若島 正:盤上のフロンティア

作成日:2020-03-08
最終更新日:

概要

盤上のファンタジアからさらに未踏の領域へと突入した若島氏の詰将棋。

感想

私は1手詰でも考えてしまうような耄碌じいさんだから、若島氏の問題はもっぱら眺めるだけである。 短手数の問題はこれから解答を見ずに考えられるようにしたいと思う。

p.218 に<打歩詰回避の目的で、遠打してからそのラインに駒をはさんで遮断するのは、『図巧』にもある。> と書かれている。そのあとで有名なブルータス手筋の作例があるが、なぜ、図巧にすでにある手筋が、 ブルータス手筋と呼ばれるようになったのかを考えてみたいと思い、『図巧』を見てみた。 ほっと氏の詰工房の課題について (tsumenote.blog.fc2.com)の、ブルータス手筋の解説では <ブルータス手筋の1号局としては、看寿の将棋図巧49番か91番あたりが有力。>とある。 ここで将棋図巧 49 番と 91 番を知りたいと思い、 第 49 番に関しては、http://park6.wakwak.com/~k-oohasi/shougi/html/zukou/zukou05.html を、 第 91 番に関しては、http://park6.wakwak.com/~k-oohasi/shougi/html/zukou/zukou10.html を、 それぞれ参照した。 第 91 番は、13 手目で9筋に打った角を、15 手目の8筋の歩突ですぐさま利きを止めるという作り方で、 これは確かにこの手筋であろう。 第 49 番は、7 手目に打った遠打の角を、23 手目の香成によって利きを止めている。 これもブルータス手筋であるといえる。 ではなぜ、このブルータス手筋という名前が名付けられたのか。この名前がつけられたのは、 その作例となった栗原寿郎氏の作品(初出 詰将棋パラダイス1952.2)の、その鮮やかさだと思う。 栗原氏の作品は、初手に1一に遠打した飛車の横方向への利きを、 3手目に9八の角を2一に成ることによってすぐさま遮断するという素早さと駒の移動距離の長さによるものだろう。 当時の解答者も看寿の作品は当然知っていたはずだが、栗原氏の作意のダイナミックさには気づかなかったのだろう。

詰将棋の側面

本書の第 85 番の解説で、自作を<純粋なパズルとしての詰将棋。>(p.197 下段) と解説している。また、p.211 では、第 90 番の解説の末尾に、 <命名の「ルービック・キューブ」は(中略)純粋なパズルとしての詰将棋を標榜するものでもある。> という一文がある。詰将棋にはいろいろな側面があって、その側面の一つに「純粋なパズル」があるのだろう。 他の側面にどういうものがあるのか、詰将棋に疎い私にはなかなかわからないのだが、 たとえば<特にテーマをもたない、手の流れを楽しんでもらえるような作品>(p.115 上段)があるのだと思う。 まったくどうでもいいことだが、<純粋なパズルとしての詰将棋>は偶然俳句または偶然川柳、 つまり偶然575になっている。

作品の定義

著者はあとがきで<詰将棋は自由である。(中略)だから、わたしは「詰将棋はかくあるべし」と思い込み、 「これは詰将棋ではない」と決めつけるような態度をとらない。>と表明している。 では、本書の作品解説で散見される「……作品になった」とか「……詰将棋になった」とはどういうことだろうか。 私は最初、表明と解説が乖離しているのではないかと思った。しかし、この表明のあとすぐに、 次の表明が続く:<あくまでも、わたし個人の趣味や現在の関心に従って作品を作りつづけているだけのことであり、 他人が作るどんな作品も詰将棋だと思っている。>だから、自作解説の「……作品になった」とか「……詰将棋になった」とかは、 あくまで若島氏自身の趣味や関心を基準としているだけの話なのだろう。

なお、「……作品になった」という自作に対する表現は、 おそらく上田吉一氏の「極光21」における上田氏の自作解説に影響を受けたのではないか。

「ソッポ」と「遠ざかり」

本書の第67番の解説で、☗4六馬という詰め方の指し手について、カッコ書きで、 これを業界用語では「ソッポ」と呼ぶが、語感が好きではないので、ここでは「遠ざかり」 と呼ぶことにする と説明している。本書では第43番の解説でも、p.125 で、 ☗3六玉と遠ざかるのが正解になると説明しているので、本書では「遠ざかり」または 「遠ざかる」が一貫して使われている。

さて、他の若島氏の書籍ではどうだろうか。 「詳解詰将棋解答選手権 初級・一般戦」では、 p.44 で「☗2五龍とソッポに行くのが」という表現をどちらも使っている。遠ざかる(遠ざかり) もあったような気がするが、見つけられていない。 「詳解詰将棋解答選手権 チャンピオン戦」では、遠ざかり、ソッポとも使われていない。 これらより少し前に刊行された「盤上のファンタジア」では詰将棋界から「ソッポと評される」 という言い方のみがある。
さらに前に刊行された「華麗な詰将棋 盤上のラビリンス」では p.82 で「2八銀とソッポに開いて詰む」、 p.186 では「3手目4三龍とソッポに入ったときの受けが問題」と2個所でソッポを使っている。 一方で、p.250 では「3手目には5四馬と遠ざかっておくのが好手。」と遠ざかりを使っている。 このころはあまりソッポの語感を意識していなかったということだろうか。

私自身はソッポというと「ソッポを向く」 のように対象から外れていることを表すと思っているので、詰将棋に転用されて使われるのは違和感がある。 というのも詰将棋のソッポは結果的に玉方の王将を詰めることを目的としているので、 ソッポを向く対象には思えないからだ。しかし、自分の中では「ソッポ」ということばを使うことで、 一見攻方が非効率に思える駒の遠ざけ方が実は詰めに寄与することがある、 ということで、自分が詰将棋を解くときのおまじないとして役に立つのだ。そのときには、 「ソッポ」という強烈な語感が「遠ざかり」より効く。

献辞について

本書 p.161 で、第 63 番について<この作品は、敬愛する先達だった、巨椋鴻之介さんに捧げられる。> という献辞がある。また、本書 p.228 で、第 97 番について<そういうわけで、 本局はいつも刺激をいただいている、偉大な先達である山田修司さんに捧げられる。>という献辞がある。 この<捧げられる>という、<られる>はいったいどういう意味だろうと悩んでしまった。 私が音楽関係でいつも目にしているのは、<〇〇氏に捧げる>だったり、<〇〇氏に捧ぐ>だったりで、 <〇〇氏に捧げられる>という形は初めて知った。ない知恵を絞った結果、この<られる>は自発の<れる・られる> だろうと推測した。

若島正の本

書誌情報

書 名盤上のフロンティア
著 者若島 正
発行日2019 年 6 月 30 日(初版発行)
発行元河出書房新社
定 価2500円(本体)
サイズ254 ページ
ISBN978-4-309-29029-4
その他2020年2月25日 旭屋書店新越谷店にて購入

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MARUYAMA Satosi