シリーズ部落差別 2

 

狭山事件と部落差別

 

狭山事件は、誘拐殺人事件ですが、警察ははじめから部落に的を絞って捜査を行っています。

事件発生以来、二ヶ月余りをへて、石川一雄氏からオドシとペテンでデッチあげた「自白」を手にいれた直後に、竹内狭山署長は、「親族で固まった″農村スラム街″とのたたかいが、善技さん殺し捜査のすべてだった」(『東京新聞』六月二四日)と報道関係者にのべている。つまり、部落とのたたかいがすべてだった、部落から犯人をだすことが捜査のすべてだった、と告白しているのである。実際、狭山事件における警察の捜査は、五月一日の深夜の石田一義氏(被差別部落出身)の取り調べ、犯人をとり逃がした三日の公開捜査、部落民五、六人を容疑者と発表したこと、石川一雄氏を「犯人」にデッチあげたことの、始めから終わりまで、部落差別捜査としてつらぬかれた。警察権力は、最初から部落民を犯人と決めつけ、意識的、計画的にデッチあげをおこなっていったのだ。

警察権力は、石川一雄氏が無実であることを百も承知のうえで、部落民であるというただ一点で「犯人」にデッチあげ、不当逮捕し、拷問による「自白」の強要をおこなった。しかもそれを、国家権力・警察・検察・裁判所の総ぐるみでおこなったのである。この国家権力による差別犯罪・権力犯罪の暴力的強行こそ、狭山事件の核心問題である。そして、そのことを軸とし、テコとしてマスコミによる部落差別報道が洪水のようにおこなわれ、地元の被差別部落をはじめ三百万部落大衆におそいかかり、労働者人民の差別主義への屈服をつくりだしたのである。階級支配の根幹である治安問題において、窮地にたたされた国家権力は、部落差別をつかってその危機をのりきることを階級意思としたのであり、それにもとづいて、マスコミが、支配階級の意を体現し、さらにみずから部落差別をおこない、差別をあおりたてていったのである。

したがって、まず、警察を中心とする国家権力の部落差別・権力犯罪という視点から事件をみていかなければならない。

はじめから部落民を犯人とみた警察
五月一日夜、一九時五〇分、中田家から狭山署に娘の善枝さんが行方不明となり、家に脅迫状がなげこまれたことが通報された。誘かい事件とみた警察は、はげしくうごきはじめる。

脅迫状をよんだ警察は、誤字、あて字が多いことから、犯人は小学卒ていどのもので、看板もだしていない食料品店の名称=「佐野屋」を知っていることから地元のもので、「車出いく」とあることから車をつかうものと判断した。警察が犯人としてまず考えたのは、地元の部落民であった。
そして、脅迫状に「五月二日の夜一二時」とあることから、身のしろ金ひきわたしの指定時間は、二日午前零時の可能性もあると考えて、すぐさま「佐野屋」周辺で張り込みをおこなった。

一日深夜に、「佐野屋」から約五〇〇メートルの自宅に帰ろうとして、車でとおりかかった養豚場経営の石田一義氏が、検問をうけ調書をとられる。ただの検問ではない。車で午前零時ころ、「佐野屋」の近くをとおったことで、犯人と関係のあるものとみた取り調べである。しかも、石田一義氏は、狭山市内の被差別部落出身である。警察は、部落民だからあやしいとして取り調べ、調書までとったのだ。デッチあげのための差別捜査のはじまりである。

翌朝、警察は、石田養豚場に刑事をおくりこみ取り調べ、雇い人、もと雇い人の氏名、住所を聞きだしている。そのなかには、石川一雄氏の名前もあった。石田一義氏が、狭山市内の被差別部落出身であり、養豚場関係者も部落民であることに警察は目をつけたのである。しかも、石田養豚場は、「佐野屋」からも被害者宅からも約五〇〇メートルのところにあるのだ(以上の事実は第二審公判であきらかになった)。地元中の地元である。ここに犯人がいる、と最初から警察は疑いをかけ、容疑者とみたてて、捜査をはじめたのだ。部落民を「犯人」にデッチあげる捜査のはじまりである。

さらに、警察は、二日には、被害者の足取り捜査をおこなっている。通学路を中心に目撃者をさがしだそうというのである。石川一雄氏の近所にすむ金子三郎氏は、二日に、刑事がいれかわりたちかわりきて、「きのう、自転車の後ろにカバンをつけた女子高校生が男の人と一緒に通ったのをみなかったか」と聞き込みをしていた、ずいぶんたくさん動員されているなと感じた、とかたっている。二日の時点から、通学路付近ということで、石川一雄氏のすむ被差別部落に、警察が多数はいってきているのだ。警察が、部落民を犯人だと考えていることはあきらかだった。

犯人取り逃がし
三日午前零時、犯人は「佐野屋」前にあらわれた。だが、警察は、四〇人の包囲陣をとりながら、犯人を取り逃がしたのである。完全な敗北であった。非難が警察に集中することは目にみえていた。しかも、約一月前に、吉展ちやん事件で犯人を取り逃がすという敗北を喫したばかりなのだ。警察は顔面蒼白となった。
この失敗によりひきおこされた治安の危機をのりきるには、犯人の早期逮捕以外にない、と警察は考え、いよいよ部落から犯人をだす、という方向に具体的にふみだすのである。

三日は、朝から捜査一課一五人、狭山署三〇人、機動隊四四人、地元消防団七四人が協力、付近の山狩りなどをおこない、善枝さんの足どりをおい、聞き込みをおこなった。

なによりも、日頃から目をつけている部落民に、捜査の目が、なかでも石田養豚場関係者に、むけられた。足どり調査と称して、石川一雄氏のすむ部落にたいする聞き込みもひきつづきおこなわれた。
三日夜、六時三〇分に、警察は記者会見をおこない、公開捜査にふみきり、この段階で、「捜査はすすんでおり五、六人の容疑者がいる」と発表した。そして、犯人は地元の事情にくわしいもの、脅迫状から小学卒ていどの知識のものと断定・強調した。「犯人は部落民」であり、捜査の結果、容疑者もあがっている、という発表である。露骨に「部落民が犯人だ」とはいえないから、いわないだけのことで、実際には、部落民を容疑者として捜査をおこなっていること、しかも、「五、六人の容疑者」がいることをしめしたのだ。

だが、なにひとつ確証をもっていたわけではない。それは、この記者会見によって、部落に目をむけさせ、また、事件解決ははやいと、マスコミをとおして情報をながすことで捜査に期待をもたせ、当面の危機をのりきることでもあった。まさに、警察は、デッチあげのための部落差別捜査をおこないつつ、同時に、部落差別を自己の危機のりきりのためにつかっていったのだ。
四日、午前一〇時三〇分、中田善枝さんが死体となつて発見され、殺人事件に発展した。殺人事件となったことで、警察がいっそう窮地においつめられただけでなく、国家権力中枢が危機にたたされることになった。柏村警察庁長官が辞任した。たびかさなる捜査の失敗、警察の威信の低下、治安の危機のなかで辞任においこまれたのだ。かわって篠田国家公安委員長(自治大臣)が、治安担当の責任者として前面にでてくる。

そして、警察庁は、田中刑事部長を地元に派遣し、指導にあたらせた。かくして、狭山事件は、一地方の事件ではなく、中央に直結する事件となった。
                                           

                                                                                                 つづく

01  02  03  04  05 06  07