シリーズ部落差別

 

生い立ちに見る部落差別の厳しさ
 石川さんの生い立ちを見ると、当時の部落差別の実態が、どのようなものだったのか、よくわかります。今では考えられないような、厳しい差別を受けながら育ったのです。石川さんは、そのことを次のように述べています。(『石川一雄 獄中日記』三一書房刊より)

小学校二年から百姓仕事
 鍋や釜のことですが、釜だけはあって、鍋はなかったと思います。それで、進駐軍(米軍)が使い捨てた缶詰の大きな空缶をとってきて、両端に穴をあけて針金でつるし、釣鍋代りに使っていたのです。水運びに白山神社の井戸まで行く子どもたちの日課については述べましたが、そのバケツも、この鍋と同じ進駐軍の空缶を利用してバケツ代りにしていたのでした。竿みたいな、青竹を天びん代りにしてそれをかついで運んだのです。家には水がめなんかはなかったので、四個ぐらいあったその空缶のバケツに水を汲んできたまま、台所に置くのでした。それがなくなると、また水汲みの仕事が待っていたのです。私たち子どもは、その水汲みの仕事のあいまに、家の燃料にしているたきぎや柴をとる仕事もやるのです。雑木林へ行ってそれを拾ってくる仕事は、兄と私の二人で、ほとんどしていました。この仕事は、「前っ原」の子どもたちはみんなしなけれはならないものでした。
 昭和二一、二年(ママ)ごろから畑仕事もしました。敗戦後からのことですが、もと飛行場の敷地だったのを払い下げを受け、私たちの家の畑が三反歩くらいあったのです。そのうち一反歩はどこかに分けてやって、結局二反歩でしたが、私と兄と二人で百姓仕事をやりました。父は外に日雇い仕事に出ていたからです。小学校二年生ごろのことですが、「前っ原」の子どものうちじゃ、私がいちばん、鍬をふるったりする百姓がうまかったのです。
 作付けていた主なものは、ねぎ、ほうれん草、大根といった野菜類でした。自分の家で食べるのは少しで、大根などは一本も引かぬ畑のまま、一畝いくらというふうに八百屋に売るのでした。いくらだったかは、みな父がしていたのでわかりませんが、そのあと八百屋は勝手に引きぬいていくわけです。
 そういう家でばかりする仕事は小学校三年ぐらいまでで、四年生になったあたりからは、通称山学校(花嫁学校)といっている高橋四郎さんの家に、父と一緒に百姓仕事に行くようになりました。じゃが芋なんかの収穫時期になれば、その前日に、高橋さんの女中が「来てくれ」と呼びにくるわけです。翌朝、父といっしょに、私はもちろん学校を休んで行くのでした。父の日給は百二十円ぐらいで、私の日給は、たしか三〇円から五〇円だったと思います。
 そのころは、父の仕事が大谷くにみちのお茶工場にも山学校の日雇い百姓の仕事がないときでも、学校を休んで父の仕事に一緒について行くようになりました。山へ「篠」なんか取りに行きました。山といっても近くの雑木林じゃなくて、私の家の北側、片道三キロのところにある柏原の方の山本クロース、入間川のすぐ裏の山まで行くの一でした。「しの」というのは竹の小さなやつですが、寵なんかを編むときに使うものらしいです。
 つまり、学校が片手間で、仕事が主になってしまったのは、小学校の四年あたりからなのです。父がお茶工場に行ってるときには、いままで通り水汲みやたきぎ拾いに行ったり、兄といっしょに畑仕事をしたりしながらも、ほぼ学校へ行けたのですが、山学校や山仕事があるときまって学校を休んで、父と一緒に働きに出るようになったのです。私にできる仕事がふえてくるにつれて、学校を欠席することも多くなったのです。

ノートが買えない
 そのほかのことが原因で欠席する日ももちろんあったのです。雨が降っているときはきまって休みました。私の家には傘が一本もなかったのです。それから学校でカネを徴収する日です。P・T・A会費などですが、そのカネが払えないので、その日は休みました。あるいはまた、学校へ行ったとき、先生があすは図画の写生があるとか、習字があるとか、社会の何やらがあって、画用紙や半紙やわら半紙を三枚なら三枚を「あした買ってきなさい」と言うんです。それが買えないから結局学校へ行けなかったのです。また、ノートでも、当時は課目別に五冊ぐらい持っていなければならなかったのですが、私はそのノートを一冊も持っていなかったのです。先生から「ノートを買ってきなさい」と言われたって、もちろん買えませんので、そのつぎの日はきまって休むのでした。鉛筆だって一本も持っていませんでした。けしゴムも下敷きも何もなかったのです。教科書だけはありました。近所の一年先輩の人が使い古した教科書でも使えたので、それをもらい受け持っていました。ランドセルは、石田さんという家から、もらった古いのを持っていました。
 私は小学校三年ぐらいまでずっと着物を着て学校に行きました。ちゃんちゃんこを着て行ったこともあります。「前っ原」の子どもはみんな同じで、服など買ってもらえなかったのです。「新宅」のほうは学生服とかそれに近い服を着ていました。他の地域の人たちはもちろん学生服を着ていたのです。着るものがなくなって、「新宅」の人からもらった着古しの着物を着て行ったこともありました。それには破けたあとに継ぎを当ててあったりしましたので、一般の同級生や上級生から「きたない」とか「継ぎを当てた着物を着てる」とか言われ、さんざんいじめられたものでした。
 夏のあいだは履物ももったいないからほとんどはだしで通いました。五月から十月ごろまでのことですが、「前っ原」の子どもたちはみんな私と同じで、草履も何もはかなくても、慣れっこになっているから平気でした。寒くなると、ゴム長靴を踵あたりで切ったような、たしか富士のマークの入った短靴をはいたのです。「一般」の子どもたちはみんなズック靴をはいていました。長靴や短靴は当時配給がありましたが、ズック靴は個々で靴屋で買っていたのです。もちろん私たちは配給の短靴さえようやく買ったのに、ズック靴まで買うカネなどあるわけがありませんでした。それだからこそ、夏のあいだはその短靴をはくのさえもったいないと思い、はだしで通っていたのです。
 学校に弁当は持って行かなかったのでした。前に述べたように米飯さえなかったのですから、昼の時間になると、学校から片道一キロちょっとある道のりを、私ばかりでなく、「前っ原」の子どもたちがほとんどみんなで、家に一度帰ってめしを食い、また学校へ戻るのでした。仕事のない日に学校へ行き、仕事があればいつも学校を休んでいたので、教室での授業はほとんどわからないのでした。子どもながら、ともかく食い物を得るための毎日に追われていた気がします。学校へ行くのも勉強に行くというものとはちがっていた気がします。学校でも勉強をしたという記憶はほとんどなかったし、学校で興味をもったり、あるいは好きだった学課などは一つもないのでした。当時の私にとって、休み時間に大ぜいで遊べるので、そのなかにいるのが楽しくて、それだけにひかれて行っていた気がするのです。
 学校に行って、本を読んだという記憶は一度もありません。私の席はいちばん前列にありましたが、先生は、一度も指名して読ませようとしたことなどなかったのです。だから家に帰って、教科書をひろげて見ることなどはまったくなかったのです。つまり、小学校に行っているあいだ、私はまったく字がわからなかったのです。

ほったらかしの教師
いま考えてみると、先生は私などまったく放ったらかしていたと思えるのです。少しも字がわからないのに、助言はもちろんのこと、何も文句も言いませんし、勉強しなさいとも言われたことすらありません。それなのに、ふしぎなことですが、どうして「ノートを買ってきなさい」などと注意したのでしょうか。なんにもできなかった私に向かって「わら半紙を買ってきなさい」などと言ったのでしょう。私の経験から考えてみて、まったくおかしいことだし、無責任すぎるものだったと思います。ふしぎなことはそれだけではありません。私は上級生になると登校日の約半分は休み、六年生には三分の二以上も欠席しました。六年間で登校した日よりも休んだ日数のほうが多かったのです。けれども学校の先生から一度も家庭訪問を受けたことがないのです。家の近くまであるいは来てくれたかもしれませんが、いつも家にいた母からもそれを一度だって聞いた記憶がありません。まして先生から訪問したいからなどということを一言だって言われたことがないのです。
 早退きもよくしました。朝、母や父から、何時ごろからこういう仕事があるので帰ってこいと言われると、先生にそう言って早退きしたのです。とにかく私は学校へ行って面白かったのは、ただ一つ、休み時間に大ぜいの仲間と遊べるということ以外には何もなかったように思います。勉強がわからず、先生にもそのまま放っておかれ、一度は登校して行っても、途中で家に逃げ帰った記憶が何回もあります。その一つの原因が、授業が面白くないこともあったのだと思います。

小学校を追い出されて奉公に
そのようにして小学校を追い出されたのは私ばかりではありません。昭和二十年以前に生まれた「前っ原」の子どもで中学校へすすめた人はほとんどなかったのでした。小学校の途中でほとんど奉公に出ます。私の兄も五年生で奉公に出たのですが、奉公先はずっと一ヵ所でした。私は何ヵ所にも行ったのです。姉も小学校だけで東京に奉公に出ましたが、幸運にも、その先で中学校に行かせてもらえたのです。私たちの家の本家に当たるCの家でも、男六人ぜんぶが中学校へ行けませんでした。
 私は六年生の途中で学校をやめ、百姓家に住みこんで子守り奉公に出たのです。慣れないことで、私はすぐに逃げ出したのです。当時、父は大谷くにみちのお茶工場に勤めていました。私はその工場も大谷の本家が「十一軒」というところにあることも知っていました。奉公先は「十四軒」にありましたから、とりあえず大谷の本家に逃げこみました。名前を聞かれたとき、父が大谷のお茶工場につとめているとだけ言ったら、その主人が連れて行ってくれたのです。家に父といっしょに帰ったのですけれども、二、三日して、また百姓家の奉公先に連れ戻されたのでした。

 石川さんが、生なましく語っているとおり、当時の多くの部落民は、部落差別の中で、ろくに小学校にも行けなかったのです。義務教育さえも、差別によって奪われたのです。

 

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