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Home 其の一 其の二 其の三 其の四 其の五 付録
七章 県都千葉町の形成
1 都市への胎動
町村制と新町村/新しい千葉町誕生/市域の新町村/市街地の道路網/官庁街の形成/増加する都市新住民/千葉繁昌記
2 交通と流通の活況
水運から陸運へ/鉄道の開通/増大する輸送量/消費都市への傾斜
3 県都の文化と社会
初等教育の拡充/文教地区の形成/千葉のジャーナリズム/日清・日露戦争と庶民/恤兵会の活動 |
八章 千葉市の成立と市民の文化
1 近代都市として発足
町税滞納の一掃/交通兵旅団の誘致/ジャーナリスト町長の登場と退場/市制問題の論議/おくれて来た市制/町政から市政へ/市民の生業/千葉県鉄道網の拠点/充実する市民の足/東京通勤圈に
2 市民的文化の芽生え
教育の時代/千葉に自由教育あり/教育会と教育会館/県立図書館の建設/市民の祭りと年中行事/市民の行楽/千葉開府八百年祭/生活と人権を守る |
七章 県都千葉町の形成 top
1 都市への胎動
町村制と新町村
明治二一(一八八八)年四月二五日、明治政府は市制・町村制を公布し、これによって、廃藩置県以後あいついで行なわれた地方行政制度の目まぐるしい改変に終止符が打たれた。
前章でみたように、これまで各地方は、明治一一年に制定された郡区町村編制法により、旧来の町村のいくつかが連合した戸長役場を設置して地方行政の一単位を形成していたが(連合町村)、市制・町村制が同二二年四月一日から実施されることになると、町村合併が急速にすすんだ。
実施に先立ち、明治二一年六月一三日、内務大臣から合併に関する訓令が出された。
それは、町村制施行にあたっての新町村は、それまでの町村の区域に従うことを原則とはしたが、地方自治体として独立した機能を備えるには相当な資力が必要なので、町村の区域がせまかったり、人口が少なかったりして自治体の維持に耐えられないような町村に対して、合併を奨励しようとするものであった。
合併の基準は、一町村と戸数おおよそ三〇〇戸以上、五〇〇戸くらいまでとし、なるべくそれまでの連合町村の区域と同一にするようにはするが、とくに同一戸長役場の所轄区域であり地形上支障のないところでは、その地域内の旧町村を合併して新しい町村を構成するよう指導された。
千葉県では十分に練られた計画の下に町村合併をすすめていったが、合併に際して民意を優先する方針がとられたこともあって議論百出し、各地元から多くの陳情が県に提出された。
しかし住民が合併を希望しないが、戸数が少ない、また資力薄弱などの場合は、郡長の意見または県の判断によって合併がすすめられた。
その結果、千葉県下二四五七町村は合併されて四二町三一六村にたり、町村の規模は平均五九〇戸(旧町村は平均八六戸)になった。
これら新町村の半数弱が戸長役場所轄区域と一致しており、この点は新制への移行がスムーズにすすんだことを示し、全国的にみても特色といえよう。
なお、この時千葉県下では、市制をしいた地域はなく、千葉県のほかに福島・栃木・群馬・埼玉・長野・滋賀・奈良・大分の八県が市のない県であった。
現在の千葉市域としてみると、この合併によって、一五七ページの表のように二町一二村が誕生した。
この時の人口六万一四九五人を、昭和六〇(一九八五)年国勢調査による千葉市人口七八万八九三〇人とくらべると、一〇分の一以下にすぎず、まさに“隔世(かくせい)の感”があり、都市化の進展がうかがわれる。

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明治期の千葉町
『千葉繁昌記』(雀巣子本)に描かれた千葉町の風景。
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新しい千葉町誕生
さて次に、この町村制施行に伴う町村合併を、千葉市域の町村について具体的にみよう。
まず新しい千葉町は、旧来の千葉町・寒川村・登戸村・黒砂村・千葉村寺の一町四村が合併したものである。
これはかっての千葉町を中心とした連合町村に、千葉寺村を加えて発足したものである。
旧千葉町は、県庁が置かれてから急激に人口の集中が続いていた。
明治六(一八七三)年に三一一○人(『日本地誌提要』)、同一三年に五八一七人(『千葉県統計表』)だったのが、合併時には九七八一人と増加していた。
こうした人口増は千葉町だけでなく近隣村々へも及んでおり、とくに寒川・千葉寺両村で人口増がすすんでいた。
これを地域性の面からみると、各村の生業は、登戸村では商業・農業を主とし、寒川村は商業・漁業、千葉寺村・黒砂村は農業を主としていて、それぞれ相違はあったが、経済的に相互依存の関係にあり、さらに登戸・黒砂両村は寒川村と共に千葉町の海上交通上の玄関としての役割りをになっていたので、合併しても当然と考えられていた。
新町名は、県庁所在地であった千葉町をそのまま用い、県庁所在地としての新しい千葉町が誕生したのであるが、先にも述べたように、全国でも県庁所在地で市制を施行しなかったきわめてまれな例であった。
県内の町村をくらべてみると、千葉町は人口において本銚子町の一万六九五三人を抜いて県下第一位にはなったが、本銚子町は旧飯沼村一村での発足であり、また隣町の銚子町(荒野・新生・今宮の三村合併)の九八七五人と合計すると二万六八二八人となり、古来この地域をひっくるめて銚子と呼んでいたので、この両町を一体とみると、千葉町の人口は県下第二位となる。
町村合併時の各町村の面積を明記した資料はないが、民有地面積で割った人口密度をみると、千葉町は木銚子町・銚子町の約二分の一であり、千葉県の中心都市にふさわしい人口の集中化には、まだ時間を要する状態であった。
千葉町は、千葉・寒川・千葉寺・登戸・黒砂の五大字からなっていたが、便宜上次の三○区に分けられた。
すなわち、本町一〜三丁目、市場、吾妻町一〜三丁目、通町、横町、南道場、北道場、院内、旭町、長洲、千葉穴川、片町、新町、新田、新宿、仲宿、下仲宿、下町、五田保、向寒川、登戸上・中・下、登戸穴川の二八区が市街地で、千葉寺・黒砂の二区が村落である。
千葉町では、四月二四・二五日に一級・二級あわせて三〇名の町会議員選挙を行なったのち、町会で町長を選挙し、田村吉右衛門が当選し、五月一七日知事により承認された。
役場は寒川九七八番(現在の市場町)に置かれ、職員は町長・助役・収入役のほか、書記一〇名、使丁六名、付属員二名であった。
市域の新町村
以上、千葉町の合併前後の様子をみてきたが千葉市域における他の村々の合併の状態は右下の表の通りである。
合併の結果、旧来の九八町村が一四町村にまとめられた。合併にあたっては、大体問題なく経過したが、新村名の決定についてはいくつかのパターンがある。
たとえば蘇我野村では、今井村ほか五か村が蘇我村を希望し、曾我野村が蘇我野村を主張して対立し、なかなか決定をみなかったが、結局、蘇我野村と決定した。
曾我野は古くから東京への汽船の発着地として名が知られていた。
この例と同じく、合併村のうちの大きい村の名をそのまま新村名としたものが検見川(けみがわ)村・幕張村(まくはり、馬加村)・犢橋(こてはし)村である。
また生実(おゆみ)浜野村は、北生実村と浜野村がともに大村であったため、二村名を並べて新村名とした。
古くからの関係地名を用いたのが、椎名村(椎名郷)・白井村(白井荘)・更科村(この地を更科と袮した)・土気(とけ)本郷町(古く土気本郷といった)などである。
ほかの村名は、合併に際して新たに命名されたもので、たとえば都(みやこ)村は新村の繁栄を念願してつけたもの、都賀(つが)村は新村に対する住民の祝賀の意をあらわしたもの、また千城(ちしろ)村は地区内に「城」の字のついた地名が多かったことから、誉田(ほんだ)村は野田村にある八幡神社の祭神誉田別命(ほむたわけのみこと)の名にちなんで、それぞれつけられたものであった。 |
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市街地の道路網
都市の発展条件として、道路網の整備は不可欠な問題である。
しかしながら、千葉町誕生のころ、明治二〇年代の町内の道路は、まだまだ整備がなされていなかった。
この頃の千葉町の主要街道は、千葉神社前の広小路が中心となっていたとみることができる。
江戸街道は通町通といって登戸から千葉神社前へ通じ、さらにこの道は千葉神社前から東へ道場を経て佐倉へ通じる佐倉街道となる。
また北からは、東京道(千葉街道)が作草部(さくさべ)の南を経て広小路に至り、本町一・二・三丁目を通り、都川を大和橋で渡り、市場町県庁前を通り、寒川海岸沿いの房総街道となっていた。
この街道は表通と呼ばれ、これに平行して西一〇〇メートルほどのところに吾妻町を通り都川に至る裏町通がある。
さらに西五〇メートルほどに裏町通と平行して蓮池通があった。このほか大和橋の南から東金への道路があった。
千葉町は、年々道路整備に多額の予算を投入し、明治末年になると多くの道路が整備され、地域の性格も変ってきた。
道路整備にはいくつかの契機が考えられる。それは数度の火災や、鉄道の開通による人の流れの変化等であろう。
明治二五(一八九二)年の火災ののちには、光明寺(現在の中央三丁目勉強堂付近)で止まっていた正面横町を西へ延ばして葭川(よしかわ)を越え、寒川停車場(本千葉駅。現在の京成ホテル付近)への道路を同三一年に完成させた。
さらに、現在の県庁前羽衣橋から、現在の教育会館の前を通って通町通に至る、のちに演芸館通(現在の銀座通)と呼ばれた道と、表通から分かれて現在の吾妻橋を渡り、通町通へ出る吾妻町通が完成した。
明治四四年、県庁舎が新築落成したのを記念してさらに二本の道路が完成した。
すなわち演芸館通を延長して千葉停車場前(現在の千葉市民会館)の要(かなめ)橋へとつながる現在の栄町通(ハミングロード)と、県庁わきの現在の都川公園から都橋を通り本千葉停車場通へ、現在のほていや付近でつながる道路である。とくに後者は「記念道路」と呼ばれていた。
こうして、現在の千葉市街中心部の原型を形づくる道路網がこの時期にあらわれ、千葉町が都市へと発展していく基盤となったのである。

千葉警察署
官庁街の形成
明治六(一八七三)年に千葉町に県庁が置かれて以来、千葉町は急速に変化して、町の景観は少しの間にも大きく変わり、町内には地域による性格づけがなされてきた。 |

現在の羽衣の松 明治のものと木も場所もちがう。 |
とくに県庁を中心として市場・長洲・吾妻町一帯に官庁街が明治末年までに形成された。
まず千葉県庁は、明治七年に庁舎を市場町に建設したが、『千葉繁昌記』(雀巣子本)に、「或は其の頭を割いて尾に加へ、或は其の胸部を削って臀部に添へ、以て今日の姿となりたる者にて」と、何回も増改築が行なわれたことを記し、「政庁の外観あるなし」と書かれる始末であった。
この県庁舎に代わって、明治四四年五月五日に新しい庁舎が竣工した。
新庁舎はルネッサンス風の堂々たる建物で、鉄骨レンガ造り、柱とアーチに大理石を用いた地下一階、地上二階の耐火構造で、工費約三七万円であった。
現在この建物は解体され、敷地は羽衣公園になっているが、右の写真のような棟札が残っており、工事従事者の様子を知ることができる。
この県庁舎の落成は、市場一帯がはっきりと県都的オフィス街として性格づけられたことをものがたっている。
県庁舎落成に先立ち、庁舎東方の千葉公園が拡充整備されて開園し、千葉町民のいこいの場となった。
園中の小丘に古松があり、“羽衣の松”と呼ばれてした。
伝説を秘めた羽衣の松は、千葉八景のひとつで「羽衣の夜雨」として親しまれていた。
千葉町役場は、県庁の前の建物を使用したが、「千葉町役場としてはウラ恥かしき感なき能はず」(雀巣子本『千葉繁昌記』)といわれたほど貧弱な建物であったため、明治二六年に現在の自治会館付近に新築した。
しかしこの建物は、千葉公園を拡充する地域内にあったため、県庁の向かい側の長洲へ移された。
県庁の筋向かいの長洲町には、すでに千葉市原郡役所、のちの千葉郡役所が設けられていたし、明治四二年にはそのとなりに千葉税務署が新築された。
県庁と都川をはさんだ吾妻町三丁目(中央四丁目の現在地)に千葉地方裁判所があり、巌谷一六の筆になる表札がかけられ、その建物は関東随一と袮されていた。
しかし明治三八年九月怪火にかかり焼失し、同四〇年五月に新築落成したが、昭和二〇年の戦災により再び焼失した。
県庁周辺から少し離れて表通に面した本町二丁目には、千葉警察署が明治二〇年に建設されている。
県庁から西へ少々離れたところ(当時の寒川片町。佐倉藩の米蔵跡らしい)に千葉監獄署があったが、明治四五年五月に赤レンガの一大建築物を都村貝塚(現在の千葉刑務所)に建てて移転した。
この監獄は下総台地のはずれにあり、第二次大戦前は千葉市街地の末端になっていた。
さらに次の章でくわしく述べられるが、明治四一年に都賀村作草部に鉄道第一連隊が、同四二年に鉄道連隊材料厰が、大正元(一九一二)年には陸軍歩兵学校が進出した。
ここにのちの軍郷千葉の端緒が形づくられたのであり、さらに千葉をはさんで東の四街道市域、西の習志野市域へと軍事施設がひろがり、首都防衛の拠点となるのである。 |

旧県庁本館の棟札
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増加する都市新住民
さてこれまでみたように、千葉町は、官庁街の形成や道路計画に伴い、徐々に都市としての形態をととのえてくると、人口も増加して市街地も拡大をみせ、官庁街を中心として町内の地域分化の傾向が始まり、住宅地区・文教地区、それに住民の消費生活のために小売商が増加して商業地区がはっきりと性格づけられてきた。
千葉市域の全町村の人口増加をみると、明治二一六一八八九)年の六万一四九五人にくらべて同四五年には九万二五九七人(一五〇・五パーセント)に増加している。
しかしこの増加数三万一一〇二人の過半の一万六一八九人は、千葉町の人口増加であった。
すなわち、明治二二年の千葉町人口一万九六七七人に対し、同三六年には二万七九四四人(一四二パーセント)、さらに同四五年には三万五八六六人(一八二パーセント)にも増加している。
この間の本銚子町の人口は、明治四四年には一万九六一〇人で、そのうち二六五七人が増加分で、
同二二年を一〇〇とすると一一六になっているにすぎないから、千葉町人口は県下一の増加傾向にあったのである。
市域では、千葉町以外の各村とも増加しているが、なかでも誉田村が明治四五年までに四〇九一人増加し、同二二年との比は一八一であった。
人口の分布でもうひとつ見のがせない現象として、本籍人口と現住人口との差がある。
千葉県全体でこの差をみると、本籍人口・現住人口はほぼ同数で差がみられない。
ところが千葉町では、明治三六年に本籍人口一万八二五二人に対し、現住人口二万七九四四人であったのが、同四五年になると本籍人口二万一七〇九人に対し、現住人口は三万五八六六人に達し、現住人口が極端に増加しているのが目立つ。
これは就職や勉学等のため、各地から本籍地を離れ、千葉町に来て居住した者がふえたためであり、千葉町の人口が都市的人口分布に変化してきたことをあらわしている。
千葉市域の他の町村では、この傾向はみられないが、明治四五年の統計をみると、逆にわずか三〜四〇〇人ではあるが、蘇我町・生実(おゆみ)浜野村・検見川町・犢橋(こてはし)村・幕張町等で現住人口の方が少ない現象が見うけられ、周辺地域から千葉町への人口の集中傾向をうかがうこともできよう。

明治15年の千葉町 |

明治36年の千葉町 |
千葉繁昌記
千葉町は、町村合併により県都としての機能発展の基盤が確保されたのも、目をみはるような勢いで都市へと成長していった。
明治一五(一八八二)年と同三六年の地形図をくらべてみると、中心市街地は前者は近世後期の形態のままで、街道にそってはしご型をしているのに対して、後者は市街地自体が拡大され団塊形に成長していることが一目でわかる。
町村合併の行なわれた明治二〇年代の千葉町の様子を『千葉繁昌記』という書物からうかがってみよう。
『千葉繁昌記』と題された書物は、明治二四年発行の君塚辰之助(雀巣子)著と、同二八年発行の藤井三郎(松風散史)著の二種類が残っている。
雀巣子本は、冒頭に「千葉町繁栄之図」(右図)をかかけ、総論と三枚の絵をまじえて七四の建物や団体につして文明批評を加えつつ述べている。
総論には“繁昌”の世相に痛烈な苦言を呈し、また「鴉が鳴けば馬子匹」と俗謡にうたわれた千葉町を、県庁設置により「鴉が鳴けば車馬蝟集」と修正する必要があると、その変化を述べている。
さらに文明社会の進歩を説いて、千葉町に住む人は「固陋の域を脱し」、「事物変遷の実和」を直視し、「欠点を插ふ準備」につとめ、「改良を促すの用意をなす覚悟を以て其の業を励み、其の職をつとめ」、千葉町繁昌の基礎を固めよと提言している。 |

松風散史本『千葉繁昌記』
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ついで現在の繁栄を書いたのち、未来を想像して後篇の目次を記し、「雀巣子の希望を満たしむるの決心あらば」数十年を出ずしてできることであろうと結んでいる。
これをうけて現実に四年後に出版された松風散史本に、その序の中で、「爾来三年、今や雀巣子の所謂未来なるものは、実に現在の目録に掲ぐるに至れり」と記されているほどになっていたのである。
この松風散史本は、雀巣子本の四倍ほどの分量があり、また一項目についての記事は事実を詳細に記してあり、地誌としての価値が高い。
雀巣子本とあわせて、明治中期千葉町誕生のころを知るために貴重な書といえる。
この二つの繁昌記発行の間の明治二五年四月一〇日に、通称“むじな火事”と呼ばれる火災があった。
明治以来千葉町は、たびたび火災にあっているが、四一七戸焼失というこの火事は、昭和二〇(一九四五)年の空襲による焼失をのぞいてぱ、最大の火災であった。
火事は吾妻町二・三丁目、本町二・三丁目と市場町を焼き、千葉寺まで延焼したのである。
この前後の変化を二種の『千葉繁昌記』の記事によりうかがうことができる。
明治四四年には『千葉街案内』『千葉町案内』『千葉誌』等があいついで刊行され、明治後期の千葉町の様子を知る資料となっている。
2 交通と流通の活況 top
水運から陸運へ
町村制施行後の千葉町は、人口・面積とも大きくなり、県政の中心としての人の動きも産業も活発化してきた。
しかしながらこれを商業の面からみると小売業も増加したとはいえ、まだ江戸時代以来の中継商業地の色彩が強かった。 千葉町には寒川港・登戸港があり、ここを起点として県北部や九十九里方面へ道路が通じ、海上・陸上輸送の中心となっていた。
首都東京との交通は明治二〇年代になると、総房馬車会社や東京湾汽船会社の馬車や汽船によって便利にはなってきたが物資の輸送はやはり回漕店の五大力船に依存し、千葉町の商圏を内陸部や九十九里方面に確保していたのである。
明治二八(一八九五)年の『千葉県農商統計』に、問屋・仲買・卸売商の数が書かれており、これによるとこれらの仲継商人の数は、県下第一位であった。(『千葉市史』)
馬車や汽船の様子は、明治二三年一月の「鉄道小荷物賃金井海川汽船馬車発着賃金表」によれば、総房馬車会社は、両国広小路から馬車が一日八回、千葉を経て成田まで往復しており、両国〜千葉間の運貨は三〇銭であった。
また汽船は一日一往復、東京越前堀から浜野・八幡へ運航していた。
船行は寒川港まで上等三〇銭、下等二五銭であった。
千葉町の中継商業は、やがて明治三○年代に入るとしだいに衰微し、海上交通の表玄関だった寒川港にもまたさびれていくのである。
これに代わり、明治五年に開通した鉄道が、しだいに全国にひろがってきた。
とくに明治一七年八月、日本鉄道による上野〜前橋間の鉄道全通をみて、全国的に私設鉄道敷設熱が盛りあがり、千葉県でもこの例にもれず、多くの鉄道が計画された。
明治二〇年末には武総鉄道(本所〜佐原間)、総州鉄道(本所〜銚子間)があいついで出願されたが却下され、その後両者が合体して、明治一三年に総武鉄道として再度出願したところ、ようやく仮免許が交付された。
鉄道の開通
この総武鉄道は、明治二七(一八九四)年七月二○日、市川〜佐倉間を開通させ、ここにはじめて千葉市域へ鉄道が通じたのである。
一二月九日には東京の本所〜市川間も開通し、千葉と東京が鉄道でつながった。
さらに同三〇年には銚子へと線路がのび、現在の国鉄総武本線の路線が完成したのである。
開通当時の千葉市域の駅は千葉停車場のみであったが、一二月に幕張停車場、三二年九月に稲毛停車場が開業した。
『千葉繁昌記』(松風散史本)には鉄道につして次のように書かれている。 |

本千葉停車場
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(総武鉄道の)本社は東京本所にあり。出張所は千葉町停車場傍にあり。
同社が起業に係る東京より当千葉町を経で佐倉町に到る鉄道は、明治廿七年七月より市川〜佐倉間開通せり。
然れども東京迄全通せざりしを以て隔靴掻痒(かっかそうよう)の感ありしが、同年十二月九日より全通せしを以て、京葉往復の便一段の進歩をなし、以て我千葉町の価値を高めり。
雀巣子の繁昌記には「停車場を未来の目録」に加へり。
僅々二、三年にして此編是を載す。豈(あに)愉快ならずや。今発着時間並に賃金表を次に載す。 |
本所〜佐倉間は一日六往復運転され、千葉〜本所間は一時間五分で結ばれていた。
この時の本所〜千葉間の中間駅は市川・船橋・幕張の三駅のみであった。
汽船と馬車以外は歩かざるをえなかった千葉町民の喜びは大きかった。
しかも運賃の本所〜千葉間二七銭は、汽船や馬車よりも低額であった。
一方、房総鉄道が蘇我〜茂原、大網〜東金間の免許を得て工事を起こし、明治二九年一月に蘇我〜大網間を開通させ、中間に野田停車場(のちに誉田)が開業し、一一月には土気(とけ)停車場も開業した。
さらに千葉〜蘇我間の免許を得て、同二九年二月に総武鉄道千葉停車場と結ぶことができ、中間に寒川停車場(のち本千葉駅)か開業した。
この房総鉄道は、明治三二年には大原まで開通した。
県の北東部では成田鉄道が総武鉄道佐倉から成田までを明治三〇年一月に開通させ、翌三一年には佐原まで、その後、成田から我孫子へと線路をのばした。
房総鉄道・成田鉄道の両社は、いずれも総武鉄道と連帯運輸をすることとなり、明治三五年には、本所〜大原間に直通列車も走らせた(ただし二年後に廃止)。
また成田鉄道は、総武鉄道が本所から両国橋に延伸すると、両国橋〜成田間に直通運転を行なうようになった。
こうして現在の千葉県北部の国鉄網の大部分が私鉄の手で開発され、千葉町は千葉県交通の要衝としての地位を不動のものとしたのである。
明治三九年五月には、鉄道国有法が公布され、翌四〇年九月、総武・房総両鉄道が国有化された。
以後、国鉄の手によって県下鉄道網の拡充が計られるのであり、同四五年までに東金〜成東間、蘇我〜姉崎間が開通し、千葉市域では浜野駅が開業した。
増大する輸送量
こうして開通した鉄道の利用者数は、年ごとに増加していった。
明治三六(一九〇三)年の千葉駅の乗客数一一四万三〇八九人は、始発本所駅の五六万七〇一一九人につぐもので、大正元(一九一二)年の四一万四五一五人は始発両国橋駅の九八万五〇六二人につぐ乗客数であった。
この一〇年の間に、始発駅が本所から両国橋に変わり、明治四〇年に千葉まで複線化されたこともあるが、乗客数は増大の一途をたどった。
とくに本千葉駅の急増が著しく、本千葉駅が千葉町の繁華街・官庁街への入口としての役割りをにないつつあることがわかる。
他方、鉄道旅客数の増大するのに反して、東京〜千葉間に就航していた東京湾汽船会社の乗客数は減少してきている。
明治三六年には、東京〜千葉〜八幡間の乗客数七六〇九人であったのが、大正元年には三六四五人にまで半減した。
同じ東京湾汽船の東京〜木更津、東京〜勝浦、東京大房州間の各航路の乗客数がほぼ横ばいであったところをみると、鉄道の影響が非常に大きいといえよう。
貨物についてみよう。千葉駅では、発送量よりも到着量が多い。明治三六年における到着荷物の多い物資は、石炭七九〇一トン、米一七三九トン、木材一七一四トン、石材一〇九六トン、砂糖四九六トン、雑貨三四七四トンなどのほか、薪炭・落花生などが主なものである。
発送量が多い物資としては、生菓・生魚・甘藷・まゆなどであり、肥料は発着ともほぼ同量で各約一二〇〇トンである。
この輸送の状態からみて、千葉町が消費都市として成長していく傾向と同時に、まだ内陸部への物資中継地としての役割りも残していることが知られる。
なお生魚の発送は、明治三六年には、新生(本銚子町内の貨物駅)一三〇二トン、大原九五三トン、銚子八六五トン、成東三六一トンにつぐ二八〇トンを千葉から送り出していたが、大正元年には出荷量ゼロになっている。
消費都市への傾斜
県庁が置かれ、しだいに都市化のすすんできた千葉町には、多くの商家がみられるようになってきた。
『千葉繁昌記』(松風散史本)は、町内の商家を書き並べて寸評を加えているが、その主な業種は右の表のとおりである。
この表のうち、旅人宿は軍用が五軒ほどと往記してあり、料理屋を兼ねているものが多く、市場町・本町・通町・長洲町などの繁華街に多かった。
これに対し下宿屋は新しい住宅地に多い。 |

横町の奈良屋出張所
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雀巣子本の『千葉繁昌記』では、料理店について、「千葉町に頗る多いが、見るべきものは少ない」と述べ、「某粋人曰く、『大会は梅松、小集は加納屋、浴後(海水浴のあと)の小酌長崎屋適せり』」と評している。
明治の文明開化のあらわれとして、牛乳取取所・西洋小物商などがあり、売肉営業(肉屋)が一八軒もある。
この表には出ていないが、魚小売が正面横町に一軒開業したと書かれている。
九十九里や東京湾の魚を取扱う問屋は寒川に八軒ほどあったが、店を構える魚小売商は一軒のみで、魚の小売りはほとんど行商にたよっていたのであろう。
郷土史の大先輩、和田茂右衛門氏は、明治末期の千葉町中心部の職業別の地図を残している。 |
これをみると、千葉駅前にはまだ農地が多く、千葉神社の南に商家が目立っている。
『千葉繁昌記』の内容とくらべると、千葉町の変化がみられる。
本千葉駅から正面横町への通りは賑やかになり、赤十字支社もできたが(明治三八年)、この通りが葭川を渡るところにはまだ水車場があって米麦等をついていた。
亥鼻の県立病院の前は旅館等がさらに増えてきている。
正面横町から北の演芸館通・蓮池通には、見番・芸者置屋があり、花街としてすっかり定着してきている。
明治末年ごろになると、千葉町にレコード店が一軒みられる。
また奈良屋呉服店千葉出張所が横町に店を構え(明治四二年出店、本店は現在の佐原市)呉服太物はもちろん、洋物・雑貨・自園製茶等を販売し、後年の百貨店への萠芽がみられ、千葉町の消費都市としての性格が、しだいに強くなってきている様子を知ることができる。
3 県都の文化と社会 top
初等教育の拡充
明治政府は国家目標のひとつに国民普通教育の普及を大きくかかげている。
明治五(一八七二)年には学制を発布し、普通教育の普及に乗り出した。
学制のもと、全国に学区が定められた。これは全国を八大学区に分け、そのなかをさらに中学区・小学区に分けたものである。
千葉町は、第一大学区の第二四番中学区に属し、千葉町の公立小学校は「第一大学区第二四番中学区第〇〇番小学」と呼ばれることになったのである。
その後、学制が廃止され、明治一二年には教育令が、さらに一九年には小学校令が公布された。
これら制度の変遷の中で、千葉市域においても多くの小学校が創立されたが、町村合併実施に伴い学区が再編成された。
明治二三年の改正小学校令では、尋常小学校は三か年または四か年、高等小学校は二・三・四か年と修業年限を規定しているが、千葉町内の小学校はほぼ尋常小学校四か年、高等小学校は三か年の修業年限としている。
『千葉繁昌記』(雀巣子本)には、小学校の項を設け、
「千葉市中、小学校五あり。即ち千葉小学は大庭に在り。
寒川小学は長洲に、登戸小学は登戸に、千葉寺小学(誠明小学)は千葉寺五反保に、市童村児群ること蟻の如く蜘の如し。
咿唔の声(いご、書物を読む声)常に天に轟けり。
而して築造に至ては千葉・寒川二校の外、観るべきものなし」と書かれている。
明治三三年の改正によって、公立小学校の授業料徴収は廃止となり、義務教育は無償になった。
さらに同四四年には義務教育年限が六年間に改正された。
このことは必然的に小学校の統廃合をもたらした。
大正初期における小学校の設置状況を、『千葉県千葉郡誌』(大正一五年刊)によってみると、右の表のとおりである。
教育の状況を、町村の財政の面からみると、町村費に占める教育費の比重はきわめて高い。
明治三六年の千葉町の決算額では、経常費三万〇八八一円六銭五厘のうち教育費一万二二五三円五銭五厘(支出の四〇パーセント)、臨時費九四九八円三一銭八厘のうち教育費六六六一円九五銭八厘(支出の七〇パーセント)と多く、総支出の四七パーセントにも達している。
国是(国の方針)とはいいながら、千葉町の教育への支出の多さが目立っている。 |
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文教地区の形成
官庁街の発展と並んで、千葉町中心部においては、文教地区ともいうべき地域が形成されつつあった。
明治九二八七六)年、千葉師範学校が「県庁の裏都川を隔てたる数十歩の内に在り」と『千葉繁昌記』(松風散史本)に書かれているとおり、西谷(現在の教育会館付近)に移り、同一一年には校舎を新築した。
また千葉中学校(現在の県立千葉高等学校)が、同一一年に設立され、校舎を千葉師範学校の一画に設けた。
これより先、前章で述べたとおり、千葉大学医学部の前身ともいえる共立病院が本町一丁目(いま院内公園に碑がある)に設立され、明治九年に県は吾妻町三丁目に病院を新築(いま中央四丁旦扇屋ジャスコ屋上に碑がある)して公立千葉病院と袮し、院内に医学教場を設けた。
これがのちに県立千葉医学校となり付属病院を置くようになった。さらに同二一年に国に移管されて第二高等中学校医学部となり、同時に県立千葉病院を併置したのである。
これら千葉市街の中央部に集まっていた学校群は、医学部と県立千葉病院が明治二二年に矢作(やはぎ)台に移り、また千葉師範学校と付属小学校が、同三〇年に亥鼻台(現在の文化の森地区)に移転した。
これらと谷をへだてた地(葛城一丁目)に千葉中学校が移転し、文教地区を形成した。
明治三三年には千葉中学校の跡地を利用して千葉高等女学校(現在の県立千葉女子高等学校)が創立されたが、同三六年には寒川新田(現在の新宿小学校敷地)に校舎を建てた。
また明治三七年には、千葉師範学校から分かれて女子師範学校が、千葉町の西部の畠地の新地(千葉駅前通グリーンベルト中に記念碑あり)に校舎を建てた。
このように官庁街の形成と共に、混在していた教育施設を区外へと移転し、それが後年の市街地拡大の布石となって都市的土地利用地域をひろげたということができよう。
なお、明治三九年には、高等女学校のとなりに、千葉電灯株式会社が開業して火力発電をはじめ、同四三年には、千葉郵便局(現在の千葉中郵便局)内に電話交換所が設けられて(明治四四年四月加入者二五一人)、千葉町にも近代都市としての施設がしだいに整備されてきた。 |

千葉高等女学校
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千葉のジャーナリズム
千葉町における新聞社について『千葉繁昌記』(雀巣子本)は「千葉町において発行する所の新聞は二あり。
一を『東海新報』と言ひ其社は県庁の前に在りて其主義は自由也。一を『房総新聞』と云ひ、其社は公園の前に在りて其主義は改進皀」と書いている。
さらに松風散史本にも『東海新聞』と『千葉民報』があげられており、これが大体明治二〇年代の千葉の新聞であった。
これが明治四四(一九一一)年ごろには、千葉町で発行する新聞として『東海新聞』『新総房』『千葉毎日新聞』『千葉評論新聞』『千葉暁鐘新聞』『信教新聞』の名がみえる。
千葉県は全国でも有数の新聞が長つづきしない地域であるといわれており、新聞発行には興亡が激しかった。 |

明治期の千葉県の新聞
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初め明治七、八年頃には『千葉新聞輯録』『千葉新報』『千葉公報』などが発行されており、同一四年には『千葉公報』を引きうける形で『総房共立新聞』が発行された。
『千葉繁昌記』にもあるとおり、発行された新聞はほとんど政党色をもっており、『総房共立新聞』は桜井静・池田栄亮などの改進党系の人たちが発行者で、急進的であった。
『東海新聞』は板倉中らの自由党系の人たちにより明治二一年に創刊され、連載小説をのせるなど
目新しい試みを行なった。板倉が衆議院議員に立候補するため経営からしりぞくと、経営難におちい
り、幹部の改革などを行ない、同二四年には紙名を『東海新報』に変えるなどしたが、同二七年に再び『東海新聞』にもどし、のちの千葉町長加藤久太郎が社長となった。
この『東海新聞』と対立した『新総房』は『千葉民報』(明治二七年七月発行)が明治三二年六月紙名を変更したもので、本社を長洲に置き、発行人佐瀬喜六、編集人丸山清で、憲政会系の新聞である。
桜井静も一時この新聞に協力し、のもの憲政会代議士の関和知が青年記者として働いていた。
『千葉評論新聞』は本町に社屋を構え、政友会支部の機関紙として週刊で発行し、『千葉毎日新聞』は、明治三六年『東海新聞』の編集長を辞した五十嵐重郎が創刊した。
本千葉通に社屋を構え、寺島信之を主筆に招き、政友会系であった。
明治四〇年代になると東京で発行された新聞が千葉版を続々と出すようになったため、地元各紙とも経営が苦しくなったようである。
日清・日露戦争と庶民
明治二七、二八(一八九四、九五)年の日清戦争は、近代国家として出発した日本の最初の対外戦争であった。
この戦いとこれに続く台湾への出兵に、千葉市域からも多数の出征兵があった。
その人数は不明であるが、『千葉郡誌』によれば、戦死者は一名、戦病者が一八名あった(土気町は不明)。
明治三七、三八年の日露戦争は、日清戦争と比して当時の世界最強国を相手にしただけあって、戦死者・戦傷者の数は非常に多くなっている。
千葉市域における召集者の数はこれまた不明であるが、戦死・戦病死者の数は九八名(土気町を除く)にものぼっている。
出身町村別にみる戦死・戦病死者は右の表のとおりである。また戦役受賞者は表のとおり一二六八人にもなっている。
戦死者は、単純に計算しても約一二〇戸に一人の割合になり、市域内の墓地には、日露戦争の戦死者の墓としてひときわ目立つほど立派なものが建立されているのを、いまでもみることができる。
戦役の受賞は勲章と賜金で、勲八等瑞宝章・勲八等白色桐葉章・勲八等青色桐葉章が多いが、金鵄勲章もあわせて与えられている者もいる。
戦争にがり出されたのは人間ばかりではない。 |

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軍用馬の徴用が行なわれ、その対象となった馬の大多数は農家で農耕用に使役されていたものである。
『千葉郡誌』によると、明治三〇年ごろの千葉郡下の馬は、農役・運搬・乗用あわせて四二八三頭であった。
明治三七、三八年に五日にわたって行なわれた馬匹検査で、七二四頭が徴用されたが、徴用に対して支払われた値段は、一頭あたり四五円から一五〇円であった。
この馬の価格に対し、兵隊の戦死者への特別賜金は二等卒で四四〇円、戦傷者への賜金は兵卒で八〇〜二五〇円となっていた。
こうした実情をふまえて、『千葉毎日新聞』の「戦争と人格」と題する社説では、「かって一士官の輜重輸卒(しちょうゆそつ)を叱する声に曰く、『貴様よりも馬の方が大切だ』と。
いわゆる無名の英雄は、実際に消耗品視せられるることなきか、馬以下視せらるることなきか」と痛烈な戦争批判を行なってしる。
馬のみならず荷車等の徴用も行なわれ、千葉郡下で計五〇七台が徴用されている。
このほか大麦等の食料や軍用襦袢(じゅばん)・乾草などの購買が行なわれ、地域経済も戦時色一色となっていた。
さらに戦時国債の勧誘が、郡役所・町村の職員によって行なわれ、割りあて額をはるかに超過したという。
恤兵会(じゅっぺいかい)の活動
戦争の激化に伴い、出征兵士は現役兵のみならず予備役等にまでに及び、一家の働き手が召集され、収入のとだえてしまう家庭まで出てきた。
明治三七(一九〇四)年四月「下士兵卒救助令」が発布され、これに伴い県では「救助願及同救助金取扱」を規定した。
千葉市域では、現役兵七、予備兵三七、後備兵九四、補充兵役三八、国民兵一七の被救助人員があった。
一方、戦争が激化するにしたがい、出征兵士の見送りや、家族への慰問、戦傷者・戦病者の慰問、戦死者弔祭等の機会が多くなってきた。
これを組織的に行なうため、恤兵会という団体が成立した。
市域の恤兵会は、明治三七年二月、郡恤兵会と町(村)恤兵会が組織され、盛んに活動をした。
千葉町では、出征部隊の千葉駅での見送り回数が五一回を数え、国旗をたずさえ、音楽を奏して盛大に見送りをした。
この時出征軍人一人につき巻たばこ“朝日”を各一個贈り、その総数は一万六二六六個にも達していた。
各町村における応召兵士の見送りは、右の表のとおりである。 |
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恤兵会のもうひとつの大きな行事は、戦死者の葬儀であった。
明治三七年八月から三九年七月までの間に一一七回、各町村恤兵会が主催して葬儀が行なわれた。
戦争による犠牲の下にあっても、戦勝の報は市民の喜こびであった。千葉町をはじめ各町村では祝捷(しゅくしょう)会が開かれたが、そのおもなものは、遼陽(りょうよう)占領祝捷会・旅順(りょじゅん)開城祝捷会・奉天(ほうてん)付近大祝捷会・沖の島海戦(日本海海戦)祝捷会などである。
苦戦であった旅順攻囲戦の祝捷会には、千葉町で一六○○余人、生実浜野村で七五〇人、検見川町では六〇〇人(いずれも『千葉郡誌』)が参加し、千葉町の参加人員は、実に町民の半数に近い状況である。
日露戦争が終わると、凱旋軍歓迎会が行なわれることになった。
準士官以上は全県下一円で、下士官以下は郡ごとに行なうこととなっていたが、千葉郡では、県下一円の歓迎会が千葉町で行なわれるので、これと合同で行なうこととし、同三九年四月一六日、県庁広場で挙行された。
こうして日露戦争は終結したが、その傷跡は種々の形で深く千葉市民に残されていたといえよう。
八章 千葉市の成立と市民の文化 top
1 近代都市として発足
町税滞納を一掃
明治二一六一八八九)年に新しい千葉町が発足してから大正期に入るまでに、七人の町長が町政にたずさわった。
初代町長の田村吉右衛門は穴川開拓の父といわれた初代田村吉右衛門から三代目で、千葉町屈指の豪農であった。
第四代町長鈴木太郎吉は日清戦争直後から日露戦争期にかけて一〇年間その職にあり、積極的に町政の推進にあたったが、町会の承認なしに予算を支出して国庫債券に応募するなど、専断的な側面もあり、とくに在職の後半期には、しばしば町会とゴタゴタを起こした。
そして町会ボイコッ卜戦術などに出た反町長派との対立が激化するなか、町会から町税滞納整理の要求をつきつけられて辞任に追しこまれた。
町税滞納処理の問題は、明治三〇年代に入ってから、ほとんど一〇年にもわたる千葉町財政上の難題であり、歴代町長の悩みの種であった。
明治三九年七月に第六代町長となった加藤久太郎の肩にも、それが重くのしかかったことはいうまでもない。
加藤は就任するや、ただちにこの問題と取りくんだ。
加藤の著書『在職四年間』によると、まず千葉町を甲乙両組に分け、それぞれを担当する主任各一名を置き、また遊軍として応援主任一名を定め、それらにそれぞれ三名の付属員をつけて未納町税整理の態勢をつくった。そして未納者のおもな者から勧告をはじめ、区ごとに整理していくことにした。
加藤の意を体した整理出張員たちは、同年九月八日から一〇月二二日まで四五日間と定められた整理期間中、熱心に職務を遂行した。
整理にあたっては勧告・徴集・差押処分(間違いないと認める者に限り一週間の延期を与える)などの手段で公平に取扱うことをむねとした。
この結果、一万円余もあった未納町税が一〇月末までにほとんど整理された。
加藤は一一月五日、町会議員・各区長を町役場に集めて整理結果を報告すると共に、町民一般にも通知書を発して「就職以来鋭意熱心以テ吏員ヲ督責シ、専ラ心ヲ未納整理ニ傾ケ、或ハ強制執行ヲ励行シ、或ハ期間ヲ与ヘテ納税ニ便ナラシムル等」と、苦心のほどを述べながら感謝の意を表し、町政発展のため今後いっそうの協力を、と訴えた。
交通兵旅団の誘致
後で述べるように戦前の千葉市は、県政と交通の中心地、医者と軍隊と学校の町、官吏やサラリーマンと近郊農家を相手とする小売商人の町であった。
このうち軍隊との関連についてはこれまでくわしくは触れなかったので、ここで軍隊誘致の問題を取りあげておこう。
元々千葉県には、帝都防衛の一環として多くの軍事施設が置かれた。佐倉の連隊をはじめ、市川・習志野・四街道などに野戦砲兵の連隊や学校、騎兵旅団などの兵営が並んでいた。
その中で千葉町は「権衡上(釣合い)よりすれば当然一軍隊の設置せらるべき筈なるに、従来此等の地に比して常に後(おく)るるものありし」という状態にあった。
そこで日露戦後の軍備拡張の中で交通兵旅団の創設がきまり、千葉町付近に兵営を新設する話がもちあがると、千葉町は加藤久太郎町長を先頭にその誘致運動に乗り出した。
明治三九(一九〇六)年八月、町役場に町会議員・区長、その他町内の有力者が集まり「他町村の為すが儘にして之を袖手傍観する能はず」として、請願委員(委員長=加藤)をきめ、顧問に神田清治郡長、相談役に千葉毎日など五新聞社を委嘱した。
紅谷四郎平からは山林一万五〇〇〇坪の寄付の申し出があり、綿打池(千葉公園内)から穴川付近にかけて四万坪の土地を旅団兵営敷地として献納したい旨(むね)を陸軍大臣あて請願することになった。
献納地買上代金は町内各区に等級割で割当てて寄付させることがきめられた。
こうして石原健三知事も陸軍省との交渉に動き誘致は成功、翌四〇年三月、いよいよ交通兵旅団司令部・鉄道連隊・材料廠(しょう)が千葉町に進出することが決定した。
ついで一八万坪を越える敷地買収のための委員の選出、地主との協議、この間の郡長・町長のあっせんなどを経てお膳立てはととのい、明治四一年六月、まず旅団司令部・鉄道連隊第二大隊が千葉駅に到着、歓迎会では有吉忠一知事・加藤町長のあいさつがあった。
町では全戸が日の丸を掲げ、花火が打揚げられた。
同年一一月には連隊司令部・第一大隊が移動して東台の兵営に入った(弁天町)。 夜には提灯行列が繰り出し、千葉神社鳥居前から大和橋までの路上に整列してから、連隊兵営内の式場に至った。提灯は営舎を取りかこみ、万歳の声は式場の内外に起った(加藤『在職四年間』)。
この鉄道連隊は増強されて大正期に鉄道第一連隊となり、津田沼の部隊が第二連隊となった。
このほか、陸軍歩兵学校は大正元(一九二一)年に都賀(つが)村(作草部)に移転してきた。
近くの四街道には陸軍野戦砲兵学校や下志津陸軍飛行学校もあり(若松・小深・六方町なども含まれた)、大正からさらに昭和にかけて、千葉市を中心とした地域は、軍郷的な様相がようやく濃くなっていく。 現在でも千葉公園の付近には鉄道連隊の演習用の線路などが残っている。 |

陸軍歩兵学校
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明治四二年五月一五日の新聞『千葉市民』の論説は、次のようにいっている。
今や我が千葉町は、目に月に進歩発達しつつあるにあらずや。
それ然り、官衙・学校は悉く千葉町にありて、多数の人を吸収し、加ふるに軍隊あるも、……千葉町の繁栄は、常に自ら致せるに非ずして、悉く他働的に因れり。
言換すれば繁華は余儀なくせられるるものなりと謂ふべし。例えば千葉町に於ける軍隊の如し。
軍隊の在否は、繋(かか)りで町の盛衰に著しきものあり。
其も僅々(きんきん)一年にして今日の繁華を来たせし千葉町は、実に軍隊新設のお陰也。
然れば軍隊は千葉を開拓し、千葉を文明に導きし大恩人ならずんば非ず。 |
いささかオーバー気味ではあるが、加藤町長への肩入れもあるのであろう。
それにしても千葉町の繁栄が「悉く他動的」との表現は痛いところを突いており、現在でも考えさせるものをもっている。
ジャーナリスト町長の登場と退場
加藤町長はみずから「素(モト)ヨリ人ノ毀誉褒貶(きよほうえん)ヲ介意スル所ニ非ザルヲ以テ、……或ハ納税義務者ヨリ幾分ノ批難ハ免ガレザルベシト雖(いえど)モ」と認めているように。
滞納町税整理に際し、いわば蛮勇をふるって年来の難問に立ち向かった。では加藤は、一体どのような人物であったろうか。
『房総人名辞書』(明治四二年)によると、万延元(一八六〇)年市原郡八幡村に生まれ、明治一四(一八八一)年上京して中村正直の私塾同人社に学び、その後、江湖新聞社、ついで民権新聞社に入って中江兆民・星亨らの知遇を得た。
若し加藤の人間形成の上で、民権家たちに伍して活動したこの時期のもつ意味は大きかったにちがいない。
明治二七年に、東海新聞社をゆずり受けて同社社長となり、千葉県の新聞界に登場した。
同三二年には、自由党千葉支部理事(のち立憲政友会千葉支部幹事)となり、もっぱら政友会の党勢拡張につとめるなど、政治的にも活発な活動を行なった。
また早くから佐倉惣五郎に深く関心をもち、明治二六年には近世の義民たちの伝記をまとめて『民権操志』を著わしていた。
このような千葉町長としては異色のジャーナリスト町長、加藤久太郎(号梅泉)は、明治四三年七月に再選された。
しかしこの後、町会側から予算執行における費目流用や金銭出納の乱脈があるとして追及され、「役場吏員の総辞職を勧告する建議」が満場一致で可決されるなど、町政は混乱におちいった。
全吏員の辞表を受け取った加藤町長は、町会と協議のうえ疑惑がないとされる者を再任命して事態を収拾した。
こうして加藤は再任後わずか一年余の同四四年八月辞任する破目に立ちいたった。
有吉忠一知事との連携プレイなど日露戦争後五か年余にわたる加藤町政の実態とその歴史的評価については、明治から大正への媒介者として、より立ち入った研究が必要であると思われる。
以下では千葉市制施行論議についてみていくなかで、それに関係する範囲で加藤を登場させることとしたい。
市制問題の論議
明治四一六一九〇九)年八月二九日、加藤町長の呼びかけに応じて町会議員、町内の有力者が役場に集まった。
市制施行の問題を話しあうためである。
その席上、宇佐美佑申議員は「経済上に於いては、町と市とに由(よ)りて大差あるなし、即ち市制施行は寧ろ千葉町に取りで利益なり」としながら、比較研究のために市制調査会を設置することを提案した。
これによって調査委員三一名が委嘱され、一〇月三日の第一回調査委員会で常任委員八名が決まった。
八名の顔ぶれは加藤久太郎(委員長)・紅谷四郎平・大森源治郎・鈴木利右衛門・飛田良吉・宇佐美佑申・畑野亀次郎・高瀬茂兵衛。
調査会に相談役を置き、千葉の各新聞社長と主筆(東海新聞社・千葉毎日新聞社・千葉市民社・新総房新聞社・千草評論社・国民新聞千葉支局・東京朝日新聞千葉支局など)をこれに委嘱したあたりは、いかにも加藤町長らしいやり方である。
このほか「法律経済の専攻家にして、当時都市の研究に従事し居れる」白鳥健にとくに委嘱して、もっぱら調査事務にあたらせることもきまった。
翌明治四三年三月の常任委員会の報告には「千葉町に市制を施行するを相当なりとす」とあり、施行区域は千葉町および作草部(さくさぺ、都賀村)、貝塚・辺田(へんだ)・矢作(やはぎ、都村)、曾我野・今井(蘇我町)が適当であろうとされていた。
加藤はこれを「千葉町近時の発展は、其政治部面に於ても亦、実に旧衣を脱して、新衣を纒はざるを得ざる」ことの自覚のあらわれとみて歓迎している。
市制調査会の相談役に指名されている千葉市民社の『千葉市民』(毎月三回発行)は、明治四二年三月「町村の分合(千葉郡内)」と題する論説(第一九号)の中で次のように述べている。
(イ)、千葉町は都賀村作草部の一部、都村貝塚及び辺田・矢作の一部もしくは全部、蘇我町宮崎の一部を合併すべきもの。
(ロ)、都村は印旛郡旭村吉岡の全部を収容すべきもの。
(ハ)、犢橋(こてはし)村は二分して南部は小深を捨てて部賀村宮野木及び幕張町天戸を収容して一村を形造り、北部は大和川町勝田こ局津・高津新出の各一部を収容して、花島・横戸・柏井・内山・宇那谷をもって新村を創設すべきもの。
(ニ)、睦(むつみ)村は印旛郡阿蘇村米本の全部及び豊富村行々林(おどろばやし)の一部を収容すべきもの。
(ホ)、豊富村は印旛郡白井村復(ふく)の一部を収容すべきもの。
と個条書きにして、「地勢を本位」とした意見であると限定しながらも、「近き将来に於て千葉町が市制を執行せられたるの暁、付近の町村に分合の必要を見るべきは勿論」と主張している。千葉市制の施行が千葉郡内、さらに印旛郡などとの関連で考えられている点は注目される。そしてこの論説の最後は次のようにしめくくられている。
*
犢橋村の如きは再三陸軍用地として買上げられたるの結果、今や殆該村の中央を横断して交通の不便挙げて云ふべからず、時勢の向ふ所該村を基点として大和田・検見川・幕張・都賀の三町一村に区画の変動を兔れざるは理数の方に然る処からか。
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『千葉市民』紙はこのほかにも明治四二年八月、市制調査会の発足にあわせて論説「千葉市制問題」を掲げ、同年三月末の調査では人口九二万一三六〇余人(しかも非本籍者つまり外部からの流入町民が二分の一を越えて一万六一八〇余人)に膨張しており、町制のままでは「千葉町の如きは市たる成年期に達せる人物を尚ほ児童視して小学校に教育を委するの愚に非ざるなきや」と市制施行の必然を主張した。
また市制施行を前に、公園・蒸気ポンプや貯水池などの施設も必要だとし、「寒川より蘇我間に防火衛生の設備を与ふる完全の市街」をつくるためには、新渡戸(にとべ)博士に照会してニューヨークの家屋建築組合のようなものを結成するのが最良であろうと提言している。
同紙は加藤町長の期待に十分にこたえていたのである。むしろ別働隊の感さえある。
遅れて来た市制
明治四三(一九一〇)年から話題となっていた町役場の庁舎新築が、大正二(一九一三)年に実現した。
千葉税務署や千葉郡役所と並んで、長洲町(現企業庁舎角。羽田ビル向かい側)に洋風の木造二階建ての庁舎ができた。
しかし一方、加藤町長のときに盛りあがりをみせた市制論議は、この頃にはかえって立ち消えの形となり、同じ大正二年にこれまであった市制施行調査委員会も廃止となっている。 その後、市制問題が再び動き出すのは、大正六年である。
ちょうど第一次世界大戦の末期、県政では折原巳一郎知事の五年余におよぶ積極政策がスタートした年である。
時の和田秀之助町長は、県から小沢勝助役を入れて財政の整理などにあたる一方、町会議員を中心につくられた市政研究会に助役と共に参加して市制関係の資料を提供した。 |

千葉市役所
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全国の人口六万以下の各市の実情、千葉町勢の現況などをふまえた当局の説明によると、千葉町は人口の点からすれば十分に市制施行の資格がある。
しかしその前提として不安定な財政を強化することが必要であるとされた。
大正九年の国勢調査によると、全国の県庁所在地のうち市制を施行していなかったのは、浦和(人口一・二万人)、山口(二・五万人)、宮崎(二・一万人)と千葉(三・三万人)の四町だけであった。
それというのも、町当局が認識していたように、財政の劣弱さや町政の不安定が市制実現の妨げとなっていたのである。
このため財政、とくに税収の強化が求められ、戸数割付加税を家屋税付加税に改めるなどの対策が講じられ、市制問題はようやく機が熟してきた。
この間に、町長は和田がやめて、かって明治三五年から大正二年まで千葉郡長であった神田清治が代わり、大正九年五月、内務大臣あて市制施行の内申が提出された。
その後数か月間、何らの音沙汰がなく、一方ではあとから提出した足利町(栃木県)が一足先に施行決定をみるなど、関係者をやきもきさせた。
これに対し小沢助役が上京陳情し、ついで県の内務部長、さらに折原知事も同じく上京して各方面と折衝するなど苦心を重なた。
一二月に入ってから内務省係官が三日間調査のため来町、町税滞納や自治観念の欠乏を理由に一時「省議としては異論あり」の状況もみえたが、折原知事の働きかけがきいたのか、同月二三日「市制施行に関する諮問案」が送られてきた。
こうしてその年も押しつまった同月二七日、町会は同意の答申を決定、あやうく翌大正一〇年一月一日からの市制施行にすべりこむことができた。
町政から市政へ
大正期においても、教育費など委任事務費の重圧をうけている地方財政はいっそう膨張した。
とくに第一次世界大戦期(一九一四〜一九年)以降にその傾向は著しくあらわれ、千葉町(市)もその例外ではなかった。
明治末から大正前半には七〜八万円台であった当初予算は、大正七(一九一八)年に一三万円台に増大し、市制施行後の大正後半期には三〇数万円という規模までふくれあかっている。
それまでこのような地方財政をささえる主柱となったのは戸数割税であったが、この税は住民の移動が頻繁な千葉町のような町では滞納を生みがちであり、町当局の悩みの種であった。
そこでこれに代わって家屋税を採用しようとする動きが出てきた。
大正六年にはそのための調査員が設置され、同八年からは実施のため家屋の実地検査を行なった。
しかし戸数割付加税を家屋税付加税に改めることが町会で可決されると、町民大会が開かれるなど料理店・大家屋所有者などをはじめとする町民の反対が強まり、この中で和田町長は辞任を余儀なくされた。
約二か月間の町政空白期ののち、神田町長が就任するが、この間、小沢助役が町長臨時代理として腕をふるって家屋税賦課率を決定し、神田町長の下で家屋税問題に決着をつけた。この家屋税付加税の実施によって賦課の安定性が増し、大正九年度当初予算ではその額は七万五四六八円と、県税の約四倍の額にのぼっている。
千葉市となって最初の市会議員選挙は、大正一〇年三月に行なわれ、三〇人の市会議員が生まれ、昭和四(一九二九)年三月には、はじめて普通選挙(男子のみ)が実施された。
町長は神田のあと久保三郎・神谷良平・財部実秀・加納金助とひきついだが、昭和九年に永井準一郎が就任すると、同二一年までの長期にわたって、戦時下の困難な市政を担当することになった。
この間、おりから慢性化した不景気のあおりで市財政事情は苦しく、市営住宅建設・高等小学校新設などの経費負担や、行政整理・予算縮減策などをめぐって市政が混乱することもたびたびあった。
その中で県当局の推薦する市長を市会が拒否する場面もあった。
反市長的市会の責任追及がきびしくなった昭和八年六月、まず宮内三郎が県から転じて助役に就任、ついで同年八月財部市長が就任すると、岡田文秀知事は後任を送り込んで一挙に押しきろうとした。
ところがこれに対し市会在野派は加納金助を担いで反対し、同九月市会の市長選挙では加納が一五票とわずか一票差ながら勝利をえた。
官僚支配への反発といえよう。
その後、加納派議員など市会議員が贈収賄を理由に次々と検挙され、また辞職議員もあいつぎ、昭和九年に二回、同一一年に一回、補欠選挙が行なわれる有様となった。
加納が約三か月で辞任すると、宮内助役は約一年間市長臨時代理をつとめた後、永井市長の下で一〇年間以上も戦時下千葉市政の中枢に坐ることになる。
市民の生業
明治末期に形をととのえた千葉町の人々の職業につしては、すでに前章でみた。
それ以後千葉町は市域の拡張をみることなく、市制施行にあたってもそれは同様のままで、昭和期に入っていく。
それではかっての千葉町は大正期をへだてて二〇年後の昭和初期において、どのような産業や職業人口をもつ千葉市に変容していたのであろうか。
その変容は町(市)域の変化がないだけに一層、戦前千葉市の性格やその方向性を鮮明に示すものであるに違いない。
ここに昭和七(一九三二)年現在の「千葉市の就業人口」(千葉市民新聞社『千葉市年鑑』、昭和九年)という興味ある統計があるので、これを手かかりに少し考えてみよう。
この年の千葉市の人口は四万九二五〇人だから、就業人口の一万三〇二七人は、全市民の約三六パーセントにあたる(この場合、他町村との出入りの問題は省く)。
これを産業別にみると商業人口が四二八八人ともっとも多く、就業人口の三分の一以上(三三・七パーセント)を占め、その中でも物品販売業・店員・行商人などの比較的小規模な商業的職業の比率が高いことが特徴的である。料理店や旅館・理髪師やカフェー・芸妓といった接客業もかなり多い。
商業についで多いのは公務・自由業で、二八六五人と全体の二二パーセントに達している。
つまり県都としての千葉市では、当然ながら官公吏・医師・弁護士・教員・新聞記者・代書人などの職業が相対的に多く、また軍人も徐々に増えつつあったことが注目される。
商業と公務・自由業、それに鉄道員などの運輸や通信の交通業も含めて仮りに千葉市の第三次産業人口を計算してみると八一八六人となり、就業人口の六三パーセントに近い高率を示す。
他方、第二次産業と考えられる工業や建設業はひっくるめて一四・三パーセントにすぎず、それも鍛冶屋・染物屋・表具師・印刷工などの家内工業や手工業的な職人が主となっている。
当時、千葉市の工場としては参松千葉工場(飴製造)、日東製粉工場くらいがやや大きいものであった。
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第一次産業である農業・水産業人口は合計で一〇〇〇人をわずかに上まわる程度で、全体の八パーセント余にとどまっている。
農業では作男・作女など農家に雇用されて農業労働に従事する人々が比較的多いのが目につくが、彼らの多くは大小麦やさつまいもなど商品作物の生産に従事していたのであろう。
また無業(おそらく役人・軍人・教員などの退職者等)が一〇パーセント以上あるのも千葉市の特徴のひとつであろう。
もちろんこの周辺には現市域にあたる郊外ないし郡部の農漁村がひろがっていたことはいうまてもない。
なお表のFその他の有業人口は、ほとんどが第二次か第三次産業に分類できそうに思われるが、どうやらここでは千葉市さらに周辺町村の庶民の“生活と文化”をささえる裏方さんたちの世界をかいまみる感してある。
これらによって描かれる戦前千葉市のイメージは、ほぼ明治末期までに形成された消費都市的な性格が基本的には変化することなく維持・拡大され、そのまま肥大化した都市とみなされよう。その意味ではまさに県都らしい県都であるといってよい。
千葉県鉄道網の拠点
明治四〇(一九〇七)年、総武鉄道と房総鉄道は国有鉄道に移管され、以後国の手によって鉄道の延伸がはかられた。東京湾側を通る木更津線は、大正八(一九一九)年には北条(現在の館山駅)まで達し、北条線と名づけられ、さらに太平洋岸に出て、同一四年七月に鴨川まで達した。
一方、太平洋側を南下する房総線は大正二年に勝浦まで達したが、以後難工事のためすすまず、一五年一〇か月をついやして昭和四(一九二九)年に鴨川に達し、四月一五日から運行を開始した。
ここに南房総大環状線が完成したのである。鉄道当局はこれから北条線・房総線という名称を廃し房総線に統一した。
この環状線は、千葉県南部の交通体系を一新し、千葉駅を窓口として房総交通の中心地としての千葉市の地位を確立させたということができる。
南房総の景勝地は、四季を通じて県内はもとより、東京市民の保養地・観光地として注目され、海産物・農作物等の輸送も海上から鉄道へと移ってきた。
さらに佐原で止まっていた成田鉄道も、大正九年に国に移管され、政争にまきこまれながらも延長工事が行なわれ、昭和八年三月、松岸(現在は銚子市内)まで開通し、ここに北総環状線が完成して、千葉県のすべての鉄道が千葉市を経由して東京へと結ばれたのである。
こうして、千葉県内の輸送体制はととのったものの、県内鉄道利用者のネックは、東京での始発駅が両国橋駅という東京の中心からはずれた隅田川の外側にあったことである。東海道線や東北線で全国どこへ行くにも、いったん両国橋で下車し、市内電車か自動車で上野駅か東京駅へ乗りつがなければなない不便があった。
この鉄道島国脱却はまず貨物からなされた。大正一五年七月に、常磐線金町駅から平井〜小岩間に貨物専用線が敷設され、新小岩操車場が設けられて、県内鉄道貨物のほとんどがここを経由するようになった。
一方、旅客については、いぜん両国橋止まりであった。
大正一四年頃、県外から着任した千葉税務署長が、千葉市の発展は飽和点に近づいている、今後の発展の素因は東京へ接近することであり、その接近は両国橋〜万世橋(現在の御茶の水〜神田間にあった駅)間の鉄橋(高架線)の即時開通である、と論じている。
千葉市会も、大正二五年三月に鉄道電化の促進陳情書を出しているが、いっこうにはかどらなかった。
ようやく昭和六年、両国橋駅は両国駅と改称され、翌七年七月御茶ノ水〜両国間に市街高架橋による鉄道が開通し、電車運転が始まった。
その後、同八年三月に市川、同年九月に船橋へと電化区間がのび、同一〇年七月にやっと千葉まで省線電車の運転が行なわれるようになって、首都圏鉄道網の東の拠点としての千葉の位置が確立した。

京成千葉駅 昭和3年頃。 現在の中央公園にあった。 |

バスの発着場
木更津・茂原・大多喜方面へのバスの発着所。昭和12年。 |
充実する市民の足
京成電気軌道株式会社は、明治四〇(一九〇七)年に押上(おしあげ)〜成田間の特許を得、大正元(一九二一)年に押上から江戸川および柴又(しばまた)を開通させていた。
その後大正三年に千葉県に入って市川新田(現在の市川真間(まま)付近)まで、一一月に中山まで、さらに同五年コ一月に船橋まで開通した。
ここで地元民の要請もあり、成田へ向かうより、まず千葉へ向かうことを優先することとなり、大正八年船橋〜千葉間の特許を得て工事を開始し、同一〇年七月一七日、千葉線は営業を開始した。
ここに千葉と東京とを結ぶ国鉄・私鉄のネットワークが完成したのである。
さて、京成電車の開通によって千葉市域には、京成幕張・検見川・稲毛・浜海岸(現在のみどり台)・千葉海岸(西登戸)・新千葉・京成千葉の七駅が開業した。
開業当時の京成千葉駅は通町五三(現存の中央公園)にあり、千葉市の繁華街の中心へ直接乗り入れたわけである。
千葉線の開通式は、七月一七日に稲毛駅前で行なわれ、本多専務の式辞、元田鉄道大臣・折原知事らの祝辞があったあと、稲毛館裏の松林で園遊会が開かれたと、『鉄道時報』が伝えている。
さらに祝賀会は稲毛海岸に特設された海上バラック食堂(納涼台)でも行なわれ、「会場にあふれる千余人の人々と間断なく打ち上げられる花火や千葉芸者の手踊りが祝賀会の雰囲気をもりあげ」、市民はもちろん工事を完成した会社側にとっても喜びが大きかったことが知られる。
鉄道網の充実と並んで、近距離交通の機関として、明治以来の人力車・乗合馬車に代わって自動車が発達してくる。
大正一五年の『管内駅勢要覧』(千葉運輸事務所)によると、「近年、管内主要駅勢力圈内におげる自動車の発達は目覚しく、道路の完備と相俟って、益々之が勢力を扶植し、或る区々に於ては鉄道に対抗して相当の、否、寧ろ優勢なる成績を収めつつある……」と述べられているように、千葉市周辺にも自動車営業の波が押しよせてきていた。
市内バスとしては千葉市街自動車株式会社が千葉駅と海岸(出洲海岸)・歩兵学校・大学病院などを結んで運行していた。
市外へ向かっては、船橋・成田・成東(なるとう)・東金(とうがね)・木更津(ぎさらづ)・茂原(もばら)・大多喜(おおたき)などに営業路線、かのびていた。
これらの一部が昭和五(一九三〇)年に京成電軌に買収され、京成乗合自動車株式会社が創立されたが、のち京成電軌の自動車部門となって現在に至っている。
なお千葉市街自動車は、昭和一九年、戦時体制により京成に統合された。
東京通勤圈に
この時期の鉄道の輸送量についてみると、千葉駅の乗降客の増加と、昭和に入ってからの幕張駅での増加が目立つ。
とくに千葉駅は、東京から直通電車が乗り入れるようになると乗降客数は飛躍的に増加し、昭和一一 二九三六)年には年間乗降客一五〇万人を越え、逆に本千葉駅では乗降客の減少がみられ、千葉駅が千葉市の表玄関としての性格をはっきりみせてきた。
貨物輸送については、誉田・土気の両駅を除き、市域の各駅はいずれも到着量の方が多く、消費都市としての性格がますます濃くなってきた。
大正一四(一九二五)年の数字でみると、大正九年にくらべて各駅とも乗降客が増加しているなかで、幕張駅で約一万人、稲毛駅で約五万人の減少をみている。これは、京成電車千葉線の開通に伴い、夏季の海水浴客が国鉄から京成へ移ったことを示している。
すでに京成では、大正一〇年の開通に先立って、稲毛海岸に納涼台を設けるなど海水浴客の誘致をはかっていたが、とくに同一四年の七、八月は猛暑で田が少なく、稲毛を中心とした海水浴場に多くの客が集まり、海水浴場千葉の名が高くなっていた。
当時、両国橋からの国鉄列車一日二九本にくらべると、一時問二〜四本の京成電車(大正一四年汽車時間表)に客を奪われるのは当然であった。
また大正一二年の関東大震災後の住宅難により、東京市民が住宅地を求めて、郊外進出が千葉県にも及び、総武線沿線の宅地化か盛んになって市川・船橋にも及び、千葉市にもこの傾向がみえた。両国橋駅・錦糸町駅への定期券利用通勤者が多くなったという。
こうして昭和初期には、千葉市域は早くも東京のベッドタウン的な性格を帯びるようになった。
2 市民的文化の芽生え top
教育の時代
市制施行前後から昭和初期にかけて、教育面では、経費節減や市民意識育成のねらいもあってであろうか、千葉市では全市一校制を試みている。大正一〇(一九二一)年、市内各小学校を一つに統合して千葉尋常高等小学校という児童数四三七三人のマンモス校を発足させた。
校長は三山春次で、四部に分かれた各部の間の連絡に苦心し、四学校間の対立感を薄くし、率直な討議を組織して教育内容を向上させたとされる。
しかし範をとった長野県松本市でもそうであったように、結局は児竜数の増加などにより維持は困難となり、昭和三(一九二八)年に第一部が独立して千葉第一小学校(現、新宿小学校)、同じく第二部が千葉第二小学校(現、本町小学校)、第三部が千葉第三小学校(現、寒川小学校)、第四部が登戸小学校になり、四校に分割された。
デモクラシーの風潮と進学熱の高まりの中で、中学校の設立がすすんだのもこの時期の特徴の一つである。
大正一二年、従来の千葉商業補習学校が昇格して市立千葉商業学校となり、昭和一〇年に松波町に移転した(現、県立千葉商業高等学校)。
私立学校では、大正一四年に長戸路政司が“敬天愛人”の建学精神をもって開設した関東中学校が新田町にあり、翌年穴川に移転した(現、千葉敬愛高等学校)。
同じ一四年、前香取郡長の福中儀之助か“良妻賢母”育成を目指して新千葉町に千葉淑徳高等女学校を開設した(現、千葉明徳高等学校)。
女子教育ではまた大正一一年に千葉女子技芸学校が新宿町に開設されたが、昭和八年佐久間惣治郎がこれを買収し、千葉精華高等女学校とした(現、千葉経済高等学校)。 |

千葉商業学校 昭和5年頃。
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こうした実業教育・女子教育・私立学校などの拡充は、当時における民衆の歴史舞台への登場、教育や文化の大衆化といった風潮に見合うものにほかなるまい。
またこの頃は、中等学校(とくにエリート中学校)の入学難が社会的にも問題となっており、伝統のある県立千葉中学校などは競争率が二倍を越えることもめずらしくなかった。
このため小学生に対する受験準備教育の弊害が論じられ、選抜方法に内申書方式や人物考査を加えるなど様々な工夫が試みられたが、かえってそれが情実の余地を生むなど、どれもなかなか根本的な解決とはならなかった。
千葉に自由教育あり
大正デモクラシーを象徴するような教育界の話題といえば、亥鼻の千葉師範付属小学校を拠占としてくりひろげられた自由教育運動を忘れるわけにはいかない。
付属小学校では、大正八(一九一九)年九月から新しく赴任した手塚岸衛主事の下で、学級自治会・発表板の自由使用・朝礼の自治など、次々に革新的な方法が開発され、実践された。
なかでも個人またはグループで自由学習を行なわせる“分別扱”に“共通扱”を組み合わせる独特の指導法が案出されるなど、児童中心主義の立場から教育方法の自由主義化か大胆におしすすめられた。
大正九年九月、全国付属小学校主事会議における手塚の発足が「器械的を改めた新しい自由教育、生徒自ら習い自ら学ぶ」と大々的に報道されたあたりから、この自由教育の実践は全国的にも注目を集めるようになり、付属小学校が毎年公開する自由教育研究会は盛況をきわめ、平常の学校参観者も毎日のように全国からおとずれた。 |

自由教育
千葉師範付属小学校における授業風景。
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付属小学校の教師たちによる県内外の出張講習や研究会がしばしば行なわれ、大正一二年創刊された機関誌『自由教育』(白楊会刊)も県内はもとより全国に普及し、秋田県などには白楊会支部ができた。
たとえば大正一三年六月一四〜一六日、農繁休暇を利用して開催された第五回自由教育研究会には、一四〇〇名もの会員が集まった。
府県別にみると県内が七六五名、関東地方は神奈川一六一、群馬七一など計三四三名、東北地方は秋田五五、青森二五など計一三七名、中部地方は山梨五四、静岡四〇など計一四三名、関西方面は八名であり、圧倒的に中部以東の参加者が多い。
公開授業や実践報告のほか、武徳殿での講演会には自由教育の理論的後見人とあおがれた篠原助市(東北大学教授)をはじめ、手塚主事の講演、さらに石丸梧平の「創作の精神と自由教育」と題する講演もあり、会場の大広間は立錐の余地がなかったという。
雑誌『自由教育』には毎号「全国自由教育視察者旅館」として近くの万菊・時田屋・牧野屋・油屋(いずれも市場町)の四旅館が紹介されている。
このように千葉の付属小学校は、大正期新教育運動の一方の雄として、西の奈良女子高等師範学校付属小学校に対し、東日本における教育改造のメッ力となり、亥鼻台に響く教育改造節の歌声は天下を圧するかの風があった。
五ットセー 猪の鼻台から鐘がなる、自我に醒めよと鐘、がなる、ソレ改造ダネー
六ットセー 無理をしないで伸び伸びと、児童本位の自由主義、ソレ改造ダネー
千葉市域内では千葉小学校第四部(登戸)・都・都賀・更科などの小学校で自由教育講習介が開かれている。
大正一三年には千葉郡内の小学校二四校、教員三七八名であったが、『自由教育』の購読者数は三月に三三一名、九月に三九七名であり、少なくとも千葉郡教員のほとんどは購読者であったとみられる。
他郡の場合は高くても教員数の三〇パーセント前後であるから、千葉郡の比率はとび抜けて高い(『千葉県教育百年史』第二巻)。
購読者のなかには前出の法学士長戸路政司(のち名誉市民)の名があり、その談話「私の経営する中等学校の自由教育」も『自由教育』誌上に載せられている。
長戸路は大正一五年には天神台で自由幼稚園を開設している。
手塚の著書(おそらく『自由教育真義』)を読んで「二人の子供を自由教育の恵に浴させたいばっかしに」東京から千葉へ転居した母親からの家庭学芸会の報告、「自由教育に待つ」との陸軍中将仙波太郎の画一詰込主義批判談話なども誌上にみられる。
当時の千葉中学校長は全国中等教育界の重鎮西村房太郎であり(大正九年から昭和七年まで在任)、戦前千葉中学校の歴史に一時代を画したとされるがこの西村も実は自由教育を支持していたという(元付属小学校訓導香取良範先生談話=三浦聞取り)。
これらにみるように、この頃には、軍郷千葉にも小市民的、都会風なある種の自由気分といったような雰囲気があって、それが付属小学校の自由教育のひとつの支持基盤となってしたのであろう。
教育界と教育会館
千葉教育会は明治一二(一八七九)年に設立され、県下教育の推進者の役割りをはたしてきた。
その事務所ははじめ千葉師範学校の一隅を借用していたが、同二三年一二月、書店立真舎に事務所を置いた。
しかし事業を強力に推進するためには、その拠点として、専用の建物の必要がかねてから感じられていた。
そこで明治二五年五月には、千葉町通町一二八四番地の借家に移り、付属書籍館を設けて六月に開館した。
これがのちの県立図書館の前身である。
しかし会の事業の拡張、書籍館の設置など、とても一借家内で処理できるものではなかった。
明治二五年一一月、臨時総会で新たに事務所兼付属書籍館の設置を決議した教育会は、千葉町字猪ノ鼻下の旧信之館跡地借用の許可を得、一二月に着工、翌二六年三月竣工、移転した。
『千葉繁昌記』(松風散史本)によれば、「猪鼻台の麓旧信之館の跡、遠く内海の煙波を門外に眺め、近く千葉の全街を眼下に瞰ひ、一棟瀟洒挺然として塵外に聳ゆるもの、是を千葉教育会事務所及同会付属千葉書籍館の建物とす」とあり、きわめて環境にめぐまれた地に建てられていた。
しかし教育会にとってこの地も安住の地ではなかった。
師範学校が県庁裏都川河畔からここに移転新築することになったからである。
そこで今度は亥鼻台上の官有地の払いさげをうけ、明治二九年四月三〇日に起工し、七月二八日に竣工した。
その後、千葉教育会は、明治三五年千葉県教育会となり、同四二年には図書館を市場町の旧物産陳列館へ移し、事務所も長洲町に一時移転、さらに旧物産陳列館に移るなど転々とした。
やがて大正二(一九一三)年末に、現在の教育会館敷地(中央四丁目。当時吾妻町)を県から借用し、事務所を新築した。
昭和三(一九二八)年、天皇即位御大典記念事業として、県教育会館の新築が計画された。
昭和三年一一月に出されたパンフレッ卜「御大典記念千葉県教育会館建設趣旨」(『千葉県教育会館史』第二巻)によれば、会館の使命として「教育者修養研鑚の中心機関、教育振興の策源地として、社会教育の中心として」など一〇項目があげられ、建築費は会員教員の醵出金と寄付金、それにその他の寄付金によることになっていた。
醵金の方法は、小学校教員等は毎月月給の一〇〇分の一を三年間、中学校在職者は別に協定するとのことであった。
昭和四年一二月、地鎮祭の後、翌五年三月末から工事を開始し、一一月一六日、落成式が新装なった教育会館大講堂で行なわれ、以後現在の建物に改築されるまで、集会・演劇など千葉市民に多く利用されてきた。
当初予定した二階建ては三階建てとなり、建坪二三一・三二坪、総坪数五九八・三六四坪であり、大講堂の定員は七二二人であった。
県立図書館の建設
一方、教育会図書館の方は、蔵書は寄贈・寄託されたものと、寄付金で購入したものとで、明治二七(一八七四)年には、和書三三二六冊、洋書一五五三冊を備え、一日平均三・三人の閲覧者があった。明治三八年度には県費から一〇〇円の補助があり、以後順次増額された。
明治四〇年、石原知事は、通俗巡回文庫を創設し、県民に読書の趣味を喚起し、「学のかたわら書冊に親しむ」習慣を植えつけようとした。
同四二年、有吉知事は一〇〇〇円の予算をつけてこの事業を県教育会へ委託した。 この頃になると、教育会図書館の利用者も一日平均二五人程度まで増えてきていた。
大正四(一九一五)年六月、「通俗教育ヲ普及スルニ最モ有効ニシテ適切ナル施設方法如何」という県の諮問に対し、県教育会は、通俗講演会の開催と通俗図書館・巡回文庫の設置を答申し、県立図書館設立の議論が活発になってきた。 |

千葉県図書館の児童閲覧室
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大正一一年、千葉県議会は知事に対し、皇太子御成婚記念事業として県立図書館を設立するよう意見書を提出した。また山川健教育課長も記念事業としては図書館設立がもっとも適切であるという趣意書を知事に提出した。
このような気運の高まりの結果、ようやく大正一三年九月、臨時県議会で予算案が可決され、もうひとつの事業としての県営模範林の造成と共に、図書館設立の事業がスタートした。さっそく旧物産陳列館の一部を仮館として、県教育会図書館をそのまま県立図書館として開館することとなった。
しかし記念事業としての図書館新築までには、まだ長い曲折を経なければならなかった。
関東大震災と、それに続く昭和初年経済混乱による不景気に加えて、たび重なる知事の交代、県営鉄道多古線問題などにブレーキをかけられ、林芙美子が『愛情』の中で「船の形をした」と形容した図書館の完成(市場町)は、一〇年後の昭和九(一九三四)年まで待たなければならなかった。
落成時に配られたパンフレッ卜によると、“近世国際式”鉄筋コンクリート造り二階建てで、延坪数五二六・九〇四坪(約一七四○平方メートル)であった。
渡辺仁工務店の設計により大林組が施工し、昭和八年一〇月起工、翌九年六月三〇日竣工、工費一〇万五〇〇〇円であった。
九月一〇日に引越しをし、一一月一〇日に開館した。
モダーンな図書館としての物めずらしさも手伝って、小中学生をはじめ一日五〇〇〜六〇〇人もの人々が入館する盛況であり、すべて目録による閉架式だったため、図書の出納係は疲労困憊のていであった。
一二月一〇日に落成式を行ない、千葉市の児童生徒三〇〇〇人の旗行列が行なわれ、夜には四方からの照明によって、千葉市の一角に美しい姿を浮かびあがらせてした。
市民の祭りと年中行事
明治から大正へ、そして昭和へと、時代の推移は千葉市民の日常生活に数多くの利便と共に忙しさをもたらし、生活のリズムに多くの変化を生じてきた。
大正・昭和初期の月々の縁日をみてみると、一日と巳(み)の日には片町(港町)の厳島神社に縁日が開かれ、漁業関係者や花柳界の人々の参詣者が多かった。
一〇日は本町通の十日市または金刀比羅市、二〇日には吾妻町通の二十日市、二二日には千葉神社境内の妙見市が開かれていた。 さらに二七日と二八日は吾妻町不動尊(光明寺)の縁日で、不動尊市が吾妻町で開かれ、多数の商人の呼び声が市民の財布のひもをゆるめた。
同しころの年中行事をみると、一月は元旦に行なわれる官民有志の名刺交換会に始まり、千葉神社境内の初琴比羅、吾妻町不動尊の初不動や翕軍隊への入営、二月には稲荷神社(今井町)や坂東稲荷(吾妻町)の初午に多くの人をがり出している。 |

千葉神社の祭礼 昭和初期。
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三月は千葉医大をはじめ各学校の卒業式、四月になると千葉寺・亥鼻山・大巌寺・坂尾の栄福寺へと花見の人々が集まる。三月中旬になれば稲毛海岸をけじめとして}帯の海岸で潮干狩がはじまる。
四月二九日から五月一日までは、千葉招魂祭が千葉神社の境内で行なわれ、多くの人々の参拝があり、様々な催しが行なわれた。
七月には横町(中央一丁目の一部)の八坂神社祭礼に人が出、一五日になると稲毛の浅間神社の祭礼が盛大に行なわれる。
この日は七歳以下の子どもは必ず参拝する風習があり、参詣客の雑踏は神社を中心に数百メートルにもおよび、一帯は露店商が並んで、うちわ・キリギリス・風鈴・桃などの売り声で夏の風物詩がかもし出される。
臨時列車も運転され、神社に近い京成電車はすしずめの満員となった。
この頃から海岸には海水浴の人々が水にたわむれ、八月になると一六日から二二目までの千葉神社祭礼が夏の最高潮で、千葉っ子の意気があがったものである。
千葉の“だらだら祭り”として知られるこの祭礼は市民の夏の最後の行事であった。
まつりが終わるとようやく夏に終わりをつけ、涼風が吹くようになる。
“だらだら祭り”と呼ばれるようになったのは明治後期からで、本来は“太鼓祭り”とか“裸まつり”として知られていた。
第二次大戦を境にして現在ではだいぶ様子が変ってしまったが、大正から昭和中期にかけては盛大なものであった。
まつりは前日の八月一五日の夜、神輿(みこし)に御魂(みたま)移しの行事があり、一六日午後一時、御鉾(ほこ)・太鼓・神輿の順に列を組み、横町・南北道場・通町・新町(現在の富士見)・吾妻町を渡御し、市場町の御仮屋(おかりや)に入る。
二〇日に「お浜下り」の行事が行なわれ、神輿が寒川町の若者によって寒川町内を渡御(とぎょ)し、さらに海中をねり歩き、上陸するとまっすぐ御仮屋へ帰る。
最後の二二日には神輿は御仮屋から市場町、本町を渡御し、院内町を一巡し、本社へ還御するのである。
神輿が山門から還御するのは夜中の一一時か一二時頃であるが、時には午前二時になることもある。
還御の際、山門前では門前の若者と神輿方の当番の間で神輿を山門に入れる入れないで押し合い、最後に神輿方が門前方へ懇願し、談合によって通すという行事があり、山門前での若者のぶっかりあう姿は祭りの最後の行事として壮観そのものであった。
千葉神社の祭礼には近郷近在からも多くの人々が集まり、家々の軒先には御神灯をつるし、大和橋から御仮屋までの道の両側に夜店も出てひじょうに賑やかな祭りであった。
千葉神社の祭りが終ると秋風が立ち、九月五日は登渡神社(登戸)の祭礼、歩兵学校の学生交替があり、一○月には本円寺・本敬寺(いずれも本町)のお会式が行なわれ、一一月になると鉄道連隊の創立記念日に続いて除隊式が行なわれた。
一二月に千葉神社の納め琴比羅(ことひら)、年の瀬も迫った二五日になると市場町から本町にかけて歳の市が開かれ、威勢のいい売り声が人々の気をそそって一年が終った。
市民の行楽
現在の千葉市の海岸の状態からは想像もできないが、大正〜昭和期には、寒川の船溜(ふなだま)りのあたりが一部埋立地となっていただけで、幕張町から生浜(おいはま)村までの海岸のほとんどは、文字どおり白砂青松の浜辺であった。
大体現在の通称千葉街道と国道一六号線の線が当時の海岸線だったから、海は千葉市民にとってずっと身近な存在だったのである。
一方、しまは住宅や工場用地として開発されてしまった丘陵や台地上はまだ未開発のままで、山林原野がひろがり、池や沼が点在してした。
まさにこの時期の千葉市域は、開発に汚されない自然に満ちており、温暖な気候とあいまって、市民の日常生活の慰安・いこいの場となっていたとしえよう。
千葉市域には、古くからおそらく近江八景などにならって、千葉八景が数えられていた。江戸時代の文久年間(一八六一〜六四年)に書かれたものに千葉八景の俳句が残されているが、これは大正から昭和にかけての八景と少々ちがっているが、ともあれこれら八景は、千葉市民の自然に親しむ心のあらわれであった。
さて、その千葉八景とは、「猪鼻の秋月」「千葉寺の晩鐘」「大橋(寒川大橋)の晴嵐」「羽衣松(県庁横)の夜雨」「袖ケ浦(寒川海岸)の帰帆」「東台(弁天町)の暮雪」「鮒田(青葉町の舟田池)の落雁」「登戸の夕照」の八つである。
幕張から生浜までの海岸一帯は、遠浅でおだやかな海浜だったので、古くから貝類の養殖が行なわれていた。
総武線が便利にたり、京成電車が開通すると、ここに東京方面からの行楽客が来るようになり、潮干狩・海水浴が年と共に盛んになってきた。
四月中旬から潮干狩のシーズンに入り、七月一〇日は“浜開き”で、海水浴が始まった。
人出の多レシーズンには、千葉郵便局が季節電話を設け、浜辺には丸太を組んだヤグラの上に納涼台がずらりと並んだものである。
千葉海岸にあった納涼台“龍宮”は、海上ヘ一三〇メートルもの棧橋をかけ、広さ一〇〇〇平方メートルもあった。
海水浴客は、大正期には一日数百人程度だったものが、昭和期に入ると日曜日には一万人、普通の日でも三〇〇〇人に達し、総武線や海岸に近い京成電車の駅から浜辺まで、人波が切れ目なくつづいた。 |

出洲海岸の海水浴場 昭和3年頃。
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稲毛海岸では、海岸から岡道をへだてた台地上の旅館が宿泊の客で賑わい、数々の文学作品の舞台となった。
都川にかかる大橋のあたりには、川沿いに釣具店・貸船屋が並んでいた。ここから船でシロギス・ハゼ・スミイカ釣りに出かけるのも市民の大きな楽しみであった。
浅瀬に高い脚立を立て、アオギス釣りを楽しむ風景もよくみられたが、今では姿を消してしまった夏の風物詩のひとこまである。

千葉開府800年祭 本千葉駅前の歓迎アーチ。
千葉開府八百年祭
「五万の市民をあげて待ちこがれた、慶びに踊る千葉開府八百年の祭は、いよいよ今日一日午前九時から、千葉神社の神前奉告祭により、五日間の祝賀のふたはあけられる」(『東京朝日新聞』)。 |

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大正一五(一九二六)年六月一日、千葉開府八百年祭の幕があがった。
大治元(一二一六)年六月一日、千葉常重が亥鼻台に城を築き、大椎城から移ってから八〇〇年を祝しての大イベントであった。
懸案の市制が布かれ、千葉県の首都として発展し、さらに市勢の発展を願っての一大デモンストレーションでもあった。
記念祭の実行に当り八百年祭協賛会が結成され、市民から一万二〇〇八円五〇銭、市外から五四五〇円の寄付が集まった。
協賛会主催行事と、おもな協賛行事は右上の表のとおりである。
史劇は記念祭を有意義なものにし、市民に千葉の昔を知らせようと、千葉氏に関する資料を岡本綺堂(『半七捕物帖』などで知られた劇作家)に提供し、脚色を依頼したもので、「千葉笑い」「出陣」の二作を上演した。 千葉駅・本千葉駅前にはアーチがつくられ、市内各戸には国旗が掲げられ、下志津飛行学校の飛行機が上空で高等飛行をみせ、旗行列や提灯行列もくりひろげられ、千葉市内は大混雑であった。
祭りの五日間は、千葉駅で二万五八四六人、本千葉駅で一万五五〇七人の乗客を数え、当時の平均乗客数にくらべてそれぞれ一万一〇〇〇人、五〇〇〇人も多く、列車の増結も行なわれた。
まさに千葉市あげての一大ベージェンとであった。
生活と人権を守る
大正から昭和に入って経済不況はいっそう深刻となり、千葉市やその周辺でも様々な社会運動が起ってきた。
昭和二(一九二七)年には川野辺(都村。現在は若松町の一部)で小作人組合かつくられ、地主に対し小作料の削減を要求する動きがあり、日農千葉県連や労農党の応援を得て、一〇名ほどの草野農民党が結成された。
昭和三年に全農千葉県連に所属した支部には、千城(ちしろ)支部・都賀(つが)支部・都支部がみられる。
この時、更科村でも支部結成の動きが始まっていた。
昭和二年千城村で地主二名が支部員七名の小作料を六円から八円に値上げしたところ、組合側は小作料滞納、立木切倒し、地主・村長や小作官への女性を含む一五〇名のデモなどで対抗、たった二円四〇銭にまけさせてしまったと報ぜられた。またこの千城支部は全農県連の大会で、家屋税・荷愀税などの悪税改廃のため農民大会など大衆的闘争をまき起こす必要が提案され、可決されている。
昭和四年に犢橋(こてはし)村では、小作地取上げ、立入り禁止の挙に出た地主に対し、都賀・犢橋支部の大衆動員や法廷闘争で戦い、小作人の耕作権を確立している。
農村部のみならず都市部においても、生活防衛的な闘争がくりひろげられた。電灯料値下げ運動などもそのひとつといえよう。
大正末期に、松戸・船橋などから始まり、千葉市にも及んだこの運動は、県当局の介入もあって一時おさまったが、昭和七年に再燃した。
千葉市の一般需要者が電灯料値下期成同盟を結成し、委員四〇名を選出、戸別訪問による署名運動、料金の同盟不納、文書による世論喚起などの多様な手段に訴え、民政党・社民党・労大党の党員参加などもみて、ついに東京電灯千葉支社に要求の一部を認めさせた。
このほか時代はややさがる、が、昭和二年春、活動写真館羽衣館で映画説明者一名が解雇されたのに端を発して、従業員五名が全日映本部の応援を受け経営者にその復職を要求する争議が起きている。
同年夏には神明町の一製氷所従業員が、全日本製氷従業員組合に加盟して、退職手当その他の待遇改善について要求書を提出し、ストライキに入った記録がある(思想月報)。
学生たちの動きも活発となった。
昭和六年正月『房総日日新聞』は「千葉を根城とする共産党の発覚、医大学生以下五〇名を大検挙」と報じた。
千葉医大生か京成電鉄・国鉄機関庫の職員らと共に不穏文書を配布し、京成などに労働組合結成を企てた、という事件であった。
ついで昭和八年にも「千葉医大の共青細胞、疾風的に検挙」という事件が引き起こされた。
同年六月九日県特高課長の陣頭指揮の下にアジトを急襲して、まず一学生を検挙し「千葉署に引致(いんち)峻厳なる取調」べを行ない、これを手がかりにさらに検挙を拡大し、七月に副手を含む計二四名の書類が千葉検事局に送られた。
彼らは各クラスごとにキャップをきめ、毎週一回千葉市の飲食店で代表者会議を開き、機関紙『赤旗』の配布などに従事していたという。
日共中央部や日本共産青年同盟との連絡などには、省線パスを数枚買って共通に使用し、各人がペンネームをもち、集会所や集会時間を示すのに暗号を用いていたとも報ぜられた。
彼らが“軍郷千葉”にあって「軍隊の赤化に全勢力を注」いだことは、とくに注目されなければならないだろう。
千葉市では発覚しやすいというので、四街道の軍隊に働きかけることにし、日躍ごとに外出兵に話しかけてはそれとなく下宿に連れこんで扇動・宣伝を行なったのだという(社会運動通信)。
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