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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
草川信作曲の童謡 2
    春の唄    どこかで春が  夕燒小燒   汽車ぽっぽ  
 みどりのそよ風   揺籠のうた
 草川信の略歴     中村雨紅の略歴   冨原薫の略歴   百田宗治の略歴
内容は「童謡・唱歌 事典」です(編集中です)




汽車ぽっぽ

作詞 冨原 薫
作曲 草川 信

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2009/06/06+2019/01/09)


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

  【「兵隊さんの汽車」の誕生は昭和十二年八月か、昭和十三年か】
 1999年(平成11年)10月31日(日曜日)神奈川新聞掲載 メロディーとともに31 今週の歌「汽車ぽっぽ」には次のように書いてあります。書いたのは神奈川新聞の記者です。
  “「兵隊さんの汽車」を作詞したのは静岡県の御殿場で小学校の代用教員をしていた富原薫。昭和十二年に日中戦争が勃発、兵士と軍事物資を運ぶ要は汽車だった。主力の蒸気機関車D51(デゴイチ)に乗って戦地へ赴く兵士たち。拠点の国鉄(現・JR)御殿場駅では兵士を見送る多くの家族らが日の丸の小旗を振っていた。富原も生徒を引率してしばしば駅へ行ったのを妻のさき(八四)は思い出す。この光景を富原は翌年「兵隊さんの汽車」の題で作詞した”。 

 (註1)D51型は1000両近く造られた蒸気機関車の代表的形式で、戦中・戦後の国鉄の貨物輸送を支えました。『ノスタルジックトレイン』ヴィトゲン社の編集長・畑中省吾氏に「御殿場線で活躍したのはD52」だと教えていただきました(2010年6月21日)。御殿場線の蒸気機関車はD52型で、D51型をさらにパワーアップした設計。馬力のあるD52型は、御殿場線にはうってつけの機関車でした。御殿場線では電化まで活躍しました。
 (註2)ただし、郡修彦さんのご教示によりますと、「D51は、1936年から製造が始まり、御殿場線にも早速配属されました。D52型は、1943年12月から製造が開始された蒸気機関車です。御殿場線への入線は1945年12月の国府津機関区への転属車両が最初であって、冨原が見たのはD52型ではありえません。苗村武氏(1938年1月28日没)の御殿場線撮影写真(※)はD51型で、作詞者・冨原薫が1937年に御殿場線でD51を見た事を裏付けています。畑中氏の情報は戦後のことです」(2011年8月11日私信より)。
 (※)「苗村武氏が生前御殿場線で撮影されたD51の写真が「西尾克三郎、ライカ鉄道写真全集X」(プレスアイゼンバーン、1998年3月1日)の158.159ページに掲載されております」(以上は、郡修彦氏に教えていただきました。ありがとうございました。2011年8月11日)。

 ●毎日新聞学芸部『歌をたずねて』(音楽之友社)には次のように書いてあります。書いたのは毎日新聞の記者。
 “昭和十三年、御殿場の小学校教師をしていた富原薫氏が、この歌を作詞発表した”

 ◎長田暁二著『昭和の童謡アラカルト(戦後篇)』(ぎょうせい)昭和六十年発行には、次のように書いてあります。
 “元来この詞は昭和十二年七月七日に勃発した日華事変のため、国鉄御殿場線の御殿場駅の軍隊ホームから毎日大勢の兵士が戦地に送り出されるようになり、その戦地に赴く出征兵士を送る風景を見て、八月に御殿場市立高根小学校の先生をしていた富原薫が作詞したものです。御殿場駅は富士山麓に陸軍の演習場があったこともあり、明治四十三年全国でも珍しい軍隊ホームになり、軍隊関係の輸送で賑わいました。
 毎日三十両から五十両にもなる長い貨物列車には巨大な戦車や大砲が搬入され、これらが軍隊ホームに降され、御殿場は軍隊の町に様変わりしていました。戦争の激化に伴い、御殿場駅は、"万歳万歳"の声で明け暮れるようになり、この時分の兵隊輸送は東海道線を通さず御殿場線を利用していたので、出征する兵士は昼も夜も列車で通り過ぎ、路線附近の住民達は夜中にはたき火をたいて、兵士を見送っていました。”

 歌詞は、日中戦争勃発の一ヶ月後「昭和十二年八月」に作ったのか、それとも翌年「昭和十三年」だろうか。素朴な疑問を持った私、池田小百合は、長田暁二氏に手紙を出しました。

長田暁二「母と子のうた」 すると、返事として長田氏は著書『母と子のうた100選』(時事通信社、平成元年4月25日発行)を贈って下さいました。
 これにも“昭和十二年七月七日にぼっ発した日中戦争のため、当時国鉄御殿場線の御殿場駅のホームから毎日大勢の兵士が戦地に送り出されるようになり、御殿場市高根小学校の先生をしていた富原薫が、同年八月に作詞したものです。”と書いてあります。
 それ以来二十年、私は童謡と唱歌についての勉強に次ぐ勉強の日々となり、今日にいたっています。

 【正しいのは昭和十二年】
 作詞の時期は、当時のポリドールの月報で判明しま した。(「月報」の原本は郡修彦氏が所有しており、北島治夫氏を通してこの内容の情報の提供を受けました)。
 ポリドールの月報(昭和十二年十一月新譜=10月20日発売)に、8755の番号で 「兵隊さんの汽車」が載っています。
 レコードが昭和十二年十月二十日発売ですから、冨原薫が作詞したのは昭和十二年八月が正しいことになります。

  【レコードについて】
 <B面  童謠 兵隊さんの汽車> ポリドールレコード(8755-B)/歌 斎藤達雄 大久保澄子/伴奏 日本ポリドール管絃樂團 /昭和12年11月新譜=10月20日発売
 <A面  童謠 軍艦旗> 林柳波 詞  草川信 曲/歌 斎藤達雄 ポリドールレコード
 
 『母と子のうた100選』(時事通信社、平成元年4月25日発行)ほか、長田暁二氏の全ての著書の記載には、“ポリドールが翌十五年に、斎藤達雄、大久保澄子の歌唱でレコード化しました。” これは間違いでした。レコードの情報は長田氏の記述以外に無かったため、あらゆる出版物でこの間違いが使われてしまいました。月報調査により、事実が判明しました。
 さらに、郡修彦氏から、より正確な事実を教えていただきました(2011年8月11日)。「兵隊さんの汽車」の原盤番号は7163GDであり、この番号から推測すると録音は1937年8月下旬だそうです。ポリドールの録音台帳は失われてしまいましたが、東海林太郎氏は自分の録音年月日を控えていて、その記録(7157GD=1937年8月24日、7187GD=9月18日)から推測できるそうです。
 今も使われている1939年(昭和十四年)発売説のもとは高取武「歌でつづる鉄道百年」(月刊誌「鉄道ピクトリアル」1967年9月号、鉄道図書刊行会)と推定できるそうです。貴重な情報をいただきました郡修彦氏に御礼申し上げます。

  (註T)ポリドール 8755はレコード番号で、7163GDは原盤番号(マトリックス番号)。
  ・A面(8755-A)「軍艦旗」マトリックス番号7200GD ・B面(8755-B)「兵隊さんの汽車」マトリックス番号7163GD
 マトリックス番号は、溝とレーベルの間の空白に打ち込まれている。 また〇の中に特(特別物品税)の漢字が入った刻印があります。 (以上は北海道のレコードコレクター北島治夫氏から教えていただきました。2011年8月20日)。
 
  (註U)刻印については『SPレコード』33(1999年7月25日)掲載、郡修彦著「レコード税率と刻印の変化」に詳しく書いてあります。 (以上は音楽史研究家でレコードコレクターの郡修彦氏から教えていただきました。2011年9月25日)。

  【作詞秘話】
 妻の冨原さきさんが重要な証言をしています。
 “三十三歳の頃に召集された富原は、御殿場駅から汽車で静岡に向かった。しかし身体検査で軍隊の任に耐えられない体と告げられた。「出征するのが名誉のご時世。入隊できなかったことを恥じ、すぐには帰宅しなかった。『せめて歌で』との思いで作詞したのかもしれません」と、さきは明かす”
 (前記・神奈川新聞による)。

  【草川信が作曲】
 「夕焼け小焼け」「揺籠のうた」の作曲者の草川信が作曲しました。
 曲の前奏には、シューベルトの『軍隊行進曲』の一部がアレンジして使われています。ヘ長調、4分の2拍子、A(8)B(8)C(8)三部形式の曲です。ドレミソラの五音音階の曲。
 「兵隊さんの汽車」は、歌詞と曲、文字通り戦意昂揚(せんいこうよう)の歌でした。


  【自筆原稿「兵隊さんの汽車」】
 冨原家にある『兵隊さんの汽車』の自筆原稿には、「草川信 作編曲、斉藤達雄 大久保澄子 唄、ポリドール八七五五、遊戯と唱歌十一月号 丸岡氏振付」と書いてあります。
  「遊戯と唱歌」は、小学校女教員のための月刊誌です。

 ポリドールレコードの歌詞パンフレットにも、歌詞の最後に(振付は大正書院発行「遊戯と唱歌」十一月號掲載)と書いてありました。

 【舞踊童謡集『お花の兵隊さん』に掲載か】
 ★長田暁二著『日本の童謡アラカルト(戦後篇)』(ぎょうせい)昭和六十年発行によると次のようです。
 “「兵隊さんの汽車」と題して、(昭和)十四年七月二十五日発行の舞踊童謡集『お花の兵隊さん』に、丸岡嶺の振りつきで発表され、全国の幼稚園、小学校のお遊戯の中で浸透していき・・・”。
 ★与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)には、―『お花の兵隊さん』「昭和14・8」と書いてある。どちらかが間違い。
 いったいどのような振り付けがしてあったのでしょうか。舞踊童謡集『お花の兵隊さん』を見たいものですが、所蔵施設が不明で見ることができません。

 ◎平成21年8月10日、東京都の金澤一郎さんから貴重な情報のメールをいただきました。
 "『お花の兵隊さん』はマイクロフラッシュであれば、国立国会図書館で閲覧できます。同館のHPで検索すれば在庫を確認できますが、貸出不可です。写真付きの振付の本で、「兵隊さんの汽車」は40頁にあります。時間がなくて数分しか見ていませんが、「10人位で半分が汽車、半分が兵隊の動作、日の丸の旗を人数分用意」などとあります。本の題名の通り他に載っている曲も「愛馬進軍歌」など戦時の曲です(平成21年8月8日閲覧)"。

 早速、8月11日、地元の松田町立図書館から国立国会図書館に、『お花の兵隊さんの』表紙、目次、奥付、歌詞、楽譜、踊りの振付の複写を申し込みました。
 9月4日、『お花の兵隊さん』に掲載の「兵隊さんの汽車」の振付を手にしました。それは、次のようでした。

 丸岡嶺著 学校舞踊教材『お花の兵隊さん』(発行所・日本體育學會)昭和十四年七月二十五日印刷、昭和十四年八月一日発行。

  ・表紙は、中央にユリの花が一本描かれています。
  ・「兵隊さんの汽車」(ポリドールレコード 八七五五)と書いてある。これは、前記のレコード情報が正しいことの証明になります。
  ・「兵隊さんの汽車」振付は40ページから47ページまでの8ページで、(1)から(9)コマの写真が掲載されています。小学生の子どもたちが踊っている写真のようですが、複写が不鮮明(真っ黒)で、よくわかりません。
  ・発行は、日本体育学会という所です。
  ・歌詞と楽譜も掲載されている(著作権の関係で複写不可)。楽譜の最後が見たかったのですが、冨原薫の没後50年が経っていないため複写不可。楽譜が歌詞と同一ページの上にあるため、楽譜についても複写ができない。(楽譜と歌詞は一曲が独立した一著作物)。国立国会図書館より回答/2009年8月20日。
  ・目次(著作権の関係で複写不可)。どのような曲が掲載されていたのか見たかったのですが、「目次」と「トットの赤ちゃん」の楽譜が見開きページで1コマになっていて、こちらの楽譜(歌詞付)は独立した一著作物にあたり、作詞・作曲者が没後50年を経過していない、または不明などの場合は複写提供できません。目次のページを複写する場合には写り込んでしまうため、今回の「目次」の複写はできません。国立国会図書館より回答/2009年8月28日。
  (註)<目次>については、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました。(2016年5月23日)


  <目次>
  1 トツトの赤ちやん(久保田宵二詩長谷基孝曲)・(低學年)/ 7
  2 お花の兵隊さん(香織ゆたか詩豊田義一曲)・(低學年)/ 14
  3 兵隊さんよ有難う(橋本善三郎詩佐々木すぐる曲)・(低學年)/ 21
  4 戰爭ごつこ(松村又一詩佐藤長助曲)・(低學年)/ 30
  5 兵隊さんの汽車(富原薫詩草川信曲)・(低・中學年)/ 38
  6 一茶さん(中條雅二詩中野二郎曲)・(中學年)/ 48
  7 櫻井の驛(清水みのる詩米山正夫曲)・(中學年)/ 59
  8 愛馬進軍歌(陸軍省撰定)・(高學年)/ 75
  9 日章旗の下に(佐藤春夫詩中山晋平曲)・(高學年)/ 87
  10 太平洋行進曲(海軍省撰定)・(高學年)/ 100

  「兵隊さんの汽車」の振付のページを、くわしく見ましょう。 
◆適用 二、三年、學藝會向き
◆注意
    1、出演兒童は十人内外、その内半數は汽車、半數は兵隊さんの動作を行ふ。
    2、説明の都合上、汽車になる兒童を一組、兵隊さんになる兒童を二組とした。
    3、日の丸の旗を出演兒童數だけ準備しておく。
    4、初め一組と、二組の内の二人は舞臺の上手に、他の二組は下手にゐる。
     ・・・・・・・・・・・・
  最後の「萬歳萬歳萬歳」では、全生徒が日の丸の旗を上へ振り上げ振る。 ・・・・・・・・
  後奏
     1、八呼間―全生徒日の丸の旗をふりながら四歩右へ進み、
      四呼間は足踏みのまま小さく旗をふる。(発車した汽車を見送る氣持ちで)
     2、八呼間―旗を振りながら左方より次第に右方を見る。
      (汽車が左から右へ進行してゐるのを見送る氣持ちで)
     3、八呼間―旗を次第に早く振る。 以下旗を振ってゐる間に靜かに
      幕を下ろすか照明を暗くする。

 何もわからない子どもたちに、学校で、このような指導がなされていたのです。教育は重要です。方向を誤らないようにしたいものです。

▲丸岡嶺著 学校舞踊教材『お花の兵隊さん』掲載の「兵隊さんの汽車」歌詞と楽譜
 楽譜では1,2,3番とも最後は同じ高さの音。この書は厳しい戦時下を迎える
子供達にも体力をつけさせようとしたもので、序にそのねらいが記してあります。

 ●前記、長田暁二の記載の、「昭和十四年七月二十五日発行」は間違い。これは、『お花の兵隊さん』の印刷日です。発行日は昭和十四年八月一日なので、与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)の『お花の兵隊さん』「昭和14・8」が正しい事になります。しかし、初出は「ポリドールレコード昭和12年11月新譜=10月20日発売」です。さらに、丸岡嶺の振付は『お花の兵隊さん』より先に、雑誌『遊戯と唱歌』(大正書院)昭和12年11月号に掲載されています。収録が『お花の兵隊さん』です。
 ●前記、長田暁二の記載の、「舞踊童謡集『お花の兵隊さん』」も、正確ではない。正確には「学校舞踊教材『お花の兵隊さん』」です。この「舞踊童謡集『お花の兵隊さん』」の記載は、あらゆる出版物で使われてしまっています。私、池田小百合も、そう思い込んでいました。他に情報がなかったためです。自分で調べる事の重要性を痛感しました。『お花の兵隊さん』のような出版物は、戦後、まとめて処分されただろうと思っていたので、情報を教えていただいた金澤一郎さんに感謝申し上げます。
 新しい情報は、みんなで共有したいと思います(平成21年9月5日)。

 【「兵隊さんの汽車」誕生の まとめ】
 ・昭和十二年七月七日、日中戦争勃発。
 ・昭和十二年八月、冨原薫「兵隊さんの汽車」作詞。
 ・すぐに草川信が作曲。そしてレコード吹き込みが行なわれた。
 ・ポリドールレコード、昭和十二年十一月新譜=十月二十日発売。
 ・昭和十二年、雑誌「遊戯と唱歌」十一月号(大正書院発行)に丸岡嶺の振付で掲載。
 ・丸岡嶺著 学校舞踊教材『お花の兵隊さん』(日本體育學會)昭和十四年八月一日発行に掲載。
 「兵隊さんの汽車」は、作詞からレコード発表まで短期間です。当時は、軍歌、流行歌、愛国歌などが次々と作られ、レコードとして発売されました。童謡も、例外ではありませんでした。
 ・昭和十五年(1940年)二月十七日、土曜日。JOAK(NHK東京放送局、ラジオ)午前九時四十五分からの十五分番組『幼児の時間』で斉唱「兵隊さんの汽車」が放送される。音羽幼稚園児、ピアノ伴奏海沼實。

 【第四回兒童音樂競演會 二等一席】
 昭和十八年七月十日、麹町區永田町國民學校講堂で東京兒童音樂研究會主催、教育音盤研究會共催の『第四回兒童音樂競演會』が開かれました。音羽ゆりかご会からは、大道真弓と川田正子が参加しました。課題曲「ぐんかん」「山の朝」の後の自由曲で、大道真弓は、稲穂雅巳作詞・海沼實作曲の「やさしいお母さま」を歌い優勝し、川田正子は「兵隊さんの汽車」を歌って二等一席になりました。一等の大道真弓は豊島區高田第四國民學校一年生、二等一席の川田正子は芝區西櫻國民學校三年生でした。
 ●長田暁二著『昭和の童謡アラカルト(戦後篇)』(ぎょうせい)昭和六十年発行記載の「昭和十八年七月十二日、NHKの関東児童唱歌コンクール」の「十二日」「NHKの関東児童唱歌コンクール」は間違い。「自由曲でこの曲を歌って優勝、この時の独唱が川田正子」の「優勝」も間違い。この間違った記載は、その後ずっと訂正されず、多くの出版物に使われ続けています。
 ●『別冊太陽子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)解説 秋山正美の記述「一九四三(昭和十八)年五月、関東児童唱歌研究会の主催で、児童唱歌コンクールがおこなわれ」の「五月」「関東児童唱歌研究会の主催」「児童唱歌コンクール」は間違い。「川田正子は、この歌を歌って、一席に選ばれ、これがデビュー曲となって、童謡歌手への道をあゆみ始める」の「一席」も間違い。この間違った記載も、いろいろな出版物で使われてしまっています。

 なぜ、二等一席の川田正子が「優勝」や「一位」と思われ続けたのでしょう。川田正子は、その著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)に、次のように書いています。
 “審査の結果が発表され、「優勝よ」と母に言われました。海沼先生が家に優勝旗を持って来て、一緒に撮った写真が残っています。二人が「優勝」と言うのだから、そうなんだろうと私は長い間信じていました。けれども、事実は、一位は大道さんで私は二位だったのです。 関東児童唱歌コンクールでの「優勝」は幻でした。私は優勝という言葉の意味も分からなかったのですが、実際に一位は大道真弓さんで、私は二位だったのです。なぜ母と海沼先生は優勝だと言ったのか。私を傷つけたくなかったのか、あるいは少女歌手としてのデビューに向けて、レールを敷こうという思惑があったのかもしれません。母はそれくらい一生懸命な人でした。”
 (註)当時、音羽ゆりかご會には十四、五名がいて、會の代表ということで、川田正子と大道真弓が出場することになりました。はじめに課題曲(文部省唱歌の「ぐんかん」「山の歌」があり、二人共二回の予選をパスしました。二回の予選をパスしたのは九名。本選は自由曲。第一回から第三回までの『兒童唱歌コンクール』を第四回は『兒童音樂競演會』としたのは、「コンクール」は敵性語として使用がはばかられたのでしょう。

  【最後は 一オクターブ高く歌う】 長田暁二著『昭和の童謡アラカルト(戦後篇)』(ぎょうせい)1985年発行によると、“海沼実は、川田の高い音がすーっと出るところに注目して、最後の「万々歳」のところを一オクターブあげて歌わせ、効果を挙げました”と書いてあります。


 ★この文章からすると草川信が最初に書いた楽譜の三番の最後は高くなかったことになります。自筆楽譜未確認。

 川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)平成十三年発行にも、同じ内容があります。
 “海沼先生がこれを選んだのは、恩師、草川先生の作品だからというだけでなく、比較的簡単で元気よく歌えばいいような歌だからです。加えて先生は私の高音に着眼していました。曲の最後、「兵隊さん 兵隊さん 万々歳」。今の歌なら、「がんばって がんばって 走れよ」に当たる部分を一オクターブ上げて歌わせたのです。そんな高い声が出る子供はめったにいません。私はそこを歌い切り、コンクールは終わりました。”
  しかし、『森の木 第十一号』平成六年発行では、「母は、自分では歌いませんでしたが、・・・・一オクターブ上げたらと言ったのは母です」と書いてあります(川田正子著『童謡と私』より)。

 思うに、普通、作曲家は一オクターブも上げて歌わせる譜面を書く事はなく、母親が助言して即興で海沼が高く歌わせたというのはありえます。
 草川信が最初に書いた自筆楽譜は見る事ができませんが、初吹き込みのレコードを聴くことができます。「兵隊さんの汽車」(ポリドール・レコード、8755-B。歌は斎藤達雄・大久保澄子)では、三番の最後はオクターブ上げて歌ってはいません。高く歌ったのは川田正子が初めてで、その後この方が効果的ということで、草川信が楽譜を書きかえたのでしょう。

 【最初の楽譜は低かった】
 一番「タノシイ(ナ)」、二番「うれしい(な)」、三番「ハーシレ(ヨ)」の最後の音が同じ(F)になっている楽譜が出版されています。やはり、最初に草川信が書いた楽譜の三番最後の音は、高音F(高いヘ音)では、ありませんでした。この楽譜を見て確信が持てます。
 草川信編曲『川田正子愛唱童謡曲集』第五輯合唱篇(白眉社)昭和二十二年六月二十日発行。北海道在住の北島治夫さん所有。コピーを送っていただき、ありがとうございました。


  【戦後の歌詞変更】
 では、なぜ「兵隊さんの汽車」が「汽車ぽっぽ」になったのでしょう。 昭和二十年の大晦日のラジオ番組『紅白音楽試合』に、正子が出場し、「兵隊さんの汽車」を歌う事になりました。しかし、GHQ(連合国軍総司令部)のCIE(民間情報教育局)から「歌詞をかえなければダメ」と言われました。「兵隊さんの汽車」は、日本の兵隊を励ます歌なので進駐軍の許可が出ませんでした。当時はCIEの指導、監督下にあり、番組計画から台本まで、すべてCIEに提出し、事前に許可を得なければなりませんでした。
 冨原薫が『汽車ぽっぽ』に書き直した時の事については諸説があります。物語風に面白おかしく書くには、もってこいの内容だからです。
 ★1999年(平成11年)10月31日(日曜日)神奈川新聞掲載 メロディーとともに31 今週の歌「汽車ぽっぽ」には次のように書いてあります。
 “終戦の年の大晦日。NHK紅白歌合戦の前身「紅白音楽試合」でこの歌が放送されることになり、富原の元に電報が届きました。 NHKディレクターが宿泊する御殿場の旅館に呼び出された富原は、ディレクターから「GHQの指導で戦争を思わせるような歌詞を替えなければならなくなった」と告げられた。妻のさきによると、了解した富原は「明るい日本になれ、との思い」で、「兵隊さん」を「僕ら」に替え♪・・・ゆこうよ ゆこうよ どこまでも 明るい希望が待っている♪と続けた”。
 ★仁藤祐治著『汽車ぽっぽ・やさしいお母さま歌碑建設記念』(悦声社)には、次のように書いてあります。
 “富原が学校の同僚に「海沼実からハガキ一枚ぐらいの電報がきた。大晦日に歌手を集めて十八番を歌わせることになったが、川田正子の『兵隊さんの汽車』はうまくない。曲は素晴らしいのだが、なんといっても"兵隊さん"はねえー。だからかわるべき歌詞をいますぐ欲しい、というんだ・・・」と語り、さっそく作り直して速達便で送りました。しかし、当時は郵便の方も混乱していてなかなか届きません。青年便者青くなってとんできた。富原家でも大騒ぎ、クズ籠から下書きの切れっぱし。ようやくまとめて正子特訓、かろうじて本番。つまり、今日の「紅白」事始めに滑り込み、セーフ! いや「汽車ポッポ」の出発進行!”
 ・・・これでは面白過ぎて文献として使えません。もっと記録として肝心な所を正確に書いておいてほしかったと思います。
 ★長田暁二著『心にのこる日本の歌101選』(ヤマハミュージックメディア、2007年4月20日発行)には次のように書いてあります。
 “(昭和)20年12月31日の『紅白音楽試合』(現在の紅白歌合戦のルーツ)で、川田正子が歌う段になったとき、戦時色のある「兵隊さんの汽車」の歌詞では具合が悪くなりました。そこで番組担当の近藤積(つもる)ディレクターが、27日に御殿場の富原宅を訪問し、平和色の歌詞に改作を依頼しました。富原はタイトルも「汽車ポッポ」に変え、小田原に嫁いだ姉を訪ねる際に御殿場線の車中で見た光景をヒントにして、大急ぎで現在の詞に改作し放送に間に合わせました”。 
 ●「富原はタイトルも「汽車ポッポ」に変え」は間違い。書き直したタイトルは平仮名で「汽車ぽっぽ」が正しい。
  ★読売新聞文化部『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)には次のように書いてあります。
 “富原の自宅に、終戦直後の四五年十二月二十七日夕、突然、NHKの近藤積ディレクターが訪れた。・・・詞を改作してほしいと言うのだ。富原は近藤を待たせ、徹夜で現在の歌詞に書き直し、題名も『汽車ポッポ』に変えた。”

 ・毎日新聞学芸部『歌をたずねて』(音楽之友社)には、夫人の冨原さきさんの言葉があります。
  「昭和二十年の大晦日。今でいう紅白歌合戦でしょうが、ここで川田正子さんがこれを歌うというんです。しかし、詞が戦時色なので換えてほしいといわれました。それが『本番』の四日前。主人は意外にスラスラと書き換えていたようです。姉が小田原へ嫁いでおり、その車中で浮かんだといっていました」。
 このさきさんの言葉は重要ですが、取材して書いた毎日新聞社の記者の力不足で、このままではわかりにくい。
  ・・・冨原薫の息子の章夫氏からの著者・池田小百合宛の手紙には
 「私の父の姉が嫁いだ先が、小田原市城山の養託寺(ようたくじ)で、叔母は他界しましたが、その息子が住職で、乾覚(いぬいさとる)といいます。私の従兄弟になります。」とあります。

 ・読売新聞文化部『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)には次のように書いてあります。物語的に書き直したのでわかりやすくなっています。
 “(さきさんによると、)「夫は母親を五歳の時に亡くし、姉が母親代わりに育ててくれた。姉が小田原に嫁いだ後も、よく汽車に乗って遊びに行ったそうです。その時のはずむ気持ちを思い出し、新しい詞を書き上げたといいます。ただ<行こうよ 行こうよ どこまでも あかるい 希望が まっている>という三番の一節だけは、敗戦の暗い世相を克服し、未来を切り開こうという願いを込めたと話していました」”

 ★本当はどうだったのでしょうか。未確認です。
 いずれにしても、『兵隊さんの汽車』は、現在の明るく楽しい『汽車ぽっぽ』の歌詞になりました。
 改作された三番の歌詞「あかるい きぼうが まっている」には、冨原薫の平和への思いが込められています。

  【紅白音楽試合で歌ったか】
 紅白音楽試合でのことについて川田正子は次のように書いています。
 “私は「兵隊さんの汽車」を歌うことになりました。ところが、放送ギリギリになってNHKから「待った」がかかりました。終戦直後はGHQ(連合国軍総司令部)が放送を厳しくチェックしていました。「兵隊さん 万々歳」なんて歌詞を歌わせては大変だということになったのです。NHKからの連絡を受けた海沼先生は、作詞家、富原薫先生に宛て電報を打ちました。「すぐ歌詞を書き直してほしい」 変更が間に合うか心配したNHKからは、近藤積ディレクターが富原先生のご自宅まで原稿を取りに行ったそうです。こうして生まれ変わったのが「汽車ポッポ」でした。”
 ●「汽車ポッポ」は間違い。書き直したタイトルは平仮名で「汽車ぽっぽ」が正しい。この川田正子の文章は、「・・・そうです」と、誰かから聞いた話になっています。
 “「里の秋」がヒットした後、第一回「NKH紅白音楽試合」に出場しました。紅白歌合戦の基になった番組です。男女の歌手が一組ずつ対戦する形は今とはほぼ同じですが、流行歌だけでなく、歌曲や器楽演奏、小唄なども取り混ぜていました。私は子供の歌手代表といったところで、対戦相手は加賀美一郎さんでした。加賀美さんは私より一つ年上の美少年で、透明感のあるボーイソプラノが人気の方でした。 紅白で私は「めえめえ児山羊」を歌いました。紅が勝ったのか、白が勝ったのか、全く覚えていません”。
 以上は川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)より抜粋。

 ★おや?
 「紅白では私は「めえめえ児山羊」を歌いました」とあります。紅白で歌ったのは「めえめえ児山羊」だったのでしょうか。これは記憶違いなのでしょうか。一番肝心な所ですが、インターネットで検索しても、紅白で「めえめえ児山羊」を歌ったという情報はありません。
 NHK視聴者ふれあいセンター投書係からは平成十四年三月十八日に、精度の高い情報として、「紅白歌合戦」の企画立案者で「紅白音楽試合」の演出者でもあった近藤積(つもる)氏の書いた記事「紅白誕生物語」を送っていただきました。
 近藤氏の記録では総合司会は田丸雅晴アナウンサー、紅組司会は水の江滝子、白組司会は古川ロッパ。
 紅組出場者と曲目は(出場順ではなく、五十音順で)
  芦原邦子 「すみれの花咲く頃」
  市丸 「天竜下れば」
  川崎弘子  「六段の調べ」(琴)
  川田正子  「汽車ポッポ」
  近藤泉  「ユーモレスク」 (バイオリン)
  小夜福子 「小雨の丘」
  長門美保 「松島音頭」
  並木路子 「リンゴの唄」
  比留間絹子四重奏団 「サンタ・ルチア」 (マンドリン)
  二葉あき子 「古き花園」
  松島詩子  「マロニエの木蔭」
  松田トシ 「村の娘」
  松原 操  「悲しき子守り唄」

 白組出場者と曲目は(出場順ではなく、五十音順で) 
  加賀美一郎  「ペチカ」
  霧島 昇  「旅の夜風」
  楠木繁夫  「緑の地平線」
  桜井潔楽団 「長崎物語」
  下八川圭祐 「ヴォルガの舟唄」
  波岡惣一郎  曲目不明
  平岡養一  「峠の我が家」 (木琴)
  福田蘭童  尺八
  藤原義江  「出船の港」
  松平 晃  「花言葉の唄」
  柳家三亀松  新内流し
   (二組不明)

 【自筆原稿「汽車ぽっぽ」】
 冨原家には、『汽車ぽっぽ』の自筆原稿もあります。 タイトルは平仮名で『汽車ぽっぽ』です。
 「ぽっぽ ぽっぽ しゅっぽ しゅっぽ しゅっぽっぽ」は、ひらがなで書かれています。
 「がんばって がんばって 走れよ。」歌詞の最後は句点でしめくくられています。
 注目したいのは、一番の「スピード スピード まどの外」の下に(早いな 早いな)がカッコでくくって書いてあります。
 二番の「ゆかいだ ゆかいだ いいながめ」の下には(景色)と書いてあります。
 昭和二十二年、川田正子が録音する時、進駐軍の占領下ということで、「スピード スピード まどの外」「ゆかいだ ゆかいだ いいながめ」で歌いました。
 カタカナの方が、受けが良かったからでしょう。「(早いな 早いな) まどの外」「ゆかいだ ゆかいだ いい(景色)」と歌ってもよいでしょう。

△冨原薫の自筆の原稿:楽譜も冨原が書いている。

  【川田正子のレコード】
 昭和23年3月に発売されたレコードのレーベルは、別冊太陽『子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)で見る事ができます。

タイトルは童謡『汽車ポッポ』
日本コロムビア
レコード番号A-348 
マトリックス番号 2210195

富原薫作詞・草川信作曲・海沼實編曲
歌 川田正子 ゆりかご會
コロムビア オーケストラ。
録音年月日 1947年(昭和22年)11月11日
発売年月日1948年(昭和23年)3月
  (第14回発売)


レコード番号C27 
マトリックス番号は2210195で
A-348と同じ

1997年8月31日札幌での
川田正子リサイタルで
サイン署名(北島提供)

  【正子「田圃」と歌う】
 少女歌手川田正子と、コロムビアゆりかご会が歌った録音は、『甦える童謡歌手大全集』(日本コロムビア)で聴く事ができます。正子は、「♪田圃もとぶとぶ家も飛ぶ」と歌っています。これにそろえたように「たんぼも とぶとぶ」とした楽譜も出版されました。加藤省吾編『川田正子・大道眞弓・中根庸子 愛唱 傑作童謡曲集』(新興音楽出版)昭和23年4月15日発行 定価45圓
 以下のコピーは北海道在住・北島治夫氏所蔵の楽譜集より。
 「印刷がずれていて、左右両端が紙ギリギリの所に印刷されています」(北島氏による)
 
表紙

  川田正子著『童謡はこころのふるさと』(東京新聞出版局)「レコードの吹き込み」の章には次のように書いてあります。
 “そのころは、レコーディングのことを「吹き込み」と言っていました。吹き込みの現場は、今とは相当違いました。歌と伴奏を別々に録音する技術がなく、スタジオには歌手、楽団、それに指揮者の方もそろっていました。そこでリハーサルを二、三回。すぐに本番となります。録音用の原盤はわずか五、六枚しかありませんでしたから、とても緊張しました。
 吹込みが始まると、一番から最後まで全部、通して歌いました。現在のように、同じ個所を何回も録音して、よくできた部分を後からつなぎ合わせることはできませんでした。私が間違えても、演奏の方でミスがあっても、失敗すればそこまで。スタジオにブザーが鳴って、原版は無駄になりました。
 ところが子供というのはやっかいで、歌詞にしろ、メロディーにしろ、一度間違えて覚えてしまうと、急には直せません。間違った個所を指摘してもらっても、頭からやり直すと、また同じ所で間違えるのです。しかも何回も歌っているうちに声が嗄れてきます。「どうしても間違いが直らなくて、しょうがないからそのままレコードにしたこともあったなあ」 大人になってから当時のディレクターさんに聞かされたことがありました。子供に歌わせるのがいかに難しいか。その苦労が身にしみて分かったのは、後に自分自身が指導者になってからです。”
 大人になった正子は「畑も とぶとぶ 家もとぶ」と歌っています。これが正しい歌詞です。この歌詞で歌い継がれています。

  【時代を伝える歌】
 川田正子は、公演で「汽車ぽっぽ」を歌うとき、「この歌は私の歴史そのものです」と紹介していました。 正子は、『兵隊さんの汽車』と『汽車ぽっぽ』を歌った事について森の木合唱団の会誌『森の木 第三号』平成二年発行で次のように述べています。
 「曲の方は、かわりなく、戦中戦後の混乱期に大勢の観客の前で、違う歌詞を歌ったと言うこと。この印象は、幼心にも強く、いつまでも心の内に焼きついております」。
 元の歌の内容が兵士を送り出す光景だったと知る人が次第に少なくなってきました。冨原薫は時代のメッセージとして歌詞を書き、未来に思いを託して歌詞を書き替えました。その思いを歌い継いで行きたいものです。

 【その他のレコード情報】 北海道在住のレコードコレクター北島治夫さん所蔵
  (1) テイチク K-06/タイトルは「汽車ポッポ」/歌手は関塚邦子、テイチク児童合唱団/編曲は利根一郎。
  ・「畑もとぶとぶ」と歌っています。1番と2番の間奏に、文部省唱歌の「汽車」(今は山中〜)のメロディーを用いています。1〜3番ともに、最後の「走れ走れ走れ・・・」は、ソロから数名の少女の斉唱になります。最後の最後「走れよー」は上げて歌っています。Fの音苦しそう(北島治夫さんより)。
 ▼テイチク・レコードK-06付属の振付 北島治夫さん資料提供(2009/10/07)


 (2)コロムビア CP-75/タイトルは「汽車ぽっぽ」歌手は松島トモ子/編曲は海沼實。昭和33年発売。
  ・「走れ走れ・・・」からはコロムビアゆりかご会の斉唱。3番の最後は一オクターブ上げて歌っていません。
 ▼コロムビア CP-75付属の振付北島治夫さん資料提供(2009/10/22)  

 【教科書での扱い】 
 ●『二ねんせいのおんがく』(教育芸術社)昭和30年発行は、タイトルが「きしゃ」で、作詞者は「みやはらかおる」と間違っています。
 注目したいのは、歌詞の一番は「はやいな はやいな まどの そと」、二番は「ゆかいだ ゆかいだ いい けしき」となっていることです。この歌詞で歌い覚えている方も多いと思います。
 冨原薫のメッセージ、「あかるい きぼうが まっている」の入った三番は掲載されていません。指導書には「教科書では、スペースのつごう上、2番までをのせてある・・・」と書いてあります。単純な理由で大切な三番を省略してしまったようです。
 ●昭和33年12月15日発行の『改訂版 しょうがくせいのおんがく2』(音楽之友 社)も、「きしゃ」という間違ったタイトルで掲載されています。いずれの編集者も、出版までに誰も気がつかなかったのでしょうか。
 昭和33年版には、ヘ長調の簡易伴奏譜が掲載されています。
 「リズムあそび  うたに あわせて きしゃあそびをしましょう」というのも載っています。授業をはなれても、みんなで歌を歌いながら遊びました。
 私、池田小百合は、昭和33年12月15日発行の『改訂版 しょうがくせいのおんがく2』(音楽之友社)を使って習いました。帰宅して、御殿場線の線路の上から、自分の家に向かって何度も大声で歌ったものです。大人になって「汽車ぽっぽ」を歌った時、「三番があったのか」と思い、さらに最後のあまりの高さに仰天しました。この歌は三番の歌詞が重要ですが、一般の小学生が歌うには最後が高すぎます。二番までの掲載が妥当だったと思います。


  【全音楽譜での扱い】
 人気のベストセラー楽譜『日本童謡名歌110曲集 1』、発行日不明、(JASRAC許諾第8201473-857号)に掲載の「汽車ポッポ」の歌詞は、一番が「早いな 早いな 窓のそと」、二番が「ゆかいだ ゆかいだ いいけしき」となっています。これは正しい歌詞です。
 ところが、二番の楽譜のほうは「ゆかいだ ゆかいだ いいながめ」になっています。
 歌詞と楽譜を統一するように全音楽譜出版社に連絡をしました。電話の人は、「ご指摘ありがとうございました。わかりました。」との返事でしたが、・・・次に新しい本、発行日不明、(JASRAC許諾第8201473-079号)を買った時に、「汽車ポッポ」のページを見てビックリしました。
 歌詞の方の一番を 「スピード スピード 窓のそと」に改訂してしまっていたのです。それならば、二番は「ゆかいだ ゆかいだ いいながめ」とすべきです。楽譜の方は一番が「スピード スピード まどのそと」、二番が「ゆかいだ ゆかいだ いいながめ」になっていて対応が合っているのですが、歌詞の二番は「ゆかいだ ゆかいだ いいけしき」と、前のままでした。依然として楽譜の言葉と歌詞は合っていないのです。

  【歌い方について】
 リズムにのって、軽快に汽車が走るような感じて歌いましょ う。A(8)B(8)C(8)三部形式の曲です。前後のAとC部分は、歯切れ良く歌います。 中間のB部分は、流れるようなレガート気味で対照的に歌うとまとまります。
 「汽車汽車 ぽっぽ ぽっぽ」は、少し短く切るような感じで歌いましょう。
 「走れ走れ」は、思いきりのびのびと歌って下さい。「走れ」が三回出てきま す。三回目の「はしれー」が、この歌の山です。4拍分しっかり延ばします。延ばし方は、ピアノからクレッシェンドしてメゾフォルテにすると効果的です。
 歌詞は「汽車 汽車 ぽっぽ ぽっぽ」で、次が「しゅっぽ しゅっぽ」で す。間違えないように歌いましょう。
 「楽しいな」は、言葉を読むようなリズムで歌いましょう。
 三番の最後は、終わりの音が高く終わっています。なぜかわかりますか。川田 正子が、『兵隊さんの汽車』で、一オクターブ上げて歌った部分です。「走れよー」と、よくのばして歌いましょう。

  【タイトルについて】
 冨原は「汽車ぽっぽ」と平仮名で書きました。これが正しい題名です。したがって御殿場の歌碑も平仮名になっています。
 では、なぜカタカナ書きの「汽車ポッポ」が一般的なのでしょう。
 川田正子が歌ったレコードは、カタカナで「汽車ポッポ」となっています。加藤省吾編『川田正子・大道眞弓・中根庸子 愛唱 傑作童謡曲集』(新興音楽出版)昭和23年4月15日発行も同様です。
 これにそろえて川田正子は色紙にサインをする時「汽車ポッポ」と書きました。コンサートのプログラムも。したがって、この歌のタイトルを「汽車ポッポ」としているものが圧倒的に多いのです。

 ●与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)の目次は「汽車ぽっぽ」と平仮名ですが、詩の方は「汽車ポッポ」とカタカナになってしまっています。

  【冨原薫(ふはらかおる)の略歴
 日外アソシエーツ編集・発行『児童文化人名辞典』(1996年1月31日発行)には「冨原薫 童謡作家」と書いてある。
 筆名は深山(みやま)芳香(よしか)
 JASRACでは「富原」と点のある「富」で登録されている。
 以下は冨原章夫氏(冨原薫の長男。故人)のサイン(平成8年4月20日)。冨原芳子さん(章夫氏の妻)からの回答(平成14年3月6日)。いずれも点のない「冨原」。
 

  ・明治三十八年(1905年)七月三日、当時の静岡県駿東郡御厨町(すんとうぐんみくりやちょう 現・御殿場市)御殿場四五四番地にある真教寺(しんきょうじ)の住職の父・冨原芳含(ほうがん)、母・よしゑの三男として誕生した。
  ・大正元年、静岡県駿東郡御厨尋常小学校(現・御殿場小学校)に入学。
  ・大正六年三月、静岡県駿東郡御殿場尋常高等小学校尋常科卒業。
  ・大正七年三月、静岡県駿東郡御殿場尋常高等小学校高等科第一学年修業(二年制の一年)。
  (註)大正三年に高等科(二年制)が設置された。

  ・大正七年四月、静岡県立沼津中学校(現・沼津東高校)入学。
  ・大正十三年三月、静岡県立沼津中学校を卒業(五年)。
  ・大正十三年五月より昭和二年三月まで、静岡県駿東郡須走尋常小学校代用准教員勤務。(二年十ヶ月)。
  (註)小学校令施行規則第三十五條第三項に依り尋常科准教員代用勤務。

  ・昭和二年四月より昭和十五年七月まで、静岡県駿東郡高根尋常高等小学校代用准教員勤務。(十三年三ヵ月)
  ・昭和十五年八月、静岡県駿東郡高根小学校訓導勤務。
  ・昭和二十五年三月、静岡県駿東郡町立御殿場小学校教諭勤務。
  ・昭和二十八年四月、静岡県駿東郡公立高根小学校教諭勤務。
  ・昭和三十一年四月、静岡県御殿場市立御殿場小学校教諭勤務。(教諭十七年七ヶ月)
  ・昭和三十三年三月、退職。高根小学校で勤務し続けた期間が薫の作詞作曲の全盛期であった。

  ・昭和十四年四月二十九日、高根尋常高等小学校に在勤中、御殿場深沢出身の小松さき(大正四年九月生まれ/高根小学校に七年間勤務した)と結婚。薫三十三歳、さき二十四歳。
 薫は、小学校教師を勤める傍ら、童謡の創作に励む。一方、綴方教育にも力を入れ、月間作文集『駿東文園』の編集委員を務めた。
  ・昭和五十年一月二十五日、心筋梗塞のため亡くなった。享年六十九。

  (註)<長男 冨原義徳について>
 長兄は、童謡詩人で綴方教育の指導者、『土の綴方』(1928年・厚生閣書店)を出した冨原義徳(よしのり)。明治二十六年十二月生まれ。昭和二十五年二月没。享年五十七。義徳は父の後継者(父は真教寺の住職であったが、昭和三年十月三十一日に亡くなった。)たるべく、京都の真宗中学校を卒業し、大谷大学に進学したが、その後、志を変えて静岡師範学校に入学し、大正五年(二十三歳)に卒業。訓導として高根小学校や印野小学校や原里小学校などに勤務した。その間、俳句作りに精進し、冨原雨青穂を号したり、月間作文集『駿東文園』の前身である『児童文苑』を生み出している。御殿場中学の校歌は冨原義徳の作詞であり、駿東教育界に多くの足跡を残していたが、寺の後継者とはならず、寺は廃寺となった。長男の義徳と三男の薫は、十二歳違いだった。共に文才が豊かだった。

 <作品>
 生涯千三百曲を作詞作曲したと言われている。作品は童謡、校歌、郷土民謡(音頭)の三つの分野に大別される。圧倒的に童謡の作詞が多く、著名な作曲家によって作曲されている。

 【童謡】 河村光陽作曲の「早起き時計」「♪ちくたく ちくたく ぼーんぼん」も冨原薫の作詞です。「お船はぎっちらこ」「雨だれポッタン」(山本芳樹作曲)、 「蛇の目の傘」「おもちゃの殿様」「お馬にのって」「花見行列」「さくらんぼ」「子供のハイキング」「お祭」「鈴虫来い」「鍛冶屋さん」「谷の一本橋」「あかとんぼ」「羅漢さん遊び」 などがある。手がけた童謡は多数レコード化され、親しまれた。昭和七年から昭和十二年まで作詩が増加している。 戦時下であり、「兵隊さん」を歌った詩も、いくつかある。
  【校歌】 高根小学校校歌、御殿場小学校校歌、須走小学校校歌、成美小学校校歌、足柄小学校校歌、愛鷹小学校校歌、 原小学校校歌(作詩・作曲 沼津市内)、小下田小学校校歌、 玉穂中学校校歌、北郷中学校校歌、高根中学校校歌、富士岡中学校校歌、小泉中学校校歌、清水中学校校歌、浮島中学校校歌、片浜中学校校歌、 丹野中学校校歌(栃木県)など多数。現地を訪れ、それらの学校にふさわしい校歌を作詩した。時には作詩・作曲もしている。
 【郷土民謡】 「高根音頭」(作詩、作曲、振付まで冨原薫)、「高根踊り」(同)、 「富士山御殿場音頭」(冨原薫作詩、中山晋平作曲・振付)、「富士須走つゝじ音頭」(冨原薫作詩、坊田寿真作曲、羅芳燕振付)、「子供つゝじ音頭」(冨原薫作詩)、 「小山工場音頭」(昭和二十二年七月二十四日発表 冨原薫選詞、補作、作曲、振付) など数多く手がけている。

 【特筆すべき事】 「大日本少年團歌」の作曲。大日本青少年団の団歌の歌曲に応募し、当選した。昭和十六年八月二十七日に決定。時は太平洋戦争開始の年であり、軍国主義昂揚期。全国から五六七曲の応募があった。 審査委員は陸海軍軍楽隊長、小松耕輔、信時潔、堀内敬三、橋本國彦ら七名。 審査基準は、「若々しく、力強く、高尚で、実用的で、荘重で、行進のための軽快さ」という難しい条件だったが、冨原薫は全国ただ一人当選した。 ビクターレコードA-4250 発売。
 当時の住所、静岡県駿東郡(すんとうぐん)御殿場町(現・御殿場市)御殿場四五四。応募には深山芳香のペンネームを付記している。
 (註)「深山芳香(みやまよしか)」の読み方は冨原芳子さんと冨原薫の長女・西山緑さんに教えていただきました。ありがとうございました(2013年4月10日)。

 今回の調査で、冨原薫が作曲もしていた事に驚きました。しかも、それはレコードになり、全国で歌われました。・・・「汽車ぽっぽ」の自筆楽譜が、美しく書かれているのが納得できます。 薫の手元にはハーモニカがあり、少年時代からハーモニカを吹き、楽しみ、感性を磨いた。
 (註)長く勤務した高根小学校では、冨原薫や勝又行雄らの尽力により、昭和二十一年二月に沼津の丹沢楽器店から購入したドイツ製中古ピアノを三万円で購入し、 『ピアノ披露 川田姉妹招待記念大音楽会』を催している。この時初めてピアノが高根小学校に購入された。 

  【蒸気機関車が消えた日】
 国鉄・御殿場線は、かつて東海道本線でした。明治二十二年二月一日、国府津と沼津間が開通。昭和九年十二月一日、丹那トンネルの開通で現在の東海道線が開通すると在来の山北経由は御殿場線となり、列車本数が激減。戦争で昭和十八年七月単線化され列車本数は更に減った。
 ◎昭和四十三年六月三十日に全線電化が実現、蒸気機関車は姿を消しました。最後のSL、D52が汽笛を響かせ、国府津駅を出発、黒煙を上げながら終点の沼津駅へと向かった。
 御殿場線の沿線は、最後の蒸気機関車の雄姿を見ようという人々でにぎわった
 (2003年(平成15年)神奈川新聞掲載 まちを拓く52西さがみ近代交通の100年 昭和戦後 御殿場線の電化より)。
 ◎昭和43年(1968)4月、国府津〜御殿場間、続いて7月1日御殿場〜沼津間全線電化が完了した。前日の6月30日には、蒸気機関車のさよなら運転が実施された。
 昭和62年(1987)4月1日、国鉄改革により「日本国有鉄道」は無くなり、6つの旅客鉄道株式会社と1つの貨物鉄道株式会社に分割民営化された。御殿場線は「東海旅客鉄道株式会社(JR東海)」の静岡支社管内となり、現在に至っています(『御殿場線物語 旧東海道本線各駅停車の旅』(文化堂)平成13年発行による)。 

 【その後の御殿場線D52について】
 湯沢平公園に展示保存されている蒸気機関車D52は、解体予算のつけられたスクラップ寸前の機関車でした。正式名称は「D5272」。この機関車は太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)5月26日に誕生しました。製造したのは川崎車両株式会社。日本国有鉄道浜松工場・昭和30年改造。 D52(愛称・デゴニ)型蒸気機関車は、D51(愛称・デゴイチ)型をさらにパワーアップした設計。軍事輸送の切札として登場した貨物専用の強力機関車です。馬力のあるD52は、御殿場線にはうってつけの機関車でした。
 昭和30年当時、国府津機関区には72のほか、62、70、234、335、417、422の6両があり、沼津機関区の方にも23、52、131、236、237、361、419、421の9両が配備され、主力として活躍していました。
 これらの車両の活躍は、『御殿場線物語』(文化堂)の写真集で見る事ができます。
 この写真集は記録書として優れています。研究者は必見です。

  「D5272」のデビューは昭和19年(1944年)6月の山陽本線でした。国府津へは昭和29年(1954年)7月に配備されました。以来、「D5270」らと共に“御殿場線最後の機関車”として頑張って走り続けました。総走行距離数は74万7544キロメートル、地球を18周半回った計算になるといいます。
 昭和43年(1968年)6月の引退後、同僚の「D5270」は、山北の鉄道公園へ引き取られました。

  ⇒

▲山北鉄道公園で保存
されている「D5270」のプレート
▼山北鉄道公園のD5270

▲湯沢平公園で保存されて
いるD5272

▲プレート「D5272」現在の
所属は御殿場
▼御殿場線を走るD5270

 「D5272」は、地元の小田原城址公園に行く予定で話が進んでいましたが、文化庁が「国指定の史跡内にSLは不向き」とクレームをつけました。機関車の解体・移動・組み立ての費用や、D5272の状態が展示にたえられないとの理由で小田原市は、やむなく手を引きました。 しかし、蒸気機関車は「貴重な文化財」という意見も出て、国府津の扇形機関庫を公園にしてD5272を保存しようという計画が再び立てられましたが、“小田原評定”でまとまりませんでした。
 この間、D5272は、ますます老朽化が進み、ついに解体処分と決定。 ところが、昭和52年(1977年)9月の御殿場市定例議会で「蒸気機関車を購入し適当な場所で展示保存しよう」という意見が出て可決されました。国鉄出身の国会議員や市議会議員らの協力の下、国鉄側と話が進み、10月末には御殿場市への無償貸与が決定。
 機関車は「D5272」ということで、話がすんなり決まりました。しかし、すでにぼろぼろ、悲惨な状態でした。それを、みんなの協力でよみがえらせ、昭和53年8月17日、御殿場市湯沢平公園で公開されました。現在は、「御殿場市SL保存会」の人々の手で大切に守られています(『御殿場線物語』(文化堂)抜粋)。

  【小田原城址公園こども遊園地の豆汽車】
 小田原市に静態保存予定だった御殿場線お別れ列車「D5272」でしたが、保存予定地が国の史跡である小田原城址であったため、実物は設置できず、実物は御殿場市湯沢平公園に保存されました。このため小田原城址公園には、豆汽車の「D5272」が走ることになりました。

  <豆汽車情報>
    名称 豆汽車
    開業 昭和25年
    軌間 525m 
    中央第3軌条集電 直流200V
    線路延長 244m
    動力車 直流電動機駆動
    「D5272」 昭和43年5月製造
    客車 定員12名 3両 計36名
    乗車料金 2歳以上2周80円
    運転日 大晦日、元日、雨の日以外の毎日
          9時から16時30分改札まで

 (註)この情報は、ヴィトゲン社の編集長畑中省吾さんからいただきました。『Nostalgic Train ノスタルジックトレイン』2010年No.5の79ページに「小田原城址公園こども遊園地の豆汽車」の事が掲載されています(2010年6月25日)。

  <運転手さんの話>  
 『この汽車の前は、「おサルの電車」が走っていました。しかし、サルを先頭に乗せての運行は、動物虐待とクレームが付き、取りやめになりました。サルが運転するわけではありませんしね。公園には、飛行機や観覧車がありましたが、古くなって危険ということで、飛行機が、続いて観覧車が廃止撤去されました。
 乗車賃80円は安いでしょう。 桜の季節には行列ができます。運行時刻表はありません。お客さんが集まったようすで随時出発しています。私たちはパートで働いています。ボランティアではありません。私は、ずっと小田原在住です』。  

 
▲小田原城址公園こども遊園地の豆汽車「D5272」
 撮影・池田小百合  (2010/06/25)


▲トンネル手前には木製
のキリンが設置されている

▲客車の絵のサルやゾウ
は動物園の遊園地らしい

▲車窓から小田原
城が見える

 私、著者池田小百合は、小さい頃「おサルの電車」や「飛行機」「コーヒーカップ」に乗った思い出があります。私の娘たちは祖父に連れられて「観覧車」や「ミニ・カー」に何度も乗りました。楽しい遊び場でした。

  ▼御殿場線の松田駅付近を走る湘南電車115系。撮影は池田小百合。115系については金澤一郎氏よりご教示いただきました。昭和25年からオレンジとグリーンの80系が登場、昭和37年の111系を経て、113系は昭和38年に登場した。
 “115系は113系と色は同じだが、正面の塗り分けが異なるので区別できます。113系と基本構造は同じですが、急勾配を下りるための抑速ブレーキがあることが大きな違いです。御殿場線は急勾配なので主に115系でした。113系も使われましたが、一日数本の東京直通などの限定運用でした。113系では急勾配は下りにくいので運転士は苦労したと思います。”
 113系は平成18年(2006年)3月のfダイヤ改正で引退した。オレンジとグリーンはミカンをイメージしたものだという。

汽車 113系 御殿場線


 【歌碑】
 海沼實の故郷の長野市松代 松代駅前に歌碑があります。
 タイトルはカタカナで「汽車ポッポ」となっています。平成二年十二月、「童謡と唱歌を愛する会」によって建てられました。碑面には曲譜と、川田正子の直筆で三番の歌詞が刻まれています。

 平成六年四月二十九日、御殿場市中央公園の童謡の広場に楽譜形式の歌碑とミュージックSL併設。タイトルは平仮名で「汽車ぽっぽ」となっています。除幕式には、川田正子さんと、御殿場小学校児童による童謡コンサートが開かれました。
 この時の様子は、仁藤祐治著『汽車ぽっぽ・やさしいお母さま歌碑建設記念』(悦声社)で詳しく知る事ができます。この本は貴重な資料です。

  【川田正子逝く】 川田正子、本名・渡辺正子は、平成十八年(2006年)1月22日午後8時31分、虚血性心不全のため亡くなりました。71歳でした。  

  【東京都の金澤一郎さんからのメール】
 「平成21年8月2日(日)NHK『みんなの童謡』で「汽車ぽっぽ」が戦争の歌だったことを知り驚きました。そこで、いろいろなサイトを見たところ、池田様のサイトが詳しかったので、メールさせていただきました。
 まず、戦争中の歌詞「兵隊さんの汽車」と、戦後の歌詞「汽車ぽっぽ」を併せて歌ったとき、出征した兵隊さんの多くが帰ることが出来なかったことが想起され、数日間は歌うたびに涙が出てしまいました。戦争を引き起こしてはいけないと、これほど感じた歌はありません。・・・・」
  (金澤さんには『お花の兵隊さん』が国立国会図書館にあること、御殿場線115系についてなど、知らなかった事を沢山教えていただきました。ありがとうございました。2009年8月10日・池田小百合)


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著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪池田小百合≫


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      紅白歌合戦の真実      池田小百合   2010年1月12日

 インターネット上には、2009年12月31日で、第六十回となった「紅白歌合戦」の情報が沢山あります。しかし、開始年と年数が違っているのに気がつきました。そこで、新聞の番組表で確認する事にしました。会場の情報は、インターネット検索によります。


 朝日新聞復刻版によると・・・・・

  ・1945年(昭和20年)12月31日(月)夜10時20分〜12時
 NHKラジオ第一放送

  紅白音樂試合・水の江滝子、藤原義江、平岡養一外   

 【註記】「紅白歌合戦」の元になる番組。戦争が終わったばかりだったので、「合戦」という言葉は使わなかった。

  ・1946年(昭和21年)12月31日(火)夜7時15分〜12時
 NHKラジオ第一放送

   忘年会(第一部)(一)年越子供大会
    「カッコウワルツ」弘田龍太郎 川田正子
     (二)かくし藝大会  加藤シヅエ 田河水泡 アチャコ 
    富士月子 梅中軒鶯童ほか
    9:30 忘年会(第二部)
    「五十年後の今月今夜貴方はどうなる」水谷八重子ほか

 【註記】 「紅白音楽試合」は昭和20年の1回だけだったようです。
  この「紅白音楽試合」に川田正子が出演『汽車ぽっぽ』を歌った
  翌1946年の「忘年会 年越子供大会」にも、川田正子は出演しています。
  何を歌ったのでしょうか。
  不明ですが、川田正子自身は、紅白音楽試合で、『めえめえ児山羊』を歌ったと記憶違いをしていましたから、ひょっとすると『めえめえ児山羊』だったのかもしれません。確かな証拠はないのですが。


  毎日新聞復刻版によると・・・・・・

    <第一回>1951年(昭和26年)1月3日(水)夜8時〜9時
   NHKラジオ第一放送
   藤山 東海 渡辺 二葉 松島 暁他
   NHK東京放送会館第一スタジオよりラジオの正月番組として生放送。 タイトル「紅白歌合戦」

   <第二回>1952年(昭和27年)1月3日(木)
   夜7時30分〜9時15分

▲1951年1月3日

▲1952年1月3日

▼1953年
 1月2日

▼1953年
 12月31日


   NHKラジオ第一

    (紅)二葉あき子、淡谷のり子、笠置シズ子
    (白)灰田勝彦、霧島昇他

   <第三回>1953年(昭和28年)1月2日(金)
   夜7時30分〜9時5分
   中波と同時放送(NHKラジオ第一・NHKテレビ)

      (紅)二葉あき子 笠置シズ子 松島詩子 月丘夢路 奈良光枝 暁テル子 乙羽信子ほか  
     (白)藤山一郎 灰田勝彦 楠木繁夫 ディック・ミネ 霧島昇 伊藤久男 近江俊郎 林伊佐緒ほか 
     東放合唱団
 
 【註記】 1月1日の新聞に1日と2日の番組表が出ていた。同じ時間帯にラジオ東京では「音のエンゼル・プレゼント」と題して、松田トシ、川田孝子、安田祥子、伴久美子、大貫房司、新児童劇団の番組が、続いて講談の後で、「ゴールデン・アワー・ミュージック」と題する音楽番組を放送している。こちらの出演者は越路吹雪、笈田敏夫、藤山一郎。

   <第四回>1953年(昭和28年)12月31日(木)夜9時15分〜10時45分 ラジオ第一・NHKテレビ同時生中継

 【註記】この年は1月と12月の2回開催。
 前回までは正月に放送されていたが、出場歌手が正月公演で多忙な事、公開用会場が正月公演で空いていない事などにより、会場に空きがあった大晦日に放送することになった。
 この時の会場は日本劇場。以降、「紅白歌合戦」は大晦日に定着

   (紅組)司会 水ノ江滝子 織井茂子 豊吉 渡辺はま子 淡谷のり子 笠置シヅ子 はん子 


▲1954年12月31日

    (白組)司会 高橋圭三 伊藤久男 笈田敏夫 藤山一郎 灰田勝彦 宇都美清 ディック・ミネ
      (審査員) 川村専一 河上英一 

 <第五回>1954年(昭和29年)12月31日(金) ラジオ第一 夜9時15分〜11時10分
   NHKテレビ 夜9時15分〜11時   会場は日比谷公会堂
   (紅) ペギー葉山 渡辺はま子 川田孝子 長門美保 奈良光枝
   (白) 伊藤久男 浜口庫之助 笈田敏夫 小畑実 近江俊郎 岡本敦郎 他

  <第六十回>2009年(平成21年)12月31日(木)夜7時15分〜11時45分


▲2009年12月31日 

   NHKホールからラジオ第一、NHKテレビ同時生中継。海外にも配信。

 【註記】 第60回のときに、ゲスト歌手が「自分と紅白は同じ年齢」と言っていたのは間違っています。
  紅白歌合戦は昭和28年に2回行なわれていました。


 

著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪池田小百合≫


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みどりのそよ風

作詞 清水かつら
作曲 草川  信

池田小百合なっとく童謡・唱歌

(2009/9/21)
 


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 子どもたちが野原で遊ぶ、そこを吹き抜ける風は緑色がぴったりです。それは明るく、さわやかな優しい風です。

  【原題「いい日だね」はこれだ】
 『童謠・一番詩帖』昭和二十二年(1947年)の中の「いい日だね」のコピーを別府明雄さんから送っていただきました(2011年2月16日)。ありがとうございました。

                  ▼『童謡・一番詩帖』昭和二十二年(1947年)の中の「いい日だね」 表紙と詩


 

 清水かつらが昭和二十二年に作詩した時のタイトルは「いい日だね」でした。タイトルの次に「四月」と書いてあります。つまり、昭和ニ十ニ年(1947年)四月作詩ということです。
 そして、詩の最後は「もうじき いちごが つめるとさ」で、「いちご」になっている。今歌われている歌詞は、「いちご」です。
  ★いつ「いちごも」に変えられたのでしょう。「いちごが」の楽譜は出版されていません。

  ≪かつらの末弟正夫によると≫ 「かつらは自宅から吹き上げ観音までを良く散歩した。吹き上げ観音周辺をイメージして書いたのではないか」。
   かつらは野球が好きだった。白子には少年野球チームもあり、かつらの弟正夫も野球をやっていた。
  吹き上げ観音や白子は埼玉県和光市にある。

 【作曲の経緯】
 この曲の研究は、「草川信は、NHKの委嘱を受けて作曲した」とする草川誠さんの意見と、「草川信は、ビクターレコード制作のために作曲した」と言う庄野正典の意見のどちらを取るかで大きく解釈が分かれる。両方の意見を見てください。

 (1)ビクターレコード制作について
 ≪庄野正典・元ビクターレコード学芸ディレクターによると≫ 「ある日、中山晋平先生が、草川信先生を会社に招いて私(=庄野正典)に紹介された。草川さんに作品を依頼したらどうかということであった。二人の先生は長野県生まれの同郷のよしみもあり、音楽学校も同じで親しい関係にあったようである。草川先生はすでに「夕焼け小焼け」「揺籠のうた」など素晴らしい作品を創られている方である。  
 私は早々に制作に着手し、清水かつら先生に作詩を依頼し、「緑のそよ風」を作っていただいた」(日本童謡協会編『季刊どうよう』第9号チャイルド本社発行より)。
 ★この庄野の文章では一貫して曲名を「緑のそよ風」としている。別府明雄著『あしたに』(郁朋社)によると、「レコードにする時点で、タイトルが「みどりのそよ風」に変えられた」と書いてある。タイトルを自分で変えたのに「みどりのそよ風」と書かないのはおかしい。

 ≪草川信の次男の草川誠さんによると≫ 「庄野氏と信が昵懇(じっこん)の間柄(昭和二十一年後半あたりか)に成るに当っては、彼の住まいが徒歩で七、八分のゾーンであり、当時家にはビクター勤務の親戚の太田澄夫が下宿していた事などが因かと、今日まで思っていました。したがって中山晋平氏が媒(なかだち)は、初耳です」。

 (2)二部合唱曲を作曲
 ≪草川誠さんによると≫ 「昭和二十三年一月NHKラジオ放送予定で、昭和二十二年十二月依頼を受けました。作曲は昭和二十二年十二月。厳冬の中、父信が連日炬燵の中で苦しい膿胸罹患(のうきょうりかん)中、二部合唱に作曲しました。もともと二部合唱曲です。
 童謡作曲に踏み出した頃知り合った『少女号』の清水かつらさんと、戦後また一緒に仕事のできる喜びに感動いっぱいの思いでした。コンビ復活で張り切っていた痛々しい姿を思い出します。父の作曲中の熱心さに家中あげて協力したものです。あの父のイメージは熱く胸に残っています。完成した曲を父は、母、妹、私に何遍も歌って聞かせて、感想を聞き、満足し、この二部合唱曲をNHKに提出した。父の思いの深い童謡です。
 父は戦後ホームコーラス(一回平均十人参加、参加者合計三十人)に熱中、合唱指導を通じて子どもの合唱曲にも意欲を燃やしていました。この曲にも、その心が現われていると見たい」。

 ≪庄野正典によると≫
 「清水かつら先生に作っていただいた「緑のそよ風」を草川先生にお手渡した。偶然にも先生のお宅は私と同じ東京杉並区の町内なので、打ち合わせのため時々お邪魔した。先生も中山先生と同じく謹厳な方で飲酒を好まず、配給の酒があると先生自ら寒い夜でも私の家に届けてくださったりされた」(日本童謡協会編『季刊どうよう』第9号チャイルド本社発行より)。

 草川誠さんが、この曲は「もともと二部合唱曲です」と言っていることを裏付ける楽譜集があります。『川田正子愛唱童謡曲集』第五輯 合唱篇(白眉社)です。
 注目したいのは、はしがきに、「童謡八曲を二部合唱として皆さんにお目にかけることになりました。」と書いてあることです。そして、奥付は昭和二十二年八月十五日発行となっていることです。
 「みどりのそよ風」より先に、二部合唱曲を手がけています。八曲は、すでに発表されているものを二部合唱に編曲したものです。
 「汽車ポツポ」と「春の唄」は草川信の作曲で、ほかは海沼實の作曲です。
 昭和二十二年十二月、新曲「みどりのそよ風」の作曲に力が入ったのが理解できます。
 (この貴重な童謡曲集は、北海道在住の北島治夫さん所有。コピーを送っていただきました。ありがとうございました)。

草川信編曲『川田正子愛唱童謡曲集』第五輯 合唱篇(白眉社) 表紙        ▲はしがき
▲目次                                     ▲ 昭和二十二年八月十五日発行 奥付

 【「NHKの委嘱童謡」か?】
  ★草川誠さんは「昭和二十二年十二月、NHKの委嘱童謡」と思っておられ、庄野正典の証言は、「知る由もありませんでした」と言っておられます。事実はどうだったのでしょう。
  ★NHKに問い合わせましたが、「放送日時、番組名、歌手など不明」との回答でした。昭和二十二年、NHKの委嘱だった團伊玖磨の『花の街』の楽譜はNHK資料室に保存されています。「みどりのそよ風」が、ここにないのはおかしい。

 【ラジオ放送について】
 曲が完成した時、NHKラジオで放送することになりました。

 ≪別府明雄著『あしたに』(郁朋社)には≫
 「昭和23年NHKラジオ「日本のメロディ」で放送された」と書いてあります。
 ★これは、どこで確認できるのでしょう。いくらさがしてもありません。

 ≪清水かつらから年賀状をもらった≫
 草川誠さんによると「放送された昭和二十三年一月は余りに、父の病、入院予定其の他で家の中は煩雑(はんざつ)を究め、遂(つい)に耳に出来ずに終わってしまいました。
 かつらが書いた年賀状には、「これからは“いい日だね”で行きましょう」とあり、再会の日時まで指定してありましたが、二月に東大病院入院、約束を果す事はなかった」。
 草川信は、昭和二十三年九月二十日、肋膜膿胸(ろくまくのうきょう)のため五十五歳で亡くなりました。

 ≪ラジオで「思い出話」をした≫
 庄野正典によると 「この「緑のそよ風」が完成した時、NHKの子どもの時間に「草川信作品集」を放送することになり、この歌を流しながら草川先生に思い出話をしていただいたことがあった。この放送を聞いておられた中山先生に喜んでいただくことが出来た事は、私のよき思い出として残っている」(日本童謡協会編『季刊どうよう』第9号チャイルド本社発行より)。
 ★「NHKの子どもの時間に」と書いているが、前記の別府明雄著に書かれている「日本のメロディ」は子どもの番組だったのでしょうか。

 (1) ラジオ放送は「昭和二十三年二月か三月」か?
 研究者の中には、NHKラジオ放送は「昭和二十三年二月か三月ではないか」という意見があるようです。「二月に入院」した草川が、「ラジオで思い出話」ができるはずがない。それとも、病院から一時許可をもらってNHKスタジオに行ったのでしょうか。だとすると、「昭和二十三年二月か三月に放送」は可能かもしれません。

 (2) ラジオ放送は「昭和二十三年一月」か?
 「草川信は、NHKの委嘱を受けて作曲した」という草川誠さんの意見をふまえると、「NHKラジオが早春をテーマにした新曲を冬の季節に放送するのは考えにくい」という意見が出る。これは当然の事でしょう。では、草川誠さんの証言通り「昭和二十三年一月に放送」されたのでしょうか。一月だったら、まだ入院していないので、NHKスタジオに行って「思い出話」ができたかもしれません。放送を家族(草川誠さん)が聴いていない事は、ありえることです。

 (註)庄野の証言では、「・・・完成した時、NHKの子どもの時間に「草川信作品集」を放送することになり、この歌を流しながら草川先生に思い出話をしていただいたことがあった。」となっている。放送の実現には、庄野が大きくかかわっていたので、庄野の証言は正しいと見たい。

 【作詩から作曲まで時間のかかりすぎ】 ここで疑問が生じる。
 草川信は、昭和二十二年十二月に作曲、そして放送された(放送日時は不明)。清水かつらは、昭和二十二年四月に作詩している。庄野正典によると「清水かつら先生に作っていただいた「緑のそよ風」を草川先生にお手渡した」・・・とある。
  ★詩は四月にできているのに、十二月に作曲では、時間のかかりすぎで、つじつまが合わない。おかしい。

 庄野正典が清水かつらに詩を依頼した時、清水は新に作ったのではなく、すでに四月に作ってあった“いい日だね”を十一月末か十二月初めに渡したとするのはどうだろうか。
 『夕焼け小焼け』の作詞者の中村雨紅は、「新作の童謡曲本を作るという話があったその時新に作ったのか、既作(きさく=すでに作っておいた)のものを出したのか、急いでいたので、おそらく既作の中から選んだものと思われます。」と書いている。
 ★この意見が正しいとすると、清水かつらが詩を書いた時、草川信が作曲するとは想定していなかったことになる。「草川信が野球が好きだったので、清水かつらは野球の内容を盛り込んだ。三番は信へのサービス」とする草川誠さんや、多くの研究者、一般の童謡愛好者の思いを裏切る事になってしまう。事実はどうなのだろう。
 (註)「清水かつらが草川信のために野球を挿入した件は、私がNHKの番組で話したのが元々です」。清水かつらの研究者の別府明雄さんの書簡による(2011年3月14日)。  

 【ビクターレコード(B115)の発売について】
 ≪草川誠さんは≫ 「ビクターからのレコードは実現化しなかったと思っています。ビクターの事業部長だった庄野正典氏は、家も近く(天沼1丁目、現在3丁目)、時々訪宅され(昭和22年)父と対話を持ちました。当然同曲のレコード予定についても話し合われたと思いますが、父の死去もあってか、実現せずに終わったと思われます。私も未だ学生中でしたが、庄野家に父の死後、時々遊びにも行きましたが、レコードの話は出ませんでした」。

  ≪加藤省吾の昭和童謡史(54回)≫ 昭和二十二年から昭和三十二年までのビクターレコードには、「B一一五「みどりのそよ風」清水かつら詩、坂田真理子と児童合唱団吹込。「お山の小リス」三苫やすし詩、杉田和子、佐々川浩子、内田勝也吹込、両面草川信曲」となっています(「歌謡新幹線」第378号より。この資料は、別府明雄さん提供)。

 ≪庄野正典によると≫ 「草川先生は、このレコードの本盤を見ずに他界されてしまった。私は祭壇にテスト盤を供えさせていただき、ご冥福を祈った。返す返すも残念な思いであった」(日本童謡協会編『季刊どうよう』第9号チャイルド本社発行より)。
 ★この時のビクターからのレコード本盤の発売日は不明。 庄野は、「テスト盤を供えさせていただき」と書いている。吹き込んだけれども、発売されなかった可能性がある。たとえば、吹き込んだけれども少女歌手の音程が悪く発売されなかったというレコードがあったようです。

 【タイトルについて】
  ・清水かつらの原題は「いい日だね」(かつらの記録ノートがある)。
  ・ラジオ放送の時のタイトルは不明。
  ・レコードのタイトルは「みどりのそよ風」(決め手は加藤省吾のレコード記録による)。
  ・歌碑のタイトルは「みどりのそよ風」
   (東上線成増駅北口の碑、和光市立白子小学校の碑、長野市篠ノ井茶臼山恐竜公園「童謡の森」すべて同じ)。

  【その他のレコード情報】
  ・『甦える童謡歌手大全集』(コロムビアファミリークラブ)では、タイトルは「みどりのそよ風」。
 (歌手)関根敏子・日本ビクター児童合唱団は「もうじき苺も」と歌っています。
  ・別府明雄 上笙一郎編『清水かつら童謡集 靴が鳴る』では、タイトルは「みどりのそよ風」。
 (歌手)稲村なおこは「もうじき いちごも」と歌っています。 おや?
 ★84・85ページ詩の最後は「もうじき いちごが」になっています。CDの歌と詩が合っていません。なぜ「いちごが」なのか説明が必要です。
 「かつらの自筆のノート「童謡・一番詩帖 昭和二二(一九四七)」の原詩が「いちごが」なのです。他に「いちごが」となっている出版物はありません。
 著者の一人、 別府明雄さんからの回答「詩は、かつら自筆のものを写しましたが、多くの楽譜集では「いちごも」になっているので、検討します」。

▼北島治夫さんよりレコード情報
  コロムビア・レコード SP盤   C375

 1番 安田祥子のソロ
 2番 二部合唱
 4番 安田・内田貴見江 二部
 5番 二部合唱

 「いちごも」と歌っています。

 この曲は他に関根敏子を除くと
 VICTOR B510 東京少女合唱隊
 VICTOR V40127 坂田眞理子・日本ビクター児童合唱
 があります。


 【歌い方について】 楽譜をよく見ましょう (「日本童謡名歌110曲集1」全音より)。
 変イ長調、四分の四拍子で、二部合唱曲です。児童合唱団が歌うことを想定して作曲されています。


  「みどりのそよ かぜ」「いいひだ ね」「まめのは な」の「そよ」「ひだ」「のは」には、八分休符を入れて、短く歌うように書いてあります。自然に軽く短く歌うと良いでしょう。八分休符を入れると、はきはきしたさわやかな感じになります。スタッカートとは、少し違います。よく練習しましょう。
 私、池田小百合が主宰する『童謡を歌う会』では、みんなが知っているメロディー部分だけを歌っています。これでは、病をおして二部合唱に作曲をした草川信に申し訳ない気がします。草川信は怒っているかもしれません。次は二部合唱で歌いたいと思います。

  【ラジオコンクールで歌われる】
 全国唱歌ラジオコンクールでさかんに歌われました。このコンクールは昭和七年から始まり、戦争で中断して昭和二十二年に再開している。
 [註] インターネットのNHKのNコンアーカイブによると、昭和二十二年「全国児童唱歌コンクール」として再出発、昭和二十四年「全国唱歌ラジオコンクール」と改称、昭和三十七年「NHK全国学校音楽コンクール」と改称。

  【教科書でのあつかい】 小学校五年生の音楽教科書にも掲載され広まりました。この時のタイトルは「緑のそよ風」です。
  ・『小学生の音楽5』(音楽之友社)昭和35年発行では、ト長調、斉唱で二番まで掲載。
  ・『音楽5』(教育出版)昭和42年文部省検定済では、ト長調、後半から部分二部合唱。二番まで掲載。教師用指導書には五番まで掲載。「もうじき苺も」となっている。

  【草川誠さんによる思い出話】
 「僕の親父は、外っぷりのいい人で、大抵の人に聞くと、紳士で穏やかな人だというが、僕にはめちゃくちゃ違う。とにかく、嵐のような人で、一分前に機嫌が良くて日本晴れのようだったかと思うと、次の瞬間はもう荒れている。物騒な人間でした。
 うっかり創作中やバイオリン演奏中に騒ごうものなら容赦なく怒りだして、首筋を捕まえて、蹴飛ばされてしまった。
 僕にとって良かった事は、親父が野球が好きで、絵がすきだったということです。野球を教えてくれたり、絵を教えてくれる時は、本当に優しかった」(平成五年五月二十三日、上水内郡信濃町の黒姫童謡館で開かれた「草川信 生誕百年記念童謡コンサート」講演による)。
 草川信は、長野県師範附属小学校時代は投手で一番バッターで主将。野球は飯よりも好きだった。この歌の三番には野球が出てくるので、病気の苦しみも忘れて大喜びで作曲に取り組んだようです。

  【歌碑】 東武東上線・有楽町線・副都心線 和光市駅南口 「みどりのそよ風」「靴が鳴る」「しかられて」の歌碑
  池田千洋・撮影

  【後記】
 歌った人の心を、さわやかで上品な風が癒してくれます。草川信最後の作品です。この曲について調査した資料はなく、草川誠さんに指導していただきました。しかし、確認できない部分★がほとんどで、「なっとく」できていません。
 庄野正典が、もっと年月日など肝心な部分を正確に書いておいてくれたらと残念です。
 文化庁がおこなった「親子で歌いつごう日本の歌百選」(平成十八年十二月最終選考)には、この曲は選ばれていません。しかし、長く歌い継がれて行くことでしょう。そう願っています。

 (註)「みどりのそよ風」という同じタイトルの歌があります。
 加藤省吾作詞、海沼實作曲、歌手は川田孝子、発表は昭和25年7月コロムビアレコード。「呼ぶはみどりの そよ風よ〜」。遺族や研究者は、この曲と勘違いしている可能性もありそうです。この歌の歌碑はありません。


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