ハルプライヒ論文-ピアノ五重奏曲第 1 番ニ短調 Op.89

作成日 : 2011-05-03
最終更新日 :

「フォーレの作品を分析するのは, 蝶の羽根を解剖するのと同じことだ」,

ベルナール・ガヴォティのいうとおりだ。初めから困難な企てだったが, 後期の傑作の壮麗な領域に入ったいま, 私たちの仕事は次第に困難さを増している。 そして 〈五重奏曲第1番〉は, いわばその価域への入口を形作っているのだ。 ところでこの素晴らしい曲は不幸せな星の下に生れた。 この星は曲の普及を妨げ, その運命を害っただけでなく, この曲の懐胎までも妨げたのである。

四重奏曲第2番〉は, さきに述べたように, 〈レクイエム〉(1887)の前に作曲された。 フォーレは続いて〈力リグラ〉や〈シャイロック〉のための舞台音楽で, 初めて劇場音楽に手を染めた。 同じころにフォーレは, 〈第3歌曲集〉という傑作に含まれるべき曲, なかでもヴェネーツィア旅行の結果生れた五曲の珠玉のような歌曲(1891)を作曲しつつあった。 同じ年に彼は〈ピアノ四重奏曲第3番〉に着手したが, この曲は作品60番として予告までされていた。 しかしこの曲は彼の作品目録のなかで欠番になっている。 新しい作品が, 以前の二曲の規模を超えて, 五重奏曲の編成を必要とすることに, フォーレはいち早く気づいたのである。 しかし第1楽章の呈示部を作曲したあとで (フィリップ・フォーレ=フレミエは父規の家でイザイがそれを演奏するのを聞いたことを記憶している) 作品を放棄し, 12年後になってやっとそれにふたたび着手している。 ところでこの12年間は, 彼の生涯のなかでももっとも多産な期間であり, 相次いで作られた傑作は, 成熟とたえず増大していく表現の深さを示している。 作品名をあげるだけで説明は無用だろう。 〈優しき歌〉(1892), 〈ノクターン第6番〉(1891), ピアノのための〈主題と変奏〉(1896), 〈ペレアスとメリザンド〉のため舞台音楽(1898), そして雄大な〈プロメーテウス〉(1899-1900)。 そしてフォーレが五重奏曲にふたたびとりかかった年には, 〈第3歌曲集〉が完成しているのである。

それは,すべての点において,彼の生涯におけるもっとも重大な運命的な年だった- 58才の彼が耳疾が重大な段階に達したのを初めて感じた年でもあった。 1903年の8月11日に,彼はローザンヌから妻にあてて次のような手紙を書いている。

「耳が少しでも良くなるという希望を抱いて,私は健康状態を良くするために出来るかぎりのことをした。 どれだけ音楽が私から逮ざかって行くことか,いつでもあらゆるものが私にそのことを確認させる。 そしてそのために私の悲しみは次第に大きくなって行くのだ。 ここ一年この方,この面での転落は,たしかに恐しいものだった。」

そして翌日の8月12日に,彼は次のように書きそえている,

「私にとって完全であることが不可欠なものに襲いかかったこの病気のために,私はうちひしがれてしまった。 ベートーヴェンのことを想い起すのは,失礼で無分別なことだ。 でも彼の生涯の後半部は長い不幸にほかならなかったのだ。 私がまったく聞いていない音楽が,響きが,多くあるのだ,私自身の,そして他の人の……。 けさ私は五線紙を机の上に置いた。 私は仕事をしようと思ったのだ。 私は両肩に惨めさと勇気をくじく恐しいマントがかぶさっているのしか感じない……。」

ところで,この五重奏曲のアダージョはこれからわずか2週後に手がけられているのだ。

ベートーヴェンの場合とはちがって,フォーレの聾は完全なものではなかった。 しかしある意味ではその方がもっと悪質であり,苦しみも大きかった。 耳疾の原因となり,その器官を次第に消粍させていく硬化症が,変形的な聾という形で聴覚範囲を狭めたのである。 低音は3度高く聞こえたし,高音は3度低く聞えるのだった。 中音域だけが,話し言葉と同様に,かすかではあったが正確に聞こえた。 こうした病気が,音色と和声の繊細さがその創造的想像力の基礎となっているような芸術家に怖しい苦悩となることは, 容易に想像できるだろう。 彼は晩年の20年間のもっとも高い価値をもち,もっとも革新的で,もっとも大胆な作品を聞くことができなかったのだ。 耳疾は,しかし,創造を中断させるには到らなかった。 むしろそれは,年令と結びついた論理的な展開であるかのように, 彼の考えにおいて優位を占めつつあったともいえる傾向(書法の簡潔化,中音域への集中) を促進させ強めたのである。

しかしながら,怖しい耳疾の徴候の下に初めて作られた作品であるこの五重奏曲ほど彼を苦しめた作品はなかったにちがいない。 この作品を成功させるためには, 辛い三年という時間がかかったのである。 1903年の後半,彼はローザンヌでこの作品に着手した。 スケッチによって作曲の方針をはっきりと自覚したのは8月25日のことだった-このスケッチからは, 五重奏曲のアダージョが生れる。 翌年の冬,パリで,彼は12年間ほうってあった第1楽章にふたたびとりかかった。 しかしチューリヒで過した1904年の夏には,〈ペーネロペイア〉の根気のいる仕事をうち切って, この楽章に全力をあげてとりかかった。 8月31日づけの手紙で,彼は妻に次のように書いている。「完全にやり直した第1楽章は,もう終るところだ。 だがこの結末は人をあっといわせるものでなければならない。 いま私はそれと格闘中だ。 この楽章は,おまけに非常に長いのだ。 アダージョはその半分しかない。 三,四日これに専念できたらと思っている。 ほかの二つの楽章は,一度にかなりはっきり構想がえられた……。」 9月5日,この楽章はやっと完成し,すぐにフォーレはアダージョに着手した。 9月21日,彼は目的を達したと思ったが,それは幻想にすぎなかった。 パリへ帰る日の10月3日に,彼は完全に「犬のシッポを巻かせる」に到っていないことを, つまり最後の数小節に完全な形を与えるに到っていないことを告白せざるをえなかった。 この冬は,いつもよりもっと作曲には不都合だった。 1905年の春、彼はコンセルヴァトワールの院長に任命された。 五重奏曲にふたたびとりかかるために,チューリヒの静かな素人宿に行くのがおくれた。 8月18日,その最終的な形が垣間みられた。 「……私は,これに四つの楽章を与えるべきか,あるいは(フランクの美しい五重奏曲のように) 三楽章で十分ではないかと、自問自答している……。」 9月1日,彼は「第2楽章の犬のシッポを完全に巻かせ,フィナーレの最初の3分の1を書いている。」 9月15日,彼はその半分以上を書いた。 そして最後の複縦線は,冬にパリでひかれることになる。

1906年3月,フォーレは,この作品の初演に立会うためにブリュッセルにおもむいた。 初演は曲の献呈を受けたウージェーヌ・イザイの四重奏団によって行われた。 3月23日,初演の数時間まえに,フォーレは妻あての手紙を書いている。 「イザイは,この五重奏曲のスタイルは私の四重奏曲のそれより大きく高く, 絶対音楽の実質的な試みのなかでももっとも完全な純粋さをもっていると考えている。 ……彼は私の五重奏曲を若々しいといい,善意の精華だといっている。 お前には信じられないだろうが。」しかし自分に対してあまりにも厳しかった作曲家は,ある疑惑に悩まされていた。 フィリップ・フォーレ=フレミエは次のように伝えている, 「5月16日(パリでの初演の日)の夜,感情をおおいかくそうとする強い内向性をもっている人なのに, まるで暗い表情で家へ帰って来た。 フィナーレが〈第9交響曲〉からヒントを得てはいなかったかと不安になっていたのだ。 なんでいそいだのかと疑われないだろうか, どうしてでもこの五重奏曲を完成させようとしたことを責められるのではないだろうか……。 こんな大きな作品がスケルツォをもってないことをいぶかるだろう……」。

これらの心配がこの作品固有の価値からみて無用のものだったとしても, 作品のたどる道筋については,この心配は悲しむべきことに正当なものであることがあきらかになっていった。 そのうえ出版元が遠い外国のもの(ニューヨークのシャーマー) で簡単に手に入れえないというハンディキャップも加わって, 〈五重奏曲第1番〉は今日にいたるまでフォーレの作品のなかでももっとも知られていない, 誤解された作品となっているのである。 この作品はまたもっとも秘めやかな,内面化された作品である。 三つの楽章のみからなるその構成は完全な熟考の結果生れたものである。 これ以後フォーレが古典的な四楽章形式に戻ったのは, ただいちど〈五重奏曲第2番〉においてだった。 しかしこの曲においては,あの大きい驚嘆すべき音楽の流れ- その秘密をフォーレはバッハと分ち持っている-を作り出すために, 楽章の内部へのコントラストを消すだけで満足していない。 彼は楽章間のコントラストをも最大限否定したのである。 このことは楽章のタイトルを見るだけで証明されるだろう。 最初のモルト・モデラートはアレグロよりはアンダンテにしばしば近づく。 8分の12拍子のアダージョの柔軟なバランスをもった速度法はある趣の活気を締びているし, フィナーレは,その輝かしい喜びにもかかわらず, フォーレのフィナーレのなかでももっともおだやかな速度をもっているのである。 たしかに作品全体は旋律的な創意で満ち溢れており,主題は素晴しく旋律的である。 しかしながら,あんなにも苦しかったときに,あんなにも長い努力のはてに作られたにもかかわらずに, この五重奏曲のもつ深い静けさは, この曲が要求しているような愛情のある関心をもたずにこの作品に接する公衆の目には脱俗として受けとられるかもしれない- これはモーツァルトのある種の作品についてもいわれることである。 実際にはこの作品89は,フォーレの老年の初めに作られた二つの年代を結びつけるような作品であり, 彼の展開のなかで〈大公トリオ〉がベートーヴェンにおいて占めるような位置を占めているが, それはまさに後期の作品の崇高な「閉ざされた庭」に通じる道,「もっとも優しい道」なのである。 後期の作品と同様に,それは「絶えることのない香」をもった「ものいわぬ贈りもの」である。 フォーレのもっとも美しい歌曲の題名が,彼の器楽の説明になんと役立つことだろうか。

この五重奏曲と〈四重奏曲第2番〉をへだてる20年は, フランス音楽にとって疑いもなくもっとも決定的な 20 年であった。 というのも,この20年間に,この曲の完成の数か月前に〈海〉を完成したばかりのドビュッシーの才能が発揮され, 確立したからであり,この20年間にフォーレ自身の数え子たち-モーリス・ラヴェル, フローラン=シュミット―の最初の傑作が生れたからである。 そしてダンディ,デュカス,マニャール,ロパルツらが,世を去った先輩, フランク,シャブリエ,ショーソンと交代したのも,この20年間だったから。 セザール・フランクの作品以後,フランス音楽における初めての偉大な〈ピアノと弦楽のための五重奏曲〉である。 フォーレの作品89の2年後に,フローラン=シュミットの壮大な五重奏曲が作られたのである。

〔第1楽章〕モルト・モデラート(4分の4拍子,ニ短調)

譜例25

譜例26a
譜例26b
楽譜を表面的にだけ観察する人にとっては, この五重奏曲の冒頭は〈四重奏曲作品45〉の冒頭に奇妙なほど似ているように見えるだろう。 いずれの場合にも,弦のユニゾンによるゆったりした旋律が,ピアノの規則的で急速な音型のうえに現れるのである。 しかし,にもかかわらず,なんとこの二つは対照的だろう。 四重奏曲の激しい.情熱をもった旋律は嵐の海の揺れ動くうねりのうえに浮かびあがるが, 一方,五重奏曲の最初の生気溢れたしかも穏やかな旋律曲線(譜例25)は, ピアノの32分音符の無数のきらめく水滴を通して,エオリアン・ハープを通して輝く虹のように現われるのだ。 その静けさが最強の力となっているフォーレのもっともすぐれた主題ののひとつがこれだ。 第2ヴァイオリンが独奏で素晴しい旋法的な動きと無限の息吹きをたたえた旋律を奏し, ついで四重奏のほかの楽器が次つぎにそれに加わる,ほとんどオデュッセウス的な大きな力をもった第2主題(譜例26a)は, 弦だけで奏される。 弦はそれをコラール風に提示するが, ピアノが控えめな註釈をつけながらその合間を埋める。主題の呈示の終りに,ピアノが短いモチーフ(譜例26b)で終止符をうつ。 このモチーフはやがて独立した第三の楽想となり,大きな展開と,呈示部を終りにと導く見事な,熱烈な抒情的対位法を生み出す。 呈示部はヘ長調で静かに終る。 展開部では新しい旋律的楽想が星示されるが,それはやがてヴィオラでふたたび奏される最初の主題と結合される。 やがて第二の主題の二つの要素が次々に現れる。 そしてそれを対象として完全に対位法的な,見事な彫啄が行われる。 これは,巨人的な, しかしつねに控えめな, そして聞く能力をもつ人にとってはきわめて印象的なフォーレの表現力をあらためて確認させるものである。 再現部は,全体的にみれば,第1主題と第2主題の主要モチーフを結合させている。 再現部はやや縮小されているが,終結的な要素(譜例26b)が,雰囲気の微妙な, ほとんど気づかれないような変化を利用してニ長調に移ると,あらためてかなり大きな展開を与えられ, そのあとで最初の主題が輝かしいニ長調で最後の出現を行う。 このニ長調は晴れやかな明るさをもった末尾の展開の合図である。 いまやもとの粗々しさをまったく捨てて, 逆にイザイの讃えた「善意の精華」そのものというべき,優しい,慰めを与える心の寛さを表している第2主題が, 力強くかつ静穏な結末を支配する。

 形式的シェマ:呈示部,1-67.展開部。68-113.再現部,114-186.コーダ(末尾の展開部),187-224.

〔第2楽章〕アダージョ(8分の12拍子,ト長調)

譜例27

譜例28
言語に絶する美しさをもった,フォーレの詩のもっとも見事な現れのひとつであり, 現世の重みをまったく捨て,フォーレが本当に「現実を超えて.可能なだけ高く」 高まった曲のひとつである。 たえず飛翔する旋律が明るく揺れるように持続する, 8分の12拍子のゆっくりした動きは全体としてシューベルトの二つのチェロをもった五重奏曲の緩徐楽章を, 思い起こさせる。 いずれの場合にも,主題的というよりはむしろ和声的なつきざる夢想が問題なのであり (譜例27), その表情はこの曲では無数の反復的な漸移進行の存在によって強められている。 そのリズム(4分の4拍子)の面で対照的な第2主題は,きわめて簡潔にピアノで奏され(譜例28)、 メランコリックな諦めによっていくぶんニュアンスを与えられた愛を表現する。 4分の4拍子に8分の12拍子が巧みに入りこむことによって, 最初の主題の回帰が用意されるが, その主題は,第2ヴァイオリンの表情的で熱情的なフォルティッシモによって, 中音域で歌われ第二の要素が再び現れて最後の展開部が始まるが, それは二つの主題の要素を分ちがたい関係で混ぜ合わせ重ね合わせている。 そしてその最後の,えもいわれない,驚嘆すべき和声が,さらにその分かちがたい結合を強調する。

形式的シェマ=A,1-46, B,47-74 A, 75-102.A+B(コーダ),103-136.

〔第3楽章〕フィナーレ=アレグレット・モデラート(2分の2拍子,ニ長調)

譜例29

譜例30
この楽章への評価が保留されていることは,理解しがたいものに思われる。 それほどにこの衒のない毅然とした喜悦をみなぎらした楽章はこの作品の最後を見事に飾っているのである。 そのうえ,これはフォーレの筆からほとばしり出たもっとも直裁でもっと自然な曲のひとつであり, その簡素な大きさは〈プロメーテウス〉の手法を思わせる。 形式は特殊な,自由でしかも簡潔なものであり, 二つの対照的な楽想がはじめ継起し, ついで和声的に綜合される。 最初の主題(譜例29)はもっとも重要なものとなるが, これについては, 同様にニ長調で書かれたベートーヴェンの〈第9交響曲〉の歓喜への頌歌がしばしば引合いに出される。 しかしその類似は旋律自体によるよりは, むしろ三度にわたる提示という形で与えられることにもとづいている- ピアノの水晶のように透明な高音部においてオクターヴで(弦が各小節の第2拍目を強調する), ついで穏やかな力をたたえた和声的な対旋律を伴って弦で, そして最後にピアノで(その分散したオクターヴは軽やかな鐘の音を思わせる)……。 この呈示部の終わりに,明るい,解決されないアッポジャトゥーラ(前打音)を伴った喜びが, 突然,輝かしく,抑えきれずに爆発する。 この主題はついで,第2主題がおそまきに登場するまで,自由な転調的な展開の対象となる。 第2主題はロ短調で(譜例30),広がりとまったくシンフォニックな力強さとをもち、 豊かで力強い響きと活力に満ちた付点リズムをもっている。 第1主題の非常に短い回帰によって,曲の後半部が始まるが, それは結合された二つの楽想の大きな対位法的展開であって,豪華な豊かさをもつ。 古典的な再現部の痕跡はまったくない。 ほとんどオーケストラ的な強い響きをもつ輝かしいコーダ=ストレッタのあとに, 最後の静けさが訪れるが,それは, 真の喜びの叫びともいうべきコーダの短い爆発の前に行われる第1主題の優しい, 夢見るような回想である。

 形式的シェマ=A,1-122. B, 123-164.A + B(大きな展開部),165-295.コーダ,296-332.

まりんきょ学問所フォーレの部屋ハルプライヒ論文> ピアノ五重奏曲第1番ニ短調 Op.89


MARUYAMA Satosi