ハルプライヒ論文-ヴァイオリンソナタ第2番ホ短調 Op.108 |
作成日:2011-05-03 最終更新日: |
ふたたび10年の歳月が流れる。フォーレは反主流派的な SMIを主宰しながら,学上院に席を占める。 指導上の重い責任と, 加うるに年令から来る疲れとたえず悪化する硬化症が, 創作のリズムをいくぶん減じたように思われる。 しかしそれは見かけ上のことにすぎない。この10年間に 完成された新しい作品の数は実際に少ないけれども, そのなかには,フォーレの高貴な生涯のなかでももっとも重要な作品, 6年間(1907-1913)も苦心して作り上げた<ペーネロペイア(ペネロープ)> が含まれているのである。 ピアノ曲の作品目録には,重要な曲が加えられた- 新しい4曲の〈ノクターン〉(第6番から第12番まで), 6曲の<パルカロール>(第7曲から第12冊まで), 3曲の最後の<即興曲>(第4曲から第6曲まで), そして<ペーネロペイア>の陰にかくれてひそかに作り出された, 彼のもっとも高い,しかしもっとも忘れ去られた作品のひとつである 9曲からなる<前奏曲集>(1910-1911). 1910には素晴らしい歌曲集〈イヴの歌〉が生まれたが, 1915年に着手された <閉ざされた庭>は3年後にやっと完成している。 孤独な, だが晴れやかで絶えず高まりつづける道を歩みながら, 年老いた巨匠は,進行中の音楽の改革の動きから次第に離れて行く。 音楽の歴史のなかでももっとも驚嘆すべき, この数年間の出来事も,彼にはまったく影響していないように思われる。 -<春の祭典>の衝撃にしろ, シェーンベルクの無調的な革新にしても……。 しかしながら,前衛的な批評家は, フォーレの後期の作品のもつ<ヴォツェック>の, <結婚>の,ヴェーベルンの歌曲の, そしてヴァレーズの時代に逆行するような点だけを, あきらかに強調しすぎている。 それにフォーレは,繰返しや回顧に陥ることなく, 自らに課した狭い道を大胆に前進し, 調性的な語法にもっとも単純な音の集まりの意味すらも変えてしまうような, 疑うぺくもない無数の可能性を見出したのである。 彼の楽譜の外観は以前よりもさらに簡潔に控え目に,そして「興味を 唆らない」ものになっている。しかし微細な転調, アクセントのごく小さな動き, 旋律のほんの少しの屈折が以前よりもはるかに重い, 計り知れぬ意味を帯びているのである。 歌曲集<蜃気楼>に触れて, フォーレの後期の作品の本質を完璧な文章で定義しているエミール・ ヴィエルモーズからまた引用しなければならない。
「このパラドクシカルな魅力を理解するためには, 多くの場合, 単純な三声ないし四声部で書かれた, 慎しい和音の巡りを詳細に検討しなければならない。 この書法は,きわめて巧妙な書法である。 ほのめかし,接近,見せかけ,大胆な触れ合い,機智に術んだ転換, 見せかけだけの消滅, 暖昧さと隠蔽などから構成される。 期待した音は現れない-巧妙な掛留がいたずらっぽくその音の隠れ場を示す。 その音を捕えたと思う途端, 解決されないアッジャトゥーラがそれを別の和声的方向に連れ去ってしまう。 和声はとまどうほど簡単に変化する。 それぞれが必然性をもった見事な不協和音に満ちて, 和音はまるでカメレオンのように色彩を変える。 そしてこの巧妙な戯れを支配するのは,自在さであり, 模倣不可能な論理-これがあの戯れを高貴なものにしているのだ-である。 なぜならこの魔術的な書法のために思考は犠牲にされてはいないからだ。」
この書法はいつも表現に仕えており, 表現がなければ書法もありえないということ, そしてこの表現は, その手段が単純で控えめであるだけにいっそう驚くべき強さを獲得しているということをつけ加えておこう。 この簡潔さについて論じながら, ヴィエルモーズはそれを年齢に帰そうとして, 「老人は青年よりも小さな歩調で歩くものだ」と説明している。 だがそれはともかくとして,老いたフォーレは歩み はしない,彼は飛ぶ,飛び回るのだ。 そしていま検討しようとしているこの素晴らしい<ホ短調ソナタ>において, 彼はいつもよりさらに心を昂ぶらせるほどに高く飛翔しているのだ。
後期のあらゆる作品でさらに心をうつのは,その発想のパラドクシカルな若さである。もっとも快い新鮮さが,もっとも純粋で熱烈な,そしてときには悲劇的な嘆きを伴った感情の激発が,そして老いさらばえた肉体と健全でいまなお求めてやまない心の間の葛藤から生ずる悲愴な想いが,つねにそこにみられる。 サンーサーンスは次のように断言する。 「ガブリエル・フォーレは年をとらないし,これからもけっしてとらないだろう」。 この言葉とピエール・ラロが<ル・タン>紙上でこのソナタとその双子の姉妹というべき 《チェロ・ソナタ》 作品109に捧げた熱狂的な批評とを結びつけて考えることが出来るだろう。 「フォーレ氏がこれほどに精妙な作品を作ったことはなかった。 これほどに優雅で,いきいきとした発想をもった, しなやかな,ほとばしり出るような,新鮮さと若さをもった作品を氏はこれまでに作っていない。 クープランやラモーが自分の作品の特徴を説明するために作品に標題をつけていた時代に私たちがなおいるとすれば, この二つの作品の名曲は簡単に見つかるだろう。 それは<青春の泉>と呼ばれるだろう。」 フォーレの後期の作品は-そのなかで室内楽は重要な位置を占める(最後の13曲中6曲)-, フィリップ・フォーレ=フレミエの強調するところによれば, 「おどろくほど自由自在に,そして《五重奏曲第1番》や《ペーネロペイア》 の第2幕のあの苦しみをまったく忘れさせてしまうほどやすやすと作られたのである。
1916年8月,フォーレはエヴィアンにおもむき早くも16日には姿に次のような便りをよせている,「私はおちついて仕事をしているが,二番目のソナタが出来るはずだ。少くともそうするつもりでいる。」9月24日には,次のように告げることが出来た,「きのう私はソナタの第1楽章を完成した。 フィナーレも半分以上はかどっている。」エヴィアンではスケッチが作られただけのアンダンテは,1916年から17年の冬にパリで完成された。 エヴィアンを去るまえの9月29日にフォーレはこのソナタをベルギーのエリザベト女王に献呈するつもりであるといい,次のようにつけ加えている,「女王はヴァイオリニストだし,あの方が私の作品に示されている共感はお前も知っているだろう」。
<イ長調ソナタ>より40年もあとに作られながら,この<ホ短調ソナタ>はまるで奇跡のように同じような若々しい飛躍を見出しているが,しかもその力と深さははるかに増大しているのである。 これはフォーレのもっとも成功した作品のひとつであり,彼の室内楽曲のなかでこの曲に第一の栄誉を与えるべきか,あるいはその栄誉は<五重奏曲第2番>に与えられるべきかが,長いあいだ論議されることになるのである。 いずれの場合にも,フィナーレはほかの楽章と完全に同じ高さをもち,むしろこのソナタの場合には作品の頂点を形作ってさえいるのである。
〔第1楽章〕アレグロ・ノン・トロッポ(8分の9拍子,
ホ短調)。
まず全休的にいえば,
シンコペーションと繰り返される音価(8分音符-4分音符-8分音符-8分音符-4分音符-4分音符)による,
ピアノの低音部に示されるリズムが,
この楽章に男らしい勢いを与えている(譜例31a)。
そしてその全体的な雰囲気は,崇高な激情,
情熱的な誇り,
激烈な情熱といったものであり,
この誇り高い天才をともすれば閉じこめようとする柔弱なサロンとはまったく対立的なものである。
やがて,
上昇する3度の反復によって転調が行われ,
フォーレ特有の暖昧なエンハーモニーをもった重要な旋律的主題がヴァイオリンで現れる(譜例31b)。
ヴァイオリンは,
ピアノのうねりのうえを自由に晴れやかに飛びまわる。
鉄の筋肉をもった白いすっきりとしたカモメであり,
海ツバメである。
波のさけ目に,
鳥の声のエコーによる模倣が,
泡の縁どりのように姿を現す。
荒々しい,
だが健やかな一陣の風が雲を払い,
陽光が照らし出すこの風景以上に素晴らしい海景の音楽がほかにあるだろうか。
本当の第2主題(譜例32)は,
ト長調で,ずっとおだやかなものであるが,
ピアノのシンコペートされたリズム(8分音符-4分断符)に支えられる。
そしてこのリズムは曲全体の統一を強めている。
目頭のあのどうどうとしたリズムが展開部のきっかけを作る。
わずかな凪のあとで第2主題がホ長調で回帰するが,
力強いリズムがふたたび低音部を占め,その力を増して行く。
その間に8分の9拍子から8分の12拍子へ気づかぬうちに移行する,再現部(全体が8分の12拍子)が始まる。
再現部のあとには,
大きな末尾の展開部がつづく。
そしてその終りで最初のリズムが力強くホ短調で終結を与える。
形式的シェマ=呈示部,
1-56.展開部.57-146.再現部,
147-193.コーダ(末尾の展開部),
194-277.展開部はむしろ大きな対呈示部(contre-exposition)である(主題の順序が同一なのだ)。
〔第2楽章〕アンダンテ(4分の3拍子,イ長調)。
この楽章は,
部分的に1884年に作曲されて,
のちに破棄された交響曲から作られている。
交響曲の素材を純化させ,
作り変えているのである。
初めに主和音が力強く提示されたあとで,
フォーレは彼のもっとも優れた,
もっとも高貴な瞑想のひとつをさし示す。
その完全な透明さの故に忘れ去ってしまいがちな,
はかりしれぬ深さをもったこの瞑想は,
容易に到達しえぬ高い成熟のもつ,
あの安らぎ,調和,そして晴れやかで澄んだ黙想だけが存在する,
あの至福の場所へやすやすと私たちをもたらす。
モーツァルトやシューベルトも,
その生涯の終りに,
生の最後の体験が無垢の幼年期と結びついたかのような,
あの叡知に述することが出来たのだった。
第2小節からヴァイオリンが優しい旋律(譜例33)を,
微妙なエンハーモニーによる模糊たる雰囲気に支えられながら歌う。
そしてこの楽章全体は,
フォーレ特有の調性の不安定による新しい成果だといえるだろう。
この不安定は,しかしけっして不安を呼びおこすものではなく,
私たちを重い絆から解き放し,
17世紀のフォーレともいうべきあの古きフレスコパルデイの半音階的なリチェルカーレと同じような慈愛を放射するのだ。
ピアノによって繰返されたのち,
この主題は二つの楽器によるカノン風の対話の材料になる。もっと苦悩に満ちた第2楽想(譜例34)は,
後期のフォーレにきわめて頻繁に現われるあの3度上のアッポジャトゥーラや増4度をよりどころにしている。
そしてそれはつねに高きところへのいいがたい憧れ(「存在しないものへの欲求」)を意味するのである。
第1主題が,
以前よりももっと微妙に和声づけられてピアノで回帰する。
次いで第2主題が繰り返される。
最後にこの二つの楽想は,
末尾の大きなポリフォニー的な展開部(カノン,
模倣)において融合し合う。
この展開部はピアニストの左手の指によってひそかに滑りこんで来る〔譜例33〕の再現によって導かれている。
そして最後に,
静かな長いコーダの間,
ヴァイオリンは次第に低音域へ下降し,
イ長調の安らぎのうちに曲を終える。
形式的シェマ=A,
1-23.B,
24-26.A,
64-81.B,
82-93. A+B(末尾の展開部とコーダ),
94-129. .,
(第3楽章)フィナーレ=アレグロ・ノン・トロッポ(2分の2拍子,
ホ長調)このフィナーレの輝かしい喜悦は《五重奏曲第1番》のフィナーレのそれをなおう上まわるものであり,
その明るい透明性,
見事な対位法的緊張など,
すべてが働き合って,
このフィナーレ―あきらかにフォーレのフィナーレのなかでもっとも美しいものだ―をこの曲のなかの最高のものに作りあげている。
形式はかなり複雑で,
ソナタ形式とロンド形式の両方の性格をもっているが,
これはフォーレの後期の作品に次第に多くなって行く構造的なタイプに従ったものである。
ホ長調の明るさのなかで,
主要主題(譜例35)がシンコペーションのリズムで軽く揺れ動きながらヴァイオリンで優雅に奏される。
そしてこの動きのもつ確たる安らぎは,
粗野なものをまったく排除し去っている。
ロ長調の第2主題(譜例36)が躍り上がるような喜びの叫び声をあげる。
下づきのアッポジャトゥーラを従えた8度の飛躍は,
それが《ペーネロペイア》の崇高な人格を連想させる主題群に属していることを強調する。
しかしやがて〔譜例35〕のシンコペーションがピアノの伴奏のなかにふたたび現れ,
ついでヴァイオリンにはっきりと現れる。第三の主題がピアノに現れる。それは転調やエンハーモニーを伴っており,
相補う二つの要素(譜例37ab)をもっているが,
第二の要素の方が重要である。
三つの主題は変化した対呈示部ないし自由な展開部といった形で同じ順序で回帰する。
カノン風に扱われた第1主題の三度目の出現も,
再現部としての構造的・心理的意義を有する。
しかし第2主題の回帰のあとで,
第三の主題は再現されない。
それが置かれるべきだった場所には,
第2楽章の大きな循環的回想が.フィナーレの動きのなかに導入されて入りこむ。
しかしそれによってフィナーレの流れはいささかも乱れない。
そしてこの循環的回想は,
スコラ・カントルムの滞楽家たちには例をみないほど巧妙に行われているのである。
〔譜例31a〕のリズムがまずピアノの低音部で,
ついでヴァイオリンで告げられる。そしてその荒々しいシンコペーションはフィナーレの主題(譜例35)のおだやかなシンコペーションと自然に融合する。
ついで第1楽章の〔譜例32〕の主題がホ長調の穏やかな喜びのなかで奏される。
そして見事な結末が訪れる。
〔譜例36〕の冒頭と混り合った〔譜例35〕の最後の回帰―〔譜例36〕はやがてヴァイオリンでその全体が奏される-.そして〔譜例35〕にもとづく最後の進行。
〔譜例35〕はやがて消えて,
じつにどうどうたる栄光の雰囲気のなかで〔譜例36〕のみが曲を締めくくる。
なんという喜悦。
形式的シェマ=呈示部.1-75(主題1,
2,
3),
対呈示部または展開部,
76-167(主題1,
2,
3),
再現部,
168-191(主題1,
2)第1楽章の循環的回想,
192-228,末尾の展開部 (主題1と2).230-269.