帆足万里 ほあしばんり 1778〜1852 

佐野家との縁:博洋(1801-1877)が幼少時に師事し、江戸から帰郷後に親交を深めた。博洋の叔父、玄知(1797-1835)も学んでいる。

 

  江戸後期の儒学者、理学者。豊後国日出藩(ぶんごのくにひじはん)家老の帆足通文(みちぶみ)の3男として生まれる。万里は本名で、通称は里吉。

  1791年(寛政3)から豊後国小浦の脇愚山(蘭室)に弟子入りして儒学をまなび、のち、大坂の中井竹山(ちくざん)や京都の皆川淇園(きえん)に師事した。1801年(享和元)には日田(ひた)の広瀬淡窓、博多の亀井南冥(なんめい)をたずね、教えをうける。とくに淡窓や南冥の嫡男昭陽らとの交流は、その後もつづいた。

  1804年(文化元)藩校の教授となり、藩士子弟の教育にあたるとともに、家塾を開く。のち、蘭日辞典「訳鍵(やくけん)」を手本に、オランダ語を独学で習得する。32年(天保3)からは藩家老となり、藩政改革、とくに財政の立て直しに腕をふるうが、35年に職を辞し、その後は日出郊外の西方目刈村に家塾西?精舎(せいえんしょうじゃ)をもうけ、子弟教育に専念した。

  万里の学問は幅広く、儒学だけでなく天文、医学、蘭学、仏教などにも精通していた。とくに、郷里の先輩で深く影響をうけた三浦梅園の条理学が論理にたよりすぎるとして、1836年ころ、蘭学にもとづいて西洋近代科学を導入し、「物に徴して理のあらわる」学をめざした「窮理通(きゅうりつう)」全8巻と付録をまとめた(没後刊行)。これは物理学の原理や天文学の基礎などを紹介し、独自の批判もくわえた労作である。

  ほかに、漢方と西洋医学の折衷論である「医学啓蒙」や国家経綸をのべた「東潜夫論(とうせんぷろん)」、独自の日本文化史「入学新論」など、多数の著書がある。それらを収載した「帆足万里全集」(全2巻)が出ている。

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