博洋(はくよう)享和元年(1801年)〜明治10年(1877年)

 幼名は松太郎、後に伯庸、または博洋と改めた。少年時代に帆足萬里に師事し、儒教や漢学、詩を学んだ。文政8年(1825年、24歳)、松平公より藩医として取り立て られ、参勤交代にともない江戸に上る。1827年(26歳)、シーボルトを訪ねて一人長崎に向 かい、西洋医学を学ぶ。帰郷後、再び江戸勤務を命じられ、その後46歳まで計18年を江戸で過ごした。杵築へ帰る旅の途中、妻が大阪で肺病のため死亡し、幼児4人を連れての帰郷となった。 杵築に帰った博洋は、帆足萬里と親交を深め、医者としてのみならず文人としても充実した時期を過ごした。この頃、城の西にある「谷川鶴の口」に居を定め、鶴渓(かっけい)と号した。60才の時、再度来日したシーボルトを訪ねてコレラ治療法を習得する。シーボルトは博洋との再会を大変喜んだという帰郷に際してシーボルトは博洋の篤志を激賞し、医聖ヒポクラテス像を贈った。 この図は佐野家の家宝の一つとして保存されている。帰郷して郷土の医療に深く貢献し、「豊後西洋医術の先達」と称された。明治10年7月逝。77才。

 

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