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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
大正の童謡 (2)
お山の杉の子   おもちゃのマーチ    月の沙漠     どんぐりコロコロ    花嫁人形    
冬景色   村のかじや    めえめえ小山羊    夕日     
雪こんこお馬
 青木存義の略歴  小田島樹人の略歴  加藤まさをの略歴   葛原しげるの略歴 
 佐々木すぐるの略歴   杉山長谷夫の略歴   蕗谷虹児の略歴   藤森秀夫の略歴  
坊田かずまの略歴   室崎琴月の略歴    梁田貞の略歴
内容は「童謡・唱歌 事典」です(編集中です)




めえめえ小山羊

作詞 藤森秀夫
作曲 本居長世

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2012/09/01)

 歌は、コヤギの「めえー めえー」と鳴く声で始まります。動物の鳴き声で始まる童謡は珍しく、例がありません。

  【発表】
  ・大正十年(1921年)一月に本居長世(もとおりながよ)が作曲をしました。
  ・詩と曲が同時に雑誌『童話』(コドモ社)の大正十年四月一日発行、四月号(第二年第四號)で発表されました。 「童話四月號目次」のタイトルは「めえめえ小山羊」となっていますが、2ページに掲載詩のタイトルは「めえめえ児山羊」となっています。
  (註)『童話』は、大阪府立中央図書館 国際児童文学館で所蔵しています。 この図書館では、申し込めばカラーコピーが可能です。

▲『童話』表紙。「あたゝか」川上四郎・絵

(挿絵は川上四郎)実際はカラーだが、挿絵が入っているとは思わず、白黒で複写依頼をしてしまった。(2011年10月20日)

  <今歌われている歌詞との相違点>
  ・「森の児山羊」が一回だけ。
  ・「あたれやあいよが」「あ痛い」「株(かぶつ)にあたる」「あたれやあんまが」「藪(やぶ)こあたれば」と書いている。
  ・「朽木(とつこ)」「頸(くび)こ」は、この漢字で書いてある。


 <作曲上、藤森の詩を改作した部分>
  ・「もりのこやぎ」が二回繰り返されている。
  ・「あたれや」は「あたりや」に、「あ痛い」は「あーーいたい」とした。
  ・速度表示はない。
  (註Ⅰ)松浦良代著『本居長世』(国書刊行会)156ページに長世直筆楽譜が掲載されていますが、残念ながら小さくて、これでは判読できません。楽譜が見たいものです。
  (註Ⅱ)2012年8月30日、東京上野の『旧東京音楽学校奏楽堂』で本居長世の「めえめえ小山羊」の直筆譜が公開されていました。直筆譜ですが、楽譜冒頭に「軽快に」という速度表示が入っているので、最初に作曲をした時書いた楽譜かどうか疑問があります。いつ書かれたかわからないので、比較の対象にできません。
 楽譜に書かれた歌詞は次のようでした。注目したいのは「あたりやあんよが」「かぶつにあたる」「あたりやあんまが」「かぶこあたれば」と、なっていることです。

     めえめえ小山羊

   めえ めえ もりのこやぎ もりのこやぎ
   こやぎはしれば こいしにあたる
   あたりやあんよが あーーいたい
   そこでこやぎは めえとなーく。

   めえ めえ もりのこやぎ もりのこやぎ
   こやぎはしれば かぶつにあたる 
   あたりやあんまが あーーいたい
   そこでこやぎは めえとなーく。

   かぶこあたれば はらこがちくり 
   とーーこあたれば くびこがおれる
   おれりやこやぎは めえーーとなーく。

  【収録】『本居長世作曲新作童謡』第三集(敬文館) 大正十年(1921年)十二月十五日発行に収録。
  (註Ⅰ)神奈川近代文学館は、大正十三年(1924年)四月十五日(改正十版発行)所蔵。この図書館では、申し込めばカラーコピーが可能。
  (註Ⅱ)金田一春彦著『十五夜お月さん 本居長世 人と作品』(三省堂)は、この本についての重要な事が書いてあります。
  “十集までは、カラスアゲハの羽をつけた女の子が、花園に飛んでいる絵を表紙にした。十二ページぐらいの冊子。挿絵も色刷り。
長世の童謡は演奏会のほかに、この楽譜によって広まったのである。

▲『本居長世作曲新作童謡』第三集(敬文館)表紙

▲目次 タイトルは「めえ めえ小山羊」 ▲歌詞

 <重要な歌詞の改正>
  ・一、二、三番と分けた。
  ・一番「あたりや
あんよがあー痛い」で、二番も「あたりやあんよがあー痛い」と同じ。覚えやすく歌いやすくなった。
  ・二番の「
株こにあたる」を受けて、三番の出だしを「かぶこあたれば」と変えた。これで覚えやすく歌いやすくなった。ここの改正は、とても重要。
  ・「首こ」の漢字は、子供にわかりやすい。
  ・ここで、覚えやすく歌いやすく
改正したことにより、詩の意味が全然違ってしまいました。この歌詞の改正は本居長世がしたのでしょう。楽譜冒頭には新たに「軽快に」と書き込んだ。
  ・歌詞を改正したので、初出の『童話』の詩「めえめえ児山羊」と区別するためにタイトルも「
めえめえ小山羊」に改正した。

▲楽譜 冒頭に「軽快に」という速度表示を入れた。
●歌詞の二番は「あたりやあんよが」に改正したのに、楽譜は「あたりやあんまが」のまま出版されてしまった。
この誤植は、後に発行された本居長世編『世界音楽全集』第二十四巻 日本童謡曲集Ⅱ(春秋社)
昭和6年5月15日発行で「あたりやあんよが」に正されている。

 【表紙絵について】
  ●金田一春彦著『十五夜お月さん 本居長世 人と作品』(三省堂)に書いてある。 “十集までは、カラスアゲハの羽をつけた女の子が、花園に飛んでいる絵を表紙にした。”は間違い。例えば、

▲第六集 表紙 (大正十一年六月五日発行) 絵日傘を持った女の子の絵  裏表紙と表で一体の絵

 <『本居長世作曲新作童謡』(敬文館)について>  第三集までが大正十年に出、第九集までが大正十一年中に出た。第十三集は大正十二年六月に出ているが、以後は大震災のため、中止になった。掲載曲は金田一春彦著『十五夜お月さん 本居長世 人と作品』(三省堂)に書いてある。(255ページ参照)。
 
 ★著者・池田小百合は、
第十三集を探しています。所蔵図書館を教えて下さい。
   お持ちの方は連絡をして下さい。ぜひ見たいと思っています。よろしくお願いします。

  【本居若葉や川田正子が歌う】
 <戦前は>長世の三女・若葉が、長世のピアノ伴奏でよく歌いました。
 長世は昭和九年四月二十二日、日本青年会館で「本居長世作品発表会」を催した。本来は長世の三女、若葉の童謡独唱会のはずだったが、だんだん大規模になって、長世の作品の発表会になってしまった。この会はシャボン玉社の創立十周年記念事業として計画されたもの。
  (註)『シャボン玉』については、「うみ」を参照して下さい。

   「本居長世作品発表会プログラム」童謡独唱・本居若葉 伴奏・本居長世
    A、シャボン玉社社歌
    B、四丁目の犬(野口雨情)
    C、十五夜お月さん(野口雨情)
    D、青い眼の人形(野口雨情)
    E、お月さん(西條八十)
    F、めえめえ小山羊(藤森秀夫)

  注目したいのは、プログラムの最後に書かれている歌は「めえめえ小山羊」だということです。長世自身、とても気に入っていたのでしょう。 長世の代表的作品は、すべてステージに載せられ、一流の音楽家、俳優によって上演された。若葉はこの時十五歳になっていた。長女のみどりは、健康上の事情で出演しなかった。貴美子も、もう歌うのをやめていた。これが最後の作品発表会となった。

 『十五夜お月さん 本居長世 人と作品』(三省堂)の著者・金田一春彦が次のように書いている。
 「筆者はこのころ如月社(きさらぎしゃ)の末席に連なっていた。そうしてコーラスは一人でもよけいいた方がというわけで、いちばん隅の所に立って、形だけ口を動かしていた。それでもはなやかな席に連なったという事で感激した。そうして、長世という人はなんと恵まれた幸せな人だろうと考えたりした」。

 (註)『如月社』について
 長世の名声が高まるにつれて、教え子でなくても、長世を慕ってその周囲に集まってくる者がふえた。長世は「本居如月」と号していた。彼はそれを自分中心とする音楽グループの名にも使い「如月社(きさらぎしゃ)」と呼んだ。如月、旧暦の二月は彼の好きな季節だった。「如月社」は、大正七年二月十七日に創立された。・・・同人や演奏会については、金田一春彦著『十五夜お月さん 本居長世 人と作品』(三省堂)に詳しく書いてあります。類似の本が沢山出ていますが、この本が一番長世の気持ちをとらえている。

 <戦後は>
  “昭和二十年十一月十二日、NHKでは「本居長世作品集」という番組を作り、長世の曲「祭り囃子」など十一曲を選んで、藤山一郎・長門美保らに歌わせた。この中で、川田正子が歌った「めえめえ小山羊」が評判になり、この歌は戦前以上に人々に歌われるようになった。”
 この文は、金田一春彦著『十五夜お月さん 本居長世 人と作品』(三省堂)の505ページに書いてあるものですが、すでに多くの出版物で使われています。出典を明らかにしておいてほしいものです。それは研究者のルールです。
 金田一春彦は、『十五夜お月さん 本居長世 人と作品』(三省堂)の中で、一貫して「めえめえ小山羊」のタイトルを使っている。 戦後この曲を歌った川田正子は、『思い出の童謡名曲集 みかんの花咲く丘』(日本コロムビア)テープ解説に次のように書いています。
 “終戦直後、それまでの歌の大半はダメということになって、童謡でもラジオでうたうものがなくなってしまいました。そんなとき、この歌はよくうたったものです。放送会館でも、わたしが歩いていると、「あ、めえめえが通っている」などと言われたものです”。
 このテープのタイトルは「めえめえ小山羊」。 テンポや音程が難しい曲ですが、正子は難なく歌いこなし大ヒット曲となりました。

 【レコードの吹き込み】 以下は金田一春彦著『十五夜お月さん 本居長世 人と作品』(三省堂)による。
  ・大正十年以後、ニツポノホンから本居みどり子独唱、本居長世ピアノ伴奏のレコードが出た。
   表 二九七九 「お山の烏」「九官鳥」「めゑめゑ小山羊」
   裏 二九八〇 「ダリヤ」「帰雁」
  ・昭和八年六月、ビクターレコードから歌・本田信子、伴奏・管弦楽のレコードが出た。
   五二六七七A 「めえめえ子山羊」
   五二六七七B 「乙姫さん」

  以下は北海道在住のレコードコレクター北島治夫氏の所有による。
   ※2番は、全て「あたりゃ あんよが」と歌われている。
  ・テイチク K4 川田正子 (海沼實編曲) 「めえめえ小山羊」
  ・コロムビア C20 川田正子 (海沼實編曲)  A面「めえめえ小山羊」「花屋さん」、B面「みんなでお掃除」
  ・ビクター B335 古賀さと子 (佐野鋤編曲) 「めえめえ小山羊」
  ・タイヘイ E2 田口幸子 (長谷川賢二編曲) 「めえめえ仔山羊」
  ・ビクター B147 本多信子 「めえめえ子山羊」 ※「とーっこ あたれば」は「とーこに」と歌っている。
  ・キング AC10144 河村順子 (細川潤一編曲) 「めえめえこやぎ」 ※最後の「おれりゃ こやぎは めえとなく」は「そこで こやぎはめえとなく」と歌っている。

 【歌碑について】
  昭和三十九年五月五日の「子供の日」に、長野県南安曇郡(みなみあづみぐん)豊科(とよしな)町の豊科中学校の校庭の一角に歌碑が建立されました。豊科中学校は後に移転し、その跡地に豊科近代美術館が建設されましたが、歌碑はそのままの位置にあります。 碑面の文字は作詞者・藤森秀夫の未亡人・幸(こう)の筆です。タイトルは「めえめえ児山羊」。雑誌『童話』と同じ。現在歌われている歌詞と少し違います。これは、後に藤森が色紙か何かに書き残したものでしょう。 以下は歌碑の詩です。

   「めえめえ児山羊」の歌碑 長野県南安曇郡豊科町 豊科近代美術館前
      めえめえ児山羊     詩 藤森秀夫
   
     めえめえ 森の児山羊
     児山羊走れば  
           小石にあたる
       あたりゃ あんよが
       あ いたい
       そこで児山羊は
       めえ と なく

     めえめえ 森の児山羊
     児山羊走れば
           株つにあたる
       あたりゃ あんまが
       あ いたい
       そこで児山羊は
       めえ と なく

     やぶこあたれば  
            はらこがちくり
     とっこあたれば  
            くびこが折れる
     折れりゃ 児山羊は  
      めえ と なく

 【「東北なまり」か?】
  ・与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)には、“東北地方の方言をとり入れた童謡”と書いてあります。
  ・長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)には、次のように書いてあります。
  “ドイツの「わらべうた」に、この詞とまったく同じものがあって、それをそのまま日本語に移し替えたものです。ただ、標準語にしないで、株こ=切株、腹こ=おなか、とっこ=朽木、首っこ=首、など東北なまりを多用することによって、日本的な情緒を出そうと腐心をしたあとが十分うかがえます”。
 この“東北なまりを多用することによって・・・”という文は、どの解説書にも使われています。はたして「東北なまり」なのでしょうか?

 【「信州なまり」か?】
  秀夫が生まれ育った長野県の「信州なまり」ではないでしょうか。長野県南安曇郡豊科町教育委員会社会教育課に問い合わせたところ、「<あんよ>は足で、<腹こ>は腹で、一般的にどこでも使われている表現であり、特別に信州弁ではないようです」と返事をいただきました。

 【考察1 かわいらしく・・・藤森秀夫の苦心】
  ・初出『童話』の「あいよ」は、歌碑では「あんよ」になっている。『本居長世作曲新作童謡』第三集(敬文館)で「あんよ」に改正された。
 <あんよ>=足。幼児語です。これを使うと、かわいらしい。 <あんま>とは頭のこと。

  【考察2 おもしろく・・・藤森秀夫の苦心】
  ・<藪(やぶ)こ>、<腹(はら)こ>、<朽木(とっこ)>、<頸(くび)こ>
 東北地方では名詞の下に“こ”を付ける。“こ”というのは特に意味はありません。東北地方特有の接尾語です。詩を一層おもしろくするために東北なまりをとり入れたものです。実際の東北なまりでは「やぶっこ」「はらっこ」「※」「くびっこ」と発音する。これでは詩が泥臭くなりすぎるので、<やぶこ>、<はらこ>、<とっこ>、<くびこ>としたのでしょう。これで東北なまりといっても、新感覚でスマートになりました。「やぶっこ」「はらっこ」「くびっこ」としなかったので成功しています。藤森秀夫の苦心がうかがえます。
  ・初出『童話』の<株(かぶつ)>=切り株は、わかりにくいので『本居長世作曲新作童謡』第三集(敬文館)で<株こ>に変えた。実際の東北なまりでは「かぶっこ」と発音します。『本居長世作曲新作童謡』第三集(敬文館)では、三番の最初も<かぶこ>に改正した。これで歌いやすくなった。

  (註Ⅰ)東北地方は本州東北部にある。青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県の六県で構成され、本州の約三割の面積を占める。奥羽(おうう)地方ともいう。岡本敏明 補作詞・作曲『どじょっこ ふなっこ』という歌があります。秋田県で歌われていた、わらべ歌・民謡をとり入れたものです。<どじょっこ>=どじょう、<ふなっこ>=ふな。おもしろい歌です。

  (註Ⅱ)テレビでニュース番組を観ていると、「方言弁論大会」が放送されていた。アナウンサーが、「・・・会場は笑いに包まれ・・・」と言った。方言は、おもしろいのです。

 【考察3 <※朽木(とっこ)>とは何か?・・・藤森秀夫の苦心】
  ・『小学漢字辞典』(福武書店)には、次のように書いてあります。
 【朽】(音)キュウ(訓)くちる(意味)くちる。くさってもとのかたちがなくなる。おとろえてつかいものにならない。(例)不朽(ふきゅう)、腐朽(ふきゅう)、老朽(ろうきゅう)。
  ・『漢和辞典』(三省堂)には、重要な事が書いてあります。 〔朽木糞土(きゅうぼくふんど)〕役に立たないたとえ。朽木は腐った木、糞土ははきだめの土。
  「朽木」=腐った木。実際には(きゅうぼく)と読むが、これでは詩に使えない。そこで藤森は類似の(杤木・栃木 とちぎ)と読む事にした。東北なまりでは「とつのき」または「とつぎ」と発音する。藤森は、“東北地方の方言をとり入れた童謡”にするために(とっこ)とした。

 【考察4 ヤギもおもしろく・・・藤森秀夫の苦心】
  「日本の在来種のヤギは、九州地方に限られる。この詩では野生と思えるヤギが東北方言で歌われているのが気になる」という研究者がありますが、“おもしろくするために、東北地方の方言をとり入れた童謡”と考えると、藤森秀夫の涙ぐましい努力が理解できます。

 【母親の教訓】
 これは母親が子どもに与える教訓ではないでしょうか。「なにをすれば」、「どうなるか」を教えています。
 「走って小石にあたると、(足)が痛くなるよ。もっと走ると、今度は(切り株)につまずいて、(頭)を打つ。(藪)に入ると、(腹)を刺し、(朽木)にあたると(頸)が折れて死んでしまうよ。だから、あわてて走るのはいけないよ」と教えているのです。

 【「変な童謡」】
  このように見ていくと、意味のわかりにくい童謡だと言えます。藤田圭雄も、その著『日本童謡史』(あかね書房)の中で「藤森の童謡を一ことで評せば「変な童謡」といえる。・・・藤森は、何か新しい方向をつかもうと努力した」と書いています。
 藤森は、子どもの歌とは何か、童謡とは何かをテーマに、わらべうたや、外国の子どもの歌、大人の歌曲風なものまでいろいろ研究し、まねて作ってみたりしたのですが、そう簡単に定義が下せるものではありませんでした。それは、藤森だけでなく、どの童謡詩人も苦悩した道で、藤森の童謡歴は短期間で終わってしまいました。藤田圭雄は文中で、藤森が平凡な作風にとらわれず、白秋にも八十にも雨情にもない新しい作風を摸索したことを高く評価した上で、「もう少し時を貸したかった」と残念がっています。 また、「ドイツ語に堪能な藤森は、もっとドイツを中心にした外国の子どもの歌を紹介してくれたほうがよかったのではないか」とも書いている。
 藤田圭雄著『日本童謡史』(あかね書房)掲載の詩は、初出『童話』と同じです。藤田圭雄は、次のように解説しています。
  “この歌も「あいよ」「あんま」「頸こ」「かぶつ」「とつこ」などと、不必要な幼児語、あるいは方言が使ってあるし、「そこで児山羊は」というのも日本語のうたとしては、いかにも無理だ。しかしこの歌は、ドイツのわらべうたをほとんどそのまま日本語にうつしたものだ。”
 そして、元の歌、万足卓の翻訳が紹介してある。

    メー 子やぎ メー
    子やぎ 野原で
    石につまずいて
    足をいためて
    そこでまた メー

    メー 子やぎ メー
    子やぎ 野原で
    株につまずいて
    頭を打って
    そこでまた メー

    メー 子やぎ メー
    子やぎ 野原で
    草につまずいて
    お腹を突いて
    そこでまた メー

 (註)藤森秀夫に関係する論文は多数ありますが、藤田圭雄著『日本童謡史』(あかね書房)が一番優れています。藤田圭雄の考察から藤森の苦悩が理解できます。

 【見事に作曲】
 さて、この「変な童謡」を、本居長世が「見事な童謡」に仕上げました。まず、藤森の書いた「森の児山羊」は一回だけでしたが、二回続けて歌うようにし、「森の児山羊」を強調して作曲しました。「めえめえ」に対して、「森の児山羊 森の児山羊」とは、なかなかすばらしい。そして、「あ 痛い」は、「あーー いたい」と節回しが良いようにしました。日本人は、このような節回しが大好き。

 曲の構成は、全体が三つに分かれています。のびやかな節が二回繰り返された後、「かぶこ あたれば」からは、せき込んだようなリズムの節で、最後の「めえー」は、たっぷり延ばし、次の「と なーく」は、短く歌いおさめます。最後の「めえー」という長い鳴き声で曲全体をまとめています。私、著者池田小百合は、この部分の伴奏が、とても気に入っています。
 藤森秀夫から与えられた「変な童謡」を、ほとんど改作せず、このような奇抜な曲が作れるのは、おそらく長世以外にはいないでしょう。見事です。

  【楽譜について】 『めえめえ小山羊』のタイトルの楽譜は以下の二冊で見る事ができます。
  ・本居長世編『世界音楽全集』第二十四巻 日本童謡曲集Ⅱ(春秋社)昭和6年5月15日発行
 この楽譜で注目したいのは、『本居長世作曲新作童謡』第三集(敬文館)の楽譜で
誤植だった二番は、「あたりやあんよが」に正しくなっている
  ・金田一春彦・本居若葉共編『本居長世童謡選集 七つの子』(如月社)
  この楽譜集は、本居長世編『世界音楽全集』第二十四巻 日本童謡曲集Ⅱ(春秋社)を参考にしているので同じです。

             ▲「めえめえ小山羊」楽譜  金田一春彦・本居若葉共編『本居長世童謡選集 七つの子』(如月社)掲載。


▲「めえめえこやぎ」鈴木寿雄・絵 『講談社の絵本ゴールド版 童謡画集』昭和40年(講談社)


 【藤森秀夫の略歴
  ・明治二十七年(1894年)三月一日、長野県南安曇郡豊科町新田の医師の長男として生まれました。
  ・松本中学、第一高等学校、東京帝国大学(現・東京大学)文科大学文学科(独逸文学)を卒業(大正七年)し、ドイツに留学。
  ・ドイツ文学者、教育家になりました。
 生涯を教職にささげ、第五高等学校(現・熊本大学)、旧制富山高等学校(現・富山大学)、第四高等学校(現・金沢大学)などの教授を歴任しました。
  ・大正十年、『めえめえ児山羊』を発表。
 この詩に本居長世が作曲。昭和十年代になると小学校の音楽授業で歌われるようになりました。レコード化、ラジオ放送により全国で愛唱される作品となりました。
  ・晩年は早稲田大学や明治大学、慶応大学でもドイツ語とドイツ文学を教えました。
 ゲーテとハイネの詩集の翻訳者としても有名です。
 詩集『こけもも』、詩童謡『風と鳥』などがある。
  ・昭和三十七年(1962年)十二月二十日、六十八歳で亡くなりました。
  ・昭和三十八年二月十六日、娘のさやかが、詩、童謡、小曲等四十八篇を選んで編集した『藤森秀夫遺稿詩集』が出版された。

  「フリージア」(藤森秀夫 作詞、本居長世 作曲)も掲載されている。


▲ 『本居長世作曲 
新作童謡』第五集(敬文館)
大正十一年五月十五日発行に掲載
挿絵には「Sui」のサインがある。
「フリージア」(藤森秀夫 作詞、本居長世 作曲)『童話』大正十年十二月号掲載。
▲楽譜は本居長世編『世界音楽全集』第二十四巻 日本童謡曲集Ⅱ(春秋社)
昭和六年五月十五日発行より

【雑誌『童話』】 尾木総太郎が主宰。千葉省三が編集。
  ・大正九年四月から、大正十五年七月までに七十五冊を刊行。第三号から藤森秀夫が登場し、第七号から島木赤彦が参加、第三年の第四号から西條八十が『赤い鳥』から移り、『童話』の童謡は、『赤い鳥』の白秋、『金の星』の雨情と共に、三つの大きな柱として揺ぎないものになった。
  ・発行所は、大正四年以来、絵雑誌『コドモ』幼年雑誌『良友』を出していたコドモ社。
  ・童謡の選者は、北原白秋、野口雨情、三木露風、若山牧水、藤森秀夫、加藤まさを、葛原しげる、白鳥省吾、浜田広介ら。
  ・作曲の選者は、山田耕筰、弘田龍太郎、北村季晴、本居長世ら。
  ・藤森秀夫は、『童話』の第一年第三号(大正九年六月号)から、第三年第三号(大正十一年三月号)まで、二十一号(第一年第七号を除く)にわたり、毎号、一篇ないし二篇の童謡を発表、総数四十篇を数える。

 【短期間の活躍】
  童謡詩人としての藤森秀夫は、大学を卒業したばかりの二十歳代の若さで『童話』の童謡欄を受け持ち、総数四十篇の作品を作っていますが、わずか一年九ヶ月(大正九年六月から大正十一年三月)の苦闘の結果、その地位を西條八十に譲って(大正十一年四月号から藤森に代わって『童話』の童謡欄を受け持った)童謡界から去ってしまったため、忘れられてしまいました。今日、童謡詩人としての藤森秀夫は、わずかに『めえめえ児山羊』の作者として記録されるだけになりました。
 
 <悩み続けた藤森の童謡>  雑誌『童話』に、どのような童謡を作って行ったらいいか、藤森秀夫は悩んだ。
 「人形の涙」お人形ちやんのめいめに/毛ん毛がはいつて/お人形ちやんのめいめは/ほろほろほろり・・・このような、甘い、幼児語の謠で出発したが、その形を続けて行くか悩んだ。 そして古いわらべうたの形式も試みたが、しだいに子どものうたではなくなっていった。
 大正十年五月号に「蜻蛉(かげろう)」水や行く?/童は問はず/夢をのせて/小舟は下る/蜻蛉のひま!・・・が掲載され、山田耕筰が作曲しているが、『童話』の編集者の千葉省三が「藤森氏は子どもにわかりにくい高踏(こうとう)的な詩をしばしば書いてくるので、かんべんしてもらった」と言った。
 千葉省三は、友人の相馬泰三の紹介で童謡の寄稿を依頼したのだが、藤森の童謡は、一般的に難解で親しみにくく、評判はよくなかった。これには藤森を推薦した相馬泰三も、あれは失敗だったと頭をかいていたという。
 大正十年十二月号の「フリージア」は本居長世の作曲。ドイツ・リートの流れをくんだ小曲風のもので、これも童謡とはいえない。一見、訳詩かと思われる形態を見せている。 藤森は最後まで自分の童謡のペースをつかめないままで終わった。
 ドイツ近代詩の流れは、藤森秀夫の詩の全体を覆っている。 藤森は学者であった。高校で、大学で、ドイツ語を教え、ドイツ文学を講じた。しかし生涯、詩の筆は捨てなかった。
 当時は、「三人姫」「フリージア」が歌われ、「めえめえ小山羊」は長世の娘たちは歌ったが、ラジオなどで他の人が歌うというような事は、ほとんどなかった。ところが、長世は藤森の詩につけた曲のうちでは、「代表作品表」の中には、「めえめえ小山羊」一曲を選んでいる。

 【なぜ、長世は藤森秀夫の詩に曲をつけたか】
 『童話』の編集の千葉省三は、長世以外に作曲家というものを知らなかったので、迷うことなく長世に依頼した。長世はちょうど脂の乗り切った頃だったので二つ返事で承諾したらしい(金田一春彦著『十五夜お月さん 本居長世 人と作品』(三省堂)による。この本は必見です。優秀な長世と、孤独な長世の一面がえがかれている)。
 以下は『童謡』に発表された藤森の童謡で、長世が作曲した作品。
   ・「エス様」大正十年二月号
   ・「めえめえ小山羊」大正十年四月号
   ・「鶺鴒(セキレイ)さん」大正十年六月号
   ・「薊(あざみ)の花」大正十年七月号
   ・「三人姫」大正十年九月号
   ・「飴屋の蟋蟀(こほろぎ)」大正十年十月号
   ・「豹」大正十年十一月号
   ・「フリージア」大正十年十二月号
   ・「朱欒(ザンボア)」大正十一年一月号
   ・「砂漠の彼方」大正十一年二月号
   ・「鶯」大正十一年三月号

 【本居長世の略歴】
  ・作曲者の本居長世は、三重県松阪生まれの江戸時代の国学者、本居宣長(のりなが)の家系です。長世は後継者として、明治十八年四月四日、東京下谷区御徒町(したやく おかちまち/現・東京都台東区下谷)で生まれました。
  ・母は一歳の時に亡くなり、父は本居家を出たため、祖父に育てられました。当然、国語・国文学の道に進むはずでしたが、中学校の唱歌から音楽に目覚め、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)に入学しました。それは、国学者の系譜を断つ事になりました。長世は、音楽に懸命に打ち込みました。
  ・明治四十一年三月、全学部を通じての首席で本科器楽部を卒業。声楽部にいた山田耕作も同期に卒業。ただちに同校の教授補助(東京音楽学校邦楽調査補助)となりました。
  ・明治四十三年四月、二十五歳の時、器楽部助教授に昇進。若き日の弘田龍太郎、中山晋平、草川信らを教えました。『四丁目の犬』『七つの子』『赤い靴』『十五夜お月さん』(野口雨情・作詞)、『お山の大将』(西條八十・作詞)、『汽車ぽっぽ』(本居長世・作詞)など沢山の童謡を作曲しました。
  ・大正九年五月十四日、渋谷町下渋谷(しもしぶや)の家から、東京府下荏原(えばら)郡目黒村目黒(現・東京都目黒区下目黒四丁目)の新築の家へ引っ越しました。それから昭和十二年に成城の家へ移るまでの約二十年間そこで暮らしました。
 ・昭和二十年十月十四日、肺炎を起こし六十歳で亡くなりました。墓所は谷中霊園。


≪著者・池田小百合≫

著者より引用及び著作権についてお願い】   

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花嫁人形

作詞 蕗谷虹児
作曲 杉山はせを

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2011/01/03)




池田小百合『童謡を歌おう
神奈川の童謡33選』より
池田千洋 画


 ある童謡の会で、高齢の人が「嫁に行く時、私は泣かなかった」と言っていました。若い指導者からは、「花嫁がゴリョウだなんて、ゴリョウって何でしょうねえ?わかりません。」と言う声も出ていました。時代が進んでいることを痛感しました。それで、きちんとした解説を作ることにしました。

 【少女雑誌『令女界』と虹児】
 大正十年(1921年)、東京・大阪の両「朝日新聞」の連載長編小説「海の極みまで」(吉屋信子作)の挿絵を描いたことで、蕗谷虹児(ふきやこうじ)の名は一躍有名になった。「よし、虹児を中心にして、これまでにない少女雑誌を作ろう」と考えたのが寶文館(ほうぶんかん)の藤村耕一だった。
 大正十一年(1922年)四月、少女雑誌『令女界』(寶文館)創刊。虹児は誌名決定の段階から参画していた。少女雑誌はいろいろあったが、女学校の高学年から、結婚までの女性を対象とした、若い女性向けの雑誌は他になかったので、創刊号から予想以上に歓迎された。
 虹児は『少女倶楽部』や『少女の友』でも活躍したが、主力を注いだのは『令女界』で、表紙・口絵・巻頭の詩の頁・小説の挿絵・カットと、ほとんど虹児の主宰の同人誌のような趣を呈した。昭和十二、三年頃までが全盛期で、戦争勃発により廃刊に追い込まれた。
 戦後復刊され、虹児も再登場したが、紙質、印刷ともに往年の面影はなく、三年ほどでまた廃刊になった(蕗谷龍生 監修『大正・昭和のロマン画家たち竹久夢二 高畠華宵(たかばたけかしょう) 蕗谷虹児展』(毎日新聞社1994)より抜粋)。

 【初出】
 『令女界』(寶文館)大正十三年(1924年)二月号に「花嫁人形」を発表
  ●上笙一郎編『日本童謡事典』(東京堂出版) の“「令女界」の一九二三<大正12>年二月号に蕗谷虹児の詩が発表された。”の記載、“一九二三<大正12>年”は間違い。「令女界」一九二四年<大正13年>二月号に発表が正しい。この間違いは、多くの出版物にみられます。誰かが間違えて書いたものを、確認せず次々写したからでしょう。
 ●同様に、上笙一郎編『日本童謡事典』(東京堂出版) の“二四歳”も間違い。虹児二十五歳が正しい。
 ●さらに、上笙一郎編『日本童謡事典』(東京堂出版) の“『令女界』の編集者=水谷まさる”も間違い。『令女界』の編集者=寶文館(ほうぶんかん)の藤村耕一。水谷まさるは、詩人 児童文学作家。明治二十七年十二月二十五日生まれ。昭和二十五年五月二十五日没。東京出身。本名は水谷勝。早稲田大学英文科卒。コドモ社編集部に入り、のち東京社に移り、「少女画報」を編集の後、著述生活に入る。

            ▼『令女界』表紙 大正十三年二月号「我れの幸」
              令女界のロゴ三文字や、上下の号数まで、全て虹児が描いている。

▲「花嫁人形」の直筆原稿。「たもとが切れる」と書いてある。
『令女界』大正13年2月号の詩 (蕗谷虹児記念館による)

 【蕗谷虹児が詩と絵を描く】
 「花嫁人形」は、蕗谷虹児二十五歳の絶唱だった。若くして死んだ美しい母。初恋の子ミーミー。「花嫁人形」のモデルについては、虹児自身この二人がイメージの底にあったと言っている(蕗谷龍生 監修『抒情の旅人 蕗谷虹児展 図録』(朝日新聞社1992)より抜粋)。
  大正十三年『令女界』二月号に西條八十の詩が間に合わず、編集室で待機していた虹児が、二時間ほどで詩と絵を描き急場を間に合わせたのが、その初出となった(蕗谷龍生 監修『大正・昭和のロマン画家たち竹久夢二 高畠華宵 蕗谷虹児展』(毎日新聞社1994)より抜粋)。
 以上の文は、どの解説書にも出ています。書き直されるたびに少しずつ違っています。

 【朝日新聞「東京のうた」花嫁人形】
 朝日新聞 昭和43年(1968年)5月10日東京版の「東京のうた」花嫁人形には次のように書いてあります。
 “大正十二年の令女界で発表。「当時、西条八十さんの詩に私と加藤まさを氏が交代でさし絵をかいていた。ある日、神田の雑誌社で詩ができるのを待っていたが、締切り間際になっても届かない。編集者が何とか代作してくれという。そこで、二時間ほどで詩とさし絵をかき、急場の間に合わせた。それが花嫁人形」”―この蕗谷虹児の談話は、記者が取材したのでしょう。信ぴょう性があります。
 ●“大正十二年の令女界で発表。”これは間違い。大正十三年の令女界で発表が正しい。
 ●与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)も、花嫁人形―「令女界」大12・? となっていて間違い。記者は、これを写したのでしょう。


 【杉山長谷夫(はせを)が作曲】
 虹児は、大正十四年(1925年)九月二十一日に、絵の勉強のため妻りん十七歳と共に神戸港からフランスに渡りました。
 パリへ出発する一ケ月前に、楽譜出版社の社長が来て、「『花嫁人形』の詩に杉山長谷夫君が作曲したから、その楽譜の表紙絵を描いてくれたまえ」と言ったそうです。
  (註1)大正十四年八月には、すでに杉山が「花嫁人形」を作曲していた事になります。
  (註2)「楽譜出版社の社長」=シンフォニー楽譜出版社の社長でしょう。

  「だれの許しを得て、僕の詩を作曲したの」
  「君の作詞が気に入ったので、杉山君が作曲したのだから、喜んでくれなきゃ」
  「この場合は、作詞あっての作曲なんだから、僕が断ったら、作曲の発表はできないし、楽譜の出版もできないのではないの」
  「杉山君は、一流ヴァイオリニストなんだぜ、それが作曲してくれたら、君としても喜ぶのが当然じゃあないか」
  「いやだね、僕は職業詩人じゃないからな」
  「いい気なもんだ」
  「なにっ」

 二人は取っ組んだままで応接間の扉を蹴飛ばして廊下に出ると、階段を転がり落ちて行った。幸か不幸か二人ともケガがなかったので、楽譜出版社の社長は玄関の自分の下駄をつかむと、それを両手に下げて、はだしで外へ逃げ出した。私も、自分の下駄をとると、その後を追った。社長は遠くへ逃げてから、後ろを向いて、「ばかやろう」と怒鳴ったので、私も負けずに「ばかやろう」と怒鳴り返して、近所の子供たちに笑われてしまった。
 そんなわけで、後年全国的にいまでも歌われている『花嫁人形』は、実は私の外遊中に私に無断で発表されたものなのであった(蕗谷虹児著「私の人生劇場」より『蕗谷虹児抒情画集』抄録 講談社より抜粋)。
 以上の文も、どの解説書にも出ています。書き直されるたびに少しずつ違っています。

  (註)杉山は既に「出船」の作曲をしていました。「出船」の詞は、大正七年冬、十九歳の勝田香月(かつたこうげつ)が、たまたま訪れた秋田県の能代港の粉雪舞う港の情景に郷愁を覚えて作ったといわれています。大正十一年夏、この詞に杉山が曲をつけ、昭和三年二月、レコードが発売されました。藤原義江が大正十四年の渡米時に録音したものです。高値でしたが大変な売れ行きでした。

 【「花嫁人形」レコード発売】
  大正十五年(1926年)一月、ニツポノホン 歌手・柴田秀子。リサイタルで歌うために秀子が杉山に作曲を依頼したもの。

 【「花嫁人形」楽譜の出版】
 昭和三年(1928年)、シンフォニー楽譜出版社から楽譜「花嫁人形」が出版された。表紙には、大きくタイトルの「花嫁人形」と、「杉山はせを 作曲」「蕗谷虹兒 詩」と書いてあります。表紙絵の花嫁は蕗谷虹児が描いたものではない。

 【「花嫁人形」は大流行】
  昭和四年(1929年)夏、パリから帰国した虹児は、銀座の街角で流行っている歌に耳をとめ、ハテと首をかしげたらしい。あれは俺の詩ではないか? 『花嫁人形』が流行しているのに驚きました。楽譜とレコードが発売されていたのです。当時の楽譜の表紙絵は、他の人の作品でした。レコード盤には、新作小唄とある下に作曲家と歌手の名前は記されているものの、詩人の名は載っていなかった(蕗谷龍生 監修『大正・昭和のロマン画家たち竹久夢二 高畠華宵 蕗谷虹児展』(毎日新聞社1994)より抜粋)。
 以上の文も、どの解説書にも出ています。書き直されるたびに少しずつ違っています。

 【「花嫁人形」その後】
  虹児が良い印象を持たなかったこの曲は、今では虹児の代表作品となり、最も広く知られています。

 【詩について】
  五連からできています。
  ・一連、二連は、「花嫁」そのもののことです。「きんらんどんすの 帯」をしめてもらい、「文金島田 に髪」を結ってもらっているのに「泣いている」のです。
  ・三、四、五連は、ままごと人形遊びの「姉さんごつこ」のようすです。「花嫁人形」を千代紙で折り、並べて遊びます。

 <「きんらんどんす(金襴緞子)の帯」は>
 金襴緞子は、金糸を織り込んだ織物を練り糸で織った絹織物。高価な帯をしめているのに、花嫁御寮は泣いているのです。なぜでしょうか。
 昔の結婚は、親が決めた嫁ぎ先に行きました。「嫁に行く」「嫁をもらう」「娘がかたづく」などの言葉からわかるように、実家を後に嫁ぐことは、嫁ぎ先の舅、姑に仕え、その家の働き手になるのです。農家や商人の家に入れば、厳しい生活が待っていました。結婚には、そうとうな覚悟が必要でした。花嫁は、豪華な衣装でも、嬉しいことはなく、将来に不安をいだきながら、泣く泣く嫁に行ったのでした。

 <「文金島田」は>
 「文金高島田」のことです。結婚式の時に結う髪型です。今でも、着物の場合は、「文金高島田」のかつらが使われます。

 <「花嫁御寮」は>
 「御寮」は、「花嫁」に対して敬愛の意を添えた言葉です。「五両」「御料」「御陵」「御領」「五陵」「御霊」ではありません。

 <「きれる」と「ぬれる」>
  『令女界』掲載の初出詩は、「泣けば鹿の子の たもとがきれる」でしたが、結婚式で歌われるようになり、「きれる」では縁起が悪いので変えてほしいと言われ、晩年の色紙には、「ぬれる」と書くようになりました。

▲蕗谷虹児の「花嫁人形」の直筆の詩(遠藤コレクション)
「たもとがきれる」と書いてある(雑誌『サライ』特集唱歌
23ページの遠藤憲昭コレクションより)。

▲新潟市西堀通り七番町、ホテル「イタリア軒」横
の自筆の歌碑は「袂がぬれる」になっている。

       花嫁人形
    金襴緞子の  帯しめながら
      花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
    文金島田に  髪結いながら
      花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
    姐さんごつこの 花嫁人形は
      赤い鹿の子の 振袖着てる
    泣けば鹿の子の 袂がぬれる  
      涙で鹿の子の 赤い紅にじむ
    泣くに泣かれぬ 花嫁人形は
       赤い鹿の子の 千代紙衣裳
                  蕗谷虹児

 虹児が在籍したことがある新潟市の大畑小学校卒業生が中心になって、昭和四十一年十一月に建てられた。この時、虹児も訪れ、花嫁人形の絵と、詞を書いた色紙を何枚か残して行った。大畑小学校の校長室にも、この色紙はかかっている(毎日新聞学芸部著『歌をたずねて』(音楽之友社)による)。

   蕗谷虹児「西堀通り」 →
   昭和48年74歳の作品。
   母エツと虹児自身の母子像。


  <「鹿の子の 千代紙」は>
 「鹿の子」は、布を小さくつまんでくくった絞り染め「鹿の子絞り」の事、それが鹿の毛のように見える。「千代紙」は、和紙に千代を祝う図柄を色刷りしたもの。この場合は、その図柄が「鹿の子」。
▲講談社『童謡画集(4)』より「花嫁人形」の挿絵
●『童謡絵本』という書名は誤り。
花嫁は「きんらんどんすの帯」をしめている。
紙人形は「赤い鹿の子の千代紙衣裳」です。

 

▲「少女の友」昭和26年3月号(実業之日本社)
 この挿絵は山北町在住時代に描いたもの。
 着物には鶴、千代紙には松竹梅の吉祥文様が入り、
詩に即した「赤い鹿の子の千代紙衣裳」の花嫁人形も
描かれている。虹児は日本独特の「鹿の子」
の模様が好きだった。
 花嫁の哀歎が赤・黒・白のかぎられた色彩で表現されている。
 挿絵に、『令女界』大正13年2月号で発表した詩を入れたものが、
『少女の友』で発表された。「花嫁人形」の絵がいろいろあるように、
詩もその時々により漢字にしたり平仮名にしたり文字の扱いが異なる

▲『少女の友』昭和十二年一月号「ささやき」口絵
着物の柄は虹児が好きだった「鹿の子」そして「梅の花」。

  【曲について】
  ・歌は、たった九小節の繰り返しですが、しみじみと心をうつメロディーです。
  ・特に「なぜなくのだろ」の最後は、Aの音で終わっています。この終わり方は、余韻を残すのにたいへん役だっています。
  ・リズムは、タッカタタが中心になっています。
  ・途中の八分休符をしっかり取って歌い、この曲に変化を付けます。
  ・やわらかな声で、レガートに歌いましょう。
  ・最後の四小節は、しずしずと花嫁が遠ざかって行くようすが表現されていてみごとです。
 自分が嫁いだ時の事を思い出し、なつかしさに胸のつまる方も多い事でしょう。


  【「花嫁人形」奇妙な話】
 私は、「大井町生きがいほほえみ大学」の講師をしたことがある。高齢者に人気の童謡『花嫁人形』を、みんなで歌う事にした。
  この童謡には中間部に一ヶ所八分休符がある。「(ン=八分休符)はなよめ」と歌う。ところが、全員が休まないで歌った。  
  「あれ?」
  それで、注意をして、伴奏の左手部分を大きく弾いた。しかし、二度目も全員が休みを入れずに歌った。しかも、リーダー格の人が、「私たちは、違ってないわよね」と言うと、「そうよね」と皆さん。
  童謡の会を作ったばかりだった私は、あわてた。そのままにして、次の曲に進んだ。
  今、童謡の会で『花嫁人形』を歌うと、会員は休みを入れて正しく歌う。何も問題がなかった。「大井町生きがいほほえみ大学」では、どのように間違えていたのか。謎だった。
   ある日、私は『花嫁人形』のピアノを弾きながら歌う練習をしていた。「休みを入れないで歌うと、どのようになるのか」と、真剣に悩んでいた。そこへ四人の宗教伝道の人々が来た。
 「ちょうどいい所に来られました。どうぞあがってください。私は今『花嫁人形』の練習をしています。この歌、知っていますよね。歌ってみてください」。すると、宗教の勧誘の人々は逃げるようにいなくなった。
 「帰ってください」「二度と来ないでください」と言われることはあっても、「あがってください」とは、初めて耳にする仰天の言葉だったようだ。それとも、名曲『花嫁人形』の歌を知らなかったのだろうか。謎は深まるばかりだ。
 十年後、夫にこの話をした。すると夫は休みを入れないで、「きーんらん どーんすの おーびしめ なーがら はーなよめ ごーりょうは なーぜなくー のーだろー」と、全部の区切りをタッカタタのリズムで歌ってみせた。休みを入れない歌い方は、間違いです。 八分休符は曲に変化を付けます。作曲者が一番工夫した部分です。


                               ▲ト短調の楽譜 四分の二拍子 四分音符=76

 七小節目「はなよめ」の前に八分休符がある。この曲に変化をつけている重要な休符。伴奏がないと、この休符はとりにくい。「蕗谷虹兒作歌」「杉山はせを作曲」となっている楽譜(小松耕輔編『世界音楽全集』第十一巻(春秋社)昭和五年発行に掲載)。


 <音階の考察> なぜ、センチメンタルに聞こえるのか?
  ・歌はト短調(g moll) ヨナ抜き短音階と、都節音階が混じっています。
 
▲ヨナ抜き短音階(ト短調 g moll)
▲都節音階

  ・前奏二小節を弾いて、その響きに驚き、疑問を抱くのは、私だけではないようです。
 ここはト短調(g moll)和声短音階が使われています。短音階の七音と八音の間は全音程なので、七音をそのままでは導音として使うことができません。そこでその必要が生じた時に、そのつど七音に臨時記号を付けて半音高くし、導音として用います。この上行導音を含む属和音が前奏の最初に出てくるので、その響きに驚くのです。
 曲の最初から(前奏二小節に)この和音を使うのは、間違いではありませんが、疑問が残ります。同じ響きでも「なぜなくのだろ」の部分は経過音として使われているので違和感がありません。
▲上行 和声短音階(ト短調・g moll)

▼上行導音を含む属和音

  <旋律について小島美子氏の意見>
  “旋律は都節音階とヨナ抜き短音階の要素がややまじり合っている。 後半のフレーズは都節音階の核音に終始して都節音階風であるが、旋律の最初の部分がややト短調的動きを見せている。 しめっぽい四分の二拍子のリズムもこの歌の内容にふさわしいが、ただト短調の和声、とくに上行導音を含む属和音が、かなり無神経に響いているのは疑問である。 とくに「どんすの」に当たる部分は、ひびきとしても濁り過ぎるように思う”(小島美子著『日本童謡音楽史』(第一書房)による)。

 【「アカペラで歌う」か?】
 アカペラ(無伴奏)で歌う歌謡曲が流行っている今日、アカペラで歌う童謡の会も増えています。童謡は、単旋律ですから、伴奏は不可欠です。どの作曲者も伴奏を工夫しています。「花嫁人形」も最後の四小節は、しずしずと花嫁が遠ざかって行くようすが表現されていて、みごとです。「月の沙漠」は、ラクダに乗って沙漠を越えて行くようすが、「濱千鳥」は、波をイメージした伴奏が、優れています。童謡は、ぜひピアノ伴奏を付けて、歌ってほしいものです。

 【詩画集『花嫁人形』】
  詩画集『花嫁人形』(寶文館) 昭和十年十月発行。



 【虹児が描いた「花嫁人形」いろいろ】
  以下は、蕗谷龍生 監修『抒情の旅人 蕗谷虹児展 図録』(朝日新聞社1992)に掲載されているものです。



▲虹児
二十五歳。
「花嫁人形」
を発表した頃


▲「花嫁」昭和四十三年

▲「花嫁人形」色紙 昭和四十五年

▲「姉さま人形」版画 昭和四十五年

▲「うたたね」昭和四十八年 紙の花嫁人形が、
「赤い鹿の子の 千代紙衣裳」です。

 【蕗谷虹児の略歴】 
  ・明治三十一年(1898年)十二月二日、十九歳の父・蕗谷傅松と、銭湯の看板娘で美人の十五歳の母・新保エツは駈け落ち先(新津市郊外の水原町か)で結ばれ虹児を出産しました。本名は一男。
 母の実家、新潟県北蒲原郡新発田町(現・新発田市 しばたし)の「有馬の湯」で祖父母に育てられ、幼いころから絵を描いていた。

  (註1) 蕗谷家は回船問屋だったが、祖父の代でつぶれた。父(傅松)は文と絵をよくし、新潟中央新聞(現・新潟日報)の主筆にもなるが、酒の失敗から新聞社を転々とする。酒びたりとなり、樺太まで流れた末、晩年は虹児に引き取られ、大正十一年に亡くなった。享年四十四歳(毎日新聞学芸部著『歌をたずねて』(音楽之友社)による)。
  (註2) 小学校は卒業までに五回転校しているらしい。出生や子供時代の事は、わからないことが多い。
  (註3) 母(エツ)は男の子を三人生み、病弱の身で姉の嫁ぎ先の髪結いを手伝う。そんな母の傍らで、女たちの出入りを眺め、竹久夢二の絵を薄紙に透写して遊ぶ少年に育った。

 <モデルについて>
  ・明治四十四年八月、家庭は貧しく、病弱な母が亡くなりました。享年二十八歳でした。『花嫁人形』の絵のモデルは、この若くて美しかった母親、または初恋の人みどり(ミーミー)のイメージを合わせたものではないかと息子の蕗谷龍生氏は語っておられます。
 母の死により一家は離散、そのため奉公に出、仕事を転々とするが、夜に南画を習い、画家への夢をふくらます。
  ・大正二年初夏、郷里の桜井市作(後の第八代新潟市長)の紹介で、横山大観と並ぶ日本画の大家の尾竹竹坡(おたけちくは)と出会い内弟子となり上京。竹坡塾で大和絵の手法を熱心に学ぶ。
  ・大正三年、再婚した父に促され帰郷、父の借金を映画館の絵看板を描いて清算する。父は樺太(現・サハリン)に赴く。
  ・大正四年、再び上京して文展入選を目指すが、郷里で人妻との恋が発覚。東京を逃れ父の住む樺太に渡る。のち旅絵師として放浪生活を送る。
  ・大正八年、この年の暮 絵を売った金百五十円を一年分の生活費にと再び文展入選を目指して上京するが、途中の小樽で金をすられ、画塾の先輩である彫刻家の戸田海笛の家に寄寓する。
▲加藤武雄の連載小説「珠を抛つ」の挿絵

 <筆名は「紅児」から「虹児」へ>
  ・大正九年、日米図案社に住み込みとして採用され、ポスターなどを制作、紅児の筆名を用いる。
 戸田海笛に連れられて、お葉さんと暮らす竹久夢二を本郷菊富士ホテルに訪ね画帖を見てもらい激励される。夢二は『少女画報』の主筆で詩人の水谷まさるに紹介してくれ、初めて虹児の雅号を用いてカット絵を描く。吉屋信子作「花物語」の挿絵が評判となり、十月に創刊された講談社『婦人倶楽部』のカットなど仕事が増え始める。
  ・大正十年七月、東京と大阪の両『朝日新聞』に新連載の吉屋信子の長編小説「海の極みまで」の挿絵が好評となり、一躍人気画家となる。
  ・大正十一年、四月に創刊の少女雑誌『令女界』(寶文館)に執筆を始める。朝日新聞からの依頼で加藤武雄の連載小説「珠を抛つ」の挿絵を担当。父は連載中に息を引き取った。十一月、初の詩画集『銀の吹雪』が文蘭社から刊行される。以後、渡仏までの三年間に詩画集八冊を出版する。
  ・大正十二年、一月に創刊の講談社の『少女倶楽部』に執筆を始める。詩画集『孤り星』『二ツの幻影』出版。
  ・大正十二年四月四日、近所の娘、川崎りん十四歳と結婚、のちりんとの間に長男・汪児(おうじ。大正十五年早逝)と次男・青瓊(せいぬ。昭和三年誕生)の二児が生まれる。
  (註)大正十二年九月一日、関東大震災。

  ・大正十三年(1924年)、詩と挿絵「花嫁人形」を『令女界』第三巻第二号に発表。 詩画集『睡蓮の夢』『悲しき微笑』『銀砂の汀』出版。
  (註) 当時は、すでに「虹児」で活動をしていました。虹児は、明治三十一年(1898年)十二月二日生まれ。
 「花嫁人形」を書いたのは大正十二年(1923年)暮れ、虹児満二十五歳の時ということになります。

  <フランスに行く>
  ・大正十四年、詩画集『雫の真珠』『私の画集』『私の詩画集』を出版。 九月二十一日に、絵の勉強のため妻りん十七歳と共に神戸港からフランスに渡りました。本格的な画家になる大望をいだいていました。十月三十日、パリに到着。戸田海苗と東郷青児がリヨン駅に迎えに来ていた。その後まもなく日本から持参した滞在費四ケ月分を戸田に貸し与えてしまい、当座の生活費を藤田嗣治が用立ててくれた。
 春と秋のサロンに連続入選を果たし、高く評価される。週刊誌や児童雑誌から口絵・挿絵の注文を受ける。 パリの日本人画家たちとの交流も盛んだった。
 ・大正十五年八月十六日、日本に残した長男・汪児が疫痢で急逝。
 ・昭和三年七月二十三日、次男・青瓊(せいぬ)が生まれる。名付け親は藤田嗣治。

 <「花嫁人形」の歌が大流行>
  ・昭和四年、東京の留守宅が経済的に破たん。急きょ単身シベリアを経由して帰国する。借金返済のため再び挿絵画家の生活に引き戻される。パリに戻ることはできなくなった。
  ・昭和八年八月、パリに残し、その後次男と共に帰国した妻りんと協議離婚する。十二月、松本龍子(りょうこ)と再婚する。のち三男・龍夫と四男・翼の二児が生まれる。
  ・昭和十年十月、詩画集『花嫁人形』(寶文館) 昭和十年十月発行。
  (註)昭和十二年、日中戦争勃発。以後、第二次世界大戦へと時代はしだいに戦時色に染まって行く。軍当局から「柳腰の女の絵は、よろしくない」と非難され、虹児も他の画家たちも仕方なしにモンペ姿の女性を描くようになる。


水ノ江滝子、ターキーさんは虹児が描いた美女のように美しい。

右の「令女界」は昭和10年の表紙
▲婦人倶楽部新年号附録『童謡・唱歌・流行歌全集』昭和11年1月1日発行 (大日本雄辯會講談社) 蕗谷虹児・挿絵。
 「花嫁人形」の着物は虹児が好きだった 「鹿の子」と「梅の花」の柄。
 私・池田小百合は、この挿絵が一番気に入っている。 詩は、漢字にしたので内容がわかりやすい。
▲▼婦人倶楽部新年号附録『童謡・唱歌・流行歌全集』
昭和11年1月1日発行 (大日本雄辯會講談社) 
蕗谷虹児・挿絵。

 <疎開先は神奈川県山北町>
  ・昭和十九年(1944年)九月、淀橋区下落合から神奈川県足柄上郡山北町に疎開する。

 神奈川県立山北高校の校歌の作詞と校章の作成、吉田島農林高校と山北中学校の校章は蕗谷虹児です。竹久夢二と並ぶ人気の画家が、なぜこれらの学校と関わりがあったのでしょう。


    吉田島農林高校

 東京都町田市玉川学園に、虹児の息子で蕗谷虹児記念館館長の蕗谷龍生氏(本名は龍夫。龍生はペンネーム)が住んでおられます。 蕗谷龍生氏によると、“一家は昭和十九年から酒匂川(さかわがわ)の上流の山北町に疎開しました。趣味にしていた鮎釣りの縁で、郵便局長の故鈴木隆造氏(後の山北町町長)の世話で、当初は山北町堂山(どうやま)の種徳寺(しゅとくじ)に間借りし、 虹児と二度目の妻龍子と二人の子供(三男・龍夫、四男翼)の家族四人で暮らしました。壁を隔てた本堂には横浜からの疎開学童が溢れていて、シラミに悩まされました。
 やがて、寺のすぐ下に小屋みたいな家を移築した。そして借りた蜜柑畠(みかんばたけ)一反歩を開墾し、甘藷(かんしょ)や南瓜(かぼちゃ)を作った。南瓜の花が咲くと、早朝父と子は山道を登って行った。雄花を摘んでは花粉をまぶして回る。素足がびっしょり濡れた。眼下には御殿場線が走り、バラック建てのわが家が小さかった。”

  (註Ⅰ)「雄花を摘んでは花粉をまぶして回る」この事は非常に重要な証言です。虹児は、山北時代の生活を校章のデザインに留めておこうとしたのでしょう。
  (註Ⅱ)神奈川県立小田原城内高校の文芸部誌『みどり』の表紙絵は近所から通学する生徒に頼まれて描いた。三男の龍生氏によると、虹児は気前が好い人で、「この絵いいねえ。ほしいなあ」と言われると、「また描けばいいや」という調子であげていたそうです。
  (註Ⅲ)『あきつ』は虹児の弟・虎男が編集責任者をつとめる詩歌文芸雑誌で、目次カット以外は毎号表紙、挿絵、カットなどを虹児が手掛けた。室生犀星や飯田蛇笏らが執筆者として名を連ねている。
 
 戦後もここに留まり(昭和二十九年まで)、食糧難をやりすごしました。釣りに熱中したりもしました。真鶴や伊豆の海に遠出しては磯釣りを、近くの酒匂川では鮎釣りを楽しむ。虹児は、この穏やかな土地が気に入り山北町に溶け込んで暮らしました。

 こうしたことが縁で、山北高校の校歌の作詞(小松耕輔・作曲)と、校章のデザインを考案しました。また、山北中学と吉田島農林高校(現・吉田島総合高校)の校章も作りました。さらに山北音頭の作詞(米山正夫・作曲)も手がけました。

 <校章について>
 ・山北高校の校章は、たちばなの花をモチーフに考案されました。 めしべが櫛のデザインになっています。
 ・吉田島農林高校(現・吉田島総合高校)の校章は、稲の花を模していて、めしべが、かんざしのデザインになっています。 「かんざし」は自伝小説『花嫁人形』の装丁にも描かれています。
 ・山北中学校の校章を見ると、ペン先と翼を組み合わせたものです。虹児は四男を「翼」と名付けていました。現在使われている山北中学校の校章は、蕗谷虹児がデザインした校旗から転用したものです。
 これらの校章に取り入れられたもの、「櫛」「かんざし」「翼」などは蕗谷虹児の思い入れが深かったものなのでしょう。
 山北高校内には校歌の歌碑があります(写真参照)。
 校歌と校章については山北高校に紹介のホームページがあります。


  神奈川県立山北高等学校 校歌

  作詞 蕗谷虹児 作曲 小松耕輔

1 富士のたかねをのきにみて
  清流酒匂を見はるかす
  高きにありてわが母校

2 薫りゆかしきたちばなの
  花をかざしてのぼりくる
  文化の使徒をあつめたり

3 富士がかおるかたちばなか
  山北高校学びのにわは
  希望の花の咲くところ

  <もっと詳しい疎開のいきさつ(Ⅰ)>
 鮎釣りに何度か訪れた事のある酒匂川を思い浮かべた虹児が、ある日山北駅に降り立ち、町役場下の文化食堂で、かき氷を食べながら、家探しの話をきりだしたのが、きっかけになった。そこに居合わせたのが山北郵便局長の鈴木隆造の娘文子で、彼女が蕗谷虹児であることを見抜き、家にともない隆造に引き合わせた。そして、隆造は堂山の種徳寺の住職、荻野欣雅に便宜を図ってくれるよう紹介。結局、住職は寺の七畳半の応接間を虹児に提供した。
 こうして、虹児と妻龍子、二人の子供龍夫、翼の四人の山北町の生活が始まった。虹児は、本堂で起居する横浜の疎開児童たちから離れ、清水村神縄の空家を譲り受け、寺の畑に栗の刈り採り後、大工一人とともに夫人と協力して古釘を伸ばしながら家を建て、戦後の活動拠点とした(『山北町史編集だより』第6号 平成14年7月1日発行 山北町史編集委員長 金原左門著より抜粋)。

 <少し違う疎開のいきさつ(Ⅱ)>
 昭和十九年(1944年)のある日、虹児は山北駅に降り立った。これまでも何度か鮎釣りで訪れていた。疎開先を探してたどり着いたのが文化食堂という一杯飲み屋だった。そこで偶然隣り合わせた客が、酔った勢いで疎開先を世話すると言い出した。山北郵便局長の鈴木隆造だった。隆造は先祖代々の菩提寺である種徳寺の住職荻野を訪ねた。他ならぬ局長の頼みということで、住職は七畳半ほどの客間を提供した。本堂には横浜の小学生が学童疎開してきていた。早速、虹児一家は東京から山北へ転居。二人の男の子は地元の川村小学校に転入した。米、味噌、醤油といったものは、鈴木局長が支援した。
 昭和二十年八月十五日、終戦。三月の大空襲で東京の家は焼けてしまった。引き続き、山北に留まることにした。この頃には、三保村(現・山北町)の古民家の廃材を利用した急場しのぎの小さな家もあった。
 同年、『幼年倶楽部』の挿絵、『令女界』『少女倶楽部』などからの注文が舞い込み、安定した収入を得たので、一戸建ての家を建てた(『御殿場線物語 旧東海道本線各駅停車の旅』文化堂、平成13年発行より抜粋)。

  <「虹f」の新居>
 虹児の新居は種徳寺から下った辺り、山北駅から歩いて15分くらいの堂山にあった。土地は鈴木局長がすべて世話した。大きくないが、大工の棟梁が音を上げるほど、随所に意を凝らしたいかにも芸術家らしい家だった。
 田んぼをはさんで、家のすぐ前を御殿場線が走っている。路線に面した白い壁に「虹f」と自らのサインを大きく記し、屋根はおとぎの家のように赤くした。東京から汽車でやって来る編集者たちへの目印である。挿絵の注文は殺到し、抒情画の大家となった。編集者たちの間に「山北詣で」なる言葉が生まれたのもこの頃である。  
 山北在住期間は十年に及んだ。その間、町の教育委員を務めたり、文化を語る会に出たりと地元への義理も怠らなかった。山北中学の校章、山北高校の校章と校歌の作詞を手がけている。
 家は、現在ほぼ当時のままの状態で保存されている。鈴木郵便局長の縁続きにあたる人が管理している。この家族は、後から建て増しした隣の別宅に住んでいて、 「虹f」の家は使わずにいるという(『御殿場線物語 旧東海道本線各駅停車の旅』文化堂、平成13年発行より抜粋)。

  (註Ⅰ)●2002年8月、山北町役場に電話をして、「“蕗谷虹児が、寺の地所を借りて建てた家の眼下には、御殿場線が走っていました”これは正しいですか?」と、御殿場線と虹児の家の位置を確認すると、「はいそうです」という返事をもらったが、これは全然違う。
 “寺の地所を借りて建てた家の眼下には”の部分が違う。正しくは、“種徳寺から下った辺りの堂山。土地は鈴木局長がすべて世話した。田んぼをはさんで、家のすぐ前を御殿場線が走っている。”が正しい。
 御殿場線の山北駅から歩いて15分ほどなので、自分で行って確かめるのがいい。私、著者池田小百合は、調査を他人に頼んだことを反省しています。

 <「虹f」の場所>
 山北駅から商店街を東に向かうと、まず「山北郵便局」、続いて「おおり医院」、そして「おおり医院」の第二駐車場の道を渡った真向いに「虹f」のマークの家があります。これが蕗谷虹児の旧宅です。


山北町にある
蕗谷虹児の旧宅
「虹f」が見えます。


撮影日、
2011年1月16日
(日曜日)は、
ちょうど、この地区の
祭りでした。

▲山北駅方向に向かって
山北郵便局を左手に見る

 この家の左わきの細い道を行くと「種徳寺」。階段の手前に「堂山」のバス停があります。階段を上ると「種徳寺」の本堂に出ます。本堂はワラぶき屋根で、現在内部も屋根も全体の修理中。右側には住職や家族の住まいがあり、山にそって墓地があります。
 「種徳寺」の眼下には御殿場線が走っています。山北には寺や神社が沢山あります。

 (註Ⅱ)蕗谷虹児記念館の年譜には“神奈川県山北町の教育委員を歴任”とあるようですが、『山北町史編集だより』第6号 平成14年7月1日発行 山北町史編集委員長 金原左門著によると、“後日、地元の山北で瀬戸栄二さんにあたってもらったところ、どうもその記録は見当たらないようである”と書いてあります。
 年月がわかっているのに、教育委員の記録がないのはおかしいのですが、推されただけで、引き受けなかったのか、混乱の時代だったので、役場の記録があいまいだった可能性もあります。

 <蕗谷虹児、山北時代の思い出>
 後に虹児は山北について次のような文を『文芸首都』に書き残しています。
  「新しい山北の仲間は、殺風景な私のバラックの前に庭木を植えてくれたり、酒匂川の河原石を運ばせて、四方の地境を土留めし、今に生垣になる茶の種を蒔いてくれた。
 家の前の道路を隔てて小川が音を立てて流れていて、その川下に米搗きの水車が、のんびりと廻っていた。」
(註1)この茶は山北茶(足柄茶)でしょう。昔は、どこの家でも生垣に茶の木を植えていた。十月頃、白い花が咲く。
 (註2)「家の前の道路を隔てた」所は、当時は田んぼが広がっていましたが、現在は「おおり医院」と「おおり医院の駐車場」、「介護施設」や「住宅」になっている。

  <引っ越し>
  ・昭和二十九年(1954年)、小田急線玉川学園前駅に近い丘陵に家を新築し引っ越しました。

 息子の蕗谷龍生氏によると、玉川学園に引っ越したのは、「知り合いだった新潮社の加藤武雄の紹介があった。虹児も玉川の丘陵地が気に入っていた」。
 加藤武雄は、神奈川県津久井郡城山町(現・相模原市緑区城山)生まれ、新潮社で活躍、沢山の著書を発表し、晩年は東京都世田谷区成城716に住み、ここで亡くなっている。 玉川学園といっても、「玉川学園の創立者の小原國芳と引っ越しは関係がない」そうです。
 しかし、「クリスマスの日、岡本敏明先生が生徒を連れて来て蕗谷虹児宅前で歌を歌ってくれた。それは、すばらしい思い出です」という電話をいただきました。(2011年6月28日)。
 岡本敏明は、「浜辺の歌」の作曲者の成田為三に学び、長く玉川学園で音楽教育をし、玉川学園校歌を作曲、「どじょっこ ふなっこ」の作曲者。その後、国立音楽大学で活躍、多くの音楽教育者を育てた。国立音楽大学名誉教授となり亡くなりました。
 岡本敏明は、父親が牧師だったので、クリスチャンとして教会で信者に囲まれて育った。玉川学園の校歌が讃美歌のような曲なのは、そのためです。
 私(著者・池田小百合)は、中学一年から大学四年まで、岡本敏明先生、奥様のたまこ先生(芸大ピアノ科卒)に教えを受けました。岡本敏明宅も、小田急線玉川学園前駅に近い丘陵にありました。

  ・昭和三十五年(1960年)十二月臨時増刊号、講談社の絵本ゴールド版54として、『童謡画集(4)』を発刊。講談社の『童謡画集』はそれ以前に3巻出版されており、いわゆる童謡名作はけっこう網羅されていた。蕗谷虹児は「わらべうた」を中心に描いて、彼自身の想像力を自由に展開させている。「月の沙漠」のように詩が絵を限定してしまう要素の強い童謡よりも、「かごめかごめ」や「あんたがたどこさ」のようなわらべうたの方が優れた絵になっています。
 この絵本は品切れ絶版で、古書店でも出回っていません。
 別に蕗谷虹児の『童謡画集(4)』として紹介しておきます。

  <歌碑>
  ・昭和四十一年、新潟市西堀通りに「花嫁人形」の詩碑が立てられた。

  <自伝小説の出版>
  ・昭和四十二年九月、自伝小説「花嫁人形」が講談社から刊行される。


 <さらに引っ越し>
  ・昭和五十年、静岡県田方郡中伊豆町(現・伊豆市))に温泉付きのアトリエを建て龍子夫人と暮らす。
  ・昭和五十四年(1979年)五月六日、急性心不全のため中伊豆温泉病院で亡くなりました。享年八十歳。
  ・昭和六十二年七月一日、新潟県新発田市に『蕗谷虹児記念館』が開館。

 【『蕗谷虹児記念館』のパンフレット】新潟県新発田市中央町4丁目11番7号

▲『蕗谷虹児記念館』

                        ▼美しいパンフレット


▼70歳(1970年)の個展出品の「赤い色紙」は、
お土産用の一筆箋になって販売されている。







▼お土産を買うと、虹児が大好きだった
「鹿の子」の柄の包装紙に入れてもらえる。
今も、女性の心をしっかりと捉えてやまない。


米山スミ江さん
 服部京子さん
  富山光子さん提供


▲平成九年、「花嫁」が切手になった。
▲山北在住時代に描いた昭和二十四年『令女界』
二月号の表紙「椿(つばき)」 (上)
▲山北在住時代に描いた昭和二十四年『令女界』
十月号の表紙「ルビー」 (下)
 【杉山長谷夫の略歴
  ・作曲者の杉山はせをは、明治二十二年(1889年)八月五日、愛知県名古屋市に生まれました。本名は直樹。
  ・大正三年、東京音楽学校器楽科(バイオリン専攻)を首席で卒業。演奏依頼が殺到し、バイオリン奏者(杉山長谷夫)として活躍する一方、旧制中学や俳優学校などで音楽教師をしました。
  ・大正四年にはハイドン四重奏団を組織して室内楽を広める運動を起こしました。
  ・大正の終わり頃から、陸軍戸山学校でバイオリンを教え、軍歌や歌曲、童謡などを作曲。作曲の場合は「はせを」としていました。
 ・昭和三年、シンフォニー楽譜出版社から楽譜「花嫁人形」が出版された。表紙には、大きくタイトルの「花嫁人形」と、「杉山はせを 作曲」「蕗谷虹兒 詩」と書いてある。
 プリマドンナの三浦環が振袖姿で全国を歌って歩き、コロムビアレコードからレコードが発売され人気となった『忘れな草』(勝田香月作詞)をはじめ、『出船』(勝田香月作詞)、『花嫁人形』(蕗谷虹児作詞)を遺しました。
  ・昭和二十七年八月二十五日(1952年)に亡くなりました。  
  ・昭和三十四年(1959年)『総合小学生の音楽4』(教育出版)には、杉山はせを作曲の「ねんねのお里」(作詞は中村雨紅)が掲載されています(欄外参照)。

 (参考書)
  ・蕗谷龍生 監修『抒情の旅人 蕗谷虹児展 図録』(朝日新聞社1992)。
  ・蕗谷龍生 監修『大正・昭和のロマン画家たち竹久夢二 高畠華宵 蕗谷虹児展』(毎日新聞社1994)。
 以上は、蕗谷龍生氏から送っていただきました。私、著者池田小百合が「蕗谷虹児は、山北町に疎開していたそうですが、山北時代の事を書いた物が、ありません。書いて残しておかないと忘れられてしまいます。山北時代の事を教えてください」という手紙を出したためです。ありがとうございました。

  (註)「龍生」氏の名前は、書物の中では「龍夫」(本名)となっている。



著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫

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▲平成二十年(2008年)10月11日、蕗谷虹児の常設展が中川温泉郷の「蒼(あおい)の山荘」にオープンした。蕗谷龍生氏所有の
複製画約100点を展示。




おもちゃのマーチ

作詞 海野厚
作曲 小田島樹人

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2011/02/28)

 【「汽車」か「鳩」か】
  私、池田小百合が主宰する童謡の会では、毎年五月の例会で「背くらべ」と一緒に「おもちゃのマーチ」を歌っています。
 私は、こやま峰子著『心に残る愛唱歌』(東京書籍)に「ぽっぽ=汽車のこと。幼児語」と説明書きがあるので不思議に思いました。「ぽっぽ」は「汽車」に決まっている。なぜ説明が必要なのだろうか。
 待てよ、「鳩」の事を幼児語で「ぽっぽ」ともいう。
 そこで、童謡の会員に質問してみました。
 「汽車」と思って歌っている人がほとんどですが、「鳩」と思って歌っている人もわずかにいました。
 汽車なら、汽車のおもちゃはいくらでもあります。積み木を汽車に見立てて遊ぶこともできます。
 しかし、鳩のおもちゃといえば、「鳩笛」くらいしかありません。私は鳩笛で遊んだことがありません。
 大正当時の子供は鳩笛で遊んでいたのでしょうか。
 私がかつて見た絵本の「おもちゃのマーチ」の挿絵の中に「汽車」はありますが、「鳩笛」が描かれていた記憶がありません。当然、『心に残る愛唱歌』(東京書籍)の渡辺あきおの絵には「汽車」が描かれています。

 『心に残る愛唱歌』(東京書籍)の渡辺あきおの絵は右に紹介。

 【「鳩」だった】
 2006年5月5日、『背くらべ 海野厚・子供達の歌』第一集~第三集(復刻版)が発売されました。 『子供達の歌 第二集 七色鉛筆』(白眉出版社。大正十二年一月二十八日発行)に「おもちゃのマーチ」(小田島樹人・作曲)が掲載されています。
 私は歌詞を見てビックリしました。「キユーピーも、鳩(ぽ ぽ)も、ラツタツタ。」と書いてあったからです。楽譜には「ポツポ」と歌うように書いてあります。

  ●こやま峰子著『心に残る愛唱歌』(東京書籍)の「ぽっぽ=汽車のこと。幼児語」という説明は間違いになります。


▲『子供達の歌 第二集 七色鉛筆』(白眉出版社
大正十二年一月二十八日発行
表紙 諏訪かげよし 装幀


▼自分たちの言葉
「“鳩の笛”社同人」
と書いてある。


▼目次
「おもちゃのマーチ」
(凡そ一二年程度)
と書いてある。

これは小学校一、二年
生用ということ。


▼歌詞 
「勢ぞろへ」
「お馬(んま)」
「犬(わんわ)」
「鳩(ぽ ぽ)」
と書いてある。
 






  「鳩(ぽ ぽ)」は、
“ぽ”と“ぽ”の
間が空いていて、
おかしい。

「鳩(ぽつぽ)」の
ルビが正しい。

「鼓太」は
太鼓の誤植






楽譜

「ポツポ」
と書いて
ある。
▼裏表紙 
「鳩笛」のマークが描かれている。


 【大正十二年、「東京日日新聞」掲載は間違い】
 ●長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)に“大正十二年七月、「東京日日新聞」に掲載されました。当時この新聞には「家庭マガジン」という欄があって、詩人や子供が作っていた詩をよく載せていました”と書いてあるのは間違いです。『子供達の歌 第二集 七色鉛筆』(白眉出版社)大正十二年一月二十八日発行に掲載が正しい。すでに大正十二年一月発行に掲載された詩を、大正十二年七月、「東京日日新聞」で掲載するはずがありません。
 ●研究者や一般の人に絶大な信頼をされている与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)に“―「東京日日新聞」大12・?”と書いてあり、間違っています。これを使って、●藤田圭雄著『日本童謡史Ⅰ』(あかね書房)は、“大正十二年の『東京日日新聞』には「おもちゃのマーチ」がのっている。”と書いてしまいました。この間違いは、●足羽章編『日本童謡唱歌全集』(ドレミ楽譜出版社)、●解説・秋山正美『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)、いろいろな出版物で使われています。

 【「鳩」が大好き】 海野厚は、鳥が好きで、特に「鳩」が大好きだったようです。 まず、渡辺水巴主宰の句会・曲水吟社の同人になり同人誌『曲水』に発表した俳句は、鳥を詠んだものが圧倒的に多い(「背くらべ」参照)。
 次に雑誌『赤い鳥』に投稿して掲載された詩も「青鳩」「子雀」「天の川」(白い鳥、白い鳥、白い鳥、二つ・・・)と、鳥を書いたものばかりです(「背くらべ」参照)。
  さらに、「子供に楽しい歌を」という考えから作品を世に問うかたちで、白眉出版社から童謡楽譜集『子供達の歌』第一集~第三集を発刊します。海野厚、小田島樹人、中山晋平、外山國彦(指揮者、外山雄三の父)この四人は編集室の名をとって「“鳩の笛”社同人」と称し、期待された新創作集団でした。『子供達の歌』の版権は「鳩の笛社」所有となっています。

  【「鳩の笛社」のマーク】 『子供達の歌』の裏表紙には、諏訪かげよしデザインの「鳩笛」が描かれています。これは「鳩の笛社」のマークです。
 
▲『子供達の歌 第一集
 赤い橇』
大正十一年十二月十八日
発行
▲『子供達の歌 第二集
 七色鉛筆』
大正十二年一月二十八日
発行
▲『子供達の歌 第三集
 背くらべ』
大正十二年五月二十八日
発行

 【歌詞について】 歌詞を詳しく見ましょう。
  ・おもちゃが、楽しく行進しているようすを歌ったものです。
  ・擬態語の「やつとこ」は、たどたどしく動き出す、おもちゃの登場です。
  ・擬声語の「ラツタツタ」は、元気に行進しているようすを表しています。
  ・「勢ぞろへ」は、楽譜も「せいぞろへ」なので、初出に忠実に「せいぞろへ」と歌う人があります。しかし、『一ねんせいのおんがく』(教育芸術社)昭和三十年発行では、「せいぞろい」になっているので、以後「せいぞろい」と歌われるのが一般的です。小鳩くるみは「せ」の母音を伸ばす歌い方「せーぞろい」と歌っています。
  ・「お馬(んま)」は、昔の童謡歌手は「おんま」と歌いました。当時の子供たちは馬を指さして、「あっ、おんまが通る!」と言ったものです。
  ・「犬(わんわ)」は、幼児語。この歌をかわいくしています。「こいぬ」になっている楽譜があります。『一ねんせいのおんがく』(教育芸術社)昭和三十年発行では、幼児語に対する、教育的配慮をしたため「こいぬ」にしたのでしょう。しかし、現在では、最初から歌われている「わんわ」が定着し歌い継がれています。
 ●「鳩(ぽ ぽ)」は、楽譜が「ポツポ」となっている事から、このルビは「つ」が欠落してしまった印刷ミスで、本当は幼児語の「鳩(ぽつぽ)」ではないかと思われます。
  ・最後は「キユーピー」や「フランス人形」が登場し、笛や太鼓が鳴って夢の世界へ誘います。太鼓の音を擬声語の「パンパラパン」と表現したのは新鮮に聞こえます。
  ・「やつとこ、やつとこ」「ラツタツタ」「パンパラパン」どの擬音も、他の童謡にはなくユニークで、面白い。

 【「せいぞろい」「こいぬ」は、これだ】
 
▲『一ねんせいのおんがく』(教育芸術社)昭和28年文部省検定 昭和30年発行
  ・タイトルは「おもちゃのまーち」と全部平仮名。
 ●「きょく おだじまきひと」と間違っている。正しくは「きょく おだじまじゅじん」。何人もいる編集者が間違いに気が付かなかったのでしょうか。
  ・歌詞は「せいぞろい」「こいぬ」となっている。ここから一般的に「せいぞろい」と歌われるようになりましたが、「こいぬ」は定着しませんでした。
  ・「*うたにあわせて あるきましょう」と書いてあります。
  ・挿絵に「汽車」も「鳩笛」も描かれていません。

 【犬(わんわ)と鳩(ぽつぽ)は重要】 この歌を「かわいい童謡」にしている言葉は、一番の「わんわ」に対して、二番は「ぽつぽ」です。 「おもちゃのマーチ」には欠かせない重要な言葉である「わんわ」を「こいぬ」に変えたり、「ぽつぽ」を汽車と思って歌うのでは、いけなかったのです。「犬(わんわ)」と「鳩(ぽつぽ)」で歌い継いで行きましょう。
  (註)「ぽつぽ」を「汽車」と思っている人は、『子供達の歌 第二集 七色鉛筆』(白眉出版社)大正十二年一月二十八日発行の歌詞は必見です。

  【楽譜について】
  ・旋律は、へ長調四分の二拍子で、a a´の一部形式で作られています。非常に明るい長調の曲で、ヨナ抜き長音階の旋律法の影響がみられない作品。
  ・リズムも、旋律の動きも、前の半分と後の半分が同じで、最後の三つの音が終止形になるので違います。そのため、小さい子でも覚えやすい。
  ・無邪気にかわいく、言葉をはきはきと歌いましょう。  

 【挿絵】  
 
▼婦人倶楽部新年号附録
『童謡・唱歌・流行歌全集』
昭和11年1月1日発行
(大日本雄辯會講談社) 

 「鳩笛」が描かれている

  武井武雄・畫。

▲真篠将・浜野政雄編
『日本唱歌集(2)』(ポプラ社)
口絵・吉崎正巳。
 挿絵にも口絵にも
 「兵隊と一緒に行進する
 鳩(木製の鳩の玩具)」
 が描かれている。
  「鳩笛」ではありません。

 『日本唱歌集』の中に
 分類されているのは
 教科書に掲載されたからでしょう。
▲『講談社の絵本Cクラウン版 童謡画集1』
昭和39年(1964年)  矢車涼・絵


 歌に登場する物は全部描かれているが、
 「ぽっぽ」だけが描かれていない。
 「汽車」か「鳩」か迷ったのでしょうか。



 【北原白秋も鳩笛で遊んだ】

 「過ぎし日の幼な遊びの土の鳩吹きて鳴らさな月のあかりに」
   北原白秋
  
 ← 土の鳩笛 福岡・柳川市の蒲池窯




 【レコードの振付】 北海道のレコードコレクター北島治夫さん所有の「キング花レコード 花19」には、丸岡嶺の振付が付いている。
 
歌・大場博之 滝口裕子 演奏・キングオーケストラ 編曲・山口保治  
幼児・低学年用
運動会・学芸会・保育時などの別なく踊れます

 【小田島樹人(おだじまじゅじん)の略歴】 作曲者の小田島樹人は、海野厚の数少ない親友です。
  ・明治十八年(1885年)三月二十日、秋田県鹿角郡花輪村(現・鹿角市花輪上花輪、通称・谷地田町/谷地田町は住所表示ではなく、昔からの祭りなどでの花輪町内の呼び名)で六男二女の次男として生まれました。本名は次郎といいます。生家は代々井桁屋徳兵衛とよばれる酒造店、御用商人で士族。父は初代鹿角郡長で、母は鹿角婦人会の初代会長。また兄弟ともに俳人となるような家庭環境に育った。
  (註)誕生年月日は、『秋田人名大事典』(秋田魁新報社、昭和四十九年八月一日発行)による。
  ・明治三十七年三月、盛岡中学(現・盛岡一高)を卒業して鹿児島の第七高校造士館理科に進み、化学・薬学を志しますが、明治三十八年、二年次で中退しました。同年五月二十七日の花輪大火で、酒造業の生家が全焼した。この年は大凶作、小坂鉱山堤防決壊惨事もあって、井桁屋の家運は傾く。子供たちの教育に専念するため、一家は東京市赤坂区青山高樹町(現・港区南青山)に移住しました。父は郷里から薪炭を送らせて商いを始めていた。
  ・明治四十一年(1908年)三月、まるで方向性の異なる東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)に入学しましたが、途中病気のため二年間休学(房州富浦で療養)して、大正三年(1914年)本科器楽科を卒業しました。音楽学校時代、中山晋平とは同級でした。したがって、中山晋平を海野厚に紹介したのは樹人のようです。二年先に卒業の中山晋平は浅草の千束小学校に勤務していた。
  (註)大正三年四月、成田爲三は東京音楽学校甲種師範科に入学。音校では成田と小田島は出会っていない。
  ・大正四年、卒業後は一時期、東京市芝区の三光小学校(現・港区立三光小学校)で音楽の教師をしていました。この頃、俳句にのめりこみました。俳号の樹人は、当時住んでいた青山高樹町から取ったそうです。海野厚と出会ったのも大正四年(1915年)といわれている。小田島樹人は三十一歳。海野厚は二十歳。樹人が十一歳年長だが、二人は心の通い合う、よき間柄となっていった。
  ・大正五年頃、海野厚と二人で熱心に句を作り続けました。当初は「ホトトギス」、のちに共に渡辺水巴の主宰する曲水吟社の同人になります。
  ・大正五年十月、『曲水』創刊後、樹人、厚、川越苔雨、青木よしをの曲水吟社の若い四人(「四天王」と呼ばれていた)が、勉強のために自分たちで同人結社「寒燈吟社」をつくり、会場をさがしては句会をひらいた。樹人が勤める三光小学校の宿直室も、樹人が宿直の晩には会場となり、樹人が弾くピアノに合わせて厚が踊るなどの光景もあったようです。
  ・大正六年、樹人は下渋谷六一九に移った。海野厚は師の渡辺水巴を伴って、よく訪れた。
  ・大正七年(1918年)七月七日、雑誌『赤い鳥』創刊。厚はこれに触発されて童謡の作詩をはじめる。
  ・大正八年八月、樹人は三光小学校を退職。
  ・大正八年十二月六日、東京下渋谷の三枝綾野と結婚(届け出)。
  ・大正九年四月、三菱鉱業研究所の図書館係になった。これは樹人が多趣味で語学に堪能だったことが認められたからだという。社長社宅の南品川権現台一二八一に住む。西欧の探偵本から小説、芸談、語学まで、樹人の読書は広かった。
  ・大正十一年(1922年)、『子供達の歌』第一集が刊行され、続いて二集、三集が出る。海野厚が詩を書き、同人の樹人らが作曲に励んだ。「おもちゃのマーチ」は、この時の作品。(「背くらべ」参照)
  ・大正十三年元旦、樹人は東京府荏原郡目黒町下目黒三六九番地の肺結核の海野厚を見舞っている。十月、厚の父病死。
  ・大正十四年一月、『俳壇文藝』を安田十九(徳治)主幹と名をつらね創刊する。
  ・大正十四年四月、諏訪かげよし自殺。かげよしは、『海國少年』誌以来、厚の作品の多くを手がけ、『子供達の歌』シリーズの表紙画や、厚の肖像画を画いた。
  ・大正十四年(1925年)五月二十日、海野厚は父の死に遅れる事七か月、妻子なく、下目黒三六九番地にて二十八歳十か月の若さで亡くなりました。肺結核で海野厚が早逝した時、樹人はどんなに哀しんだことでしょう。

 <ラジオ放送について> 井上隆明著『秋田のうたと音楽家』(秋田文化出版社)には次のように書いてあります。
  “その翌月六月十八日に「おもちゃのマーチ」、九月二十六日に「赤いソリ」が放送される。初放送に耳を傾ける樹人の思いは、いかばかりであったろうか。”
 ●「赤いソリ」の正いタイトルは「赤い橇」。新聞では「赤いそり」「赤いソリ」と書いてある。
 ●前記“その翌月六月十八日”とは、大正十四年五月二十日に海野厚が死亡した翌月と読める。つまり、大正十四年六月十八日に「おもちゃのマーチ」、大正十四年九月二十六日に「赤い橇」が初放送されたことになる。

 <ラジオ放送の調査Ⅰ回目>2011年2月26日(土)神奈川県厚木市立中央図書館にて。東京朝日新聞縮刷版による。
 ●大正十四年(1925年)六月十八日(木曜日)、「けふの放送」(午後七時十五分より)には、尺八や筝曲、バイオリンの演奏はあるものの、「おもちゃのマーチ」が演奏された記録はありません。このプログラムに「おもちゃのマーチ」が入っていたとは、とても思えない。私は、がっかりして帰宅しました。

  大正十四年六月十八日(木曜日)、「けふの放送」(午後七時十五分より)  →

 ★大正十四年九月から十二月までの東京朝日新聞縮刷版は、厚木市立中央図書館は所蔵していませんでした。九月二十六日放送という「赤いソリ」は未確認。
 ○昭和二年五月二十二日(日曜日)午前十時からラジオ「童謡とハーモニカ」のコーナーの童謡の部で、「かちかち山、玩具のマーチ、おはやう、たんぽぽ、温泉町から」が放送された記録があります。この時、樹人は聴いたかもしれません。


 <ラジオ放送の調査Ⅱ回目>2011年2月27日(日)神奈川県厚木市立中央図書館にて。東京朝日新聞縮刷版による。
 26日、家に帰って、もう一度、井上隆明著『秋田のうたと音楽家』(秋田文化出版社)を見ました。掲載月日がはっきりしているのに、新聞のラジオ欄にないのは、おかしい。

 一晩考えた末、●“その翌月六月十八日”の“翌月”は間違いで、“翌年”つまり、大正十五年六月十八日に「おもちゃのマーチ」、大正十五年九月二十六日に「赤い橇」が初放送されたのではないか。

  さっそく厚木市立図書館に行きました。その結果、一分で決着がつきました。
 大正十五年に放送されていました。
 私は、もう一度図書館に調査に行って本当によかったと思いました。

  大正十五年六月十八日(金曜日)けふの放送  →
  
  ◇午後四時 子供の音樂いろいろ 唱ひて大勢、伴奏伊藤武
 (一)ねんねん森、(二)花嫁人形 (三)あげ雲雀 (四)おもちゃのマーチ (五)人形 (六)近衞騎兵 (七)風 
  △獨唱「離れ小島、さみだれ、お山の大將」柴田知常、伴奏花島光世

 注目したいのは、「おもちゃのマーチ」と一緒に「近衞騎兵」「お山の大將」が放送されている事です。

 新聞の内容も、軍事報道が目立ちます。海野厚と樹人が、“子供たちに、よい歌を与えたい”と思って作った「おもちゃのマーチ」だったのですが、歌詞の中に兵隊が出てくるので、この時代にマッチし、もてはやされたのでしょう。この時の初放送を樹人は聴いているはずです。


 ▼大正十五年九月二十六日(日曜日)ラジオ東京JOAK ◇午後六時 童謠
  「かきつばた」外二曲 獨唱 山本かほる
  「赤いそり」外一曲 獨唱 清川彌生
  「いと車」外一曲 獨唱 後藤のぶ子

 ▼けふの童謠
 特別に「けふの童謠」のコーナーがあり、歌詞と作詞者が紹介されている。
  ◇かきつばた(有本芳水作) 
  ◇赤いソリ(海野厚作) 
  ◇いと車(竹久夢二作)

 この時の初放送を樹人は聴いているはずです。海野厚が生きていれば、◇いと車(竹久夢二作)と自分の◇赤いソリ(海野厚作)の詩が並んで掲載されている新聞に喜んだことでしょう。厚は大正十四年五月二十日に亡くなっています。


 ●多くの研究者の本には、「以後、はなばなしい創作の場からは退き」となっているが、新聞社の俳壇選者としての活躍や、唱歌の作曲、楽譜集の出版もしている。
  ・大正十四年の『ハクビ小学唱歌』第一編(白眉出版社)は、小田島樹人編となっていて十曲を収める。
  ・昭和二年一月、三菱鉱業を六年余りで退社し、二月から都新聞編集局に入り、俳壇選者となる。家は東京府荏原郡駒沢町野沢(現・世田谷区)、のち同区旭小学校近くに移る。
  ・昭和三年八月、『昭和新曲選第五編・小田島樹人作曲』(京文社)。収録四篇とも「おもちゃのマーチ」など海野厚の詩によるもので新作はない。
  ・昭和四年七月、『昭和小学唱歌集第四集・小田島樹人曲』(白眉出版社)には十四曲収録。このころ白眉社の「唱歌教材」同人になり、この肩書は昭和十五年頃まで続く。
 前記二冊の曲集は、本居長世、室崎琴月、草川信、成田為三ら今を時めく新鋭童謡作曲家による一人一冊の特集本。海野厚や中山晋平らとの 『子供達の歌』に次いで訪れた、二度目の大きな機会だった。だが、樹人にとっては最後の刊本になる。
  ・昭和七年三月、『新訂尋常小学唱歌』第一学年用に「僕の弟」が発表された。樹人の作詞作曲。
 「僕の弟」の歌詞の中の「五郎」は樹人の実弟の名前。海野厚作「おもちゃのマーチ」の類似作品で、良い所がみつからない。


  ・昭和八年一月二十九日、三枝綾野との間に、四女をもうけたが先立たれた。
  ・昭和十一年、秋田県立花輪高等女学校(現・花輪高校)教頭の阿部六郎が、兄の樹人に帰郷を勧め、同校の音楽と国語の教師に就かせた。


▲昭和十年ごろの
小田島樹人
▲右写真:昭和十二年、高浜虚子、花輪町来町記念。前列右から二人目が小田島樹人、三人目が虚子。
樹人は大正五年ころ、「ホトトギス」の同人だったことがある。中列右から三人目が樹人の弟の阿部六郎、
後列右から四人目が六郎夫人の阿部悦女。

  ・昭和十五年から秋田中学(現・秋田高校)に移って楢山広小路七-一に住み、昭和二十九年十一月退職。
  ・昭和十八年一月十八日、新潟県人の宮沢トシ教諭(北浦原郡加治川村貝塚生まれ、父は軍医。東京女子高等師範学校卒)を妻に迎えた。

 <鹿角合唱連盟の創立>
 昭和二十五年ごろ、「流行歌は紅灯のちまたから生まれた音楽。本来の音楽をもってこれを排撃しなければならない」という旗印を掲げたのが花輪の阿部六郎、 毛馬内の大里健治(「浜辺の歌」を作曲した成田爲三と関係がある)、小坂の小泉隆二らだった。各町でやっていた合唱団を合併して、小田島樹人を顧問に鹿角合唱連盟を創立した。

  ・昭和三十年、これまでの業績が認められ、秋田県教育功労賞を受けました。
 学校では驚くべき語学の達人で、博学多才、趣味人で、教科書を持たせず、教科書では学べない物を豊かに教え、生徒の人気は抜群だったという。その反面、無頓着、金銭無感覚。かたくなまでに教諭昇進をこばみ、一生薄給の講師のままであったという。
  ・昭和三十四年(1959年)十月十一日、七十四歳で亡くなりました。

 以上は、主に井上隆明著『秋田のうたと音楽家』(秋田文化出版社)を参考にしました。この本には次のような間違いがあります。
  ●井上隆明編著『秋田のうたと音楽家』(秋田文化出版社)156ページ、“東京音楽学校牛山充主宰の「音楽」四巻八号に林古渓の詩「浜べ」が載った。”と書いてあるが、「浜べ」は間違いで、タイトルは平仮名で「はまべ」が正しい。著者に、電話で間違いを確認しました。「原詩は見ていない」との事でした。

 以上のように調査は難航しました。これを利用される場合は、<ウェッブ『池田小百合なっとく童謡・唱歌』による>と書き添えてください。
 苦労が報われます。よろしくお願いします。      


著者より引用及び著作権についてお願い】    ≪池田小百合≫


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雪こんこお馬

 作詞 権藤 花代
作曲 坊田かずま

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2014/03/01)


 【坊田(ぼうだ)かずまの略歴
  ・1902(明治三十五)年、十月十日、広島県安芸郡本庄村大字川角(現・熊野町川角)に父 浅次、母シナの次男として生まれる。本名は坊田壽眞。兄は早く亡くなり男子は一人。姉が二人いた。幼いころから音楽が大好きでバイオリンを上手に弾いていた。壽眞は「坊ちゃんで照れ屋」だったという。
  ・1910(明治四十三)年、四月、広島県安芸郡本庄北尋常小学校入学。卒業後、安芸郡熊野町尋常高等小学校高等科(現・熊野第一小学校)に進み、大正六年三月卒業。
  ・1917(大正六)年、四月、広島県師範学校第一部(現・広島大学教育学部)に入学する。この頃から各地の童謡、わらべ唄、子守唄などを採譜する。
  ・1920(大正九)年、三月、広島県師範学校を卒業。尋常小学校本科正教員免許を取得。広島県安芸郡畑賀尋常小学校(現・広島市立畑賀小学校)に教員(当時は訓導と呼称)として赴任する。同校校歌を作詞。
 (註)通称は一貫して広島師範。かずま在学時の正式名称は広島県師範学校。明治三十一年広島県師範学校、大正十一年広島県広島師範学校、昭和七年広島県師範学校、昭和十八年(官立)広島師範学校と改称された。

  <『赤い鳥』に入選 一回目>
  ・1921(大正十)年、雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社)三月号(第六巻第三號)に掲載された北原白秋の詩「げんげの(はたけ)に」に曲を付け、募集自作童謡に応募、(推奨曲譜)として初入選し、大正十年、『赤い鳥』八月号(第七巻第二號)に掲載される。草川信が伴奏を付けた。草川信は伴奏を付けただけで、他には手を加えていない。壽眞が書いた伴奏に、草川信が手を入れたのは三曲目の「月夜」です。草川信の曲譜選評はない

  △本號推奨曲譜作者 廣島縣安藝郡畑賀村小学校 坊田數眞君と紹介されている。この一作が生涯に大きな影響を与えることとなる。
  ●目次・楽譜・紹介文も坊田數眞になっていて間違い。坊田眞が正しい。その後入選した二曲の楽譜は、坊田壽眞と正しく書いてある。
  ●〔昭和十一年十月一日発行 第六十九號『赤い鳥 鈴木三重吉追悼號』(第十二巻第三號)附録「赤い鳥」總目次〕の、大正十年八月號(第七巻第二號)も、「げんげの畑に」(推奨曲譜)坊田數眞と間違っている。
  ●〔昭和十一年十月一日発行 第六十九號『赤い鳥 鈴木三重吉追悼號』(第十二巻第三號)附録「赤い鳥」總目次〕の、大正十年三月號(第六巻第三號)には、「げんげの畑」北原白秋と書いてある。「げんげの畑」が正しいタイトル。

▲北原白秋の詩
「げんげの畑に」  
挿絵・清水良雄



▼大正十年『赤い鳥』
三月号
 表紙「七重の戸」
  清水良雄


▼大正十年『赤い鳥』
八月号
表紙「兎の時計」
  鈴木淳
▼「げんげの畑に」(推奨曲譜) 作謠 北原白秋、作曲 坊田數眞、伴奏 草川信
  
  ●坊田數眞は間違い。坊田壽眞が正しい。
  (註)「げんげの畑に」の歌詞の三番には「いやいや、娘が死にました。いたちに、喰われて、羽根ばかり。」とあります。現代では、これを歌い継ぐのは、厳しい気がします。

 大正七年『赤い鳥』十一月号(第一巻第五號)に西條八十が「かなりあ」(童謠)を発表しました。大正八年『赤い鳥』五月号(第二巻第五號)に成田爲三が曲を付けた「かなりや」が発表されると大評判になりました。その後、西條八十は、この傾向の詩を次々発表し、成功しました。みんなが「かなりや」にあこがれ似たようなものを書くようになります。子どもの募集童謠にも、その傾向がみられます。対抗するように北原白秋も大正八年六月号(第二巻第六號)に「金魚」(童謠)を発表しました。帰りの遅い母ちゃんを待つ子どもが、金魚を次々と絞め殺すのを、童謡としては不適当な表現ではないかと西條八十が批判し、白秋と対立しました。白秋としては、残酷な「かなりや」を書いている西條八十には批判されたくなかった。北原白秋と西條八十は次第に対立するようになりました。(「かなりや」参照)

  ・1922(大正十一)年、広島県安芸郡小屋尋常小学校に転勤する(現・広島県安芸郡坂町立小屋浦小学校)。十二月二十五日、音楽専科正教員の免許を取得。
 (註)小学校名は、明治九年小屋浦、大正二年小屋、昭和二十一年小屋浦と改称された。

  <『赤い鳥』に入選 二回目>
 大正十一年、雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社)八月号(第九巻第二號)に、「かに」作謠 山口利、作曲 坊田壽眞、伴奏 近衞秀麿が入選し、(推奨曲譜)として掲載される。近衞秀麿が伴奏を付けている。壽眞はメロディーだけでなく伴奏も自分で書きたかったに違いない。『赤い鳥』へ応募した曲が二曲も入選した事は、彼の運命を決定づけた。
  「かに」(推奨曲譜)が掲載された八月号には曲譜選評はない。おかしなことに、大正十一年『赤い鳥』六月号(第八巻第六號)の「曲譜選評 近衛秀麿」に、“坊田數眞(●數眞は間違い。壽眞が正しい)氏の「かに」などは、選者が心を惹かれたものでした。”と書いている。坊田壽眞が作曲した「かに」が入選した事は、この時まだ発表されていない。そして、“どんどん自信のある曲をお送り下さい。私も一生懸命に拜見いたしませう。曲にふさはしい伴奏のついたのを樂しみにしてゐます”とある。坊田壽眞は、この六月号を見ている。なぜなら、次の入選曲「月夜」(推奨曲譜)には、伴奏を付けて応募している。まじめな勉強家です。
  山口利國の「かに」は、大正九年の『赤い鳥』六月号に掲載された(推奨)詩です。東京市麴町區暁星小學校三年生 と書いてある。「募集童謡に就いて 北原白秋」には“山口君の「かに」も見方がすぐれてするどくていゝです”とある。


▲山口利國の詩「かに」
 挿絵・清水良雄

▼大正九年『赤い鳥』
六月号
 表紙「象」
  清水良雄

▼大正十一年
『赤い鳥』八月号
表紙「ひる寢」
 清水良雄

                 ▲「かに」(推奨曲譜) 作謠 山口利國、作曲 坊田壽眞、伴奏 近衛秀麿

  ・1923(大正十二)年、四月、音楽教育の勉強をするため、当時勤務していた小屋尋常小学校を依願退職する。上京して東洋音楽学校(現・東京音楽大学)師範科に入学。弘田龍太郎の講義を受け、作曲の勉強を始める。音楽学校に通学する傍ら草川信 小松耕輔に師事して作曲を学ぶ。葛原しげるにも出会う。当時、葛原は東京女子音楽学校の教授をしていた。「東京女子音楽学校でピアノを弾いた」と書き残している。
  しかし、九月一日、関東大震災に遭遇。在京半年で帰郷、広島県呉市立二河尋常小学校の代用教員となる。

  ・1924(大正十三)年、三月、東洋音楽学校中途退学。四月、二河尋常小学校の音楽専科となる。ここで独創的な音楽の授業をしました。自由で楽しい雰囲気の授業は、参観者も多かった。 荒神町尋常小学校教員、三宅昶(作詞家・三宅のぶ子)と結婚。新居は呉市東片山町。作詞家の妻と夫婦で童謡を作る。作品はレコード化されている。

  〔三宅昶(作詞家・三宅のぶ子)について〕
 三宅昶(のぶ)は、葛原しげる(童謡「夕日」の作詞者)の母方の縁戚。昶(のぶ)が広島県三原女子師範学校を卒業、教師として最初に赴任したのは、広島県神辺の小学校で、葛原しげるの実家に下宿している。二人は葛原が帰郷している時、結婚の報告に深安郡神辺町八尋の宅を訪ねている。

  <『赤い鳥』に入選 三回目>
  ・1924(大正十三)年、雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社)九月号(第十三巻第三號)に三曲目の入選となる「月夜」作謠 金子てい、作曲 坊田壽眞が(推奨曲譜)として掲載される。
 草川信が曲譜選評を書いている。
 “坊田壽眞君の「月夜」は伴奏の美しい、いい曲です。伴奏の音について、ほんの僅か私が手を入れておきました。今回はこれを推奨にいたします”。草川信から“伴奏の美しい、いい曲です”と、ほめられ、楽譜に手を加えてもらった事は嬉しかったでしょう。
  メロディーが浮かんだ時、少し音楽の知識があれば楽譜に書く事ができる。次に、そのメロディーに伴奏を付けようとしても音楽理論が理解できていないと譜面を書く事は難しい。壽眞は、もっと自由に伴奏譜を書きたい、作曲の勉強をしたいと思ったに違いない。

  〔金子ていについて〕
  金子ていの「月夜」(推奨)は、大正十二年『赤い鳥』五月号(第十巻第五號)に掲載された詩です。山形縣南村山郡堀田第二小學校尋五 と書いてある。
  「童謡と自由詩について」北原白秋は、推奨文の中で“金子さんの「月夜」は寫生でも神秘的な深みがある”と高く評価している。五月号には金子ていの詩「音」も掲載されている。山形縣堀田第二小學校尋五 と書いてある。
  しかし、大 正十二年『赤い鳥』九月号(第十一巻第三號)に掲載されている金子ていの同じタイトルの詩「月夜」は、堀田第二小學校尋六 と書いてある。「眞赤い」という表現が斬新。

              月夜(佳作)
                 山形縣南村山郡堀田第二小學校尋六
                                   金子てい

               風吹く月夜、
               つゝじが眞赤(まっか)い。

  さらに、一年後の大正十三年『赤い鳥』九月号(第十三巻第三號)には「とんぼ」(佳作)が掲載されている。山形縣南村山郡堀田村(十四歳)と書いてある。学校名がない。同時掲載の「かっこう鳥」(童謠)(佳作)は、堀田村上野南(十五歳)と書いてある。堀田第二小學校尋六 で学業を終ってしまったようだ。
  大正十一年『赤い鳥』六月号(第八巻第六號)には「月の眞夜中」(推奨自由詩)が掲載されている。山形縣南村山郡堀田第二小學校尋四 と書いてある。「月夜」と「月の眞夜中」は、全然違う詩です。「月の眞夜中」について北原白秋は“金子君のは三つとも落ちついた、いゝものでしたが、一つだけ出しました。「さつきのまゝに」がいゝのです。しづかな心もちでよく見てゐます”とほめている。
  大正十年『赤い鳥』九月号(第七巻第三號)には「夕やけ」(推奨童謠)が掲載されている。山形縣南村山郡堀田第二小學校尋三 と書いてある。小さい頃から詩を作っていて入選している金子ていは、すばらしい少女です。書く事が楽しみだったのでしょう。この少女は多才で自由畫にも入選し何度も掲載されている。その後、どうなったのでしょう。

大正十三年『赤い鳥』九月号 表紙「きんぎょ」 清水良雄に掲載された
▲「月夜」(推奨曲譜) 作謠 金子てい、作曲・伴奏 坊田壽眞

  「かに」で伴奏を書いた近衛秀麿に「曲にふさはしい伴奏のついたのを楽しみにしています」と言われたので、今回は自分で伴奏を書いた。坊田壽眞は、実にまじめな勉強家です。

  坊田壽眞は「月夜」の自筆楽譜を残している。楽譜の下には“1924年2月2日佐藤さんの家で作る”と書いてある。この自筆楽譜は、「月夜」が1924(大正十三)年、『赤い鳥』九月号に発表されてから後に発表楽譜を写したものです。自筆楽譜には、「曲について」を書き残しています。


  ▲曲について 直筆・原文のまま(一九二四. 一一. 一0. 夜)

  (註)「月夜」の自筆楽譜は実に美しい。坊田壽眞の真面目な性格がよく出ています。草川信が「伴奏の音について、ほんの僅か私が手を入れておきました。」と言っているのはどこでしょうか。1924(大正十三)年、『赤い鳥』九月号掲載の「月夜」(推奨曲譜)と自筆楽譜を比べてみました。伴奏譜は同じでした。雑誌『赤い鳥』掲載の「月夜」(推奨曲譜)を写したのですから当然です。私、著者・池田小百合はがっかりしました。草川信は、伴奏のどの音を直したのでしょう。知りたいです。

  ・1929(昭和四)年、三月、再び夫婦で上京。二度目の上京は葛原しげるの誘いによるもの。上京するについて葛原しげるに力添えを受けている。東京に着いて、大久保町の葛原の家を訪ねている。
  東京に着いて最初に訪ねたのは藤井清水(ふじいきよみ)。藤井は広島県呉市焼山の出身で、「熊野筆祭り唄」「熊野第一小学校歌」の作曲をしている。作詞は二曲とも野口雨情。藤井とは師範学校の学生の頃から交流があった。
 夫婦で東京の小学校に勤める。かずまは東京市麻布区の三河台尋常小学校音楽専科、昶(のぶ)は本所区の江東尋常小学校に赴任する。
  かずまの上京は、人生を一変させた。麻布区の三河台尋常小学校では、東京で唯一、音楽と体操(デンマーク体操のような体操)、図工の専門の教師がいた。かずまは、子どもの生活に根ざした音楽教育を志して活動した。
  草川信の門下生になり作曲の勉強もしている。草川信を生涯の師と仰ぎ指導を受けている。杉並天沼に住んでいた草川信とは家族ぐるみの付き合いをした。三宅のぶ子=昶(のぶ)も沢山の作詞をした。
  『日本郷土童謠名曲集』(岡田日榮堂版)、『やさしい獨唱と輪唱曲集』(厚生閣)、『心理化・作業化・唱歌綜合教育』(厚生閣版)、『坊田壽眞作曲集』第一輯(詩と歌謠の社)、『日本子守唄集』(新興音樂出版社版)などを次々刊行した。
  『坊田かずま童謠曲集』第一編(新興音樂出版社)の奥付には、坊田壽眞著書選集の一覧表があり、東京市目黒區中根町二〇九一番 坊田壽眞と書いてある。

  <わらべ唄・子守唄の出版について
  ・『日本郷土童謠名曲集』(岡田日榮堂版)昭和七年、『日本子守唄集』(新興音樂出版社)昭和十三年を刊行。
  小学校の音楽訓導として教鞭をとる傍ら全国各地で唄い継がれている、わらべ唄、子守唄などを採譜収集。日本各地に及んでいる。約二百余曲。日本の子どもにふさわしい教材の研究、音楽教育への実践など、その活躍は音楽関係者、専門家の注目を集めるようになって行く。

   わらべ唄・遊戯歌の実践(女子ばかりなのが気になる)  ⇒

  <器楽合奏について>
  三河台尋常小学校での器楽演奏、音楽指導その独自の指導方法は世間の注目の的になり、全国各地からの参観者が後を絶たなかった。当時、小学校の音楽(唱歌)授業では行われていなかった「器楽合奏」を自らの授業に取り入れ、また演奏会を催して、画期的な取り組みとして高く評価された。文部省に「音楽教育の中に器楽合奏を取り入れてほしい」と陳情に行っている。
 ラジオに出演してレコードの吹き込みを行い、演奏指導は「アサヒグラフ」の海外版にも写真入り記事で紹介される。

  ▼器楽合奏の授業風景

  三河台尋常小学校で独自の音楽教育を行い、楽器・合奏指導の先駆者として情熱を燃やした。子どもの身の回りにある太鼓や玩具の笛などを授業に使い、独創的な演奏をした。授業は当時としては最も進歩的な指導法であり、多くの参観者であふれていた


  <ピアノ・オルガン曲の出版について>
  以下すべて新興音樂出版社。沢山のピアノ オルガン曲を作曲している。
  ・『やさしい獨奏聯彈曲集』
  ・『小學生 ピアノ オルガン 曲集』一篇 二編
  ・『女學生の爲の抒情 ピアノ オルガン 曲集』一編 二編
  ・『子供の爲の ピアノ オルガン 練習書』
  ・『少年少女 ピアノ オルガン 曲集』
 東洋音楽学校に在学中は、作曲をしたかったが、ピアノの練習のためにあまりできなかったと述懐している。かずまはピアノの伴奏者としても卓越した手腕を発揮し、師の小松耕輔や葛原しげるの童謡レコードの伴奏を数多くしている。子どもたちが楽しくピアノやオルガンが練習できるようにと願い練習曲を作成した。


  コラム  〔わらべ唄と音楽教育〕   池田小百合

 四十五年も前の事、東京の和光学園の小学校の先生が、音楽の教材として「わらべ唄」と「リコーダー」だけで音楽の授業をし、画期的な授業として注目を集めた事があった。日本中の先生方が参観に訪れ、教室は人であふれていた。しかし、いくつかの問題点があり、この先生が退職すると、また普通の音楽授業となった。
  まず、「わらべ唄」の多くは地方の子どもたちの遊び唄だ。指導にあたっていた先生は、東北の出身であった。生徒は東京の子どもたちなので、方言になじめなかった。唄と一緒に遊びも教えなければならなかった。次に、小学校の時代に「わらべ唄」だけの授業では、他の音楽に触れることができない。和光学園の先生は、「それは、家庭でテレビを観たり、コンサートなどに連れて行き、おぎなえる」としていたが、私立の和光学園のような裕福な環境にいる子どもたちはよいが、見学をして帰った公立の小学校の先生方は困った。当時も今も、普通の家庭では、子どもにクラシックを聴かせる習慣がない。学校の音楽教育でベートーベンやモーツアルトを知る。日本の歌を知る。・・・ということで、「わらべ唄」と「リコーダー」だけでの音楽の授業は長く続かなかった。見学をした先生の中には、「指導している先生は、ピアノが弾けないのではないか」と批判する人もいた。

  この時期、東京には大きな「わらべ唄研究会」があった。熱心な音楽大学の学生、小学校の先生、幼稚園・保育園の先生が参加し、土日を返上し、夜遅くまで勉強会が続いた。帰宅は深夜になった。夏に箱根の「きのくにや旅館別館」で合宿があり、大勢の参加者があった。全員が女性だった。高額な会費のわりに、勉強したかいがなかった。「これは、講師の先生の金儲け」と言う人もあった。神奈川県に住んでいる私、著者・池田小百合には方言や遊びが理解できなかった。私は「わらべ唄研究会」に大学生の時から参加し、中学・高校の教諭になってからも勉強に通ったが、「わらべ唄」を授業やNHK合唱コンクールの自由曲に活かすことができなかった。期待は失望に変わり、「わらべ唄」からは次第に遠ざかった。その後、神奈川県西部地区で童謡の会を主宰して、「わらべ唄研究会」で勉強した唄を、いくつか試したが、方言と遊びの壁は高かった。「♪びきどの びきどの」とは、いったいなんだろう。みんなの頭に「?」が付いていた。一ヶ月後には、全員前回唄った今まで聴いた事もない「わらべ唄」を忘れていた。それで終わった。最大の失敗は、「わらべ唄」は遊び唄で、遊びながら唄わなければ意味がないところにあった。


  <輪唱曲の作曲について
  『やさしい獨唱と輪唱曲集』伴奏及解説(厚生閣)昭和七年十月十八日刊行。
 代表作に林柳波作詞 坊田かずま作曲「水がめ」二声輪唱がある。林柳波著 詩集『水甕』に掲載されていた詩に作曲。原調はト長調、四分の四拍子、伴奏付は『坊田かずま作曲選集』(坊田かずまの会)で見る事ができます。
  「水がめ」は中学の音楽教科書に掲載され、全国の中学生に歌われた。ト長調、四分の四拍子、フェルマータや伴奏は付いていない。以下の二冊に掲載されていたことが確認されている。

  ・国立音楽大学 国民図書刊行会共著『われらの音楽 中学一年』昭和二十五年三月十五日発行。執筆 国立音楽大学教授岡本敏明、野村茂、服部龍太郎。
  ・『中学校音楽1』(学校図書株式会社)昭和三十年三月発行。監修 日本芸術院会員・近衛秀麿。編集 作曲家・津川主一、東京芸大・島岡譲ほか六名。

  ●「坊田かま」作曲は間違い。「坊田かま」が正しい。
  高音「ミ」をさけるため、ヘ長調に移調してある。最高音は「レ」で歌いやすくなった。

坊田かずまの碑
「水甕」
生誕百年記念碑
 
平成14年9月建立

 熊野町民会館
 玄関前



   コラム 〔輪唱と音楽教育〕  池田小百合

 輪唱曲の中で小学生に一番人気なのは、「かえるの合唱」です。今でも歌われています。私、著者・池田小百合も学校でも家に帰ってからも歌いました。輪唱曲は基本的にⅠ(主和音)Ⅳ(下属和音)Ⅴ(属和音)の主要三和音で作られている(属七の和音も、しばしば使われる)。したがって、作るのも歌うのもたやすい。

 玉川学園の中学部の時に覚えた「虫の声」(岡本敏明 作詞、イギリス民謡)という三声輪唱がある。大好きな輪唱曲の一つです。三つの組に分かれて歌い、最後の組は「リリリリリーン」と小さく響かせて終わる。この静けさがいい。または、何回か繰り返してから、指揮者の合図でフェルマータの部分で一斉に延ばすと和音となり、ハモル合唱の感動を味わう事ができます。これが合唱(ハーモニー(和声)をつけて歌う)の基本です。繰り返すたびに、あちらからも、こちらからも聞こえて来る「リリリリリーン」と鳴く虫の声の合唱は、すばらしいものです。この曲の最高音は「レ」です。これ以上高いと歌えないし、低くすると虫の声が半減してしまう。音域も重要。

 動作を付けて歌う輪唱もある。
  ・「汽車ポッポ」(岡本敏明 作)、二声輪唱。汽車になって歌う。
   「♪汽車は走るよ 煙をはいて ガッタンゴットン シュシュシュシュ  ガッタンゴットン シュシュシュシュ 汽車は走る」。
  ・「だるまさん」(小山章三 作)、二声輪唱。手は前で交差して胸に置き、だるまさんになって歌う。
  「♪転んだ起きた だるまさん 転んだと思ったら また起きた」。
  ・「あがり目さがり目」(迫信一郎 作)、三声輪唱。親指と人さし指で丸を作って目の所でクルクルまわす。
  「♪くるくるかわる ねーこの目 あがり目めさがり目 ねーこの目 クルックルッ ねーこの目」。
  ・「毛虫が三匹」(栗原道夫 作詞、小宮路敏 作曲)。三声輪唱。(キャッ)の所は両手のひらを広げて驚いた動作をする。
  「♪毛虫が三匹隠れたぞ ぞろぞろぞろぞろどこだろう ここらにいそうだみつけたぞ(キャッ)」。
  ・「夜が明けた」(岡本敏明 作詞、フランス唱歌)。五声輪唱。「みなさんおはようございます」で頭を下げて挨拶する。
  「♪コッコケコッコ 夜が明けた お空は真っ赤な 朝焼けだ 元気よく さあ飛び起きて 朝の挨拶 いたしましょう みなさんおはようございます」。

  いずれも小・中学生が喜ぶ輪唱です。汽車になったり、だるまや猫になったり楽しい。「毛虫が三匹」の(キャッ)は、あちらで(キャッ)、こちらで(キャッ)と愉快です。「夜が明けた」は挨拶の勉強になります。
 ある日、国立音楽大学で岡本敏明先生が教育音楽の実践授業をした。自分で作った輪唱曲を、学生に歌わせようとした。しかし、学生たちは歌わなかった。輪唱をする気持ちがなかった。初めて聞くメロディーと歌詞に戸惑った。最初に全員で歌えるようにしなければ、グループに分かれても歌えるはずがない。
 「だるまさん」では、岡本先生だけが「だるまさん」の動作をして歌った。学生は見ていた。当時すでに「だるま」は生活の中になかったので、転がったダルマが起き上がって来るとは、思いがけなかった。「毛虫が三匹」では、(キャッ)と声を発する学生はいなかった。女子がほとんどで、みんな恥ずかしかった。したがって、玉川学園の中学部の時のように輪唱に感動することはなかった。坊田かずまがそうだったように、音楽大学の学生はベートーベンやモーツアルトのピアノの練習にしのぎを削っていた。オペラのアリアを歌う練習に明け暮れていた。輪唱には興味がなかった。岡本先生は「ええい!」と言って、授業は終わった。私たちの学年は、まれにみる不出来の学年で、どの先生も手を焼いていた。
 
  <レコードの吹き込み>
 坊田かずまは、独自の音楽教育、器楽合奏指導の先駆者としてラジオ・新聞・音楽雑誌などに紹介され、上京半年あまりでレコード吹き込みをしている。
  日東蓄音器株式会社10枚、東京トーキー17枚、コロムビア18枚(「郷土童謠レコード」ほか)、日本ビクターレコード20枚、コロナ・レコード2枚、その他5枚。

 ・ニットー・レコード 3913-A「神田祭」小林愛雄作歌、弘田龍太郎作曲。 3913-B「島の灯」伊藤松雄作歌、坊田壽眞作曲。 歌:四家文子、伴奏:サロン管絃團。日東蓄音器株式會社 
 坊田かずまは最初のレコード「島の灯」を吹き込んだ時のことについて日記に次のように書いている。  「自分の作った 曲がはじめて 吹込まれるのは 嬉しいのと おそろしいのに 一緒になって みせつけられた。」興奮が伝わってきます。
                        ▼昭和四年十一月二日日記(坊田謙治氏提供)

  ・ニットーレコード 5165-A 童謠「てまり唄」三宅のぶ子作歌、坊田壽眞作曲。 名古屋雛菊音楽會、獨唱 草野和歌子、伴奏 サロン管絃團。5165-B 童謠「くゞり門」。
  ・ビクター 51044-A 童謠「紅葉山」葛原しげる作詩、小松耕輔作曲。 童謠「電車・汽車」西條八十作詩、小松耕輔作曲。獨唱 淺井ふさ子、伴奏坊田壽眞。(坊田かずま)がピアノ伴奏をして吹き込んだ。ピアノは相当の腕前だったと思われる。葛原、小松両氏から推挙されての起用。
  ・コロナ・レコード C5136-B 童謡「蛙の學校」水谷まさる作詞、坊田壽眞作曲、森義八郎編曲。獨唱 片岡昭子、伴奏コロナ・アンサンブル。
  ・コロナ・レコード C5062-B 童謠「山寺の小坊主」四橋奨作詞、坊田壽眞作曲、森義八郎編曲。獨唱 片岡昭子、伴奏コロナ・アンサンブル。
 片岡昭子は、坊田の教え子で、当時の東京三河台小学校一年生。頭に大きなリボンを付けている。高い声を張り上げて歌う童謡歌手は、みんなの憧れだった。
                     ▲童謠「山寺の小坊主」歌詞カード


  <昭和四年から在京十年間が最も活躍>
 ラジオ放送の教育番組唱歌担当、童謡歌番組の指揮・指導、海外向け放送では初めて小学生の子どもたちと出演した。新聞、雑誌、ニュース映画など中央のメディアで活躍した。
 出版も多く、音楽教育指導執筆出版、採譜した「わらべ唄」の楽譜や童謡作曲集の出版、小学館出版の学校教育指導書の唱歌部門を担当するなど、休む間もなく活躍していた。
 昭和六年には、葛原しげるの主宰する「詩と歌謡の会」(通称「ポッポの会」)の幹事役として活躍。 昭和八年には、野口雨情と藤井清水の主宰する「日本歌謡協会」の協会員となり民謡・歌曲などを多数作曲。
  上京してからの十年間は、ひたすら音楽教育と作曲にまい進しました。「私は父がいつ寝るのか不思議に思いました」と娘が言うほどの不眠不休の生活で、無理が重なり、結核菌に肺をおかされてしまいました。

  ・1939年(昭和十四年)、三月、「もしこのまま活動していると命が危ない」と内科医に強く言われて病気療養のため呉市上畑町の自宅に帰郷。四月から土肥高等女学校(現・清水ヶ丘高等学校)、呉女子教員養成所の音楽講師となる。また、休む暇なく活躍した。病状は悪化するばかりだった。

  <ラジオに出演>
  土肥高等女学校音楽部に「三日月会」の合唱部をつくり、昭和十四年七月二十二日、JOFKラジオ放送に合唱部が出演した。
 
  ▼土肥高等女学校音楽部「三日月会」生徒たち
 (註)土肥は土肥高女の設立者の姓。

 <校歌の作曲>
  ・呉市立工業学校校歌(現・広島県立呉工業高等学校)、土肥高等女学校校歌(寮歌 水泳部応援歌)・土肥女子商業学校校歌、呉市立長郷小学校校歌、下関市立菁莪小学校校歌を作曲した。

  <最期の言葉>
  ・病床で『日本旋律と和聲』(厚生閣)を書き上げ刊行。『日本旋律と和聲』を書き終えて世を去りたいと日頃から口にしていた。昭和十六年十一月、同書を出版した後、妻(三宅のぶ子)に「やりたいことは、みんなやった。もう、思い残すことはない。」と言って、にっこりと微笑みながら、静かに息を引き取った。

  ・1942(昭和十七)年、二月三日、逝去(享年三十九歳)。

  【貴重な資料】 以下の資料は、「坊田かずまの会」事務局長の坊田謙治氏(広島県安芸郡熊野町)から送っていただきました。貴重な資料を、ありがとうございました(平成25年9月28日)。【坊田かずまの略歴】は、いただいた資料を参考にしました。

  ・「坊田かずま生誕百年記念」コンサートプログラム(平成14年9月22日)。 ラストの全体合唱では「水甕(みずがめ)」が歌われた。大きな二声輪唱になったことでしょう。大ホールのような人数の多い場合は、伴奏付が効果的。それぞれのグループがまとまりやすい。伴奏があるので、バラバラになるのを未然に防ぐことが出来る。
  ・『坊田かずま作曲選集』(坊田かずまの会)。
  童謡 権藤はな子(花代)作詞「雪こんこお馬」「願(がん)かけた」。わらべ唄 権藤はな子新作詞「山路(やまみち)来い」(蛍狩の唄)、権藤はな子新作詞「かごめかごめ(遊戯歌)」、権藤はな子新作詞「家の背戸・迷子の子狐(遊戯歌)」などが掲載されている。林柳波作詞「水がめ(輪唱)」伴奏付を見る事ができます。冨原薫(ふはらかおる)の曲は「青葉のトンネル」など九曲が掲載されている。他に渡邊千秋 葛原しげる 大村主計 相馬御風 鹿島鳴秋 濱田廣介 三宅のぶ子 野口雨情 竹久夢二などの作詞に坊田かずまが作曲したものが掲載されている。権藤はな子作詞「七夕さん」の楽譜は掲載されていません。

               ▲童謡「雪こんこお馬」権藤はな子作詞 坊田かずま作曲


                ▲童謡「願かけた」 権藤はな子作詞 坊田かずま作曲

▲権藤はな子(権藤花代)の「雪こんこお馬」には今村まさるも作曲している.伊藤まなみさん提供.

  ・『坊田かずま作曲選集』第二編(坊田かずまの会)。
  坊田壽眞が書いた“作曲者の言葉”が掲載されている。作曲した時のようすがわかるコメントです。権藤はな子作詞「七夕さん」の楽譜は掲載されていません。
  ・坊田かずまの会 通信「くれがた」
  平成14年2月3日【かずま忌】創刊号~第13号平成25年4月1日まで。 沢山の写真でコンサートのようすが一目でわかります。

  ・『生誕百年記念誌 郷土の童謡作曲家 坊田かずまの世界』(坊田かずまの会)平成14年3月1日発行。権藤はな子作詞「七夕さん」の楽譜は掲載されていません。


  ▼『生誕百年記念誌 郷土の童謡作曲家 坊田かずまの世界』表紙 =ピアノの前の坊田かずま

  <佛教保育教材の作曲について>

  ・保育教材 №22 童謠「お彼岸まゐり」(本願寺派佛教保育研究會)発行。 作詩 坪松賢樹、作曲 坊田壽眞、振付 高田義人。坊田壽眞が書いた“作曲者の言葉”が掲載されている。小学校の先生らしい真面目なコメントです。
  ・保育教材 №21 童謠「うぐひす」(本願寺派佛教保育研究會)発行。 作詞 渡邊千秋、作曲 坊田壽眞、振付 高田義人。
  ・保育教材 B.№67 「時計屋の時計」(本願寺派佛教保育研究會)発行。 作詞 廣瀬としを、作曲 坊田壽眞、振付 高田義人。
  ・「春のお寺」作詩 三宅のぶ子、作曲 坊田壽眞。
  ・「ホタル」作詩 三宅のぶ子、作曲 坊田壽眞。 本名の坊田壽眞の名で京都本願寺の保育教材の作曲にも力を注ぐ。掲載されている詩を読んでいると、沢山の冨原薫の詩に作曲している事が理解できます。冨原薫の父は静岡県御殿場の真教寺(しんきょうじ)の住職、つまり冨原薫は静岡県御殿場市で小学校の教員をしていましたが、家は寺という環境でした。代表作に「汽車ぽっぽ」がある。(「汽車ぽっぽ」参照)。

  <童謡の作曲について>
  ・『坊田かずま童謠曲集』第一編(新興音樂出版社)昭和十年十月二十日発行。  序にかえて―作詞家の人達―がある。
  ●2、「乳母車」富原薫作詞 坊田かずま作曲には、富原薫(ふはらかおり)と書いてあるが間違い。冨原薫(ふはらかおる)が正しい。(「汽車ぽっぽ」参照)。

  ▼『坊田かずま童謠曲集』の表紙。かわいい絵には「ひろし」のサインがある。

  【後記】 〔その1〕
 私、著者池田小百合は、「坊田かずまの会」事務局長の坊田謙治氏から沢山の資料を送っていただき、この論文を書いて持っていました。

 詰めの段階に来て、雑誌『赤い鳥』の調査に時間がかかりました。

  <調査一日目>

  まず、〔昭和十一年十月一日発行 第六十九號『赤い鳥 鈴木三重吉追悼號』(第十二巻第三號)附録「赤い鳥」總目次〕を見ると、大正十年『赤い鳥』八月号(第七巻二号號)に坊田壽眞 作曲の「げんげの畑に」(推奨曲譜)が掲載されていることがわかりました。坊田壽眞が見た北原白秋の詩「げんげの畑に」は、大正十年、『赤い鳥』三月号(第六巻三號)に掲載されていた事もわかりました。すぐわかったのは、北原白秋の作品だったからです。北原白秋の作品は特別大きく扱われている。
 次に「かに」と「月夜」の詩を調査しました。
 二曲目の「かに」(推奨曲譜)は、大正十一年『赤い鳥』八月号(第九巻第二號)に、三曲目の「月夜」(推奨曲譜)は、大正十三年『赤い鳥』九月号(第十三巻第三號)に掲載されている事が〔昭和十一年十月一日発行 第六十九號『赤い鳥 鈴木三重吉追悼號』(第十二巻第三號)附録「赤い鳥」總目次〕でわかっていましたので、すく発見できました。
 続いて尋常科小学生が書いたという「かに」と「月夜」の入選詩が掲載された『赤い鳥』を探しました。「げんげの畑に」(推奨曲譜)が掲載されている大正十年『赤い鳥』八月号(第七巻第二号號)から「月夜」(推奨曲譜)が掲載されている大正十三年『赤い鳥』九月号(第十三巻第三號)までの全ての号の子供の詩を一つ一つ調査しました。金子ていの「月夜」(推奨)は、大正十二年『赤い鳥』五月号(第十巻第五號)に掲載されていました。坊田壽眞はこれを見て作曲したのです。「月夜」は発見できましたが、「かに」は、ありません。もう一度最初から見ましたが発見できませんでした。これで、一日目の調査を終えました。
  (註)「月夜」は、〔昭和十一年十月一日発行 第六十九號『赤い鳥 鈴木三重吉追悼號』(第十二巻第三號)附録「赤い鳥」總目次〕には載っていない。一冊一冊調べる必要があった。

  <調査二日目>

 「かに」の詩は、「かに」(推奨曲譜)が掲載された大正十一年『赤い鳥』八月号(第九巻第二號)から「げんげの畑に」(推奨曲譜)が掲載された大正十年『赤い鳥』八月号(第七巻第二號)に絞って調査をしました。当然この中のどれかに「かに」の詩が掲載されていると確信していましたが、前から二回と後ろから二回見ましたがありませんでした。子供の詩は沢山あるので見落したかもしれないので、最後に全作品のタイトルを書き出しチェックしました。「おかしいな?」ありません。目が開けていられないほど疲れたので目薬をさして、ホットアイマスクをして寝ました。

  <調査三日目>

 あきらめかけたその時、再び〔昭和十一年十月一日発行 第六十九號『赤い鳥 鈴木三重吉追悼號』(第十二巻第三號)附録「赤い鳥」總目次〕を見る事を思いつきました。すると、大正九年『赤い鳥』六月號(第四巻第六號)に「かに」(推奨童謠)山口利國と書いてあるではありませんか。「かに」の詩は挿絵付きで大きく掲載されていました。坊田壽眞はこれを見て作曲したのです。山口利國「かに」(推奨童謠)は、「げんげの畑に」(推奨曲譜)が掲載された大正十年『赤い鳥』八月号(第七巻二號)より前の号に掲載されていました。私は、全く掲載されていない号を何度も見ていた事になります。

 三日間も『赤い鳥』を眺めていたので、北原白秋、近衛秀麿、草川信の選評を見ることができました。大きな成果です。雑誌『赤い鳥』を手にした坊田壽眞の喜びの声、意気込みが伝わって来ました。自分で調査する事は重要だと、あらためて思いました。研究とは、このようなものです。かかった時間は無駄ではありません。調査をする部分が残っていた事に感謝です。これだから勉強は楽しい。

  〔その2〕
  坊田かずまは、三十九年の短い時間に沢山の曲を作りました。歌い継ぐ「坊田かずまの会」の活動に驚くばかりです。あらためて、歌を後世に伝えて行くためには、コンサートを開催して繰り返し歌ったり聴いたりすることが重要と思いました。楽譜の出版や、DVD、CDで歌声を残すことも大切です。楽しく歌い継いでほしいと願っています。

  〔その3〕
  かずまが子どもの頃遊んだ熊野町大字川角の「貴船神社」境内には「坊田かずまの碑」がある。
 
▲「坊田かずまの碑」
平成十七年
十一月三日
(神社秋祭り)
除幕

  私、著者・池田小百合が主宰している「童謡を歌う会真鶴」の真鶴にも、「貴船神社」があります。七月には二日間にわたり海と陸で「貴船祭り」が盛大に行われる。 同じ名前の神社がある事に驚きました。

  〔その4〕

 平成二十六年元旦、「坊田かずまの会」の坊田謙治氏から美しい年賀状をいただきました。親しくさせていただき嬉しいです。年賀状には、坊田かずま著『幼稚園 小学校 新興行進曲集』(新興音楽出版社)昭和十三年十月三日発行の表紙絵が紹介されている。私が主宰する童謡の会の一月例会で、この年賀状を回覧し、坊田かずまを紹介しました。音楽大学に入学し、これから作曲の勉強をしようという時、関東大震災は不運でした。享年三十九歳、あまりにも短い人生でした。


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≪池田小百合≫


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