上原貞治氏の
「『日本におけるハーシェル』初出の探索」を読んで


佐 藤 明 達

 (本稿は、佐藤明達氏からの私信−2009年11月4日付け−を同氏のご了解を得て掲載するものです。なお、各節のタイトルは、管理人の判断で便宜的に付けたものであることをお断りします。)

 前略 「日本ハーシェル協会WEBだより」第6号をお送り下さり、誠に有難うございます。礼状を差し上げねばと思いながら、多忙にかまけて遅くなりましてすみません。上原貞治氏の“「日本におけるハーシェル」初出の探索”をたいへん興味深く拝読しました。

 ★19世紀初頭:幕府天文方は天王星を何で知ったか

 足立佐内、馬場佐十郎たちが天王星のことを何で知ったかということですが、大崎正次著「天文方関係資料」(1971)p.27に、「Swinden, J.H.: Lesen over het planetarium, tellurium, en lunarium. Amsterdam, 1803(惑星儀、地球儀、月球儀教程)天体儀説 全一冊」という本があり、これに天王星も載っていたでしょう。これは蕃書調所旧蔵天文暦学書の一冊です。

  渡辺敏夫著「近世日本天文学史」(下)(恒星社、1987)p.964の年表に、「文化八年(1811)馬場・大槻等ショメールの百科全書の翻訳(厚生新編)に着手」とあり、ショメール百科事典の蘭訳本(1778)とその補遺(1793)の選択的和訳が厚生新編ですから(「科学史技術史事典」弘文堂1983、p.349)、この中に天王星の記事もあったでしょう。

 渡辺前掲書p.963に「文化七年(1810)ヅーフ参府、天文方高橋景保ヅーフを宿舎に訪う」とあり、この時天王星のことを聞かされたのかも知れません。ラランド著 Astronomie の蘭訳本は1773〜80年の出版ですから、これには天王星は載っていません。

 ★19世紀前半:五星法と天王星−暦学者にとっての新惑星

 渋川景佑は、「文政甲申(七年)〔1824〕初春 臣景佑偶暗厄里亜航海暦ニ新緯星烏刺奴斯ノ経緯度南中時分等精細ニ書載スルヲ見得タリ 其諸数ヲ重新ニ授与シテ其南中ノ諸数ヲ測験セシム…」(渡辺前掲書、p.667〜8)と述べ、重新に観測を依頼しました。重新の観測手記は同書p.668以下にあります。渡辺氏によれば、「至時は京都における改暦の任を終えて帰府するや、さらに精確なる五星法の必要を痛感して、まず力を火星、金星の実測に注ぎ、ついで土木の二星に及んだのであった。水星は、これら4星が完結した後で、取りかかるつもりであった」。

  至時は天王星の存在を知ってはいましたが、まず五星法(惑星位置推算法)の完成を志したのだと思います。もし彼が病に倒れなければ、天王星の計算にも手を付けたでしょう。 至時が「暗乂利亜暦考」に天王星を入れなかったのは、観測には望遠鏡と星図が不可欠で、暦学者には手に入れにくいものだったので、あえて省いたのでしょう。

  幕府天文方は正確な暦を作るのが職務でした。ラランドの著書は天文学全般を扱ったものですが、至時はそのうち暦に関係する部分を抜き書きして「ラランデ暦書管見」を著しました。天文方の役人たちは暦の制作のみで満足していたから、天王星発見の天文学的重要性には思い及ばなかったのでしょう。

 ★幕末期1:「気海観瀾広義」に見る天王星の記述

 川本幸民著「気海観瀾広義」〔1851‐1857〕は、三枝博音編「日本古典科学全書」第六巻(朝日新聞社、1942)pp.61〜333にも載っていて、p.125に「原書は文政十一年(1828)和蘭人ボイス氏著す所の『アルゲメーネ・ナチュールキュンジフ・スコールブーク』と題せる者にして、初学に理科の大意を知らしめむが為にする所なり。…今これを抄訳するに方あた〔ルビ〕りて、傍ら天保二年(1831)同氏の著せる『ホルクスナチュールキュンデ』及び「イスホルヂング」氏著す所の医科必読格物書等を合はせてこれを摘し、且つリットロウ氏の説を交へ、以て其闕を補ふ」とあります。つまり、「Johannes Buijs: Algemeene Natuurkundig Schoolboek, 1828」を主とし、それに「J.Buijs: Volks-Natuurkunde, 1831」ほかを参考にして「広義」を著したというわけです前者は textbook of general sciences、後者は popular science の本でしょう。

 第四巻「天体」中に、「近来は穀星ユラニュス〔ルビ〕等の数星を発明す」とあり、「ユラニュス」とルビをふっています。「数星」とは天王星や小惑星のことでしょう。小惑星発見史と異なって天王星の発見史の記述はありませんが、天王星は他の大惑星と同格に扱われています。巻末の太陽系図には、天王星を取り巻く6個の衛星の軌道図が描かれています。原書出版当時はハーシェルの発見した2個しか知られていなかったはずですが。

 また「第一図…穀〔原文は穀を○で囲んだ表記〕は穀星なり。八十四年又八日に一周す。二箇の輪あり。其一は日中線に従ひ、一は昼夜平線に従ひ、縦横交叉して直角をなし、日光をこゝに受けて以て主星に反射す。且つ六箇の月あり。此星我を距ること甚だ遠きが故に、最も大なる望遠鏡を用ゐるに非ざれば、視認むること能はず。恐らくは月数なほ多かるべし」とあり、輪の存在を予言していたような書きぶりです。ただし第二図の惑星の大きさ比較図では、天王星に輪は描かれていません。直径は土星の半分ほどで、ほぼ正確です。

  穀星の距離(軌道半径)がボーデの法則に合致することも記しています。天王星の発見(1781年)によるその距離がボーデの法則(1772年)を満足することが、小惑星の組織的捜索を促したのでした。

 ★幕末期2:「気海観瀾広義」に見る光速の記述

 「気海観瀾広義」巻十四「光」の項には、「光素は、太陽より分かれ来るとして考ふるときは、其動極めて疾速にして、八分時十三秒中に我が身に到る。これ一秒時に四万一千獨逸里許を過ぐるの速なり。(割注:…一本には、八分時十三秒に一千三百万里、一分時に二百万里を走る。…又一本には、光は一秒時(即ち脈一動)に四万一千五百獨逸里(即ち地学理)を過ぐ、即ち八万三千里たりといふ)」とあり、光速度は8.3万里/秒=33万km/秒となります。

  三枝博音前掲書には広瀬元恭訳「理学提要」(1856)が含まれており、巻首に「西洋度量考」という和洋度量衡の比較があります。「科学史技術史事典」(弘文堂、1983)にも「メートル法以前の各国単位」という表がありますが、やはりよく分かりません。なお、川本幸民は青地林宗の三女秀子と結婚しました(渡辺敏夫、前掲書、p.426)から、幸民は林宗の女婿ということになります。

  ブラッドリーは光行差の観測から、太陽から光が地球に届くまでの時間を8分13秒と求めました(1729)。一方、1761年と1769年に起った金星日面通過の観測から、太陽視差の値が8″.5〜8″.9と求められました。これから光速度が計算されます。正確ではありませんが。

 ★幕末期3:天王星記載書と「ハーシェル」の用例について

 天文方一同御預之分天文窮理書類(渡辺敏夫、前掲書p.377)の中に、「カイヅル(人名)、ゲシキーデニス デルオントデッキンゲン ファン プラネーテン 1851年版 全一冊」があります。原名は「Frederik Kaiser: De Geschiedenis der Ontdekkingen van Planeten(惑星発見史)」で、天王星の発見はもちろん書いてあるでしょう。渋川景佑も眼を通したと思われます。

  蘭学者高野長英(1804‐50)が脱獄逃亡中、弟子の内田弥太郎(五観いつみ、1805−82)に頼まれて訳した「遜謨兒四星編」(1846)という手稿があります。原書名は「Johann Gottfried Sommer: Tafereel van het heelal, of bevattelijke en onderhoudende beschouwing van het uitspansel en van den aardbol, 6 dln, Amsterdam, 1829-34(宇宙の景観、即ち天界と地球についての分かりやすく面白い解説、6巻)」で、彼はその第1巻第27章「Van de laatslelijk ontdekte Planeten Ceres, Pallas, Juno en Vest(最近発見された惑星ケレス、パラス、ユノ、ヴェスタについて)」を訳しました。

  ボーデの法則を述べた個所に「地球ノ太陽ヲ距ルノ度ヲ十分トナス時ハ…兪刺扭斯ハ八百九十二分トス」とあり、「兪」〔原文は「輸」の旁に同じ〕は「兪」、「扭」は「杻」のことでしょうから、彼はこれを「ユラヌス」と読んだのでしょう。ケレスの直径については、「又「ヘルッセル」ノ測度ニ従エハ尚其直径三十五里ニ過キズト云」、パラスの直径は「但シヘルッセル人名〔割注〕ニ従エハ其直径ハ僅カニ三十里トシ…」などと、専ら小惑星の直径の測定者の一人としてハーシェルの名を挙げています。

  もう一つ、「Diederick Geelhoed: Hemel Globe(天球), 1826」の第1巻第1章の「Beknopte Schets van den oorsprong der Serrkunde(天文学略史)」を訳した「星学略記」という手稿もあります。その末尾近くに「而シテ其新星学家ノ魁タル者ハ即チ加斯多涅尓カーストネル〔ルビ〕人名〔割注〕…費亜西ピアシ〔ルビ〕仝…暴垤ボウデ〔ルビ〕仝…歇略泄尓ヘリュッセル〔ルビ〕仝…等是ナリ」とあり、原書のKäSTNER, PIAZZI, BODE, HERSCHELに対応します。ハーシェルは「その他大勢」といった扱いです。この手稿は出版されなかったので、ごく僅かな人しか読まなかったでしょう。

 これらの手稿の影印版は、高野長運編「高野長英全集」第四巻(第一書房、1978)にあります。なお須川力著「高野長英」(岩手出版、1990)には、長英の訳書の解説があります。須川氏は「遜謨兒」を「ソンモル」と書いていますが、長英は「ソンムル」と読んだはずです。

  文献を調べたり、書き継いだり、描き直したりで、ご返事が遅くなってしまいました。お詫びします。

 ★補遺(2010年3月24日付け私信):天王星と日本人

 中山茂著「日本の天文学」岩波新書、1972に次の文章があります。

  塚田大峯〔つかだたいほう〕(1745−1832)は(中略)「月はただ一天にくまなく冴えわたりし月を見て賞するばかりにあるべくして、其月はいかなる理にて照せるなんどと、たしかに目に見えぬ事を考へてかれこれ謂ふは皆無益の論にあるべし」。天文などは学問ではなく技芸である。だから暦などは、月の大小と寒署の候だけあれば十分だ。それ以上の深い研究は無用、ということになる。

  菅茶山〔かんちゃざん〕(1748−1827)も『筆のすさび』で天王星発見の報に触れて、それを評して「天文は授時の外は何事に用あらん。無用の弁、不急の察、いづれかこれにしかんや」という。(中略)儒者だけでなく、滝沢馬琴(1767−1848)のいうように、「究むべからず、弁ずべからざる天を、よに有がたき理もて有としもおもほえぬ事をしも説くものは…人まどはしの所為なるべし」というのが一般人の宇宙論に対する態度であったといえよう。まことに醒めた感覚である。宇宙について思いをめぐらすこと自体、奇矯なことに属する。宋学的思弁を打ち破った破壊の論理は、そのままでは近代科学を受け入れる基盤とはならない。

  天文方が天王星にさしたる関心を示さなかったのは、このような日本人の心理から理解できます。詳しくは中山氏の本を読んで下さい。

  現代の日本人もこの感覚を共有していて、物事を客観的に見ようとしません。子供も大人も理科離れしているのはこのためかと思われます。


デジタルアーカイブのトップにもどる

日本ハーシェル協会ホームページ