「日本におけるハーシェル」初出の探索


上 原 貞 治

 (本論は、以前に発表した『「日本でのハーシェル」初出の探索の中間報告(1)(2)』の内容を統合し、さらにその後に得られた知見を考慮して、加筆・修正をおこなったものである)  

 W・ハーシェル(1738-1822)やその子のJ・ハーシェル(1792-1871)がヨーロッパで活躍していた時期は、日本では蘭学の最盛期にあたる。彼らの名前や業績が日本で紹介されたのはいつ頃が初めであろうか。

 1860年ごろJ・ハーシェルの著書『天文学』"Outlines of Astronomy"(1849)の漢訳版『談天』(1859)が日本に入ってきて、短期間でその日本版(訓点付き版)[1]が発行されているので、その頃の日本でハーシェルが知られていたことは確実である。一方、W・ハーシェルの最も有名な業績である天王星の発見については、それよりずっと以前に天王星の存在が日本で知られていたのみならず観測までされていた[2]。それにもかかわらず、ハーシェルの名や天王星の発見事情に触れた文献は、『談天』以前の日本にはなかなか見つからない。

 本論では、まず、日本文献にある天王星についての記述をその発見直後から時代の順に追い、その中でハーシェルの名を探索する。その後、ハーシェルが研究した太陽からの光と熱に関係する蘭学文献についても探索を行う。ここでの探索は中国で漢訳版『談天』が発行された1859年以前に絞ることにする。

1.天王星発見から1810年代まで
1.1 天王星を知っていた日本人

 天王星が英国でW・ハーシェルによって発見されたのは1781年のことである。これは、日本では、杉田玄白、前野良沢らによって解剖学分野から先鞭を付けられた本格的な蘭学研究が、天文学、物理学の分野にも及び始めた時代に対応する。日本で西洋の地動説の学問的な内容が紹介されるようになったのは1780〜90年代のことであるが、この頃の日本の文献に天王星は出てこない。これは、当時の蘭学研究が天王星発見以前の天文書によっていたためである。たとえば、幕府天文方が暦学の研究に利用した「ラランデ暦書」の蘭語版は1773-80年の刊行であった。地動説を紹介した本木良永や志筑忠雄の翻案書も18世紀中葉以前に刊行された蘭書に基づいていた。

 幕府に抑留されたロシア人ゴロヴニンの『日本幽囚記』(1815)[3]によると、幕府天文方付の足立信頭(1769-1845)と通詞の馬場佐十郎(貞由)がロシア人たちを訪ねた時、二人は天王星の発見、運行、衛星についてすでに知っていたという。これは1813年のことである。これを独立に裏付ける日本側の史料はないが、現在のところこれが日本人が天王星について言及したことを明瞭に示すもっとも古い記録である。

 この頃の足立や馬場に関係する天文学者は、彼らの上司に当たる幕府天文方の高橋景保(1785-1829)、景保の暦学の師匠だった間重富(1756-1816)、重富の子の重新(1786-1838)、景保の弟の渋川景佑(1787-1856)らである。間重富の研究内容については比較的豊富に文献が残っているが、天王星について記したものは見あたらない。彼らがどのような経緯で1813年以前に天王星を知るに至ったかについては具体的なことは何もわからない。

 なお、『日本幽囚記』については、1825年にその日本語訳『遭厄日本紀事』が幕府によって作られ、その翻訳に当事者の馬場や高橋景保のグループが関わっている[4]。その天王星に関する部分は、 「又コーヘルニキホス(人名明人歌白尼と記す)の天体の説を至当とし又ウラニユス(星名)及其附星も彼は知りたれども近き時見い出せしフラネーテンはまだしらざりき」 意訳:また、コペルニクスの地動説が正しいものと認識し、さらに天王星とその衛星のことも彼(足立信頭)は知っていたが、最近発見された小惑星についてはまだ知らなかった。 としている。この部分を翻訳したのは、杉田立卿(杉田玄白の子)か青地林宗(1775-1833、後出)だという。

 彼らは、天王星については、始めにオランダ経由の知識によってこれを知った可能性が高い。というのは、彼らが通常使っていた天王星の呼び名はUranusで、これを、おそらくオランダ語式に、ユラニュス、ユラニス、あるいは、ユラヌスと読んだ場合が多かった。(現代オランダ語の発音は「ユラニュス」に近い) 日本人が、新惑星の情報を、オランダ人との会話によって、あるいは彼らが日本に持ちこんだ蘭書によって最初に知ったということは十分に可能性のあることである。

1.2 「天王星」を記載した西洋書

 ところが、オランダ人が頻繁に日本に持ちこんだであろうオランダ航海暦に天王星は出ていなかったようである。一方、英国航海暦に天王星は出ていた。しかし、そこでは天王星はおもに「ジョージアン(Gerogian、英国王ジョージにちなむ)」の名になっていて、Uranusとは書かれていなかった[5,6]。  高橋至時(高橋景保と渋川景佑の父、1764-1804)に『諳入利亜暦考』(1802)[7]という書がある。これは、1795年用英国航海暦[5]の一部を和訳して写し分析を加えたものである。この英語原本には天王星の暦(位置推算表)が出ていた。しかし、『諳入利亜暦考』に水星から土星までの5惑星の暦は写してあるのに、同じページにある天王星の暦についてだけは記載がない。至時(あるいは彼の関係者)がそれまで天王星について聞いていなかったとしても、原本のページの構成を見ればこれが新惑星らしき天体の位置データであることに気づかぬはずはない。天王星の暦だけが写されなかったのには、何らかの積極的な意図が働いたはずである。至時は、新惑星については保留する、あるいは当面伏せておくということで、故意に『諳入利亜暦考』に含めなかったものと推測する。

 至時の英国航海暦の調査の主たる目的は、水星〜土星の5惑星の位置推算のために精度の良い軌道要素の数値を得ることであった。すでにケプラーの法則によって惑星位置の予報を行い、観測によって軌道要素の改良をする、というパラダイムに進入していた至時には観測結果を直ちに入手しえない天王星の暦はほとんど役に立たないものであっただろう。将来、天王星の位置観測が得られるようまで待つ、ということで、この時点で天王星はひそかに棚上げにされたのかもしれない。なお、この年の英国航海暦には、ハーシェルの名や天王星の発見事情は載っていなかったし、どのみち至時は英語が読めなかった。

 以上のことから、1802年以降に至時または彼の関係者が新惑星の存在を知っていたことはほぼ確実である。しかし、その後二年で彼は世を去り、間重富と景保が彼の仕事を継ぐことになる。その後、幕府天文方の仕事は日本測量と地理学に重点が置かれるようになり、太陽系天文学については、しばらくの間、外から見えるような進展はなくなる。

 足立信頭らが、ゴロヴニンに天王星に関する知識をUranusという名で披露したのだとしたら、重富か景保がオランダ人に問い合わせて英国航海暦の新惑星についてオランダ語で説明してもらったことがあったのかもしれない。また、第3節で述べるように、このころすでに景保が Uranus の記載のある蘭書を所有していた可能性もある。


2.日本人による天王星初観測の頃(1820年代)

2.1 日本人による天王星の観測

 以上述べたように、1810年代までに日本人が天王星について知っていたことは確実だが、このころの日本の文献には天王星のこともハーシェルの名前も見あたらない。その後、足立信頭の息子の信順(1796-1841)が1824年に天王星の観測をし、翌年には間重新も観測した。それ以降、彼らの手紙や観測記録に、天王星が「ユラニス」などの呼称でしばしば現れるようになる[2,8]。しかし、その西洋での発見やそれが日本に伝えられた経緯に言及した記述は見あたらない。

 天王星の観測を独力で行うには、軌道要素、暦、星図などが必要である。観測時に対応する暦が無い場合でも、軌道要素がわかっておれば自分で計算することが可能である(ただし、任意の一時刻での天王星の位置を与える元期データが必要)。逆に、任意の年の暦から軌道要素を逆算することも可能である。足立信順はこれらに必要な計算ができた可能性がある。過去の版の英国航海暦は、至時がすでに1802年に見ているのだから信順にも見る機会はあったであろう。星図については、伊能忠誨星図が1825年頃に完成しているので、これが利用できたという[2]。

 日本に天王星発見の報が伝えられてから観測に成功するまでになぜ約20年の期間が必要だったのだろうか。天王星観測は信順の功績らしいので[2]、彼が天文計算の知識を身につけて初めて観測時の位置推算が可能になったのかもしれない。きっかけとしては、景保が至時の遺志を思い出し、満を持して天王星観測のプロジェクトを立ち上げたのかもしれない。

2.2 渋川景佑による英国航海暦の研究

 渋川景佑の著作に1828年用英国航海暦(1825)[6]の和訳『諳厄利亜航海暦』(1827)[9]がある。そこには天王星が「烏刺奴斯」(ウラヌス)として出ているが、「ハーシェル」は出ていない。実は、英語原本にはハーシェルの名が父子で出ている(父の名は後述のように惑星名として、子の名は航海暦の著者・編者の一人として)のだが、これらの部分は引用されていないのである。

 しかし、景佑の『諳厄里亜天学語録』[10]という英単語ノートのようなものが残っていて、そこに「ハーシェル」が出ていることをこのたび見つけた。『諳厄里亜天学語録』の成立年は不明で、これは、個人的メモとして英単語とそのオランダ語訳、日本語訳を逐次書き加えていったものらしい。該当部分には「herschel,  星名 新惑星ノ名 又ユラニュスノ別名」と書かれている(図版)。景佑は「ハーシェル」を人名と認識せず、星名とだけ見ていたようである。幕府天文方の関係者は、1830年頃に至るまで天王星の発見者の名を知らなかった可能性が高い。

  景佑は1856年に没しているので、『諳厄里亜天学語録』が上記の1828年用英国航海暦の発刊以降に景佑自身によって書かれたものであるならば、この「ハーシェル」の記載は、1827年頃から1856年の間に行われたことになる。上記英国航海暦に「ハーシェル」が惑星名の一つとして "The Tables of the Planet Herschel, called the Georgian Planet by us, were ..."(文献[6]。日本語訳:我々が(本書で)「ジョージの惑星」と呼んでいる惑星「ハーシェル」の(位置推算)表は、...)という文脈で出てくるのが『諳厄里亜天学語録』の記載と直接関連しているならば、後者の記載も1827年頃になされたものと推測してよいだろう。これが現在のところ、日本での「ハーシェル」の初出である可能性が高い。ただし、そこには「ハーシェル」が人名との認識もなく、文献が刊行されたものでもないというコメントを付けなければならない。  

渋川景佑「諳厄里亜天学語録」の表紙(左)及び内容の一部(クリックで拡大)。国立天文台所蔵。
内容の掲載部分(右)の英単語は、上より、hundred, having, herschel, hands, here, happen。

 
3.天文学に関する蘭学文献
3.1 帆足万里『窮理通』

 1830年代以降、天王星やその衛星について書かれている天文書が日本の民間で出るようになる。そこには19世紀初頭に発見された小惑星も新惑星として出てくる。これらの最初に属するものは帆足万里(1778-1852)著の『窮理通』(序1836)[11]である。『窮理通』の「小界」(太陽系宇宙)には「由刺尼斯星」(ユラニス星=天王星)の軌道要素とその衛星の数値データが詳しく出ている。

 近年行われた研究[12]によって、『窮理通』にある天王星や他の惑星、衛星の数値データや小惑星の発見経緯に関する記述が蘭書『一般地理誌』(1803-08)[13](帆足万里はこれを『缺兒的兒(ゲルテル)地球窮理説』として引用している)に基づいていることが指摘された。私が確認したところ、『一般地理誌』には、ハーシェルが天王星と天王星の衛星を発見したことや、ハーシェルの使用した7フィート望遠鏡、発見の栄誉によりロンドンの王立学会からメダルを受賞したことなどが書かれている。ところが、『窮理通』には、『一般地理誌』ともうひとつの別の文献によると見られる天王星の衛星の短い記述しかなく「ハーシェル」の名はいっさい出てこない。帆足万里は、『一般地理誌』の天王星に関する記述を読みながらも、「ハーシェル」の名を読み落としたか、あるいは故意に記載しなかったことになる。その理由はわからないが、『窮理通』の天文学の記述が専門的な天文書である「ラランデ暦書」におもに依っており、『一般地理誌』は新しいデータを含むものの天文学のレベルは低いので帆足がその数値データ以外の部分には興味を持たなかったことが考えられるかもしれない。しかし、『窮理通』に小惑星ケレスとパラスの発見者、ピアッツィとオルベルス、が記載されているので、これはあまり説得力のある説明とはいえない。もう一つの可能性として、『一般地理誌』では、「ハーシェル」が最初に天王星の別名とされた後に発見者の名として紹介されるため、帆足が混乱をしたことがあるのかもしれない。帆足は40歳を過ぎてから数年をかけてオランダ語を習得したと言われているので、彼が『一般地理誌』を読んだのは、1820年以降ということになる。

 なお、『一般地理誌』は高橋景保の管理していた蔵書中にもあった[13]。景保あるいは彼の関係者がこの書の本文の最初の12ページをきちんと読んでおれば、天王星の発見者ハーシェルについて知ることになったはずである。しかし、景保がこの書を入手した時期については不明で、全2巻の刊行後からシーボルト事件で逮捕されるまでの間(1808-28の間)、としか言えない。この書は彼の主要な業績である世界地理の研究のために入手、利用された可能性が高い。彼がこの書を初めて読んだタイミングが、1810年代前半であったのか、それとも後半以降であったのか、また弟の渋川景佑もこの書の内容を知っていたのか、などの如何によって、この蔵書の重要性は変わってくるものと思うが、残念ながら今のところそれについては何もわかっていない。

3.2 川本幸民『気海観瀾広義』その他

 川本幸民(1810-71)著の『気海観瀾広義』(1851-57)[14] にも天王星が出て来る。この書の原著の作者はボイス(Johannes Buijs) とされていて、ボイスの著書にはUranusが出ているものが確かにある[15]。しかし、『気海観瀾広義』にはハーシェルの名は見いだされない。また、そこでは天王星が「穀星」と訳されている。「穀星」は本当は天王星の別称ではなく、おそらく小惑星「ケレス」の中国名と混同したものと思われる。川本は蘭書と中国書の両方を参考にして、新惑星についての記述を行ったものであろう。なお、『気海観瀾広義』には四大小惑星の記述もあって、それらは、「セレス」、「パルラス」、「ユノ」、「ヘスタ」として引用されている。(19世紀前半には四大小惑星は惑星として他の7惑星と同列に扱われていた。『談天』ではケレスは「穀女」と訳されている[1]。現在、ケレスは準惑星に分類されており、その中国名は「穀神星」である)  1850年代にはすでに新惑星の存在が日本である程度一般的な知識になっていたようである。だが、不思議なことに天王星の発見者としてのハーシェルの名を挙げた日本語文献は見いだされない。日本の文献に天王星の関連でハーシェルの名前が出てこないことは、当時の蘭書文献に起因する可能性がある。1810年以降に刊行されたオランダ語のいくつかの自然科学書を見たが、惑星の項目の天王星の部分に「ハーシェル」が現れない場合が多かった。これらの書物においては、天王星が存在することは重要視しても、それをハーシェルという人が発見したという歴史にはあまり重きを置いていないように見える。小惑星の発見者には言及しているところを見ると、天王星が偶然に発見されたのに対し、小惑星は数学的な予言(ボーデの法則)を念頭において捜索された、ということで発見の価値に差をつけているのかもしれない。一方、ハーシェルの太陽暗体説や恒星の分布構造の説については、オランダ語の書物にもハーシェルの名の記載が多い。これらの学説は、19世紀中葉に至るまで人々に影響を与え続け、長く最前線に留まったために提唱者の名が記されるチャンスが増えたものかもしれない。

 渋川景佑と足立信行(信順の子)の著書に天保改暦の力学的根拠を説いた『新法暦書続編』(1846)[16]があるが、そこには天王星は出てこない。『新法暦書続編』は地動説の太陽系モデルに基づいており、景佑と信行はすでに天王星について熟知していたはずなのでこれは意外である。このことは、この書が幕府の公文書として旧来の東洋暦学の慣行に倣ったことによるのかもしれないし、または依拠した「ラランデ暦書」に天王星が出てこないことによるのかもしれない。


 4.太陽光に関係する蘭学文献
4.1 ハーシェルの太陽光に関する研究

 W・ハーシェルの太陽光に関する研究は広い範囲に渡っていて、その全容については私の知識と推量の範囲を超えているが、18世紀終わり頃から19世紀初めにかけての状況を非常に単純化すると次のようなことではないかと考える。  ハーシェルの光に対する考えは、基本的にはニュートン以来、彼の時代まで主流の説であった「光の粒子説」に基づいていた。そこでは、光の粒子「光素」は熱を運ぶものとされたが、ハーシェルは、光は熱そのものではなく、熱は光が大気や地面などの物質に触れて生じるものと考えた。当時は、熱の元素である「熱素」(当時の日本では「温素」と訳された)というものが存在すると考えられていた。

 ハーシェルは、太陽面は明るく輝いているけれども、輝いている面の下に暗くて熱くない太陽の本体があって、そこでは厚い雲によって熱が遮断されていると考えた。そして、本当の太陽面には山や谷があり、生物が住んでいると推測した。黒点は、その内部の暗い太陽がのぞき見えている部分だと考えた。これは相当珍妙な説だが、ハーシェルは、「すべての天体に生物を住まわしめることが全能の神の意志である」、「光っているものの近くに熱が多いとは限らない」ということからこのような説を思いついたものであろう。意外なことに、この説は19世紀前半のヨーロッパでは有力な説の一つとして受け入れられていたらしい。さらに、ハーシェルは、太陽光をプリズムで分解した場合に色ごとに熱を発する効果が違うということを測定し、赤外線を発見した。

4.2 日本の「物質科学」書

 当時の日本においても、すでに光や熱を元素として捕らえる下地はできていたようである。中国哲学の五行説では、万物を「木火土金水」の5種類の元素で説明する。光はこの枠組みでは「火の根元状態」と捕らえるほかはない。また、元素である「火」は現象としては「熱」というかたちで現れる。そうすると、光イコール熱か、ということになって、そこに同種の議論が生じうることになる。この分野に関連する蘭書の知識は志筑忠雄の『求力法論』(1784)、『暦象新書』(1798-1802)によって初めて蘭学界に持たらされたが、1820年代以降は日本でも物質科学の全般的な知識をカバーした蘭学書のいくつかが出されるようになった。よって、この方面でのハーシェルの研究の記述を日本で見つけるために、天文学のみならず光学や化学の方面の蘭学文献にあたる価値が生じる。

 そして、今回、日本初の体系的な化学書と言われている、宇田川榕菴(1798-1846)の『舎密開宗』(せいみかいそう)(1837)[17]に、「ハーシェル」の名が出てくることを見つけた。(なお、『舎密開宗』には現代語訳[18]があるので、このことはそこで指摘されているかもしれない)

 下は、『舎密開宗』巻一の「温素第十三章」からの引用である。(原文の平文の片仮名は平仮名に改めた。括弧内は原文では二行割注。<>内は原文ではルビ)

 (加羅里究母<カロリキュム>)ワルムテ、ストフ」テルモゲリウム
 此篇光素<リクトストフ>を略して温素のみを説く(中略)
 ○按に光素(浮多厄紐母<ホトゲニウム>)は原始を太陽に資り温素と并行して火を為す亦能く単行することあり高山の頂は太陽の光素のみ専らに行れて温素少し故に夏月尚積雪あり○(中略。光の速さは)理科云一-密-扭-多<ミニュート>に二百萬里(歇爾斯結爾<ヘルスケル>云、一-世-紺-度に六萬二千里)に達し八密 扭多。十三世紺度に一千三百萬里に抵ると云(後略)

  現代語訳(上原による):
 (カロリキュム、ワルムテ・ストフ、テルモゲリウムはいずれも、熱素・温素の意)
 考えるに、光素はもともと太陽から発生したもので、温素と一緒になって火(すなわち熱)を作り出す。また、単体で飛行することもできる。高い山の頂では、太陽からの光素だけがあって温素が少ないので、夏でもなお雪が積もっている。(中略)光の速さは「理科」に言うところで1分間に200万里(ヘルスケルによると1秒間に62000里)に達し、8分13秒に1300万里にあたるという。

 ここで出てくる「歇爾斯結爾<ヘルスケル>」はハーシェルのことに間違いないだろう。ここでハーシェルは、光速の値を提唱したとして引用されている。「光素」や「太陽」の記述とともに引用されていることから、ハーシェルの太陽に関する学説を紹介した西洋文献に基づいたものと推測できる。しかし、『舎密開宗』は多くの蘭語文献を参考に書かれていて、この光速に関する記述の元となる西洋原典はまだ明らかにできていない。

 なお、"Herschel"の読みは、生国のドイツ語では「ヘルシェル」、現代オランダ語では「ヘルスヘル」となるはずである。「ヘルスケル」については、蘭学者が人名をとりあえずラテン語風に読んだ可能性と、オランダ語の"sche"を「スケ」と表記する習慣によった可能性の両方がある。

4.3 『舎密開宗』にあるハーシェルの光速値の考察

 このハーシェルによるとされる光速の値、秒速62000里は、「里」が何の単位によるものかわからない。日本の里だとすると秒速約24万kmにあたり、現在の値(秒速約30万km)よりかなり小さい。当時の日本でも、距離の単位「日本の里」は10%内外の精度で英マイルやメートルに換算できたはずである。別の可能性として「里」が当時のオランダで使われていた「時間行程」("uur gaans"=5〜6キロメートル)だとすると、秒速30万kmより大きくなる。距離の単位については様々な可能性があるので、確定した数値に対応させることはできない。

 当時の光速測定は天文学的手法、すなわち木星の衛星の公転(レーマーが創始)あるいは光行差(ブラッドレーが発見)を利用していたので、直接測定できたのは光が太陽から地球までの距離(1天文単位)を伝搬する時間であった。それは、ここでは8分13秒とされていて、現在の値8分19秒にかなり近い。「密 扭多」(ミニュート)は現在の時間の「分」、「世紺度」(セコンド)は「秒」と同じであり、当時の日本でもその時間の長さは正しく認識されていた。次に、1天文単位の実長であるが、ハーシェルの太陽に関する論文[19]ではこれを9500万マイル(英マイル)としており、現在の値9296万マイルにかなり近い。ハーシェルは、かなり正確な光速の値を知っていたようである。だが、ハーシェル自身が光速の測定をしたことはないようであるし、彼が具体的に光速の数値を示している例もまだ見つけていない。『舎密開宗』のハーシェルによるとされる光速値がハーシェルの業績に的確に言及したとするには困難がありそうである。

 『舎密開宗』で引用されている「1分に200万里」は秒速33000里に対応し、ハーシェルによるとされる値の半分程度である。さらに、「8分13秒に1300万里」は、これとも計算が合わず、いかにも小さ過ぎる値である。これらを現在の値に合わすためには1里が10 kmくらいであることになる。単位が混在しているのでなければ、引用か計算に間違いがある可能性がある。「理科云」はボイスの『理科教科書』[20]からの引用だと思われるが、同書に光速値の言及は見られるものの上に出た数値との対応はまだ見い出せていない。

4.4「太陽暗体説」への言及

 太陽に近いはずの高山の頂が寒冷である、という事実は古くから人々に注目されてきた。『舎密開宗』では、この現象が光素と熱素が別物であることの説明に用いられている。『舎密開宗』のおもな元本の一つであるWilliam Henry著 "The elements of experimental chemistry"[21]では、光素と熱素の関連が、多数の科学者による実験や学説から考察されており、光の色ごとにその熱的な効果が違うことをハーシェルが実験で示したことに言及している。

 また、高山が寒冷であることと光素・熱素との関連については、この分野の科学に初めて触れた日本の蘭学書である青地林宗の『気海観瀾』(1827)[22]の「光」に、すでに「光之与温、各為一質、太陽於雰囲上際気疎之処乎、唯光而已、是故高山之頂、雖近於太陽、常寒掩雪」(意訳:光は熱を与えるがこの二つはおのおの別の物質である。太陽から地球大気上層までの空間には、ただ光のみがある。だから、高山の頂は太陽に近いけれども、そこはつねに寒く雪に覆われている)という記述がなされている。さらに、川本幸民(青地の義理の甥にあたる)の『気海観瀾広義』[14]の「天体」には、「太陽は炎炎として火の如しと雖然れども暗体にして光を発する蒸気輪ある者なり光線の熱性あるは他の原因に係かるといひ...」という記述で始まるハーシェルの太陽モデルに近い説が紹介がある。これらの記述の元になった西洋の説のうちのおもな一つがハーシェル説であったといえそうである。しかしながら、青地、川本のこれらの著書にはハーシェルの名前は出てこない。


5.まとめ

 日本における「ハーシェル」の初出は、私が見つけた限りでは、渋川景佑の英単語メモ『諳厄里亜天学語録』にある「単語」としての「herschel」の記述である可能性が高い。しかし、そこでは「ハーシェル」が惑星の名として把握されており、人名であるとは理解されていない。この記述がなされた年代ははっきりしないが、1827年頃である可能性がある。また、宇田川榕菴の化学書『舎密開宗』(1837)にはハーシェルが「ヘルスケル」として現れ、そこにはハーシェルによるとされる光速の引用がある。ここでは、それは人名と理解されているが、光速の値の起源は明瞭でなく、それがハーシェルの業績を反映したものといえるか疑問である。

 1810年代以降、天王星の存在が日本人に知られ、観測まで行われていたにもかかわらず、その後40年以上に渡って日本で「ハーシェル」の名とその業績が正しく結びつけられていなかったとするならば、それは少し意外なことである。それは、蘭書の天王星の記述においてハーシェルの発見経緯についての記述が不十分な場合が多かったことに起因しているのかもしれない。それでも、天王星の発見者としての「ハーシェル」の記述が、今後の探索によって見いだされることに希望をつなぎたい。

 ハーシェルのさらにもう一つの業績として、恒星の分布の測定とその運動に研究が挙げられる。しかし、ハーシェル以降の時代の西洋での恒星宇宙の研究に触れた日本の蘭学書はこれまで見つかっていないので、この方面でハーシェルの名を探索することはできていない。また今後この方向で収穫が得られる可能性は残念ながらきわめて低いと考える。
 

 謝 辞

 J・ハーシェルの『談天』、荻原氏の幕府天文方関連の研究、W・ハーシェルの学説、論文の紹介などについて指摘・教授をいただきました日本ハーシェル協会の角田玉青氏に感謝します。角田氏は研究の途上の要所要所において重要な助言を下さいました。また、渋川景佑著の文献とその閲覧に関してお世話になりました伊藤節子氏と国立天文台図書室に感謝します。


 <文 献>
1] J.ハーシェル原著「談天」偉烈亜力 口訳、李善蘭 刪述(中国版)1859. 福田泉 訓正(日本版)1861.(早稲田大学古典籍データベース)
[2] 荻原哲夫「伊能忠誨星図と天王星検出一件と『星学手簡』(その1、2)」 「天界」Vol. 89, 71-75, 295-299、東亜天文学会、2008.
[3] ゴロヴニン「日本幽囚記」"Записки флота капитана Головина о приключениях его в плену у японцев" 1815 ロシア.(http://fershal.narod.ru/Memories/Texts/Golovnin/Golovnin.htm 日本語訳「日本幽囚記」岩波文庫、「日本俘虜実記」講談社学術文庫)
[4] 兀老尹 著「遭厄日本紀事」馬場貞由 (ほか)訳 、高橋景保 校 1825(北方未公開古文書集成 第6巻、叢文社)
[5] 「英国航海暦1795」、"The Nautical Almanac and Astronomical Ephemeris for the Year 1795", London, 1794. (グーグルブック)
[6] 「英国航海暦1828」、"The Nautical Almanac and Astronomical Ephemeris for the Year 1828", London, 1825. (グーグルブック)
[7] 高橋至時「諳入利亜暦考」1802. (東北大学図書館 和算ポータル)
[8] 「明治前天文学史」 日本学士院編、日本学術振興会、1960.
[9] 渋川景佑「諳厄利亜航海暦」1827.国立天文台蔵. http://library.nao.ac.jp/kichou/open/029/
[10] 渋川景佑「諳厄里亜天学語録」成立年不詳. 国立天文台蔵. 
[11] 帆足万里「窮理通」1836序. (日本科学古典全書第1巻、朝日新聞社、復刻版有り、早稲田大学古典籍データベース)
[12] 野村正雄「『窮理通』の主要典拠ながら忘れられていた蘭書」科学史研究. 第II期 41(224), 193-202, 2002. 日本科学史学会.
[13] Jacob de Gelder, 「一般地理誌」"Algemeene Aardrijksbeschrijving" 1803-08, Amsterdam (国立国会図書館 http://www.ndl.go.jp/zoshoin/zousyo/bibliography/syosi.html#17_2
[14] ボイス原著、川本幸民訳述「気海観瀾広義」1851-57. (早稲田大学古典籍データベース)
[15] Johannes Buijs, "Volks-natuurkunde, of onderwijs in de natuurkunde voor mingeoefenden", Amsterdam, 1831. (グーグルブック)
[16] 渋川景佑、足立信行 編 「新法暦書続編」、1846. (日本科学技術古典籍資料 天文学篇3 (近世歴史資料集成)、科学書院)
[17] 宇田川榕菴 「舎密開宗」1837.(早稲田大学古典籍データベース、中村学園図書館)
[18] 宇田川榕菴 「舎密開宗 復刻と現代語訳・注」田中実 校注、講談社 1975.
[19] W. Herschel "On the Nature and Construction of the Sun and Fixed Stars", Philosophical Transactions of the Royal Society of London, 85, 46-72, 1795.
[20] Johannes Buijs, 「理科教科書」"Natuurkundig schoolboek" オランダ. "Natuurkundig schoolboek"を題名の一部に含むBuijs著の書は19世紀前半に3編ほど出版されている。(グーグルブック、日本での写本は早稲田大学古典籍データベース)
[21] W. Henry "The elements of experimental chemistry", Philadelphia 1831.(グーグルブック)
[22] 青地林宗「気海観瀾」1827.(早稲田大学古典籍データベース、文明源流叢書第2巻)


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