日本における天王星の受容
上 原 貞 治
0.はじめに
日本の江戸時代は、1781年のウィリアム・ハーシェルの天王星の発見以後87年続いたが、その間の比較的早期に日本に新惑星発見の報が伝わり、日本人による天王星の観測や編暦の計画まで練られたことは極めて興味深い。しかし、その事情については多くの謎が残されている。筆者は、これまで日本ハーシェル協会に投稿した論考[1-4]の中で、日本人が初めて天王星を知った頃の情勢の探索を重ねてきたが、日本人がいつの時点でどのくらい詳しい天王星の情報を得たかということについて確実にわかっていることはあまりにも少ない。端的に言えば、客観的に確度が高い史実と言えるのは、以下にリストする程度のことである。
●ロシア人ゴロヴニンの『日本幽囚記』(1815)によると、幕府天文方関係者は、1813年の時点で天王星について知っていた。
●1824年に足立信順が、1826年に間重新が天王星を観測した。これらの観測者は、事前にある程度正確な天王星の位置予報を得ていた。
●上記の観測の前後には、天王星について日本でもその位置予報(天体暦)を編纂したいという計画があった。しかし、結局それは江戸時代の間には実現しなかった。
●上記の天王星観測と位置予報計算の実行計画を推進したのは、2人の観測者のほか、渋川景佑、足立信頭、高橋景保であった。
本論では、1820年代以前の日本において得られていた天王星の情報について、筆者の最近の探索の成果を報告する。断片的な内容であるが途中経過的なものとしてご容赦いただきたい。なお、新たな試みとして、付録として関連年表を付けた。
1.「1795年用英国航海暦」について
筆者は、[1]の文中において、「高橋至時に『諳入利亜暦考』(1802)という著書がある。これは、『1795年用英国航海暦』の一部を和訳して写し分析を加えたものである。この英語原本には天王星の暦(位置推算表)が出ていた。(中略)至時(あるいは彼の関係者)がそれまで天王星について聞いていなかったとしても、原本のページの構成を見ればこれが新惑星らしき天体の位置データであることに気づかぬはずはない。」と書いた。しかし、これについて新たな事実がわかり、必ずしもそうは言えないことがわかった。
実は、『1795年用英国航海暦』[5]には、1790年に発行された初版と1794年に発行された第2版があり、内容の構成が若干異なっている。第2版には1795年の天王星(Georgian)の天体暦が他の5惑星とともに同じ毎月の惑星の暦のページに載っているが、初版では、天王星だけは別扱いで、毎月の惑星の暦のページには記載が無く、その代わりに終わりのほうのページに独立して扱われている。従って、もし、高橋至時が見たのが初版であり、かつ、彼が分析した5月の暦の部分しか見ていなかったならば、天王星の記載のあるページは見ていなかったことになるのである。
おそらく、至時は、初版の5月の辺りの写しのみを見、天王星についてはこの時点では情報を得ることが出来なかった可能性のほうが高いであろう(間重富の手紙[6]によってそう推定される)。したがって、筆者の上の「英語原本には天王星の暦が出ていた」の部分は事実であるが、「これが新惑星らしき天体の位置データであることに気づかぬはずはない」の部分は、事情が場合によって異なるので撤回する。
2.「厚生新編」原書にある天王星の記述について
「厚生新編」の原書に天王星の記述があるであろうということは、佐藤明達氏からコメントを得た[7]。通常、日本語版の『厚生新編』は、ショメール著『家事百科事典』(あるいは『家政事典』)のシャルモによるオランダ語訳の1778年版からの翻訳と推定されており、これは天王星発見前の成立なので、その原書に天王星が載っているはずはない。もちろん、日本語版『厚生新編』にも天王星の記述はない。
しかし、佐藤氏の予測は、氏も書かれているように、オランダ語版『家事百科事典』の後の版が日本に輸入されていて、その中に天王星の記述があるだろうということである。それについて、筆者はこれまで具体的な記述の情報を得ていなかったので、このたび、天王星発見以降に出版されたオランダ語版で、日本人が1813年頃までに見た可能性があるもののなかに天王星の記述を捜した。そして、1箇所だけそれが存在することを見つけた。それは、『家事百科事典』オランダ語版「続編」とされる"Vervolg
op M. Noel Chomel, Algemeen huishoudelyk-, natuur-, zedekundig- en konst-
woordenboek,... "の第5巻[8]のHoroscoop の項である。ここに、Uranusが新惑星として紹介されている。なお、ホロスコープ(horoscope)は占星術に使う惑星の位置の計算盤のようなものである。占星術の項にのみ新惑星の紹介があり、同じ事典続編の天文学や惑星のところにそれが見当たらないのは不思議であり、かつ皮肉である。
当時の日本で見ることができたオランダ語その他西洋の百科事典は、もちろん『家事百科事典』の他にもあり、具体的な特定をすることはできないが、別の事典類で天王星の記述を見つけた可能性も十分にある。いずれにしても、日本人が天王星を”Uranus”の系統の名で呼び慣わしていたということは、オランダ語あるいはドイツ語の文献、それもおそらく百科事典または年鑑の類からこの新惑星の名称を取り入れた可能性が高い。
3.『ユラヌス表』の天王星の記述について
足立信順著『ユラヌス表』(1825頃?)にある天王星の軌道要素の数値[4]について、その出典の探索を継続しているが、まだ多くを得ていない。軌道半長径と離心率(本文では両心差で表現)
は当時の多くの文献に現れている値であり、これらは、もともとはラプラス(Pierre-Simon Laplace)
の計算した軌道要素の値のようである[9]。このラプラスの軌道は、初期(1796年より前)に計算された軌道のうちのもっとも正確なものの一つだったようで、西洋で広く流布し、多くの西洋文献で紹介されたことであろう。
問題は、『ユラヌス表』の公転周期(本文では平均日々運動で表現)と軌道傾斜の値が、このラプラスの計算値と異なっていることである。筆者は、公転周期については、幕府天文方の何らかの信念によって、軌道半長径にケプラーの第3法則を適用し、何らかの補正を加えたのではないかと推測する。また、軌道傾斜については、1787年以前に発表されたより古いラプラスの軌道に、『ユラヌス表』と同じ46’16”の数値を見つけた[10]。
『ユラヌス表』で軌道傾斜についてのみ古い軌道要素が使われたとしたら、その理由として、1790年代のラプラスの軌道の角度データは「グラード」という1820年代以前の日本人には見慣れない単位(直角を100度とし、10進小数を使うフランス革命時代のフランスで制定されたメートル法に基づく角度の単位)で記載されたことと関係があったかもしれない。
4.『三才窺管』の太陽系図に7惑星があることについて
広瀬周伯著(広瀬周度図)『三才窺管』上巻(1808)
に、西洋書から写したと見られる太陽系の図[11]があり、そこに7個の惑星らしきものが描かれていることについて、Webブログ『天文古玩』の著者、玉青氏と筆者がそのWebのコメント欄で議論したことがある[12]。
筆者は、ここで『三才窺管』の太陽系図の元絵の候補が西洋書にないかを問い合わせたのであるが、玉青氏は、この図に7個の惑星らしきものが描かれていることを指摘するとともに、ジョージ・アダムズ(George
Adams)著” Astronomical & Geographical
Essays”のフィラデルフィア版第4版(1800)の図[13]を紹介し、そのオリジナルがロンドン版にあったというコメントをされた。そして、筆者は、このたび、これと類似した図でさらに古いものを、ロンドンで1790年に出版された科学百科事典の中に見つけた。
それは、William Henry Hall著の"The New Royal Encyclopaedia, Or, Complete Modern
Universal Dictionary of Arts and Sciences..."
(1788-91。3巻本)第1巻[14]という文献である。ただし、ネット上にあるこの文献の電子画像においては図版のページが複写されていないようで、図そのものは確認できていない。筆者がこの図版を見つけたのは、コピーを1枚物の美術品として販売している業者のWebページからである[15]。C.Cookeが描いたという当該図は、アダムズの図と極めて似ているものの同じではなく、惑星がずっと明瞭に描かれている。さらに、天王星が“Georgium
Sidus”として図中と図版タイトルに明記されているので、この図が新惑星の発見を強調する状況で描かれたものであることがわかる。
『三才窺管』の太陽系図は、ホールの科学百科事典の図を直接真似たものでないにしても、その影響を受けた類似の図を参考にした可能性が高い。周伯とその息子周度は西洋天文学を詳細に研究していた人ではなく、彼らの太陽系図も粗雑なものなので、太陽系の惑星の個数を正確に写したかどうか甚だ心許ないが、最外惑星のみが太陽からの強い光が届く範囲を示す放射状の線より外に描かれていることは、太陽からの光量が不足しているところに新惑星が存在するというもっとも重要なところで西洋の図の精神を汲み取っているように見える。『三才窺管」の図の最外惑星が天王星に対応している可能性は十分にあるのではないか。
『三才窺管』は、蘭学の天文知識がそれほど明瞭に盛り込まれていないことを差し引いても、比較的早期に地動説を一般に紹介したという点で高く評価されている。さらに、著者に認識が欠けていたとしても、その中の図に天王星が描かれていたとしたら、さらに価値ある面白いことといえるだろう。
謝 辞
天王星に関わる文献について情報を提供し議論して下さった佐藤明達氏と角田玉青氏に深く感謝します。また、年表においては荻原哲夫氏の研究によるところを大とすることを申し添えます。
<付録 日本天王星史年表(発見から「開国」まで) >
日本
(天王星に直接関係する事項) |
日本
(その他の事項) |
西洋 |
1802 高橋至時『1795年用英国航海暦』を研究(天王星の項を見たかは不明)『諳入利亜暦考』
1808 広瀬周伯・周度『三才窺管』(天王星を含む?太陽系図)
1813 足立信頭、馬場貞由 抑留中のロシア人を訪問。足立らは天王星についてすでに知っていた。(ゴロヴニン『日本幽囚記』)
1823-26 伊能忠誨 足立信順らと精密な星図の製作にかかる
1824 渋川景佑 英国航海暦を見、間重新に天王星観測を指示
1824 足立信順 日本初の天王星観測
1825 『遭厄日本紀事』(『日本幽囚記』の和訳。公式書物に天王星「ウラニユス」の記述)
1825頃? 足立信順『由剌奴斯表(ユラヌス表)』
1826 間重新 天王星観測
1828 渋川景佑『諳厄利亜航海暦』(『1828年用英国航海暦』の和訳・天王星の記述を含む)
1828頃?
渋川景佑『諳厄里亜天学語録』 「ハーシェル」を新惑星(天王星)名として記載
1831 足立信順 自分の官職問題と天王星の天体暦作成を絡める?(間重新書簡)
1836頃 帆足万里『窮理通』ほぼ完成。天王星と衛星のデータの表
1840〜50年代 いくつかの科学書等で天王星に関する記述が見られるようになる |
1785頃〜88 三浦梅園 麻田剛立に太陽中心説について質問
1789頃 麻田剛立 ケプラーの第3法則を独立発見
1796 司馬江漢『和蘭天説』
1796 足立信順 生
1797 寛政暦制定(施行は1798)
1798-1802志筑忠雄『暦象新書』
1803 高橋至時『新修五星法』(惑星の楕円軌道計算)
1804 高橋至時『ラランデ暦書管見』
1804 高橋至時 没
1811 高橋景保の提言により「蛮書和解御用」設置。馬場貞由、大槻玄沢ら『厚生新編』の翻訳開始
1816 間重富 没
1820 山片蟠桃『夢の代』
1822 間重新 日本初の水星太陽面経過の観測
1826 渋川景佑『新巧暦書』完成
1827 伊能忠誨 没
1828 シーボルト事件
1829 高橋景保 没
1835 足立信頭 天文方に就く
1836? 足立信頭 ハレー彗星の軌道計算
1838 間重新 没
1841 足立信順 没
1842 天保暦制定(施行は1844)
天王星には触れず
1845 足立信頭 没 |
1781 ウィリアム・ハーシェル 天王星を発見
1783 ラプラスとメシャン 天王星の楕円軌道を計算
1787 ウィリアム・ハーシェル 天王星の衛星を発見
1801 ピアッツィ 小惑星ケレス発見
1810〜20頃 ブヴァールら 天王星の予報位置からのずれを観測
1822
ウィリアム・ハーシェル 没
1838 ベッセル、恒星の年周視差測定
1846 ルヴェリエ、アダムズ、ガレ、海王星発見 |
<参考文献>
[1] 上原貞治「『日本におけるハーシェル』初出の探索」 日本ハーシェル協会 デジタルアーカイブ (2009),
http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/herschel/a-text/Herschels_in_Japan.html
[2] 上原貞治「帆足万里『窮理通』にある天王星とその衛星についての記述」 日本ハーシェル協会 デジタルアーカイブ (2010),
http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/herschel/a-text/hoasi_banri_uranus.html
[3] 上原貞治「日本初の天王星観測はいかにしてなされたか」 日本ハーシェル協会 デジタルアーカイブ(2011),
http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/herschel/a-text/First_Observation_of_Uranus_in_Japan.html
[4] 上原貞治「足立信順の『ユラヌス表』と日本初の天王星観測」 日本ハーシェル協会 デジタルアーカイブ(2011),
http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/herschel/a-text/Uranus_Tables_by_Adachi_Nobuyori.html
[5] “The Nautical Almanac and Astronomical Ephemeris, for the Year 1795”
Commissioners of Longitude, London (初版1790,第2版1794) グーグルブックス,
https://books.google.co.jp/books?id=sPcNAAAAQAAJ
https://books.google.co.jp/books?id=ngkAAAAAMAAJ
[6] 間重富 書簡(高橋至時宛)年月日不明(筆者推定1801)(杉田伯元の条)『星学手簡』 国立天文台蔵.
[7] 佐藤明達「上原貞治氏の 「『日本におけるハーシェル』初出の探索」を読んで」日本ハーシェル協会 デジタルアーカイブ(2009),
http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/herschel/a-text/Remarks_on_Herschels_in_Japan.html
[8] J.A. de Chalmot 増訂 “Vervolg op M. Noël Chomel Algemeen huishoudelyk-,
natuur-, zedekundig- en konst-woordenboek ..."第5巻, Amsteldam (1790)
グーグルブックス,
https://books.google.co.jp/books?id=K6hGAQAAIAAJ
[9] Pierre Simon Laplace “Exposition du systême du monde”, Paris (1798)
グーグルブックス,
https://books.google.co.jp/books?id=nLI3088CsrYC
[10] S. Vince編 “A Complete System of Astronomy“ 第1巻, p174, Cambridge,
(1797) グーグルブックス,
https://books.google.co.jp/books?id=hzlOAAAAYAAJ
[11] 広瀬周伯著、広瀬周度図『三才窺管』上巻(1799序、1808),(『遠鏡図説・三才窺管・写真鏡図説』江戸科学古典叢書38、恒和出版 (1983) 所収),
当該図(叢書版より)
http://seiten.mond.jp/others/sansai_02.jpg
国文学研究資料館所蔵
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=HOKU-00341
[12] 玉青「天文古玩」2009.7.21 「夜の帽子…日食によせて」のコメント(2009),
http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/07/21/4447640
[13] George Adams “Astronomical and Geographical Essays” 第4版 Philadelphire
(1800)(初版 London 1789). 当該図(上記書より)
http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/temp_image/adams
[14] William Henry Hall “The New Royal Encyclopaedia; or, Complete Modern
Universal Dictionary of Arts & Sciences, on a New and Improved Plan” 第1巻,
London (1788), グーグルブックス,
https://books.google.co.jp/books?id=D_QKODyE7agC
[15] 図版 "Elements of Astronomy including the Solar System with the new
discovered Planet the Georgium Sidus" ([14]の一部) 図C.Cooke (図版販売業者のページ),
http://www.albion-prints.com/hall-1791-antique-print-elements-of-astronomy-the-solar-system-346735-p.asp
(後世の彩色付き),
http://www.artwall.ru/products/poster_36859-71-2/image?&width=940
https://www.fulltable.com/vts/i/imsc/ab/imt/07.jpg
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