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一章 原始時代の川崎

1 川崎の縄文文化
 豊富な原始・古代遺跡/川崎の旧石器/縄文土器の時代へ/鵞沼の前期集落/初山・潮見台の中期集落/長尾権現台の後期集落
2 採集と狩猟の社会
 子母口貝塚の発掘/貝塚出土の遺物/貝類のとれる地域と季節/縄文期の植物食と食生活/黒川東遺跡と湧泉
3 弥生時代の夜明け
 東高根の弥生集落/シラカシ林と生活史/竪穴住居の居住空間/古墳時代の萌芽

  1 川崎の縄文文化 top

 豊富な原始古代の遺跡

 わが町川崎は、山梨県笠取山(かさとりやま)の山頂近くに源を発する多摩川下流域の南岸約三〇キロメートルにおよぶ細長い地域で、西北部(多摩区・高津区から中原区)は洪積層という古い地層の丘陵、南東部(中原区から川崎区)は比較的新しい沖積層の平地からなっており、南東の端は東京湾に面している。
 この洪積層の丘陵、いわゆる多摩丘陵のうえには、数多くの遺跡の存在が知られている。
 こんにち、私たちが黎明期の地域史を学ぼうとする時、原始・古代遺跡の発掘資料が、多くの事実を物語ってくれるわけであるが、それではこの川崎市の地域に、一体どれくらいの遺跡が存在するのであろうか。
 こうした基礎資料を調査した『川崎の遺跡――付埋蔵文化財分布踏査地図』(川崎市教育委員会)によれば、一九七六(昭和五一)年度で、四七四遺跡が確認され、このうち三二一遺跡が現存していた。
 問題は遺跡のうちわけである。
 時期別では、縄文時代のものが圧倒的に多く、全体の五八パーセントをしめ、弥生時代は一五パーセント、古墳・歴史時代は二七パーセントという数になっている。
 また、遺跡の種類別では、畑地などに土器や石器などが散布している、いわゆる遺物散布地が全体の九一パーセントをしめ、なかでも縄文時代のものが六三パーセントと多く、弥生時代一六パーセント、古墳・歴史時代一二パーセントをはるかにしのいでいる。
 つまり、川崎の遺跡の特徴を一口で表現するならば、縄文時代の遺跡が主体で、とくに縄文時代の遺物散布地が極めて多いとい傾向が統計的にはっきりしたのである。
 この遺物散布地を発掘調査すると、集落址といって、竪穴住居址のような住居施設や、調理・埋葬・祭祀・広場など、あらゆる生活の機能に関連した遺構・遺物がその姿を現してくる。
 従って、川崎市にある遺跡から発掘される資料は極めて多いが、ここでは各時期の代表的な事例に焦点をあてながら、原始期における川崎市域の社会や生活の様子を探ってゆくこととする。

 川崎の旧石器
 この川崎という地域に、一体いつごろから、人類が褄むようになったのであるうか、という極めて素朴な疑問は、だれしもがいだく、大変興味あるテーマといえる。
 すでにわが国における人類の足跡は、遠く旧石器時代にさかのぼり、その研究の端緒となったのが、群馬県岩宿遺跡の発見であった。
 それ以降こんにちまでに、日本各地から旧石器時代の遺構・遺物が数多く発掘されているが、川崎でもおくればせながら、最近、ようやくその時期の資料が散見できるようになった。
 市域で発見された資料で、現在までのところ最古とおもねれる石器は、高津区長尾下原の東名高速道路側溝工事中、赤土(あかつち、関東ローム)の中から採集された敲打器(こうだき、礫器=れきき)である。
 この石器を採集された沼崎陽・吉沢宏の両氏は、採集時、石器の剥離面に赤土がこびりついていて、その泥を落すのに困ったという。
 この証言は、石器がまぎれもなく赤土の中から出土したことのあかしとなる。
 長尾下原から採集された石器が、赤土中から出土したものであるか否かにこだわるのも、実は、石器の出土する層位か赤土であるということが、その石器が旧石器時代の所産であることを証明する最大の根拠となるからである。
 その点で、一九七八(昭和五三)年夏、多摩区黒川東遺跡のローム層(立川ローム)中から、スクレパー(掻器)一点とブレイド(刃器)一点などを発掘したことは、意義ある成果といえる。
 その他に、後期旧石器を代表するナイフ形石器は、高津区野川西耕地遺跡、同区新作(しんさく)池ノ谷遺跡などでも採集されているので、今後、資料の増加が期待できる。
 しかし、現在のところ、住居跡などの遺跡も発見されていないので、これらの石器からだけでは、旧石器時代の社会や生活の実態を具体的に知ることはできない。


最古の縄文土器 黒川東遺跡(多摩区黒川)から
出土した隆起線文土器(小池汪氏撮影)

 縄文土器の時代へ
 さて、ローム層中からスクレパー、ブレイドが出土した黒川東遺跡からは、縄文時代草創期――つまり


多摩丘陵の遺跡分布 
旧石器終末期から縄文草創期の遺跡の分布を示したもの。

縄文土器初現期を飾る隆起線文土器、有舌尖頭器、片刃打製石斧などが出土し、これまた注目されるところとなった。
 縄文文化は、ふつう草創期・早期・前期・中期・後期・晩期にわけられるが、多摩丘陵は、比較的草創期の資料にめぐまれている(右上の地図参照)
 この中には、横浜市花見山遺跡や町田市なすな原遺跡のように、復元可能な隆起線文土器が出土している遺跡もあって、多摩丘陵の縄文草創期は、汎(はん)東日本的な視野からながめてみても極めて注目されている。
 とくに多摩丘陵では、草創期の遺跡が標高四〇〜五〇メートル前後の低位丘陵地に進出し、その立地が縄文草創期に続く縄文早期初頭の撚糸文(よりいともん)文化期の遺跡とほぼ重なりあっているので、草創期から本格的な縄文文化への移行を検討するうえで、非常に注目されている。
 その他、黒川海道遺跡からは、木葉形尖頭器、有舌尖頭器、石鏃(せきぞく)などの刺突具(しとつぐ)が採集されている。
 それでは、この種の石器類の存在と土器出現の時代的背景はどのようにとらえているのであろうか。
 ます、石鏃の出現は、弓矢の存在を証明する。
 そうした前提に立つと、すらりと細身の有舌尖頭器は、長さ・重さの変化幅が少なく、石鏃の出現と共に消滅しているところから、その機能としては“投槍”が考えられ、これに対し、木葉形尖頭器は、長さ・重さの変化幅が大きく、しかも石鏃出現後もしばらく残存するところから、“突槍”ではなかろうかと想定されている。
 ただし、これらの石器類とツキノワダマ・カモシカ・イノシシ・ニホンジカなど往時の捕獲動物がどのように相関しあったものかは厳密にはわかっていない。
 一方、最古の縄文土器は、土器壁に炭化物が付着しているので、出現当初から煮沸容器であったことは確認されている。
 おそらくこれを境に煮沸することによって、火をとおせば食べられる植物食への比重がいっそう高まったことであろう。
 加えて、縄文草創期に続く縄文早期初頭の撚糸文文化期は、砲弾形をした尖底土器の普及と共に、石皿・磨石(すりいし)など植物質食料の調理に使われた石器類が、著しく増加する時期にあたる。
 それだけに、その前段の縄文草創期の遺跡が低位丘陵地へ進出し、撚糸文文化期の遺跡に重なりあうという事実には、様々な問題が含まれており、強い関心がよせられるのである。

 鷺沼(さぎぬま)の前期集落
 全国的にみて、竪穴住居に住まう縄文人の生活痕跡は、早期初頭期にまでさかのぼる。
 もちろん、その事例はわずかであるが、川崎市域からも撚糸文期の竪穴住居址が発掘調査されるようになった(高津区菅生(すがお)水沢遺跡)ので、今後に期待しよう。
 しかし縄文早期末から前期になると、発掘事例は非常に増加し、市域で高津区潮見台遺跡や多摩区黒川東遺跡などで、良好な竪穴住居址や遺物が出土するようになる。そうしたなかで、一九六三(昭和三八)年に発掘調査された高津区宮崎の鷺沼遺跡は、黒浜(ころはま)期の竪穴住居址一軒、諸磯(もろいそ)A・B期のそれが六軒発掘され、縄文前期後半期の集落遺跡として極めて重要な意義をもっている。
 まず、竪穴住居址の分布は台地縁辺に並んでいて、中央部が空白となる。
 ただし、この中央部空開は偶然にできたものではなく、集落を維持・管理していくうえで必要な討議をしたり、舞踏をしたり、あるいは作業をしたりする“場”として積極的な機能をになっていた「広場」であったのである。
 ところで近年、縄文前期の集落が各地で発掘され、集落としての定住化が前期初頭ころから徐々に確立されつつあった様相が確認されてきた。
 そうした様相と表裏をなす現象は、出土遺物の面からもうかがうことができる。
 たとえば、縄文前期前半の関山期になると、それまでの伝統的な深鉢形土器と共に、現在の木鉢のような浅鉢形土器や片口の注口土器が出現する。
 鷺沼遺跡の諸磯期では、一つの住居址から、深鉢形十器数個に対し、浅鉢形土器一〜二個か必らず出土するようになる。
 一方、石器では打製・磨製石斧、石皿、磨石など、縄文時代の玉要な石器類がこの時期にはほぼ出そろうのである。
 一般に打製石斧は、植物球根などを掘り起すときの土掘具として有効であるといわれ、石皿・磨石は、植物質食料を調理・加工する工程で欠くことができない道具であるとされている。
 これらの石器類の普及が、植物質食料に重点を置いた文化期の確立を示唆しているものと考えれば、ほぼ時期を同じくして出現した浅鉢形土器は、植物澱粉などを処理する什器として出現したものと推測することができる。

 初山・潮見台の中期集落
 縄文時代中期の集落址は、高津区・多摩区の丘陵圸から数多く発拙調査されている。 ここでは、集洛景観のぽぼ全容がわかるまでに発掘調査された硝示遺跡ご潮見台遺跡の様相を抜きだしてみよう。
 初山遺跡は、高津区初山にあって、後で述べる潮見台遺跡とは、平瀬川を上下すること約三キロメートルほどの距離にある。 この遺跡からは、縄文中期後半期の竪穴住居址一七軒などが発掘されたが、それら遺構群の配置は、次頁の図のようにやはり中央広場をはさんで東・西に分離していた。
 これらの遺構群の調査を担当された渡辺誠氏によれば――この遺跡の大きな特徴として、東群の住居址群と対応するように、広場遺構の西の一群中に、円形の大型竪穴状遺構二基と柄鏡形住居址(小型の円型住居址に張りだし部のついた遺構)とが発掘された。


初山遺跡の集落図(原報告より転載)

 そのうえ、柄鏡型住居址の中軸線の延長上に、倒立した深鉢形土器が単独で検出され、それが中央広場の重要なポイントとなっていたらしい――という。
 この西側遺構群を代表する大型竪穴状遺構と小型柄鏡形住居址の機能については、前者は集会場、後者は、特別の儀礼を執行するための祭祀場でもあったのであろうか。
 いずれにせよ、東側遺構群が家族を基本とした住居空間であるのに対し、中央広場や西側遺構群は、家族の単位をこえたムラ共有の「場」であったと推測できよう。
 次に潮見台遺構の様相をみてみよう。
 まず、この遺跡の縄文中期集落は、A・B二地点の遺府群からなりたっているが、発掘がすすむにつれて、出土した土器の編年(土器の年代序列)から、この二つの集落はそれぞれ相関をもっていたことが推定された。
 つまり、B地点に中期縄文人が住まうようになってからすこし期間をおいて、A地点にその家族の一部がわかれ住むようになったのではなかろうか、ということである。
 ちなみに、A・B両地点は、直線距離にしてたった一八〇メートルしか離れていない。
 潮見台集落では、A・B両地点からいっせいに煙がでている時期があったことになる。
 従って、A地点の住人が尾根づたいに北へ向えば、B地点集落の家々が散開状態で見えてくるわけであり、ここで推測をたくましくすれば、A・B両地点を結ぶ標高九五メートル前後の尾根道こそ、集落の住人が日夜頻繁にいきかった“道”として復元できるのである。
 話題は前後するが、潮見台遺跡A地点の竪穴住居址の出入口部方向は、住居内埋甕(うめがめ)の位置によって中央広場の東と西とでは異なっていると推測されている。
 その理由を少し説明しておこう。

 まず、「埋甕」とは、字義のとおり、埋設された甕形土器のことをさし、一般にそれを住居壁際に埋めこんでいる。
 その埋甕は、完形土器であることはまれで、ほとんどの場合、口縁部とか底部が故意に欠損してある。
 だから単純に貯蔵用器ときめつけるわけにはいかない。
 この埋甕風習が、関東・中部地方を中心とする縄文中期後半期――加曽利(かそり)E・曾利期――の社会に、いっきに普遍化したのである。 埋甕風習の解釈をめぐっては、いまのところ三つの有力な説が出されている。
 第一の説は、胎盤(たいばん)収納説だ。つまり胎盤をこの容器に入れて家の戸口、敷居の下、土間・台所の隅などに埋める。
 それを踏むことによって、子供が丈夫に育ったり、賢くなったりするという民間信仰にもとづく。
 第二の説は、幼児埋葬説で、生れてまもなく死んだ嬰児の骨を甕の中に収納し、その上を母親が門戸を拡げてまたぐごとによって、霊が再び母親の胎内によみがえるよう祈願しか妊娠呪術の実修であろう、という説である。


埋甕 潮見台遺跡の堅穴住居から
顔を出した埋甕。(北沢広氏撮影)

 第二の説は、建築儀礼説で、住居の新築・改築にあたり、住居の永遠の堅牢と住まう人々の幸福を祈り、寄りくるものを内に入れない目的があって出入口部に埋設したものであるとする考えだ。
 そして、とくに第三の説の提唱にあたっては、潮見台遺跡の埋甕が詳しく検計され、その結果、住居を構築していく際の当初計画の仕様として、埋甕の設置がきちんと汲み込まれていることを、最大の根拠としているのである。
 いずれの説をとるにしても、埋甕が出入口部を意識した施設であるという認識では共通している。
 さて、これら三説のうち、第二の幼児埋葬説については、千葉県松戸市殿平賀(とのひらが)貝塚発掘の住居内埋甕から幼児骨が発見されたという考古学士の事実が確認されているので、他の二説に優先する。
 このような呪術信仰は、我々現代人の感覚からは実際に理解しがたい側面をもつとはいえ、そこに霊魂の輪廻(りんね)を信ずる観念が、すでに確立されていることは極めて重視される。
 おそらく理甕風習の根底には、彼らが一系の氏族であることを証す意識を具体的に実修していくことが合意されていたのであろう。
 それゆえ、そうした原初(げんしょ)の宗教観が、縄文中期後半期の社会に定着した意義は高く評価されるのである。

 長尾権現台の後期集落
 川崎市域を含めて多摩丘陵上の縄文遺跡は、中期後半期にクライマックスをむかえ、後・晩期には著しく減少する。
 川崎市域の場合、遺跡数の動態にそれが端的に現れていることはすでに記してきた。
 そうした趨勢の中にあって、長尾下原遺跡の後・晩期集落址と長尾権現台(ごんげんだい)遺跡の後期の配石遺構は、注目にあたいする。
 ただし、前者については、調査報告書が未刊であるため、くわしい内容を知ることはできない。
 いまは、南関東地方でも稀有な晩期の竪穴住居址五軒と多数の墓壙(ぼこう)群からなる集落で、あわせて多量の土器・石器などが出土した事実だけを指摘するにとどめておこう。
 一方、権現台遺跡は、集落の中心部がちょうど五所塚(ごしょづか)公園内にあって、その一部は長尾神社境内におよぶ。
 この遺跡は、今から二〇年以上も前の一九五八(昭和三三)年、高津図書館友の会が自費で発掘した。
 従って、現在のように大がかりに台地全域を剥ぐように発掘することはできなかったが、それでも縄文中・後期の竪穴住居址五軒と後期の配石遺構一基を発掘している。
 注目される成果の一部を紹介しよう。
 ひとつには、平面形が五角形をした縄文中期の竪穴住居址が発掘されたことだ。
 一般に縄文中期の竪六住居址の平面形は、円形・楕円形・隅丸(すみまる)方形が主流であるだけに、五角形プランは極めてユニークである。
 最近の研究では、神奈川・東京・埼玉地方の勝坂(かつさか)・加曽利(かそり)E期の竪穴住居址に五角形プランの多いことがわかってきた。
 権現台遺跡の最大の成果は、河原石を四・五と三・五メートルの範囲に適宜に配した配石遺構が検出されたことであろう。
 時期は、縄文中期終末から後期初頭と思われるが、出土遺物中でとくに注目されたのは、配石遺構の東・西軸にすえられるようにして出土した石棒(せきぼう)二本の存在である。
 配石遺構から、屹立した石棒が出土する事例は少なくはない。権現台遺跡の配石遺構と石棒とを理解する一助として、長野県伊那市の百駄刈(ひゃくだがり)遺跡の様子をみてみよう。
 百駄刈遺跡の配石遺構は、南北一〇メートル、東西七メートルあるが、この範囲に、有頭の小石棒一本、自然石を利用した石棒(石柱)四本、整形した石棒二本の合計七本が屹立した状態で出土しているのである。
 石棒は、その形態が男性器によく類似しているので、従来は、豊穣(ほうじょう)を祈る祭祀との関連が強調されてきた。
 しかし、最近では、マタギ社会における民俗例などがひとつの参考になって、狩猟祭式 (男性祭祀)との関係がとみにクローズアヴプされている。
 その意味で、石棒七本が屹立した百駄刈遺跡では、狩猟にかかわる祭祀が執行されていた可能性が十分に考えられるし、権現台遺跡の配石遺構と白棒も、幕本的にはそれと同一の範疇で理解することが妥当であろうと考えている。

  2 採集と狩猟の社会 top

 子母口貝塚の発掘

 縄文文化と貝塚――この取り合せは、遠い古代の世界へいざなうロマンを感じさせてくれる。
 だが、これだけ市街化された川崎市域に貝塚があったのであろうか、といぶかる声も聞こえてくるようである。
 たしかに現状が保護されている貝塚は高津区子母口貝塚(県史跡)のみである。
 しかし、これまでに刊行されたいくつかの発掘調査報告書には、多摩丘陵の東端にあたる高聿区の丘陵先端部には、かっていくつかの縄文貝塚が散在していたという事実を教えてくれる。
 それらの貝塚は、縄文早・前期に集中している。
 時期の古い順からあげていけば、子母口貝塚(子母口式期)、新作貝塚C・D地点(花積下層式期)、影向寺裏貝塚、大原貝塚、久本貝塚(諸磯式期)などが考古学のうえからも著名である。
 いまこれらの貝塚文化の様相をすべて語ることはできないので、そのうちのいくつかにスポットをあててみよう。
 高津区子母口の丘陵先端部に位置する子母口貝塚は、縄文時代早期子母口式土器の標式(ひょうしき)遺跡である。
 この貝塚は、A〜E地点からなる“地点貝塚”で、現在、史跡公園として保存されているC地点は、一九五七(昭刊二二)年二月、神奈川県史跡に指定された。
 縄文土器編年中における子母口式土器の位置は早期後半期で、命名者は山内清男氏である。
 もっとも山内氏以前に、子母口貝塚を訪れた考古学者は多い。たとえば著名な民族学者であり考古学者であった鳥居龍蔵氏も一八九三(明治二六)年三月にこの貝塚を訪れ、土器・石器を採集されている。
 昭和初期以後、何度か発掘調査が行なわれているが、一九四一(昭和一六)年には、川崎市が市史編さん事業の一環として、A〜D地点の発掘調査を実施している。
 しかし不幸なことに、戦災によって発掘調査資料が灰燼に帰してしまったり、あるいは当事者が亡くなられてしまうなどの理由によって、発掘調査資料の全貌が学界に公開されることはなかったのである。
 そのため子母口式土器は、縄文土器編年上の一形式として学界で認められてはいたものの、その実態は闇につつまれていた。
 そうしたおり、一九五四(昭和二九)年ころから、子母口の台地に市営住宅の建築計画がすすめられ、保存状態良好なC地点があやうく湮滅(いんめつ)しそうになった。そこで川崎市教育委員会では、貝塚とその周辺を保護するため、土地を公有地化し、貝塚の永久保存をはかることとした。
 現在の史跡公園がそれである。
 その後、C地点の真南にあたるA地点貝塚の崖面に貝層が露出し、一部で盗掘が横行するようになったので、一九六七(昭和四二)年七月、川崎市教育委員会ではその部分の発掘調査を実施した。
 その時の調査記録は、すでに報告書にして公開されている(渡辺誠「川崎市子母口A貝塚発掘調査報告」『川崎市文化財調査集録』第四集)ので、詳細はそれにゆずることとして、成果の一部をあげれば次のようになる。

 貝塚出土の遺物
 まず、調査地区の一部が酒詰仲男氏などの発掘区と遇然重複してしまったため、部分的に層位の攪乱(かくらん)はあったが、基本的には、貝層下の土層から縄文早期の井草式土器が出土し、その上層にあたる処女貝層(部分的に攪乱あり)が子母口式文化期のものと判断された。
 従って、貝類の採捕(さいほ)は子母口期から開始されたことになる。
 さて、子母口貝塚A地点で採捕された貝類は、二三種にもおよぶ。量的にはマガキ(四七パーセント)が圧倒的に多く、以下ヤマトシジミ(二八パーセント)、ハイガイ(一二パーセント)、オキシジミ(九パーセント)と続く。
 ヤマトシジミが汽水産であるほかは、大多数が浅海砂泥性の貝類だ。貝類と一緒に採集されたスズキ・クロダイ・マダイ・ネズミザメ・オナガザメ・マイワシ(?)エイ類などの魚類とあわせ考えるならば、当時子母口貝塚周辺は、河口の内湾的水域環境であったことが復元できるのである。
 A地点貝塚から発掘された子母口式土器は、土器の口縁部に細い隆起線を起したものや、その隆起線文に沈刻を加えた手法のものである。
 一般に子母口式土器のメルクマークとされている縄文原体を回転させずに器面を押捺した絡条体圧痕文が検出されていないところから、子母口式土器にあっても次の茅山式土器に近いものと判断された。

 子母口貝塚は、すでに記してきたように、A〜Eの五地点からなる地点貝塚である。
 しかし、それらを詳細に検討すると、少しずつ時期を異にしているようである。
 この動きは、縄文前期初頭以降顕著となる馬蹄形集落への胎動ともいえよう。
 その意味でいまもっとも緊急か課題は、貝塚部分そのものの保存とならんで、子母口貝塚人の生活処点――たとえば、竪穴住居址などが埋蔵されている可能性が高い標高二五、六メートルの平らな台地部分の調査とその保護にあるといえる。
 子母口貝塚と並んで新作貝塚からも豊富な資料が出土している。
 たとえば、海にいどむ果敢な縄文人のイメージがうかがえる資料として、新作貝塚C地点から縄文前期花積下層土器と一緒に発掘された鹿角製の釣針をあげることができる。
 かんじんの鈎(はり)先は欠損してしまっているが、軸の頭部には溝がめぐっていて、糸がかけやすいように細工がされている。
 ちなみに新作貝塚C地点からは、タイの下顎歯骨が検出されている。


縄文土器 子母口貝塚C地点から出土
したもの。(川崎市教育委員会提供)

 ただし同じ花積下層期の貝塚である横浜市菊名貝塚からは、スズキ・クロダイなどの大形魚骨だけでなく、イワシ・アジなどの小形魚の骨が相当量出土している。
 かくして、我々日本人と海産資源との長いつきあいの歴史が、本格的に幕開くのである。

 貝類のとれる地域と季節
 一九六五(昭和四〇)年、高津区新作大原から縄文前期諸磯期の貝塚が発見され、川崎市教育委員会が発掘調査をした。
 その結果、諸磯期の竪穴住居址二軒が発掘されたが、その中でおどろかされたのは、二号住居址の深さ五五センチほどの貯蔵穴から汽水産ヤマトシジミ七二二五個が、ほとんど異物をまじえず発見されたことである。
 元々縄文前期の諸磯期は、川崎市域の貝塚文化の最盛期であると共に、縄文海退(土砂の流下等による海面の後退)の影響を受けて、その文化の終えん期でもある。
 そうした微妙なきざしは、大原貝塚と同じ諸磯A期の久本貝塚、新作貝塚A地点で採捕された貝類の構成と比較してみれば端的に現れている。
 つまり、大原貝塚ではヤマトシジミが九〇パーセント以にしであるのに対し、大原貝塚とは谷ひとつへだてた北の台地にある久本貝塚では、ハマグリ・ヤマトシジミがもっとも多く、ツメタガイ・アカニシがこれらにつぎ、カガミガイ・カキ・オキシジミは少量であった。
 また、大原貝塚と同匸台地にありながらも台地の先端に位置する新作貝塚A地点では、ハマダリ・カキが主体で、シオフキ・オキシジミ・ハイガイなどがまじる。
 諸磯A期という同一時期で、しかも近接するこれら三貝塚の採捕貝類の構成比が異なるという事実をまず頭に入れておく。
 実はこれらと大変類似した現象が、多摩川左岸の東京世田谷区瀬田貝塚と六所東貝塚――時期も同じ諸磯A期――でも指摘できるのである。
 つまり瀬田貝塚では、ハマグリ・カキのみで、うちハマグリが九〇パーセントをしめていた。
 これに対し六所東貝塚は、瀬田貝塚から河口へ約一五〇〇メートルほどくだっているにもかかわらず、ヤマトシジミ・ハマグリがもっとも多く、マガキがこれにつぎ、ほかにアカニシ・キサゴ・シオフキなどがまじっていたのである。
 こうした現象を、たんに当時の集落をめぐる自然環境によってのみ説明することはできない。
 そこで、大原貝塚を調査された渡辺誠氏は、各々の集団によって貝類採捕の占有領域―― 一種のナワバリ――が伝統的に確保されていた反映ではなかろうかと、この間の歴史的背景を説明されたことがある。
 ちなみに、民族誌からみた現代の採集民のあいだでも厳重な採集領域が設定されているという。
 また、最近発表された縄文海進期における東京湾西岸の横浜・川崎付近の古地図によれば、久本貝塚から貝類が採集できる地点までは、最短距離でも約二キロメートル、瀬川貝塚でも約一キロメートルは離れており、この点からも各集団間における貝類採捕領域の設定は十分に考えられるのである。
 これと関連して、最近、自然貝層に関して貴重な情報を得ることができた。
 それは中原区木月・下平間付近の下水管敷設に伴うボーリング調査で、現地表下一〇数メートルに貝塚が確認されたという工事関係者の証言である。
 ちなみに八〇〇〇〜七〇〇〇年前の古地形では、貝塚は現地表面より一五メートル前後下部と推定されているだけに、工事関係者が証言した貝層は、縄文海進期の自然貝層であった可能性は高い。
 こうした自然貝層の情報を丹念に集成していくことによって、縄文貝塚遺跡との具体的かかわりについても将来興味深い論述ができるようになってこよう。
 また、私たちは、貝塚というイメージから、年がら年中貝類を採集してきては食糧としている縄文人のイメージを描きがちだが、彼ら縄文人は、けっしてそうではない。
 たとえば、貝塚から出土したハマグリの殼を縦断して貝の成長線を観察することによって、貝の採集時期を復元する研究が開発された。
 その成果によれば、ハマグリを含めた縄文時代の貝類の多くは春季に採集され、冬季にはほとんど行なわれていなかったようだ。
 これは、現在の潮干狩のシーズンとも一致する。
 しかし、そうしたむっかしい科学的な分析結果を用意するまでもなく、日本には、「夏のハマグリは犬も食わぬ」とか「麦の穂がでたらアサリを食うな」など、ピシャリと貝類の生態的特徴をついた食物にちなむことわざがある。
 私たちは、ここでも祖先の知恵の確かさを知ることができるのである。

 縄文期の植物食と食生活
 縄文人というと、厚い毛皮を身体にまとい、山野にシカ・イノシシなどをもとめてさまよう、扁平脛骨(けいこつ)にして粗野な人間を連想しがちだ。
 しかし、最近の考古学上の研究成果は、そうした陰うつなイメージを徐々に塗りかえつつある。
 ここでは、最近とみにその重要性が認識されてきた植物質食料の研究成果と、市域における遺跡とを関連させて紹介し、食事文化からみた縄文人像を描いてみようと思う。
 縄文時代の食物残滓としての植物遺体は、現在、二〇八遺跡三九種があげられているが、なおこんにち資料は著しく増加している。
 三九種のうち、縄文晩期にみとめられるイネをのぞくとほとんどが野生植物で、なかでも堅果類のクルミ・クリ・ドングリ類・トチノキの出土率はぬきんでて多い。
 この四大堅果類のうち、クリ・クルミとドングリ類の一部は、食糧とするにあたって、とくにむつかしい料理法はない。しかし、トチノキとドングリ類の多くは、アクを抜かないと渋くて食べられない。
 まず、ドングリと総称される“実”をつける樹木にはいろいろな種類が含まれるが、東日本ではクヌギ・ナラ類が主流をなし、西日本ではカシ・シイ類がそれに対応する。
 前者は落葉樹で、冬になると葉を落すが、後者は照葉樹であるから、四季をとおして緑の葉におおわれている。
 これらのドングリ類を食糧とするにあたっては、@シイ類とイチイガシはアク抜きが不要である。
 Aカシ類は、水さらしによるアク抜きを必要としている。
 Bヘスナラ類は、水さらしに加えて、加熱工程を必要としている。
 Cクヌギ類はもっともアクが強く、現在では食用としての伝承は途絶えている。
 ドングリ類のアクの成分の中には、水溶性のタンニンが含まれているので、ABのように、水さらしは何といっても重要な工程となる。
 一方、トチの実のアク抜きは、もっと面倒な作業を必要とする。
 その原因は、アクの成分の中に水溶性のタンニンに加えて、非水溶性のサボニン・アロインを含むからで、サボニンは灰(アルカリ)で中和して流し去らなくてはならない。
 従って食用植物の中ではもっともアク抜きがむつかしいとされているトチの実の食糧化に成功した段階には、必然的に日本列島の山野に自生する食用植物のほとんどがリストアップされていたと考えられる。
 その時期とは、ドングリ類でいえば縄文中期、トチの実でいえば縄文後期まで確実にたどれる(渡辺誠『縄文時代の植物食』雄山闃)
 ところで、市域の遺跡からに、どのような植物遺体が発掘されているのであろうか。
 元々植物遺体は、土器・石器などと違って炭化しやすく、従って遺存しにくい。
 そのためか市域の遺跡では、現花までのところ、高津区新作貝塚(花積下層期)、高津区鷺沼遺跡四号住居(黒浜期)、高津区長尾下原遺跡(縄文後・晩期)から、クルミが発掘されているにすぎない。
 しかし植物遺体は残らなくても、アク抜きをするためには、木の実などは必然的に粉砕したり、製粉されたりするわけであるから、各種の製粉用具としての石器類が発掘されれば、そこから往時の食事文化を復元することはできる。
 その好例として、多摩区西菅遺跡第三地点をあげてみよう。
 西菅遺跡の調査では、縄文中期加曽利E期の竪穴住居址一軒と敷石遺構一基が発掘されたが、何よりも遺跡を特徴づけたことは、植物食の採集や調理段階で必須の道具である打製石斧平石皿・磨石・敲石(たたきいし)などが遺跡規模のわりには多量に出土した点だ。
 とくに敷石遺構は、ほぼ中央の炉をかこむようにして扁平な河原石を敷きつめたもので、その中には、表面がスベスベした滑面をもつ特徴的な台状石器があり、そばからは、それと一対になる磨石が出土している。
 このように、石皿・台状石器と磨石・敲石は、本来セットとなって機能し、木の実などの粉砕・製粉過程にはなくてはならぬ道具類であった。
 ちなみに最近では、パンやクッキー状にまるめて、いつでも食べられるような状態の植物食が東日本の遺跡から発掘されているので、今後、川崎市域の遺跡調査でも注意をしておく必要があろう。
 また、打製石斧は「オノ」という名称こそつけられてはいるものの、実態としては土掘具であって、ドングリと同様に水さらしをすれば澱粉のとれるクズやワラビなどの地下茎植物を掘る時に頻繁に使われたと考えられている。
 縄文人の食糧獲得の方法は、従来から狩猟と漁撈と植物食採集の三者を基本にするものといわれてきた。
 ただそれぞれには、生態学的にみたときのシーズンがある。たとえば、いまもむかしも潮干狩の季節は春だ。
 また、イノシシの肉が本当においしいのは寒入り前までの一二月から一月までである。同じように、植物食にもかたよりがある。
 現在でも春にはフキ・タラ・ウド・ワラビのような葉・茎(地上部)を食するものが市中にでまわるが、秋になるとクルミ・クリ・シイなどの堅果の季節が到来する。
 こうして狩猟・漁撈・植物食採集の三者は、四季の自然をバックにして巧みに展開された。
 ただ狩猟は、獲物を得るためにはおそろしく危険を伴う。
 その点、季節のめぐりにあわせて確実に採集できる植物食の存在は大きい。
 世界の民族例からみても植物食の採集は女性の仕事で、なおかつ食糧全体の中にしめる比重は非常に高いという。
 厚い毛皮をまとい、狩りにあけくれる縄文人のイメージもけっして間違いではない。
 しかし最近の研究成果によるならば、むしろ四季のリズムに敏感に反応する快活な縄文人のイメージを浮べた方がふさわしいようだ。

 黒川東遺址と湧泉
 トチの実やドングリ類を食用とする時はもちろんのこと、ワラビ・クズの根など多量の澱粉を出す地下茎植物を料理する時にも、水さらしをしてアク抜きすることは絶対条件だ。
 そのためには必然的に多量の水を必要とする。
 そこで近ごろ、あらためて遺跡周辺に散在する湧泉に関心がむけられるようになった。
 かって江坂輝弥氏は、多摩川中流左岸の武蔵野台地では、縄文中期集落周辺には必らずといってよいほど湧泉がある点に着目し、中期集落にみる定住化と清冷な飲水を恒常的に求めた縄文人の姿に触れたことがあった。
 だが、植物食に関する資料が畜積されてくると、湧泉の存在は、飲水という従来の理解をこえて、水さらしによって植物がもつアクを抜き去るという、いわゆる生態学上の課題を積極的に解決する拠点として評価する必要が生じてきたのである。
 湧泉は、まさしく遺跡そのものなのである。
 長いこと川崎地域の遺跡調査にたずさわってこられた持田春吉・新井清両氏に、市域の縄文遺跡にそくした湧泉の事情をうかがったことがある。
 そうしたら、中原区神庭遺跡、高津区土橋第六天遺跡、鴬沼遺跡、権現台遺跡などの大集落では、みな周辺に良好な湧泉をひかえ、たとえば鷺沼では、大旱魃で井戸水が涸渇した時でも、その湧泉からはこんこんと水があふれていたという、なまなましい記憶を教えていただくことができた。
 ところが不思議なことに、その湧泉部分を発掘調査して、意識的に解明しようとする試みは少なかった。
 その数少ない遺跡の一つとして、東京都世田谷区大蔵遺跡がある。この遺跡は縄文中期の集落址であるが、台地下の湧泉区からも縄文中期土器と打製石斧が出土し、とくに土器では浅鉢形土器が多かったという注目される結果が得られているのである。
 一九七八(昭和五三)年の多摩区黒川東遺跡の発掘調査のおり、地元の人々から近くに湧泉のあることを教えられ、私もその後現地を訪れる機会があった。現地は湧泉というよりも谷の最奥部にあって、周囲から水をしぼりとる場所のようなものだ。
 覆っていた枯葉をどけて泥をかいてみたら、すぐに岩盤が現れ、その岩盤をくり抜いて数か所のくぼみが露出したのにはおどろかされた。
 それだけではなかった。
 何とそこから完全な形の分銅形打製石斧一本と縄文中期初頭の土器片が発見されたのである。
 もっとも、黒川東遺跡の調査区からは、縄文中期初頭、あるいは縄文後期にかかわる資料が発掘されていないので、短絡的に両者を結びつけるわけにはいかない。
 そうかといって、完全な形の打製石斧が谷の上部から谷底の水場(みずば)にむかって偶然落ちてくるわけがない。
 参考までに、各戸に田んぼをもつ土地の人々にあだってみたところ、この水場をよく利用したという人はいても、岩盤をくり抜いてくぼみを造作(ぞうさく)したという人は現れなかった。
 それだけでなく、打製石斧の遺存状況は水場のくぼみの中心部にあって、意図的とも判断されたのである。
 従って、水溜めを目的としたくぼみの造作時期が縄文期であろうとする推測も、全く考えられなくはないのである。今後の類例が期待される。

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 東高根の弥生集落

 弥生文化を特色づける要素として、稲作・鉄器・青銅器などの存在があげられる。
 なかでも稲作の普及は、その後の日本文化の基層部を形成する一大要素であることは疑う余地がない。
 とくに最近、稲作文化に関する考古学上の成果は著しい。
 たとえば福岡県板付(いたつけ)遺跡や群馬県日高(ひだか)遺跡などでは、水田址やそこにしるされた人間の足跡までがなまなましく発掘されて多くの話題を集めた。
 しかも板付遺跡では、弥生水田面以前の、すなわち縄文時代晩期の水田址・足跡・炭化米・木器などが発掘されて、稲作文化研究上の一大画期がしるされたことは記憶に新しい。
 北九州の地に定着した稲作技術は、以後、弥生前期には伊勢湾沿岸にまで一気におよぶ。
 しかし、波及の速度はここで一呼吸し、縄文文化の伝統が濃厚な東日本中心部への伝播は、弥生中期をまたなければならなかった。
 次に、そうした背景をふまえて、市域の弥生文化について触れていこう。
 川崎市域の弥生文化を語るとき、我々は高津(たかつ)区長尾の東高根(ひがしたかね)遺跡の存在をぬきにしては考えられない。
 しかし、東高根遺跡は、一九七〇(昭和四五)年の予備調査の成果をうけて遺跡の全域保存が決定されたため、本格的な発根調査はまだなされてなく、現段階で遺跡の詳細をうかがい知ることはできない。
 そこで同じ多摩丘陵上に点在する周辺遺跡の調査成果などを参考にしながら、まだ姿をみせぬ東高根遺跡に想いをめぐらしてみよう。
 さきに縄文時代の集落址を語るとき、それが竪穴住居址の集合による単純構成でなく、作業・祭祀・貯蔵・墓地などの「場」と「機能」をもつ遺構群との相互連係によって息づいていたものであろうと指摘してきた。
 事実、東日本では、弥生中期以降に稲作の定着はみたものの、その集落形態においては多分に前代からの伝統を受けついでいる面がある。
 第一に、遺跡の立地景観が多くの場合、弥生集落でも縄文集落と同じような丘陵の平坦部であって、現に縄文集落と重複することさえ少なくない。
 遺跡の立地景観の連続性は、文化の伝統を堅持する要素ともなりうるようだ。
 たとえば横浜市三殿台(さんとのだい)遺跡や横浜市二ツ池遺跡の弥生中・後期集落では、竪穴住居址数軒が弧状に散在する集落景観が復元でき、縄文集落の環状景観と外観的には類似している。
 半面、港北ニュータウン内の横浜市大塚遺跡の弥生集落では、ムラ全域が深い環濠によって完璧に防禦され、縄文集落との違いをことのほか鮮明にしている。
 すなわち、溝にかこまれた集落景観は、弥生文化を特色づける画期的な要素だからである。
 それに加えて、東日本の弥生集落を特徴づけているのが、集落内に出現した大型住居址の存在だ。
 通常、弥生中・後期の竪穴住居址は、径五メートル前後、面積三〇平方メートル前後を平均値とするが、いま取上げた大型住居址は、面積一〇〇平方メートル以上、つまり通常の住居址面積の三倍以上のものが少なくないのである。
 南関東地方から発掘された事例としては、横浜市森戸原遺跡の二四四平方メートル(約七四坪)が著名であるが、近年、市域でも高津区野川の影向寺台遺跡から、推定一〇〇平方メートル以上の大型住居址が発掘されている。
 ただ、その機能や性格については、まだ十分に究明されていない。
 これまでの学説では、集会場・共同祭祀の場・集落統卒者の家、あるいは若者宿などが考えられている。
 まだ姿をみせぬ東高根遺跡に、実際どのくらいの住居址が埋もれていて、村人の生活はどのように展開されていたのであろうか、などという点については、全くといってよいほど明らかにされていない。
 しかし、東高根遺跡の弥生集落の基本的な枠組は、いまみてきたような多摩丘陵上の弥生集落の諸要素と、著しくかけはなれて展開していたとも考えがたいといえよう。

 シラカシ林と生活史
 東高根遺跡といえば、遺跡をのせる台地の斜面に繁茂しているシラカシ林の保存も大きな話題をよんだ。
 シラカシといっても、格別めずらしい木ではない。
 アカガシ・アラカシなどと同じカシ類の一つで、最近は比較的みかけることが少なくなってしまったが、かってはケヤキなどと共に農家の屋敷林(防風林)としてよく植えられていた。
 このシラカシを代表種とする東高根の森林に特別の注意がはらわれたのは、次のような理由による。
 つまり日本における潜在的な植生(しょくせい)は、北海道を中心とした常緑針葉樹林帯(亜寒帯)と東北・中部地方を中心とした落葉広葉樹林帯(温帯)、西日本から関東地方におよぶ照葉樹林帯(暖帯)に大きくわけられる。
 問題のシラカシは、四季をとおして緑の葉をつけている照葉樹(常緑広葉樹)であって、その樹林が多摩丘陵の土地になじんだとしても、植生分布の概念からみればなんら不自然でない。


遺跡とシラカシ林 空から見た長尾東高根遺跡とシラカシ林。森林
公園として整備されている。県史跡天然記念物。(北沢広氏撮影)

 にもかかわらず、我々の周囲の山々は、冬になるといっせいに枯葉が舞いおちる落葉風景が出現する。
 なぜであろうか。
 それは本来、生育すべき照葉樹林がすっかり姿を消し、クヌギ・コナラなどの落葉樹――二次林――が卓越したからで、その理由としては、近世以降、薪材としてカシ類などを多量に伐採し、植物社会のバランスを著しく破たんさせてきたことが、植物生態学者から指摘されている。
 その証拠に、社寺林のような禁忌の意識が徹底しているところでは樹林は大切にされてきたので、そこではカシ類がいまでも生育している。
 長尾東高根では、そのシラカシ林が台地上の古代遺跡をかこむようにして広域に確認されたのである。
 しかも植物社会としては奇蹟とも思えるほど健全なバランスを保ちながら――。
 冬の東高根を訪れてみると、そこでは、落葉樹と照葉樹が見事な対照をなす植物社会かじかに観察できる。
 そして冬でもうっ蒼と茂る照葉樹林の空間こそ、実は縄文時代前期以降近世にいたるまで、長いことこの土地に根づいていた植物社会そのものであったのである。
 ところで、東高根集落の村人たちは、彼らの生活文化を展開していく過程で、シラカシを代表とするこの植物社会とどのような関わりあいをもっていたのであろうか。
 このテーマは、人間と自然との交わりを知るうえで大変興味をひかれるが、前に記したように遺跡部分の発掘調査が未着手であるため、いまのところ具体的な解明の手段はない。
 しかし、西日本の弥生・古墳時代集落址から発掘される鋤・鍬などの農具の柄(え)は、現在と同じように硬くて丈夫なカシ材が圧倒的に多く、また椀・高坏などの木製容器にはケヤキ材が用いられている。
 この選択眼からも明らかなように、彼らは現代人と同じくらい、いやそれ以上の植物知識をもう十分に体得していたと考えられるのである。
 おそらく東高根集落の村人も、シラカシで象徴される植物社会の特質を十分熟知していたことと思う。
 だから、農耕具の柄が必要になれば、当然この林の中に入り、適当な材を選んで細工をこらしたに違いない。
 また、春に芽吹く若芽や秋に結実するドングリなどは、貴重な食糧となっていたことであろう。
 こうして、東高根にのこされた遺跡とシラカシ林は、古代の世界が歴史的環境ごと保存されている最高の舞台なのである。

 竪穴住居の居住空間
 弥生時代の集落址や自然環境については概観してきたので、さらにつっこんだ彼らの生活の一部を次にかいま見てみよう。
ここに紹介する高津区梶ヶ谷神明社上遺跡は、一九六七(昭和四二)年三月高津図書館友の会のメンバーによって発掘調査された。それは小規模な発掘調査であったが、得られた成果は大きかった。
 発掘された遺構は、弥生時代中期宮ノ台期の竪穴住居址半分(残る半分は、耕作によってすでにつぶされていた)にすぎなかった。
 だがおどろいたことに、その二分の一しか残存していない竪穴住居址から、宮ノ台期の土器一八個体、鉄器一点、管玉(くだたま)三点、磨石(すりいし)二点、石皿一点が累々と顔を出してきたのだ。
 まさに超豪華版である。住居の床面には、散乱した焼土や炭化材が確認されたので、この家庭は予期せぬ人災にあい、大事な家財道具である土器・石器・鉄器などの持ちだしもできぬまに焼失してしまったものであろう。
 もし、こうした想定が正しければ、土器・石器・鉄器などが発見されたそれぞれの位置は、それらの遺物類が日常的に使用されていた「場」を示唆していることにほかならない。
 従って、その場と遺物類の相関性は、結果的にひとつの住居がもつ機能分割=間仕切りの様子を復元していることになる。

 右の図を参考にして具体的に見てみよう
 たとえば、住居中央部の炉を中心とした部分には、甕形土器がまとまって出土している。
 煤けた甕形土器の存在と炉の関係からみて、そのあたりが「厨房」の場であることは明らかだ。
 これに対し、住居北西隅には、広口の壺形土器がまとまって置かれていた。
 この土器はすべて朱塗りで、この土器の中には穀霊(こくれい)宿すところの種(たねもみ)籾などが本来貯蔵されていたのであろう。
 従って、このコーナーは「貯蔵」の場と考えたい。
 この厨房と貯蔵の場に対して、石皿・磨石や鉄器が出土した空間は、室内での「作業」の場であろうか。
 住居壁に接して確認された炭化物は、間違いなく敷物であろう。
 もっとも、梶ヶ谷神明社上遺跡で発掘されたような多量な遺物を保有する家が、往時、一般的であったことは到底考えられない。
 このことは弥生中期の住居址から鉄器が出土するということ自体、極めてまれなことであるという事実からも容易に察せられる。


堅穴住居の機能 
梶ヶ谷神明社上遺跡の住居機能推定図。

 梶ヶ谷神明社上遺跡出土の鉄器は、形態からみて鉄斧であろう。
 南関東県方における弥生中期の鉄斧としては、神奈川県三浦市赤坂遺跡のそれが古くから著名だ。
 赤坂・梶ヶ谷例はともに完形品であって、梶ヶ谷の例の方が赤坂の例よりいくぶん細長いのが特徴といえよう。
 いずれにせよ、資料価値は一級品だ。
 ところで、弥生集落の多くの竪穴住居址を発掘しても、この梶ヶ谷神明社上遺跡のように、多量の遺物類が残存しているケースは極めてまれである。
 従って、どのような住居址でも、同じような論法で居住空間論ができるわけではない。
 ただひとつ間違いない事実は、たとえ住居内に遺物は残されていなくても、居住空間であるかぎり、住まいの原理として上屋がかけられ、そこには出入口部が設けられていて、一歩家の中に足をふみいれれば、暖をとったり料理をしたりする時に絶対に必要な炉が住居のほぼ真中よりいくぶん奥よりに切られている――という事実である。
 その他、室内で簡単な作業をしたり、あるいは物資を貯蔵したりする場、あるいは夜になって家族が休息をとる場、なども各々きめられていたことであろう。
 とくに家の中における個々の座については、家族といえども性別・年齢別・出自などを規準とした秩序があって、それがことのほか厳格であったと推測しておきたい。
 たとえば昭和の初め頃まで、囲炉裏をかこむ座には、ヨコザ(家長)、カカザ(主婦)、キャクザ(客人)、キジリ(下男・下女)というきまりが確立していたように、縄文・弥生期の一見雑然とした往居空間の中にも、機能の分化が確実に芽生えていたものと考えておきたいのである。

 古墳時代の萌芽
 弥生時代の後半は、古墳時代への先駆として、いわゆる階級社会発生前夜に位置づけられる。
 とくに西日本では、弥生時代中期後半以降、低地(沖積地)の集落とは明らかに立地を異にする、高地性集落と呼ばれる防衛的性格をもった集落が顕著になる。
 それらからは大型化した石鏃(せきぞく)や槍といった戦闘的武器が豊富に出土する。
 こうした考古学的な事象は、中国の史書にいう「倭国大乱」の事件に結びつくものであろう。
 いずれにしても、ムラとムラとの抗争は、勝者に富をもたらし、その者はしだいにより広大な地域を治め、やがてクニヘと再編成されていく。
 こうした動乱の余波は、当然東日本の弥生集落にも影をおとす。
 たとえば、横浜市朝光寺原遺跡・そとごう遺跡・大塚遺跡などでは、集落をひとまわりする大環濠(溝)が発掘されているが、それには緊迫した事態に対応する防衛的機能があったのではなかろうかとさえ考えられているのである。
 こうした軍事面での動勢とは別に、往時の墓制の研究などから、東日本の弥生文化は、西日本のそれにおくれをとりつつも、確実に階級社会へと胎動していった証拠が発掘されてきている。
 そうした権威の帰趨を極めて敏感に反映しているのが、方形周溝墓である。
 遺構は字義のとおり、一辺一〇メートル前後の溝を方形にめぐらし、その中央部に遺骸を安置するのがもっともポピュラーな形態だ。
 近くにある事例では、港北ニュータウン内の歳勝土(さいかちど)遺跡の方形周溝墓群が著名である。
 ちなみに歳勝土遺跡の一大墓地は、隣接して存在する大塚遺跡(弥生中期)住人の集団墓地と考えられている。
 方形周溝墓は、近畿地方の弥生前期にはじめて現れ、以後日本列島の東西に広がってゆく。
 関東地方では、弥生中期に定着をみるが、ただ関東・東北地方には、再葬墓といって、壺・甕を棺にして埋葬する墳墓形態が在来の葬制として定着していた。
 そのため関東地方では、その伝統的な墓制と新しい方形周溝墓とが、見事に融合しているのである。
 たとえば、高津区野川神明社境内遺跡は、前出の横浜市歳勝土(さいかちど)遺跡のような一大方形周溝墓群であるが、ここの方形周溝墓からは、壺を容器とした土器棺がそこから一緒に発掘されているのである。
 つまり、そこに再葬墓の伝統をみとめることができるわけで、この一事からもわかるように、文化の中で、もっとも保守的な性格をもつ墓制の変革がいかに容易でなかったかが察せられよう。
 また方形周溝墓は、基本的には家族墓と定義されている。
 だが、最近、高津区長尾鯉坂遺跡からは一辺二〇メートルもある超大形の方形周溝墓が発掘された。
 おそらく他にぬきんでたこの大形方形周溝墓に手厚く埋葬された人物(家長)こそ、生前に政治力を掌握し、集団を指揮・統卒した人物と想像できよう。
 そうだとすれば、明らかに階級差の萌芽である。
 この方形周溝墓と関連づけて興味ある課題をなげかけているのが、高津区野川三九七番地から発掘された弥生中・後期の溝状遺構と一括遺物である。
 溝は舟形に堀りくぼめたもので、長さは八・五メートル以上あり、溝幅最大二・一メートル、溝断面V字形、深さ最大約一メートルである。
 この溝状遺構の中軸線上から、弥生中・後期の壺・型形土器の完形品が七点も出土し、中には土器底部が穿孔されていたり、あるいは土器胴部の中火に孔があけられていたりして、それが非日常的な器具に転用されたものであることをよく物語っている。
 方形周溝墓の溝中にも、底部を穿孔した壺形土器がしばしば埋設されているので、この溝状遺溝も一種の墳墓とみて間違いない。
 ただ、これが舟形溝状遺構として、これ自休で完成されたものなのか、あるいは方形周溝墓の一辺を偶然掘りあげていたものかについては、その後、周辺の学術調査がなされていないのではっきりしない。
 しかし、出土土器の多くが、再葬墓の伝統の強い北関東に文化の中心をもつ弥生後期の標式土器であることを考慮すると、再葬墓と方形周溝墓の両方の要素を見事に触合させたこの特異な墳墓形態が、南関東の一角に存在したとしてもけっして不思議ではない歴史的環境にあったといえよう。

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