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渋谷区の歩み(中)   五 江戸時代の渋谷  林 陸郎

     1 江戸期渋谷区地域の特色 top

 徳川家康が関東の新領主として江戸城に正式に入城したのは、天正一八年(一五九〇)八月一日のことであった。
 これを江戸御打入といい、のち江戸幕府では、これを記念して八月一日に八朔(はっさく)の祝儀といわれる行事を行なっている。
 家康の入国したころの江戸は、汐入りの茅原に近く、茫々たる武蔵野を望む田舎にすぎなかったという。
 城も中世土俵の城館のごときもので、関東二四○万石の大大名の居城としては、あまりにもみじめなものであったと伝える。
 こうしたところに城郭を修築し、家臣の屋敷地を配置し、また城下の町屋(まちや)を割り付けるのは大へん困難な事業であった。
 家康はまず当面の軍事上の必要から本丸の修築を手がけ、順次内郭・外郭を整備していったが、同時に直属家臣団の屋敷割りを行なった。
 外郭の主要な諸門(見附ともいった)は、江戸から放射状にのびた主要道路に通じており、のち、それにそって譜代(ふだい)大名や旗本(はたもと)の屋敷が配置された。
 牛込門のそと甲州口の内藤新宿の地に内藤清成を配し、赤坂門のそと厚木大山(おおやま)口の青山に青山忠成を置いたのも軍事的な配慮とみられ、山の手地域のこうした武家屋敷の配置は、大寺院の位置とも合せて、江戸城外側における周到な防衛計画と関係があった。
 また将軍のお膝元としての江戸は、当然全国最大の消費地となるわけであるから、市中の経営も重要であった。
 江戸城下町の本格的発展は、やはり江戸開府といわれる慶長八年(一六〇三)以後のことである。
 以後三代将軍家光(いえみつ)の頃までに江戸の町数は約三〇〇にたっし、これらは古町(こちょう)といわれて後まで特別に取扱われた。
 その後、明暦三年(一六五七)の大火のあと次第に江戸の町は拡大された。
 渋谷区地域の町々はこの江戸城下町の拡大期に成立したのである。
 大体江戸は八百八町とか、四里四方とかいって、その範囲ははっきりしていない。
 実際、行政区画としての江戸の境域を明確に設定する必要はなく、町は町奉行、寺社は寺社奉行、村は代官が支配するのであった。

 しかしたとえば、寺社の堂宇建立などのとき許される府内勧化の場合の江戸、江戸払いという追放刑の時の江戸、変死者・迷子などを掲示する塗高札場(ぬりこうさつば)が扱う江戸、旗本・御家人が江戸を出るとき届出をすべき江戸などの範囲はそれぞれきめられており、これがまた食違っていたのである。
 そこで文政元年(一八一八)目付から老中に提出された伺書に対して、老中は勘定奉行・町奉行の答申をうけて江戸の範囲を示した。
 それによると、寺社勧化場の江戸府内、塗高札場の江戸の範囲が採用され、前者を黒線で、後者は朱線で地図上に書き込んでいる
 この朱線の内部がいわゆる朱引内といわれたのである。
 この図で西郊の部分をみると、黒線では、千駄ヶ谷町・宮益(みやます)町・中下渋谷村・下豊沢村などが含まれているが、代々木・穏田・上渋谷・上中豊沢などの村々は外側になっている。 しかし朱線をみると、これらの村々も含まれており、朱引外には、中野・本郷・池尻・三宿・目黒・碑文谷(ひもんや)などの村名がみえる。
 この文政元年の老中の指示は、総合的にきめたほとんど唯一のものといってよく、それによると渋谷区地域は大体、江戸朱引内に入っているのである。
 もちろん、こうした江戸の範囲は時代によっても見方が異なっていたから、江戸時代の初期または中期頃では、渋谷区地域は江戸の外側あるいは接点とみなされていたものであろう。
 このように、渋谷区地域は江戸府内・府外の接点にあたり、江戸の発展と共に、それに取込まれていったのであるが、こうした地域的な特色は江戸時代の渋谷を考える場合、きわめて大切なことである。


「江戸朱引図」――渋谷周辺部

 元々この地域は、江戸近郊農村の特色をもつところである。従って、支配関係では幕府直轄地や旗本知行地が多いし、経済的にいえば、江戸地廻り経済によって早くから商品貨幣経済の洗礼をうけていた。また文化的にも江戸文化の影響を強くうけた村々だったのである。
 このような観点から、江戸時代の渋谷区地域を考える場合、近郊農村、武家地の拡大、町地の成立、という三要素を柱として見ていくことが適当であろうと思われる。

正保年間武蔵国諸領割合

正保年間豊島郡諸領割合

     2 村々と領主と農民と top

 天正一八年(一五九〇)関東に入国した徳川家康は、江戸城の修築、城下町の創設などと並行して、直轄蔵入地(代官支配地)や家臣たちの知行地の割当てに着手した。
 初期の知行割の方針は、
 (一)徳川家の直轄蔵入地は江戸周辺とする。
 (二)一万石以下の中・下級家臣(旗本・御家人など)の知行地は江戸付近、江戸から一夜泊りの範囲内に置く。
 (三)大知行取りの家臣(大名)は(二)よりもさらに離れた地域に配置する。
というものであった。
 このうち(二)の江戸から一夜泊りといのは、大体一〇里以内ということであるから、武蔵を中心に相模・上総(かずさ)・下総(しもうさ)の一部におよぶ地域である。
 渋谷区地域は江戸近接地であったから、もちろん(一)の直轄蔵入地となった村々が多く、また(二)の旗本・御家人の知行地も増えていった。

 第一表は『武蔵田園簿』を基準にしてみた一七世紀中頃の村高と領主である。
 このうち天正一九年にはすでに代々木村の柴山家領と穏田・原宿両村の伊賀衆(いがしゅう)知行地が成立している。
 ただ代々木村の二〇〇石は二代将軍秀忠の乳人(めのと)初台局(はつだいのつぼね)にあてられた乳人料に端を発するもので、これが彼女の里の柴山氏に伝えられたものである。
 穏田・原宿両村を知行地とした伊賀衆とは、もとはいわゆる伊賀流の忍者で、彼らは本能寺の変直後、窮地にたった家康を警固したという因縁で関東入国に際して江戸に召され、同心身分として諸番に分属されたのである。
 彼らには大縄給地といって穏田・原宿を含む七ヵ村が設定された。
 大縄給地とは、組別に一括してあてがわれた知行地である。
 さて第一表で注目されるのは、渋谷村六八八石六斗の地が一〇給にわけられていることである。
 実はこうした入組分紿という形は、江戸近郊農村ではかなり一般的にみられることで、一人の旗本が何村にもわかれて少しずつ給与されたあらわれでもある。

 たとえば、渋谷村で五八石を給された戸田七内政重(まさしげ)は、他に下総国葛飾(かつしか)郡や相模国などで合せて三三〇石余の知行地をもっており、三浦五郎左衛門義俊は、渋谷村七〇石のほか都筑(つづき)郡川向村三五石、多麻郡給田村二六石、同横根村二二石とわかれてあてがわれていたのである。
 次にこの渋谷村の分村についてみておこう。
 まず渋谷村の一村は上渋谷・中渋谷・下渋谷の三ヵ村にわかれ、またさらに上豊沢・中豊沢・下豊沢の各村を分出し、合計六ヵ村にわかれたのである。
 渋谷村の最初の分村の理由については明らかではないが、近郊農村としては村高も多く、広い村であったうえに、前述のごとく入組相給(あいきゅう)の複雑な状況が考慮されたものであろう。
 その時期についても明確ではないが、寛文一〇年(一六七〇)にはすでに中渋谷村の記載がみえ、おそらく寛文初年の分村ではないかと考えられている(『新修渋谷区史』)
 上中下の三ヵ村はもちろん飛地(とびち)はあるが、渋谷村をおおよそ北部・中部・南部の三つに分割したもので、上渋谷は宮益坂・道玄(どうげん)坂より北、宇田川町や神宮前の方面であって 上通りという名称はその名残りであろう。
 次に中渋谷村はそれより南側、つまり道玄・宮益両坂の南であって、いまの桜丘や渋谷三丁目などの地域、中通りの地名がその名残りとみられる。
 さらに下渋谷村はそれより南、恵比寿方面であって、下通りの地名を残している。
 さて上渋谷・中渋谷・下渋谷の三ヵ村は元禄八年(一六九五)に検地が行なわれ、従来、無高であった野米野銭場に掉(さお)が入れられた。
 この分は幕府代官の支配に属していたものであるが、一〇年にいたって、この新高は別村として独立したのである。
 すなわち上渋谷村からは上豊沢村が、中渋谷村からは中豊沢村が、下渋谷村からは下豊沢村が分離独立したのである。
 従ってこれらの三豊沢村はすべて畑の地で、その石高は、上豊沢村三二石三斗八升一合、中豊沢村一一九石九斗五升六合、下豊沢村一三九石四斗四升二合であった。
 これらは前述のようにすべて幕府代官支配地であったから、この時合せて三〇〇石弱の増石になったわけで、この検地分村の政策は、幕府の年貢増収策すなわち財政立直しの一環として行なわれたものとみられる。
 次に第一表すなわち『武蔵田園簿』以後の知行地の変化をみる。
 まず慶安(一六四八−五二)の初年に、代々木村内一二石六斗が甲斐徳美藩主(一万二千石)伊丹康勝の所領となった。
 一方柴山九右衛門後室知行分は、その娘が太田康茂に嫁したので、太田家に継かれ、その子康重のとき承応二年(一六五三)に知行、加えとなり、また先の伊丹家領も元禄一一年(一六九八)に収公され、代々木村は全村幕府直轄領となった。
 またこの元禄ごろには渋谷村でも戸田・島田・尾崎の三旗本家領があいついで上知となった。
 ところが、他方、新しく寺社領が設定されていった。
 寛文以後の状況をみてみると、寛文三年(一六六三)渋谷村一〇〇石が下谷(のち湯島移転)根生院領となり、同五年には代々木村の一〇〇石が赤坂山王社領に、同じく一五石が芝神明社領になり、貞享二年(一六八五)には渋谷村内三石九斗余、が西久保天徳寺領になり、元禄六年(一六九三)に代々木村内の八〇石と千駄ヶ谷村内の二〇石が根生院領になった。
 その後は穏田・原宿両村の伊賀衆の闕所(けっしょ)分がそのつど幕府領に編入されたほか、知行形態に異動はなかった。
 従って、当地域の支配関係はほぼ元禄期に安定したとみてよいわけである。
 さて、こうした領主に対して村の側はどうなっていたろうか。村には名主・年寄(組頭)・百姓代とよばれる村役人がいた。
 これを村方三役ともいっている。
 普通は一村一名主が原則であるが、当地区のように、幕府領・旗本・寺社領など一村がいくつもの給分に分れている場合は、それぞれ給分ごとに別々に村役人がおかれることが多かった。
 当時の古文書などをみると、当地区の村々はほとんどそうした形をとっていたようで、たとえば、一村が七給にわかれていると、それぞれに村方三役(むらかたさんやく)がおかれている。
 七給ならば一村に七人の名主がいたのである。
 名主は村役人の長(おさ)で一村を代表し、領主の命をうけて村内の統制や貢租の割当・収納をはじめとする様々な実務にあたる。
 その職務は大変広汎であって、村内でも由緒ある家、富農、名望・手腕のある者でなければ勤まらなかった。
 世襲・年番・入札(いれふだ)などのえらび方もあるが、多くは一定の家筋に固定する傾向があったのである。
 渋谷区地域で古くから土地に実力をもち名主を勤めた例を二、三あげると、まず上渋谷には田中氏がいた。
 同氏の先祖は讃岐(さぬき)太郎直高といい、文正年間(一四六六〜六七)駿河(するが)の田中(藤枝市)から渋谷の地に移住したと伝え、幕末まで一四、五代になるという。
 下渋谷には野崎・岩崎両氏がいた。
 ともに中世の渋谷氏の末流と伝えで野崎氏は慶長以後名主を歴任し、元文二年(一七三七)下渋谷村のうち野崎組を分離独立させた。
 野崎組は年貢割付その他一村のように扱われたので野崎村ともよばれている。
 岩崎氏は下渋谷村本組幕府領の名主を世襲し、天保年間(一八三〇〜四四)には御鷹場拵(こしらえ)人足肝煎(きもいり)を勤めて扶持をうけ、苗字御免となった。
 さらに穏田村の飯尾氏は古く今川氏に、ついで結城秀康に仕えたと伝え、慶長のころ土着して名主を世襲した。このほか、こうした旧家が各村に存在したのである。
 村々は名主の指琿のもとで各種の貢租を負担した。村の農民の負担を大きくわけると、(一)本年貢 (二)付加税 (三)雑税 (四)課役 (五)諸上納物などに区分される。
 本年貢は本途物成(ほんとものなり)ともいい、検地帳に登録された本田畑にかけられた基本的な年貢で、普通五公五民・四公六民などというのはこの本年貢についていわれるのである。
 毎年、付加税などと共に領主から年貢割付状(免状)に記されて、その年の分が村に賦課される。
 名主は村民の持高に応じてこれを割当、収納して領主の蔵に納めるのである。

 


渋谷の農村風景(『江戸名所図会』より)

 当地区は第二表のように、かなり田高が多い村もあったが、田の年貢は米、畑の年貢は金納が原則とされながらも、江戸中期以後はすべて金納になった村が多かったようである。
 次の付加税とは口米(くちまい)・口永(くちえい)・出目米(でめまい)その他の名目のものがあらて、いずれも本途物成に対して比率をもって付加される税で、領主や地域・時期によって差があった。
 雑税には本年貢以外に村々の石高を規準にして賦課され石高掛物、本田畑以外の山林・原野・河海などにかけられる小物成、水車・川船そのほか公許の営業にかけられる冥加(みょうが)・運上(うんじょう)などがあった。
 次の課役(かやく)としては、宿駅の継立人足に従事する助郷役、鷹場周辺の村々にかけられる鷹場御用人足、道路・橋梁・堰かどの普請人足、幕末多端のとき課された警固人足など、その種類は多かった。
 このうち助郷役をみると、当地としては、甲州街道内藤新宿の助郷として千駄ヶ谷・穏田・上渋谷・代々木・幡ヶ谷の各村が指定され、原宿村が追加された。
 東海道品川宿助郷としては中渋谷・下渋谷および豊沢三ヵ付が指定され、上渋谷・穏田・原宿・代々木村などが加助郷となっていた。
 また中山道板橋宿には幡ヶ谷・代々木両村が加助郷として触(ふ)れあてられることがあった。
 これらの村々は随時公用の通行があるごとに、宿場の問屋から人足と馬数の触当てをうけ、次宿までの継立労働に従事したのである。
 次に諸上納物とは臨時に課せられるものであるが、上納金・御用金のほか雑多な種類の現物での上納があった。
 これらのうち、当地域に特有な上納物についてふれておこう。
 当地域に特有といっても江戸近在の村々に課せられたものであるが、その代表的なものとして次のような種類があった。
 すなわち、本丸・西丸あるいは御広敷御用の杉之葉・松之葉・枝木・松虫・鈴虫・螢など、本丸・西丸御風呂御用の桃之葉・御墜所御用の桜之葉・うど根・活赤蝦蟇(いきあかがま)、製薬所御用の生蝙蝠(いきこうもり)・薬草、その他袋蝴蝶(ふくろぐも)・螻(けら)・海老蔓虫(えびづるむし)など多種多様であった。
 これらのうち松虫・鈴虫・蛍などは観賞用、生蝙蝠は製薬用、杉・松の葉などは蚊遣り、桃の葉はあせも防止用、螻や海老蔓虫などは鷹の飼料であった。
 これら上納物に対しては一定の代銭や運送人足賃が下付されたが、いずれも低廉なものであった。
 村々に対しては毎年その種類と分量の賦課があり、当初は臨時の性格であったが、しだいに恒常的となった。
 村では老若男女が総出で採集につとめるわけである。
 ことに風呂用の桃の葉や料理に添える桜の葉などは、一枚一枚の葉を吟味し、形よく整えなければならず、蚊遣り用の杉や松の葉にしてもやはり体積が重んぜられた。
 また赤蝦蟇や海老蔓虫・蝗などは生きたままでなければならず、しかも早い時期に提出を求められるので、採集はなかなか苦労であったという。
 村々では上納物の増加によって、小百姓はいたく難渋(なんじゅう)し、しばしば減免の歎願をしている有様であった。

     3 鷹狩りと農民 top

 戦国の武将たちが鷹狩りを奸んだことはよく知られているが、徳川家康も武士の練武や民情の察知をかねて、自ら諸大名や旗本を率いてしばしば鷹狩りを行なった。
 その際、江戸近郊の原野などが格好の鷹場として利用された。
 三代将軍家光もさかんに放鷹し、当渋谷区地域にもいくつもの伝えがのこっている。

 たとえば上渋谷の長泉寺では、将軍家光が鷹狩りのついでに立ち寄り、観音縁起をきいて感じ入り、寺域の貢租を免じたと伝え、千駄ヶ谷八幡社では、慶安二年将軍御成りのとき鈴掛という名の鷹が神前の松にとまったので、以来その松を「鈴掛の松」というと伝えている。
 同じような話は千駄ヶ谷寂光寺にもあって、ここでは鷹の名は遊女といい、その松を「遊女の松」と伝える。
 また代々木村の大正院(廃寺)には放鷹の時の御茶屋があり、将軍家光の休憩所になったという。 ところが五代将軍綱吉は生類憐みの令の趣旨から、いっさい遊猟をやめ、鷹匠や鳥見役人を免じ、その屋敷などを廃した。
 六代家宣・七代家継は、生類憐みの令は廃止したが、鷹狩りは復活されなかった。
 しかし八代吉宗になると事態は一変し、武士の練武のため鷹狩りは復前され、その制度も整備されて、前にましてさかんになったのである。
 吉宗は御鷹部屋を復活し、新たに鷹匠頭以下、鷹匠組頭・鷹匠や班見役人その他を任命し、また鷹場を整備した。


千駄ヶ谷寂光寺の遊女の松(『江戸名所図会』より)

 将軍の鷹場としては、享保元年(一七一六)に江戸廻り九領が指定され、同三年に六筋(葛西・岩淵・戸田・中野・目黒・品川)に区分された。
 当地域のうち幡ヶ谷・代々木・千駄ヶ谷の三村は中野筋に、原宿・穏川・渋谷三ヵ村、豊沢三ヵ村は目黒筋に属した。
 これらの各筋の中には、もちろん幕府領・大名領・旗本領・寺社領など様々な領有形態をもつ村々が含まれていたわけであるが、これらの村々は、領土関係をこえて鷹場支配によって統一的に統制された。
 村側でも領主の区別とは関係なく鷹場組合村をつくっている。
 鷹場の村々には一般とは別の鷹場法度(はっと)が下され、これを監視するのが班見役人であった。
 村々では普段から家の新築・改造、立木の伐採、または円畑の耕作や刈入れなどにいたるまで制限され、ことに将軍の鷹狩りが近づくと、鳥類の繁殖に関係があるとして祭礼や婚礼の鳴物にまで干渉されたのである。
 下渋谷村の名主善右衛門はその覚書『極秘録』のなかで、鷹場の仕法の厳しいことをのべ、将軍の御成り以前に「つみ田を仕付」けたため鳥見役人の咎(とが)めをうけ、その田を潰し、その上に土をかけさせられたといい、苗木のこと、家作のことなどの様々な制約、ことに田畑耕作まで不自由であるため、宝暦八年(一七五八)に越訴(おつそ)までして仕法の改正を歎願したという。
 鳥見役人は通常から紂々の法度遵守を監視したほか、諸上納物の賦課、鷹場役人宿泊の割当てを命じたり、飼付御用・賄御用を指示し、また勢子(せこ)の徴発や鷹場の御場拵(まかない)人足などを割り当てた。
 このうち御場拵人足は最も大きな負担であって、道具持送り人足・焚出夫役人足をはじめとして、道路作り・立木伐採など鷹狩りに都合のよい設営や労働を強いられたのである。
 「野崎家文書」にみえる天保五年の鷹狩りの際の人足は、渋谷三ヵ村・豊沢三ヵ村・原宿村などを含めた一三ヵ村に対して道具持送り人足一八三人・馬一二疋、御膳所御茶方人足一五人、同賄道具持送り人足三〇人、馬飼桶置配り人足七人、御為掛り竿持人足一人、鷹場拵人足五三人の計人足二八九人・馬一二疋が徴発されている。
 この年、下渋谷村では地元の広尾原の御場拵人足は「壱ヶ年千五百人ほど相勤」めたといい、「其の外御宿賄など一領共の難儀」であったと記している。

 次に当地域に深い関係のある駒場野と広尾原について見ておこう。
 駒場野は江戸西郊の鷹場として名高かった。
 ここは上目黒村の北端、代々木村・上中渋谷村・本甲豊沢村に接しており、今の東大教養学部や宇宙航空研究所などを中心とする約一五万二〇〇〇坪の原野であった。
 享保以前は入会秣場であったが、幕府か江戸近郊の鷹場を再興すると、ここを将軍の遊猟地に指定した。
 それ以後、春は雉(きじ)、秋は鶉(うずら)などの放鷹がさかんに行なわれたのである。
 遊猟の日、将軍は伊達羽織(だてぱおり)に小袴(こばかま)を着し、騎射笠をかぶって騎乗し、御三卿なども陪従し、若年寄配下の番頭が指揮をとって、番士・目付・徒頭(かちがしら)が小十人や勢子を従えて進退した。
 この駒場野の遊猟には、当地区の村々はことに関係が深く、たとえば将軍の狩りに用いる鳥類は網差という役があらかじめ捕えて飼付けをしておくのであるが、その場所が中渋谷村内にかかり、雉狩りの勢子衆の立つ場所も村々にかかっていた。


鷹狩りで名高かった駒場野(『江戸名所図会』より)

 さらに一行の揃(そろい)場所や宿所の便をはかり、とりわけ道玄坂は行列の通り道になり、ここを右折した道を駒場野御成道といい、この行列筋にあたった村々は触書によって、こまかい制約をうけたのである。
 次に広尾原というのは、大体、現在の恵比寿一−二丁目(都立広尾病院を含む地域)のあたりである。
 ここは古く渋谷村の田であったが、鳥見役人の指示で鶉場(うずらば)となったといわれる。
 鶉場というのは、将軍の鷹狩りのため、あらかじめ鶉を飼いつけておく場所であるが、ここに将軍以下が遊猟することもあった。
 この近くの広尾の水車の玉川家は御成門と袮し、将軍吉宗が遊猟のときに立ち寄ったという。
 さきに『極秘録』にみたように、この遊猟の際の御場拵については、地元の下渋谷・下豊沢両村はとくに重い負担をうけたのである。
 なお『江戸名所図会』ではこの地を土筆(つくし)ヶ原といい、春花秋月、老若士女の遊覧の場として描かれており、安政六年(一八五九)の『武江遊観志略』にも花見・虫聞の名所とされているが、これは鶉狩が絶えたあとの有様であろうし、江戸末期には葭簀(よしず)張りの茶屋もあり、明治にはなお植木屋などがあったという。


佐倉藩堀田家下屋敷の図

      4 武家屋敷の拡大と民衆 top

 天正一八年に徳川氏は江戸入城まもなく、重臣の屋敷割を行ない、城の外郭西方の要地に内藤氏(内藤新宿)と青山氏(青山)を配したことは前述した通りである。
 当渋谷区地域は、この両邸の地続きの地、西の「端口締り」の地としてしだいに武家屋敷がふえていった。
 武家屋敷には拝領屋敷と抱屋敷の区別があった。拝領屋敷は大名・旗本ともに幕府から与えられるもので、絶家(ぜっけ)の場合は収公された。
 大名や大身の旗本は拝領屋敷を二ヵ所以上もち、そのうち抱屋敷・蔵屋敷などをもつものがあった。
 拝領屋敷を上屋敷・中屋敷・下屋敷にわけたのは、明暦三年(一六五七)の大火以後のことである。
 上屋敷は居屋敷ともいわれ、大名当主が在府中居住するところで、登城や勤務に便利なように、西丸下や大名小路のごとく、丸の内や外桜田地区などに多く与えられた。
 当渋谷区地域は西方に偏しているため、上屋敷は二、三存在するにすぎない。
 中・下屋敷はいわば別邸であり、世子(せいし)の屋敷や隠居(いんきょ)屋敷・妾宅(しょうたく)・別荘にもなり、また火災の時の避難地ともなった。
 このうち中屋敷は大体、外濠にそった辺に多くおかれ、下屋敷はさらにその外延におかれるのが普通である。
 ことに下屋敷は山荘と袮されることがあるように、庭園の妙をこらしたりして花鳥風詠(かちょうふうえい)の趣きのある造りをしたものが多かった。
 これに対して抱屋敷とは、拝領屋敷のほかに必要があって百姓地を買収または借りうけて屋敷地としたもので、周囲に竹木などの囲いを設けることになっていた。
 抱屋敷のうち拝領屋敷に添付して設けたのを添屋敷ともいい、米穀など貯蔵する倉庫を設けたのを蔵屋敷といった。
 さて渋谷区地域の主な武家屋敷を地区別にみていくことにする。
 まず旧渋谷地区(渋谷三ヵ村・豊沢三ヵ村)の地域は青山の青山忠成邸の地続きとして早くから大名屋敷が設けられた。
 すでに万治・寛文頃(一六五八〜七三)にはかなりの武家屋敷がみられる。
 たとえば旧青葉町(現、神宮前五丁目)に淀(よど)藩稲葉家(藩名は便宜上維新時のものを記す)、旧金王町に但馬出石(たじまいずし)藩仙石家・信濃高島藩諏訪家、旧常盤松には播磨小野藩一柳家・大和柳本藩織田家などがあり、旧若木町の和泉伯太(いずみはかた)藩渡辺家、旧羽沢町の常陸牛久(うしく)藩山口家、旧豊分町の摂津麻田藩青木家・周防徳山藩毛利家、旧宮代町の下総佐倉藩堀田家(日赤医療センターの地)、旧元広尾の越後村上藩内藤家なども古い大名屋敷である。
 旧伊達町には伊予(いよ)宇和島藩伊達家(享保二年から)以前に長門(ながと)長府藩毛利家かあった。
 これらはいずれも下屋敷であり、延宝頃には百姓地を借りうけた抱屋敷もできた。
 旧上智町の徳山毛利家、神南の摂津(せっつ)岸和田藩岡部家などがそれである。
 上屋敷の例はきわめて少なく、元禄八年(一六九六)にいたって旧緑岡町(青山学院の地)に伊予西条藩松平家、同一一年旧宮代町に播磨三日月(みかづき)藩森家(享保三年迄)ができた程度にとどまり、中屋敷としては宝暦〜安永の間(一七五一〜八一)に近江水口藩加藤家のそれが存在しただけであった。
 武家屋敷地の変造や分割は繁雑で記述に堪えないので有名屋敷の一、二をあげるにとどめたい。
 まず松濤(しょうとう)一〜二丁目の中渋谷村百姓地に延宝四年(一六七六)広大な紀伊徳川家下尾敷(五万坪)ができた。
 いまの松濤公園はその南の一部分にあたる。
 また旧常盤松の織田家下屋敷(吸江寺向い側)は、村上藩内藤家をへて嘉永五年(一八五二)鹿児島島津家の下屋敷となった。
 島津斉彬(なりあきら)は芝の屋敷が海岸に近く危険だというので、この下屋敷に移住し、天璋院(将軍家定の室)の輿入れもここからでたという。
 なお旗本の屋敷も大名屋敷の周辺に多く設けられ、とくに大屋敷が分割されて御家人の小屋敷が多くできた。
 たとえば先述の淀藩稲葉家の地の一部(旧美竹町)が享保一〇年(一七二五)上知(あげち)になると、そこは下級幕吏の小屋敷が多数割当られており、また八幡通り辺には元文四年(一七三九)以降、草履とりなどを職とする黒鍬(くろくわ)者の屋敷が設けられ、この地を黒鍬谷と袮した。
 次に穏田・原宿方面の大名屋敷をみると、旧原宿二丁目に遠江(とうとうみ)浜松藩井上家の下屋敷が寛文以前から存在したが、寛文四年(一六六四)には安芸広島藩浅野家下屋敷が井上邸の近くに成立し、同七年には上野矢田藩松平家下屋敷が旧原宿一丁目にできた。また抱屋敷もかなり存在したが、その間に旗本屋敷もあり、ことに青山に接した旧穏田一丁目のあたりには延宝六年(一六七八)から百人組同心の大縄屋敷が設けられた。
 次に千駄ヶ谷地区であるが、この地域の北寄りの部分(いまの新宿区寄り)は古くは信濃高遠藩内藤家屋敷に属していたが、天和三年(一六八三)・元禄一〇年(一六九七)の両度にわたって上知となった。
 そしてそれに接する百姓地をも含めて、縦横に新道が布設され、ここに多数の旗本・御家人たちの屋敷が割当られた。そこでこの辺を内藤新宿新屋敷、または千駄ヶ谷新屋敷と袮した。
 また元禄前後にできたこれら旗本屋敷は、時代が降るにつれてその計画は細分化し、さらに多数の小規模屋敷があらわれる。
 大番組与力同心、書院番与力同心、先手組与力同心などや長崎奉行与力同心、あるいは二の丸御小人・黒鍬者など下級役人の大縄屋敷が設けられたのである。
 このように千駄ヶ谷地区は旗本・御家人屋敷が多いのが特徴であるが、そうしたなかに大名屋敷も散在した。
 旧千駄ヶ谷五丁目に紀伊田辺藩安藤家上屋敷が短期間(元禄八〜九)存在した他、中屋敷としては旧五丁目の尾張今尾藩竹腰家(嘉永三〜維新)、旧大谷戸に三河刈谷藩土井家(寛政二〜維新)があり、下屋敷としては、旧四丁目に出雲松江藩松平家(延宝以前〜元禄三)、大和郡山藩柳沢家(元禄二〜四)、出羽松山藩酒井家(延宝以前〜維新)、筑後久留米藩有馬家(安永四〜天明八)があり、旧五丁目には下野宇都宮藩戸田家(万治元〜維新)、上野小幡藩松平家(寛政元〜維新)、常陸下妻藩井上家(正徳四〜寛延三)などがあり、旧大谷戸にも遠江相良(さがら)藩田沼家(安永七〜九)が存在した。
 旧大谷戸(現千駄ヶ谷六丁目)はいま釿宿御苑構内にとり込まれている場所であるが、この一隅に碩学新井白石の晩年の住居があった。
 この地は内藤家下屋敷の元禄一〇年上知分の一部で、はじめ旗本塚原弥三郎に割当られ、宝永三年(一七〇六)窪田弥惣兵衛にわたり、同六年上知となって、しばらく無主となっていたところ、享保二年(一七一七)二月、隠退後の新井白石に下賜された。
 白石がここに住むようになったのは、『新井白石日記』によると同六年閏七月のことで、それから以後同一〇年五月没するまでこの地で暮らしたのである。
 彼の日記・書簡にこの地の生活のことが記されている。
 この地はその後、子孫に伝えられ、寛政三年まで同家の屋敷として続いた。
 次に代々木・幡ヶ谷地区であるが、ここは概していうと百姓地の多いところであったが、寛永一七年(一六四〇)いまの明治神宮内苑一帯二八万余坪の地に近江彦根藩井伊(いい)家下屋敷が成立した。
 また万治元年(一六五八)には今の代々木駅付近に宇都宮藩戸田家下屋敷ができ、同じく文化服装学院付近に陸奥(むつ)三春藩秋田家抱屋敷ができた。
 その南側には寛文元年(一六六一)から摂津高槻藩永井家下屋敷ができたが、天保一三年(一八四二)その一部が出石藩仙石家の中屋敷にかわった。
 このほか今の代々木三丁目地域には、享保四年(一七一九)から、上総一宮藩加納家下屋敷があったが、同一五年に越前鯖江藩間部家と交換した。
 同じ頃この西側には安房(あわ)東条藩西郷家下屋敷があった。
 一方、初台地域には宝永四年(一七〇七)から丹波山家(たんばやまが)藩谷冢下屋敷が、西原地区域には延宝ころから武蔵久喜藩米津家の抱屋敷があった。
 幡ヶ谷には武家地は少なく、本町一丁目に松江藩松平家と肥前唐津藩小笠原家の抱屋敷があるにすぎなかった。
 さて大名屋敷の中には、後楽園・六義園など著名な庭園があったが、渋谷区地域の武家屋敷のうちに、庭園の美観をそのままとどめるものはない。
 わずかに明治神宮内苑になっている井伊家下屋敷、松涛公園に一部をとどめる紀伊家下屋敷(この地は明治になって鍋島家の茶園となる)、都職員共済組合青山病院敷地に名残りをとどめる稲葉家下屋敷のあとなどを数えるにすぎない。
 文筆にのこる庭園をあげてみると、幕府の儒官林信篤(のぶあつ)は稲葉邸内十五境の詩を賦しており(『鳳岡(ほうこう)文集』)、釈敬順(しゃくけいじゅん)は『十方庵遊暦雑記』のなかで井伊家下屋敷の大樅のことを記し、『続江戸砂子』は岸和田藩岡部家下屋敷(神南二丁目屋内休育館付近)の庭園通明観のことを述べている。
 そのほか津村深菴(しんあん)の『譚海』には原宿の安芸浅野家下屋敷の庭園が記され、連歌師坂昌成には広尾の佐倉藩堀田家の下屋敷をかいた「広尾山荘の記」(『江戸名園記』)がある。

 渋谷区地域は、江戸府内と近郊農村との接点にあたるという地理的特殊性によって、江戸の発展に応じて、この地域に町屋や武家屋敷がしだいに大きなウェイトを占めるようになった。
 町屋については次節で考えるが、農村の中に相当な面積をもつ武家屋敷が各所に成立したことは、農民の生活に大きな影響を与えずにおかなかった。
 拝領屋敷などは農民の屋敷や旧畑を収公して囲い込みが行なわれたわけである。
 農民に代価や替地が与えられたとしても、農村の生活は大きく動揺させられる結果となったであろう。
 幕府権力による一方的な都市計画が強行され、農民は立ち退かされたり、農地が減少されたりして、かっての村の姿はしだいに失われていった。
 そこに地割り、造成が行なわれ、武家に与えられるというわけである。当然農民の不満あったろうが、史料上にはほとんど残っていない。
 しかしまた一方、抱屋敷の設定などで、村の地主は抱主から地代をとって収入とすることも行なわれ、こうした時に巧みに立ち回った地主も存在したと思われる。 一方、大名屋敷などには中間・小者といった武家奉公人も存在した。
 彼らは多くは年季奉公人で、大宿といわれる周旋人が保証人となって、大名の国元や江戸市中から奉公人を求めたのである。 渋谷宮益町の橋和屋増蔵は、伊予西条藩松平家の上屋敷につとめる奉公人の人宿となっていた。
 「予州西条江戸挊(かせぎ)願済筋控帳」によると、国元の伊予西条の農民が多数橋和屋を保証人として松平家に勤めたことが知られ、彼らの中には年季をあげて宮益町にすみついた者がいたことも、宮益町の人別帳から知られる。
 また代々木(千駄ヶ谷)にあった井伊家下屋歇には、同家の所領である世旧谷九ヵ村から、中間の年季奉公人を供出する義務が課せられており、天保四年(一八三三)に井伊直亮(なおあき)の嗣子直元が、ここに住むことになると、世田谷領から一八人もの中間が徴発されている。


幕末の渋谷地域図(推定)

     5 町の成立と発展 top

 江戸の町地拡大に大きな影響を与えたのは、明暦三年(一六五七)の大火であった。
 大火から五年目にあたる寛文二年(一六六二)に最初の町地の拡大が行なわれ、さらに正徳三年(一七一三)大幅な拡大、すなわち町奉行支配への編入が行なわれた。
 渋谷・千駄ヶ谷地域に存在する町は、この時以後に町奉行支配に属するようになった町々である。
 明暦の大火以後、地続きの代官支配の百姓地は急にさかんになり、ことに元禄前後の商工業の発展に伴って、新興の商工業者の家並みが百姓地のうちにどんどんできるようになったのである。
 このような代官支配地に起立した町屋の取締りは、しだいに代官の手から洩れる場合が多くなり、むしろ町地なみの取扱いが必要になってきたのである。
 こうしてできあがった町は、従来の町とはちがった性格をもっていた。
 すなわち町奉行へ移管されたのちも依然として代官が年貢を反別にかけて徴収するという形をとったのである。
 地租は代官へ、戸口は町奉行の取扱いという二重支配である。当時それを両支配といい、その地域を町並地と袮した。
 渋谷宮益町・渋谷道玄坂町・渋谷広尾町・千駄ヶ谷町などの町々は、この時、すなわち正徳三年(一七一三)に町並地として初めて町奉行の管轄に入った。
 その後も町並地は増加し、元文三年(一七三八)には、当地域の青山原宿町・青山久保町などが町並地として町奉行支配に属した。
 その後、延享二年(一七四五)にいたると寺社門前の町屋が町奉行支配に移管された。
 寺社の門前には従来から町屋を営むものがあったが、ここの住民は従来僧侶・神官と共に寺社奉行支配に属し、その土地は普請奉行が管轄していた。
 ところが寺社奉行は町奉行と違って与力・同心などをもたず、整備された捕方もいなかったので、とかく門前町屋の取締りには難点があったのである。
 そこで町並地に準じて町奉行支配に属するようになったわけであるが、この時門前町として移管されたのは、千駄ヶ谷神明門前、同瑞円寺(ずいえんじ)門前、同聖輪寺門前、渋谷東福寺門前、同妙祐寺門前などがあり、ほかに千駄ヶ谷の寺領町屋があった。
 江戸の町全体を統轄する町年寄は、奈良屋・樽(たる)屋・喜多村の三家が世襲し、町奉行に直属していた。
 町年寄の下には町名主がいて、それぞれ一、二ヵ町から数ヵ町の町政をつかさどり、多くは世襲であった。
 その種類として、徳川氏入国時の由緒をもつ草分名主や寛永ころまでに成立した古町名主などもあったが、渋谷区域の町は、すべてそれ以後の新町名主や門前名主であった。
 各町は町名主によって統制されていたが、家持(地主)・家守(やもり、家主)・地借・店借(たなかり)などの町人の階層があった。家持は家作・家地を所有する町人階級の中心で、町内でもっとも権威があった。
 しかし町内自治の実務は通常、家守に代行させていた。家守は家主ともいわれ、家持(地主)の土地を借りて自己所有の家屋を建てて居住し、地主の土地家屋を差配して、店借・地借から店賃・地代を徴収して地主に納め、給料をもらっていた。
 地借・店借は普通店子(たなこ)といわれて、家守の配下にあって町政に参加する資格はなく、また貢租を納める義務もなかったが、人口としてはこの階層のものが多かった。

 次に地域内の各町について一応見わたしておきたい。
 まず渋谷宮益町であるが、ここは赤坂・青山の地続きとして、かなり早く承応元年(一六五二)頃にはすでに百姓地に町屋ができていたようで、渋谷新町とよんだ時期もあった。
 町奉行支配に入ったのは前述のように正徳三年(一七一三)からである。
 「文政町方書上」によると、町内の惣(そう)間数は小間で三二三間余、面積は五七〇六坪、宮益坂の両側に町屋を形成していた。
 その戸数は家持三九・家主一三・地借四・店借一一四、惣家数一七〇軒とみえる。
 町内の坂下、渋谷川べりのところに高札場があった。
 次に渋谷道玄坂町は、古く大和田道玄なる者が居住していたという地名伝承がある地で、元禄以後町屋を形成していたのが、正徳三年に町並地として町奉行配下となった。
 青山方面から宮益坂をへて世田谷・厚木方面に向かう大山道の道玄坂北側南向きの片側町であったが、宮益坂の中ほどにも飛地があった。


広重描く“富士見茶屋”

 この二ヶ所を合せて道玄坂町といったが、惣間数は合せて九四間余、家数は「文政町方書上」では道玄坂の方に家持九・店借一があり、宮益坂の飛地に家持七・店借四があった。
 渋谷広尾町は寛文八年(一六六八)にはじめて百姓町屋が許可され、元禄一一年(一六九九)の検地帳で渋谷村から分離されたが、町奉行管轄の町並地となったのは、宮益町・道玄坂町と同じ正徳三年である。
 当町の中心は、俗に大広尾といわれた今の広尾五丁目・同一丁目付近、とりわけ東の方麻布広尾町と地続きに町屋を形成していたが、実はこのあたり一帯に点々と分散した町屋を総称しているのである。
 これらをあわせた惣小間は五二四間、坪数は六六七四坪余で、家数は文政一一年(一八二八)に家持六一・地借三・店借一四四合せて二〇八軒であった。
 次に青山久保町は、もと原宿村の一部であったが、正徳三年の検地で分離され、元文三年(一七三八)町奉行の支配に入った。
 この町は青原寺・智学院の西、梅窓院の北、実松寺・持法院・海蔵院の東、高徳寺の南という具合に、寺院にとりかこまれた地域内に散在してできた町並である。
 惣坪数は九五三二坪、文政八年(一八二五)の書上げでは、地主一九・家主二九・地借一八・店借二五二、そのほか明屋(あきや)八三、合計四○一軒の町屋があった。
 青山原宿町ももと原宿村の一部で、元文三年に町並地となった。
 町は今の長安寺の南東あたり三ヵ所にわかれていた。
 惣坪数は三九五四坪余、文政一〇年(一八二七)の書上げでは、地主三・家主九・地借九・店借九六・明屋二九、合計一四六軒であった。
 なお文政以後嘉永六年(一八五三)までの間に、この近くに青山緑町と山尻町という町が成立していた(「東都青山絵図」)
 次に千駄ヶ谷町と称するものには、拝領町屋・三寺領町屋・千駄ヶ谷大番町の三つがあった。
 まず拝領町屋であるが、由緒があって幕府から下賜された町屋をいうのであるが、拝領有が他人に借して地代をとる形が多かった。
 この千駄ヶ谷の場合は伊賀衆が拝領して、これを町人に借していたのである。
 町屋地域は千駄ヶ谷焔硝蔵(えんしょうぐら)西続きの地と天竜寺門前町屋(現、新宿区)の南に接する地の二ヵ所にわかれていた。
 前者は元禄一二年(一六九九)、後者は同一三年に起立し、両方とも正徳三年(一七一三)に町奉行支配に続したのであるが、文政一〇年に合せて地借四・店借九というきわめて小規模な町であった。
 三寺領千駄ヶ谷町というのは、吉祥寺・西福寺・霊山寺の寺領内に成立した町屋で、延享三年(一七四六)に町奉行管轄に入った。
 吉祥寺領は二ヵ所で合せて家持七・店借九(「文政町方書上」以下同じ)、西福寺領は三ヵ所で合せて家持七・店借一〇、霊山寺領圭二ヵ所で合せて家持四・店借四三というように、いずれも小規模な町であった。
 千駄ヶ谷大番町というのは、四谷大番町の地続きのためこの名称があるのであるが、もと西福寺領千駄ヶ谷百姓町屋として、延宝年間(一六七三〜八一)頃には町屋ができていたが、延享三年にいたって町並地として町奉行の玄配に入った。四谷塩町から南へ通る道の両側に大番組の屋敷があったが、その道の両側に町屋があったのである。文政一〇年には家持三・店借二二、合せて二五軒が存在した。

 次に寺社門前にふれておく。千駄ヶ谷瑞円寺門前は瑞円寺および八幡宮の門前にできた町屋で二ヶ所にわかれ、文政一〇年には家持一六、店借一三合わせて二九軒であった。 同聖輪寺門前は聖輪寺の門前にできた町屋で、瑞円寺門前と道をへだてて向きあっていた。
 元禄一五年以前に八軒あったのが、火災などで減少し、文政一〇年のときわずか三軒(家持)になっていた。
 千駄ヶ谷神明門前は寂光寺(境妙寺と改称)の東にある神明社の門前にできた町屋であるが、文化一三年(一八一六)の火災で類焼し、文政一〇年の書上げでは家作がなく、明地となっていた。
 次に渋谷東福寺門前は金王門前ともいったが、金王八幡の別当東福寺の門前にできた町屋で、文政のとき家持一・店借一一、合せて一二軒があった。
 また渋谷妙祐寺門前は宮益坂御獄権現の向かい側妙祐寺の門前にできた町屋で、間口三間半のきわめて狭いものであって、文化一四年(一八一七)大破したあと境内に囲い込まれ、門前町屋は消滅した。


瑞円寺門前町屋(『江戸名所図会』より)

 これらの町にはどのような人々が住んでいたであろうか。
 当地域の代表的な町である渋谷宮益町の慶応三年(一八六七)の人別帳を分析した南和男氏の研究によってみよう(「日本歴史」三四二号)
 当町の住人の階層別構成を文政一一年と慶応三年の状況とを比較したのが第三表である。 これによるとかなり店借の率が高い。
 店借率の高さが細民数の多さを表わすものとすると、当町は文政以降細民層が増加したことになるであろう。

 付近の道玄坂町では文政度一〇%が慶応三年に六三・九%となり、東福寺門前では九一・七%から九五・二%といずれも店借率の上昇が認められる。
 また当町の慶応三年の職業をみると、その特色は店借一二六のうち日雇稼が四二、棒手振(ぼうてふり)が一二とめだち、洗濯稼七や青物売三などを含めての都市下層は総軒数の四二%に達していることである。
 反対に家持層を入ると、舂米(つきまい)商・荒物商各三を筆頭に、酒や各種雑貨物商・鍛冶職・紺屋(こんや)・質屋・大工・桶(おけ)職・薬種商ほか様々バラエティに富んでいる。
 次に出生地別にみたのが第四表である。
 これによると、家持においては当地出生者が七八・九%を占めており、店借においては他所出生者の率が比較的高い。
 これを別のいい方をすると、他所出生者の八一・三%が店借ということになり、また当地出生者の二七・八%が家持になっているのに、他所出生者は一二・五%のものしか家持になっていないことになる。
 なお他所出生者の出生地は、武蔵二六を最高とし、上総九がこれにつぎ、遠隔地では伊予五、越前・信濃・三河各二となっている。
 最多の武蔵の中には近在の村からの流入者が多く、伊予出生者が多いのは、この町の近隣に伊予西条藩の松平家上屋敷があったからであろう。
   *
 このような町々には自警のための自身番があった。
 広尾町には間口二間・奥行二間半の自身番に火の見・半鐘(享和二年銘)・梯子(はしご)が設けられていた(「文政町方書上」以下同じ)
 青山久保町の自身番は、二間と四間のもので、火の見に掛けられた半鐘には文化一四年の銘があった。
 また渋谷宮益町の二間に三間半の自身番には火の見がなく、半鐘は軒(のき)にかけてあったという。
 ただ小規模な町では独自の自身番を持ちえなかった。
 道玄坂町では中渋谷村の百姓の応援を得て番屋詰めなどを行なっていたが、安永五年(一七七六)に争論があって、中渋谷村の加勢は免ぜられた。
 そこで道玄坂町だけでは維持できないため、以後、宮益町と組んで、同町の自身番に勤めることになったのである。
 また町には町火消の制度があり、享保五年(一七二〇)にいわゆる「いろは四七組」に区分された。
 渋谷区地域では、原宿・久保町辺が“ふ”組に続し、宮益町・道玄坂町・広尾町あたりは“こ”組に属していた。
 各組の表識として独自の図案の纒(まとい)があったが、ふ組の纒は「駒に鍬形」、こ組のそれに「駒に二ッ巴」になっていた。

     6 渋谷歳時記と社寺 top

 近世江戸の市民は、四季の移り変りと共に、その風物詩ともいうべきいろいろな年中行事によって生活を楽しんでいた。
 当渋谷区地域は、江戸の場末、村々との接点であったので、江戸市中の庶民行事の余風と、農村的な祭礼その他の諸行事とが混在していた。
 そこで『江戸祭事記』その他諸書に散見する年中行事を中心に当地域のようすをみていこう。
 正月の初詣では、それぞれの産土(うぶずな)神を中心にみられたが、一六日は閻魔(えんま)の斎日(さいじつ)といって、諸寺の閻魔像参りが行なわれた。
 『江戸歳事記』は閻魔参り六六ヵ所をあげているが、そこに渋谷長谷寺(ちょうこくじ、現、港区に属す)が含まれており、またその捨遺(しょうい)として、千駄ヶ谷寂光寺と渋谷福昌寺とが記されている。
 寂光寺は寛永六年(一六二九)麹町(こうじまち)地獄谷(三宅坂付近)から千駄ヶ谷に移った寺で、当初は日蓮宗小湊誕生寺の末であったが、元禄の不受不施(ふじゅふせ)派の大弾圧のとき、天台宗に改宗した。
 のち天保五年(一八三四)には寺号を境妙寺と改めている(現在、中野上高田所在)
 福昌寺は下渋谷にある曹洞宗(そうとうしゅう)の寺で近世初頭の起立と伝える。
 このような寺に閻魔像や脱衣婆(だついば)像があったのである。
 二月の彼岸(ひがん)には観音札所参りがあった。「近世江戸三十三所」に、廿番千駄ヶ谷聖輪寺・廿一番青山教学院(港区)・廿二番渋谷東福寺・廿三番渋谷長谷寺(港区)などが挙げられている。
 このうち聖輪寺は新義真言宗大和長谷寺(はせでら)の末で俗に「眼玉の観音」といわれる如意輪観音像があった。
 これは行基の作と伝え『江戸砂子』その他の書に、この尊像の眼玉が黄金なので、これを盗もうとした賊があったが立ちどころに死亡したという話を伝えている。
 また東福寺は金王八幡社の別当寺で、ここの観音像は金王丸守護の矢拾観音として伝えている。
 なお観音としては、上渋谷長泉寺の滝見堂人肌観音や千駄ヶ谷長善寺の鉄砲観音も有名であった。
 長泉寺の前身は穏田村の滝の脇にあったので滝見堂といい、この堂には金王丸守護仏という人肌観音が安置されていたが、上渋谷村名主の先祖左膳(さぜん)なる者がこの地に移建したと伝える。
 また長善寺は元和九年(一六三二)創建の浄土宗の寺で、もと大坂石山本願寺にあった銅仏を寛永頃、江戸に移したが、全身に七、八ヵ所の鉄砲の跡がついていたという。

 春は桜の季節である。立春より七〇日目は重弁(やえ)桜の見頃であるとして、渋谷の金王桜と千駄ヶ谷仙寿院の庭園新日暮(しんひぐらし)が有名であった。 金王桜は金王八幡社の境内、池のほとりにあった桜で、『紫の一(ひと)もと』では金王丸の手植えといい、『江戸砂子』では源義朝の鎌倉亀谷(かめがやつ)の館にあった憂忘桜を金王丸が賜って移したものと伝え、当社の社記では頼朝が金王丸をしのんで亀谷の桜を移したものと伝えるなど諸説がある。
 この桜は八重咲であって『十方庵遊暦辟記』に「立春七十五日頃をよしとす。余の桜に比すれば盛り少し遅き方なり」というなど、諸書に記されていて大変有名であった。
 しかし他方、近くの氷川神社境内の桜が金王桜であるという説もあり、この枯死後の古木が下渋谷の旧家野崎家に伝わっていたという。
 仙寿院はもと赤坂の紀伊徳川家屋敷にあった草庵で、正保元年(一六四四)に千駄ヶ谷に移され日蓮宗本遠寺(ほんおんじ)の末となった。


千駄ヶ谷仙寿院の庭園“新日暮”(『江戸土産』より)

 この寺の庭園が新日暮といわれて、とくに桜の季節は観客群集して、酒店や団子(だんご)・田楽(でんがく)の店がでてにぎわったという。
 新日暮とは谷中(やなか)の日暮里(にっぽり)に似ていたからである。
 またこの庭には芭蕉句碑をはじめ、泰山府君・北条松などの名木があり、北条松は『江戸名所図会』にもみえ、『十方庵遊暦雑記』にも書いてある。

 松といえば、当地域には名松が多かった。
 千駄ヶ谷寂光寺の遊女の松、同じく八幡社の鈴掛の松、原宿竜岩寺の円座の松は『十方庵遊暦錐記』の東武三十六名松にかぞえられ『江戸砂子』『江戸名所図会』などにも記されている。
 このほか金王八幡社境内の鎮座の松、東四丁目(旧、常盤松町)の常盤松、代々木富ヶ谷の鞍掛松、道玄坂の道玄物見の松、広尾四丁目(旧、宮代町・日赤病院内)の宗吾の松、宮益坂妙祐寺の御讃の松などは、それぞれ伝説があった。
 そのほかの名木を二、三あげると、千駄ヶ谷の御万榎、代々木三丁目の箒銀杏(ほうきいちょう)、代々木神園町(旧、外輪町・明治神宮内)の大樅(もみ)、宮益坂下の千代田桜などがあった。
 三月一〇日から二一日までは四国八十八ヵ所の江戸のうつしといって、江戸市中の八十八ヵ所の寺があてられ市民の参詣の便に供された。
 当地域の寺としては、七番下渋谷室泉寺、十番千駄ヶ谷聖輪寺、十一番幡ヶ谷不動荘厳寺、があげられている。


原宿竜岩寺の“円座の松”(広重画)

 下渋谷の室泉寺はもと芝金杉にあって浄土真宗の寺であったが、元禄一三年(一七〇〇)下渋谷に移って真言律宗に転じた。
 境内護摩堂に不動立像があった。幡ヶ谷の荘厳寺は氷川社の別当寺であったが、ここの不動像は藤原秀郷陣中供奉の像といわれ『十方庵遊暦秤記』などにも記されていてかなり有名であった。
 さて夏から秋にかけては、各地で祭礼が行なわれた。
 まず八月一五日には各八幡社の祭礼が挙行され、とくに金王八幡社は『江戸歳事記』の江戸市中八幡一四社の一つにかぞえられている。
 当社の氏子地域は中渋谷・中豊沢などの村、青山方面の町、近在の武家屋敷などを含んでいて、隔年の祭礼にでるだしやねりものも盛大であった。
 代々木八幡社はこれに比べて、いわゆる農村の鎮守の風を伝えていたとみられる。
 九月にも諸社の祭礼が多く、二一日は原宿熊野権現の祭りであった。
 当社は青山一帯の氏神で、氏子地域は現在の港区に属する町々が大部分であった。
 やはり隔年に神輿(みこし)の渡御(とぎょ)があり、いろいろな“ねりもの”がでた。
 また二六日は宮益町の御獄権現の祭礼であった。
 この御嶽社は宮益町の鎮守で、当山修験の学宝院が護持していた。

 九月二七日は干駄ヶ谷八幡の祭礼であった。
 当社は鳩森(はとのもり)八幡宮ともいわれ、千駄ヶ谷から四谷・権田原方面の町を氏子区域としていた。
 境内には何軒もの水茶屋や楊弓場があり、また定(じょう)芝居や子供手踊などが興行されて、町方のにぎにぎしさを伝えていた。
 同月の二九日は渋谷氷川社の祭礼であった。この日、湯立神楽(ゆたてかぐら)が奉納され、境内で相撲が行なわれた。
 これは江戸・近郷に広く聞こえたもので、見物客が群集し、凶年などは休業しようとしても見物人が集まるのでやむなく行なったという。
 村尾正靖の『嘉陵(かりょう)紀行』にも記されており、『江戸名所図会』には相撲場の絵がのせてある。
 このほか『江戸歳事記』冬の部には弁財天百社参りが載せれているが、それによると、廿六番下渋谷福昌寺・廿七番同所宝泉寺・廿八番渋谷八幡東福寺・廿九番千駄ヶ谷寂光寺・卅番同八幡瑞円寺とあり、番外の六に中渋谷室泉寺があげられている。


氷川神社の相撲場(『江戸名所図会』より)

 以上のほか社寺の行事はなお多いが、ここでは特色ある社寺の二、三を書き加えておこう。
 まず、下渋谷の臨済宗祥雲寺である。
 当寺は元和九年(一六二三)筑前福岡藩主黒田忠之が父長政の冥福を祈るため赤坂溜池の屋敷内に建たのに起る。
 寛永六年(一六二九)麻布台に移転し、寛文八年(一六六八)類焼にあって下渋谷に移転した。
 江戸期を通じて大徳寺派の触頭として、独礼という寺格、つまり登城して将軍に単独謁見することと乗輿を許された。
 天保一四年(一六四三)の書上によると、檀家(だんか)は武士ばかり六四家で、うち百石以上の大名が一九家もあった。
 境内には八院ないし六院の塔頭(たっちゅう)があり、末寺もあった。
 塔頭のうち景徳院は武蔵岡部の藩主安部氏の、東江寺は下野烏山(のち信濃飯田)藩主堀氏の菩提寺であった。
 下渋谷の東北寺は至道無住の開いた臨済宗妙心寺派の寺である。
 初め麻布桜田にあったが元禄九年(一六九六)下渋谷に移った。
 その後、延享三年(一七四六)全山焼失し、その復興にあたって有力檀家である大村彦太郎の全面的な援助があった。
 大村彦太郎は近江出身の豪商白木屋の六代目の当主で、初代彦太郎が開山無難禅師の従兄弟であったので、歴代この寺の檀家として関係が深かった。
 寺域の一隅に白木屋店員の共同墓地がある。
 このほか新井白石が「妙祐縦眸園(じゅうぼうえん)十二詠」を賦した宮益坂の妙祐寺(現在、世田谷区烏山)、弁財天で有名だった原宿の竜巌寺、将軍秀忠の乳母初台局の由緒をもつ代々木の正春寺、満米・地蔵の伝説のある原宿の長安寺、親鷺上人の画像を蔵していた原宿(上渋谷飛地)の慈光寺、京都所司代板倉重宗由縁の下渋谷吸江寺、外姉地蔵の代々木延命寺、広島藩主浅野光晟の室前田氏が万治二年(一六五九)法華経を奉納した穏田の妙円寺、旗本坪内経定が開いた下渋谷の鷲峰寺など諸寺があった。
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 神社では前に触れた金王・千駄ヶ谷・代々木の八幡社、渋谷・幡ヶ谷の氷川社、原宿の熊野権現のほか穏田には第六天社・熊野社があり、稲荷では宮益坂下の千代田稲荷(いま道玄坂二丁目百軒店)、上渋谷(神南一丁目)の北谷稲荷、中渋谷の田中稲荷(いま金王八靉社脇の豊栄稲荷)などがあった。
 神社の諸説では伊勢講・三峰講・大山講・富士講などがさかんであったが、とりわけ富士講では渋谷道玄坂の古田平左衛門が講頭となっていた山吉講が、江戸市中でも屈指のものとして有名であり、また千駄ヶ谷八幡社境内には、江戸初期の築造とみられる富士塚があった。
 仏事の諸講も念仏講を中心に生活にとけこんだものが多かったが、路傍や寺域内には地蔵講の石地蔵、庚申講の庚申塔などが数多くみられた。
 なお渋谷川庚申橋南詰の石塔(現、東三丁目)は青面金剛像を刻した寛政一一年(一七九九)在銘の橋供養塔であるが、勧化の人名は、渋谷区地域はもとより、麹町・赤坂・芝・麻布・市ヶ谷・四谷・大久保・池袋方面から目黒・世田谷・中野など広汎な地域にわたっている。

     7 地廻り経済のセンター top

 江戸の人口は、一八世紀の初めにはすでに一〇〇万人をこえたといわれ、全国第一の消費都市であった。
 その需要をみたすため大量の物資が江戸に流入したが、大坂からの入荷のほかに、一八世紀後半になると、江戸近郊の諸産業の発展が、江戸の需要にかなり応ずることができるようになった。
 いわゆる江戸地廻り経済がそれである。
 こうした江戸地廻り経済の中心となったのは、まず野菜であり、ついで米穀であった。
 なぜ野菜が地廻り経済の中心になったかというと、生鮮食料品という性格による。遠隔地輪送にたえないこれら生鮮食料品を近郊に求めるのは当然であった。
 江戸市中向けの野菜の供給は、市中の小規模農園からしだいに近郊の葛西・駒込・渋谷・目黒・中野・世田谷などに移り、さらに江戸中期頃には、江戸からおよそ三〇キロ以内の村においては、多かれ少なかれ商品作物として野菜の生産に力をいれるようになった。
 当渋谷区地域は、町方と在方との接点という地域的条件から、地廻り経済においても二つの側面をもっていた。
 つまり農村=生産地としてのそれと、市場=集散地としてのそれである。
 当地域の村々は町屋の発展と武家地の拡大によって、耕作面積は急激に減少してきたが、まだ田畑に頼る農民がいたことも事実で、彼らは相当激しく商品経済・消費生活の波におし流されていた。
 それゆえにこそ、いっそう商業的農業の方向へ、減少した耕地の効率化をはかるようになったのである。
 これら野菜は前栽物といわれ、茶・大根・菜・瓜(うり)・茄子(なす)・豆・芋類など多様であった。
 筍(たけのこ)といえば目黒のそれが有名であるが、千駄ヶ谷も筍の産地として知られていた。
 一方、渋谷区地域は市場をもった集計地でもあった。当地域内には、渋谷道玄坂町・広尾町・青山久保町にそれぞれ青物市場があって問屋が存在した。
 ここには渋谷・代々木・幡ヶ谷・目黒・世田谷・中野方面の生産者の出荷が多かったのである。
 これら市場の開始年代は明らかではないが、青山久保町には享保元年(一七一六)頃に九軒ほどの問屋と袮する商人がいたといい、寛政一一年(一七九九)に幕府の認可をうけ、文政ころには五軒の問屋が営業していた。
 青物問屋らは株仲間を組織して、集荷と販売を独占しており、生産者の直売は許されなかった。
 しかし需要の拡大に対応して、近郊の野菜生産者はしだいに問屋の傘下から独立して自主的な販売ルートを開こうとし、問屋と鋭く対立するようになった。
 渋谷・目黒・世田谷方面の江戸売前栽物は、八ヵ所青物問屋仲間とよばれる前記三市場と品川台町・麻布日ヶ窪・六本木・永峰町・高輪台町の問屋の統制下にあったのである。
 しかし天保のころから、生産者農民はこれら問屋を避けて青山百人町通りや青山教学院門前で立売りと袮して、農産物の直接販売をするようになった。
 しかも立売りの数はしだいに増加し、問屋の入荷量は減少する有様であった。
 こうした情勢において八ヵ所問屋側は、天保三年(一八三二)立売り禁止を町奉行所に出願し、村方でもこれに対応してその継続方を訴えでたのである。
 この訴訟は二年後の同五年に一応妥結し、問屋方の規制下での立売りがきめられた。
 しかし農産物の種類の限定や立売り場所の規制、口銭の支払いなどの条件を不満とする村々は、さらに反対訴願を行ない、結局は問屋は地代と掃除料を徴収するだけで、農民の直接販売は容認されることになるのである(『日本産業大系』四、『新修渋谷区史』上)
 次に米穀の取引き問題をみていきたい。
 江戸に流入する米穀は、遠国生産の米を大坂から廻漕するいわゆる下り米の系統と、関東近郷からの地廻り米の系統との二種があった。
 このうちしだいに後者が江戸米穀市場に大きな位置を占めるようになったのである。
 この地廻り米問屋は、下り米(くだりまい)問屋が日本橋辺に集中しているのに対して、比較的江戸の周辺にも散在する傾向があった。
 嘉永四年(一八五一)問屋仲間再興以後の「諸問屋名前帳」によると、渋谷区地域においても、幡ヶ谷村二、渋谷広尾町六、同宮益町二、同道玄坂町一、青山久保町四という地廻り米問屋の存在が知られる。
 そして彼らのうちには、脇店八。所米屋の仲間にも入って、問屋と仲買を兼業するものもあった。
 次に舂米屋という精米・小売業の米陽があった。これは地廻り米問屋や脇店八ヵ所米屋から玄米を仕入れ、白米に精して消費者に小売りをしていた。
 この舂米(つきごめ)屋も仲間を組織し、「諸問屋名前帳」に渋谷宮益町六、同道玄坂町一、同広尾町四、同東福寺門前一、青山緑町二、青山久保町五、千駄ヶ谷町六というかなりの存在が知られるのである。
 さて江戸市場に集荷される米穀は、しだいに関東地廻り米が多くなって、下り米を圧倒してきたが、さらに江戸近郷のいわゆる在方白米が年を追うにつれて増加し、文化・文政期頃より江戸米穀市場の株仲間米穀商と在方米穀商人あるいは荷主である農民との間に紛争が頻発した。
 文政一二年(一八二九)にはすでに品川・目黒・渋谷辺の無株の在方米商人が地廻り米問屋に告訴されているが(『日本財政経済史料』七)、こうした紛争は以後多くみられるようになる。
 このように生産者である在方農民やそれと一体の無株の在方穀商などの江戸市場進出は、既成の仲間米穀商の営業権をおびやかし、流通秩序を乱すものと告訴されるか、あるいは株仲間が自衛手段として強行に圧迫するか、いずれにしても、幕府としても米穀流通機搆の再建をせまられるようになる。
 とりわけ、当渋谷区地域には、この対抗する勢力が共に存在し、むずかしい状況をつくっていたのである。

 このほかに水車稼(かせぎ)をする農民が存在した。
これはかなりの数、前記の在方農民とオーバーラップするものとみられるが、ともかく本来、水車稼は在方農民の自家米の賃舂(ちんつ)きを主要な仕事とするものであったところ、しだいに市中の舂米屋の下請け米舂きをするようになった。
こうした水車稼の農民は渋谷区地域に数多く存在し、とくに渋谷川ぞいの地区ではさかんであった。
次にのべる水車一件の関係者のなかでも、下渋谷村の佐兵衛や原宿村の嘉兵衛などは、享保一八年(一七三三)から水車営業を始めていたといい(「水車渡世名前書」)、また天明の打こわしに際しては、広尾の水車が襲撃の対象になったという(「極秘録」)
 天保三年(一八三二)渋谷辺の水車稼農民は市中の大道米舂き仲間に告訴された。
 大道米舂きとは武家の扶持米の精白や舂米屋の下請げ米舂きをする業者で、文字どおり大道商いであって、臼杵などを持って家々を移動し、技術と労働力を提供するものであった。


穏田の水車(北斎画)

 彼らの主張は、水車稼人が在方農民から購入した米穀を精白したり、農民から依託されたものを、市中舂米屋からの下請け精白米に混入させ、市中に搬入して舂米屋に販売を依頼する形跡があって、これは明らかに営業妨害であるというのである。
 これにかかわる係争は延々と続くのであるが、大道米舂きのような人力に頼る舂米が、人間の労働力を必要としない水車舂米に比して高い工賃であったことは当然であり、低廉な工賃の水力利用のさかんであった幕末期では、舂米屋や大道米舂きの衰退は必至だったのである。
 他方、在方白米の売買は、江戸米穀市場の米価調節のうえでも深い関係をもっていた。
 つまり災害、凶作などにより江戸市中に米穀が不足すると、在方白米の買入れがとくに奨励されて米価の暴騰を緩和し、逆に米価が下落すると、在方白米は江戸市場から閉め出されるという関係にある。
 しかし、災害などのほか、江戸市中の需要の増大ということは、やはり在方白米の流入を必須とするという方向に強く向かうから、在米の米穀流通機構に大きな修正を要求することになるのである。
 さきの水車一件は、天保六年(一八三六)にいたって、水車方の出銀と臼数の制限という形で一応落着する(『新修渋谷区史』)
 しかしこうした制約にもかかわらず、水車の営業のメリットは存在したわけで、さらに在方商人の経済活動の意欲的な展開に伴って、近代に連なる経済性の高揚に一定の役割を果したのである。

     8 幕末期の様相 top

 渋谷区地域はその地域的特質によって、早くから大都市近郊としての一定の様相を呈していた。
 とくに地廻り経済の発達による商業資本の浸透と武家屋敷の広汎な成立・拡大とは、農村を激しくゆりうごかし、耕地を喪失した多数の農民を出現させ、それの町地への流入を招いた。
 従って、村々におけるいわゆる風俗の頽廃(たいはい)はことに問題であり、賭場の流行や無宿人の横行も激しく、村の生活は大きく変質した。
 松平定信の寛政改革が実質的な効果をあげえないで終ると、将軍家斉(いえなり)のいわゆる文化・文政時代をむかえた。
 この時期、大奥の繁栄という一事にみられるような放漫な消費生活の裏づけとしては、一般社会における経済活動の著しい発展があったわけであるが、農村の風俗頽廃といわれる現象は、こうした社会の動きのなかで益々著しくなった。
 幕府は文化二年(一八〇五)関東取締出役(でやく)をおいて、関東一円の治安・警察の再建、風俗の矯正などに乗りだし、数々の触書を発布し、出役の農村巡回を行なうと共に、村々に寄場組合を結成させ、治安の維持や風俗取締りにあたらせた。
 この時渋谷区地域の村々は、下北沢村寄場組合二六ヵ村のうちに編入された。この下北沢組合は、下北沢組一四ヵ村、下豊沢組八ヵ村、角筈(つのはず)組四ヵ村の三小組合にわかれ、渋谷三ヵ村・豊沢三ヵ村および穏田・原宿の二村は下豊沢組に、千駄ヶ谷・代々木・幡ヶ谷の三村は角筈組に入れられた。

 天保初年は全国的な飢饉にみまわれた。
 それは東北地方でもっとも激しかったが、関東一帯にも大きな被害があった。東北米の江戸廻米が絶えたうえに、江戸近在の地主・富豪による米雑穀の買占めと売り惜みが加わり、米価はじめ諸物価は高騰し、困窮者は増大した。
 幕府では天保一二年(一八四一)老中水野忠邦(ただくに)による天保改革が行なわれた。
 天保改革は基木的には封建制の維持・再建を目標とするもので、やつぎばやに諸改革令を発した。
 倹約令や株仲問解散令・人返し令などがそれであり、当地域に直接関係するものとしては、これらのほか、農村への梃子(てこ)いれ政策と江戸周辺上知令があった。
 農村への政策は質素倹約をむねとした質朴堅固な農村にかえし、農民を年貢づくりの地位に据えなおそうとするものであったが、こうした時代に逆行する政策の困難さはいうまでもなく、殊に年貢増徴策につながるものとして村々は不安にかられたが、結局は水野忠邦の失脚と共に撤回されたのである。
 天保一四年(一八四三)江戸・大坂一〇里四方の私領を一円幕府直轄領にしようとする上知令が発せられた。
 これは幕府の政治的・経済的強化をはかろうとするものであるが、この政令によると、渋谷区地域など旗本領・寺社領など入組の激しいところは、すべて幕府直轄領に単純化されるわけである。
 ところが一般の旗本は経済的な困窮から、何年もさきの年貢を知行地から先納させていたり、村方の有力者たちから多額の借財を負っているのが実情であり、このため急に幕府領に改められることは、村々にとって迷惑なことであった。
 大坂周辺ではそのため一揆が起っているほどである。
 当地域の場合の反応は明らかではないが、当時下渋谷にいた儒学者松崎慊堂(こうどう)は村役人たちからその相談をうけている(『日暦』)


旗本の傘張り(「明治百工図会」より)

 村民の動揺が察せられるところである。 この上知令は大名の中にも反対が多く、水野忠邦への反感が嵩じて、ついに水野政権の命とりとなり、上知令も撤回された。
 嘉永六年(一八五三)ペリーの来航に端を発した朝野の動揺は非常なものであった。
 くわえて安政二年(一八五五)の大地震は開国後の世情不安をいっそうかきたてた。
 幕閣では井伊直弼の登場とその遭難など内外多端な政局に直面していた。
 こうした政局の展開に対応して、村々への負担も増大したが、とくに外国使節応接御用・海岸警備御用などで東海道筋の往米は繁多をきわめ、助郷村々への加重負担という結果となっていた。
 安政七年(一八六〇)正月の伏見方の妹倫宮(みちのみや)の紀州家赤坂屋敷への降嫁、尾州家の参府などによって、渋谷区地域の村々は品川宿当分助郷に割当られ、翌文久元年一〇月の和宮の将軍家降嫁は、中山道筋助郷を未曾有の大規模なものとした。
 渋谷区地域の村々は、当然のことのように板橋宿加助郷に指定され、その負担に堪えた。
 この前後、一連の外国人殺傷事件が渋谷にほどちかい芝・麻布・高輪・品川の各地でおこり、江戸市中は恐怖の巷(ちまた)と化し、動揺する民心に乗じて浪人や無宿人の不法事件が頻発した。
 ことに生麦事作がおこると、英国は一二隻の軍紀を神奈川に停泊させ強硬な交渉に入った。
 この頃『福翁自伝』によると、江戸市中は混乱し、福沢諭吉自身「青山の穏田といふ処」に疎開する準備をしている。
 こうした情勢に対処して、幕府は文久元年(一八六一)江戸周辺の要衝行所に見張番所の設置を命じた。
 渋谷区地域を含めた下北沢寄場組合に対しては。大山(厚木矢倉沢)街道沿いの中豊沢村と甲州街道沿いの角筈村との二ヵ所に番所を設置することになり、浪人・無宿者の取締りを含めて、一揆・徒党など不穏分子の江戸侵入を監視させたのである。
 この見張番所の建築および諸道具・諸人足はすべて組合村の負担であり、維持費もまた相当に嵩んだのである。
 村々の負担は月々かなり苦痛なものとなった。
 そのため村々百姓からは反対の声が高く、これを受止めた寄場惣代は、番所詰人足の停止許可がでたわけではないが「惣代ども心得をもって一と先づ差ひかえ」ることを組下村々に通達するにいたった。
 これはむしろ独断的なものでさえあったが、このあと番所の再設置を命ぜられていないところからみると、一応、黙認されたようである。
 この見張番所が中途で挫折したあと、関東取締出役は別の形で非常事態に対処する方策をたてた。
 文久三年一一月、出役内山左一郎は下北沢組寄場に出張し村々惣代を召集して、非常態勢について説諭し、組合議定をとりきめさせた。
 これによると、各村では小前百姓にいたるまで平素から竹鎗を用意し、一〇人ずつの組をつくり、村のうちの壮健の者をえらんで非常人数を定め、目印・手鎗・もぢりをもって非常事態に備えるというのである。
 このための手鎗など諸道具はもちろん村方の自己負担であった。
 この年の一一月、幕府は諸番の隊士に市中の巡邏を命じたが、この時、渋谷長谷寺が大御番組の屯所に当てられ、渋谷区地域一円の巡邏(じゅんら)に当った。
 また一二月には将軍上洛の留守中警備ということで武家屋敷小路の各所に関門を設置することとなり、翌年七月、渋谷宮益坂に関門が設けられた。
 ここは江戸の出入口として重要なところで、代官木村董平(とうへい)の支配に属し、御関所役人衆とよばれる代官下役が、常時詰番して出入りの通行人を監視した。
 関門の出入りには、あらかじめ幕府から村町に下付してある鑑札(順札)を携行する必要があり、年貢上納や魚・青物類の販売、下掃除の運送その他公私の往来に支障をきたすことが多かったのである。
 他方、文久三年八月、非常事態にそなえて東海道の道筋を変更することが問題になった。
 この東海道付替というのは、品川宿から平塚宿にいたる海寄りの道をやめて、青山通りから道玄坂をへて、厚木街道経由で平塚宿に達する道を本通りにしようとする案である。
 このコースは青山通りから官益町・中渋谷村・下渋谷村・中農沢村など渋谷詰村を通り、上目黒・池尻・三宿(みしゅく)方面に続くのである。
 同年八月二五日・九月二日と幕府普請役や勘定方の役人などの見分があり、また村々には様々な書上帳の提出が要求された。
 この付替問題は結局計画だけで実行されなかったが、外圧に対する国内の危機感の深刻化の現れで、当地域の人々も相当の緊張感をおぼえたことであろう。
 そのころ、銃隊稽古と袮する農兵訓練が行なわれることになった。
 多摩郡和泉村(現、杉並区)に幕府鉄炮玉薬方役所の焔硝蔵(えんしょうぐら、火薬庫)があり、付近諸村の百姓に警固や弾薬運送の課役をあてていたが、幕末風雲急を告げるようになると、その課役も増加し、文久四年には新たに銃隊稽古といって、一種の農兵的調練が行なわれるようになったのである。
 和泉焔硝蔵の銃隊稽古が課されたのは、多少の出入りはあるがほぼ十数ヵ村で、当地域では中渋谷・上豊沢・中豊沢など幕領の諸村が指定された。
 これは前年一〇月に許可された江川英龍代官所管下の農兵取立てに刺激されたもので、この年一一月の武州農兵に先立つものであった。
 この農兵は百姓一揆の続発をおさえ、動揺する村方の治安を維持しようとするところに比重があった。
 勤務は昼詰と夜詰にわかれ、蔵詰警固・炮薬運送・銃隊稽古などにあたった。
 慶応二年六月から八月にいたる三ヵ月の勤務をみると、蔵詰警固は五一八人(内渋谷関係四四人)、炮薬運送方一八八七人(同一三五人)、運送差添人八二人(同六人)、銃隊稽古一〇一六人(同九六人)であった。
 慶応二年(一八六六)将軍家茂の大坂での急死、とくに長州再征の失敗は、幕府の衰勢に拍車をかけた。
 一五代将軍をついだ慶喜は諸政を改革し、権力の再編成を企図した。
 幕府の諸改革の二つに軍制の改革がある。これはフランス人軍事教守の指導のもとで歩兵・騎兵・砲兵にわけだ欧州風の軍隊への再編成であり、とくに砲術の訓練に力をいれた。
 その砲術を主とした三兵調練のため、もと鷹場として用いられた駒場野の拡張が企図されたのである。
 このような駒場野の拡張・接収に反対しておこったのが駒場野一揆である。
 この地は上目黒の北、代々木村などに接する約一五万坪の原であったが、なお不足であるとして、付近八ヵ村に跨って広く囲い込む必要があるとされた。
 しかも接収地の農民に対しては、なんらの替地も補償もなかったので、村々百姓の不安はきわめて深刻であった。
 慶応三年八月、掛り役人の現地見分があり、いよいよ接収に手をつけることになった。
 そこで耕地や居宅を奪われる代田(だいた)・代々木・下北沢・上豊沢・中豊沢・下渋谷・道玄坂の人々の間には抵抗の組織があいついで生まれ、彼らはまず番人屋敷を襲って、これを打壊し、鎮撫(ちんぷ)の代官手付・手代に対しても、棒や竹鎗をかまえ、螺貝(ほらがい)を吹き鳴らし、空砲をうちあげるなどの気勢をあげ、とても鎮圧できる様子ではなかった。
 代官松村忠四郎は騎馬隊の出動を要請したが、農民の反抗はやまなかった。
 結局、接収事業は進められなかったのである。
 こうして駒場野調練場にみられる幕府の軍制立直しの動きは、ここでも民衆の強い反対につきあたり、その団結と抵抗の前に敗れたのである。
 大政奉還を二ヵ月後にひかえた事件であった。
 慶応三年一〇月の大政奉還の建白(けんぱく)、同一二月の王政復古の諭告は、幕士・佐幕藩の人々に薩長に対する反感を高めたが、一方、朝廷では東征軍を組織して三方から江戸に迫った。
 この頃幕府内には恭順・主戦の両派が対立し、市中の不安恐慌は最高潮に達していた。
 慶喜は血気にはやる幕臣の慰撫につとめ、また市民の鎮桙ノも尽した。
 慶応四年三月末ごろ、東征軍尾州藩の一隊が渋谷にほどちかい太子堂村に宿陣した。
 中渋谷・上中豊沢・原宿・穏田各村は官軍御用人足に徴発された。
 尾州藩の他の一隊は中豊沢村に、伊州藩の一隊は渋谷広尾の祥雲寺や下渋谷村に陣を構えた。
 これらの村はもちろん、付近諸村は継立・持運人足その他の課役にかりだされた。
 四月一一日早暁、徳川慶喜は上野をてて水戸に退いた。新政府軍は江戸城に入城し、平穏のうちに接収を終えた。
 彰義隊などの旧幕諸隊はなお反抗の気勢をあげたが、上野の戦争は全く一方的に終った。
 この戦い敗れた士卒が、三々五々渋谷地域にもたどりついた、と伝えている。

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