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Home 一章 二章 三章 四章 五章 六章 付録

五章 近代の川崎

1 地方制度と自由民権運動
 明治新政と人牛区制/郡区町村編制法と川崎/府県会と区町村会/学制発布と学佼教育/地租改正と川崎/自由民権運動と市域/自由党と改進党/第一回衆議院選挙/新興宗教丸山教/市域の俳句文化/町村制施行と川崎
2 工業都市化以前の産業経済
 明治初期の市域の物産/長十郎梨の登場/多摩川漁業組合の結成/鉄道の開通と人力車
3 工業都市川崎の発展
 大正初期の町村構造/工場誘致の町是と工場進出/多摩川改修運動とアミガサ事件/海浜埋立てと川崎運河/第一次世界大戦と工業の発展/「友愛会」川崎支部の結成/米騷動と川崎匡済館の建設/戦後恐慌の影響
4 川崎市の誕生と市域の発展
 関東大震災と市域の惨状/川崎市の誕生と市域の拡大/農村地域の産業
5 昭和(戦前・戦中)の川崎
 郊外電気鉄道の発達/臨海工業地帯の確立/「武装メーデー事件」と煙突男/戦時下の工業/太平洋戦争下の生活と戦災

  1 地方制度と自由民権運動 top


車駕東幸 明治元年10月、明治天皇の行列は
2300人の供奉を従えて江戸入りしたが、
そのとき六郷川の渡場に舟橋をつくって渡った。

 明治新政と大小区制
 江戸幕府は、一八六七(慶応三)年一〇月、一五代将軍慶喜が大政奉還して崩壊しいた。
 やがて王政復古を経て明治の新政がはじまると、一八六八(明治元)年六月一九日に川崎市域をふくむ江戸南西部の地域は、幕府代官であった松村忠四郎(改名して長為)が武蔵県知事と任命され、その行政のもとに近代の幕が開かれたのである。
 しかし、八月になると松村に代って古賀一平が任命され市域の行政を引き続き担当することになった。
 古賀はこの時管轄地域の巡視を行なっているが、川崎市域にも訪れて民政に対する意見書を聴取しているのである。
 この諮問に応えて具体的に意見を献策したのは、川崎宿寄場組合大惣代市場村(横浜市)の名主添田七郎右衛門と池上新田名主池上太郎左衛門であった。
 このような古賀の姿勢は、新政府が地域の民情を組入れて行政を行なおうとした現われともいえるが、一二月には神奈川県が設置されると川崎市域もその管轄下に入ったのである。

 そして、一八七一(明治四)年の廃藩置県によって、神奈川県もいよいよ中央集権的統一国家の一部に組入れられることになった。
 新政府は戊辰戦争以来の混乱による流動する全国民の動静を掌握するため、新しい戸籍の作成に着手しているが、その戸籍法に基づいて各府県では戸籍区の設置と戸長・副戸長の選任に着手している。
 こうして新政府は一八七三(明治五)四月に、名主・年寄らの旧村役人をすべて廃し、土地・人民に関する行政を取扱う戸長・副戸長を設け、新しい行政区としての大区・小区制をしいている。
 このとき神奈川県下は二〇大区、一八二小区に分けられているが、川崎の大小区制をみると第1表(右上)のようになる。 しかし、これは翌七三年(明治六)五月には二〇区と一八五番組からなる区番組制に改められている。
 この年の四月に神奈川県令大江卓より任命された市域の各区長と副区長は、第四区が市場村の添田知通と大島村の村田茂質、第五区が溝ノ口村の鈴木直成と上菅生村の片山正義であった。区長らは毎月県庁に赴き、県令出席のもとで地方行政に関する会議が開かれている。
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 しかし、一八七四(明治七)年六月になると、区番組制が再び大区・小区制に改められ、市域は第四・第五大区(各九小区に分割)と第六大区の一部(旧柿生村)および第七大区の一部(岡上)となったのである。
 この頃の町村の財政は、一般に道路橋梁修繕や堤防人費などの土木用水関係、正副戸町人件関係、学校取立関係のほか、県庁修繕・監獄建増・布告布達・徴兵・地租改正などの国政の委任事務の負担などが重くなっていた。
 そのため神奈川県からも各町や村がその負担にたえるように町村会の開設が強く要望されるようになったのである。
 明治一〇年代になると行政改革が急速に新政府によって進められるが、一八七六(明治一一)七月には、いわゆる三新法が公布された。
 このうち郡区町村編制法によって、これまでの大小区制は廃止され、新らたに府県の下に郡区をおき、これを行政の単位とし、その下にさらに旧幕府時代からの町や村を改めて復活させることになった。
 これによって町村は、明治政府の末端の行政単位となり、また地方自治体でもあるという、二つの性格をそなえることになったのである。
 一一月一八日、この郡区町村編成法が施行されると、橘樹郡と都筑郡が成立し、このうち市域の町村は、橘樹郡一二一か町村のうち六九か町村、都筑郡六九か町村のうち一一か村が含まれ、その町村名をみると第2表(右)のようになる。
 なお、この時の橘樹郡役所は神奈川町の成仏寺内(明冶二一年に神奈川町八一六の新庁舎に移る)、都筑郡役所は下川井村の旧七大区三小区扱所に開設されている。

 もっとも下川井村は翌年には川和村に移転しているから、きわめて短期間であった。

 府県会と区町村会
 一八七九(明治一二)年になると、三新法の一つである府県会規則に基づき初の県会議員の選挙が行われた。
 この時、橘樹郡からは長尾村の鈴木久弥、溝ノ口村の上田忠一郎、池上新田の池上幸操、大豆戸村(横浜市)の推橋宗輔が選ばれており、県下四七名の県会議員と共に川崎地域選出の議員として県会に出席することになったのである。
 一八七九(明治一二)年四月、三新法に続いて、今度は区町村会法が公布されるが、これは明治政府が当時全国的に高まりをみせてきた自由民権運勣に対する、農村支配の秩序の再編成をねらいとしたものであった。
 この政策にそって市域の町村においても各町村会規則が作成されている。
 郡区町村編制法によって復活した町村における戸長の主な仕事は、郡役所からのおびただしい達書類の処理であったが、溝ノ口村における一八八〇(明治一三)年の処理件数は、実に三四三件に及んでおり、戸長はその仕事に追われ寧日(ねいじつ)なしの有様であった。
 こうしがなかで溝ノ口村の鈴木直成や生田村の河合平蔵のように、多忙な戸長の仕事のかたわら、農業技術の指導や学校教育の振興のために奔走し、また積極的に豪農民権運動のなかに身を投じていく者も少なくなかった。

 学制発布と学校教育
 一八七二(明治五)八月、わが国の学校教育の基礎とされる学制が発布された。
 その趣旨はこれまでの学問教育が武士のみに独占されたことを否定し四民平等の原則に立つ義務教育制をとったことであるが、そのために学問・教育の目的を自己の生産・生活のための実学へ変ること、また政府が企図する富国強兵を実現するため、施政に協力し、文明開化に進む気風をつくる教育が身分・男女の別なく普及することなどを当面の目的とした。
 そして具体的な実施方法としてはアメリカの教育思想とフランスの教育制度が大胆に採入れられ、新たに学区制もしかれることになった。
 神奈川県は東京府他一二県と共に第一大学区にはいり、橘樹郡は久良岐郡と共に第七中学区に属し、川崎宿の一一八番から中野島の二〇一番に含まれることになった。
 本来の計画では市域には九二の小学校が設置される予定であったが、実際には三二、三校が創設されたにすぎなかった。
 この時市域の最初の学区取締になったのは小田村の田辺弥平、井川村の青山太郎右衛門、下菅生村の片山正義、小杉村の安藤久重であった。
 学制施行当時の小学校は、大部分が寺院などの仮校舎で授業を行なっているが、川崎学校は宗三寺、中丸子学校は無量寺、井田学校は善教寺、寿静学校は長弘か、溝ノ口学校は宗隆寺、宮内学校註高元寺、小杉学校は西明寺、丸子学校は大楽寺、北島学校は安楽寺、登戸学校は善立寺と光明寺、上麻生学校は長福寺を使用し、長尾村の化育学校、宿河原村の宿河原学校、千年村の培根(ばいこん)学校のように村の共有地に設けたり、民家に開設されたのは珍らしかった。
 学区取締の大きな仕事は校舎の新築と校内の整備であった。
 教師には寺不屋・私塾の系譜につながる者が多かったが、維新の変革によって職を失った士族も人生の活路を教育者のなかに求めた者も少なくなかった。
 小学校の費用は授業料と町村税である民費や寄付金でまかなわれた。
 これはたしかに近代的な方法であったが、農民の生活が自立されていない時期には、かえって市民の負担となり、子弟の就学を困難にした。
 市域の未就学児童のなかにはこうした貧困・病気を理由とするものが多くいたが、ほかに資産はあっても中途退学する者もおり、就学率が九〇パーセント台を越えるようになるのは一九〇七(明治四〇)年以後のことであった。
 市域において一八八六(明治一九)年の小学校令に基づき、はじめて四年制高等小学校が併設されたのは一八九一(明治二四)年の尋常高等川崎学校であったが、その後、高津・南加瀬・柿生・中原・宮前などにも創設されている。
 また生田には一八九三(明治二六)年生田・稻田両村の有志による私立高等稻生小学校が創立されている。
 のちに稻田村には私立成志学校、宮前村には私立学而学校が設立されている。
 この頃、市域における私塾は一八八五(明治一八)年に下小田中の安楽寺で時習黌(のち時習学館。私立時習学校と改称)が開かれ、生徒は橘樹郡のみならず、東京・横浜からも通学してきた。

 地租改正と川崎
 明治政府は一八七一(明治四)年の廃藩置県の後、土地制度の変革と租税制度の統一をめざして一連の改革を開始した。
 翌七二(明治五)年になると土地永代売買が解禁され、売買地や一般の土地への地券の発行や石代納の許可が行なわれると共に、地租改正への準備が進められた。
 こうして七三(明治六)年になると大蔵省の主催で法案審議のための地方官会同が開かれ、七月二八日に地租改正上諭、地租改正法、地租改正条例、地租改正施行規則、地方官心得などの一連の改正法令が公布されたのである。
 さて、市域における地租改正事業は一八七四(明治七)年に開始されている。
 地租改正掛は県権大属に抜てきされた添田知通でその下に八人のメンバーが配属されていた。
 次に小林孝雄氏の調査研究によって経過をみることにしよう。
 まず八月から一二月にかけて、最初の作業として耕地・宅地・原野の地図の作製が行なわれた。
 つまり、これが地引絵図の作製であるが、川崎市域の北西部三七か村の第五大区については、地租改正総代人は上菅生村の片山正義で区会所は溝ノ口村に分かれ、各小区の取調掛には九小区まで各副戸長が任命され、測量掛筆頭には関山与五郎が選ばれている。
 この地引絵図の作製は予想以上の難事業であったが、これが終了すると土地台帳の作製であり、その次に反別検査と地価調査に入るのである。
 この時の苦労や困難は現在、添田知通の「日記」から知ることができる。
 添田は地租改正の作業の状況をつぶさに踏査しているが、ある区では説諭、他の区においては督促という両面の方法で臨んだ。
 このようにして一八七六(明治九)年四月までに反別検査と地価調査がようやく完了したのである。
 そして六月になると、他の府県に先んじて、小作米金による地位等級の作業が各村各区ごとに算出されることになった。

 自由民権運動と市域
 一八七八(明治一一)年の三新法の制定をきっかけに、県会・区会、さらに町村会などの地方議会が開かれた。
 この頃になると、各地方における豪農や豪商が、それらの地方議会を中心にひろく民権運動に参加する傾向がみえはじめだ。
 そして、そこには士族出身の民権派と思想的にも成長してきた豪農商層との組織的な結びつきができあがりつつあった。
 こうした状況の中で各地方の府県会は地域住民の生活や利益をまもり地方自治を確立していこうとする動きがみられた。
 ところで一八七七(明治一〇)年六月、西南戦争において鹿児島県士族の軍事反乱が後退しつつあったころ、板垣退助・片岡健吉らを中心とする立志社は、もはやすべては言論の時代であるということを見とおして政府に建白書を提出している。
 このなかには国会開設・地租軽減・条約改正という民権運動の三大綱領が盛りこまれていた。
 こうして運動の目標が明らかになると、規模も広がり、地方の政治結社も次第に増加していった。
 この運動は愛国社の再興運動にも引きつがれ、やがて国会期成同盟へと発展した。
 一八八〇(明治一三)年には自由民権運動は国民的運動にまでひろがり、その担い手も士族の一部から次第に豪農商層へと移っていった。
 さて、このような情勢のなかで川崎市域の民権運動はどのような盛りあがりをみせたのであろうか。
 ところで神奈川県の自由民権運動の源流は、三多摩(現、東京都)、とくに南多摩に求めることができる。
 そして川崎市域の豪農民権家たちが民権運動から政治結社結成への道を開いたのに神奈川県武蔵六郡(北多摩・南多摩・西多摩・橘樹・久良岐・都筑)懇親会であった。
 この会の幹事として市域から参加したのは県会議員である溝ノ口村の上田忠一郎、長尾村の鈴木久弥、池上新田の池上幸操(こうそう)、戸長である溝ノ口村の鈴木直成、生田村の河合平蔵の五名であった。
 こうした中で翌八一(明治一四)二月には橘樹郡長の松尾豊材を中心として第一回橘樹郡親睦会が溝ノ口村の桜鷦新兵衛宅で問かれており、参会者も一八五名に及んだ(「上川日記」)
 この時幹事には溝ノ口村の鈴木直成、川崎駅の田中光弼、生田村の河合平蔵らの戸長七名がなっており、橘樹郡民の団結と中立を訴えた(「橘樹郡親睦介記」)
 こうして市域の啓蒙運動がいよいよ盛んになり民権運動も活発に展開することになった。

 自由党と改進党
 一八八一(明治一四)に自由党が結成されると、市域では池上新田の池上幸操や溝ノ口村の上田忠一郎が入党している。
 上田は醤油醸造業・六代目稲毛屋安左衛門の次男として生れており、資産と家業からも幅広く人々との交流をもっていた。
 この上田家を訪れた市域の民権指導者たちは溝ノ口・長尾・上作延・北見・登戸・生田・小杉・大島村と川崎町など広範囲に及んでいる。
 市域は、これら自由党に対して、一八八二(明治一五)年大隈重信らにより結成された改進党の動きも活発で同年の県会議員の選挙では川崎駅の岩田道之助、長尾村の井田文三が当選している。
 岩田は市域の改進党の中心であり、神奈川県下の改進党の政治的拠点は、まさに川崎町であると喧伝されたほどであった。
 また、井田は世襲名主を勤めた井田勘左衛門の長男として生まれ、戸長・県会議員となり、最初の橘樹郡農会長や二か領用水組合議員常設委員を歴任している。
 しかし、一八八一(明治一四)年以降、松方デフレ政策が進行すると、多くの自作中農層が没落したのに対して、豪農層の一部も地主化の方向をめざして民権運動から次第にはなれていった。
 やがて福島事件を契機として自由党員のなかには民権運動から脱落する者と、急進主義の方向をとる者とに分裂した。
 そのため自由党の担い手は主として没落しつつある中・貧農層となり、自由民権運動は農民民権へと移ったのである。
 こうした中で政府は、次々に起った諸事件をまえに、集会条例の改正などを行ない全力をあげて鎮圧を行なったため、やがて民権派の幹部たちは次第に指導力を失っていった。
 こうした中で、一八八二(明治一五)年一二月には、井田文三が発起人となり長尾村で頼母子(たのもし)懇談会を組織しようとしたが、これは集会条例違反のために禁止されている。
 しかし、翌八三(明治一六)年二月になると、第三回橘樹郡親睦会示溝ノ口村の新小池楼で開かれ、出席者約七〇名の前言郡長松尾豊材が演説を行なっており、四月には井田文三主催の政談演説会が溝ノ口村の宗隆寺で開かれ、翌八四(明治一七)年には同じく井田が今度は長尾村の等覚院において学術演説会を主催している。
 この時の参加者は七〇名で、この時東京から招かれた島田三郎も演説している。
 このように市域の民権派の指導者たちは大いに意気軒昂(けんこう)たるものがあったが、きびしい取締りの強化のため自由党は一八八四(明治一七)年一〇月に解党せざるをえなくなった。
 やがて民権運動は、一八八七(明治二〇)年以後、大同団結運動のかたちで条約改正に対する反対として再度もりあがる機会をえたのであるが、この時期の市域は、橘樹郡二二か町村の町村長けすべて改進党に入っており、一八九〇(明治二三)年に川崎町で結成された改進党の同好会は、本部は横浜で、一五〇名の会員を擁していた。
しかし他方、旧自由党系も神奈川倶楽部、公道倶楽部、住民倶楽部を組織し、中島信行らを中心に会員五〇〇余名に及んだ。
そのなかには稻田村の小林五郎兵衛、三平藤兵衛、高津村の上田忠一郎・岡重孝・太田道賻・林喜楽、中原村の朝山信平・市川代三郎・小林三左衛門、生田村の河合平蔵・笠原已之助・松沢信太郎、住古村の高橋善右衛門・川原伊左衛門、川崎町の田中亀之助・森五郎作、田島村の青木豊一郎らが含まれていた。

 第一回衆議院選挙
 明治政府は、こうした中で立憲制度成立の準備をすすめ、一八八五(明治一八)年一二月には、まず太政官制度を廃止して内閣制度を創設、一八八九(明治一二)年二月一一日に帝国憲法を発布した。
 そして翌九〇(明治二三)年七月一日には第一回衆議院選挙が行なわれたのである。
 橘樹郡は久良岐・都筑郡と共に神奈川県第二区であるが、選挙の結果は旧自由党系の山田泰造が当選した。
 この選挙のさなかに愛国公党の板垣退助か応援のために川崎へやってきて、中原村神地(ごうじ)の泉沢寺でも演説会を開いている。
 この選挙ののち旧自由党系の大合同が行なわれ、立憲自由党が成立することになった。

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 新興宗教丸山教
 自由民権運動が活発になった時期に、登戸村におこった丸山教が驚異的な発展をした。
 丸山教は一農民であった伊藤六郎兵衛を教祖とし、富士講の一つである丸山講を背景として盛んになった新興宗教であった。
 一八八〇(明治一三)年八月には、二子付近の多摩川の河原で六郎兵衛に率いられた八〇〇〇人の信者の大祈祷会が行なわれていることからも、その盛況は目をみはらせるものがあった。
 きびしい修行のなかで貧しい人々に生きる希望と力を与えようとしたもので、多くの共感をえた丸山教の信仰は関東・中部地方にも広がり、一八八六(明治一九)年に丸山教本院が登戸村におかれてから、信徒は実に一三八万にも及んだといわれる。
 しかし、こうして急速に発展をとげた丸山教も、やがて組織が無統制であったことや取締りが強化されたため次第に衰えていき、報徳社運動を取入れて勤勉・倹約を強調する信仰へと変化していった。

 市域の俳句文化
 橘樹郡自由民権運動の中心であった河合平蔵は、すぐれた俳人であり、「正流」と号して、没後に「追福句集」(発行・生田村関口杢平)が出版されている。
 そのなかには、典型的な山村の農民生活の断面をみることができる。
 一般投句者のなかには、細山村の白井清三郎(東月)、栗谷の岸尉右衛門(笑山)など、天保・弘化年間に隆盛していた太白堂桃門系者たちであったが、その中心をなしたのは片平・向丘・長尾・中野島の地域であった。
 やがて、一八八七(明治二〇)年代になると、細山の箕輪浅右衛門(中庵誠之)、菅生の杉田政次郎(若竹園鶯樹)、登戸の井出喜重(望嶽楼雅流)などがあらわれた(小林孝雄『神奈川の夜明け』)

 町村制施行と川崎
 明治政府は大日本帝国憲法の公布や国会開設に先立って、一八八八(明治二一)年四月に地方自治制度の全面的改革を行ない、市制および町村制を公布している。
 これによって旧来の五、六か町村が統合され新たに町村に確定されることになったのである。
 これは事務や経済負担にたえ、財政的にも自立できる規模の行政町村の創出をねらいとするものであり、市町村には市町村長と市町村会がおかれることになった。
 これ以後、市や町村の行政・財政については市町村会に議決権と市町村長に執行権が与えられ、地方自治団体として育成がはかられるようになったのである。
 この地方自治制度の改革にともない、市域は翌八九(明治二二)年三月三一日に、新たに橘樹郡内六九か町村と都筑郡内一一か村が第3表のように一町二一村と二村によって編成されることになった(町田村は横浜市域)
 すなわち橘樹郡は川崎町、大師河原村、田島村、御幸村、日吉村、住吉村、中原村・高津村、橘村、宮前村、向丘村、生田村、稻田村の一町二一か村に、また、都筑郡内の一一か村は柿生村・岡上村の二か村に統合されている。
 しかしながら、このような町村分合は国会開設を前にして旧自由党系や改進党のおもわくもあり、地元の市民には様々な影響を与えたようである。
 川崎の町村名
 川崎の町村名や地名は地形や歴史および産物・人名などに由来する。
 川崎は川(多摩川)の先というと頃から自然にでた呼び名ともいわれるが、古くは河崎冠者基家がこの地に移住・開拓したからともいわれ、江戸時代の初期にも武蔵国川崎という地名が明記されている。
 大師河原は平間兼定か海辺より大師木像を得たためともいわれるが、多摩川のデルタの先端に形成された土地ということで、大師の河原ということである。
 田島は田と島を連記したもの。御幸は一八八四(明治一七)年二月に観梅のために明治天皇が小向梅林に行幸したことを記念したもの。
 日吉は駒林の金蔵寺の裏手に日吉権現のあったのをとったという。
 中原は江戸時代の中原往還からとったもの。高津は古くは渡し場・舟泊りがあり、戦国時代に高津城があった。
 橘は古代から橘樹(花)郡があったことにより、宮前は江戸時代の村の小名にあったが、宮の前という意味にもよる。
 向丘は小野小町の新勅撰集のど歌による。生田は江戸時代の上菅生と五反田村の語尾をとったという。
 稲田は肥えた土地で将軍に献じた稲の田によった。
 柿生は禅寺丸という甘柿の産地により、岡上は古くは「おかのぼり」といって川のほとりからすぐ岡へ土る地形による。
 なお住吉は明確でない(『川崎地名考』)。

  2 工業都市化以前の産業経済 top

 明治初期の市域の物産
 明治のはじめ頃、市域の人々はどのような生産に従事していたのだろうか。
 一八七二(明治五)年、神奈川県役所に報告するため、地域毎に集計された「物産書上」があって、その動向を知ることができる。
 同年五月、小杉組合村に属していた二三か村では前年一か年間に生産した物産を見積って報告している。
 それによると、この地域では、まず農産物は米六二六〇石余、大麦四七五八石余、小麦七九二石余、稗(ひえ)一八八一石余、蕎麦(そば)一〇三石余、陸稲五七石余、大豆七五〇石余、小豆九二石余、黍(きび)四二石余、大角豆(ささげ)一一石、菜種二〇二石余、胡麻(ごま)三〇石を生産していた。
 このうち米は約七二パ−セントを自用消費に当てていたが、大麦は自用消費が生産量を上回っていたため、一万二一三〇石余を移入によって陏う必要があった。


渡頭の夕暮 和田英作が明治30年に描いた傑作。
多摩川の対岸で一日野良仕事を終えて家路につく
農家の家族が渡舟を待っている様をリアルに描いている。

 また蕎麦・小豆・黍はすべて自用消費に当てていたが、そのほかの農産物はその大部分を自用消費に当て、残りは移出用に回していた。
 一方、しょうが一〇〇駄、柿三四五駄、笥三六駄、里芋二一七駄、午蒡(ごぼう)二一駄、鬼燈(ほおづき)一七荷、草花五〇駄と園蔬類を生産していたが、これらはすべて移出を目的にしたものであった。
 このほかに玉川鮎二〇〇枚、薪一万五三一〇石と一〇五〇駄、水油二五樽、麦麺(うどん)一一〇〇箱、白玉粉四駄、蚕種紙二〇〇枚、漉返し紙三万七五五帖、団扇一五〇本、附木二万六九〇〇枚、傘二〇〇本、足駄五〇〇足、魚龍三〇〇〇枚、莚(むしろ)一万五五五〇枚、縄四三〇〇房、草履二万四〇〇〇足、草鞋(ぞうり)三万五〇〇〇足、炭九三〇駄と一万一一二二俵などは移出用に生産していた。
 醤油は五一〇樽を生産していたが、そのうち二四八樽は所売捌きに当て、残りは移出用に回していた。
 菰(こも)は七三五〇枚のうち八〇〇枚は所売捌き、残りは移出用に当てていた。
 このようにこの地域では、炭や薪は山間部の村方で生産していたであろうが、一般に農産物のほかに移出を目的にした園蔬類・工産物の生産を幅広く行なっていたのである。
 このほかの地域の村々でもほぼ似たような農産物・園蔬類・工産物を生産していたが、村によって特徴的な物産を生産している。
 多摩川下流の沖積地の砂質土壌の村々では梨・桃・杏(あんず)などの果実栽培を手広く行なっていた。
 大師河原村では一八七一(明治四)年、海面四万坪に海苔養殖が成功して以来、一八七六(明治九)年には海面八万三三五〇坪に拡大されて重要な生業になった。
 また海辺の村々では塩や海苔のほかに豊富な魚貝類も産していた。
 木月・井田両村では屑紙を主原料に製造する浅草紙の生産量が多く、紙漉返し業として発展していたし、木月村ではそうめんが特産物であった。
 また、山間部では米の生産は少なく雑穀類が主であった。
 この地域では黒川炭といわれる良質の炭や薪を多く産していたが、ほかに菜種・繭(まゆ)、蚕種紙・胡麻(ごま)なども特産物であった。
 特に養蚕業は横浜開港以来盛況をきわめ、明治初年神奈川県令(けんれい)陸奥宗光にみいだされ、県内の蚕種総代に登用された『養蚕秘事記』の著者・宿河原村の関山五郎右衛門の秀れた技術指導によってさらに発展をとげるようになった。
 中野島・菅・五反田各村では製紙業が盛んで、和製唐紙(からかみ)・泰平紙などを東京市場へ出荷していた。
しかし、一八七七(明治一〇)年頃から輸入外紙の圧迫を受けやがて廃業に追い込まれるようになってしまった。
 一方、溝ノ口・久地・二子・諏訪河原・北見方・宮内・上丸子・中丸子・上平間・苅宿・上小田中・新城・坂戸などの村々の地域はほぼ前に述べた小杉組合村と同じ様相を呈していたが、特に溝ノ口村では竹皮草履・茶・箒・傘・足駄・蝋燭・醤油・絞油・濁油・菜種などを多く生産していた。
 一八七三(明治六)年の同村の職業別戸数は農業五八戸、工業二三戸、農商兼業一〇戸、商業一一戸、雑業五戸、農医兼業・農兼馬医・農兼私塾各二戸となっており、明らかに脱農化傾向を示している。
 なお、麦藁を使って真田紐のように作った紐を麦稈真田(ばっかんさなだ)という。
 これは東京府荏原(えばら)郡大森村の原産であったが、ヨーロッパ・アメリカなどの婦人用夏帽子の材料として輸出されるようになって、一八八四(明治一七)年頃から製造が盛んになり、約一〇年後には川崎町でもつくられるようになった。
しかし、一九〇二(明治三五)年頃から輸出の停滞に伴って生産は衰退した。

 長十郎梨の登場
 市域における果樹栽培はすでに江戸時代に池上幸豊が梨・桃の栽培を手がけて以来大師河原村を中心に盛んになっていた。
 また王褝寺村などでは柿の栽培が有名であった。
 大師河原村の当麻辰次郎は梨栽培のかたわら品種の改良を行なっていたが、一八九三(明治二六)年新種を育成して家名にちなんで「長十郎」と命名した。
 最初この新品種は江戸屋・開花・力弥・金平・淡雪・平四・オイラン・早生二助・大古河・金龍・中屋などの在来品種のなかで全く注目されなかった。
 ところが、一八九七(明治三〇)年頃に流行した黒星病で大被害が発生したとき、「長十郎」だけが被害がなかったため、病害に対する強さが注目されるようになり、また収穫量が一反当たり八トン以上の多産種で、甘味も多かったので各地の梨栽培を独占するようになった。
 当麻辰次郎の功績は、一九一九(大正八)年三月川崎大師境内に「種梨遺功碑」が建てられ顕彰されている。


長十郎梨をつくった
当麻辰次郎を讃える石碑

 多摩川漁業組合の結成
 多摩川の下流域は沿岸の川漁営業者にとっても、また農間に漁業に従事する農民にとっても生活の糧(かて)を獲得するため重要な場所であった。
 江戸時代から多摩川は将軍などに献上する鮎漁で名高かった。この時代には多摩川は御留川(禁漁区)に指定され、自由に漁獲できなかった。
 ところが明治になってこの指定が解かれると、鮎漁をはじめとする川漁が盛んに行なわれるようになり、特に鮎漁は課税されるまでになった。
 一方、鮎漁のほかにも川漁を行なう営業者が多くなるにつれて、漁民の漁業権や相互の権益を守るため、一八八六(明治一九)年多摩川末流漁業組合規約がつくられ、組合が結成された。
 漁業組合の結成によって、漁獲区域は神奈川県下の橘樹郡久地村南岸の中新田と北岸の伊勢宮河原から東京府荏原郡の多摩川尻の南岸常夜灯と北岸の御台場までと指定された。
 漁獲は魚種別に時期が定められ、漁具・漁法にも制限が加えられ、組合の規約に違反したときには五円以上二〇円以下の罰金が課された。
 ちなみにこの当時漁獲されていた魚種は、鮎・鯉・鮒(ふな)・鰻(うなぎ)・マルタ・砂魚(はぜ)・白魚・鰌(どじょう)・鯒(こち)・黒鯛・鯔(ぼら)・カジカ・サイ・鱒(ます)などのほかに貝類であった。
 また漁具・漁法は投網・鵜縄網・歩行網・撫網・ゴリ網・叩平網・地曳網・巻網・鯉網・白魚網・ドウ・長縄・鰻掻・見突・観取・釣具によって行なわれていた。
 一方、多摩川漁業組合の結成後、海浜地域でも漁民の団結・利害の調整などのため組合がつくられた。
 一九〇二(明治三五)年、大師河原村漁業組合が結成されると、同組合は一九〇五(明治三八)年同村地先の海面一万五〇〇〇坪を禁漁区に指定して稚貝の保護と種貝の増殖をはかり、また翌年には官許を得た三〇〇万坪の海面を関誠之に委託して蛤蝌(はまぐり)の養殖を始めさせている。
 一九一一(明治四四)年一一月には、大師河原村から三浦郡南下浦村までの沿海の漁民が神奈川県内湾水産組合を結成している。

 鉄道の開通と人力車
 一八六九(明治三)年三月、京浜間に鉄道敷設のため、築地に鉄道掛事務局を設置し工事をはじめて以来、二年六か月の歳月を費して一八七二(明治五)年九月新橋・横浜間にわが国最初の鉄道が開通した。
 この工事に伴って市域では砂子町、新宿町、堀ノ内村、南河原村、市場村の合計六町弱の水田が用地に当てられた。
 六郷川には長さ一一四・五メートルの木製橋が架けられ、堀ノ内村に駅舎が建設されて川崎駅となった。
 この鉄道開通はわずかに川崎大師の参詣者で賑う程度であった川崎宿あたりに活況をもたらすきっかけになった。


六郷川蒸気車往返之全図 明治5年、新橋・横浜間に
鉄道が敷かれて間もない頃の三枚続き錦絵。人力車・馬車(対岸)などの
新時代の乗物と同時に、旧来の渡船や荷舟、筏流しなどの姿もみられる。

 また、鉄道敷設事業がはじまると、一八七〇(明治三)年一一月川崎・神奈川間に人力車が出現し、翌年一月には川崎・藤沢間でも営業されるようになった。
 川崎宿の小川松五郎は一八七一(明治四)年地元有力者の出資を得て、従来の人力車を改造した通称曲禄(きょくろく)と呼ばれる腕車を五台つくって営業を始めた。
 鉄道開通後は川崎駅と川崎大師間の田圃道を改修して通路をつくり、停車場前通りに葭(よしず)張りの待合場を建て、さらに茶屋も建て、川崎大師参詣者相手に繁昌するようになった。
 また彼の繁昌にあやかった小土呂町の因業播磨は小川松五郎の腕車をまねて、あひる形の腕車をつくって営業した。
 その後松五郎によって組織された人力車夫は「だるま組」といわれ、一八九六(明治二九)年には車数一六〇台にも増えた。
 小川松五郎の使った腕車は、乗客が乗る部分は四隅に柱を立てその上に布製の日除けを張り、雨天には油紙で覆うようになっていた。
 さらに蹴込みが長く腰掛けが低く乗客が寝ている状態になり、だるまが酒宴をして踊っている彫刻に彩色を施した派手なものであった。
 「だるま組」の由来はこの人力車のだるまと茶屋の看板に飾られただるまにあやかって名付けられたのであろう。
 一方、一八八七(明治二〇)年私設鉄道条例が制定されると、当時盛んになってきた企業勃興の機運に呼応して各地に鉄道敷設の動きがあらわれてきた。
 市域では、同年川崎・八王子間に横浜鉄道敷設計画が立案され、一八九三(明治二六)年には東京の雨宮敬次郎等の計画や中野武営らが相次いで京浜間に電気鉄道敷設計画を出願した。
 さらに一八九五(明治二八)年には横浜の黄金井為造・大島正辰らが溝ノ口の有力者を訪ね、東京の千駄ケ谷から溝ノロ・厚木・松田を通って小田原に至る武相中央鉄道の創立に賛同を求めており、四月には高瀬理三郎らが横浜から川崎を経て大師河原に至る鉄道敷設計画を出願している。
 また九月には両毛鉄道会社の支配人樺山嘉平太が溝ノ口村の上田忠一郎に足利から分岐して川越・荻久保・溝ノ口を通って神奈川に至る敷設延長計画を働きかけている。
 このような状況の中で、川崎町では田中亀之助らが川崎・大師河原間に鉄道を敷設する運動を起していたのに呼応して、立川勇次郎が計画を提示し、一八九六(明治二九)年三月政府に「川崎電気鉄道敷設特許請願書」と目論見(もくろみ)書を提出した。

 その後この計画は大師河原村から強い反対があったり、 失業を恐れただるま組の反対があったが、地元有力者の仲介や県の勧告によって川崎電気鉄道発起人と横浜電車鉄道発起人の合同が行なわれ、翌年八月立川勇次郎が発起人となって特許状を得たのである。
 一八九八(明治三一)年資本金九万八〇〇〇円で大師電気鉄道会社が創立され、翌年一月川崎町六郷橋から大師河原間の営業が開始された。
 四月には名称を京浜電気鉄道と改め、その後二度の敷設延長がはかられ、一九〇五(明治三五)年には品川海岸・神奈川間が開通したのである。
 この結果、明治維新後衰徴しつつあった川崎宿一帯は鉄道の開通によって次第に活況を呈するようになり、京浜工業地帯の発展を促す土台を築くことになった。


大師電気鉄道(のち京浜電気鉄道)
大師堤花のトンネル(明治末期)

 なお、一八九七(明治三〇)年、貨幣法が公布され、金本位制が実施されて、金融制度が整備されるようになると、当時の企業熱とも結びついて、各地に地方銀行が数多く設立され始めた。
 市域においては、中原銀行(明治三一)、高津銀行(明治三二)、川崎共立銀行(同)、川崎共立貯蓄銀行(明治三四)、玉川銀行(同)、大師銀行(同)、川崎銀行(同)などがそれぞれ設立された。

  3 工業都市川崎の発展 top

 大正初期の町村構造
 市域の町村は大正年代から昭和初期にかけて、工業の発展や都市近郊農村化の影響を受けて大きな変貌をとげたが一九一〇年代初頭はちょうどこの節目に当たる時期であった。
 そこでこの時期における各町村の集落構造にふれておこう。
 まず、一九一四(大正三)年の各町村の地目別有祖地についてみると(ただし、共通資料を欠く柿生・岡上両村は除く)、一町一二村の総有祖地は九一九一町二反歩であった。 このうち田地は三七・二パーセント、畑地は二九パーセント、宅地は六・四パーセント、山林は二二・四パーセント、その他五パーセントの割合であった。

 これを町村毎に分析すると、田地が全体の平均を上廻つているところは概して臨海地や多摩川沖積低地に位置した町村に多く、特に川崎町・田島村・住吉村・中原村は自町村有祖地の過半以上を占めていた。
 畑地は大師河原村・御幸村・日吉村・高津村・橘村・高津村で平均以上になっているが、特に少ない川崎町・住吉村を除くと村内有祖地のほぼ二〇〜四〇パーセントの割合で分布していた。
 また山林は丘陵地帯に集中しているのは当然としても、生田村・宮前村・向丘村では村内有祖地の半分前後の面積を占めていた。
 一方宅地は各町村ともほぼ三〇〜六〇町歩の面積であった。
 これは次に述べる人口との関係でみると各町村の発展の度合いを推測できる。
 一九二一(大正元)年の公簿によれば一町一四か村全体の人口は六万一四五三人、世帯数八八〇四戸であった。
 それが一九二〇(大正九)年の第一回国勢調査では人口八万六九二一人、一九二三(大正一二)年の公簿上では人口九万八一二四人、世帯数一万七八八〇戸、一九二五(大正一四)年の第二回国勢調査では人口一一万五○一八人と、着実に増加している。
 ところがこれを町村毎に分析すると、川崎町・大師河原村・田島村・御幸村で大幅な人口増加があったが、そのほかの村々では世帯数の増加があったにもかかわらず人口は停滞傾向にあった。
 一方これら町村の職業別世帯数についてみると、前頁の表にまとめたように、共通資料を欠く柿生・岡上両村を除いた一町一二村の総世帯数八四八一戸に対して、農業六九・一パーセント、工業六・四パーセント、商業一四・九パーセント、漁業〇・七パーセント、庶業二・七パーセント、無職および職業不詳六・二パーセントの割合であった。
 このうち農業にたずさわる世帯数は川崎町で七・四パーセント、大師河原村六八・七パーセント、高津村六四パーセントと目立って少ないのに対して、他村は八〇〜九〇パーセント強の高率であった。
柿生村・岡上村を除いた一九一四(大正三)年の統計では、総世帯数九六三〇戸に対する農業従事世帯数は六三九〇戸、六六・四パーセントとなっており、このうち川崎町六・七パーセント、田島村五六・一パーセント、御幸村六二・八パーセントと減少し、大師河原村は若干増加しているがそれでも七一・四パーセントであった。
 ちなみに一九一二(大正元)年の総世帯数に対する専業農家率は五〇・一パーセント、兼業農家率四九・九パーセントであったのに対して、一九一四(大正二)年には前者が五八・四パーセント、後者が四一・六パーセントであった。
 また農家の階層は一九一四(大正二)年の場合、自作農家二二・六パーセント、小作農家二五・六パーセント、自作兼小作農家五一・八パーセントの割合であった。
 工業従事世帯数は川崎町が他村にくらべ二圧倒的に多く二〇六戸であった。ついで高津村が八四戸でこれにつづいている。
 商業では川崎町が四二・一パーセントと圧倒的に多く、これにつづいて高津村・大師河原村・申原村なども比較的多かった。
 庶業従事世帯数は大師河原村一〇一人、川崎町四七人と多く、また川崎町では無職および職業不詳者が五一〇人もいた。
 以上の数値から考えると、川崎町・田島村・大師河原村・御幸村の人口増加は主に工業の発展、中でも地場産業よりむしろ企業進出による人口増加であったと思われる。
 また商業従事世帯数が多い川崎町・高津村・大師河原村・中原村などは旧街道・脇往還沿いの町村であり、川崎町・大師河原村はこれに川崎大師への参詣人相手の商売が多かったことも影響していたのであろう。
 以上、市域町村の変貌は一九一〇年代初頭には川崎町を中心にした南部地帯に都市化の波が押寄せてきていたが、中・北部の村々はまだ純農村的色彩を保っていたことがよくわかる。

 工場誘致の町是と工場進出
 日露戦争後、横浜港にも近く、原料や製品の輸送に水運・鉄道の便がよく、工場用地の地価は安く、さらに町勢発展をはかるため工場誘致を促進しようという機運が
地元有力者の間で次第に盛りあがってきていた川崎町を中心にした多摩川下流の地域は、その立地条件の良さから経営者の間で注目されるようになった。
 一九一〇(明治四三)年回一月、石井泰助は町長就任に際し、元老会で町の発展をはかるために道路・上水道・治水の整備を行ない工場を積極的に誘致する方針を打ち出した。

 その後一九一二(明治四五)年七月、町議会の全員協議会で、富士瓦斯紡績株式会社の新工場誘致にからめて、工場誘致の促進を「町是」とするよう提案し、満場一致で決議された。
 この決議に前後して工場の進出が相ついで行なわれるようになったが、先鞭をつけたのは横浜精糖株式会社と東京電気株式会社であった。
 両社の川崎進出を契機にして、一九〇九(明治四二)年には日米蓄音機製造株式会社(三年後、株式会社日本蓄音器商会に合併。日本コロンビア株式会社の前身)が川崎町久根崎に川崎工場を建て、二年後には川崎駅東南部に大日本電線株式会社の前身である日本電線株式会社が電線製造工場を建設している。


大正初期の明治製糖川崎工場 明治44年、横浜精糖は
明治製糖に合併されたが、工場は引続き整備・拡充された。
写真は角砂糖を包装する作業場。

 また一九一二(明治四五)年六月、かねてからわが国の鉄鋼振興の必要性を抱いていた白石元治郎と民間製鉄所建設に意欲を燃していた今泉嘉一郎は、重工業の発展などで需要の急増していた鋼管に着目して、年間に約一万トンの鋼管とその原料である鋼塊を製造するため、資本金二〇〇万円で日本鋼管株式会社を創設した。
 工場用地は若尾新田に約三万坪を買収して八月から埋立て工事に着手した。
 工場の建設は翌年三月から始められ、一九一四(大正三)年四月に本格的な操業を開始した。
 生産体制は製鋼工場に二〇トン平炉二基を備え、製管工場には口径六インチまでの継目なし鋼管をつくるマンネスマン穿孔機と圧延機を備えて、約三五〇人の職工が一日一二時間労働で一週間毎の昼夜交替作業を行なった。
 一方、川崎町が工場誘致を町是に決定するきっかけとなった富士瓦斯紡績株式会社の本格的な操業は一九一五(大正四)年から始められ、職工二五〇〇人で一六番手平均綿糸を年間約四万五〇〇〇梱生産する能力を有するようになった。
 この当時、川崎町の人口は約一万二〇〇〇人であったので、同社の誘致は町勢発展に大きく寄与していたことは十分うかがえる。
 また、一九一三(大正二)年、合資会社鈴木製薬所(現、味の素株式会社)は「味の素」の大量生産をはかるため、多摩川下流の六郷村へ工場建設を計画した。
 ところが排出される塩素ガスと廃水の被害を恐れた漁民・農民の反対にあったため工場用地を川崎町久根崎に変更し、石井泰助・森幸次郎・田中亀之助の協力によって用地の買収に着手した。
 四月に工場建設を始め、九月に完成し、翌年九月から操業を開始した。
 しかし、塩素ガス・廃水は周辺の農作物や漁業に影響を与えたため、しばしば争議のもとになった。
 このように明治末から大正初期にかけ、川崎町を中心にした多摩川下流地域に相ついで工場が建設されるようになって川崎の工業都市化が急速に進展したのであった。

 多摩川の改修運動とアミガサ事件
 多摩川下流の人々は毎年のように発生する洪水に悩まされてきた。そのため多摩川の築堤など治水対策の確立は長年の懸案であった。
 一八九一(明治二四)年、政府は多摩川改修の準備のため、オランダ人技師ヨハネス・デレーケに委嘱して検査を行なわせた。
 その報告によると、多摩川の治水対策をはがるためには、水流の障害物を除去して流路の改善をはかり、堤防の構造強化を行ない、河口付近の防潮制水工を設置することなどを指摘している。
 ところが多摩川の改修事業は、その後政府が財政上の理由から放置したままであった。
 そこで多摩川の氾濫が死活問題につながっていた沿岸の人々は、一九〇七(明治四○)年に発生した洪水を契機に活発な活動を開始した。
 一〇月、神奈川県各町村長・地主総代井田文三ら二三名と東京府各町村長・地主総代三三名は両府県知事に「多摩川河身改修請願」を行なったのを手始めに、たびたび請願を繰返したのである。
 しかし、多摩川の流路をはさんで東京府と神奈川県の飛地が複雑に交錯していたこともあって、改修工事交渉はなかなかはかどらなかった。
 このような状況のもとで、一九一四(大正三)年八月に発生した大洪水でみずから死の卮険にさらされた御幸村村会議員秋元喜四郎は、遅々として進まない改修の実現には、関係町村の住民が立上がって直接行動を起す以外に打開策がないと判断し、小倉・鹿島田・北加瀬などの代表を集め協議した。
 その結果、九月一六日午前二時を期して結束して行動を起し、参加者は羽織を着用せず、草鞋をはき目印にアミガサをかぶり、警官を避けて目的地に到着するように決議した。
 この行動はただちに実行に移され、当日秘かに行動して陳情に集まった参加者は五〇〇余名にも達した。
 この日秋元喜四郎ら代表一〇名は知事に会い被害の惨状と築堤の早期実現を口々に訴えたが実りある回答は得られなかった。
 しかし、このアミガサ事件が契機となって、同月、市村橘樹郡長は被害関係団体の有志を郡役所に集め、「多摩川築堤期成同盟」を結成し運動の強化をはかると共に、東京府に対しても築堤の早期実現のため沿岸調査などの要請運動を繰り広げるようになった。
 このような運動の高揚はやがて翌年九月無堤防地域の郡道を水害予防のため改修する名目で県当局の認可を獲得するまでになり、一九一五(大正五)年、御幸村の上平間天神台から中原村の上丸子に至る郡道が改修され新堤が完成した。
 この新堤は、実現に尽力した神奈川県知事の名をとって「有吉堤」と命名した。
 一方、神奈川県会においては、一九一五〜六(大正四〜五)年多摩川を第一期改修河川に格上し、河川法を適用して国庫支弁で完全な治水工事を実施するよう建議を可決して内務大臣に提出した。
 また一九一六(大正五)年一二月東京府会と多摩川治水期成同盟を結成して運動の実現をはかった。
 この結果、一九一七(大正六)年政府は改修工事を東京府・神奈川県で工事計画を実施することを条件に、その経費の半額を助成することになった。
 これを受けた県当局は一二月の郡部会に改修工事予算案を提出した。
 この改修案は、総工事費五八八万円(神奈川県一六四万八四○○円、東京府一二九万一六○○円、国庫補助二九四万円)、工事期間一九一八(大正七)年から八か年計画、工事区間高津村久地から河口まで約二〇キロメートルというものであった。
 この改修案は市部と郡部の費用負担をめぐって意見の対立もあったが、一九一八(大正七)年三月、多摩川改修期成同盟会が工事の実現をはかるため、川崎町寿鶴館において参加者八〇〇余名を集めて橘樹郡民大会を開催して改修促進の決議をした。
 その後反対者に対する多摩川改修期成同盟会の説得工作が実って、県当局は同年五月の郡部会に起債償還年次を一部延長しただけで、前年と同じ改修予算案を提出した。
 そして論議の末これを原案のとおり可決したのである。
 こうして長年の懸案であった多摩川改修は紆余曲折の末、実現することになったのであるが、この原動力はアミガサ事件を契機にした沿岸住民の積極的な行動に負うところが大きかったのである。

 海浜埋立と川崎運河
 川崎町の工業都市化と並行して多摩川河口から鶴見川河口に至る臨海地帯も活発な工業化がはかられるようになった。
 この地域の発展は海浜の埋立てによって工場用地を拡大して工場の新設を行なったことが大きな要因である。
 この地域が工業用地として注目されるようになったのは、欧米の港湾都市を視察し、わが国にも海陸連絡の設備を持ち、船舶の碇泊地を備えた工業用地を必要と考えて、この造成構想を持っていた浅野総一郎の行動に負うところが大きかった。
 彼は多摩川と鶴見川の土砂が堆積し、干潮時に大きな干潟を形成する田島町から鶴見川河口に至る地先海面に注目し、ここを浚渫して埋立てれば大規模な工業用地を造成できると見込んでいた。
 そこで彼は、一九〇四(明治三七)年神奈川県に埋立て事業の認可を求め、四年後には工学博士山形要肋の設計をもとに田島・町田両村の地先海岸に総工事費三五○万円で一五〇万坪の埋立て地造成計画を立案した。
 資金は安田善次郎・渋沢栄一らの協力をとりつけ、一九一二(大正元)年一二月鶴見埋立組合名で神奈川県に認可申請を提出した。
 これ以前、浅野総一郎は一九〇九(明治四二)年田島村の地先海面八〇万坪の埋立地を買収していた。
 残りの埋立てについては関係村民が生業を失うなどの理由で反対運動を起したがこれを説得し、一九一三(大正二)年のはじめに県当局の認可を受け、同年八月工事に着手した。
 工事は七区画に分けて行なわれたが、最終的に完了したのは一九二八(昭和二)年秋であった。
 この間に、一九一四(大正三)年三月鶴見埋築株式会社が発足して鶴見埋立会社の事業を継承して田島村大島地先一〇万坪を埋立て、翌年末にはさらに七万坪を完成した。これらの理立地には浅野セメント株式会社・旭硝子株式会社などが進出し、埋立地の拡大と共に順次大工場の進出がはかられた。
 一方、川崎町においては工業化の促進によって工場用地が少なくなったため、一九一六(大正五)年頃に内陸部に運河を開削して工場地帯の拡充をはかる機運が芽ばえてきていた。
 そこで京浜電気鉄道株式会社は町当・局の働きかけに応
 じてこの計画を受入れ、町田村潮田海岸から川崎町八丁畷にかけ二四五五メートルの運河を開き、舟連輸送の便をばかり、運河の両側を工場用地などに当てることを計画した。同年五月石井泰助を中心に運河期成同盟会が結成され、約二八万坪の用地を買収した。
 この計画はもともと川崎町有志によって考えられたものであったが、町当局も町政上有益な事業であると協力したこともあって、九月に認可がおり、一九一九(大正八)年一二月工事に着手した。
 その後京浜国道計画が持ちあかって規模の縮小が若干あったが、一九二二(大正一一)年竣工した。
 このように多摩川下流から鶴見川河口にかけた地域は内陸・海面とも官民一体となった工業化が促進されたのである。

 第一次世界大戦と工業の発達
 一九一四(大正二)年ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発して一年ほど経過した頃から、大戦に参加したヨーロッパ諸国が軍需品をはじめ諸物資をわが国に発注するようになったため、日本経済は急速に成長した。
 このような中で川崎町・御幸村・大師河原村などの地域では重工業を中心にした工場の拡張や新工場の進出が盛んに行なわれた。
 この時期、日本鋼管株式会社は一九一八(大正四)年から一九一八(大正七)年にかけて、小形条鋼・中形条鋼・製管・厚板などの工場を次々と設け、設備も大型平炉や電気炉を導入して生産休制の拡充をはかった。この結果創業当初三万坪であった工場敷地は一九一八(大正七)年には一五万坪になり、従業員数は一九一六(大正五)年に一〇〇〇人であったのが一九一八(大正七)年には四〇〇〇人に増加した。
 また、一九一六(大正五)年鶴見埋築会社の埋立た場所には浅野造船所、浅野合資製鉄所の造船川鋼板製造工場が懦設された。一九一六(大正五)年から翌々年にかけて東京電気株式会社は第二期工場拡張を行ない、資本金を三六〇万円から六〇〇万円に増資している。
 このほかに、一九一五(大正四)年日東製鋼株式会社が鍛造・圧延・鍍金設備を備えた工場を建設し、一九一七(大正六)年には大師河原村に富士製鋼株式会社が設立された。
 このように、工場の拡充・新設が進められた川崎町・御幸村・大師河原村などでは人口と徴税額の急激な増加をもたらした。
 ちなみに、川崎町の場合、一九一二(明治四五)年、人口八七〇九人であったのが、一九一九(大正八)年には一一万二七五八人となって約二・六倍に増え、町税額は一九二一(明治四五)年に一万三五九四円であったのが、同じく七年後には七万二九九七円となって、約五・四倍の増収をみるようになったのである。
 一方、工業の発展は工場地帯と一般住宅地の区画整理、あるいは道路の整備を必要とした。このことについて神奈川県の方針は、多くの工場をなるべく一定の地区に集中して建設することは、工場のためにも付近のためにもきわめて有益であり、衛生上も有効であるとしていた。
 そのため川崎町では一九一七(大正六)年、川崎耕地整理組合を設立して区画整理をはかると共に、道路面積も十分確保した。
 この結果、川崎町は急速に都市化することになったのである。
 しかし、工業都市化の促進は農業人口の多い川崎町付近の村々では農業収入の減少をもたらすようになり、また土地を所有する地主が地元以外の人々に多くなったため、地祖付加税の減少をまねき、財政基盤を弱める危険を生じるようになって、農業と工業の調和が重要な問題となってきたことも見逃せなくなった。

 「友愛会」川崎支部の結成
 二〇世紀初頭以来、川崎方面における工業の発展は工場労働者の増加をもたらしたが、それに伴って彼らの間に労働連動に対する関心も芽ばえてきた。
 一九一二(大正元)年八月、鈴木文治は、当時社会主義運動に対する官憲の厳しい規制の中で、労働者の修養と相愛扶助を掲げ、協同して労働者の地位を改善するため、一五名の同志と共に友愛会を結成した。
 友愛会は結成準備段階から資本家の援助を受け、結成後も彼らを顧問・評議員に加えた組織であったため、その活動は労資協調にもとずく改良主義的立場に立っていた。
 川崎においては、鈴木文治の働きかけで、友愛会最初の支部を結成することになった。
 一九一三(大正二)年五月、東京電気株式会社川崎工場の従業員が川崎支部結成準備をはじめ、六月日本蓄音器商会の従業員を加えて、会員一一○余名をもって発足した。
 支部結成三週間後に、日本蓄音器商会で七〜八月二か月間の休業と従業員の賞与を一一か月に分割支給するという問題が起ったとき、鈴木文治は争議団代表として交渉に当たり、休業の一か月短縮、その間の賃金は一週間分支給、賞与は全額即時支給という条件で争議を解決した。
 この争議の結果、友愛会に対する信頼が高まり、七月から一〇月の間に新会員が二四六名も加入している。
 川崎支部では労働運動のほかに、九月には会員とその家族が無料で診療を受けられ、薬代の負担のみで済ませられる医療部を発足させ、厚生事業も手がけるようになった。
 しかし、同会の労働運動自体は、九月支部長に川崎町の前町長石井泰助を就任させたり、あるいは町の有力者を会員に加えたりしていたため、いまだ限界があった。特に一九一四(大正三)年春、日本蓄音器商会が不況を理由に友愛会員を解雇した際にはこれを撤回させる行動を起こすこともなかった。
 また、同社が八月に再び三七名の従業員を解雇した際にも鈴木文治みずから交渉に当たったが、大きな成果をかちとることもなく、むしろ会社側に押しきられている。
 このように友愛会は妥協的な体質をもった団体であったが、組織自体は富士紡績・明治製糖の従業員が支部会員に加入するようになって拡大された。
 その後、鈴木文治はアメリカの労働運動の実情を視察したり、カリフォルニア労働同盟やアメリカ労働総同盟大会に出席して労働運動に対する考え方に変化をもたらし、一九一六(大正五)年九月の工場法施行、第一次世界大戦による好景気で物価騰貴が起こり、労働運動が激しさを加えるようになったときには、友愛会自体も労働組合への脱皮を迫られた。
 その結果一九一九(大正八)年、七周年大会で大日本労働総同盟会友愛会と改称して、労働非商品の原則・八時間労働制・労働組合の自由・普通選挙制・最低賃金制の確立・幼年労働の廃止など二〇項目の主張を掲げ、本格的な労働組合として歩み始めた。

 米騒動と川崎、匡済館の建設
 短期間に全国有数の工業地に成長した川崎町・御幸村・大師河原村・田島村などの南部地域は工場労働者の増加によって活況を呈するようになった。
 ところが、一九一七(大正六)年ごろから戦争景気で経済界の賑いがあったが、反面庶民生活は著しい物価騰貴のため苦しくなってきていた。
 そのため同年八月から翌年の夏にかけて、この地域に工場のあった浅野セメント・日本蓄音器商会・浅野造船所・富士製鋼・富士紡績・日本鋼管などの労働者は賃金引上げ・待遇改善などを要求し相ついで争議・ストライキを行なった。
 このような折柄、一九一八(大正七)年八月、米価高騰に苦しんでいた富山県の一漁村の主婦たちが米の廉売を求めて行動を起した。
 この大衆行動はたちまち一道三府三三県に波及して米騒動に発展した。
 川崎では、すでに前年以来神奈川県各地に米麦相場調査所を設けて米や麦の相場を監視していたが、調査個所に選ばれていた川崎町の場合、一九一八(大正七)年一月までは、上米一石当たり二五円二五銭、中米二二円六五銭、下米二一円五〇銭と安定していたのが、翌月から次第に高騰して七月には上米三一円、中米三〇円五〇銭、下米二九円五〇銭となり、八月にはそれぞれ四〇円、三八円七〇銭、三七円五〇銭とはねあがった。
 この米価高騰と共に川崎の工場ではアメリカの鉄鋼輸入制限の影響を受けて夜業を廃止するところも多くなり、労働者の収入は減少して生活難を訴える者が多くなった。
 この事態に神奈川県当局は八月横浜市で米の廉売を行ない、橘樹郡内の各町村でも次々と行なった。
 川崎方面では、これと並行して工場にも米の廉売や現物支給を呼びかけると共に、資産家に対しても施米・施金の寄付を呼びかけた。
 この結果、川崎町では一時居住労働者の暴動の不安もあったが、八月から九月にかけて内地米六九八石余、外地米三九五石余を廉売し、工場や篤志家などの協力もあって、すみやかに対応したため、他地方にみられるような暴動はならなかった。
 一方、米騒動を契機に、第一次世界大戦の影響で変調をきたした社会生活の中で貧富の格差のひろがった細民に対する救済が社会問題となった。
 一九二〇(大正九)年四月には神奈川県は社会事業施設の建設方針に沿って、横浜市高島町に横浜匡済館を建てたが、翌年四月には川崎町堀之内に、宿泊所・公設浴場・授産室・診療室・公設巾場・人事相談室・食堂などの設備を備え、職業紹介の機能をもった川崎匡済館(きゅうさいかん、翌年三月川崎社会館と改称)を一三九一坪の借地に総建坪五三七坪・総工費一一万五六〇〇余円で完成させたのである。
 この施設は第一次世界大戦後の恐慌の中で失業者救済などに大きな役割を果たした。

 戦後恐慌の影響
 第一次世界大戦によってもたらされた大戦景気は、一九二〇(大正九)年三月その反動を受けて東京株式市場が大暴落しだのをきっかけに本格的な戦後恐慌に突入した。
 急速な発展を遂げてきた川崎市域の工業も鉄鋼部門を中心に大きな打撃を受けた。
 一九二〇(大正九)年から翌々年にかけて、日本鋼管・富士製鋼などは大幅な経営合理化をはかり、日東製鋼は解散し、また浅野製鉄所は経営合理化のため浅野造船所に合併している。
 しかし、一方においては富士瓦斯紡績は、この時期綿糸相場の暴落にもかかわらず、全面操業を続け、恐慌の影響を受けて操業短縮をしていた中小紡績会社を買収合併し、増資して生産量を増加させた。
 また明治製糖や浅野セメントなども同様であった。
 この恐慌に際して、川崎の工業は大工場を設けていた企業にとっては資本力が強固であったため、生産力の減退はあったがむしろこの試練を克服して将来に飛躍する基盤を固めた。このように川崎の工業は全体としては潰滅的な状態にならずにすんだのである。
 ところが、労働者にとってこの恐慌は、企業の合理化などにより賃金引下げや解雇が相ついだため、深刻な失業問題をもたらした。このことがきっかけとなって川崎町では一九二二(大正一一)年八月、宮前にはじめて職業紹介所を開設した。
 またこの頃の労働運動は社会主義運動と共に官憲の弾圧を強く受けるようになったため、友愛会をはじめ諸労働団体に運動方針の動揺や混乱が生じた。

  4 川崎市の誕生と市域の発展 top

 関東大震災と市域の惨状

 一九二三(大正一二)年九月一目の正午近く突如として起った関東大震災は各地に数多くの死者と建物・橋梁などの損壊をもたらした。
 この時の状況は中原村青年団員小林英男の記録によれば、
 「九月一日、曇、(中略)二百十日の前日としては穏かすぎる程平静なる月なりき。
 然るに何ぞ正午に先立つ数分間、人々は昼食の卓に就かんとする一刹那、ヅシーンという大音響と共に、全くだし抜けに地上のあらゆるものが一時に動き出し鳴り出し躍り出し、一しきりは全く天地の終りかとさえ思はれる程なりき」と、その刹那のすさまじさを記している。
 大震災の被害状況は、死者・行方不明者は川崎町七九二人、田島町一七七人、御幸村八一人、大師町五九人、日吉村一四人、中原・高津両村各七人、住吉・橘両村各四人、宮前・稲田両村各二人、向ヶ丘村一人となっていて、現在の市域においては一一五〇人の人的被害を出している。また家屋・工場の全半壊被害も甚大であった。
 被害は市域の南部に大きかったが、これは建物などの被害はこの辺が低湿地や埋立地で地盤が軟弱な所が多かった故であって、人的被害は富士紡績の死者一五四人、重傷者三五人、軽傷者一六四人にみられるように工場の建物倒壊による犠牲者が多かったためである。
 また、大震災の被害は以上のほかに農業では田畑の地割れによる損害や交通運輸の停滞によって農作物の出荷価格が下落する被害もあり、海岸一帯の漁村では重油の流失によって漁獲物が減り総額二万二〇〇〇円の損害を蒙っている。

 ところで、大震災後東京・横浜方面から多くの避難民が流入してきた。
 九月一日から一五日までに市域の各町村には一万一一八七人も流れ込み、川崎町では通常人口の三倍にもなり、高津村では一〇日の日だけで二七五〇人にも達したという。
 このような中で、事態の収拾が比較的平穏にできたのは、一つに大規模な火災が発生しなかったことと、ほかに、味の素株式会社の原料小麦粉や明治製糖株式会社の砂糖が無事であったので、これらを寄付したり、あるいは非常徴発令にもとずいて徴発して分配し、人々の不安を和らげたためであった。
 一方、大震災被害を受けた工場は、火災をまぬがれたことで機械の損害が少なく、大工場ほど資本力にめぐまれていたため、復旧も早く、大震災のあった年末にはほとんどの工場は操業を再開した。


川崎市役所清掃部のゴミ収集車
 (昭和10年代)

 さらに、大震災後富士電気製造株式会社の進出を手始めに、東京方面で罹災した工場が川崎方面に進出するようになって、新たな工業の発展をとげるようになった。

 川崎市の誕生と市域の拡大
 一九二四(大正一三)年七月、内務省告示によって川崎市は横浜・横須賀についで神奈川県下第三番目の都市になった。
 川崎町・御幸村・大師町の二町一村によるこの合併について、大師町民や川崎町民の一部に、合併は税負担の増加につながると反対する者もあった。
 しかし、この問題はほどなく下火になった。
 一方、内務省が合併申請を調査した際に、川崎町と大師町の市街地が連続していないことが市制成立の要件に欠けるという問題が起った。

 これは大師河原村出身の前司法大臣鈴木喜三郎らの働きによって、川崎大師の繁栄と川崎市の発展が不可分の関係にあり、合併が会社工場の新設を促進するという理由と、特に川崎町久根崎と大師町大師の間で人家が連続を欠くということは多摩川の氾濫によるもので、多摩川改修工事の完成をまって人家が密集し、発展をとげるであろうと、県当局から内務省に追申し認められた。
 これによって、人口五万一八八人・戸数九六八五戸の川崎市が誕生した。
 初代市長には石井泰助がなり、市会議員に三六名が選ばれた。
 市制実施翌年の川崎市の産業別人口構成は農業人口一〇パーセント、工業人口四〇パーセント、商業人口三〇パーセントとなり、産業生産額は工業が六一三五万五七七二円(全体の九七パーセント)、農業が七六万九二八九円、水産業が一二〇万九一四円、畜産業が五万一二八円であった。
 以後、昭和(戦前)に入ると、川崎市は市勢の発展をはかるため隣接した町村を相次いで合併・編入し、市域の拡大をはかった(巻末付録、沿革表参照)
 これら一連の合併・編入によって、川崎市は現在に至る行政区画を形成するようになったのである。


橘村合併当日の、市民にあてた
市長の挨拶状(チラシ) 
1937 (昭和12)年6月1月

 農村地域の産業
 大正年代における市域の産業構造は、一方において多摩川下流海辺地域にみられた工業の著しい伸張に伴う工業都市化があったが、大部分の町村の主産業は農業であった。
 多摩川の沖積低地に位置した稲田・中原・日吉・御幸などでは作付面積に占める米作の割合が大きく、丘陵地あるいは多摩川上流部に位置した生田・向丘・宮前・高津・橘などでは相対的に畑地が多く作付面積に占める麦作の割合が大きかった。
 このような中で、多くの農村では換金性の高い作物の栽培や園芸農業・果樹栽培などに力を入れ、土性・市場相場の変動に応じて品種を選び、安定した経営をめざすようになった。
 宮前・柿生などでは麦作にかわって蔬菜栽培が盛んになり、橘樹郡内の他の村々では、大師河原の玉葱・蓮根・白瓜、田島のえんどう、御幸のごぼう、住吉のかぶ・長葱、日吉の枝豆・くわいなどが有名であった。
 実収穫高は、時期によって変化があったが、玉葱・にんじん・キャベツ・きゅうり・長葱・なす・ごぼう・だいこん・甘藷・馬鈴薯などが多く、これらは東京市場に出荷された。
 また、市域における花卉(かき)栽培は江戸時代以来行なわれていたが、特に大正年間には市ノ坪付近の草花、馬絹方面の花木など特徴ある花卉園芸が営まれ、組織的な栽培が行なわれるようになった。
 特に市ノ坪方面では大正末期から昭和初期にかけて、栽培面積が三〇ヘクタールにも及ぶ最盛期を迎え、関東連合花卉組合を結成するほどであった。
 果樹栽培では梨が代表的であった。
 梨の栽培は明治末期から大正初年にかけて大師河原・田島・御幸などで盛んであったが、一九二一(大正一〇)年頃から粉塵などの工場公害や地下水位の低下、農業人口の減少、農業経営や栽培技術の変化などもあって、栽培中心地が稲田・生田・向丘・高津方面に移り、一九一三(大正二)年小出荷組合を統合してできた稲毛果物業連合会のもとで稲毛梨として出荷された。
 一九二七(昭和二)年には、東京府を含む多摩川沿岸の生産者が団結して多摩川果物業組合連合会を組織し、多摩川梨と名付けて販売し、関東の一大名産地となった。
 梨に次いで生産量の多かった果樹栽培に桃・いちじく・柿があった。桃は大師河原が主産地であったが、大正期の最盛期には中原・高津・住吉・日吉・稲田などでも生産され、多摩川桃といって梨と共に東日本の一大産地となった。
 この興隆をもたらした功労者は橘早生と中熟種の「伝十郎」を発見育成した田島村の吉沢寅之助であった。
 いちじくは大師河原を中心とした市域南部で行なわれた。一九一九(大正八)年頃からは梨・桃をしのぐ栽培を行なうようになり、一九二三(大正一二)年にドウーフィン種を導入してから一層盛んになった。
 江戸時代から有名な市域の柿は「禅寺丸」であった。柿生を中心に生田・稲田・岡上で生産されていた。
 一九二一(大正一〇)年には岡上・柿生で約九五〇トンの収穫があったが、その後年々衰退して、現在は昔日のおもかげもない。
 このほかに宮前・生田・柿生・向丘などでは大正年代から本格的な栗の生産を行なった。
 また、農業の副業として行なわれたものに養蚕がある。
 明治末期頃に宮崎・長沢で行なわれていたのが次第に拡大し、菅谷・生田・御幸・細山・中原・中野島・高石・長尾・橘・柿生・岡上に広がり、特に柿生・岡上では全村をあげて生産に取組んだ。
 一九二〇(大正九)年には掃立(はきたて)枚数約一万三〇〇〇枚にものぼった。

 しかし、大正末期に起った糸の価格や諸物価の暴落を契機に衰退してしまった。 一方、農村において地場資本による工場制工業や家内工業で生産されて特産物化したものもかなりあった。
 例えば、工場工業としては御幸村戸手の御幸煉瓦製造所で生産していた煉瓦、登戸・菅の桜花紙、生田村高石にあった細王舎の脱穀機を中心にした農機具生産が有名であり、また農閑の副業として行なわれていたものに、稲田の縄・まぶし(養蚕用のすだれ)、柿生・岡上の蚕網・木炭、市ノ壷の〆飾り、木月の浅草紙、宮前の下駄表、登戸の遠近額縁などがあり、このほかに精米・製材や日用品製造も少なくなかった。
 漁業は大師河原村が大正年代に「大師海苔」や魚貝類の養殖などを盛んに行なっていたが、特に海苔養殖は多くの労働力を必要としたため、千葉や東北地方から労働者を雇い入れた。
 しかし、大師河原の漁業はやがて昭和に入って臨海工業地帯の発展と共に海辺地先は埋立られ全く衰退してしまった。


大師河原村の海苔の生産
(大正時代)

  5 戦前・戦中の川崎 top

 郊外電気鉄道の発達

 市域における工業都市化の促進は、一八七一(明治五)年六月、品川横浜間鉄道開通通に伴う川崎停車場の開設、あるいは一八九九(明治三二)年一月、大師電気鉄道による東日本最初の六郷橋・川崎大師間における地方電気鉄道営業開始によって受けた影響ははかり知れないものがあった。
 一方、開発の遅れていた市域北南部でも大正末期から昭和初年にかけて相次ぎ郊外電気鉄道が開通して徐々に農村の都市化が進行するようになった。
 まず、一九二四(大正一三)年会社が設立され、一九一五(大正一五)年二月多摩川園前・神奈川間の営業を開始した東京横浜電鉄は市域中原町を通過し、翌年には渋谷まで全通したため東京方面との交通の利便が開かれるようになった。
 一九〇二(明治三五)年、乗客と多摩川の砂利運搬を目的に設立された玉川砂利電気鉄道(同年玉川電気鉄道と改称)は一九一一(明治四四)年渋谷・玉川間の営業開始後、同年から高津村まで、さらに二子橋の竣工によって、一九二七(昭和二)年に溝ノ口まで路線延長した。
 これはこの方面が東京との結合を強め農村産業を発展させるうえで大きな力を与えた。

 一九二七(昭和四四)年新宿・小田原間の営業開始をした小田原急行電鉄も、市域山間部に位置していた稲田多摩川(現在の登戸)・稲田登戸(現在の向ヶ丘遊園)・東生田(現在の生田)・西生田(現在の読売ランド前)・柿生に駅舎を設けたため、やはり新宿・小田原方面との結びつきを著しく深めるようになった。
 以上の郊外電気鉄道はいずれも市域を横断して敷設されているが、これらの営業はこの方面における住宅地の拡大を促進した。
 一方、市域を縦断して敷設された南武鉄道は、一九二一(大正一〇)年貨客の運搬と砂利・砂・玉石の採取・販売を目的に設立された。
 一九二七(昭和一一)年七月川崎・登戸駅間、および矢向・川崎河岸駅間で営業を開始し、一九二九(昭和四)年四月登戸・立川駅間も開通した。
 南武鉄道の開通は、市域の工業地域と山間部農村を縦断して結ぶ唯一の鉄道として大きな役割を果たしたが、特に多摩地方に産出する石灰石の輸送に大きな力を発揮した。


登戸の鉄橋を渡る開通当時の小田急電鉄

 また南武鉄道は市域を横断する各郊外電気鉄道とも結接したため、ここに今日の川崎市域全体の発展を促す基盤が築かれたのである。
 ところで、市域における鉄道の開通は思わぬ副産物をもたらした。それは江戸時代から始まった多摩川の砂利採掘である。
 鉄道の開通に伴って玉川電気鉄道の砂利運搬、東京横浜電鉄・南武鉄道による砂利採掘と運搬によって地元住民の間に砂利採掘業が盛んになり、農民を潤おした。
 しかし無秩序な乱掘は多摩川の河床の低下、洪水の危険、用水取水口の破壊、水産業への悪影響などをもたらしたため、ついに一九三四(昭和九)年河川保護の見地から採掘禁止になった。

 臨海工業地帯の確立
 すでにみてきたように一九〇八(明治四一)年、京浜海浜地帯に大規模な工業地造成構想をもっていた浅野総一郎によって立てられた田島・町田両村地先海面約一五〇万坪の本格的な埋立事業計画は、一九一二(大正二)年に着手して以来関東大震災当時まで計画の半分以上の工事を終り、残りは一九二八(昭和三)年秋に完成した。
 事業の進行と共に工場の動力源となる電力は一九一二(大正二)年東京電燈が桂川電力を合併したのを手始めに、一九二八(昭和三)年までに電力供給体制を確立した。
 また貨客輸送に必要な交通機関については、一九二五(大正一四)年鶴見総持寺停留場から大師停留場間に安田善三郎らの尽力によって海岸電気軌道株式会社の路線が、開通した。
 鶴見臨港鉄道株式会社は一九二六(大正一五)年四月浜川崎駅から弁天橋に至る路線と二つの支線を全線開通すると共に、浜川崎・扇町間を結ぶ路線大扇町地区埋立工事の完成をまって一九一一八(昭和三)年八月に開通させた。
 その後第二期計画線であった弁天僑・鶴見間の工事も完成し、扇町から鶴見に至る路線が一本化された。
 一九三〇(昭和五)年三月には同社が海岸電気軌道会社を吸収したため、埋立地の交通機関は飛躍的に整備されたのである。
 このほかに鉄道省火力発電所・三井埠頭建設も埋立事業の進行と共に行なわれていたし、また一九二七(昭和二)年南武鉄道が川崎・登戸間、および浜川崎・川崎河岸間の営業を開始し、翌々年川崎・立川間の全線開通したことや、あるいは一九二九(昭和四)年八月、川崎市・中原町・日吉村・鶴見町にまたがる二四万坪の鉄道省新鶴見操車場の完成によって工業立地条件は整備された。
 埋立地造成計画に始まった臨海工業地帯の建設は、用地造成、工場および埠頭諱設、鉄道敷設が同時進行で行なわれたのである。
 その後、臨海工業地帯は京浜運河の建設、大師河原地先の埋立事業を経て京浜工業地帯へと拡大されていくのである。

 「武装メーデー事件」と煙突男
 一九二七(昭和二)年三月、関東大震災後の復興事業の最終的処理にかかわる国会審議中、大蔵大臣の失言問題があり、これがきっかけになって、経済界では銀行の休業、あるいは支払延期令の公布などが出され混乱を引き起し、金融恐慌が始まった。
 また翌々年九月にはニューヨーク株式市場の大暴落が世界に波及し、世界恐慌が始まったため、わが国もこれにまき込まれ、昭和恐慌といわれる大混乱をきたした。
 この影響は物価の急落を招き、企業利潤は低下し、倒産・操業短縮か増大し、それに伴う賃金引下げ・人員整理が断行されたため、失業者が激増し、深刻な社会問題となった。
 川崎市の場合、一九二九(昭和四)年の失業登録者が一〇〇〇人であったのが、二年後には四二一四人に膨脹している。
 実際の失業者はもっと多かったはずである。
 このような混乱は労使の対立にもなり、労働争議の激増となってあらわれた。
 一九二五(大正一四)年、日本労働総同盟は治安維持法・普通選挙法をめぐる内部対立から分裂騒動が起き、翌月に左翼系の日本労働組合評議会が結成された。
 評議会は直ちに川崎・鶴見方面の組織化をはかり、七月「味の素」工場を拠点にした東京合同労働組合川崎支部の結成に始まり、八月関東鉄工労働組合(九月関東金属労働組合に改組)を組織して労働組合の承認、賃金増額、解雇手当の設置などを要求して尖鋭的な活動を展開した。
 一方、日本労働総同盟は分裂当時の関東醸造労働組合京浜支部を足がかりに、一九二五(大正一四)年九月、総同盟関東労働同盟会川崎第一支部を結成したのを手始めに、一一月富士瓦斯紡績川崎工場従業員を中心にした関東紡績労働組合川崎支部を結成した。
 ところが富士瓦斯紡績では組合幹部を解雇したため争議となった。事態は険悪化したが、神奈川県知事の調停によって、「将来において職工が労働組合に加人することがあっても、これを解雇しないようにされたい」という一項が会社側に受入られ解決したため、川崎・鶴見方面に総同盟系の労働組合が相次ぎ結成されることになった。
 総同盟は漸新的な改良主義をとっていたため、評議会ほど労使の尖鋭的な対立はなかった。
 このような総同盟は一九二七(昭和二)年一月労働会館を完成させ、労働者の教育のため、夜間労働学校を開設するなど、勢力の拡充をはかった。
 このような中で、一九二七(昭和二)年五月一日、総同盟神奈川県連の主催による川崎最初のメーデーが行なわれた。
 また評議会も九月に入ると、失業手当法・最低賃金法・八時間労働法・婦人青少年労働者保護法の制定と健康保険法の改正を掲げてゼネストを組んだが、折からの経済不況や資本家側の切崩し、官憲の弾圧強化によって挫折してしまった。
 一方、普通選挙法の公布によって無産政党の結成も進んだ。
 一九二六(大正二五)年一一月労働農民党京浜川崎支部(評議会系)、翌月社会民衆党神奈川第二区支部(総同盟系)が結成され、さらに翌年には日本労農党支部(日本労働組合総連合系)も結成されて勢力を伸し、一九二八(昭和三)年一一月の衆議院議員選挙では活発な選挙運動を展開し、同年九月の川崎市議会議員選挙では四名の無産政党議員を誕生させた。
 ところが、同年には、三・一五事件を契機に治安維持法の改正、内務省保安課・特高讐察・憲兵思想係を設置して思想弾圧・取締りを強化したため、以後急速に言論・労働組合運動の暗黒時代に突入するようになった。
 このような時期に、同年五月一目、稲毛神社境内で行なわれていた総同盟・社会民衆党・労農党系の組合によるメーデー会場に、官憲の弾圧によって尖鋭化していた評議会系労働者の一団一八名が竹槍・鉄棒・ピストルをもって乱入する事件があった。
 いわゆる「武装メーデー事件」である。この事件は総同盟の改良主義に対決する評議会の批判が直接行動となってあらわれたものである。
 また、同年九月、富士瓦斯紡績川崎工場で賃金引下げの会社提案によって起きた争議で総同盟系と労農党系の組合員の対立が深まり、九月末の争議解決後も労農党系組合員の争議が継続されたため、会社側は争議団員の解雇を行なった。
 これに対して争議を支援していた横浜合同労働組合の田辺潔は工場の高さ三〇数メートルの煙突の頂上に座り込む抗議の行動に出たのである。
 いわゆる「煙突男」である。田辺は一三〇時間余にわたる座り込みを行なったが、結局会社側と警察の譲歩によって争議は解決した。
 これらの事件はいわば労働運動に対する官憲の弾圧、経済不況による経営合理化、労働組合同士の対立という構造の中で引き起こされた事件とでもいうべきものであった。
 一方、工場労働者による争議のほかに、稲田・向丘・生田三か村では一九二七(昭和二)年一月日本農民組合同盟の指導のもとに、神奈川県下最初の農民組合を結成し、小作料の低減を求める小作争議を起した。
 この争議の影響はその後農村地帯に頻発したこの種の争議の先がけとなったのである。

 戦時下の工業
 関東大震災、昭和恐慌と続いた社会的動揺は市民生活をはじめ産業・経済界などに深刻な波紋を投げかけていたが、一九三一(昭和六)年九月に勃発した満州事変は、国家財政をそれまで続けてきた緊縮政策から軍備拡張をはかるための膨脹政策に転換させることになり、一九三七(昭和一二)年七月に起った日中戦争によってさらに拍車をかけた。
 このような時期に、市域における工業は軍事産業化の色彩を強め、軍需景気に支えられた重工業を中心に急激な発展を遂げた。
 ちなみに、川崎市において労働者五人以上で工業を営んでいた工場は、川崎市の調査によれば、一九三一(昭和六)年に六三工場で労働者数一万一七二八人、生産額八七二五万六〇〇〇円であったが、一九三八(昭和一三)年になると、一七九工場(二・八倍)、労働者数五万三七七五人(四・六倍)、生産額七億四六〇八万二〇〇〇円(八・五倍)と急増を遂げたのである。


 このような工業の発展は臨海地帯の工場増設を飽和状態にしたため、その拡充は貨物輸送の利便に恵まれていた南武線沿線に工場新設が盛んになり、特に電気機械器具の製造を主体とした金属・機械工業が過半数以上を占める内陸部工業地帯を形成させることになった。
 これらの工場の多くは軍需目的をもっていたため、民間企業が自由な活動を制約されていた中で、資金・資材・労働力などは一九三七(昭和一二)年九月に施行された工場事業場管理令や、翌年一月に施行された軍需工場動員法、同年四月に制定公布された国家総動員法などに支えられて、強化策がとられたのである。


戦時の工場分布(『川崎市史』より)


昭和10年代の川崎駅前商店街(旧東海道筋)

 太平洋戦争下の生活と戦災
 満州事変・日中戦争と足早に進んだ軍国化の波は、一九四一(昭和一六)年一二月八日太平洋戦争の勃発と共に国民生活を新たな苦難の道へ追い込んだ。
 戦争の拡大は軍需産業の強化となってあらわれ、本市などではそのため飛躍的な工業の発展を見たが、反面、国民生活は生活必需物資の不足から物価高騰、売りおしみ、買占めに悩まされた。
 すなわち一九三九(昭和一四)年の終り頃より不足する品目の配給統制が行なわれ、次第に切符制にかわっていった。
 市域では東京・横浜に挾まれ不公平な取扱いを受けていたが、特に生鮮食料品は中央市場を持たなかったため、その確保は困難をきわめた。
 一方、戦争の拡大による軍事費の急激な増加は国民に貯蓄奨励と金属資源の回収を強制させるようになった。
 本市では前者について、一九四一(昭和一六)年に全国の貯蓄目標額一三五億円中、二億円が、翌年には二三〇億円中二億二〇〇〇万円が課せられ、目標額達成のため工場労働者などは、時局認識の徹底と熱烈なる国策協力のあかしとして賃金などから強制天引き貯蓄を行なわされたのである。


大師河原町出身兵士の郷土訪問 昭和18年、大師小学校の
学童を集めての兵士の挨拶。当時の学童の服装に戦時中の
生活の窮状をうかがうことができる。(渥美光氏提供)

空襲で焼失した宮前・新川・貝塚一帯(昭和20年)

 また後者については一九四二(昭和一七)年には前年九月に公布実施された「金属類回収令」によって、銅・鉄・鉛をはじめ花器・茶釜・神仏具・火鉢に至るまで徹底した回収を行なった。
 翌年八月には二八トン強の古繊維を回収したが、市民は全く耐乏生活に明け暮れしなければならなくなった。
 しかも一九四一(昭和一六)年から食糧増産のため空閑地・荒地の活用に労働力の提供が強制されはじめ、農繁期の勤労動員が一般化した。
 青少年団・婦人団体・町内会などで勤労報国隊が編成されたのはこの年一二月に制定公布された「国民勤労報国協力令」によってであった。
 戦局が厳しくなった一九四三(昭和一八)年になると男子労働力の不足に対して女子勤労挺身隊が結成された。
 また一九四二(昭和一七)年五月以降には市内の国民学校・中学校などにも勤労動員が強制され、全市を挙げた戦争協力体制がとられたのである。
 一九四三(昭和一八)年になり本土空襲の危険が起ってくるようになると、重要都市の疎開の実施で、市域でも旧川崎地域を中心に翌年二月から一九四五(昭和二〇)年四月までに九回にわたって建物の強制撤去・人員の疎開が行なわれ、約一一一万坪以上の除去面積と五万人以上の疎開が行なわれた。
 また、空襲に備え防空体制の強化もはかられたが、一九四二(昭和一七)年四月一八日の初空襲で市域の臨海地帯の一部が被爆以来終戦まで一〇数回の空襲を受けた。
 その内被害の甚大であったのは、一九四五(昭和二〇)年四月四日の空襲で、死者一九四人、重軽傷者二五六人、全半焼家屋五三○戸、罹災者一七一〇人にのぼり、被害地域は大師・川崎地区から中原・高津まで及んだ。
 次いで四月一五日には現在の臨海地帯から多摩区の一部にまたがってB29による最大の空爆を受け、焼失家屋三万三三六二戸、罹災者一〇万人以上の被害を受け、死傷者も多数にのぼった。
 このような空襲被害は、一九四五(昭和二〇)年には罹災人口一五万四四二六人、うち死者七六八人、重傷者二五〇〇人、軽傷者一万二四七二人、罹災戸数三万八五一四戸中、焼失三万七四三一戸 (九七パーセント)、全壊四七六戸、半壊六〇七戸に及んだのであった。
 こうした戦争の爪跡は市域各地に無残にも残され、市民の生活はもちろん、工業も沈滞を余儀なくされ、一九四五(昭和二〇)年八月一五日の終戦によって新しい時代を迎えることになっても、混乱と不安定な市民生活を続けねばならなかったのである。

top
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