三浦梅園 みうらばいえん 1723〜1789 

佐野家との縁:尚貞(1723-1800)、尚長(1751-1814)と親交あ り。尚貞が現在の上町の家屋を新築した際に祝いに訪れ、「達亭」という屋号を命名した。

 

 

  江戸中期の自然哲学者。名は晋(すすむ)。梅園、洞仙、二子山人などと号した。豊後国(ぶんごのくに:大分県)国東半島の医師の家に生まれる。はじめ儒学をまなび、のち長崎で西洋天文学の知識にふれ、天地万物の条理への関心を高める。医師をいとなむかたわら、天地自然の根本的な認識をめざし、「玄語」「贅語(ぜいご)」「敢語(かんご)」の、いわゆる梅園三語とよばれる主要著作などをあらわした。

  梅園の哲学は、万物はなぜかくのごとくあるのかという疑問から出発した。伝記によれば、20代で西洋天文学書をまなび、天体の運行模型を製作して、天地の理法の探求に熱中し、30歳のときはじめて、天地に「条理」のあることを知ったといわれる。条理学とよばれるその哲学体系は、宇宙を相反するものの合一とみる弁証法的な考えを根本とする。また、条理を知るために、習慣的なものの見方をすてて事象そのものを基準とする「反観合一」という方法を説いた。

  梅園の思想は、儒学的な気の哲学(一元論)の流れをくみながら、西洋的な懐疑精神や実測、実験の方法などを調和的に融合した点に特色がある。そのほかの著作に、グレシャムの法則と類似した理論によって物価の原理を論じた「価原」などがある。彼は、数度の旅行以外は生涯を郷里の山村ですごし、豊後聖人とよばれて人々の尊崇をうけた。

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