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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
成田爲三作曲の童謡
鈴木三重吉の略歴   成田爲三の略歴     林古渓の略歴
 赤い鳥小鳥     かなりや    浜辺の歌    りすりす小栗鼠
童謡・唱歌 事典 (編集中)




りすりす小栗鼠

作詞 北原白秋
作曲 成田爲三

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2012/12/16)


  【初出「りすりす小栗鼠」】
 北原白秋の(創作童謡)「りすりす小栗鼠」は、雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社) 大正七年七月一日発行、創刊七月号(第一巻第一号)の二ページ~三ページに掲載されました。『赤い鳥』創刊号の巻頭を飾った童謡です。創刊号に掲載された白秋の童謡は「りすりす小栗鼠」と「雉(きじ)ぐるま」(創作童謡)の二篇。
 他に「二人の兄弟」(創作童話)島崎藤村、「蜘蛛の糸」(創作童話)芥川龍之介、「大いたち」(童話)鈴木三重吉、「あの紫は」(創作童謡)泉鏡花、「手づま使」(童話)徳田秋聲などが掲載されています。
 (註)目次には「雉子ぐるま」となっている。これは誤植。「雉ぐるま」が正しい。

                        ▲「りすりす小栗鼠」(創作童謡) 挿絵は清水良雄

 【題名について】
 『赤い鳥』大正七年七月号の題名は「りすりす小栗鼠」だが、第二童謡集『兎の電報』(アルス発行)大正十年五月十八日刊行に収録では「栗鼠、栗鼠、小栗鼠」になっている。他の出版物では、それぞれに違った表記がされている。題名の調査は、すでに藤田圭雄著『日本童謡史Ⅰ』(あかね書房)に詳しく書いてあります。
 「作者としてはどれにしたかったのか。どれが気に入っていたのか、作者自身の編集している作品の中でまちまちなのだからしまつが悪い。まあ、そうやかましく拘泥することもあるまい」と藤田圭雄は書いている。
 題名もさまざまなら、本文の文字づかい、句読点もいろいろです。

 【歌詞について】
 初出を詳しく見ましょう。
 <赤 靑 白の順>
 四行三連から成り、「杏(あんず)の實(ミイ)が赤(あアか)いぞ」「山椒(さんしよ)の露(つウゆ)が靑(あアを)いぞ」「葡萄(ぶだう)の花(はアな)が白(しイろ)いぞ」の順です。後に北原白秋が雑誌『赤い鳥』大正七年十月号で発表した童謡「赤い鳥小鳥」を思わせます。「赤い鳥小鳥」は、三行三連で「赤い鳥」「白い鳥」「靑い鳥」の順です。
 かわいい小栗鼠に呼びかけるように歌った歌です。一連は杏の實を食べなさい、二連は山椒の露を飲みなさい、三連は葡萄の花を揺らしなさいと歌っています。

 <誤植の訂正について>
  (誤植Ⅰ) 初出は「實(ミイ)」と誤植になっています。しかし『赤い鳥』大正八年九月号に再び掲載された時「實(みイ)と訂正してあります。
  (誤植Ⅱ) 二連の最後の読点「、」は誤植で、句点「。」が正しい。これも『赤い鳥』、大正八年九月号で訂正してあります。

  <わらべうたのリズム>
 北原白秋は、わらべうたを童謡創作の根底にすえることを主張した。
  「栗鼠、栗鼠、小栗鼠、」「ちよろ ちよろ 小栗鼠、」「食べ、食べ、小栗鼠。」
 音律は「二・二・三」または「四・三」というわらべうた的旋律を活かしたリズムで、跳びまわる栗鼠の動きを表現している。

 <特別なルビのふり方>
 この詩には、特別な(ルビ)がふってあります。藤田圭雄は「うっとうしいルビの指定が」と言っているが、ここは重要なルビです。

 一連は「杏(あんず)の實(ミイ)が赤(あアか)いぞ、」
 二連は「山椒(さんしよ)の露(つウゆ)が靑(あアを)いぞ、」
 三連は「葡萄(ぶだう)の花(はアな)が白(しイろ)いぞ、」
 北原白秋は躍動感のある音数律「四・四・五」にしようとしました。しかし、一連の「實(ミイ)が」では一文字不足です。白秋は気にしていたようで書き換えています。

 <改作した詩>
 改作した詩は第一童謡集『トンボの眼玉』(アルス発行)大正八年十月十五日刊行に掲載されました。これは復刻版・北原白秋著『白秋全童謡集Ⅰ』(岩波書店)一九九二年十月二十九日第一刷発行で見る事ができます。
 一連は「葡萄(ぶだう)の房(ふウさ)が熟(うウ)れたぞ、」
 二連は「あつちの尻尾(しつぽ)が太(ふウと)いぞ、」
 三連は「ひとりで飛(と)んだらあぶないぞ、」

 今度は音数律「四・四・五」で整いましたが、とんでもない改悪詩になりました。
 「ひとりで飛(と)んだらあぶないぞ、負(おぶ)され、負(おぶ)され、小栗鼠(こりす)」は、もう詩とは言えません。北原白秋本来の≪言葉の魔術師≫ぶりは、どこにもありません。

▲「りすりす小栗鼠」 『トンボの眼玉』(アルス)に発表した改作

 改作はしてみたものの初出の「色彩豊かな詩」は捨てがたく、第二童謡集『兎の電報』(アルス発行)大正十年五月十八日刊行に、再び初出を収録しています。これも復刻版・北原白秋著『白秋全童謡集Ⅰ』(岩波書店)一九九二年十月二十九日第一刷発行で見る事ができます。題名は「栗鼠、栗鼠、小栗鼠」になっていて、初出とは本文の文字づかい、句読点が違います。
 一連は「杏(あんず)の實(みイ)が赤(あか)いぞ、」
 二連は「山椒(さんせう)の露(つゆ)が靑(あを)いぞ、」
 三連は「葡萄(ぶだう)の花(はな)が白(しろ)いぞ、」

 今度は音数律「四・三・四」で整いました。ここでは「山椒(さんせう)」となっているが、『赤い鳥』大正八年九月号の「赤い鳥」曲譜集(その五)では「山椒(さんしよ)」とルビがしてある。
▲「栗鼠、栗鼠、小栗鼠」 『兎の電報』(アルス)に収録

 詩の季節感に関しては別項で解説します。

 【作曲について】
 成田為三が作曲し、雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年九月号(第三巻第三号)で発表しました。
 

                     ▲りすりす小栗鼠(曲譜) 成田為三 「赤い鳥」曲譜集(その五)

 旋律はニ長調四分の二拍子。形の変わった一部形式とみることができます。リズムは八分音符が中心になっています。音の進行が和音的に跳躍しているのが特徴です。
 一連は「杏(あんず)の實(みイ)が赤(あか)いぞ」
 二連は「山椒(さんしよ)の露(つゆ)が靑(あを)いぞ」
 三連は「葡萄(ぶだう)の花(はな)が白(しろ)いぞ」となっています。
 音数律「四・三・四」で整っています
 楽譜は「あーかいぞ」「あーをいぞ」「しーろいぞ」と書いてありますが、北原白秋が意図したように「あアかいぞ」「あアをいぞ」「しイろいぞ」と歌うように作曲してあります。 「みイが」「つゆが」「はなが」も、タン タタのリズムで「♩み ♪イ♪が」「♩つウ ♪ゆ♪が」「♩はア ♪な♪が」と歌うように作曲してあります。成田為三らしい真面目で、かわいい曲に仕上がっています。

 【「赤い鳥」童謠 第壹集に収録】
 大正八年十月十八日、赤い鳥社から「赤い鳥」童謠 第壹集が刊行された。収録曲は「かなりや」「雨」「栗鼠栗鼠小栗鼠」「犬のお芝居」「山のあなたを」以上五曲。
 タイトルは「栗鼠栗鼠小栗鼠」漢字になっている。歌詞は『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年九月号と同じ。楽譜は♩=104と「たべたべ」にあった二ヶ所のスタッカートが削除してある。

    ▲杏の「みいが」の部分

  【「りすりす小りす」童謡レコードになる】
 日本蓄音器商会から鷲印ニツポノホン(A面) 3978「かなりや」(西條八十)。(B面) 3979「雨」(北原白秋)、「りすりす小りす」(北原白秋)が表裏になって、成田為三伴奏、赤い鳥社少女唱歌會々員の歌で、大正九年(1920年)六月発売された。定価一円八十銭。このレコードは童謡レコード第一号。これまでは唱歌のレコードばかりだった。蓄音機の普及によって全国で広く歌われるようになった。
 この貴重なレコードは、北海道在住のレコードコレクター、北島治夫さんが所有されています。

 【与田凖一編について】
 北原白秋選集 第三巻『白秋童謠集』与田凖一編(あかね書房)の「蜻蛉の眼玉」に掲載されている詩は、題名が「栗鼠、栗鼠、小栗鼠」で、七・七・七・五・七の定型律に編集してある。
 一連は「杏(あんず)の實(みイ)が赤(あアか)いぞ」、二連は「山椒(さんせう)の露(つゆ)が靑(あアを)いぞ」、三連は「葡萄(ぶだう)の花(はな)が白(しイろ)いぞ」。 この本の「あとがき」には1951年(昭和二十六年)7月とあり、手持ちの本は1954年3月25日三版発行になっていて初版発行日は1951年8月5日。新潮文庫の復刊第一回配本『からたちの花 北原白秋童謡集』与田凖一編(新潮文庫400)昭和三十二年九月二十日発行で見る事ができます。
 北原白秋選集 第三巻『白秋童謠集』与田凖一編(あかね書房)には、改作は掲載されていません。

▲「栗鼠、栗鼠、小栗鼠」 『白秋童謠集』与田凖一編(あかね書房)
           
 【藤田圭雄編について】
 『日本児童文学大系 第七巻 北原白秋集』藤田圭雄編(ほるぷ出版)昭和五十二年十一月二十日初刷発行の『とんぼの眼玉』以前に掲載されている詩は、題名が「栗鼠、栗鼠、小栗鼠」で、『白秋童謠集』与田凖一編(あかね書房)と同じ七・七・七・五・七の定型律に編集してあります。『とんぼの眼玉』には、「栗鼠、栗鼠、小栗鼠」の改作「りすりす小栗鼠」が掲載されています。『兎の電報』には「栗鼠、栗鼠、小栗鼠」が題名だけ書いてあり、詩は略してあります。
 編集者が手を加えると、初出の詩がわからなくなってしまいます。

  【小松耕輔編について】
 『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡集』小松耕輔編(春秋社)昭和五年一月十五日発行には「りすりす小栗鼠」の題名で小松耕輔が編曲した二小節前奏付きの伴奏譜が掲載されています。伴奏譜の四小節目、六小節目の音符が改作され、アクセントや強弱記号もふんだんに盛り込まれています。楽譜は「ミイガ」と書いてあるが、歌詞は「實が」になっていて、ルビはありません。
 解説には「幼稚園又は小學校初年級の極可愛い子供の曲だから、高さと長さとを完全にして下されば、アトは子供の心に任せて、大聲でスルスルット歌はして下されば結構です。強弱記号は景品として書いてある位に思つて下さつてよいです」と書いてあります。


 【全音「りす りす 小りす」について】
 現在一般に売られている楽譜。
 『日本童謡名歌110曲集』(全音楽譜出版社)の楽譜は、『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡集』小松耕輔編(春秋社)昭和五年一月十五日発行の楽譜と同じです。
  ・題名は「りすりす小りす」になっている。
  ・与田凖一編『からたちの花がさいたよ』(岩波書店)昭和三十九年十二月五日発行には「りす、りす、小りす」の題名で掲載してあり、全音は、この詩を参考にしたと思われますが、句読点を削除して、「たべたべ、小りす。」が「食べ 食べ 小りす」、「のめのめ、小りす。」が「飲め 飲め 小りす」、「ゆれゆれ、小りす」が「ゆれ ゆれ 小りす。」に改作されている。
  ・楽譜は、「実が」の部分が「みーが」と歌うように改作してあります。
  ・以上のように、北原白秋、成田為三の初出から遠くなってしまいました。現在は、みんながこの楽譜と歌詞を見て歌っています。

▲「りす りす 小りす」歌詞
『日本童謡名歌110曲集』
(全音)


⇐ 「みーが」に改作
された楽譜部分
『日本童謡名歌110曲集』
(全音)

 【詩の季節感について
 ・「杏の実が赤い」=六から七月頃オレンジ色に熟す果実で食用になる。実の大きさは三から五センチ、酸味が強い。中国原産。
 ・「山椒の露が青い」=山椒(ミカン科)は落葉低木で高さ一から三メートル。葉を手に乗せてたたくと、よい香りがする。筍の時期に一緒に煮るために収穫する。
 ・「葡萄の花が白い」=五月頃、白い花が咲き出す。この開花の時期は一日から二日で終わってしまう。この時を狙って種なしにする目的で「ジベレリン処理」という作業をするが、処理をした房を食紅で赤く染めてしまうことがあるので、「葡萄の白い花」の姿を見るのは難しい。かおりの良い若葉や果実は食用になる。
  詩全体の季節感は夏ということになるでしょうか。

 【ラヂオ放送の調査】
 昭和二年八月二十日(土曜日)東京朝日新聞 ラヂオ番組表 東京【JOAK】
 ◇午後七時二十五分
 ▲童謡【せい唱】お月様 外二曲【二部輪唱】ころころ蛙【三部輪唱】てふてふ【せい唱】赤い鳥小鳥 外一曲【三部輪唱】白い列 外一曲【せい唱】りすりす小栗鼠 外二曲 成田童謠研究會會員、伴奏 成田爲三。(2013年2月12日、厚木市立中央図書館 朝日新聞縮刷版による)
 (註)読売新聞には全曲名が掲載されている。番組名は『少年少女の夕』。午後六時三十分からで、最初一は管弦楽、ニュース(七時十分~七時二十五分)をはさんで、二 童話、三 童謡になる。

 当時は作曲者がピアノ伴奏を担当していました。成田爲三の活躍が輝いています。成田は輪唱のすばらしさに注目し、その普及に力を入れていた。輪唱が放送されたことは、斉唱から合唱への橋渡しとなる画期的な事だった。輪唱を聴いた人々は、その響きの美しさに驚いたことでしょう。

 【『赤い鳥』創刊】
 雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社発行)は、大正七年七月一日に創刊された。大正七年創刊七月号(第一巻第一号)。鈴木三重吉主幹が唱歌を「芸術性がなく低級」と批判し、日本を代表する作家、北原白秋、西條八十、島崎藤村、芥川龍之介、泉鏡花、小川未明、三木露風などに、新しい子供の童話や童謡を作ろうと呼びかけて生まれた児童文芸雑誌です。
 詩には成田爲三、山田耕筰、近衛秀麿、草川信、弘田龍太郎などにより曲がつけられ、曲譜も掲載されたので、子供が自分で楽しく歌いました。この雑誌は、日本の童話や童謡の質を飛躍的に高めました。

 <『赤い鳥』を創刊するきっかけ>
 鈴木三重吉が『赤い鳥』を創刊するきっかけは、大正五年六月の長女すずの誕生があった。三十五歳で子をもうけた三重吉は、娘が心豊かに育つように歌を歌ってやろうと思っても、三重吉が望むような歌は、ほとんどなく、本を読んでやろうとしても、書店に適当な本はなかった。
 その頃、子ども向けの本と言えば、戦争の英雄を描いたようなものか、俗悪な内容や挿絵のようなものばかりだった。当時、大正時代は日清・日露戦争の影響を強く受けて、教育も「お国のためになる」ことに向けられていた。小学校で教わる唱歌も、教訓的な物や愛国的なものがほとんどだった。
 子どもにふさわしいものを求める三重吉のまわりには、大正デモクラシーの影響の強い作家や画家たちが集まった。彼らの協力を得て、大正七年、第一次世界大戦が終わった年に、子どもたちのための童謡や童話の雑誌『赤い鳥』が創刊された(西條八束(さいじょうやつか)著『父・西條八十の横顔』(風媒社)2011年7月1日発行より抜粋)。

 <「童謡の日」について>
 日本童謡協会により『赤い鳥』創刊号の発刊記念日の七月一日は「童謡の日」と定められました。一九六九年(昭和四十四年)日本童謡協会結成。十五年目の一九八四年、童謡の一層の発展を望んで記念日として「童謡の日」を制定した。当時の会長は中田喜直(故人)。全国各地で童謡コンサート、童謡コンクールが開催され、再び童謡運動が復活かと思われたが、三十年が経過すると、「七月一日は「童謡の日」だそうですね。知りませんでした」と言う人が多くなった。
 「童謡の日」は、一般的には知られていない。

 【『赤い鳥』終刊】
 昭和十一年八月一日発行、昭和十一年八月終刊号(第十二巻第二号)。主幹の鈴木三重吉が、昭和十一年六月二十七日肺臓癌で亡くなりました。享年五十五歳。
 『赤い鳥』(赤い鳥社)は、「鈴木三重吉追悼号」昭和十一年十月一日発行(第十二巻第三号)を出し、その業績を称えました。
 「鈴木三重吉追悼号」で「赤い鳥」総目次を見る事ができます。
  (註)一九六八年(昭和四十三年)『赤い鳥』復刻版(日本近代文学館)

 【『赤い鳥』まとめ】
 『赤い鳥』全一九六冊。
 <前期> 創刊・大正七年創刊七月号(第一巻第一号)~昭和四年三月号(第二十二巻第三号)まで。
 <一時休刊>
 <後期> 復刊・昭和六年創刊一月号(第一巻第一号)~昭和十一年八月終刊号(第十二巻第二号)。
 そして、昭和十一年十月号(第十二巻第三号)「鈴木三重吉追悼号」まで。

▲『赤い鳥』大正七年
創刊七月号(第一巻第一号)
定価金拾八銭
表紙絵「お馬の飾」清水良雄
▲『赤い鳥』昭和十一年
八月終刊号(第十二巻第二号)
定価参拾銭
表紙絵「海」清水良雄
▲『赤い鳥』昭和十一年
十月号(第十二巻第三号)
「鈴木三重吉追悼号」
定価壹圓 表紙絵 清水良雄


著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫
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 『赤い鳥』全一九六冊の内訳(毎月一回一日発行)
  1 大正七年創刊七月号(第一巻第一号)、2 同年八月号(第一巻第二号)、3 同年九月号(第一巻第三号)、4 同年十月号(第一巻第四号)、5 同年十一月号(第一巻第五号)、6 同年十二月号(第一巻第六号)、7 大正八年一月号(第二巻第一号)、8 同年特別号(第二巻第二号)、9 同年三月号(第二巻第三号)、10 同年四月号(第二巻第四号)、
 11 同年五月号(第二巻第五号)、12 同年六月号(第二巻第六号)、13 同年七月号(第三巻第一号) 、14 同年八月号(第三巻第二号)、15 同年九月号(第三巻第三号)、16 同年十月号(第三巻第四号)、17 同年十一月号(第三巻第五号)、18 同年十二月号(第三巻第六号)、19 大正九年一月号(第四巻第一号)、 20 同年二月号(第四巻第二号)、
 21 同年三月号(第四巻第三号)、22 同年四月号(第四巻第四号)、23 同年五月号(第四巻第五号)、24 同年六月号(第四巻第六号)、25 同年七月号(第五巻第一号)、26 同年八月号(第五巻第二号)、27 同年九月号(第五巻第三号)、28 同年十月号(第五巻第四号)、29 同年十一月号(第五巻第五号)、30 同年十二月号(第五巻第六号)、
 31 大正十年一月号(第六巻第一号)、 32 同年二月号(第六巻第二号) 、33 同年三月号(第六巻第三号)、34 同年四月号(第六巻第四号)、35 同年五月号(第六巻第五号)、36 同年六月号(第六巻第六号)、37 同年七月号(第七巻第一号)、38 同年八月号(第七巻第二号)、39 同年九月号 (第七巻第三号)、40 同年十月号(第七巻第四号)、
 41 同年十一月号(第七巻第五号) 、42 同年十二月号(第七巻第六号)、 43 大正十一年一月号(第八巻第一号)、44 同十一年二月号(第八巻第二号)、45 同十一年三月号(第八巻第三号)、46 同十一年四月号(第八巻第四号)、47 同十一年五月号(第八巻第五号)、48 同十一年六月号(第八巻第六号)、49 同十一年七月号(第九巻第一号)、50 同十一年八月号(第九巻第二号)、
 51 同十一年九月号(第九巻第三号)、52 同十一年十月号(第九巻第四号)、53 同十一年十一月号(第九巻第五号)、54 同十一年十二月号(第九巻第六号)、55 大正十二年一月号(第十巻第一号)、56 同年二月号(第十巻第二号)、57 同年三月号(第十巻第三号)、58 同年四月号(第十巻第四号)、59 同年五月号(第十巻第五号)、60 同年六月号(第十巻第六号)、
 61 同年七月号(第十一巻第一号)、62 同年八月号(第十一巻第二号)、63 同年九月号(第十一巻第三号)、大正十二年十月号は関東大震災のため発行中止64 同年十一月号(第十一巻第四号)、大正十二年十二月号は雑誌組合の協定により休刊 65 大正十三年一月号(第十二巻第一号)、66 同年二月号(第十二巻第二号)、67 同年三月号(第十二巻第三号)、68 同年四月号(第十二巻第四号)、69 同年五月号(第十二巻第五号)、70 同年六月号(第十二巻第六号)、
 71 同年七月号(第十三巻第一号)、72 同年八月号(第十三巻第二号)、73 同年九月号(第十三巻第三号)、74 同年十月号(第十三巻第四号)、75 同年十一月号(第十三巻第五号)、76 同年十二月号(第十三巻第六号)、77 大正十四年一月号(第十四巻第一号)、78 同年二月号(第十四巻第二号)、79 同年三月号(第十四巻第三号)、80 同年四月号(第十四巻第四号)、
 81 同年五月号(第十四巻第五号)、82 同年六月号(第十四巻第六号)、83 同年七月号(第十五巻第一号)、84 同年八月号(第十五巻第二号)、85 同年九月号(第十五巻第三号)、86 同年十月号(第十五巻第四号)、87 同年十一月号(第十五巻第五号)、88 同年十二月号(第十五巻第六号)、89 大正十五年一月号(第十六巻第一号)、90 同年二月号(第十六巻第二号)、
 91 同年三月号(第十六巻第三号)、92 同年四月号(第十六巻第四号)、93 同年五月号(第十六巻第五号)、94 同年六月号(第十六巻第六号)、95 同年七月(第十七巻第一号)、号96 同年八月号(第十七巻第二号)、97 同年九月号(第十七巻第三号)、98 同年十月号(第十七巻第四号)、99 同年十一月号(第十七巻第五号)、100 同年十二月号(第十七巻第六号)、
 101 昭和二年一月号(第十八巻第一号)、102 同年二月号(第十八巻第二号)、103 同年三月号(第十八巻第三号)、104 同年四月号(第十八巻第四号)、105 同年五月号(第十八巻第五号)、106 同年六月号(第十八巻第六号)、107 同年七月号(第十九巻第一号)、108 同年八月号(第十九巻第二号)、109 同年九月号(第十九巻第三号)、110 同年十月号(第十九巻第四号)、
 111 同年十一月号(第十九巻第五号)、112 同年十二月号(第十九巻第六号)、113 昭和三年一月号(第二十巻第一号)、114 同年二月号(第二十巻第二号)、115 同年三月号(第二十巻第三号)、116 同年四月号(第二十巻第四号)、117 同年五月号(第二十巻第五号)、118 同年六月号(第二十巻第六号)、119 同年七月号(第二十一巻第一号)、120 同年八月号(第二十一巻第二号)、
 121 同年九月号(第二十一巻第三号)、122 同年十月号(第二十一巻第四号)、123 同年十一月号(第二十一巻第五号)、124 同年十二月号(第二十一巻第六号)、125 昭和四年一月号(第二十二巻第一号)、126 同年二月号(第二十二巻第二号)、127 同年三月号(第二十二巻第三号)、一時休刊、128 昭和六年創刊一月号(第一巻第一号)、129 同年二月号(第一巻第二号)、130 同年三月号(第一巻第三号)、
 131 同年四月号(第一巻第四号)、132 同年五月号(第一巻第五号)、133 同年六月号(第一巻第六号)、134 同年七月号(第二巻第一号)、135 同年八月号(第二巻第二号)、136 同年九月号(第二巻第三号)、137 同年十月号(第二巻第四号)、138 同年十一月号(第二巻第五号)、139 同年十二月号(第二巻第六号)、140 昭和七年一月号(第三巻第一号)
 141 同年二月号(第三巻第二号)、142 同年三月号(第三巻第三号)、143 同年四月号(第三巻第四号)、144 同年五月号(第三巻第五号)、145 同年六月号(第三巻第六号)、146 同年七月号(第四巻第一号)、147 同年八月号(第四巻第二号)、148 同年九月号(第四巻第三号)、149 同年十月号(第四巻第四号)、150 同年十一月号(第四巻第五号)、
 151 同年十二月号(第四巻第六号)、152 昭和八年一月号(第五巻第一号)、153 同年二月号(第五巻第二号)、154 同年三月号(第五巻第三号)、155 同年四月号(第五巻第四号)、156 同年五月号(第五巻第五号)、157 同年六月号(第五巻第六号)、158 同年七月号(第六巻第一号)、159 同年八月号(第六巻第二号)、160 同年九月号(第六巻第三号)、
 161 同年十月号(第六巻第四号)、162 同年十一月号(第六巻第五号)、163 同年十二月号(第六巻第六号)、164 昭和九年一月号(第七巻第一号)、165 同年二月号(第七巻第二号)、166 同年三月号(第七巻第三号)、167 同年四月号(第七巻第四号)、168 同年五月号(第七巻第五号)、169 同年六月号(第七巻第六号)、170 同年七月号(第八巻第一号)、
 171 同年八月号(第八巻第二号)、172 同年九月号(第八巻第三号)、173 同年十月号(第八巻第四号)、174 同年十一月号(第八巻第五号)、175 同年十二月号(第八巻第六号)、176 昭和十年一月号(第九巻第一号)、177 同年二月号(第九巻第二号)、178 同年三月号(第九巻第三号)、179 同年四月号(第九巻第四号)、180 同年五月号(第九巻第五号)、
 181 同年六月号(第九巻第六号)、182 同年七月号(第十巻第一号)、183 同年八月号(第十巻第二号)、184 同年九月号(第十巻第三号)、185 同年十月号(第十巻第四号)、186 同年十一月号(第十巻第五号)、187 同年十二月号(第十巻第六号)、188 昭和十一年一月号(第十一巻第一号)、189 同年二月号(第十一巻第二号)、190 同年三月号(第十一巻第三号)、
 191 同年四月号(第十一巻第四号)、192 同年五月号(第十一巻第五号)、193 同年六月号(第十一巻第六号)、194 同年七月号(第十二巻第一号)、195 昭和十一年八月終刊号(第十二巻第二号)、196 昭和十一年十月鈴木三重吉追悼号(第十二巻第三号)




かなりや

作詞 西條八十
作曲 成田爲三

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2013/01/14)

  【西條八十が『赤い鳥』に参加】
 大正七年七月一日に雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社)を創刊した鈴木三重吉は、創刊に際し、童謡面の担当者として、まず北原白秋を選び、ついで三木露風に声をかけ、そしてもう一人、早稲田大学英文科を卒業した若手の無名の詩人、西條八十のところへ自分で出向いてその理想を説いて参加を慫慂した。三木露風は童謡担当者となることを断った。

 <「三重吉さんの来訪」によると>
  『赤い鳥』の思い出「三重吉さんの来訪」西條八十(解説「赤い鳥」複刻版別冊2、昭和四十四年二月十五日発行、日本近代文学館)で、西條八十はその頃の事を次のように書いている。
  “雑誌『赤い鳥』が創刊された頃、ぼくは老母と弟妹を抱え、無一文で人生の波濤を泛っていた。神田の東京堂裏で小さな書籍出版屋をやっていた。その店頭に忽如小男で口髭をはやした鈴木三重吉が現われたのである。三重吉の抒情的な小説は雑誌『新小説』その他で愛読し、その名は夙に知っていた。だが、彼が無名の一青年のぼくに原稿を依頼したとき、ぼくは驚きをも、また光栄をも感じなかった。というのは、それよりも彼が依頼した芸術的唱歌というもののむずかしさがぼくの胸を重圧したからである。その日彼が示した既刊の『赤い鳥』誌上の白秋その他の歌に、ぼくは特に芸術的な匂いを感じなかった。こうして永い苦慮のあげく、ぼくはやっと「薔薇」や「かなりや」のような歌を書き上げて赤い鳥社に届けに行った。最初の赤い鳥社はどうも三重吉の自宅であったような気がする。目白駅を出て、線路沿いの崖みちを一丁ほど行った左手の小さな平家だった。”(pp.4-5より抜粋)
 注目したいのは、西條八十が“彼が示した既刊の『赤い鳥』誌上の白秋その他の歌に、ぼくは特に芸術的な匂いを感じなかった。”と書いている所です。これは、創刊号の巻頭の白秋の詩「りすりす小栗鼠」の歌などのことでしょうか。

 <西條八十著『唄の自叙伝』によると>
 昭和二十三年刊行、西條八十著『あの夢この歌―唄の自叙伝』(小山書店)には、もっとドラマチックに書いてある。
  “兜町通いをやめて、出版屋の二階で雑誌「英語之日本」の編輯をやりながら、また好きな詩をノートに書き込んでいるわたしのところへ、或る朝、意外な客が訪れた。
 その朝はちょうど店の小僧が出かけたあとで、わたしが代りにワイシャツにズボンという姿で店頭で註文の書籍の荷造りをしていた。そこへ色の黒い眼のするどい、髭のある小男が和服姿ではいって来て、
  「西條八十さんはおりますか」
 といって、小さな名刺を出した。それには鈴木三重吉と書いてあったので、わたしはびっくりした。
 今では鈴木三重吉の名も小部分の人にしか記憶されていない。だが、当時漱石門下で、所謂ネオロマンティシズムの構想と、独得の粘りのある文体とをもって一世を風靡した小説家三重吉の名を知らない者はほとんどなかった。その有名人が無名の一青年を訪ねてきたのである。
 わたしは店頭の椅子に招じて、用向きを訊ねた。
  「新しい童謡をあなたに書いて頂きたいのです」
 こういって三重吉氏は、今度自分が新しい童話童謡の雑誌「赤い鳥」を創刊したことから、童謡についての概念など熱心に説明された。わたしが、
  「とにかく書いてみましょう」
  と、答えると、満足して帰っていかれた”。

 西條八束(さいじょうやつか)は、その著『父・西條八十の横顔』(風媒社)2011年7月1日発行の中で、“これによって父は童謡を書くようになった。三重吉氏の訪問がよほどうれしかったらしく、その話は何回か父から聞いた記憶がある”と書いている。
 野田宇太郎は、雑誌『太陽№128 特集 日本童謡集』(平凡社)の「童謡の星たち」で、
 “『唄の自叙伝』の中でもっとも感動的な一節が鈴木三重吉との対面である。・・・この場面は、もし文学史の記録画でも描かれるときがあったら、ぜひその一枚にしてもらえたものとさえわたくしは思う”と書いている。

  (註) 私、池田小百合は映画の企画を聞いたことがある。しかし、現実に映画ができたかどうかわからない。映画では、沢山の童謡「かなりや」「肩たたき」「毬と殿様」ほか、おびただしい歌謡曲「青い山脈」「王将」「支那の夜」「東京行進曲」「涙の渡り鳥」「東京音頭」「旅の夜風」「越後獅子の歌」の他に、軍歌「若鷲の歌」「比島決戦の歌」も沢山盛り込まなくてはならないだろう。西條八十は戦時下には多くの軍歌を作った。古関裕而とのコンビが多い。軍に協力的だった。映画製作の宣伝は始まっていたが、映画の企画は最終的に立ち消えになった可能性が大きい。
 西條八十は、『信濃毎日新聞』1967年8月17日夕刊「山ろく清談」に次のように書いている。 「戦時中はずいぶん軍歌も書いた。大本営から直接電話がかかってくるんだよ。「書け」といってね。「予科練の歌」(中略)「比島決戦の歌」・・・。ぼくぐらい書いた男もいないだろうね。
 戦後は、軍歌を書いてた詩人はみんなつかまった。結局、佐々木信綱とぼくが「一番悪い」ということになったが、佐々木さんがあまりに高齢だというのでゆるされ、「西條ひとりじゃかわいそうだ」とぼくも助かった。
 高村光太郎は、軍歌をかいたことを気にやんで、山へ逃げこんだ。しかし、ぼくは後悔などしなかったね。あのころ、早稲田で教えて(仏文科教授)いたが、毎日のように動員されて戦場へいく若い学生たちを見送った。せめて、“軍歌”で応援してやるいがいしかたがなかったんだ。ひどい時代だった」。
 西條八十は、沢山の詩を書いたが、のちに全集に収録できない物が沢山ある。除外した作品は、『日本児童文学大系』8西條八十(ほるぷ出版)に題名だけ記されている。

 【なぜ、鈴木三重吉が西條八十を知ったか】
 西條八十は『仮面』第十四号(大正三年三月号)に、「鈴の音」という詩を発表している。
 『赤い鳥』の思い出「三重吉さんの来訪」西條八十(解説「赤い鳥」複刻版別冊2、昭和四十四年二月十五日発行、日本近代文学館)で、西條八十は次のように書いている。
  “無名のぼくを三重吉に推挙したのはマーテルリンクの「犬」の訳者灰野庄平であり、庄平はぼくが同人雑誌『仮面』に書いた「鈴の音」という童謡風の抒情詩から思いついたのだった。それから芸術的な唱歌に思い切って童謡という名を与えたのは、その「鈴の音」の詩の添え書きに小さく「悲しき童謡なれど」とあったのを見て三重吉が勇断したのであろうというのがずっと後日になってからの灰野庄平の話だった”。(p6より抜粋)

  (註) 灰野庄平(1887~1931年)は、八十より五つ年長。大正三年『未来』でいっしょになった。自由劇場第一回公演以来、小山内薫に協力していたので、三重吉にも面識があった。『赤い鳥』には執筆していないが、『金の船』には童話を書いている。日本大学教授として、『大日本演劇史』(昭和七年三月十五日・第一書房)を刊行している。
 西條八束(さいじょうやつか)は、その著『父・西條八十の横顔』(風媒社)2011年7月1日発行の中で次のように書いている。
  “三重吉氏は父の「鈴の音」改め「王様の馬」を評価して訪ねてくださったという。これによって父は童謡を書くようになった”。
 西條八十は、大正八年六月、詩集『砂金』の中に、「遠き唄(童謡九篇)」として「鈴の音」や「かなりや」を入れている。しかし、その後の童謡集『鸚鵡と時計』にも『西條八十童謡全集』にも「鈴の音」は入れていない。



▲西條八十作「王様の馬」
(アカシヤ民謡 No.1)の表紙


 注目したいのは表紙に(アカシヤ民謡)
と書いてあることです。
 西條八十が(悲しき童謡なれど)と
「童謡」と呼んだ第一作なのに、
作曲をしたら「民謡」になったと
いうことなのだろうか。

▲「王様の馬」の詩 (悲しき童謡なれど)という副題が付いている。
 
  “雑誌「假面」のやはり同人だった版画家永瀬義郎君が「アカシヤ」という美術品の露店を銀座の舗道に出したとき、この詩を楽譜入りの美しい折本にして、たしか一部五銭で売ったこともあった”(『唄の自叙伝』全集第十七巻、所収)。

  【詩のできた背景】
 <三井嫩子(みついふたばこ)によると>
 詩のできた背景について西條八十の長女の三井嫩子は、雑誌『太陽№128 特集 日本童謡集』(平凡社)で次のように述べています。
 「“かなりや”の詩は大正中期の小学校で“動物愛護”の歌として教えられたと聞いているが、私はむしろ、ニヒリスティックな大人の純粋詩のような気がする。この歌は父が当時赤ん坊の私をだきながら上野の東照宮の境内を徘徊している時に作ったと父は書いている。その頃、父は破産してしまった祖父の遺産の最後の一つ、小さな家まで売りはらって、出版社をやったり、天ぷら屋をやったり、株をやってひどい目にあったりしていた。柄にもない商人(あきんど)生活と物質の苦労の底まで味わいながら、自分がふと歌を忘れた詩人であることを思い出して寂寥がしみたことが、この歌を作った素因になったと思う」。(三井嫩子著 特集随筆「永遠の少年・西條八十」より抜粋。『太陽』1974年1月号(新年特別号)№128特集 日本童謡集(1973年12月12日発行、平凡社)に掲載)

 <野田宇太郎によると>
 野田宇太郎も三井嫩子と同じ事を「童謡の星たち」で書いている。
  “(嫩子を抱いて上野の森を)歩きながら、ふと自分の現在の荒涼とした生活を思い、可愛いい娘にうたってやりたい唄(童謡)が欲しいと思っていた。そのときふと八十の胸に浮かんだのが「かなりや」の構想であった。これはわたくしが西條八十から直接に聞いた話でもある”。

 <西條八十著『唄の自叙伝』によると>
 昭和二十三年刊行、西條八十著『あの夢この歌―唄の自叙伝』(小山書店)によると、次のようです。
  “雑誌「赤い鳥」のために、わたしはまず「薔薇」という童謡を書き、次に、あのひろく唱われた「かなりや」を書いた。「かなりや」の歌詞のモーティフは、幼い日誰かに伴(つ)れられて行った、たしか麹町の或る教会だったとおもう。そこのクリスマスの夜の光景(けしき)の回想から生まれた、年に一度の聖祭の夜、その会堂内の電燈はのこらず華やかに灯されていたが、その中にただ一個、ちょうどわたしの頭の真うえに在るのだけが、どういう故障か、ぽつんと消えていた。それが幼いわたしに、百禽(ももどり)がそろって楽しげに囀(さえず)っている中に、ただ一羽だけ囀ることを忘れた小鳥ー「唄を忘れたかなりや」のような印象を起させて哀(あわれ)に想えた。その遠い回想から偶然筆を起してこの童謡を書き進めるうちに、わたしはいつか自分自身がその「唄を忘れたかなりや」であるような感じがしみじみとしてきた。そうではないか? 詩人たらんと志して入学した大学の文学研究も、わたしは不幸な出来事から抛棄(ほうき)した。そうして、何よりもまず老母や弟妹の生活を確立するために、兜町通いをしたり、図書出版に従事したりしている。わたしはまさに歌を忘れたかなりやである”。

 <西條八十著「鳥のうた」によると>
  大正十三年五月廿五日発行、『西條八十童謡全集』(新潮社)の解説に自身で「かなりや」を書いた当時の心持について書いている。
  “一般に動物愛護の歌と解されてゐるこの謠のかげには、過去の或る時期に於ける私の苦悶の姿が宿されてゐる。「歌を忘れた金絲雀」とは當時、吾と自ら詩を離れて商賣の群に入り埃(ちり)ふかき巷に錙銖の利を爭ってゐた私自身の淺ましい姿であり、又この愚鈍なる小禽を或は鞭たうとし、或はやさしく押し止める母子の對話は、とりもなほさず私自身の心内に聽かれた自悶自責の聲である。私は今でも巷を歩いて愛らしき子供等の脣からこの謠を聞く時、寂しかりし當時の生活を追想して涙なきを得ない。なほ「たそがれ」も其頃のおなじ心持から生れたのである”。

 <『信濃毎日新聞』には>
 同じ事を西條八十は『信濃毎日新聞』1967年8月17日夕刊「山ろく清談」に次のように書いている。新聞なので上記の同じ事が、一般の人にもわかりやすく書いてある。
  “ぼくは、大金持ちの家に生まれたが、十四のとき、父が死んだ。兄は道楽で財産をつかい果たして廃嫡になる。母と妹、弟を背負って世の中に出たんだ。「カネをもうけてから詩を書こう」と思い、カブト町でてんぷら屋や本屋をした。そのときの心境をうたったのが「歌を忘れたカナリヤ」なんだよ。「静かな海に浮かべれば、忘れた歌を思い出す」という声が心のなかからほとばしり出たんだ。これは、日本の童謠としては、はじめて曲がつけられ帝劇で発表された。あのときはぼくも、夢みるような心地だったよ”。
 注目したいのは“「静かな海に浮かべれば、忘れた歌を思い出す」という声が心のなかからほとばしり出たんだ”。そして“帝劇で発表された” と書いている部分です。

 【その頃の西條八十は】
 この頃の西條八十は、家族を神田の家に残し、上野・不忍池畔にあった上野倶楽部というアパートの一室を仕事場にしていました。時折、晴子夫人が生後間もない嫩子を連れて、訪ねて来ていました。貧しい生活の中、文学への情熱を失いかけた自分を「かなりあ」に見立てて書いた詩は評判になり、それ以降『赤い鳥』に沢山の童謡を発表しました。
  ・明治四十五年、大久保百人町に兄が建てた宏大な邸宅に住んでいた。
  ・大正三年、兄が失踪。家財は皆無となり、四谷信濃町に母と二人だけで小さな借家住いをしていた。西條家の生活を一手に背負い、兜町に通いながら学生生活をつづける。
  ・大正四年(二十三歳)早稲田大学英文科卒業。
  ・大正五年(二十四歳)六月一日、小川晴子(はる)と結婚後は、芝佐久間町で二階借りの生活に入り、英書専門の書肆建文館に投資して月二十五円の手当をもらっていた。
  ・大正六年(二十五歳)新橋駅前で「天三」という天ぷら屋を開いたがすぐ止めた。一方、兜町に通い、日活株であてて三千円の資金が三十万円になり、かねてより出資して役員になっていた神田神保町の出版社建文館の二階に移り住む。
  ・大正七年(二十六歳)五月三日、長女嫩子誕生。上野不忍池畔のアパート上野倶楽部を仕事場にする。鈴木三重吉が訪ねて来たのはこの頃のこと。
 鈴木三重吉のすすめで『赤い鳥』(赤い鳥社)大正七年九月号に「忘れた薔薇」、十一月号に「かなりあ」を発表した
  ●『赤い鳥』大正七年十月号に「薔薇」を発表となっている出版物は間違い。
 『赤い鳥』(赤い鳥社)大正七年九月号(第一巻第三号)に「忘れた薔薇」を発表が正しい。

               ⇒『赤い鳥』(赤い鳥社)大正七年九月号表紙 「月の出」絵・清水良雄


 
                            ▲「忘れた薔薇」挿絵・清水良雄

          ▲昭和43年(1968年)1月16日 朝日新聞(東京版) 「東京のうた」(11) かなりや

 記者の取材に対し西條八十(新聞では西条の表記)は、「流行歌の話はあまりしたくないんだが」「唄をわすれたかなりやは、私自身だったんです」と言っている。
 鈴木三重吉が訪ねて来た時のようす、幼時の回想から詩が生まれた事、成田爲三の曲により全国の子どもたちの心をつかんだ事が、わかりやすく書かれている。この内容が定着している。
 朝日新聞らしい記者の意見がある。
  “唱歌を修身教育の道具と考えていた人たちからは、退廃的、軟弱、卑俗と非難を浴びせられたが、かなりやを先駆として次々に発表される芸術の香りゆたかな新作童謡は、マンネリ化した学校唱歌を校外で完全に圧倒した”。
 毎春、上野不忍池のほとりの「かなりやの碑」の前でかなりや祭が開かれる。これに対して八十は次のように言っている。
  「お祭はありがたいが、毎年引っぱりだされるのがたいぎでしてね。としですな。そうそう、上野倶楽部で隣室にいた学生さんが、共産党の野坂参三さんだったんだそうですよ」。
  (註)八十は上野不忍池畔の上野倶楽部というアパートを仕事場にしていた。気軽に挨拶を交わしたであろう隣人が共産党の野坂だったと聞かされ、非常に驚いたに違いない。この二人は思想が全く異なる。

 【初出は「かなりあ」】 (Ⅰ)
 西條八十は、主幹・鈴木三重吉の期待に応えて『赤い鳥』(赤い鳥社)大正七年十一月号(第一巻第五号)に「かなりあ」(創作童謡)を発表しました。
 
  ●『サライ』(小学館)1997年8月7日発行。とじ込み附録「残したい童謡・唱歌」には、“『赤い鳥』大正七年五月号初出”と書いてある。これは間違い。
 大正七年五月号は存在しない。成田為三の曲が付いて『赤い鳥』に発表されたのは大正八年五月号。
  
                          ▲「かなりあ」挿絵・清水良雄

               ⇒ 『赤い鳥』(赤い鳥社)大正七年十一月号表紙  絵「ふたり」清水良雄 一冊十八銭

 <初出の歌詞について>
 初出のタイトルは平仮名で「かなりあ」。歌を忘れた「かなりあ」は、どうすればいいかという問答です。

 歌詞は次のようになっていることがわかります。
 第一連は二行「棄(す)てましよか。」「いえ、いえ、それはなりませぬ。」
 第二連は二行「埋(う)めましよか。」「それもなりませぬ。
 第三連は二行「ぶちましよか。」「それはかはいさう。」
 第四連は四行「象牙の船に、銀の櫂、」「おもひだす。」
 四連まで「金絲」という漢字が四回出て来る。ルビは(かなりあ)。
 母と子の会話であることを示す「―(ダッシュ)」が付いている。句読点がある。
 この構成は主幹の鈴木三重吉がした。

 第二連の「背戸」は、家の裏側にある入口。裏口、裏門。


  【西條八十の詩の解説】
 西條八十は、難解で誤解されやすい「かなりや」の詩について、子どもたちにわかるように次のような解説を『日本童謡全集』(日本蓄音器商会)昭和12年発行に書いている。
         




 注目したいのは、「棄てちやいませうか」
 「埋めちやいませうか」
 「むちでぶつてやりませうか」の部分です。
  これは、初出の詩と同じです。
 「ほんたうになやんでゐる者に
 同情してやりませう」と結んでいる。

 【成田為三が作曲】 (Ⅱ)
 作曲者の成田為三は、大正六年三月、東京音楽学校甲種師範科を卒業。翌々年、山田耕筰の推薦で、雑誌『赤い鳥』で募集した童謡の作曲譜の選者となり、自身も「かなりや」を作曲発表し、一躍有名になりました。以後、『赤い鳥』の専属作曲家となりました。
 他に「赤い鳥小鳥」 「りすりす小栗鼠」(作詞 北原白秋)や、「浜辺の歌」(作詞 林古渓)の作曲で知られています。

  【成田為三の略歴】参照

 <「赤い鳥」童謡第一号の曲といわれる理由>
  『赤い鳥』は大正七年七月に創刊され、西條八十は大正七年十一月号に「かなりあ」を書いた。
 初め鈴木三重吉は童謡に曲をつけて歌うことまで考えていなかったが、成田為三が作曲し、『赤い鳥』(赤い鳥社) 大正八年五月号(第二巻第五号)に曲名を「かなりや」(「赤い鳥曲譜集」その一)として発表しました。雑誌『赤い鳥』童謡第一号の曲です。
 どの童謡集でも、必ず最初に「かなりや」が掲載されているのは、そのためです。
 (註)北原白秋の(創作童謡)「りすりす小栗鼠」は、雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社) 大正七年七月一日発行、創刊七月号(第一巻第一号)の二ページ~三ページに掲載されました。『赤い鳥』創刊号の巻頭を飾った童謡です。
  成田為三が作曲し、「りすりす小栗鼠」(曲譜)は、『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年九月号(第三巻第三号)で発表しました。「赤い鳥」曲譜集(その五)と書いてあります。
  童謡とは曲が付いている作品と思っている人が多いようですが、曲が付いていなくても童謡といいます。『赤い鳥』(第一巻第一号)掲載例・「木の實」(創作童謡)、「看板の字」(創作童謡)ほか。

 <誤植の楽譜を掲載>
 しかし、発表した楽譜には沢山の誤植がありました。
        
                  ⇒『赤い鳥』(赤い鳥社) 大正八年五月号表紙 絵「靑い雨」清水良雄
 
                       ▼掲載された誤植の楽譜 黒で囲った部分が丸が誤植箇所
<誤植のある詩を掲載>
『赤い鳥』(赤い鳥社) 大正八年五月号掲載の楽譜の左側に掲載された詩も誤植でした。
▼楽譜と一緒に掲載された誤植のある詩
 <誤植のある詩の説明>

  ・楽譜にそろえて、
   タイトルを「かなりや」に変更しました。
   かなりや(「赤い鳥」曲譜その一)と
   書いてあります。
 
  ・第四連まで四回出て来る「金絲」には
   (かなりや)というルビがついている。

  ・第二、三連が「いえ、いえ、それはなりませぬ。」
   と誤植になっていました。
  第一連の「いえ、いえ、それはなりませぬ。」に、
  編集者が、そろえてしまったためです。
   発行後、編集者は慌てた事でしょう。

 大正八年『赤い鳥』(赤い鳥社)六月号に
 詩の訂正が掲載された。
 これは異例の事でした。

 「かなりや」(五月号正誤)の詩
 訂正部分にマル印が付いている。
 この詩が最も重要


▲『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年六月号
絵「しゃぼん玉」清水良雄


 <読者からも指摘>
 大正八年『赤い鳥』七月号の読者の投書欄に、間違いの歌詞に対する指摘が掲載された。
 “「かなりや」の作曲の歌詞と曲譜の下附けの歌とは違つてゐますが、どちらが正しいのですか。尚投書の注意中「大人の方の投書と間違へられて損をします」は、たゞ「間違へられます。」として戴けませんか。(下谷TM生)”
 “歌詞の方が誤りです。前號で正誤しておきました。投書の注意は貴説に従ひ早速前月號から改めました。お禮を申し上げます。記者”
  (註)記者とは鈴木三重吉。鈴木三重吉は、歌詞については、すぐに間違いに気が付いたが、楽譜の間違いには全く気が付かなかった。楽譜の知識がなかったようだ。

  <誤植の楽譜について>  楽譜については次のように考えます。
  (Ⅰ)初出のハ長調(C Dur)の伴奏譜を見ると、八分の三拍子以降の楽譜では、八分音符とすべき箇所(左手で弾く部分)が三ヶ所四分音符になっていて、明らかに印刷時の誤植です。変ロ長調に移調した際、八分音符に正した。
  (Ⅱ)ハ長調の楽譜では、八分の三拍子以降の楽譜の「ウータヲ」の「ヲ」の音も、(G)音は誤植で(A)音が正しい。伴奏右手も(G)音になっていて誤植。
  (Ⅲ)最後の「ワスレタ」の「タ」の音も、(G)音は誤植で(A)音が正しい。伴奏譜右手は(A)音で正しい。
 変ロ長調に移調した際、(Ⅱ)(Ⅲ)も(G)音に正した。歌うのは、変ロ長調の楽譜です
 しかし、この楽譜も一ヵ所誤植がある。八分の三拍子の後の「うーたをわすれたかなりやは」の「り」の右手伴奏部分が「B」になっていて間違い。「C」が正しい。これは、小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社)昭和五年一月十五日発行の「かなりや」で「C」音に正してある。


 今までの研究者は誤植の指摘をしていない。見れば誤植だとわかるからだろう。当然だが、この楽譜で歌ってはいけない。
  ●悪い事に、『原典による近代唱歌集成 原典印影Ⅲ』(ビクターエンタテインメント,2000年4月発行)は、この誤植のある詩を、単純に「曲の隣に掲載されているから」という理由だけで「かなりや」の詩として紹介してしまいました。
 編集者が勉強不足で『赤い鳥』(赤い鳥社) 大正八年六月号の訂正を見ていないからです。このページには訂正の詩を掲載して説明することが必要でした。事典なので困ったものです。全集は図書館向けですが、発売当時は人気で、研究者はこぞって購入しました。
 ちなみに『原典による』というタイトルにもかかわらず、「箱根八里」は、初出の歌詞と違う明治三十六年十月発行(第七刷)改訂が掲載されています。似た歌詞ですが、今歌われている歌詞と一部違います。今歌われているのは、明治三十四年に発行された『中学唱歌』に発表された歌詞です。初出を掲載すべきでした。

 <「かなりあ」から「かなりや」に変更>
 曲名は成田為三が平仮名で「かなりや」に変更しました。楽譜には四番まで、「カナリヤ」と歌うように書いてある。 一番は「イエイエソレハナリマセヌ」 二番は「セードノコヤブニウメマショカ」「イエイエソレモナリマセヌ」 三連は「イエイエソレハカハイサゥー」

 【曲について】
  成田為三が作曲した楽譜を詳しく見ましょう。
 初出の曲はハ長調(C Dur)、四分の二拍子で、二小節の前奏に続いて静かに歌い出します。♩=80の速さで、少しゆるやかに歌います。前半の一番から三番までは、同じメロディーです。前半はタッカタタのリズムが中心になっている。 三番の最後の小節は、八分の三拍子に変わり二小節の間奏となります。それに続く後半の四番は、詩の形式が異なる事を考慮して、拍子とメロディーを変えて作曲をしています。明るく変化するワルツの部分は、やや急ぎ気味にテンポを引き締めて歌います。♪=120の速さ。この変化には、唱歌にはない新しさがあります。後半のリズムは♬♪♪の形が中心になっている。 それまでに聞いた事のないような不思議な魅力のメロディーは、人々の心をとらえました。リタルダンド(rit.)やクレシェンド、フェルマータ、そしてアテンポ(a tempo)が巧みに使われていて、幻想的な世界に引き込まれます。せつない詩にぴったりの美しい曲です。当時としては、かなり高度な手法で作曲されています。成田為三らしい真面目な作品です。子ども向けの童謡として作られましたが、今では大人に愛唱されています。
 「かなりや」が、大正八年六月二十二日、「赤い鳥」音楽会で初演された時、聴衆の一人だった<久米正雄の感想>の中に、“たゞ童謡として、全体が覚えるのに、むつかし過ぎると思ひます。”とある。

 【誤植詩の訂正を掲載】 (Ⅲ)
 大正八年『赤い鳥』(赤い鳥社)六月号(第二巻第六号)に詩の訂正が掲載された。これは異例の事でした。編集者(主幹の鈴木三重吉)の慌てぶりが伝わって来ます。一般的には他の童謡集や唱歌集の誤植は、そのままにされています。タイトルは五月号と同じ平仮名で「かなりや」。 「金絲」は訂正されていない。
 しかし、楽譜の誤植の訂正は掲載しなかった。楽譜の誤植は、大正八年十月十八日、赤い鳥社から「赤い鳥」童謠 第壹集が刊行された時に成田為三自身が正している。 


  【初演について】
 初演については既に与田凖一も藤田圭雄も調査をしている。この音楽会を不思議に思わない研究者はいない。私(池田小百合)も調査をしてみた。

  (1) 『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年六月号の通信欄に、“「赤い鳥」は来月創刊一周年の記念に、公開的音楽会を催します。すべてのことは、七月号で詳しく発表いたします。当日は番外として、作曲された「赤い鳥」の童謡数種の合唱を加える予定です。入場の人数に制限がありますので、御希望の方は、次号の広告を御覧次第、至急指定の発売所で切符をお求めにならないと直ぐに売り切れになりますから、前以て計画だけ申し上げて置きます。「赤い鳥」はこれを機として今後毎年少なくとも春秋二季に盛大な音楽会を催すつもりでおります。(記者)”と書いてある。
 注目しておきたいのは、入場券は“指定の発売所”で売っていた事。そして“今後毎年少なくとも春秋二季に盛大な音楽会を催すつもりでおります”と書いてある所です。
  (2) 『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年七月号の緊急社告には、“かねて予告して置きました通り、六月十四日午後七時、神田の青年会館で開催いたします。何卒、盛に御来会下さいまし。詳細は巻頭の広告に出ております。”と書いてある。
 大正八年『赤い鳥』(赤い鳥社)七月号の巻頭には「赤い鳥一周年記念音楽会」の広告が掲載されている。



▲『赤い鳥』(赤い鳥社)
 大正八年七月号
 絵「水汲み」
 清水良雄

   ▲巻頭に掲載された 「赤い鳥一周年記念音楽会」の広告。
  期日:六月十四日(土)午後七時会場
  会場:神田美土代町 青年会館
  会費:壱円・弐円・参円
  ●この広告は期日も会場も会費も間違いだった。
  ●さらに内容も違っている。広告では成田為三の作品が沢山披露されることになっている。
  (第一部)番外合唱 (a)「かなりや」童謡 西條八十、(b)「あわて床屋」童謡 北原白秋、作曲者名が成田為三になっていて間違い。石川養拙が正しい。
  Ⅱ(a)「ひばり」詩 三木露風、(b)「木の洞」詩 三木露風、
  (第二部)番外合唱(a)「夏の鶯」童謡 三木露風、(b)「雨」童謡 北原白秋、
  Ⅵ(a)「望郷の歌」(b)「戦後」詩 三木露風。

  (3) 「赤い鳥」音楽会開催
  「赤い鳥」一周年記念 山田耕作氏歓迎 出征日本軍隊慰問
  期日:大正八年(1919年)六月二十二日(日)午后一時から
  会場:帝国劇場
  入場料:拾円、五円、弐円五拾銭、壱円、五拾銭
 「かなりや」は、「赤い鳥」音楽会で初演された。プログラムの曲名も、「かなりや」となっている。

▲「赤い鳥」音楽会曲目(プログラム)
 
  演奏曲目は、合唱(挨拶の代わりに)少女諸名により、(い)かなりや(西條八十)成田為三、(ろ)あわて床屋(北原白秋)石川養拙、(は)夏の鶯(三木露風)成田為三の三曲が披露された。伴奏は佐藤節子。成田為三作曲の「雨」(北原白秋)は歌われていない。
 成田為三が作曲した「木の洞」(三木露風)と「ひばり」(三木露風)は、外山國彦の独唱で披露された。伴奏は佐藤節子。

  (4) 『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年八月号の通信欄には(記者)が書いた「赤い鳥」音楽会の報告が掲載された。“豫定の通り、六月二十二日午後一時から帝國劇場で開きました”と書いてある。しかし、大正八年『赤い鳥』(赤い鳥社)七月号の巻頭に掲載された「赤い鳥一周年記念音楽会」の広告と、期日も会場も違い、“豫定の通り”ではない。入場料もプログラムも違う。

  (5) 不思議なのは、『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年八月号の通信欄に「訂正・お詫び」の記事はいっさい掲載されていないことです。
 最も不思議なのは、『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年七月号の巻頭に掲載された「赤い鳥一周年記念音楽会」の広告を見たであろう千七百人以上の来客は、どのようにして「赤い鳥」音楽会の開催日時・場所・入場料・プログラムの変更を知ったのだろう。 『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年六月号の通信欄に、入場券は“指定の発売所”で売ると書いてある。ここに「変更のお知らせ」のポスターを張り出したり、ここでチラシを配ったりしたのだろうか。ポスターやチラシの記録はない。 ともかく、『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年八月号の通信欄に(記者)は次のように盛会だった事を書いている。
  “当日は雨模様であつたにも拘はらず千七百余の総座席は殆満員の盛況で、読者席と二等以下の各等は多くのお方を空しくお帰しゝたやうな次第でした。日本の演奏会がこれ程多数の聞き手を集めたことはこれまで嘗て一度もないといふことです”。

  (6) 『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年六月号の通信欄に“今後毎年少なくとも春秋二季に盛大な音楽会を催すつもり”と(記者)が意気込みを書いた「赤い鳥」音楽会は、これ一回で終わっている。

 (7) 2013年6月、以下の新聞の情報を東京都府中市の方からいただきました。そのおかげでかなり経緯が判明しました。

 <新聞広告で音楽会を宣伝した>
 音楽会の開催は、新聞広告で宣伝した。二十二日の開催までに「読売新聞」、「東京朝日新聞」、「東京日日新聞」で繰り返し宣伝している。
  ・大正8年6月5日「読売新聞」
 見出しは「山田耕作氏歓迎大音楽会」 “22日、帝劇にて「赤い鳥」主催「山田耕作氏歓迎管弦楽大演奏会」開催決定”の記事あり。
  ・大正8年6月17日「東京朝日新聞」
  “赤い鳥音楽会開催、少女20名合唱”の記事あり。
  ・大正8年6月18日「読売新聞」と「東京日日新聞」
 雑誌「赤い鳥」7月号と、「22日の音楽会」の広告。
  “切符発売は帝劇、十字屋、共益社、近藤会社のほか、入場料”の記載あり。
  ・大正8年6月20日「東京朝日新聞」
 「赤い鳥」7月号と、「22日の音楽会」の広告。内容は「読売新聞」と同じ。
  ・大正8年6月22日「読売新聞」音楽会の当日
  “「赤い鳥」音楽会開催について(鈴木三重吉)、演奏に際して(山田耕作)”の記事あり。
  ・大正8年6月23日「読売新聞」音楽会の翌日
  「偉大な指揮者!◇山田氏の歓迎音楽会」の記事あり。
  ・大正8年6月23日「東京日日新聞」音楽会の翌日
 「山田氏の演奏 昨日帝劇にて」の記事あり。 

 これまで新聞を調査した報告はありませんでした。
 早速、厚木市立中央図書館に調査に行きました。残念な事に、大正八年の「読売新聞」「東京朝日新聞」「東京日日新聞」は所蔵していませんでしたが、フイルムで大正八年六月二十日「東京朝日新聞」の広告を見る事ができました(2013年6月14日)。

                           ▼大正8年6月20日「東京朝日新聞」

  <広告の詳細>
  「赤い鳥」一周年記念 山田耕作氏歓迎 出征日本軍隊慰問 
  賛同 金子子爵、岩崎男爵、米國大使、帝國劇場
  「赤い鳥」音樂會 山田耕作 指揮 大管絃樂  演奏曲十種 樂手八十名
  六月弐拾弐日 午後壹時開演 入場料、拾圓、五圓、弐圓半、壹圓、五拾錢
  米國樂壇の第一位に立てる世界的音樂家の短き滞在中只一回の演奏會―悉(ことごと)く日本初演の曲目
  賛助演奏 ハンカ・ペツオルド、佐藤謙三、佐藤節子、外山國彦、榊原直
  切符發賣 帝劇、十字屋、共益社○事務所、日本橋本材木町二ノ二、保々近藤會社(電本四四九七、四四九八)内

   「赤い鳥」(赤い鳥社)   七月號の宣伝が左側に掲載されている。

  (註)新聞の広告は、一般の人にも、よくわかるように書いてある。新聞で宣伝したので、当然、新聞を読んだ大人が音楽会に足を運んだ。
  この事は、大正八年『赤い鳥』八月号の女の子の以下の投書からもわかる。
  「・・・たゞ、私たちのやうな子供の方が少なくつて寂しうございました。」(神田區美土代町、金子咲子)

 【『赤い鳥音楽会』での「かなりや」の評判】
 「かなりや」は、大正八年六月二十二日、帝国劇場で「赤い鳥」音楽会に「あわて床屋」「夏の鶯」と一緒に佐藤節子夫人の伴奏で、「少女諸名」によって歌われた。『赤い鳥』大正八年八月号の通信欄に主だった人々の沢山の感想が掲載された。

  <西條八十の感想>
  「かなりや」に就いての感想を申上げれば、あの無邪氣な少女たちが、眼を輝し、懸命になつて、自分の作を歌つてくれたことが、ただもう無條件に嬉しくて、忘れがたい感銘を殘しました。成田氏の作曲に關しては、更にもう少し靜かな調べであれば、と作者として思ひましたが、勿論これは望蜀の感に過ぎません。
  (“更にもう少し静かな調べであれば”と言っているのは、四番の事でしょうか?)

 <久米正雄の感想>
  三つの中では「かなりや」が、一番面白うございました。殊に「象牙の船に」以下の、急調に疊んでゆくところが、大へんいゝ氣持でした。たゞ童謡として、全體が覺えるのに、むつかし過ぎると思ひます。最後に、歌つて下すつた少女諸君の、一生懸命に小さい胸を息張る姿が、歌以上に私には感銘を與へました
  (久米は、四番を高く評価している。童謡として難し過ぎるとも。歌った少女が“一生懸命に小さい胸を息張る姿”と言っているのに注目したい。)

 <井汲清治の感想>
 歩きながら、連れの友達と、「かなりや」を歌つて、子供のやうに笑ひました。實を言へば、小さな人達と一しよに歌つて見たくなつたのでした。 (評判は上々で、子供たちと歌ってみたくなったと言っている。)

 <有島生馬の感想>
 何れも面白く拝聽いたしました。然し、今度から、あゝした唱歌をなさる場合には、人數をもう少しふやしても、是非コオラスで伺ひたいものです。さうすると倍も倍も面白くなります。

  <三木露風の感想>
  少女達の合唱はよくそろつてをりました。あれは練習が、よく出來てゐたからでせう。慾を申しますと、少女の數がもう少し多かつたなら、どんなによかつたらうと思ひます。

  <南部修太郎の感想>
 「いえいえ、それはかはいさう・・・」と、低い調子で來て、急に、高くメロデイアスに「唄を忘れた金絲鳥は、象牙の船に銀の櫂・・・」と變るところ今でも快く耳についてゐます。歌った少女達も、よく練習が出來てゐて、如何にも純につつましく聲を揃へたのは、好い氣持で聞かれました。・・・たゞ慾を申せば人數が少くも、四十人位あつて欲しかつたことゝ、歌ひ方にもう少し子供らしい潑剌さがあればと思はれたことゝです。

  <安倍能成の感想>
 今少し澤山の人數で賑やかに勢よくやつて貰ひたかつたと思ひます。九人の少女が、廣い舞臺に並んで歌つてゐるところは、シヨンボリとして、しほらしいやうな氣を起させました。「かなりや」は結構ですが、謠は少し「きれいづくめ」の感があります。
  (「きれいづくめ」と言っているのは、「象牙の船に、銀の櫂、月夜の海に浮べれば」の部分でしょうか。西條八十のファンタジーの世界です。成田為三の曲も美しい)。 (有島 三木 南部 安倍も、斉唱をした少女の人数の事を書いている。斉唱では、とかくこうなる)。

 <野上彌生子の感想>
 あんな可愛らしい少女達が歌へば、あんな謠でも―謠と調子としつくり合ふまでには可成りの遠い距離があることを感ぜられる歌謠でも―よい心持で聽くことが出来ました。實をいふと、後で歌った外山氏の獨唱よりも面白かつたことは、事實であります。
  (プロの大人の歌手は、可愛らしい子供の歌声には、かなわない。と書いている。今も昔もかわっていない)。

 <柴田勝衛の感想>
 私共大人は世の中へ出て大きな聲を出して歌ふ機會がないものですから、聲帯がすつかり駄目になつて仕舞つてゐます。私はこれを平生から悲しんでゐた折柄、あの綺麗な合唱を聽いて、ひどく感動しました。どうぞ今後これを發達させて、これからは親子で合唱の出來るところまで導いて頂きたいと思ひます。
  (このような感想は、今の高齢者も抱く。私(池田小百合)などは、涙に暮れる事がある。高い評価を受け期待された「赤い鳥」音楽会は、これ一回で終わったが、初演された「かなりや」は、今も『赤い鳥』調童謡の代表作として歌われている)。

  【学校でも、家でも歌う】
 大正八年『赤い鳥』九月号の「少年 少女」投書欄には、鈴木三重吉が喜んだであろう投書が掲載されている。「かなりや」を学校でも歌い、家に帰ってからも妹と一緒に歌っているというものです。 「私共の學校、市ヶ谷の日本女子商業學校では、この間から唱歌の時間に「赤い鳥」に載つた「かなりや」を習つてをりますが、大さう評判が宜しうございます。「唄をわすれたかなりやは・・・」と、私も毎日妹と歌ってをります。(山田春子)

 【西條八十『砂金』を刊行】
 西條八十は、大正八年(一九一九年)五月、第一詩集『砂金』(尚文堂)の中に、四十篇の詩、「遠き唄(童謡九篇)」として、特に扉裏に「灰野庄平氏に献ず」ということばを入れて「鈴の音(『仮面』大正三年三月号発表。のち改題して「王様の馬」)」、「薔薇(『赤い鳥』大正七年九月号では「忘れた薔薇」)」、「かなりや(『赤い鳥』大正七年十一月号では「かなりあ」)」、「海のかなりあ(『赤い鳥』大正八年九月号では「たそがれ」)」「手品(てづま・『赤い鳥』大正八年一月号)」「雪の夜(ゆきのよ・『赤い鳥』大正八年特別号(第二巻第二号)では「紅い鸚鵡」)」「蝶々(『赤い鳥』大正八年三月号)」「蹠(『赤い鳥』大正八年五月号では「あしのうら」)」「小人の地獄(『赤い鳥』大正八年六月号)」、三篇の散文詩を収録した。八年分の作品を集めただけに、いろいろな素材、傾向の詩篇が収められている。
 『砂金』収録ではタイトルを「かなりや」に改題し、「埋けましょか」に変えた


▲『赤い鳥』(赤い鳥社)
大正八年八月号
表紙 絵「王子」
清水良雄

 【もう一篇の詩「たそがれ」】
 西條八十は、「かなりあ」と同時にもう一篇の詩「たそがれ」を作って『赤い鳥』主幹の鈴木三重吉に渡していた。鈴木は、「かなりあ」の方を高く評価し、先に『赤い鳥』大正七年十一月号に発表したが、「赤い鳥」音楽会で歌われた「かなりや」の評判が好かったので、「たそがれ」も捨て難くなり、約一年後の『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年九月号に「たそがれ」を掲載した。つまり、同じイメージの「かなりあ」と「たそがれ」は姉妹品。
▲「たそがれ」挿絵・清水良雄 「金絲雀」という漢字が一回出て来る。ルビの(かなりや)は編集がしたのでしょう

                          ⇒ 『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年九月号表紙 絵「歌」清水良雄


  <「たそがれ」掲載の経緯>
   『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年九月号の「通信」欄には次のような説明がある。
 “本号に掲載した西條八十先生の童謡「たそがれ」は、先生が昨年、房州海岸に御滞在中の作で、嘗ての「かなりや」と同時に御寄稿下すつたものです。このことを念のために記して置きます。(記者)”。
 (記者)は、主幹の鈴木三重吉。
 西條八十は、学生時代から房州海岸が好きでよく遊びに行ったようです。詳しい事は、すでに藤田圭雄が、その著『日本童謡史Ⅰ』(あかね書房)に書いています。

  【「かなりや」童謡レコード第一号】
 「かなりや」は日本蓄音器商会から鷲印「ニツポノホン 3978」(A面)として、「3979」(B面)の「雨」(北原白秋)、「りすりす小りす」(北原白秋)と表裏になって、成田為三伴奏、赤い鳥社少女唱歌會々員の歌で、大正九年(1920年)六月、発売された。定価一円八十銭。蓄音機の普及によって全国で広く歌われるようになった。このレコードは童謡レコード第一号。これまでは唱歌のレコードばかりだった。
  <北島治夫さん所有の「かなりや」のレコード>
  ・ニツポノホン 3978  赤い鳥社少女唱歌會々員
  ・コロムビア C33 安西愛子、川田孝子(海沼實編曲)
  ・ビクター 52636 平井英子
  ・コロムビア S125 飯田ふさ江

  【その後の詩の改作について】
 その後、「かなりあ」の詩は何度も訂正されました。
  ・大正十年一月三十日、赤い鳥社から出版された西條八十の第一童謡集『鸚鵡と時計』赤い鳥社の本 第三冊に収録。題名は「かなりや」。「金絲雀」には(かなりや)とルビをふった。第二連は「小藪に埋けましよか。」四連共「金絲雀は、」と読点を入れた。第四連の「浮べれば」にも読点を追筆している。母と子の会話であることを示す「―(ダッシュ)」を削除したので平凡な形式の詩になりました。


▲『鸚鵡と時計』赤い鳥社の本 
第三冊(赤い鳥社)初版本の表紙
童謡集。
薔薇、かなりや、手品、雪の夜、蝶々、
あしのうら、小人の地獄、鉛筆の心、
夕顔、たそがれ、など全部で五十九篇。
『赤い鳥』発表の三十四篇に、『金の船』
その他に掲載された二十五篇を
併せたもの。すぐ版を重ね、
八月刊行の第三版には十篇が追加された。

 ▲「かなりや」挿絵 加藤まさを
  『鸚鵡と時計』より
     
   ・大正十三年五月廿五日発行、『西條八十童謡全集』(新潮社)に収録では、全ての読点「、」を削除。句点「。」は第一連の一行目と二行目と最後だけにした。一、二行目の句点は奇妙です。第二連は「小藪に埋けましよか」「それはなりませぬ」。「それは」に統一した。四回出てくる「金絲雀」は、この漢字を使っている。
  「かなりや」に続いて「たそがれ」が掲載されている。「薔薇」も収録してある。解説には、「薔薇」は抑も私が雑誌『赤い鳥』へ最初に寄せた童謡である。と書いてある。「薔薇」は雑誌『赤い鳥』大正七年九月号では「忘れた薔薇」となっている。このタイトルは、主幹の鈴木三重吉が改題した可能性が高い。西條八十は「薔薇」というタイトルにこだわっている。

▼『西條八十童謡全集』(新潮社)に収録の「かなりや」

  <西條八十の訂正についての考察>
 西條八十の訂正について次のように考えます。詩「かなりあ」を発表した時、曲を付ける事を予想して書いたわけではありませんでした。曲を聞いてみると、第二連は「埋めましよか」では残酷に響いたので「埋けましょか」と直し、歌った時に覚えやすいよう配慮して第一、二、三連とも「それは」にそろえ、題名も曲譜集と同じ「かなりや」にしたのだと思います。 しかし、『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年六月号の詩(訂正)を改訂しないでほしかったと思います。成田為三が作曲した時点で、「詩」は「歌詞」になったからです。「詩」と「歌詞」は別物としても好いのですが、それでは『七つの子』(野口雨情作詞 本居長世作曲)のように混乱します。今では「埋(う)めましょか」「埋(い)けましょか」、「それもなりませぬ」「それはなりませぬ」の両方で歌われてしまっています。

 その後も西條八十は迷っていた。昭和二年八月二十日発行、小学生全集第四十八巻『日本童謡集』(上級用)西條八十編(興文社・文藝春秋社)に掲載されている「かなりや」は、句読点があり、 第二節は「小藪に埋けましよか」「それもなりませぬ」。「埋める」ではなく、どうしても「埋けましよか」に改作したかったようだ。「それも」は、もとにもどしている。文学的には「それも」の方が優れている。 四回出てくる「金絲雀」は「雀」にこだわっているようだ。
 第一、二、三節は三行で、第四節は四行にした。初出にあった冒頭の(―)はない。『赤い鳥』主幹の鈴木三重吉が手を入れた(編集した)初出の詩の形態より、西條八十は、この方が好いと思ったのだろう。斬新さが無くなり普通の詩になった。
 西條八十編『小学生全集第四十八巻 日本童謡集』上級用(文藝春秋社/興文社)   昭和二年八月発行


▲扉絵  装丁・口絵は初山滋

▲表紙
  
              
▲『日本童謡集』小学生全集48に掲載の「かなりや」 挿絵は清水良雄「ys」のサインがある。
少女の手には「かなりや」が描かれている。
 
  ・その他、編集者(与田凖一や藤田圭雄など)によって「埋めましょか」「埋けましょか」「それも」「それは」句読点、行の形態などは、さまざまです。
 たとえば、与田凖一編『日本童謡集』(岩波書店)昭和三十二年発行では、「埋けましょか」「それは」。読点はあるが句点はない。読点があって句点が無いのはおかしい。第一、二、三連は二行で第四連は四行。初出にあった冒頭の(―)はない。「金絲雀」は「金糸雀(かなりや)」と新字体に改めてある。説明には、―「赤い鳥」大7・11と書いてあり、清水良雄の有名な挿絵が掲載されているので、この詩が初出と間違えられる可能性がある。「まえがき」には(例えば「かなりや」二連一行目“埋けましょか”は、譜面では“うめましょか”になっている)と書いてある。この説明では不十分です。
 たとえば、藤田圭雄 三井嫩子編『日本児童文学大系 第八巻 西條八十集』(ほるぷ)昭和五十三年十一月三十日発行では、「埋けましょか」「それは」。読点はない。第一連の「棄てましよか。」には句点がある。第二、三連の「しよか」には句点がない。これはおかしい。第一、二、三連は二行で第四連は四行。初出にあった冒頭の(―)はない。説明には、成田為三作曲 大正七年一一月『赤い鳥』と書いてある。三井嫩子も編集者なので、もっと正確に残してほしかった。それとも、これが次代に残す「かなりや」のベストの形なのだろうか。「金絲雀」は「金糸雀(かなりや)」と新字体に改めてある。

  <『婦人倶楽部新年號附録』では>
 昭和十一年一月一日発行『婦人倶楽部』は、当時大人気の婦人雑誌だった。正月号の付録に『童謠・唱歌・流行歌全集』があった。この附録を今でも大切に持っている人が多い。
▲「かなりや」絵 川上四郎。左上に鳥かごがある。
歌詞は「埋けましよか」「それはなりませぬ」。句読点はない。

 【「埋めましょ」「埋けましょ」「それも」「それは」の研究】
 「埋めましょ」「埋けましょ」「それも」「それは」の研究は、藤田圭雄が、その著『童謡の散歩道』(日本国際童謡館)で一覧表にして発表している。しかし、この一覧表には『砂金』が欠落している。「かなりや」は、大正十年の『鸚鵡と時計』以前に、大正八年(一九一九年)五月、第一詩集『砂金』(尚文堂)の『砂金』に収録されている。雑誌『赤い鳥』大正八年五月号の成田為三の歌に合わせて『砂金』収録ではタイトルを「かなりや」に改題し、「埋けましょか」に変えた。

▲藤田圭雄の「埋めましょ」「埋けましょ」「それも」「それは」の研究 『砂金』が欠落している。

 【楽譜の改訂について】
 一方楽譜の方は、どのように変化したのでしょうか。

  <「赤い鳥」童謠 第壹集>の出版
 大正八年十月十八日、赤い鳥社から繪入曲譜集「赤い鳥」童謠 第壹集が刊行された。序文:鈴木三重吉、作謠:北原白秋 西條八十、作曲:成田為三、挿絵:清水良雄。収録曲「かなりや」(西條八十)、「雨」(北原白秋)、「栗鼠栗鼠小栗鼠」(北原白秋)、「犬のお芝居」(北原白秋)、「山のあなたを」(北原白秋)。以上五曲。この本は、人気で版を重ね定価も改正され七拾銭、八拾銭と高くなったが売れ続けた。

 以下の<「赤い鳥」童謠 第壹集>の資料は北海道在住の北島治夫さん所有。貴重なものです。コピーを送っていただき、ありがとうございました(2013年1月28日)。

▲表紙 文字は金色

▲「赤い鳥」 童謡 第壹集  目次


▲「赤い鳥」 童謡 第壹集  奥付

▲歌詞 『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年六月号と同じ。
「-(ダッシュ)」が削除されている。

                    


  <移調して低くした>
  『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年五月号に掲載された「かなりや」(「赤い鳥曲譜集」その一)の楽譜は、ハ長調(C Dur)でしたが、成田為三作曲「赤い鳥」童謠 第壹集(赤い鳥社)では、一音下げて変ロ長調(B Dur)になっています。数字による速度の示し方 ♩=80そして♪=120は同じ。 移調して低くしたのは、ハ長調では「ウカベレバー」の「ー」の部分、長く延ばすフェルマータの付いた(F)音が高すぎるためです。変ロ長調では(Es)音になる。
 「かなりや」は、大正八年六月二十二日、帝国劇場で開催された「赤い鳥」音楽会で「少女諸君」によって歌われた。『赤い鳥』大正八年八月号の通信欄に注目すべき<久米正雄の感想>がある。
  “歌つて下すつた少女諸君の、一生懸命に小さい胸を息張る姿が、歌以上に私には感銘を與へました”というものです。(F)音を長く延ばすには息張らないといけない。

  <誤植の楽譜について>
 楽譜については次のように考えます。
  (Ⅰ)初出のハ長調(C Dur)の伴奏譜を見ると、八分の三拍子以降の楽譜では、八分音符とすべき箇所(左手で弾く部分)が三ヶ所四分音符になっていて、明らかに印刷時の誤植です。変ロ長調に移調した際、八分音符に正した。
  (Ⅱ)ハ長調の楽譜では、八分の三拍子以降の楽譜の「ウータヲ」の「ヲ」の音も、(G)音は誤植で(A)音が正しい。伴奏右手も(G)音になっていて誤植。
  (Ⅲ)最後の「ワスレタ」の「タ」の音も、(G)音は誤植で(A)音が正しい。伴奏譜右手は(A)音で正しい。
 変ロ長調に移調した際、(Ⅱ)(Ⅲ)も(G)音に正した。歌うのは、変ロ長調の楽譜です

 【成田為三が歌詞を変更しなかった理由】
 成田為三は、雑誌『赤い鳥』で最初に発表された「かなりあ」の詩を十分理解検討した上で曲を付けたと考えられます。
 最初の詩では「棄(すゥ)てましょか」「埋(うゥ)めましょか」「ぶ(ゥ)ちましょか」と、文頭がウの母音でそろっていて歌いやすい。したがって、西條八十が詩の一部を訂正しても、成田為三は作曲した時点の歌詞を変更する事はしませんでした。これが歌詞を変更しなかった最大の理由です。生前に出版された、昭和四十年十一月五日、玉川大学出版部発行の『成田為三名曲集』の楽譜も、成田為三作曲『赤い鳥童謠』第一集と同じ「埋めましょか」「それも」です。
 児童文学者藤田圭雄は、その著『東京童謡散歩』(東京新聞出版局)、『童謡の散歩道』(日本国際童謡館)の中で、繰り返し「詩人西條八十が、せっかく細かく気を配って訂正しているのですから、なるべくその形で歌ってほしいものです」「「埋める」でも「埋ける」でも、「それは」でも「それも」でも、どちらでもいいようなものですが、やはり作者の苦心の訂正は尊重したいものです」と書いています。これは、第二連の「埋めましよか」「それも」が、のちに「埋けましよか」「それは」に改作された事を言っている。
  しかし、作曲者は最初の詩に曲を付けたのです。歌の場合は作曲された形をオリジナルとするのが慣例となっている。歌詞を変えるとリズムやメロディーを変えなければならなくなる場合がある。作曲者は特別な場合以外、歌詞を変える事は無い。従って成田為三が楽譜に書いた歌詞で歌うのがよいと思います。
  (註)『朝だ元気で』の場合、昭和十七年初出の「そら起(た)て」の歌詞を、戦後「おきよ」に改訂した。これは特別な場合だ。すると、「タタンタ」のリズムに変えなければ歌えなくなった。しかし、理由がわからない人々は、とまどった。特に、指導する先生は説明に困った。

  <成田為三の言葉>
 小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社)昭和五年一月十五日発行には、変ロ長調に移調した理由と、改作について書いてあります。ただし、この改作と言っているのは伴奏譜についてで、歌詞の改作の事は全く問題にしていない。
  “「赤い鳥」に童謡が出た最初の曲は、これである。その時はハ長調にしたが高すぎはしないかと思うて、その後変ロ長調に移調した。
 机の上で、しかも急いで作ったので今にして思えば、伴奏の音の数をもっと多くすればよかったとも思うが、作曲当時の気分と事情とを、そのまま残して置きたいので、改作する気持にはなれない”。
 リズムやメロディーは改作していないが、速度標語を変更し、ブレスや強弱記号を書き加えてととのえている。

▲「かなりや」の変ロ長調の楽譜 小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻
 日本童謡曲集』(春秋社)昭和五年一月十五日発行より
  
  ・初出の「♩=80」は「Andante」にした。
  ・一番の歌い出しは「メゾピアノ」にした。
  ・ブレスを書き込んだ。
  ・初出の「♪=120」は「Allegretto」にした。
  ・四番の歌い出しは「メゾフォルテ」にした。
  ・「うかべればー」は、「ブレス」「クレシェンド」「フォルテ」「rit.」そして「フェルマータ」。
  ・最後は「メゾピアノ」「a tempo」「ブレス」「rit.」で終わる。

  ●『日本歌曲全集7弘田龍太郎・杉山長谷夫・成田為三・藤井清水作品集』(音楽之友社)1991年6月30日発行の楽譜「Andante(♩=120)」は間違い。「Andante(♩=80)」が正しい。さらに「Allegretto(♩=120)」も間違い。「Allegretto(♪=120)」が正しい。
  ●「Allegretto(♩=120)」の間違いは、沢山の出版物にみられる。
  ●与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)の楽譜は使い物にならない。 最初は「Moderato メゾフォルテ」になっていて間違い。「Andante メゾピアノ」が正しい。必要のない部分に「クレシェンド」「dim.」「デクレシェンド」がある。四番の「うかべればー」は、「ブレス」「クレシェンド」「rit.」「フォルテ」そして「フェルマータ」になっていて間違い。「ブレス」「クレシェンド」「フォルテ」「rit.」そして「フェルマータ」が正しい。最後は「メゾフォルテ」「a tempo」「ブレス」「デクレシェンド」になっていて間違い。「メゾピアノ」「a tempo」「ブレス」「rit.」で終わるのが正しい。

  【西條八十が『赤い鳥』を去った本当の理由は何か】
  ・大正十年(1921年)、西條八十は早稲田大学英文科講師に就任した。フランス文学の講座を受け持った。第一第二高等学院教授も兼任。 一月、童謡集『鸚鵡と時計』(赤い鳥社)刊行。北原白秋との間に論争が起った。『赤い鳥』八月号の「人形の足」を最後に『赤い鳥』から去る。 十月、童話集『不思議な窓』(尚文堂書店)出版。またこの月、西川勉との共著で『日本童謡選集』(稲門堂)も出ている。
  ・大正十一年(1922年)二月十三日、姉・兼子死去。三月、安藤更生、島田謹二らと『白孔雀』を創刊。
 四月から、『童話』の童謡欄をひきうけた。その最初の作品は四月号の「お月さん」。『童話』の西條八十は、編集部の一員となり終刊号(1926年七月号)まで、途中パリ留学に伴うブランクがあったが、ほぼ毎号童謡を発表した。『童話』に発表した約五十篇の童謡の他に多くの外国童謡を紹介し、同時にその投稿欄を受け持ち、金子みすゞ、島田忠夫、佐藤よしみら多くの新人を養成している。この間、他誌への発表も多く、1924年と1926年にその数が急増している。

 <北原白秋との間に論争>
 まず、西條八十は、最初から『赤い鳥』の童謡に対する考えが、特に北原白秋とは違っていた。『赤い鳥』の思い出「三重吉さんの来訪」西條八十(解説「赤い鳥」複刻版別冊2、昭和四十四年二月十五日発行、日本近代文学館)でも書いているが、“・・・その日彼(鈴木三重吉)が示した既刊の『赤い鳥』誌上の白秋その他の歌に、ぼくは特に芸術的な匂いを感じなかった。”と言っている。
 北原白秋は、わらべ唄を童謡創作の根底にすえる事を主張していた。たとえば創刊号の「りすりす小栗鼠」。北海道帯広地方の子守唄をもとに書いた「赤い鳥小鳥」(1918年十月号)。子どもの生活感情を大切にする姿勢から生まれた「雨」(1918年九月号)。これらを見るとわかるように、西條八十の作風とは反したものだった。
 一方、西條八十は童謡を、「お伽唄(子どもを楽しませ、教化しようとする歌)」、「追憶詩(詩人が自分の過去を想起して書く歌)」、「象徴詩(作者自身の感動を象徴化し、単純化した歌)」たとえば「かなりや」。このように三つに分類している。
 北原白秋は、大正八年六月号の『赤い鳥』(赤い鳥社)に「金魚」を発表した。帰りの遅い母ちやんを待つ子どもが、金魚を次々と絞め殺すのを、童謡としては不適当な表現ではないかと西條八十が批判し白秋と対立した。白秋としては、残酷な「かなりや」ほかを書いている西條八十に批判されたくなかった。
 白秋は『赤い鳥』の童謡欄を担当し、沢山の童謡を作っただけでなく、イギリスの童謡『まざあ・ぐうす』も翻訳して紹介した。大正十年十二月、百三十二篇を訳し、弟の鐵雄が立ち上げた出版社、アルスから『まざあ・ぐうす』を出版した。白秋は、死が日常の連続のように無邪気に語られている『まざあ・ぐうす』を勉強することによって、その影響を受けて「金魚」を作った。白秋は、童謡を作るにあたって、ただ美しいとか上品というだけでなく、子どもの心を直接打つものを作ろうと心がけていた。当然、西條八十の残酷とは違うと主張した。

                  ▲大正八年六月号『赤い鳥』(赤い鳥社)に掲載の「金魚」 挿絵 清水良雄

 <言葉の意外性>
  「金魚」について、川本三郎著『白秋望景』(新書館)には次のように書いてあります。

  “童謡「サッちゃん」の作詞者、阪田寛夫は小文「なぜ」(『白秋全集』第二十巻月報、1986年)で西條八十が「残酷」と批判したこの詩になぜか惹かれると書いている。白秋を「神経過敏な虚弱早熟児の体質を抱えて人となった」とも評している。
 確かに、金魚を殺す子供(ちなみに私は「女の子」と書いたが、これは、清水良雄の挿画が女の子になっているのであって、男の子とも考えられる)は「神経過敏な虚弱早熟体質」を持っていよう。白秋は、官製の唱歌が望む良い子とは違ったどこか病的な子供を描き出す”。

 挿画から受ける印象は大きく、金魚を殺す子供は誰もが女の子と思ってしまうが、男の子かもしれない。
  さらに、“この歌は・・・言葉の意外性がある。「紅い金魚と遊びませう」が次の瞬間には「金魚を一匹突き殺す」に変転する。白秋は大正十年(1921年)に翻訳童謠集『まざあ・ぐうす』を出版するが、「金魚」には「マザー・グース」の世界に通じる奇想天外さも感じられる。いずれにせよ白秋の童謡は「童心」や「無垢」だけで論ずることの出来ない深さを持っている”。

 <『赤い鳥』を去った本当の理由>
 三重吉から誘われて、詩を書くようになった西條八十だったが、『赤い鳥』の童謡に対する考え方の相違は次第に不満となった。「三重吉さんの来訪」には、『赤い鳥』を離れた理由が書いてある。
  “一度三重吉は日本橋へんの大きな料理屋へぼくを招待した。たしかその名は「春日」だったと記憶している。日本酒におつな料理がいろいろ並べられたが、ぼくは当時まだまったくの書生っぽで酒など一滴も飲まなかったから、三重吉は至極つまらなそうで、二度とぼくを酒席に招待しなかった。因みに、ぼくの童謡の稿料は一篇につき金三円でこの額はぼくが『赤い鳥』に書いている間最後まで変らなかった。
  ぼくが『赤い鳥』の執筆をやめたのは年少気鋭の競争心からだった。白秋の童謡がいつも巻頭にのせられておまけに応募童謡の選稿は、白秋ひとりが受け持ち、いつまで待ってもぼくに番が廻らないからであった。
  当時『赤い鳥』の売れゆきがよくなるにつれ、いろいろ同種の雑誌が生まれて来た。のちに『金の星』と改題した『金の船』や『童話』その他がそれである。『金の星』の発行者の斎藤佑次郎君(現在)は、早大出身でぼくに『赤い鳥』から移って来いとすすめてくれたが、ぼくは三重吉に遠慮して、茨城の故郷に隠棲していた野口雨情を推薦した。雨情は上京して約一週間ぼくの家に食客となり、それから金の星社に入った。その後しばらくして『童話』という雑誌が創刊された。編集者は現在童話作家で知られている千葉省三君だった。それからまたも迎えが来、ぼくを希望通りに優待するというので、とうとう『赤い鳥』から離れてしまった”。(p.5抜粋)
 注目したいのは“茨城の故郷に隠棲していた野口雨情を推薦した。雨情は上京して約一週間ぼくの家に食客となり、それから金の星社に入った。”の所です。後日、野口雨情が活躍する金の星社に推薦したのは、西條八十でした。
 (註)原文の“斎藤祐次郎君(現在)”は間違い。正しくは齋藤佐次郎。原文には(現在)と書いてある。『赤い鳥』『金の星』『金の船』『童話』の記述は原文のまま。

  【『童話』終刊後の西條八十は】
 『童話』終刊後の西條八十は、『少女倶楽部』『幼年倶楽部』『少年倶楽部』『コドモノクニ』『コドモアサヒ』『コドモ』『良友』などの諸雑誌に童謡を掲載。しかし、芸術性の高い童謡の創作は1930年代で終わり、日中戦争の始まった1937年からは戦意昂揚・国威発揚をねらいとする戦争讃美や、歴史上の偉人伝などの歌を数多く書いた。終戦後は、発表された童謡の数は少ない。

  【「かなりや」のレコードについて】
  ・CD『懐かしの童謡歌手たち』(日本コロムビア)の伴久美子は、第二連を雑誌『赤い鳥』作曲当時の歌詞「埋めましよか」「それも」と歌っています。「かなりや」は、レコード童謡時代、多くのスター歌手によって歌われました。『「かなりや」を歌う事がスター歌手としてのあかし』と言われたほどでした。
  ・昭和七年(1932年)五月、平井英子が歌う。
  ・昭和十三年(1938年)、二葉あき子が歌う。
  ・昭和十六年、ビクターからオーケストラだけのものが出た。
  ・昭和二十五年(1950年)、川田孝子、伴久美子が歌う。
  ・昭和三十七年(1962年)、古賀さと子が歌う。
  ・昭和三十八年(1963年)、真理ヨシ子が歌う。

  【戦後の教科書に掲載】
 戦後の昭和二十二年発行『六年生の音楽』(文部省)には、「歌をわすれたカナリヤ」の曲名で掲載されました。
 ●『サライ』(小学館)1997年8月7日発行。とじ込み附録「残したい童謡・唱歌」には
 、“昭和28年から昭和33年までは「歌をわすれたカナリア」という題で掲載された”と書いてある。これは間違い。すでに昭和二十二年発行『六年生の音楽』に「歌をわすれたカナリヤ」の曲名で掲載されている。
▲「歌をわすれたカナリヤ」歌詞 昭和二十二年発行『六年生の音楽』(文部省)掲載
  歌詞は、子どもに対する教育的考慮のため、おだやかなものになっています。しかし、これほど変えられてしまったのでは、別の作品としか言いようがありません。西條八十もビックリでしょう。元のままで子どもたちに歌い伝えていきたい童謡です。楽譜は変ロ長調が掲載されている。

  【教科書その後】
 昭和三十年発行の『六年生の音楽』(教育芸術社)には、掲載されていません。教科書から消えたので、「かなりや」を一般の子どもたちが歌う事はありません。

  【信濃毎日新聞】
 1967年8月17日夕刊 『信濃毎日新聞』「山ろく清談」に、西條八十が書いた文が掲載されている。これは、西條八十の全てを物語っている。新聞なので一般の人にもわかりやすく書かれている。
 もう、四十五年も前だよ。軽井沢に来はじめたのは-。そのころは、愛宕方面に外人避暑客がかたまっていたぐらいで、まだ別荘も少なかった。いまの旧道商店街(軽井沢の中心地)の裏に貸し別荘を借りて来ていたが、庭に小川が流れていて、その水が飲料水だった。強い日ざしのなかを、水売りがのんびりと通っていたものだよ。「愛染かつら」もこの軽井沢で書いた。

 いまの歌謡曲は、作詞などはどうでもいい、という時代だね。だから、くだらなくなったよ。外国のジャズなんかも、歌詞の意味もわからずに、リズムだけに興味がみたれている。ひとつには、音楽教育が普及したからだろうが、逆にいえば国語力が低下したからだね。「目のなかのひとすじの涙」なんていう歌詞が平気でうたわれる。涙は、流れてから“ひとすじ”になるもんだ。本当の詩人といまの歌謡曲は無関係なんだね。
 昔は、ビクターにもコロムビアにも専属の作詞家がいた。いまはその必要がないんだ。浜口庫之助君のように作曲家が作詞もする。歌手だって歌を書く。おもしろい時代だよ。だが、ボキャブラリーが少ないからすぐ行き詰まる。いまの歌が「愛染かつら」「支那の夜」「青い山脈」のように、リバイバル式に残るかどうかね・・・。
 ぼくの書いた「王将」(村田英雄)や「絶唱」(舟木一夫)が、百万枚も二百万枚も売れるのは、やはり作詞家が払底しているからだろう。

 いまは童謡不在の時代だ。世の中がせわしくなって、テレビやラジオがどんどん教え込んでいく。子どもはコマーシャルソングしかうたわない。これはテレビやラジオにだけ罪があるのでなく、いい童謡が出ないからなんだよ。作者は、子どものごきげん取りか、自分の小さい時の思い出ばかりを歌にする。しかし、子どもには“思い出”はない。あるのは“現実”だけ。それを忘れては子どもにうけない。子どもの歌といえども、作者の感動がなければいけないんだね。
 ぼくは、大金持ちの家に生まれたが、十四のとき、父が死んだ。兄は道楽で財産をつかい果たして廃嫡になる。母と妹、弟を背負って世の中に出たんだ。「カネをもうけてから詩を書こう」と思い、カブト町でてんぷら屋や本屋をした。そのときの心境を歌ったのが「歌を忘れたカナリヤ」なんだよ。「静かな海に浮かべれば、忘れた歌を思い出す」という声が心のなかからほとばしり出たんだ。これは、日本の童謡としては、はじめて曲がつけられ帝劇で発表された。あのときはぼくも、夢みるような心地だったよ。

 詩集ブームだといって出版界でさわいでいるけど、詩が売れるのは、詩がくだらなくなったからだよ。詩を解するになんの努力もいらなくなったからだとぼくは思うんだ。いまの自由詩と散文の区別がどこにあるか、いえる人はいないだろうね。小学校では作文を詩だといって教えているんでしょう。
 ぼくは、詩に経済的な価値のないのが詩を伸ばさない原因だと思っているんだよ。詩に経済的な価値があれば、室生犀星や川端康成なんて人も詩人になっていただろうし、萩原朔太郎も小説をかけば晩年までオヤジから二百円ずつ送ってもらうことはなかった。
 ぼくみたいに、大学教授になったり、童謡を書いたり、歌謡曲を書いたり、いろんな才能があるから食っていけるんだが・・・。別荘を持ったりして詩人らしくないね。本当は、自分みたいな詩人は大きらいなんだよ。

 戦時中はずいぶん軍歌も書いた。大本営から直接電話がかかってくるんだよ。「書け」といってね。「予科練の歌」“出てこい、ニミッツ、マッカーサー”の「比島決戦の歌」・・・・。ぼくぐらい書いた男もいないだろうね。
 戦後は、軍歌を書いてた詩人はみんなつかまった。結局、佐々木信綱とぼくが「一番悪い」ということになったが、佐々木さんがあまりに高齢だというのでゆるされ、「西條ひとりじゃかわいそうだ」とぼくも助かった。
 高村光太郎は、軍歌を書いたことを気にやんで、山へ逃げ込んだ。しかし、ぼくは後悔などしなかったね。あのころ、早稲田で教えて(仏文科教授)いたが、毎日のように動員されて戦場へいく若い学生たちを見送った。せめて、“軍歌”で応援してやるいがいしかたがなかったんだ。ひどい時代だった。▲『信濃毎日新聞』「山ろく清談」



 【「蝶」という詩】
 西條八十は、「蝶」という詩を残している。大勢の人に囲まれていても、いつも孤独だった。

  【「八十」という名前】
 孫の西條八峯によると次のようです。
  “祖父は、男四人、女五人の兄弟の中でひとりだけ、八十(やそ)という数字でできた名前をもらいました。「郵便で、カタカナの女名前、ハナさんと、よく間違えられたよ」と、笑って話していました”。

 <長女 三井嫩子(みついふたばこ)>  1918年(大正七年)五月三日生まれ。
  ●大正八年生れと書いてある出版物は間違い。 1990年(平成二年)十月二十九日、逝去 享年七十二歳。
  <次女 兼子> 1922年(大正十一年)二月十三日、逝去 享年三歳。
 <長男 西條八束(やつか)> 1924年(大正十三年)十一月十九日生まれ。 2007年(平成十九年)十月九日、逝去 享年八十二歳。

 【詩碑】
  ・東京・上野公園の不忍池畔に西條八十自筆の詩の最終節が刻まれた詩碑があります。
           ⇒「かなりや」の詩碑
 碑の裏面 「カナリヤ」の詩は大正七年秋不忍池畔にあった上野倶楽部というアパートの一室を仕事部屋にしていた西條八十が朽葉散る上野の山東照宮のあたりを逍遥(しょうよう)しているうちに得られた名作である。わが国の芸術童謡興隆の機縁となったこの作誕生の地を記念して之を建てた。昭和三十五年四月 西條八十会。 昭和三十五年(1960年)四月三日、西條八十は六十八歳。
  「西條八十会」は、弟子の詩人、サトウハチローらが結成したもの。
  ・西條八十が講演旅行の折立ち寄った和歌山県那智勝浦(なちかつうら)町のホテル浦島の敷地内の狼煙山(のろしやま)にも最終節が刻まれた詩碑があります。昭和三十九年(1964年) 西條八十は七十二歳。

 【挿絵】  

▲川上四郎 絵「カナリヤ」 「講談社の絵本」第一巻四号「童謡画集と絵手本」 昭和13年
 大日本雄弁會講談社



著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫
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赤い鳥小鳥

作詞 北原白秋
作曲 成田爲三

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2008/08/06)


池田小百合『童謡を歌おう 神奈川の童謡33選』より
池田千洋 画


 【詩の初出】
 詩は雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社)一九一八年(大正七年)十月号に発表。句読点の誤植がある。「靑い鳥、小鳥」ではなく、「靑い鳥、小鳥」が正しい。

 【曲の初出】
 曲は雑誌『赤い鳥』大正九年四月号に発表。このときの詩の句読点も誤植のままです。

赤い鳥 創刊号 
「赤い鳥」創刊号
/大正7年7月発行
表紙絵 清水良雄 「お馬の飾」

「赤い鳥」第1巻第4号
/大正7年10月発行
表紙絵 清水良雄 「くだもの」

「赤い鳥」第4巻第4号
/大正9年4月発行
表紙絵 清水良雄「少年騎士」
赤い鳥小鳥 
△「赤い鳥」第1巻第4号に掲載された詩。 さし絵は清水良雄 

 
 ▲『赤い鳥』大正九年四月号の楽譜初出


 【詩のもとうた】
 『赤い鳥小鳥』は、(北海道河西)方面で歌われていた『ねんねの寝た間に』を元にして作られました。これは北原白秋選で(各地童謡)として雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社)大正七年七月発行の創刊号の五十七~五十八ページに掲載されていて見る事ができます。

     ねんねの寝た間に(北海道河西=かさい)

   ねんねの寝た間に何しよいの。
   あづき餅の、橡餅(とちもち)や。
   赤い山へ持つて行(ゆ)けば、
   赤い鳥がつゝく。
   靑い山へ持つて行けば、
    靑い鳥がつゝく。
   白い山へ持つて行けば、
    白い鳥がつゝく。

 【白秋の言葉】
 北原白秋著『日本童謡ものがたり』(河出書房新社・復刻版)平成十五年発行の中で、“わたしも、「赤い鳥、こ鳥」の童謡をいつかつくりましたが、あれは、このうた(「赤い山・青い山・白い山」)が、もとになっております。わたしの童謡は、また、おなじようで、これとはちがった、ふかいいみをもたせてありますが、そうおとなのようにかんがえないでも、赤い実をたべたから赤い鳥になったのだとおもってくださればいいのです。・・・”と言っています。
 (註) 白秋は「ふかいいみ」について書いていない。「みみづく幼稚園」(小田原市城山・伝肇寺)では、園歌として園児が「赤い鳥小鳥」を無邪気に歌っている。ここでは児童文学者や評論家の言う「大人の秘密」などとは無縁。
  さらに白秋は、“おなじように、黒い鳥・・・黄ろい鳥・・・。でも、かまいません。おなじ色なら、なんだっていいのです。茶いろだって、むらさきだって。”と、続けて歌う事を奨めていますが、これは無理です。だれも歌いません。

 【歌詞についての考察】
 赤い鳥、白い鳥、青い鳥が、それぞれなぜ赤いか、白いか、青いかを歌ったものです。 赤い鳥は赤い木の実を、白い鳥は白い木の実を、青い鳥は青い木の実を食べたから、それぞれ赤い鳥や白い鳥や青い鳥になったと、 子供らしい空想をあらわした詩です。この見方は科学的ではありませんが、子供の持つ敏感な詩的空想をとらえた白秋らしい優れた詩になっています。
赤い鳥の例:オオマシコ
撮影・内田安氏
青い鳥の例:アオバト
撮影・内田安氏
白い鳥の例:ユリカモメ
撮影・内田安氏

 【歌唱について】
 子供が自分で歌う童謡として作詞作曲されました。小学校低学年の音楽教科書にも掲載され、みんなに親しまれてきた、かわいい歌です。
 発音を明るく、はきはきと歌います。はじめは、あまり強くなく歌い出し、だんだん大きくしていって、「赤い実を」の「赤い」の所が山になるように歌いましょう。二組に分かれて、問答形式で歌うと、いっそう楽しくなります。子供には、あどけなく歌わせたいものです。


▲養生館

▲伝肇寺・みみづく幼稚園

▲伝肇寺境内の「赤い鳥小鳥」歌碑
 【小田原時代の白秋】1918年~1926年(八年間)
  ・大正七年(1918年)三月五日より胸を患っていた妻・章子の療養のため、相州小田原海岸(御幸の浜)の旅館・養生館(ようじょうかん)の二階に一ヶ月ほど住む(現・小田原市本町四丁目九)。
  (註1)「養生館」当時の小田原では最大の設備を誇る旅館で、木造三階建。洋間・和室合せて十二の客室。創業は明治三十六年(1903年)、西村圭二(にしむらけいじ)が、アメリカへ留学したが体をこわし帰国、風光明媚な土地を探して、この御幸の浜に、伊藤博文の別荘<滄浪閣>を借り受けて旅館とした。二代目は西村隆一(にしむらりゅういち)。関東大震災の影響は大きかったが、そのまま営業を続けていた。太平洋戦争をはさみ老朽化のため昭和六十三年(1988年)二月、取り壊された。二代で廃業した。

  (註2)「御幸の浜」小田原海岸は、明治六年(1873年)八月四日、明治天皇が皇后とともに、この海浜に立たれ、土地の漁夫たちの地曳網を御覧になった事から、以来、「御幸の浜」と呼ぶようになった。

  (註3)「東海道本線について1」明治二十二年(1889年)七月一日、新橋~神戸間を結ぶ「箱根越え」のルートの「東海道本線」が全線開通。以来、国府津駅は東海道本線の主要駅の一つだった。開業当時、小田原・箱根湯本方面には、馬車鉄道が連絡していた。この鉄道は、明治三十三年(1900年)、国府津―湯本を往復する小さな路面電車(小田原電気鉄道)に変わっている。
 相州小田原海岸「養生館」の開館披露の広告文(明治三十六年第七月)には「国府津より、電車鉄道(原文のママ電車鉄道)運賃十五銭にして、本館前横付けにて至便。東京新橋より国府津まで汽車賃七十八銭」という記録がある。

 大正七年三月、白秋らは、東海道本線の列車に乗り国府津駅で降りて路面電車か、自動車で「養生館」に来たと思われる。

  ・大正七年四月、当地在住の音楽評論家・二見孝平の紹介で、神奈川県小田原町十字町四丁目九一〇番地、通称・お花畑(おはなばた 現・小田原市南町三丁目五)の借家に転居。
  (註)「お花畑」もと大久保藩の薬草園のあった所で、海岸寄りの静かな別荘地。

  ・大正七年七月一日、鈴木三重吉主幹『赤い鳥』創刊。第一巻第一號に「りすりす小栗鼠(こりす)」(創作童謡)と「雉(きじ)ぐるま」(創作童話)を発表。以後、『赤い鳥』への童謡の寄稿と投稿童謡の選評を十五年近く続ける。
  (註)雑誌『赤い鳥』大正七年創刊七月号(第一巻第一号)から昭和十一年十月号(第十二巻第三号)まで通巻一九六冊発行
  <前期>は昭和四年三月号(第二十二巻第三号)までで、その後休刊。
  <後期>は復刊・昭和六年創刊一月号(第一巻第一号)からで、195冊目は昭和十一年八月終刊号(第十二巻第二号)。そして196冊目は、昭和十一年十月号(第十二巻第三号)「鈴木三重吉追悼号」が終刊。終始、鈴木三重吉が主幹経営し、児童文学の理想を実践した。白秋は、長く三重吉の情熱に賛同して協力したが、常に、そりが合わず、結局、昭和八年四月絶縁した。
  「赤い鳥」復刻版別冊1解説(日本近代文学館)の福田清人著『赤い鳥』総論にも“全巻一九六冊であった”と書いてある。

  “『赤い鳥』は鈴木三重吉によって、大正七年七月創刊され、専心編集され中途休刊したが、昭和一一年六月、その死によって一〇月追悼号を終刊とした。全巻一九六冊であった。鈴木三重吉を離れて『赤い鳥』はない”と。

  ・大正七年十月七日、聖十字教会の牧師・宮澤九萬象(くまぞう)の紹介で小田原町十字町二丁目三三五番地、通称・天神山(てんじんやま)の浄土宗樹高山傳肇寺(伝肇寺でんじょうじ 現・小田原市城山四丁目一九)本堂の横部屋を借りて住む事になった。ここは台所も押し入れもない一間(ひとま)だったが、「縁側に板をぶつけてビスケットの空箱を横にしただけ」(*)の台所を作った。白秋が数え三十四歳の時です。(*)大正八年元旦に白秋が書いた表現。

  白秋は明治三十七年の春に上京以来、亡くなるまでの間に転居を繰り返していますが、小田原の伝肇寺境内に初めて自分の家を建てました。白秋が自分の家を持ったのは小田原だけだった。

  ・大正八年(1919年)夏、伝肇寺東側の竹林を借りて、屋根は萱(かや)葺で、壁は藁(わら)の小笠原諸島の民家を意識した「木兎(みみずく)の家」と、木兎の家の奥に、別棟で方丈(ほうじょう)風の書斎を建立し、移り住んだ。いかにも北原白秋らしい空想に満ちた小屋だった。白秋は気に入って「木兎の家」と呼んでいた。正面の入口の両側には、青いガラス窓があった。それが鳥のミミズクの貌に似ていることから名づけた。
  (註)通常では「木菟」と書いてミミズクと読みます。白秋の表記は「木兎」です。白秋は「木兎」を気に入って使った。

▲「木兎の家」 大正十一年三月一日『赤い鳥』八巻三号
『花咲爺さん』大正十二年七月十五日(アルス)収録

  ・大正九年(1920年)、「木兎の家」の東側隣接地に、洋風三階建て、赤い瓦屋根の「白秋山荘」を建てた。この家を建てるにあたり、地鎮祭(五月二日)のあとの宴会で、章子は北原鐵雄(きたはらてつお 白秋の弟)や山本鼎(白秋の妹の主人)と対立。もめた末に、章子と白秋は五月二十五日付で離婚届を出した。十二月、「白秋山荘」落成。
  (註)「地鎮祭当日の事件」については、薮田義雄著『評伝 北原白秋』(玉川大学出版部)に詳しく書いてある。どちらが悪いとは言えず、夫婦の問題の真実は理解しがたい。

  ・大正十年(1921年)四月二十八日、大分県出身の佐藤キク(通称・菊子、1889年三月二十五日生まれ、三十二歳)と第三の結婚をする。新築の洋館で式を挙げる。菊子は貧乏を支えるため嫁ぐ時に持って来た着物を質屋に持ち込んだりした。

▼『赤い鳥』大正十一年三月号
  ・大正十一年(1922年)三月二十九日、長男の隆太郎(りゅうたろう)が誕生。菊子は白秋が執筆中に子どもが泣くと夜中でも背負い外へ出て行き白秋の創作活動に陰ながら協力した。

  ・大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災で木兎の家は傾き、洋館は半壊し、竹林の生活を送る。

  ・大正十四年(1925年)六月二十八日、長女の篁子(こうこ)が誕生。竹林の方丈(ほうじょう)で生まれたので、この名をつけた。

  ・一家は大正十五年(1926年)五月一日、国府津駅から汽車に乗り、東京市下谷区谷中天王寺町一八番地(現・東京都台東区谷中七丁目一八)へ引っ越しました。
 東京転居の直接の原因は、関東大震災によって半壊した「白秋山荘」に、これ以上住めなくなったため。家屋全体が土台から五十センチもはみ出し、一本の柱は折れて傾斜しているし、急勾配の屋根の赤瓦は全部すべり落ちてしまった。柱を切って平家にする以外、家の修理のてだてがつかなかった。他にも、理由があったようだが。

  (註1)「白秋邸」昭和四年、取壊し整理された。最初から最後まで鳶職(とびしょく)として従事した西村莊太郎氏の家には、白秋から連絡書簡が届いていた。“明六日天神山にゆき度いと思ふので、一度山までたづねて来てくれたまへ、伝肇寺で相談会があるそうで。夜は養生館にとまるかもしれぬ”とある。
 白秋は昭和四年(1929年)一月、旧宅を整理するために小田原に一度帰っている。取り壊す前に撮影した白秋邸の写真が伝肇寺に残っている。写真は、関東大震災の被害で母屋の洋館は半壊、傾いたまま。正面の長椅子に坐るのが白秋一家で、白秋の右側が千葉満定住職。

  (註2)「東海道本線について2」国府津から海岸線に沿って、小田原・熱海を通り、三島・沼津へと抜ける「熱海線」ルートは、丹那トンネルの開通により、昭和九年十二月一日、「東海道本線」となった。その一方で、従来の国府津~御殿場~沼津間は「御殿場線」と改称された。列車本数が激減した。単線、電化。 現在の御殿場線は「東海旅客鉄道株式会社(JR東海)」の静岡支社管内となり、電車の車両は二~四両でワンマンカー。相模金子駅など無人駅が多い。
 白秋一家が東京に旅立った大正十五年(1926年)五月一日は、まだ丹那トンネルは開通していなかったので、国府津駅から汽車に乗った。

 小田原時代の北原白秋は、≪詩聖≫と仰がれ、絶頂期にあった。小説、詩編、短歌、俳句、童謡、民謡にと幅広いジャンルにわたって、たぐいまれな才能を発揮した。
 北原白秋童謠第一集『トンボの眼玉』(大正八年・1919年10月15日発行アルス刊)を出版した。白秋童謠第二集『兎の電報』(大正十年・1921年5月18日発行アルス刊)、白秋童謠第三集 英国翻訳童謠集『まざあ・ぐうす』(大正十年・1921年12月13日発行アルス刊)、白秋童謠第四集『祭の笛』(大正十一年・1922年6月10日発行アルス刊)、白秋童謠第五集 絵入童謠『花咲爺さん』(大正十二年・1923年7月15日発行アルス刊)、子どもむけ童謠論集『お話・日本の童謠』(大正十三年・1924年12月25日発行アルス刊)、絵入童謠集『子供の村』(大正十四年・1925年5月5日発行アルス刊)、絵入童謠集『二重虹』(大正十五年・1926年3月20日発行アルス刊)などを出版した。そして転居の年には絵入童謠集『象の子』(大正十五年・1926年9月16日発行アルス刊)を出版している。

  (註1)「アルス出版」この頃の本がアルスから次々出版されているのは、白秋の弟・北原鐵雄が興した出版社のため。大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災では、銀座にあったアルスも焼失した。

  (註2)小田原城址公園の中にあった動物園の人気者ゾウのウメ子さん(1947年タイ生まれ)は、1950年から六十年間親しまれ、2009年九月十七日亡くなった。動物園も縮小された。白秋はウメ子さんを観ていません。童謠集『象の子』(大正十五年・1926年9月16日発行アルス刊)の「象の子の話」「象の子」「片目の象」は、直接関係がない。

  (註3)「小田原の町名変更」
  ・明治八年、町名が定められた。幸町、緑町、十字町、新玉町、万年町の五か町で、各町に一丁目から四丁目があり、計二十区。
  ・明治二十二年四月、小田原町制が施行されたが、前の町名は大字としてそのまま残ったので、明治八年から昭和四十一年の新住居表示まで九十年間、旧小田原の人々が親しんできた町名だった。
  ・昭和十五年十二月十日、周辺町村合併により小田原市が誕生。
 北原白秋が住んでいた頃は、「小田原町」だった。
  ・昭和三十七年五月、住居表示に関する法律が施行され、全国で実施された。小田原市でも昭和四十一年四月一日から二十年かけて町名変更が行われた。栄町、中町、浜町、本町、城内、南町、寿町、東町、城山、扇町、国府津、酒匂、小八幡、南鴨宮、西酒匂となった。

  (参考資料)
  ・藪田義雄著『評伝 北原白秋』(玉川大学出版部、昭和四十八年発行)
  ・野上飛雲著『北原白秋その小田原時代』(かまくら春秋社、平成四年発行)
  ・『小田原・箱根・真鶴・湯河原 文学散歩』(小田原文芸愛好会、平成六年発行)


木兎の家にて。
手前が長男・隆太郎、右端が妻・菊子
(大正十二年)

伝肇寺の境内にあった北原白秋邸。関東大震災の被害で
母屋の洋館は半壊、傾いたまま。
左の建物が「木兎の家」。正面の長椅子に坐るのが
白秋一家。
白秋の右側が千葉満定住職。
1929年(昭和4年)ごろ取り壊す前に撮影したらしい。
(伝肇寺蔵)。 2009年9月 朝日新聞より。

▲小田原文学館(小田原市)

▲白秋童謡館(小田原文学館となり)
白秋童謡館では、雑誌『赤い鳥』の展示があり、 白秋の活躍を見る事ができます。
小田原文学館の
「赤い鳥小鳥」の歌碑


 【『赤い鳥』創刊】
 雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社発行)は、大正七年七月一日に創刊された。大正七年創刊七月号(第一巻第一号)。主幹・鈴木三重吉が唱歌を「芸術性がなく低級」と批判し、日本を代表する作家、北原白秋、西條八十、島崎藤村、芥川龍之介、泉鏡花、小川未明、三木露風などに、新しい子供の童話や童謠を作ろうと呼びかけて生まれた児童文芸雑誌です。詩には成田爲三、山田耕筰、近衛秀麿、草川信、弘田龍太郎などにより曲がつけられ、曲譜も掲載されたので、子供が自分で楽しく歌いました。この雑誌は、日本の童話や童謡の質を飛躍的に高めました。 

 【『赤い鳥』終刊】
 昭和十一年八月終刊号(第十二巻第二号)。主幹の鈴木三重吉が、昭和十一年六月二十七日肺臓癌で亡くなりました。享年五十五歳。『赤い鳥』は、「鈴木三重吉追悼号」昭和十一年十月一日発行(第十二巻第三号)を出し、その業績を称えました。「鈴木三重吉追悼号」で「赤い鳥」総目次を見る事ができます。(註・一九六八(昭和四十三)年『赤い鳥』復刻版(日本近代文学館))
  『赤い鳥』全一九六冊。
 創刊・大正七年七月号~昭和四年三月号まで前期。 一時休刊。
 復刊・昭和六年一月号~昭和十一年十月号「鈴木三重吉追悼号」まで後期。


赤い鳥 追悼号
 「赤い鳥」第12巻3号
/昭和11年10月発行 
鈴木三重吉追悼号
表紙 清水良雄

大正13年夏 目白の森で
三重吉、すず子、珊吉

右端が成田爲三、その左に三重吉、
鶴見花月園歌劇学校生徒

成田爲三は追悼号に「童謠の起源」
という文章を書いている。
「かなりや」から童謡が始まったという
文章である。
赤い鳥 北原白秋詩
「赤い鳥」鈴木三重吉追悼号に掲載された詩。  さし絵は深澤省三
■北原白秋は鈴木三重吉の死を悼み業績を讃えて、追悼号に詩『貴き騎士』と『赤い鳥、小鳥』(童謠)
そして、「赤い鳥の詩運動」の文章を載せました。

 【鈴木三重吉の略歴
  ・明治十五年(1882年)九月二十九日に広島県広島区猿楽町(現・広島市中区紙屋町二丁目)に生まれる。父<悦二>、母<ふさ>の三男として生まれる。
 鈴木家はもと浅野藩に仕える武士の家であったが、先々代から町人となり、初め瓦を焼いていたらしい。家号を紀の国屋といった。 町の素封家で、維新まで名字帯刀を許された家柄である。三重吉が生まれた時、父は役所の学務掛勤務、のち広島電燈会社支配人。

  ・明治二十二年(1889年)、広島市本川尋常小学校入学。

  ・明治二十四年(1891年)、九月二十八日、★母<ふさ>数え年三十七歳で逝去。
 ★このときまでに五人兄弟のうち三人は次々亡くなり、末弟と二人父と祖父母に育てられる。
祖母<れい>は目が悪く、女中では手の届かぬ事があって、三重吉は負けず嫌いで、そとでは子供大将だった。乱暴な一面、母の墓のかたわらで一人で遊んだり、 寺の本堂の仏壇の前に座っていたりする孤独癖もあり、母を失った淋しさは、三重吉の性情に大きな影響を与えたとみられる。

  ・明治二十六年(1893年)、本川尋常小学校を修了し、第一高等小学校入学。
 三重吉の父も祖父も俳句を好み、父は「楳閑」、祖父は「斗山」と号していた。それを真似て、三重吉が初めて「梅暁」という号を使った。

  ・明治二十九年(1896年)、第一高等小学校三年級を修了して、広島県広島尋常中学校に入学。 十二、三歳のころまでは軍人志望であったが、日清戦争で軍人がたくさん死ぬのを知ってあきらめ、このころは父が電燈会社に入っていたので、 電気の工学士になろうと思っていた。しかし家に文学書がかなりあったことから近所の腕白どもと活発に遊び歩く事をやめて、読書・作文などに興味を覚える。「映山」の号で雑誌に投稿を始める。

 ・明治三十年(1897年)、「亡母を慕ふ」が『少年倶楽部』に、「天長節の記」が『少国民』に載る。このほか『新声』『新文学』などにも投書。

 ・明治三十四年(1901年)三月、広島県第一中学校卒業(在学中に改称された)。
   <右の写真は一中時代の三重吉>
  九月、京都の第三高等学校に入学。三年間の在学中、神経衰弱と胃病とに苦しむ。

  ・明治三十七年(1904年)七月、第三高等学校卒業。九月、東京帝国大学英文科に入学。
  (註)「東京帝国大学一覧」によると東京帝国大学文科大学文学科(英吉利文学受験)とある。
 英国留学を終えて前年に帰国した夏目漱石の講義を受ける。十月★祖父<宮助>逝去。
  (左の写真は東大学生時代の三重吉)。

  ・明治三十八年(1905年)一月、夏目漱石の『猫』を、続いて『倫敦塔』を読んで感動。
 このころはまだ作家志望でなく、外国演劇研究を漠然と考えていた。九月、神経衰弱にたえかねて、一年間休学を決心し、 広島の家や、瀬戸内海の能美島で保養する。生理的な苦痛から自殺を思う事もあったが、漱石の学識、人格の牽引力(けんいんりょく)が強く、 その尊敬の気持ちを、三高時代の一級上の友人中川芳太郎に書送ったところ、その手紙を中川が漱石に見せたのが機縁となって、直接漱石と文通がはじまる。

  ・明治三十九年(1906年)四月、夏目漱石の「坊ちゃん」が『ホトトギス』四月号で発表される。 五月、夏目漱石の推薦で短編「千鳥」を『ホトトギス』五月号に発表。九月、上京復校。夏目漱石の門に入る。高浜虚子、寺田虎彦、森田草平らと親しくなる。

  ・明治四十年(1907年)一月、第二作「山彦」を『ホトトギス』で発表。四月、最初の短編集『千代紙』(俳書堂)を刊行。 五月、「お三津さん」を『中央公論』で発表。

  ・明治四十一年(1908年)七月、「烏物語」を『ホトトギス』に発表。大学を卒業。同月、★父<悦二>五十七歳で逝去。 必然的に三重吉は一家の柱となり、祖母、弟、小母の生活を心配しなければならなかった。
  十月、千葉県成田中学校の教頭兼英語教師に就任。十一月三日の『国民新聞』に「赤菊」を発表。新聞の字詰めで十九行と依頼され、 短い中にまとまった筋のあるものを書くために苦労したもので、『ホトトギス』仲間に好評を得た。

  ・明治四十二年(1909年)一月、「黒髪」を『国民新聞』に発表。八月、帰郷して広島の家宅を売り払い、祖母と小母とを成田に伴い来て家を持つ。十一月「文鳥」を『国民新聞』に発表。

  ・明治四十三年(1910年)一月、「小猫」を『ホトトギス』に発表。従来の狭い創作的境地からやっとひと足もがき出た最初の作と自ら言うように、 「千鳥」以来の唯美的浪漫的傾向から写実的な作風に移っている。暗い素材を扱っている所に、当時の自然主義の影響も見られるが、 その傾向を発展させたのが長編「小鳥の巣」で、三月から十月まで『国民新聞』に連載した。この小説の初め三分の一は校務のかたわら書き、あとは校長のはからいで休職にしてもらって創作に打ち込んだ。

  ・明治四十四年(1911年)一月、成田中学で、三重吉排斥のストライキが起きる。
結局一件は落着したが、生徒に懲罰の無かったのは不満であった。 二月、「鳥」を『太陽』に、三月、「赤い鳥」を『中央公論』に、四月、「女」を『ホトトギス』(臨時増刊五人集)に発表。また基調の浪漫性に戻った。
 四月、成田中学を辞す。五月、上京。東京市外下渋谷に移る。 ★京都時代から知りあっていた京都の青物屋の娘<つね>と結婚(つねは、ふぢと改名する)。 こうして落着いて創作活動に専念できるのは大きな喜びであったが、収入の不安定から、創作の傍ら日比谷の私立海城中学校の英語の講師を務める。同校には大正七年まで前後七年在職。
 受け持ち時間の合い間に、物置部屋に入って創作した事も度々ある。その最初の作品「胡瓜の種」を『読売新聞』に発表。 七月二日、「金魚」を読売新聞に発表。七月七日から八月六日にわたり「一枚の瓦」(のち「返らぬ日」、さらに「瓦」と改題)を『読売新聞』に連載。 八月、「民子」を『新小説』に出す。九月、「女帯」(のち「帯」と改題)を『中央公論』に出す。「いろんな女」を『太陽』に、 「影」(のちに「月夜」と改題)を『文章世界』にと、やつぎばやに発表。十月、短編集『女と赤い鳥』(春陽堂)を刊行。 情緒的と内観的との融合した相を写す情緒象徴主義と評された。十二月、「羊」を『太陽』で発表。

  ・明治四十五年(大正元年 1912年)、創作活動が最も盛ん。作品量も多いが、職業的な量産的創作態度に満ち足りない気持ちも湧くのだった。
  一月、「黒血」を『新小説』に、「鏡」を『中央公論』に、「伯母とお濱」を『太陽』に発表。 三月、「人形」を『東亜の光』に、「せんぶり」(のち「千振」と改題)を『新日本』に発表。短編集『返らぬ日』(春陽堂)を刊行。 六月、「櫛」を『新小説』に発表して好評を得た。「馬車の出来る間」(のち「馬車の来る間」と改題)を『太陽』に発表。短編集『お三津さん』(春陽堂)を刊行。 九月、「凶兆」を『中央公論』に発表。十一月、「穴」を『新潮』に、「留守の間」(のち「留守」と改題)を『太陽』に発表。長編小説『小鳥乃巣』(春陽堂)を刊行。

  ・大正二年(1913年)四月、短編集『櫛』(春陽堂)刊行。中央大学へも出講。五月短編集『女鳩』(浜口書店)刊行。七月から十一月まで長編「桑の実」を『国民新聞』に連載。
 「桑の実」は、これまでの、とげとげした主人公のいらだちを表現して来た作風からうって変り、静かなあわい日常のぬくもりを美しく描いた所が大きな転換と見られ、かつ好評を受けた。 十月短歌集『桐の雨』(浜口書店)を刊行。

  ・大正三年(1914年)一月、長編『桑の実』(春陽堂)、三月小品集『赤蜻蛉』(岡村書店)、五月短編集『留針』(春陽堂)、九月短編集『朝顔』『珊瑚樹』(植竹書院)をそれぞれ刊行。 七月から八月にかけて「随感随筆」を『国民新聞』に掲載。このころから自己の作品にあきたらず、新方面を開拓しようとして創作の筆を断つ。全集の出版を企て、従来の作品全部を改作。

  ・大正四年四月「八の馬鹿」を『中央公論』に発表した以外は小説を書かず、全集の出版に専念した。
  『三重吉全作集』(三月、第一編『瓦』を出版。四月、第二編『赤い鳥』。六月、第三編『小猫』。七月、第四編『女』。九月、第五編『千鳥』。 十月、第六編『霧の雨』。十一月、第七編『黒血』。十二月、第八編『金魚』。大正五年二月、第九編『桑の実』。三月、第十編『櫛』。四月、第十一編『八の馬鹿』。五月、第十二編『小鳥の巣(上)』七月、第十三編『小鳥の巣(下)』全十三編)を大正四年三月から翌五年七月までかかって自費出版。刊行は春陽堂。

  ・大正五年(1916年)出版を始めるようになった三重吉宅には、河上房太郎という青年が事務の手伝いに来るようになった。 ★その縁で妹の河上<らく>も手伝いに来る。
  一月、妻の<ふぢ>が母の病気のために京都に帰り、祖母も広島に帰す。その間に三重吉は東京・大井町に移転。 三重吉は妊娠した<らく>と、ひっそり同棲することにした。六月、★長女すゞが生まれる。 七月、★妻<ふぢ>京都より帰り、間もなく腸チブスのため入院、逝去。八月『三重吉全作集』の出版終了。 十二月、尊敬する夏目漱石永眠。最初の童話集『湖水の女』(春陽堂)を刊行。

  ・大正六年(1917年)四月、『世界童話集第一編 黄金鳥』(春陽堂)を刊行。装幀、挿絵は、美術学校を出たばかりの清水良雄が担当。清水とは以後『赤い鳥』終刊までの付き合いとなる。
  以後、十五年までに『鼠のお馬』『星の女』『青い鸚鵡』『海のお宮』『湖水の鐘』『魔女の踊』『黒い沙漠』『銀の王妃』『馬鹿の小猿』『欲ばり猫』『黒い小鳥』『七面鳥の踊』『大法螺』 『一本足の兵隊』『あひるの王様』『かなりや物語』『蟹の王子』『せんたく屋の驢馬』『小鳥と機関車』『象の鼻』全二十一編(春陽堂)を刊行。
  <左の写真は大正六年の三重吉>

  ・大正七年(1918年)一月、★長男珊吉が生まれる(のち、日本輸送エンジニアリング社長)。 五月、気管支喘息を発したが、それと闘いながら七月、童話童謡雑誌『赤い鳥』を創刊。 その経営に努力し、同時に毎月かかさず一、二篇の童話を書く。九月、『赤い鳥』創刊の疲労から喘息の発作が起り、東京大学病院に入院。同月退院。喘息は以来、持病となる。海城中学校を辞職。中央大学も休職する。
  ●日本近代文学館編『日本近代文学大事典』(講談社)235ページには、“北原白秋、西條八十、野口雨情らに童謡を書かせ”と書いてあるが、野口雨情は『赤い鳥』に童謡を書いていない。三木露風の間違い。
 野口雨情は、大正八年十一月の『金の船』創刊以来ずっと作品を発表し続けた。
 (註)厳密にいえば童謡等の作品掲載がないのは三回ある。大正十一年十月は曲譜(作詞者)と選評、大正十四年四月は曲譜(作詞者)、 昭和三年四月は選評と句評がある。大正十四年四月も選者として名は記載されている。

 大正九年六月には上京(西條八十が東京に呼んだ)。キンノツノ社に入社。八月には水戸から家族を迎えている。 そしてその後もずっと斎藤佐次郎を助け『金の船』『金の星』の編集、宣伝に全力を投入している。
 (註)雨情は大正九年六月からキンノツノ社を発行所としていた金の船社(大正十一年五月キンノツノ社から分離)勤務、 引き続き大正十二年一月から(金の船社から改称した)金の星社勤務。大正十一年五月からはキンノツノ社およびその後継社とは無関係。 大正十一年六月から金の船社が『金の星』発行、大正十二年一月から金の船社が金の星社と改称、 『金の星』発行(昭和三年四月まで、以後『少年少女金の星』(昭和四年七月まで)。なお、キンノツノ社およびその後継社は大正十一年七月以降昭和初めまで別途『金の船』発行。
  ●さらに、“山田耕筰、草川信、小松耕輔らの作曲家がこれに作曲し、童謡運動を起こした”と書いてある。 小松耕輔は、『赤い鳥』に参加していない。成田爲三、近衛秀麿、弘田龍太郎らの間違い。
  (註) 宮原晃一郎は、『赤い鳥』に毎号のように童話を発表していた時期があった事を付け加えておきたい。
 二度目の妻となる<らく>を迎えて長女すゞを、さらに長男珊吉を得た事が、児童読物に関心をもつ動機となり、人生の深刻さを扱うよりは、美を求め、抒情性を求める彼の資質が、童話的なものに接近させた。

  ・大正八年(1919年)五月、『赤い鳥』は、この月から新しい企画として「赤い鳥曲譜集」を巻頭に乗せる。 (「赤い鳥曲譜集」その一)かなりや 西條八十作歌 成田爲三作曲。従来の小学唱歌に対する大正期童謡曲譜の運動は、ここに端を発する。七月、喘息のため葉山に転地療養する。十月、『赤い鳥童謠』第一集を赤い鳥社から発行。西條八十・北原白秋の童謠に成田為三、山田耕筰、近衛秀麿、草川信など作曲家が曲譜をつけた曲譜集。

  ・大正九年(1920年)一月、『赤い鳥』の口絵に山本鼎選の自由画がつくようになった。
 文壇諸家の童謠は勿論、三重吉の綴方、白秋・八十の童謠と自由詩、成田爲三・山田耕筰などの童謠曲譜、久保田万太郎などの少年少女劇と共に、 『赤い鳥』の児童芸術運動は、これで出そろった。二月、『赤い鳥童謠』第二集刊行。五月、「類似雑誌に対する非難」と題する私信の一節が、雑誌『おとぎの世界』五月号に載る。 九月、『赤い鳥童謠』第三集刊行。十月、葉山より目白上り屋敷に転居。十一月、下高田町に移る。赤い鳥社より、新たに「赤い鳥の本」として『古事記物語』上巻を発行。十二月、『古事記物語』下巻を刊行。

  ・大正十年(1921年)一月、★<らく>と離別。「赤い鳥の本」の第三冊として西條八十の『鸚鵡と時計』を刊行。 二月、『赤い鳥童謠』第四集刊行。三月、「赤い鳥の本」第四冊、菊池寛著『三人兄弟』刊行。五月、「赤い鳥の本」第五冊、久保田万太郎著『ふくろと子供』刊行。 六月、「赤い鳥の本」第六冊、小山内薫著『石の猿』刊行。七月、「赤い鳥の本」第七冊、宇野治二著『帰れる子』刊行。 八月、両児を軽井沢に避暑に出し、三重吉は学習院の馬場で乗馬の練習を始める。『赤い鳥童謠』第五集刊行。 「赤い鳥の本」第八冊、楠山正雄著『苺の国』刊行。十月、★巣鴨学園創立者の遠藤隆吉の世話で、<小泉はま>と結婚。 十一月、「赤い鳥の本」第九冊として、三重吉自身の所謂事実話を集めた『救護隊』を刊行。

  ・大正十一年(1922年)一月、「赤い鳥の本」第十冊、江口渙著『木の葉の小判』刊行。三月、この月から、 『赤い鳥』に科学的材料を扱った読物を載せる。六月、『赤い鳥童謠』第六集を刊行。八月、「赤い鳥の本」第十一冊、長田秀雄著『鳥追船』刊行。 九月、「赤い鳥の本」第十二冊、小川未明著『小さな草と太陽』刊行。

  ・大正十二年(1923年)四月、長女すゞ豊島師範附属小学校に入学。『赤い鳥童謠』第七集刊行。五月、「赤い鳥の本」第十三冊、宮原晃一郎著『龍宮の宮』刊行。 九月、関東大震災が起きる。三重吉宅は人命建物無事、『赤い鳥』十月号は全て焼けてしまい、十月号は休刊、十二月号も雑誌組合の協定により休刊。 「大震火災記」は『赤い鳥』十一月号に載った。

  ・大正十三年(1924年)四月、両児を連れて広島に帰り、父の法事をすます。珊吉、豊島師範附属小学校に入学。
 震災後の不景気は『赤い鳥』の経営の上に返品の増加となって現れる。七月号から『赤い鳥』のページを増やしてみる。十月、「赤い鳥の本」を「赤い鳥叢書」と名を改め、 とりあえず『古事記物語』上・下巻を赤い鳥から刊行。

  ・大正十四年(1925年)三月、「赤い鳥叢書」第三冊として久保田万太郎著『おもちやの裁判』刊行。児童劇歌劇学校の設立に奔走したが、結局断念する。 四月、自由画展覧会を新宿園で開催。六月、『赤い鳥童謠』第八集刊行。

  ・大正十五年(昭和元年 1926年)十一月、★祖母<れい>、百二歳で逝去。

  ・昭和二年(1927年)三月、四谷須賀町に移転。「赤い鳥叢書」第四冊、豊島与志雄著『夢の卵』発行。
 円本出版が大流行し、児童本の分野でもアルスの「日本児童文庫」、興文社の「小学生全集」が刊行される。 三重吉の『アンデルセン童話集』もアルスの「日本児童文庫」の一冊として刊行される。 十月、「日本児童文庫」中の一冊として『日本童話集』下巻が刊行され、「ぽつぽのお手紙」と「お馬」が収められた。 一方、春陽堂の「明治大正文学全集第二十八巻」に『鈴木三重吉篇』が刊行された。然し、この円本の大流行と反比例して、雑誌の売れ行きが鈍り、 『赤い鳥』も、円本の印税で辛うじて支えている観があった。十月、仙台の東北大学で開かれた乗馬会に参加、乗馬を披露する。

  ・昭和三年(1928年)三月、改造社の『現代日本文学全集第三十三巻少年文学集』が刊行され、「古事記物語」と「敍」の文章が載る。
  五月、日本騎道少年団を設立。騎馬により少年の精神教育をする事が主旨。十三歳以上、十五歳までの少年三十人ばかりが入団。 七月には富士の裾野で合宿生活を送る。十二月、『赤い鳥』を大型本に改め、頽勢の挽回を計る。
   <馬に乗る鈴木三重吉 昭和二・三年頃、舊學習院の馬場で>
   <左下の写真は昭和三年の三重吉 タバコを吸っている>

  ・昭和四年(1929年)三月、不慮の災難で左大腿骨を折り、五月まで赤坂前田病院に入院。あと十月まで苦痛な治療を続ける。 雑誌『赤い鳥』は、三月号(第二十二巻第三号)の後、一時休刊になる。三月号は昭和四年三月一日に発行されている。三月号には鈴木三重吉作「かたつむり」(童話)が掲載され、綴方の選者もしている。
 ※雑誌『赤い鳥』発行参照 
 四月、長女すゞ府立第三高等女学校に入学。
 これまでの童話を大型本にまとめ春陽堂から刊行する事にした。五月に第一集として『世界童話 黒い騎士』を刊行。六月、第二集『世界童話 湖水の女』刊行。 七月、西大久保に移転。八月、第三集『世界童話 踊のたき火』刊行。九月、第四集『世界童話 かるたの王さま』刊行。 十一月、第五集『世界童話 十二の星』刊行。十二月、第六集『世界童話 少年王』刊行。

  ・昭和五年(1930年)二月、賀陽宮殿下、騎道少年団を謁見。無理をして参加したため肺炎にかかり重態。四月上旬まで就床。 結局、昭和五年は『赤い鳥』一年間休刊になった。四月、長男珊吉、暁星中学校に入学。五月頃、今度は返品の無い会員制にして雑誌『赤い鳥』復刊を計画する。 このため、六月頃から、会員の募集をかねて、横浜、木更津、熊谷、韮崎、岐阜、仙台、石巻、白石、新潟、広島、函館など日本の各地に出張、綴方の指導について講義を重ねる。 六月、改造社の『現代日本文学全集第四十二巻 鈴木三重吉集 森田草平集』刊行される。七月、騎道少年団と富士裾野で合宿。 八月、アルスの「日本児童文庫」の一冊として、『日本建国物語』を刊行。これは「古事記物語」中の、日本の最初の建国をつたえている部分を収録したもの。

  ・昭和六年(1931年)一月、雑誌『赤い鳥』を新たに会員制にして復刊。経営と編集とに努力を捧げ、 以来毎号一、二篇の童話を書く。与田凖一、平塚武二、豊田三郎などが編集を手伝う。四月、騎道少年団が第一回卒業生を送る。五月、騎道少年団に第四回新一年生が入団。

  ・昭和七年(1932年)六月、与田凖一『赤い鳥』編集の手伝いを辞め、代わりを森三郎が担当。 十月「春陽堂少年文庫」の一として『古事記物語』刊行される。 「春陽堂少年文庫」には、この後『アンデルセン童話集』『ゼメリーの馬鹿』『黒い沙漠』『星の女』『ばかの笛』『どんぐり小坊主』『びつこの狐』『あひるの王様』 『七面鳥の踊』『かぐや姫』『かなりや物語』『長鼻物語』『湖水の女』『銀の王妃』『海の女王』が引続いて収められた。十一月、「春陽堂文庫」として『小鳥の巣』刊行される。 『赤い鳥』に「ルミイ」の連載を始める。

  ・昭和八年(1933年)四月、騎道少年団が第三回卒業生を送る。五月、騎道少年団に第六回新一年生が入団。北原白秋『赤い鳥』と絶縁。 以後、自由詩の選は三重吉が担当する。

  ・昭和十年(1935年)四月、騎道少年団が第五回卒業生を送る。 五月、騎道少年団に第八回新一年生が入団。健康次第に衰え、騎道少年団の訓練にも、あまり参加できなくなる。 八月、家族と共に山梨県小淵沢に避暑。同地にて『綴方読本』の執筆に着手する。同月帰郷。 十月、この月から喘息にて臥床。中央公論社より『文壇出世作全集』刊行され、「山彦」が収録される。病を押して『綴方読本』の校正をする。 十一月、岩波文庫の一冊として『千鳥』刊行。十二月、『綴方読本』を中央公論社より上梓。

  ・昭和十一年(1936年)二月、岩波文庫『桑の實』刊行。四月、長男珊吉、福岡高等学校に入学。 四月、騎道少年団が第六回卒業生を送る。五月、騎道少年団に第九回新一年生が入団。この頃より病勢つのり神経痛と誤診される。 六月、病状悪化し、二十四日夕刻、東大病院真鍋内科へ入院。二十七日、 ★<鈴木三重吉>逝去。没後、肺臓癌と判定。告別式は、二十九日、西大久保の自宅で、三重吉の日頃の考えに従い、無宗教の形で行われた。墓は、広島市の長遠寺。
  『赤い鳥』は八月号を最後に終刊となる。十月に特別号として『赤い鳥鈴木三重吉追悼号』三百六十ページの大冊が刊行された。
 鈴木三重吉の生涯で特筆すべき事は、大正七年、初の童話・童謠誌『赤い鳥』を創刊した事です。 作家・画家・作曲家ら多くの執筆陣の協力を得てその編集に専念、自らは「古事記物語」などの再話・翻案を掲載した。 『赤い鳥』は全国に自由画運動・綴方運動を普及させる一方、坪田譲二・新美南吉・与田凖一ら多くの児童文学者を育てた。 ほかに『鈴木三重吉全集』(全六巻 岩波書店)、『綴方先生』(春陽堂)、『鈴木三重吉童話全集』(六巻で中絶 冨山房)などがある。 昭和五十年(1975年)に『鈴木三重吉童話全集』(全十巻 文泉堂書店)刊行。
  (註) 略歴を見ると、『赤い鳥鈴木三重吉追悼号』に北原白秋が「貴き騎士」「赤い鳥小鳥」の詩を書いた事が納得できます。

  (参考文献)
  ・『赤い鳥鈴木三重吉追悼号』(第十二巻第三號 赤い鳥社)
  ・日本近代文学館・編『日本近代文学大事典』(講談社)
  ・『日本児童文学大系10 鈴木三重吉』(ほるぷ出版)

 鈴木三重吉生誕の地・広島市に建つ記念碑と像の写真・撮影は池田千洋。

 【「童謡」とは】
 詩人が子供のために書いた「童謡詩」は読む詩でしたが、曲が付き歌われだすと、曲が付いたものが「童謡」と思われるようになってしまいました。 たくさん書かれた「童謡詩」の多くには曲がついていません。たとえば、『白秋全童謡集』(岩波書店)Ⅰ~Ⅴの詩に曲がついているのは、わずかです。
「あしがら童謡祭」にて

「赤い鳥小鳥」の手話

絵は鈴木芳美さん


著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫
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 北原白秋作詞の「雨」(雨が降ります 雨が降る」に成田爲三も作曲しています。



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