広瀬淡窓 ひろせたんそう 1782〜1856 

佐野家との縁:玄知(1797-1835)が親しく学んだ。

 

  江戸後期の儒学者、教育者、漢詩人。豊後(ぶんご)国日田(現、大分県日田市)の御用商人の長男として生まれる。通称は、幼時に寅之介、やがて玄簡(げんかん)、長じて求馬(もとめ)と称す。名は初め簡、のちに建。字(あざな)は初め廉卿(れんけい)、のちに子基(しき)。淡窓はもっとも知られた号であるが、そのほかにも清渓(せいけい)、苓陽(れいよう)、遠思楼(えんしろう)主人などがある。死後の門人による諡(おくりな)は文玄先生。

  生まれつき病弱であったため、読書にあけくれる少年期をすごし、父、三郎左衛門から儒学、書道などをまなぶ。13歳のときの1794年(寛政6)に、代官の前で漢籍を講じている。97年、西海第一の儒者とされた筑前福岡の亀井南溟(なんめい)・昭陽親子にまなぶが、2年ほどで病気のため帰郷。数年間病気になやまされ、家業を実弟にゆずり学問の道をあゆむことになった。

  1805年(文化2)に日田長福寺の学寮を教場としてかりて私塾を開いた。のち移転して「成章舎」と改名、さらに2年後「桂林園」(または桂林荘)と称し、最終的には17年に再移転し、塾名を「咸宜(かんぎ)園」とした(1897年(明治30)まで存続)。

  淡窓の篤実(とくじつ)な人格と、後述するような新しい教育制度によって咸宜園の名声は高まり、全国各地から延べ3000人にもおよぶ塾生があつまったといわれ、その中には、高野長英、大村益次郎、長三洲(ちょうさんしゅう)、歌人の大隈言道(ことみち)らがいた。

  同園の教育方針(理念)は、「迂言(うげん)」にのべられている。第1は「人才ヲ教育スル」、つまり人間の生まれそなわった才能、天分を開花させる働きとして教育があるということであり、第2は「国家ノ用ニ供スルヨリ外ハナシ」というように、人才をはぐくむと同時に国家の用にたりる人間を育成するということである。

  そのための具体的な方法に、「三奪(さんだつ)の法」と「月旦(げったん)評」があった。前者は、年齢、学歴、身分の3つに関係なく、優劣を入塾後の成績にゆだねるというものである。一方後者は、日常の学習活動と月例試験の合計点によって毎月末に成績評価をおこない、それによって昇級するというものである。こうした当時としてはきわめて合理的で実力主義的な教育が徹底されることによって逸材がそだっていったのである。

  また、淡窓の学問的関心は幅広く、書経に由来する敬天を中核としながら、儒教、老教、仏教、さらに諸子百家や国学、蘭学にも通じていたという。弟の広瀬旭荘(きょくそう)とともに漢詩人としても知られ、写実主義の詩風に特徴があった。著作は、1971年(昭和46)に復刻された「増補淡窓全集」全3巻にまとめられている。

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