呼ばれています。いち早く金本位制から離脱して自国の自由裁量を増やし、各州の財政不足を連邦政府が強力にバックアップして、財政建て直しを図っています。悪評の高かった禁酒法を廃止して、国民の沈み込んだ気持ちを明るい気分にしたといわれています。このようにして世界大恐慌の火元となったアメリカはなんとか立ち直るきっかけを掴んだようです。しかし「昭和恐慌」に陥った日本では軍部が政治の実権をにぎり、その活路を海外の満州に求めました。ドイツでは自他共に認める扇動的雄弁家、また優れたオルガナイザーのヒットラーが総統となり、ドイツ民族の存立と増殖をめざして他国への侵攻を計画しました。
 このようにして、世界大恐慌は歴史的必然性をもって、大きな枠組みの中で、世界大戦へと連鎖反応を継続したのでしょう。もしもアメリカの株式投機の狂乱のバブル景気とその暴落がなかったならば、世界大恐慌はなかったかも知れません。そうすれば第二次世界大戦に突入するようなことはなかったでしょう。春秋の筆法をもってすれば、第二次世界大戦の勃発にはアメリカもその責任の一端を負わなければならないといえるかも知れません。「温故知新」といいます。このような貴重な経験を生かしましょう。世界大恐慌を起こさないために、経済大国は協力し合って、バブル景気をいち早く発見し、抑制しましょう。

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2−6米国教育使節団報告書

 第二次世界大戦で、日本が連合国軍に降伏したのは、昭和20年(1945年)8月15日です。
 その年が明けた昭和21年1月のはじめに、連合国最高司令官(マッカーサー元帥)は米国政府に対し、米国教育使節団を日本に送るように要請しました。その目的は多分占領政策を円滑に遂行するために、戦時色、軍国主義、国粋主義がまだそのまま残っているので、まず教育分野から、これらを抹殺することだったと思います。
 この要請により、同年3月はじめに、早速27名からなる第一次米国教育使節団が来日しました。団長はジョージ・ストッドダート博士、その他著名な教育学者や教育家がメンバーでした。このグループは約一ヶ月間、日本の教育の実情を視察し、報告書を連合国最高司令官に提出しました。この報告書では「民主主義、自由主義のもとにおける教育が、個人の価値と尊厳との認識に基づき、個人のもつ能力を自由な空気の中に伸ばすことを目的とする」となっています。別の文章では「自発的精神を養い、自他の敬愛と協力とによって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない」となっています。
終戦直後の混乱を極めた教育の現場を約一ヶ月間、駆け足で見て回って、米国の教育者は本当に日本の精神的風土と今後の理想像をイメージできたかどうか、はなはだ疑問に感じるところです。
 第一次報告書(1946年3月5日)では、日本の「修身」課目はどのような取り扱いを受けたと思いますか。「忠君愛国」は軍国主義であり、「修身」を残すことは教育界に禍根を残すことだと判断したようです。報告書では各種学科課程及び課外諸活動の中に「修身」を吸収するのだという言い訳をして、「修身」は完全に抹殺されました。
 第二次米国教育使節団は、1946年に行った勧告の進捗状況及び結果をチェックするため、1950年秋に来日しました。第一次使節団27名のうちの5名が参加した小規模のものでした。その報告書の最終章に、道徳および精神教育について次のように書いてあります。
 「・・・・・、われわれは日本に来てから、新しい日本における新教育は、国民に対してその円満な発達に肝要な道徳的および精神的支柱を与えることができなかったということをたびたび聞かされた。このような結論をする父母や教師たちは、平和と満足は、親や教師たちが、その子弟を助けて達成させなければならない自己鍛錬から生まれることを忘れているように思われる。・・・・。学生は親・兄弟・姉妹を愛さなければならないことを学ぶばかりでなく、また隣人を愛することは公共善を進歩させることになり、公衆の利益を増進するものであることを学ぶことができる。これらの道徳的義務は、家族の間から、また交友の間から、しだいに広がって、憲法を愛し、おきてと秩序を尊重するようになる。」
つまり日本の教育現場から出た道徳的・精神的支柱の欠如・喪失という指摘に対して、使節団は自己鍛錬と愛があれば事足りるといっているように思われます。「道徳」という教課は必要がない。他の国語・社会などの授業の中で教師が児童に話して聞かせればよいといっているようです。このようなアメリカ流の教育方針が日本には合わないことがわかっていながら、それでもなお自国の方針を押し付けるのが、占領軍の軍政だったのだと考えます。
 マッカーサー司令部は軍国主義・国家主義の考えをもっている教師、占領目的と政策に強く反対する教師を取り調べ、今すぐやめさせなさい、今後一切の教育にかかわる職から締め出しなさいと命令しています。
 戦争中は鬼畜米英の撃滅を叫んでいた小学校の先生方が、終戦を境に手のひらをかえすように民主主義を説くようになったのは、このような占領政策の結果だということを改めて認識していただきたいと思います。
 参考までにマッカーサー司令部指令を記載しておきます。
1. 昭和20年10月22日(日本の教育制度の管理についての指令)
1−b。教育関係者はすべて次の方針によって取り調べた上で、留任させ、退職させ、復職させ、任用し、再教育し、取りしまる。
(1) 教員と教育官吏は、できるだけ早く、取調べた上で、職業軍人、軍国主義と極端な国家主義をひろめる者、占領政策に進んで反対する者をやめさせる。

2. 昭和20年10月30日(教育関係者の資格についての指令)
1−a。日本の現在の教育関係者のうちで、軍国主義の考えや極端な国家主義の考えを持っていると一般から認められている者、日本占領の目的と政策に強く反対していると一般から認められている者は、すべて今すぐやめさせる。そして今後決して教育関係のどんな職にもつかせない。

3. 昭和20年12月31日(修身科、国史科、地理科の中止についての指令)
1−a。文部省が発行し、検定した修身・国史・地理の教科書と教師用参考書を用いる官公立学校などすべての教育機関においては、これらの修身・国史・地理の課程は、すべて今すぐ中止せよ。

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2−7教育基本法による自由放任

 主権在民の新憲法(1945年11月3日)と組み合わせになった新しい教育基本法ができたのは、終戦後間もない昭和22年(1947年)3月31日のことでした。
 第一条「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」
 この第一条は米国教育使節団の報告書の中の「この報告書は民主主義、自由主義のもとにおける教育が、個人の価値と尊厳との認識に基づき、個人のもつ能力を自由な空気の中に伸ばすことを目的とする」とよく似ています。
 「個人の価値」は全く同じです。「自由な精神に充ちた心身」は「個人のもつ能力を自由な空気の中に伸ばすこと」と内容的には同じことをいっているように思います。
 第一条の冒頭に出てくる「人格の完成」について少し考えてみましょう。
当時の田中耕太郎文部大臣は次のような意見を書いています。
1.「人格の完成」は「人間を超越する真善美の客観的価値」を前提とするものである。
その真善美の普遍妥当性は「人間がその理性によって認識できるものである」
2.「教育の淵源は教育勅語のみならず、あるいはバイブルあり、あるいは論語あり、孟子あり、あるいは仏教の聖典あり。そういうもの全部を教育の淵源として、今後道徳、道徳教育に利用しなければならない」
 教育基本法の草案の段階で、最初は「人間性の開発」となっていたそうです。しかし「開発」という言葉は現状を認め、その延長上にそのまま発展させるように受け取られるので、理想に向かって引き上げて行こうとする気持ちに反対なものが感じられると書かれています。
つまり「個人のもつ能力を自由な空気の中に伸ばす」のは開発かも知れない。しかし、教育的努力の理想としての「人格の完成」はもっと次元の高いものなのでしょう。
 「人格の完成」という日本語に対して、どのような英語が使われていたのか調べてみました。
1. 第一次米国教育使節団報告書(1946年3月31日)の「integration of individual character」を文部省は「個人的人格の完成」と訳しています。
2. GHQ(連合国軍総司令部)が発行した「新日本の教育」の教育基本法の英文訳では「人格の完成」は  「full development of personality」となっています。
 このように見てくると、英国流の個人的「character」あるいは米国流の[personality]を自由な雰囲気で積み重ね、開発し、発展・伸長させてゆけば、自然にできあがるものを目標としているように感じられます。しかし日本人の理念として、究極の目標としての「人格の完成」とはかなり隔たりがあるように思います。いま日常的にマスコミで使われているおもしろい「キャラクター」とか、人柄としてなんらかの味をもった「パーソナリテイ」と同程度の軽い意味と混同しないように充分注意しましょう。
 自由に、自然に、のびのびと個性を尊重して、自由放任で育てていれば、「人格の完成」が実現すると、本当に考えていたのでしょうか。
 もしかすると、米国の占領政策によって押し付けられた、すでにでき上がっている教育基本法(案)に対してせめて一矢をむくいて、日本道徳の根幹は「人格の完成」にあるのだということを広く日本国民に訴えるために、当時の文部大臣として、敢えて付け加えた苦心のキーワードではないかという気がします。その真意を深く考えてみましょう。
 「人格の完成した人」とは智慧を得えた人、悟りに近づいた人、しかも、それらを実生活において実践できる人のことをいうのではないでしょうか。少なくとも世の中の尊敬をあつめる人格者だと思います。個性尊重、自由放任でどうなるかということは、日本の戦後の道徳荒廃をみれば、容易に理解していただけることと考えます。もしかしたら、占領軍の関係者には知育・徳育という人間教育の基本が理解できなかったのかも知れません。
 昭和33年(1958年)の「道徳」時間の特設と指導目的36項目の指導目標の(9)として
「自分の考えや希望に従ってのびのび行動し、それについて責任を持つ」ということが書かれています。考えてみると、自分の行動について責任を持てるのは、満20歳の成人になってから、はじめて可能となります。小学生・中学生・高校生が自分の好きなように、のびのび行動して、問題を起こしたとき、その責任を問われるのは、その保護者だということを度外視して、耳ざわりの良い言葉をつらねているのではないでしょうか。それについて責任を持つといわれても、未成年者にその責任を負わすことは、社会的に認められていないのです。したがって、未成年者は自分の考えや希望が社会的に、道徳的にどのようなものなのか、よくよく考慮しなければならないのです。昔はこどもが何か問題を起こすと、「親の顔が見たい」といわれたものですが、現在の親の世代がすでに「のびのび教育」に染まっていて、道徳観念が希薄になっているので、早急な対策が必要です。

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2−8菊と刀

 アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクト女史は第二次世界大戦中の1944年6月に日本研究の仕事を政府から委嘱されました。その当時、米軍はサイパン島に上陸し、太平洋戦争は終局に向かっていました。彼女は交戦中の日本について、米国内にいながら、文献、映像、日系人との面談、米軍情報機関からの情報等を総合的に考えて、日本人の精神的なバックボーンを研究しました。
 その日本研究は戦後、「菊と刀」として出版され、日本でベストセラーとなりました。菊は天皇制、刀は武士・日本人の魂というテーマでしょう。この本の中で、日本人の精神構造の特徴について、色々と書いていますので、いくつか取り上げてみたいと思います。
 「菊と刀」(ルース・ベネディクト著 長谷川松治訳 現代教養文庫)

1. 性善説「日本では人間の性質は、生まれつき善であり、信頼できる。それは自己の悪しき半分と戦う必要はない。ただ心の窓を清らかにし、場合場合にふさわしい行いをするだけである。もしそれが「けがれた」としてもけがれは容易に取り除かれ、人間の本質である善が再び輝きだす。道徳律は経典の中ではなく、悟りを開いた清浄無垢な自分の心のうちに発見するものの中にある。各人の魂は、本来は新しい刀と同じように徳で輝いている。ただ、それを磨かずにいるとさびてくる。人は自分の人格を刀と同じようにさびつかせないように気をつけなければならない。しかしながら、たとえさびが出てきても、そのさびの下には依然として光り輝く魂があるのであって、それをもう一度磨き上げさえすれば、よいのである。」
 このように人間は生まれながらにその本性は善なのだという、日本的な楽天的な思想と、キリスト教などの「原罪」といって人間は生まれてきただけで、すでに罪深きものなのだという思想では大きな隔たりが感じられます。人間として生まれてきただけで、すでに罪を背負っているのだ。善良な市民生活を続けても、生きてきたというだけでますます罪が重くなるのだ。これを救えるのは絶対唯一神しかないのだという宗教的原理は私には残念ながらよくわかりません。「原罪」という意識はもしかしたら、食肉を主体とした食生活を維持するために、日常的に必要不可欠な、家畜の屠殺・犠牲にその根源が潜んでいるような気がします。

2. 罪悪感と恥
「アメリカに移住した初期のピューリタンたちは、一切の道徳を罪悪感の基礎の上に置こうと努力した。現代のアメリカ人の良心がいかに罪の意識に悩んでいるかということは、すべての精神病医の承知しているところである。しかしながらアメリカでは、恥が次第に重みを加えてきつつあり、罪は前ほどにははなはだしく感じられないようになってきている。アメリカではこのことは道徳の弛緩と解されている。この解釈には多分の真理が含まれているが、しかしそれはわれわれが、恥には道徳の基礎という重任を果たす資格がないと考えているからである。」(第十章徳のジレンマ)
 人間は生まれながらにして善なのだ。時々迷うこと、間違うことはあるけれども、心からお詫びをすれば許されるのだ。けがれは取り除かれて、元の姿に戻れるのだという「性善説」は日本人にはわかりやすい説だと思います。
 今から半世紀も前に書かれた「菊と刀」の中に、「アメリカでは恥が次第に重みを加えてきつつあり・・・」という文を見たとき、やはりそうかと思いました。すべての道徳の基礎を聖書に置き、その一言一句に照らし合わせて、現代の生活を判断するということは、かなりむずかしいと思います。聖職者のすべての判断に絶対的信頼を置き、一点の疑念もはさまないかといえば、それは無理と思われます。
 現在の生活の規範として、法の精神に対する罪悪感であれば、充分納得できます。その罪悪感を神に対する罪悪感として受け止めるか、それとも社会一般の良識という鏡に写った自分をみて恥と感じるかは、その人の宗教観の相違によるのではないでしょうか。つまりルース・ベネディクト女史の罪悪感の文化と、恥の文化では大きな違いがあるという対比の仕方は、人類文化論としてはおもしろいと思います。しかし人類が数千年かけて試行錯誤の末、たどりついた一般社会の良識に対する罪悪感、自分の良心に対する恥、共通の道徳律は各民族、各宗教、各宗派の違いを超えて、人類の尊い智慧ではないでしょうか。

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2−9世間の目 恥を知る

 「菊と刀」(ルース・ベネディクト著)の中に「真の罪の文化は内面的な罪の目覚めにもとづいて善行を行なうのに対して、真の恥の文化は外面的な強制力にもとづいて善行を行なう」という記述があります。彼女のいいたいのは、日本の「恥」の意識は神の定めた規則に違反した罪ではなくて、世間のきびしい目によって指摘された欠陥を恥じることなのでしょう。別のいいかたをすれば、神との契約に違反した行為が欧米の罪なのであって、世間一般の人々の目にさらされた自分の醜い姿を恥ずかしいと思うのが日本の道徳の基本をなしているといいたいのでしょう。
 唯一絶対の神の意思をすべての判断基準とするキリスト教、イスラム教の道徳律に対して、世間の人々の良識に判断基準を置いているのが、日本の道徳律の特徴といえるでしょう。ただ彼女が「外面的な強制力」といっているのは、もしかしたら日本の昔の農村の「村八分」のような精神的、経済的な仕置きのようなものを念頭に置いていたのかも知れません。

 「人民の人民による人民のための政治」という有名な言葉があります。この表現方法を借用して、「人々の人々による人々のための道徳」というのが、世間の目、恥を知ることを重要な要素とする、日本の道徳律の基本ではないでしょうか。比較的軽いはみ出し行為に対しては、軽犯罪法違反、各種条例違反などがあります。このような軽い規制は簡単に決められますが、また簡単に変更されますので、道徳教育の根幹にはなりません。村の実力者グループが相談して、「村八分」を決めても、それが必ず正しいかというと、怨恨、行きがかり、メンツ、見栄、よそ者意識、利害などがからんだ、差別的なものだったと思います。恥は本来、自己反省による自発的な、内面的なものであって、彼女のいうような外部からの強制によるものではないと私は考えます。
 自分たちの行動の善悪を判定する「社会的基準」を作ってくださいと、特定の宗教的指導者にお願いする方法があるかも知れません。しかし日本では「世間の目」を集団自律の社会的基準としているといえるでしょう。「世間体が悪い」といって、法律違反でもなく、自治体の条例違反でなくとも、やはり世間一般の良識(善意識)に照らして、恥となるようなことはしないのが、立派な人といえるでしょう。
 キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒、ヒンズー教徒、儒教を重んずる人々、神道の人々、その他のひとびとが狭い宇宙船地球号で共存共栄をはかるとき、いたずらに自分たちの宗教、教義にこだわることなく、「人々の人々による人々のための道徳」をめざすべきではないでしょうか。自分の良心に恥じない行いをしましょう。
「でもお父さんお月様がみているよ」という言葉が「恥」(向坂寛)にのっています。
 「だあれもいないと思っていても どこかでどこかでエンゼルは いつでもいつでもながめてる ちゃんとちゃんとちゃんとちゃんとちゃちゃーんと ながめてる」(エンゼルはいつでも 作詞サトウハチロー 作曲芥川也寸志)という森永製菓(株)のコマーシャルソングが今でも耳元で鳴っているような気がします。

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