玄知(げんち)寛政9年(1797年)〜天保6年(1835年)


 尚長の長男として生まれる。幼名は和三郎、字は大由または大雄と称し、後に

玄知と改めた。また画人として柿園(しえん)と号した。背は低かったが眉目清秀、

才気は人を超えていた。三浦黄鶴(梅園の息子)および脇蘭室に学び、19歳で

足万里
の門に入る。詩文に長じ、窮理学に通じ、あらゆることに秀でていたという。

文政5年(1822年)、25歳の時江戸に出て、加賀候の医官藤井方享について蘭学を

学んだ。4年間学んだ後、母の病を知って帰国。文政9年正月、姉婿の尚翼から家

政を譲られ宗家を継いだ。松平親良公の侍医となる。文政11年、シーボルトに学び

たいと願い出て長崎へ赴いた(この時、甥の博洋はすでに1年前から長崎にいた)。

天保2年(1831年)江戸へ遊学したが、同6年、39歳の若さで江戸にて没した。

 医技に優れ、漢と蘭を兼ね、化学分析の術に長じた。詩賦文章とも一家を成し、

頼山陽広瀬淡窓らに学んだ。画人柿園として も名を遺し、竹田岡藩の文人画家

田能村竹田とは特に親交が深かった。

 

 

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