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Home 渋谷区の歩み(  ) 自然と生活 史跡文化財散歩( ) 付録

渋谷区のあゆみ(上)        佐藤 昇

一 原始の渋谷
 1 渋谷の先土器文化
 2 渋谷の繩文時代
 3 弥生時代の渋谷
二 古代の渋谷
 1 古墳時代の渋谷
 2 大和朝廷と渋谷
三 坂東武者と渋谷氏
 1 坂東武者のおこり
 2 渋谷氏のおこり
 3 渋谷氏の居館跡について
 4 渋谷一族
 5 渋谷一族と金王丸
四 中世の動乱と渋谷
 1 霧の彼方の渋谷
 2 大永の乱

       一 原始の渋谷 top

     1 渋谷の先土器文化


 戦後、有名な岩宿の発見に始まった先土器文化の研究から、日本人の祖先が縄文時代以前にもいて、まだ土器を作ることを知らず石器だけを道具として使い、生活していた古い文化があり、その遺物が南関東では赤土の中に眠っている事実がわかった。
 数万年も前のこの時代には箱根や富士の火山活動が盛んであったが、その休止期にヒトは南関東でも活動していた。
 ローム層(赤土)の中に残された彼らの遺物は頁岩(けつがん)や黒曜石(こくようせき)を原料として作られたナイフなどであり、遺跡としては河原石を集めてきたと思われる配礫(はいれき)が見つかっている。
 東京では板橋区からはじめて出土した石器により、茂呂(もろ)型ナイフ文化の存在が明らかにされ、その後に目黒・中野・世田谷など渋谷周辺の区からも次々に遺物が発見されている。
 昭和四六年には渋谷でも配礫遺構が発見された。その位置は西渋谷台地南部の標高約三二メートルにある東急本社上の駐車場の赤土の中からであった。
 この場所は赤土の上位部分がすでに削られた形跡があり、また石器が未発見であるために年代の決定はむずかしい。
 現存する赤土の表面から約四〇センチメートル掘り下げた位置に、直径約一メートルと推定される円の範囲内で、こぶし大からそれ以下の焼礫三二個がほぼ本平に散らばっていた。
 これによって数万年以前の渋谷にもヒトが来た事実が明らかになった。

     2 渋谷の縄文時代 top


渋谷区遺跡分布図
斜めの線は山手線、左上から代々木、渋谷、恵比寿。
渋谷(二つの湾の合流点)と恵比寿は5千年前は海の底だった。

 縄文人と渋谷
 先土器時代の寒冷期以後を後氷期といい、気候は温暖となっていった。
 約五〜六〇〇〇年前には、現在よりもずっと暖かく、氷期とは逆に氷が融けて海水量が増えたために、東京の低地には海水が浸入して来た。


昭和46年に発見された配礫遺構

 その時代の海岸線の位置が現在の標高二〇〜二五メートルであったとすると、恵比寿駅・渋谷駅は完全に水没することになる。
 台地はいたる所で半島状になり、そこにはシイとかタブといった常緑樹林が形成されていた。
 渋谷の台地斜面には湧水点が豊富にあったから、温暖な気候の海岸近くには水を求めて動物も集まって来たと思われる。
 その頃には土器すなわち粘土を使って形を作り、火で焼いて容器を造ることを知ったヒト、つまり縄文人がここに住んだことが確実に知られている。
 この縄文時代は数千年にわたって続いたが、その縄文文化の流れの中で区内から発見された最も古い時代の土器は早期の茅山式(かやましき)に属するもので、七〇〇〇年程前のものといわれている。
 これを含めて今までに発見された各時期の土器型式と、渋谷での地域性を述べておきたい。
 縄文早期および前期に属する土器は、本区のほぼ中央に位置する海抜約三二メートルの代々木八幡神社境内から破片が出土している。
 しかし量としては少ない。
 中期前半に属する土器は、関東の西半から山地にかけて分布圏を持つ勝坂(かつさか)式と、東部から海岸地帯に分布する阿玉台式があり、その両型式の土器片が代々木八幡神社境内・猿楽町・鶯谷町などの台地上から発見され、分布地域はやや広くなっている。
 しかし、まだ量的には多くない。
 これに続く中期後半の加曾利(かそり)E式と呼ばれる土芥が使われた時代の遺物は、その住居跡と共に区内のほぼ全域にわたって、台地面と斜面から発見されている。
 遺物の量も急激に多くなる。
 このあとの時代、後期前半の堀之内式、加曾利B式の土器片は、代々木八幡神社のほかに明治神宮北池付近・猿楽町・桜丘町などから発見されている。
 後期後半にあたる安行(あんぎょう)T・U式の土器は、上述のいずれの地域からも発見されておらず、渋谷の南端、標高約三〇メートルほどの恵比寿二丁目の台地に分布している。ここには泥炭層もあり、また量は少ないが晩期の土器片も出土した。
 上述のように区内の遺跡は、杉並区・中野区に続く標高四○メートルの台地面には遺跡が見られず、三〇メートル前後の台地面に中期の遺跡が集中する事情は、湧水点が二五メートル前後であることと、繩文海進と呼ばれる現象に起因しているのではなかろうか。
 後期後半の遺跡がなぜ標高の低い台地にしかないのであろうか。
 考えられることは、前期末の縄文海進はその後現在に至るまで、徐々に後退を続けてきたことか挙げられる。
 このような現象をふまえて見ると、渋谷の繩文人は海から離れたくなかったのではないかと思われる。
 後期という時代に限らないが、海岸地帯で生活を続けることによって、豊富な海の幸・山の幸を採集したうちから、余分を塩漬け・塩干しにして交易に用い、山地住民に塩分を供給したであろう。
 それによって、渋谷のどこを掘っても絶対に出てこないはずの黒曜石(長野県・静岡県産)を原料とした石鏃(せきぞく)などが発見される事実が、その理由になるであろう。
 つぎに、中期の代表的な代々木八幡遺跡の発掘調査を略述したい。


縄文時代の石器出土品


代々木八幡神社の竪穴住居跡(代々木5丁目)

 代々木八幡遺跡
 代々木五丁目一番にある代々木八幡神社の境内では、戦前すでに土器片や石器を宮司平岩氏が採集しておられた。
 昭和二五年に『渋谷区史』編さんを機会に、渋谷区は国学院大学樋口清之教授らに依頼して発掘調査を行なった。
 その結果、現在の復原住居の位置に完全な竪穴住居跡が発見されたのである。
 ゆるい傾斜面の表土を約八〇センチメートル掘り下げるとローム面に達する。
 ここに直径約六メートルの円形部分に黒土の落ち込みがあり、その黒土を除いたところ、ローム面から高い方で二〇センチメートル、低い方では一五センチメートル掘り込んだ住居跡が出てきたのである。
 この壁に沿って、さらに深さ三〜五センチメートル、幅一五センチメートルの周濠(しゅうごう)と呼ばれる溝が掘りめぐらされてあった。
 住居跡の床面はかたくしまり、壁に近い部分には直径三〇センチメートル、深さ四〇〜五〇センチメートルの柱穴と考えられる穴がなんと二二個も掘り込まれていた。
 これらは二重の同心円状に並んでいた。
 また床のほぼ中央には深さ二五センチメートルに達するへこみがあり、底を打ち欠いた鉢型土器二個が埋められ、焼礫もあった。
 これらを中心とした一・五メートルの範囲に焼土や灰があったことから炉跡と考えられる。
 なお住居跡の壁面南側の一部が約四〇センチメートルの幅で外に向けて削られ、また段差がついているので、この部分は入口であると考えられた。
 炉跡の土器から、この住居が作られたのは加曾利EU式土器が使われていた時代(中期後半)と推定されている。
 二二個の存在は、この住居跡が肆設された当初の姿ではなくて、少なくとも一回、あるいは数回拡張されたということを意味しているのであるうといわれている。
 都市化が比較的早くから進んできた渋谷の中で、ここが神社の境内であったために、幸運にも保存されてきたのであり、現在は、渋谷区史跡に指定されている。

 縄文時代の家屋復原工事
 かっての調査では、古代遺跡の発掘調査が行なわれた場合に、記録・撮影・測量の後に埋め戻しの作業をすることが通例であった。
 しかし、渋谷区では昭和二六年に代々木八幡遺跡の住居跡遺構をもとにして、その上に縄文中期の家屋を復原する試みがなされた。
 第一の難問は、それまで定説がたてられていなかった古代家屋の基本構想であった。この問題
について、国学院大学教授樋口博士は、ずっと後に作られた銅鐸(どうたく)の絵画や、家屋を表現した埴輪(はにわ)にとらわれることなく、広く世界各地に居住する原始的狩猟・漁撈民族の生活を参考にされ、それにもとづいて円錐形の上屋構造を想定されたという。
 この作業は、まず柱穴を選択することから始まった。多数の柱穴のうち壁面に近く、しかもほぼ等距離にある一〇ヵ所が選定され、そこに一〇本の柱がたてられた。


縄文中期の住居復原工事

 それらの上部に桁を渡して結束した。結束材料にはフジ・クズフジなどが使われた。結束の方法としては、古式に残る片輪結びにしたという。
 これを上からながめると、円に近い十辺形となり、これに対して竪穴の外側の地表から、現代の屋根下地に使う垂木(たるき)というべき丸太を数十本も寄せ掛ける。
 その形はちょうど少し前まで使われていたカラカサの骨組みを地上に伏せた形となる。
 その上に木舞と呼ぶ絹木を外から水平の段々に結わえ付けた。これで骨組みが完成し、これに下からカヤを一束ずつ結わえ付け、ぐるりと一回りしたら、その上段へと結束した。
 最上段にあたる屋根の頂上は、入母屋(いりもや)形式とし、そこに煙出しの構造を設けてある。
 この古代復原家屋は、さまざまな苦労の末、翌三月に東京都では第一号として完成し、その後に与えた教育的効果は大きい。
 当時は自由に家屋の内部にはいれたのであったが、それが元でこの第一号が焼失してしまったため、その後の復原家屋はフェンスに囲まれて普通は中に入れない。
 中に入ったとしても家の構造がわかるだけで、生活そのものを理解することは不可能である。
 このため区は老朽化した展示館の代わりに、出土品の展示、家屋の内部、生活の再現を試みた新しい展示館を建設した。

     3 弥生時代の渋谷 top

 縄文時代は採集・狩猟ないし漁撈を生活の基本とした文化である。
 いつからか焼畑(やきばた)農耕すなわち原始的食用植物の栽培が始まったとする説もあるが、渋谷ではつまびらかでない。
 むしろ前述のような生活を継続していたために、遺跡の減少という事実につながるのではないかと考えられる。
 米の栽培が始まったのは、縄文晩期とは生活文化の異なる弥生時代からであろうといわれている。
 しかしながら、縄文時代と弥生時代との間に、民族的にも文化的にも、けっして断絶があったとは考えられない。
 それは日本の西部に海外からもたらされた米作りの文化が除々に東へ伝わってきたとみるべきであろう。
 従ってこの渋谷でも、大体、南関東の弥生文化の発生と展開については同一傾向がある。
 過大な労働草加必要であった縄文時代にくらべると、水稲(すいとう)栽培を知ったことによって労働量が同じであったとしても、米は保存が効くから、たとえば、厳冬期にあえて獲物を求めて危険を犯さなくてもすむ。
 同時に時間的・肉体的に少しでもゆとりが出来始めたことに、大きな意味があるであろう。
 もちろん縄文時代からの生活の伝統は続いているとみなければならないが、米作りを知ったことによって見出した時間的なゆとりは、弥生時代人が繩文人にくらべて一歩原始人離れをし始めたことになろう。

 米作りの立地条件
 だがしかし、渋谷での水稲栽培に関してはその立地条件がかなりきびしかった。
 第一に湧水点が二五メートル前後にあることで、第二点として渋谷川・宇田川の谷底が低くて、台地面との標高差の大きいことがあげられ、特に代々木地域では台地縁が崖となって落ち込む地形である。
 もう一つ、五〜六〇〇〇年前以後に始まった海退(かいたい)が、比高にして二〇〜二五メートルから現在の東京湾平均水位になったとすると、一〇〇〇年平均で計算上では約四メートルずつ海水面が下ったことになる。

 とすれば、現在の渋谷川あるいは宇田川筋では、この弥生時代には中流域、あるいは下流域ぐらいまでは海水の浸入があったであろう。
 上流はまだ塩分か残っている谷底であったと推定される。
 水稲栽培の適地としては、かって海水が浸入しなかった支谷であったと推定されるが、それらが狭小であるのと湧水量にも関連して、地域的には限定されるであろう。このような状況のためであろうか、現在までに区内の弥生遺跡はわずかに三ヶ所しか知られていない。
 それらは渋谷の中南部にあって、出土する遺物は土器のみであるが、その時代区分は久ヶ原式・弥生町式・前野町式と呼ばれ、土器表面の模様の付け方に違いがある。
 今までにわかっている出土地は桜ヶ丘町と、浅い谷をへだてた猿楽町にあり、それから東に渋谷川の谷をへだてた広尾中学校付近である。
 このうち昭和四〇年に猿楽町で鶯谷コーポラスの建設が始まった時、その斜め前に住む藤野次郎氏によって、弥生式土器がセットとして回収され、のちに区に寄贈されて現在は区立白根記念郷土文化館に保管展示されている。
 弥生時代の資料に乏しい渋谷区にとっては大変貴重な資料となっている。
 この壺型土器の一つに、その頸部に小さいくぼみがあった。
 それを拡大して調べてみたところが、明らかに稲の籾の痕跡であった。
 これによって、渋谷でも周辺地域とほぼ同時期に米の栽培が行なわれた事実が明らかになったのである。


籾の痕跡のある士器
(東4丁目、白根記念郷土文化館)

 弥生住居跡の調査
 上述の遺物が発見されたのは、台地上部に近い斜面であった。
 ところが、その台地上部が区有地となり、工事が開始されたという藤野氏からの連絡で、区教育委員会で予備調査をしたところ、遺跡のあるらしいことがわかった。


弥生住居跡の発掘調査

弥生時代復原住居断面図

 区では昭五二年一月、国学院大学教授樋口清之博士にその調査を依頼して調真が始まった。
 この作業中に渋谷郷土研究会のメンバー、区内中学校の教職員と生徒、考古学研究の婦人グループなどが協力して発掘が進められていった。
 その結果、弥生時代としては例外に属する大型の遺構を発見したのである。
 この遺構は、明らかに時間的に異なる三つの時期に、ほぼ同一地点に建設された住居跡が重合したものであると認められた。
 最初の時期の住居跡は、ローム面を約四〇センチメートルの深さに、長径八・五メートル、短径六メートルの楕円状に掘り込んだ床があり、中央に炉跡もあった。
 柱穴は四個とみられるが、一個は後世のゴミ穴掘りで破壊されたようである。
 これは代々木八幡の繩文遺跡にみられた壁面に沿う柱穴列とは違っている。
 炉跡の付近に河原石が若干あったが、土器の破片は床面から浮いた状態でいくつかみられたのみであった。
 この住居跡がいったん廃絶したのちに、この住居跡の西側の一部に重なって別の住居が建設されたと見られる別の張り床があった。
 この時に先人の遺物は、まとめてどこかに廃棄されたのであろう。
 この住居もまたいつか廃絶し、その後、すなわち弥生時代最末期か、あるいは古墳時代初頭期に属する四角い形の住居跡の壁面の一部と床の一部が、初期住居跡の西南側に重なる状態で発見された。
 この発掘の過程の中で得られた土器片は、大体南関東から出土する型式と同じで、弥生時代後期に属する久ヶ原式・弥生町式・前野町式であった。
 久ヶ原式土器が使われた時代の住居跡は、直径四〜五メートルの円形であることが普通であるのに、ここの最初の住居跡がいずれの時期に属するかは不明であるにもせよ、上述のような、常識を破った大型住居跡が発見された事実は非常に貴重である。
 それゆえに、この区有地は最初の計画を変更して児童公園となることに決まり、造成後、猿楽古代住居跡公園と名付けられた。
 なお区では、この大型住居跡をもとにして弥生時代の古代家屋を復原し、その工事は昭和五三年三月に完成した。
 これで渋谷区は縄文時代と弥生時代の二つの古代復原家屋を持つことになり、小・中学生の社会科学習の一助になり、また、社会教育の面についても大きな前進が期待される。

       二 古代の渋谷 top

     1 古墳時代の渋谷


 弥生時代以後にも地味が低く、凹凸が多い地形の渋谷では、人口は増加せず溺谷(おぼれだに)底を利用した農耕の生活が細々と続けられてきたと考えられる。
 弥生時代に続く古墳時代というのは、死者を埋葬する高塚古墳、現代でいう墓が形成された時代といえよう。
 渋谷にあったこの墓の型式は、高塚(たかつか)古墳と横穴(よこあな)古墳の二種類である。
 高塚古墳は土を盛りあげて墳丘を造り、その頂部に棺に収めた遺体を埋葬したものである。
 この時代の人々は、死後にも生前の生活そのままが次元の違う世界(あの世)で行なわれると考えたらしい。
 だから生前の使用品が一緒に埋葬されることがあった。
 渋谷の場合は、この墳丘は小型で円い形が多くこれを円墳と呼んでいる。
 記録によるとかっては一八基あったらしく、宇田川と渋谷川中流部に沿う台地上にみられたという。
 終戦前には現在の代々木森林公園にあったナマコ山と呼ぶ前方後円墳がよく知られていた。


猿楽塚実測図

横穴古墳の発掘調査

 現在残っている高塚古墳は、猿楽町二九に建つシャレたマンション、ヒルトップテラスの隣りにある円墳二基である。
 これらは南北方向に並び、北の古墳は基底部の直径約二〇メートル、高さ五メートル強で、古来猿楽塚(『江戸名所図会』には去我苦(さるがく)塚ともある)と呼ばれてきた。
 南の円墳は基底部の直径約一二メートル、現存の高さは三メートル程であろうか。
 これらはいずれも古墳時代末期六〜七世紀の築造と推定されているが、未発掘のまま保存されているので、内部の状態や副葬品については不明である。
 なお猿楽塚は、昭和五一年に渋谷区の文化財保護条令にもとづいて、渋谷区史跡に指定された。またこの猿楽塚があることから、この付近一帯を古来から猿楽と呼び、現町名もそれに起因している。
 高塚古墳が地域的有力者の墳墓であるのに対し、庶民の墳墓と考えられる横穴古墳があった。
 これは台地上面に近い赤土の斜面に、横から穴を掘り遺体を埋葬したという簡単な構造である。
 これも高塚古墳とほぼ同じ地域に分布し、かっては約二〇ヵ所が知られていた。
 横穴古墳は一力所に数基が集合している場合が多く、また昭和四六年、東京都によって調査された鶯谷町一〇の例によれば、羨道(せんどう、通路)に対して玄室(げんしつ、安置所)一個のものと、奥で羨道が二つに分かれ、玄室二個(集合墳)があった。
 この時代の住居跡は現在までにわずか二ヵ所が体認されているにすぎない。
 その一つは東四丁目一四の都立広尾高校西側の切通し工事の際、樋口教授によって住居跡の断面が発見された。
 出土した土師(はじ)器は壺・深甕(ふかがめ)・坏椀型土器などで、古墳時代初期に属する鬼高式期のものである。
 このほかに鉄釘様の遺物も一個が出土している。
 ほかの一ヵ所は、筆者の自宅の地下室工事の際に住居跡断面が露出したものであり、所在地は円山町一九番一五号で、北西向きの傾斜面にある。
 出土品は壺・器台・高坏などの土師器で、時代区分は古墳時代初頭の五領式期に属する。
 この後の時期の遺跡については、はっきりしたことはわからない。
 ただ代々木森林公園の造成工事中に、筆者が原宿駅に近い地点から須恵器の破片と平安時代に属する布目瓦の破片をそれぞれ十数点表採したことをしるすに止めたい。

     2 大和朝廷と渋谷 top

 考古学上からみれば、上述のようにはるかに遠い昔の縄文時代から弥生時代を経て、古墳時代、平安時代ごろまで、盛衰はあったが、この渋谷で祖先たちが生活を続けてきたことが理解できる。
 しかし、日本の歴史が文献に記録される時代にはいると、渋谷という文字が記録に現われてくるのは、はるかに後のことになる。
 古代の日本国家が成立し、その支配が東国におよんでくると、渋谷は武蔵国に所属していったことは明らかである。
 この武蔵国は古代の文献に无邪志(むさし)国造(くにのみやっこ、『日本書紀』)ないし胸刺(むさし)国造(『先代旧事本紀(くじほんぎ)』)が支配していたとある。
 これらには渋谷ないしそれに類する地名がでてこないことは上述したとおりである。
 その理由として、まず古代の主要交通路から離れていたために、実情が中央に伝えられる可能性がほとんどなかったことが挙げられよう。
 第二には、溺谷地形が狭小であり台地上もまた地味に乏しいという条件から、個々の小集落はあっても、それらが大集落に成長する可能性がなく、地方的地域群に組込まれるほどの単位にはならなかった。
 そのために注目されることはなかったであろう。

 古代の所属
 大和朝廷による東国支配の形態が確立する律令体制の時代になると、広大な関東平野は馬と布の生産地として、中央政府から注目されはじめたようである。
 そうなると武蔵国に対する支配体制の確立が必要になり、一方では天皇家の直轄地も設置されていった。 これらの事情に起因するであろうと思われる地名が、麻布(あざぶ)・駒場(こまば)など渋谷周辺に残されている。
 『倭名抄』(九三〇年成立)に記載された武蔵国二一郡の古代地名のうちに、豊島郡と荏原(えばら)郡があり、その頃の渋谷はその双方にまたがっていたと考えられている。
 この荏原郡に九郷があり、その中に御田(みた、三田)郷と木田(きた)郷がある。
 御田は屯倉(みやけ)すなわち天皇家の直轄地であって、その北に位置する北三田の地名が木田にあてられたと考えられている。
 この木田郷は渋谷の一部であるといわれている。
 なお豊島郡に属する広岡郷について、江戸幕府が編さんした『新編武蔵風土記稿』には、現在の渋谷区南部の広尾のあたりであろうとしているが、その確証はない。 また、この時代に全国に国分寺の造営が行なわれたが、その造営に労力奉仕のほか、瓦の献納があった。
 武蔵国分寺の瓦のなかに、「豊」「荏」あるいは「木田」「広」などの文字を刻んだものがある。 これらはそれぞれ豊島郡・荏原郡・木田郷・広岡郷からの献納品を意味しているのであろう。
 かって渋谷区内の神宮前六丁目二五の長泉寺裏山と初台(はつだい)から奈良時代の瓦が発見されたことがあった。


古代交通路図

       三 坂東武者と渋谷氏 top

  1 坂東武者のおこり


 平安時代にはいり、前代に引き続き関東は開拓地として中央政府から官吏が派遣され、官地を管理しながら卦任地の周囲を開拓して私領を迫りながら土着していった。
 また広大な原野は牛馬を飼育する適地として注目され、勅旨牧(ちょくしまき、官の牧)が開設された。
 その一方では、私牧も発展していった。
 中央政府の力が衰微して行くのとは逆に、土着した旧官吏(かんり)は私領を拡大し、しだいに開拓領主として勢力を拡げ、同時に治安の不備にかこつけた盗賊の横行に対応して、自衛の必要から武力を備えた。
 こうして関東各地に坂東武者と呼ばれる武士団が形成されていった。
 これらは武蔵七党および坂東八平氏と袮している兵馬の実権を備えた個々の集団をいう。
 その集団ごとにそれぞれの血縁関係を基盤として、同族間の団結を強固にしていった。
 この武力が暴発という形で現われた代表的なものが、桓武(かんむ)平氏の流れである平将門(たいらのまさかど)による天慶(てんぎょう)の乱である。

 2 渋谷氏のおこり top

 桓武天皇の末流を称した桓武平氏の中でも関東に勢力を誇った代表的な集団が坂東八平氏である。
 その一族である平良文(よしぶみ)は秩父党という武士団の祖となった。 良文は武蔵守に任ぜられて村岡(埼玉県大里郡川本村村岡)に居住し、村岡五郎を名乗り、周辺を開拓して勢力を広めた。 良文の孫、将常(まさつね)は武蔵権守(ごんのかみ)に任ぜられ秩父郡中村に移り、秩父氏を称した。
 その子孫はしだいに武蔵国各地に拡がり、その地域の豪族に成長していった。
 この秩父党に畠山・葛西・江戸・河越・豊島・小山田の各氏があり、河崎氏も同族である。
 この河崎氏は、はじめ河崎に居住して在名を名乗り、後にこの渋谷一帯の開拓領主になったとする説(東福寺鐘銘)がある。 なおこの河崎の地は、現在の川崎市堀之内にあたるといわれている。


東福寺の梵鐘

  3 渋谷氏の居館跡について top

 渋谷区渋谷三丁目五に建立された東福寺に現存する梵鐘(ぼんしょう)は、その四周に渋谷の歴史が刻まれている。
 この鐘は宝永元年(一七〇四)に鋳造し寄進されたものであり、現在渋谷区指定の文化財、区重宝に指定されている。
 その鐘銘によれば、渋谷の旧名を谷盛庄といい、その内に渋谷郷があったという。
 はじめ秩父氏を称した河崎基家は前九年の役に源頼義に従軍し、その戦功により谷盛庄を賜わったというのである。
 次にその冒頭の部分を抄出しておこう。

   大日本国武蔵(きょう、州)豊嶋郡
  渋谷八幡大神社創于
  後冷泉帝之時渋谷、旧号谷盛庄、親王院地分七郷、渋谷郷其一也、初源頼義東征之日、使秩父六郎基家奉請雄徳山八幡大神、鎮座于玆、以前以基家戦功為最、賜氏河崎任土佐守食邑於谷盛庄、因自建別当院(以下略)

 この別当院というのは、はじめ親王院(しんのういん)と袮したとある現在の東福寺のことである。

 この地の東境には鎌倉古道が東西に通っており、この付近にかって存在したいくつもの湧泉には、渋谷一族の金王丸(こんのうまる)に付会した伝説(『江戸名所図会』その他)がある。 基家の居館の位置は、東渋谷台地の中部とされ、北には現在の青山通り、東には鎌倉道が通る要地である台地の一画であったろうといわれる。
 川辺には豊富な湧泉があり、渋谷の古社である金王八幡神社と氷川神社、それに別当寺があって、江戸時代以前から開発されていたことは確実である。
 金王八幡から西の渋谷川に至る傾斜地を昔から堀之内と呼び、昭和二年末までその地名があった。
 現在の豊栄稲荷神社が渋谷駅の南にあった頃、渋谷川の西畔にあったことから堀外稲荷と呼ばれていた。
 ただ一つの伝承に頼るならばともかく、このように多数の伝承があるので、基家の所領あるいは在住の可能性も全くないとはいえないであろう。


金王八幡付近地形図


渋谷重国の居城早川城址
(神奈川県高座郡綾瀬町)

   4 渋谷一族 top

 渋谷氏の一族については、わからない点が多い。 不明というのではなくて系図の種類が多く、本流の移動が多いことにもよるであろう。

 そのたびに末流の記録が後世に書かれることから異同が多くなると思われる。
 たとえば、秩父氏系図によると、秩父重綱の弟基家は武州荏原郡を知行し、河崎冠者(かんじゃ)を称したとある。
 ほかの系図によれば豊島郡渋谷に住み、秩父二郎と称したとあり、また渋谷六郎、あるいは小机六郎と称すとする系図もある。
 なお、荏原郡渋谷河崎知行とするものもある。このような諸碑があり、またこの時代の渋谷は荏原・豊島の両郡にまたがっていたことから、その解明はむずかしい。
 その略系図を示すと次ページのようになる。
 基家の子が重家である点については、いずれの系図をみても一致している。
 歴史にのこる確実に存在した人物であり、しかも渋谷一族にとっても重要な存在である。
 しかし、この重家に関する資料も複雑である。
 渋谷氏系図が多種あることがその原因の一つであるが、まず呼称について列記してみると、河崎平三大夫、渋谷平三河崎平大夫、渋谷平三などとなっている。
 領地については荏原郡を知行するという一例があるのみである。
 この重家について「金王八幡神社社記」――伝・明応九年(一五〇〇)、村岡五郎重義記―の文章に次の一節がある。

 「同月廿三日(寛治六年一月)上洛、河崎平三重家供奉して禁畏を衛り堀川に住する時、或夜埜畏へ賊徒弐人切入る、重家出向ひ壱人は討捕、壱人は搦捕る、賊徒の名を聞けれハ渋谷権介盛国と云、此時堀川の院より渋谷姓を給り、渋谷土佐守従五位下に任す、是渋谷氏の始りなり(以下略)

 盗賊の姓を頂戴して姓が変ったということは、たとえ伝説であるとしても非常に面白い。現代人には奇異に感じられるが、当時はそれが勇者という表現であっだのかもしれない。
 重家の長子が重国であることは各系図とも一致している。
 重国については、「渋谷庄司、武州渋谷相川渋谷知行」などとあり、また相州渋谷住の記録もある。
 この重国の時代には、武蔵国と相模国の両方に支配地を持つ武士にまでなったとも考えられる。

   5 渋谷一族と金王丸 top

 鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』にはじめて渋谷一族の名がみえるのは、治承四年(一一八〇)八月九日の条で、渋谷庄司重国の名が登場している。
 そこには源義朝の家臣佐々木源三秀義が平治の乱の後、奥州の藤原秀衡(ひでひら)を頼って下向する途中、相模の渋谷氏の館に立ち寄り、そこに二〇年間滞留し、重国の娘をめとったとある。
 従って、重国は応保年間(一一六一〜六三)にはすでに相模国に住んでいたことになる。
 しかし、いつ頃どのような形で移ったかについては、現在までのところはっきりしていない。
 とにかく一族はその時からいったん相模に定着する。
 なお、重国ははじめ長後(ちょうざ)に移り、さらに高座渋谷に移ったとする説もある。

 この時代から、中世の時代の渋谷を語るときに欠かせない人物が渋谷金王丸である。
 その金王丸の氏神と伝えられるのが金王八幡神社である。同社に現存する「社記」によれば、重家には子がないので夫婦して八幡宮に祈願したところ、神前で金剛夜叉明王のお告げを受け、永治元年(一一四一)八月一五日一子をもうけ、明王の上下の二字をとって金王丸と名付けたという。
一七歳のとき、源義朝に仕えるにあたり、自作の像を作り形見として老母に与えたという。
 『平治物語』の「義朝野間下向の事」の段に金王丸が登場する。
 これは平治の乱に敗れた源義朝が東国に落ちのびる途中で、尾張国の長田忠致の館に立ち寄り、風呂場で長田の家来に謀殺された物語である。
 一部を引用すると、

渋谷金王丸早打図(豊国画)

歌舞伎に登場する金王丸(豊国画)
 「(義朝)やがて湯殿へいり紿へば、三人の者隙をうかがふに、金王丸御剣を持て、御垢(ごこう)にまゐりければ、すべてうつべきやうぞなき。
 程へて、『御惟子まゐらせよ』といへども、人心なき間、金王丸服を立、はしり出ける其ひまに、三人の者ども走りちがひてつと入、橘七五郎むずとくみ奉札ば、心得たりとて取て引よせ、おしふせ給ふ所を、二人の者ども左右より寄て、脇の下を二刀づつさし奉れば、心はたけしと申せども、『鎌田はなきか。金王丸は』とて、つひにむなしくなり給ふ。
 金王丸はしり帰て是をみて、『にくいやっばら、一人もあますまじ』とて、三人ながら湯殿の口にきりふせたり」

とある。
 このあと玄光法師と共にさんざんおばれ、金王丸は都へ上り、常磐(ときわ)御前にことの次第を報告し、自分は出家して義朝の菩提をとむらった、と書いてある。
 先述の「金王八幡神社社記」では、金王丸は東国に落ち、いったん伊豆の土肥次郎の家に隠れ、渋谷に帰ってみると、父重家はすでに亡く、叔父重国の代になっていたので、出家して土佐坊昌俊(しょうしゅん)と改めたという。
 彼は頼朝再挙の際には重国を説いて源氏方に引入れ、のちに自分は頼朝の命をうけて、義経を襲ったが、逆に斬られてしまったと伝えている。
 この金王丸について再び「渋谷氏系図」をひもといてみると、重家とするもの、重国とするもの、重国の弟とするもの、あるいは重国の二男高重とするものがあり、諸本が一致しない。また「社記」によれば、重家と重国が兄弟となり、これまた諸系図と一致しない。
 なお新潟県見附(みつけ)市の渋谷家には、渋谷金王丸常光という武将の画俾が保管されているし、また、諸国に金王丸の墳墓と伝えられる墓がある。
 実在の人物であったとは思われるが、一人だけの名称なのか、何人かの幼名だったのか、はっきりしない幻の勇者なのである。
 江戸期にはいると、金王丸は謡曲「正尊」「朝長」「七騎落」などに豪傑として登場する。
 浄瑠璃(じょうるり)にも語られて歌舞伎で上演され、青本「渋谷金王出世桜」その他に書かれ、金王八幡神社・金王桜などの遊山地と共に有名であった。

       四 中世の動乱と渋谷 top

   1 霧の彼方の渋谷

 渋谷一族の相模国への移住などにより、武蔵国の渋谷については再び霧に閉ざされ、おりにふれてかいま見ることになってしまう。
 相模に移った渋谷一族は、かなり鮮明にしかも華々しく歴史に登場するが、もし、この渋谷に重国の知行地があったとすれば、誰かの名が残されなければならないが、それについては不明である。
 ところで相模国の渋谷氏は重国の子光重のとき、薩摩に所領を与えられ、長男重直を残してあとの五男は相模から再び薩摩に移住していった。 そのひとり、入来院氏の三男重経が残した書状案(建治三年)によると、息子の為重・頼重は父に背いて勘当になり、豊島にいたとしている。
 この寺尾為重は渋谷の一族であり、武蔵国豊島郡渋谷に居住していた。 その寺尾氏の略系図は右のとおりである。
 また熊野信仰は中世武士にも盛んに行なわれたが、那智大社に所蔵する「米良文書」のうち
 「武蔵国皿戸書立」(応永七年)の中に「六郷毆 しを毆(渋谷)との まつこ(丸子)との……」
などの名が見え、寛正七年(一四六三)の文書にも「しふや一族一円」の文字がみえることからみても、渋谷を称する武士の居住は確実であるといえよう。
 この時代には板碑(右端)の造立も盛んに行なわれた。
 これは一種の石製卒塔婆であり、形態・数量の調査によって、地域文化の手掛りとなるが、渋谷区域内に残るのは、現在までの調査では移入されたものを含めて二三基のみであり、中世における大勢力の存在は考えられない。


延文6年の板碑

 この板碑のうち宝泉寺に所蔵される一面によれば、江戸時代の下渋谷村野崎組の名主、野崎家の先祖は渋谷佐重本と袮し、渋谷の末孫であるという。

   2 大永の乱 top

 室町期にはいり関東では、南北朝争乱のあとをうけて騒乱があいついだ。
 鎌倉公方と関東管領家の確執はついに古河公方(こがくぼう)という存在を生んで、古河公方と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏・山内(やまのうち)上杉氏との対立が深刻になった。
 この間に乗じた北条早雲の子、北条氏綱は武蔵への進出を企てた。
 まず扇谷上杉氏の家臣ではあるが、心ひそかに祖父太田道灌(どうかん)を殺されたうらみを持つ太田源六郎資高(すけたか)、同源三郎資貞(すけさだ)兄弟を味方にさそい、大永四年(一五二四)一月江戸に来襲してきた。
 上杉朝興(あさおき)はこれを高縄原(たかなわばら)に迎え討って大激戦となった。
 この時に北条軍の別働隊は、江戸城を守っていた太田兄弟の内応によって江戸城にはいり、上杉軍は腹背に敵を受けて敗走した。
 『北条五代記』は、この時の状況を「搦手へ廻る小田原勢、多目・荒川・遠山・富永を先とし三千余騎、渋谷へ廻り、江戸へ押入り、前後より短兵急に拉(とりひ)しがんとす」と述べている。
 この合戦で、鎌倉道(八幡通り)でも激戦が行なわれ、金王八幡神社・東福寺・妙祐寺(みょうゆうじ)・長泉寺などが戦火をうけた。
 『新編武蔵風土記稿』の中豊沢村八幡社の条に「大永年中ノ兵火ニ神社僧宇悉ク烏有トナル」とあるように、いっさいが焼亡してしまったのである。
 こうして武蔵はしだいに後北条氏の支配するところとなった。渋谷の地もその例外ではなかった。
 後北条氏家臣団の所領役高について、北条氏康が作製させた『小田原衆所領役帳』には渋谷の地名が出てくる。

 太田新六郎知行   六貫五百文     同下(江戸)渋谷興津分
 島津衆太田新次郎  拾壱貫七百文   原宿(江戸)
 遠山藤六        拾壱貫文      幡ヶ谷
 島津孫四郎      八貫六百四十文  千駄ヶ谷

 同書にはまた

 一、六拾五貫四百文 江戸六郷内大森  渋谷又三郎
   此度改而知行役被仰付

とみえるが、この渋谷又三郎はこの地に残った渋谷一族と考えられている。
 なお「泉沢寺文書」(川崎市上小田中)の中の「吉良頼康(きらやりやす)書状」には、代々木村の宝伝寺(ほうでんじ)を永代にわたり吉良家の菩提寺であった泉沢寺(さんたくじ)の末寺とするとある。
 従来は不明であった代々木村が、北条氏の家臣となった世田谷城主吉良頼康の支配となったことを示唆(しさ)するものといわれる。
 さらに、天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉は、天下統一の総仕上げとして関東に君臨する後北条氏の本拠小田原城を攻めて、開城させ、北条氏は没落した。
 同年秀吉は徳川冢康を、北条氏の旧領地である関東に移封し、家康は八月一日江戸城にはいった。
 ここに中世の幕は閉じられた。

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