頼山陽 らいさんよう 1780〜1832 

佐野家との縁:玄知(1797-1835)が学んだ。

 

    江戸後期の儒学者・漢詩人。名は襄(のぼる)、山陽は号。朱子学者頼春水の長男として大坂に生まれる。父の広島藩儒登用にともない広島に移住。幼時から詩文の才能を発揮したが、神経症にもなやまされた。18歳で江戸に遊学し、尾藤二州に師事したが神経症のため翌年帰郷。21歳のとき脱藩したが、つれもどされ26歳まで自宅に幽閉される。このころから「日本外史」の執筆をはじめている。

   1809年(文化6)備後(びんご)の菅茶山の廉塾の後継者としてまねかれるが、1年余で京にでて、私塾をひらいた。その後、京都を中心に活躍し、門弟教育のかたわら多くの文人墨客と交流。26年(文政9)には「日本外史」を完成させ、翌年松平定信に献上した。朱子学を信奉したが、実用の学問を重視して経世済民(けいせいさいみん)を説いた。「日本外史」「日本政記」は死後出版され、幕末・維新期の志士たちに影響をあたえた。ほかに「山陽詩鈔」「日本楽府(がふ)」などの著書がある。幕末の志士の頼三樹三郎(みきさぶろう)は山陽の3男である。

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