更新2004/01/21「ことば・言葉・コトバ」
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表現よみにおける「理解」と「表現」
――インターネット事件の拾いもの――
『日本のコトバ』21号所収/2002年11月刊行)


コトバ表現研究所 渡辺 知明

 1 はじめに
 この論文を書くきっかけは、わたしのWebサイトで起こったある事件である。わたしがインターネットにホームページを開設して足かけ五年になる。早い時期から表現よみの録音作品も載せている。四年目には「掲示板」も設置した。匿名でも書き込めるので、メールより気軽に発言できる。ところが、それを悪用して、今年(2002年)の一月と三月、二度にわたって、あやしい書き手が現われた。わたしのよみと表現よみの考えを非難する書き込みを繰り返したのである。(すべての書き込み記録は、わたしのコメントを加えてWebサイトに「掲示板事件全記録(1)−(5)」として公開した。)
 一回目は最初からけんか腰の書き込みだったが、わたしは敬意をはらって応対した。しかし、発言はしだいにからかい半分の誹謗・中傷となっていった。わたしは、仕方なく「掲示板」を閉じた。(抗議と報告)それから、また二ヵ月ほどして再開すると、同じ書き手がまた現われた。前とはちがう丁寧な口調だったので、わたしは同じ書き手とは思わなかった。ところがあとになって、同じ書き手だったことが分かった。
 書き手は男である。メールアドレスはもちろん、自らの存在を示すような情報はいっさい明そうとはしなかった。架空の夫婦の二タ役を演じて親しく近づいてきたものの、最終目標はやはり、わたしのよみと表現よみ理論への攻撃であった。女ことばで書かれた慇懃無礼な文体で、皮肉と当てこすりを交えてチクチクと責めてきた。最後には、ふたりの子どもを登場させて、「果たし状」まがいの書き込みをした。それで、わたしは再び掲示板を閉鎖した。(掲示板閉鎖の記事)
 その翌日、わたしのもとへエンピツ書きのハガキが届いた。住所は書かれていない。二人の子どもの連名で、わたしが呼び出しに応じなかったことを責める文面であった。だが、文字は正確で筆致に乱れはない。まちがいなく、おとなが書いたものだ。わたしはそんな努力のしかたに精神の異常さえ感じた。数日後、さらにまた封書が届いた。差出人は女の名前だけで住所はない。すべて筆で書かれた丸い字体である。わたしの住所にも地名がなく、郵便番号と数字だけ書かれている。名前につけられた「さま」という仮名書きの文字がいやらしい。あとで、その丸い文字が男のものだとわかったときには気味が悪かった。
 手紙はA4の感熱紙にプリントされた四枚だった。ワープロで作成したらしい。二度にわたった書き込みの「種明かし」と、わたしへの最終通告であった。ただし、種明かしとはいっても、それもまた虚構で、現実の書き手が名を名乗ったわけではない。しかし、話しの都合上、その書き手をM氏と呼ぶことにする。
 M氏は手紙の中で、「祖父」という寺の住職を登場させて、五項目の提言をした。その文面もあまりに馬鹿ばかしいのだが、M氏がどんな人物か想像してもらうために引用する。(注釈なしには了解不能のところもあるが、ここでは触れずに置く)

1 「表現よみ」を本来のものに御戻しください。三省堂新書などに大久保忠利くんが書かれたものを「初心」として、その「初心」をこそ忘るべからず――と、私はひたすら願っております。あなたが大久保くんを尊敬されるのであれば。
2 「表現よみ」の指導は、初心に返るならば、もちろん不要であります。これは荒木茂氏にも申し上げたいことです。
3 大久保くんはかつての「朗読」を批判して「表現よみ」を創案しましたが、もはや当時のような「朗読」はこの世に存在しません。ありもせぬ「朗読」をでっちあげて批判するのは、もう、お止めください。(声の「朗読」論は見苦しいものでした。)「表現よみ」の優位さを喧伝する「ためにする批判」は、大久保くんの是とするところではありませぬ。
4 他人への批評は、批評されるのを嫌うあなたがすべきものではありません。自己批評をこそすべきです。自己研鑽とともに。
5 このたびも又あなたは同一文体を見抜かれてしまわれました。見苦しいものでした。あなたはかほどに文章が拙劣であります。書くのも読むのも標準以下であります。文章の指導はお止めください。
西蓮寺住職 朝比奈陽源

 掲示板で事件が発生してから、わたしはインターネットとパソコンの技術を使って、書き手の正体を突きとめようと努力した。掲示板の閉鎖後も調査を続けた。そして、相手がM氏であると確認したときにはおどろいた。「朗読」に関して社会的にも名のある人物だったからだ。その後、M氏は書き込みの場を失って逆上したのか、わたしの知人たちのサイトの掲示板へ押しかけて行って無礼な書き込みを続けた。知人たちは混乱させられ、一時、掲示板を閉鎖するなどの精神的な被害を受けた。わたしは応援に出かけて行った。そして、知人の掲示板に、相手がだれか分かっていること、書き込みを続けるなら名前を公表すると書いた。それでようやく書き込みはやんだ。(しかし、のちにM氏は別のサイトで出版詐欺を行った。「山陰龍魚会」/尾野貢事件簿全容について
 以上のような経緯で掲示板事件はようやく終息した。正直いって、わたしは精神的にひどく傷つけられたが、その一方で表現よみについて考えなおす一つの機会を得た。作品のよみ方と表現よみの理論について、さまざまなことを考えさせられた。
 というわけで、この論文は、「転んでもただでは起きない」というつもりで書くことにしたのである。
 
 2 「理解」と「聞かせる」こと
 M氏の最後の手紙は、からかい半分の馬鹿げたものだが、がらくたの中から掘り出し物が見つかることもある。
 次の「祖父」の発言は、表現よみの根本的な問題に触れている。それは「理解」と「表現」との関係である。
 「大久保くんの創案の「表現よみ」は、ひたすら自らの理解(読解)のためのものであり、人に聞かすためのものではありません。それゆえ、アクセントだろうが何だろうが、全く促われる必要が無いのであります。大久保くんはその著書で、広く「表現よみ」をすすめていました。だれにでもできることだからであります。」
 たしかに、表現よみの本質は「理解のためのもの」である。だからといって、「聞かすため」の表現よみが成り立たないという結論にはならない。単純にあれかこれかと考えるM氏にはそれが理解できない。二つの要素が対立しながら共存することは現実にはよくある。M氏の思考の基本は形式的な論理である。二つの概念を並べたとき、お互いの関係をとらえようとしない。その代表が「朗読」と「表現よみ」という概念である。この二つはまったく排除し合う関係に置かれている。それがM氏の考えの最大の問題点である。掲示板の書き込みでもよくわかるし、手紙でも、わたしがWebサイトで「朗読批評」をすることについて「本質的に畑違いの「朗読」の批評を盛んに行うのはいかん」と書いている。
 わたしが「表現よみ」の理論の立場から「朗読」や「語り」をとりあげて批評するのは、そこに音声表現という共通基盤があるからである。しかも、わたしは文学作品をどうよむか、その表現に限定して批評している。わたしの批評の中心は、よみ手が文学作品のテキストをどう理解し、どう表現しているかという点である。
 表現よみでは、声に出しつつ文章を理解することを重視する。十年ほど前の表現よみは、よみ手自身にとっての理解が実践の中心であった。それは、聞き手を意識して声を張り上げて朗々とよむような朗読とはちがっていた。よみ手が理解したかぎりの内容を素直に表現した。自然で正直なよみではあったが、声の表現は地味であった。
 だから、一方では好評を得たが、他方では不満もあった。「たしかにアナウンサーや俳優の朗読と比べると、自然な感じで聞きやすいけれど、聞いているうちに眠くなってしまう」という意見もめずらしくなかった。「表現よみ」とはいうものの、「よみ」はあっても「表現」の魅力には欠けていたのである。
 そんな実践が反省させられるきっかけがあった。「第5回表現よみコンテスト(1998.12.5日本コトバの会主催)」のあとのことである。入賞しなかったプロのナレーターから、抗議に近い内容の手紙が寄せられた。わたしは審査員としての責任から、その手紙への返信のかたちで論文を書いた。それを雑誌『あゆみ55号』(1999.3日本コトバの会)に載せるとともに、編集者と相談して、「アンケート=聞かせる表現よみとは?」という特集を組んだ。わたしも回答者のひとりとして理論的な提言をした。
 わたしが述べたのは、表現よみの基本は「理解」であるが、聞き手の前でよむときには、「伝達」のための工夫も必要だということである。それは「理解」を「伝達」に置きかえることではなかった。よみの本質が理解であることに変わりはないが、人前でよむ場合、表現よみも聞き手あってのものになるのだ。
 表現よみの本質は「聞き手ゼロ」である。一般の「朗読」には、ことばや声そのものを聞かせようとする「聞かせ意識」がある。その意識をはずしてみるという考えである。それによって、よみ手は文章の内容を理解することに集中できた。それを基礎として、聞き手を目の前にしたときには、どのような表現が必要かという問題を考察したのである。
 日本コトバの会では、これまで三十年以上、表現よみの発表会を続けてきたが、「聞かせる」ための場を設けることについて批判もあった。その根拠は、よみの本質は「聞き手ゼロ」だというものであった。しかし、大久保忠利氏は、発表会の意義について、「よみ手が内容を理解してよむのを、たまたま聞き手がいて聞いてもいいだろう」と語っていた。
 そして、発表会の仕方についても具体的な助言を述べた。一つは、マイクを使う方がいいということである。ナマで大声を張り上げると、文章の内容への意識の集中を妨げるからだ。また、腰かけてよむべきだということも言った。人前で立ってよむと、足がふるえたり緊張が起こってしまうからだ。どちらも、作品の「理解」をめざすための注意であった。
 また、大久保氏は「表現よみの訓練が内言の鮮明度をきたえてくれる」とも述べた。「内言」とは意識の内部の声、いわばイメージの声である。黙読でよみとったイメージの声は実際の声に表現してみないと、どんな声になるか確認できない。だから、表現よみをするのである。しかし、よみながら自分の声を聞くだけでは、その表現の評価はむずかしい。それでテープレコーダに録音してあとで聞いてみたり、他人の評価を受けたりするのだ。発表会をめざすときには、より的確で正確な表現をする訓練になるのである。
 表現よみの理論において、「理解」を本質としたのは、そこに「朗読」の欠点があったからである。いま流行の『声に出して読みたい日本語』の著者である齋藤孝氏は、文字を声に変えて声を張り上げるよみ方を指導している。そこには、目で見た文字を音(オン)に変えるような「理解」はある。しかし、表現よみで意識的に行う文章の「理解」は求められていない。声に出していればいつの間にか記憶に残るだろうという安易な実践である。
 もちろん、その実践がまったくムダだというわけではない。実践には、理論によってすくいきれない効果も潜んでいる。表現よみでも、理論化されずにいる要素はまだあるだろう。しかし、結果としての効果は偶然のものである。せっかくの実践なのだから、より大きな成果をあげたい。そのためには、目的意識をもつべきである。有効な理論に導かれた実践こそ、より大きな成果を上げるのである。
 人前で表現よみをするとき、よみ手は二重の聞き手を持っている。第一は、自らの意識のなかで自らのよみを聞く「聞き手」である。これがよみ手自身の「理解」を確認する相手となる。自らのよみ声を自らで聞き直して、理解や解釈にまちがいがないか、的確かどうか確かめるのである。
 第二は、発表の場で、じっさいに目の前で聞いている「聞き手」である。聞き手の前で、表現よみをする場合には、「聞き手ゼロ」というよみ手の意識内の「聞き手」と同時に、実在の「聞き手」という二重の聞き手をもつことになる。
 以上のべたように、表現よみが「理解」を本質とすることは、「聞かせる」ことを排除するわけではない。「聞かせる」ためによみ手自身にも「理解」が必要である。よみ手がテキストを理解せずによんだのでは、聞き手の注意をひく力がない。よみ手自身の理解が支えとなってこそ「聞かせる」よみが成り立つのである。
 近ごろの表現よみは、「たまたま」聞いてもらうのではなく、作品のよみとよみ手の表現を聞いて楽しんでもらうことを目ざしている。作品の声の表現はどこまでできるのかについて積極的に検討されている。それでも、よみ手自身によるテキストの「理解」が本質であることに変わりはない。

 3 「よみ」とは、どういう行為なのか?
 それでは、そもそも、声に出して本をよむとはどういうことなのか、
 次のような二つの言い方がある。

  A 声を出して本をよむ
  B 声に出して本をよむ

 助詞ひとつのちがいであるが、その差は大きい。表現よみの本質はBである。
 「A 声を出して」というと、「声」を出すこと自体が目的となって、よみ手が声だけを意識しそうである。ちなみに、齋藤孝氏の書名は『声に出して読みたい日本語』であるが、実践の場では「声を出して」よませているように見える。(参考=渡辺知明/文章の「読み」と「朗読」―齋藤孝「声に出して読む理想の国語教科書」批判)
 それに対して、「B 声に出して」というと、よみ手の意識するべき課題がいくつも考えられる。いったい何を声に出すのか。何か声とは別のものを声に出すなら、その行為は「表現」である。表現とはいったい何かというのは、大きな問題なので、ここでは簡単に述べておこう。
 わたしたちが声に出して本をよんでいるとき、二つの表現をしていることになる。一つは、テキストに書かれた内容の表現、もう一つは、よみ手自身の何かの表現である。人が何かの行為をするとき、その直接の目的をはずれた意味があれば表現とみなされる。「表現はしません」というアナウンサーのよみ方でも、いかにもアナウンサー口調が表現される。よみの表現は二重である。よみ手の声から字づらを聞くか、声の表現を聞くかという二重性である。テキストの音(オン)は同じものに聞こえるから、漱石の「坊ちゃん」はだれがよんでも「坊ちゃん」の話しである。
 ところが、同じテキストでもよみ手によってずいぶんちがった印象を受ける。それはよみ手の声の表現がちがうからである。クラシック音楽の演奏で同じ曲が演奏家によって変化するのと同じである。そのちがいこそ、「表現」の本質なのである。本を声に出してよむことは、ただテキストの文字を声にするだけではないのだ。それは「朗読」でもいえる。「朗読」というと、だれにでもできるものだと思われているが、それはテキストの文字を音(オン)にする段階である。
 細かいことを言えば、同じ音(オン)と判断される個々人の声そのものにも微妙なちがいがある。わたしたちは、そのちがいを捨象して同じ音(オン)と判断して聞いているのである。だれでも本をよんでひとつひとつの音(オン)を伝えることはできるが、その先の「表現」の段階においては、初歩のレベルから芸術といえるレベルまである。表現よみは、初歩の段階から高度な段階までのよみの発展を視野におさめた理論なのである。
 
 4 文を「よむ」ということ
 さて、ここで、わたしたちが声に出して本をよむとき、どのようなよみ方をしているのか、素朴に考えてみよう。
 わたしのよみ方を例にする。今、わたしの目の前に一冊の本がある。本を開くと、左右のページに、細かい活字がタテ長の四角いかたちで、タテ書きに収まっている。タテ四十二文字で、右が十五行、左が十七行である。
 右ページの右上に目をやると、ひとつながりの文字が見える。

 「女の人に物をおくるということは、」

 わたしが本をよむときに一目で視野にはいるのは十五文字くらいである。ちなみに、いま見ているのは、わたしが古書店で買った本、室生犀星随筆 女ひと』(初版1958、32刷1983/新潮文庫)の最初の作品「えもいわれざる人」(10頁)の冒頭である。
 本をよむというとき、声を出す出さないにかかわらず、まず漢字が問題にされる。ひらがな、カタカナはたいていの人がよめるので、世間では、漢字さえ読めれば本が読めるものと思うようだ。しかし、文字がよめることと、本がよめることとは意味がちがう。
 この文の「女」「人」「物」といった漢字は、さほどむずかしくはない。しかし、どれにも複数のよみ方がある。「女」には、「おんな」「ジョ」「ニョ」、「人」は「ひと」「ニン」「ジン」、「物」は「もの」「ブツ」という具合である。
 この文で、「女」のよみを「おんな」と決めるのは、語句のつながりである。ふつう文をよむときには、文節の単位で区切りながらよみすすむ。
 この文なら小学生でも次のような単位に区切れるだろう。

 「女の/人に/物を/おくると/いう/ことは、」

 まさか、次のような区切りをする人はいないだろう。

 「女/の/人/に/物/を/お/く/る/と/い/う/こ/と/は、」

 しかし、日本語をはじめて見る人には、どの文字とどの文字とがまとまるか判断するのはむずかしいことである。
 文節に区切った段階では、語句のつながりに関係なく「ことは」の「は」のように「ワ」という音(オン)でよまれる。「は」が「とりたて」の副助詞であると理解したうえで成り立つ判断である。
 文節の見当がついたら、「女の」を声に出すことになる。その前に、「女」の意味が人間の女性だと分からねばならないが、それは漢字のよみ方と同時に理解される。また、助詞「の」を手がかりにして「ジョの」とか「ニョの」とかの通例がないことも理解できる。
 さらに、「の」は「人」とつづけて「女の人」というまとまりになる。しかも、「人の物」ではなく、「人に物」であるから、「人に」で区切って間がとれる。それではじめて、「オンナノ」とよみ、「ヒトニ」とよみつづける。そして、「ニ」とよんで間をとったとき、「に」が対象や方向を示す助詞だとわかる。つまり、「女の人に」向かう対象が「物を」なのである。
 そして、「おくる」という動詞をよんだとき、文の主語が省かれているときの通例として、その主体が書き手である「私」だと判断できる。「たぶん、この随筆を書いている室生犀星のことだ」と読者は想像するのである。
 以上のように、わずか十五文字でも、声に出すときには、これだけたくさんの判断が必要なのである。文字を音(オン)に変えるだけなら単純である。しかし、文章の理解となると多くの段階がある。a文字について、b音(オン)について、c単語の意味について、d文の要素のはたらきについて、e文の要素と要素との関係について、などが総合されるのである。
 今あげた項目は、文の意味をとらえるためのものだが、文と文とがつながって文章になり、さらに文学作品ともなると、理解すべきことはますます増えてくる。よみ手は、それらを理解しながら、作品をよみすすめるという大変な作業をするのである。
 表現よみでとりあげるのは文学作品である。文学作品は文章で書かれている。文章は文字の連続であるが、一文字一文字の単位でよむのではない。先に見たように、いくつかの文字ごとにまとまった意味のある単語としてよむのである。さらに、単語のまとまりは、文法的には文節となって、文節同士の結びつきができている。
 ただし、文節のつながりについて一つの問題がある。文節が次つぎと順序よく次の文節につながって文の意味が成り立つなら、声に出して文をよみながら理解することはやさしい。ところが、困ったことに、文節は順序よく次へ次へとつながるとは限らないのである。
 これについて、もう一度、犀星の冒頭の文をとりあげてみよう。次のa、b、cは、わたしが語句をまとめて理解する単位である。

「a 女の人に b物を cおくるということは、
 d たいへん e嬉しい fものである。」

 わたしの場合、この文は二つの部分として目にはいる。abcと、defの固まりである。abcのつながりは、一目で見られるので、基本的な意味はつかめる。表現よみのスローガンでいうなら、「目でよんで→からだで感じて→声に出す」の「目でよんで」の段階である。意識はよみとった意味に反応はするが、まだぼんやりしている。そこで、その反応を自ら確認するために、語句の固まりごとに声に出してよむのである。
 まず、「女の人に」は「オンナノヒトニ」(ナにアクセント、ヒトニは平板)と声にしたとき、疑問や連想が浮かぶ。語句のイメージ、対立語や同類語と比較される場合もある。
 文をよみすすむときのわたしの意識を、そのままことばにしていくなら、次のような具合になる。(以下、カタカナは、そこを声に出してよんだという意味である。傍点はアクセントの位置を示す)
 「オンナノヒトニ――女の人か、「女に」というよりも、やさしい感じがするな。また、「女性」というよりも、あたたかさがあるぞ。「に」があるから、だれかが女の人に何かをしようというのか。ああ、そうだ。「物をおくる」のだったな。モノヲ――「物」というのは物質的な感じだな。「オンナノヒト」というやわらかいことばの響きから、ここで口を閉じて息張るように変わった。オクルトユウコトワ(文字と発音がちがう)――おや、主語がないままよんでみたら、自分がおくるような気持になっているぞ。「ということ」でまとめられて、その行為が「――は」と問題にされている。だれの行為だろう。それがどうだというのか。もしかしたら、このあとに「私にとっては……」というようなことばが出てくるのだろうか」
 ここまでが前半部分の意識である。このうえに、後半の意識が重なるのだ。後半をよみ始めようとすると、またdefのひとつながりが目に入る。
 「タイヘン――「たいへん」だって、たいへん何だっていうのだろう。このあとは、たしか「嬉しい」となるのだ。そうか、悪いことではないのだ。ウレシイ(シにアクセント)――なるほど、心が楽しくなるような思いなのか。こういうことばを口にすると自分の心も動いてくるぞ。次に出てくる「である」は偉そうな言い方だから、重々しいよみ方になりそうだ。モノデアル(ノにアクセント)――なるほど、やはり重々しい言い方だ。こういう言い方をする人の思いがわかるような気がする」
 こんな調子でゆっくり声に出してよんでいくと、一つ一つのことばについての思いが浮かぶはずだ。単純な音読よりもずっと時間がかかるが、それも理解のために必要な時間なのである。その文章を書くときに書き手が想像したり考えたりしたことが、文のながれを通じてよみ手にもつかめるのである。
 ここで注意すべきことがある。それは、ある語句についての意識が次の語句ではなくもっと先の語句につながる場合、よみ手自身の意識でつなげなければならないことである。たとえば、aはbを飛び越えてcと結びつく。よみ手の意識は「a女の人に」→「cおくる」とつながる。また、abcは、dとは直接つながらずにeとつながる。「女の人に物をおくるということは」→「嬉しい」とつづき、その全体がさらに「fものである」でくくられるのである。どちらの場合も、よみ手の意識は宙ぶらりんの状態に耐えている。自分の声をどこにつなげようかという意識があれば、この一文は意味をもって声に表現されるのである。
 ところが、初心者は文節のまとまりでよむと安心してしまうから、文節ごとに音(オン)が下がって弱くなる。それから、次の文節をよみはじめるときに、さあよむぞと構えるので、はじめの音(オン)が強くなる。その繰り返しで、文節ごとに頭が強くて終わりが弱いという単純なリズムができる。その典型が学校の授業で教科書をよむときのよみ方である。
 いくらか、よみに上達すると、とにかく句読点までは緊張が維持できるようになる。しかし、こんどは別のリズムが生まれる。文の出だしで強くあるいは高く出て、文末では弱くあるいは低く収めるというリズムである。それがまた、いかにも「文章をよんでいます」という調子になるのである。

 5 「理解」のための工夫
 では、どうしたら、こんなよみ方から抜け出すことができるのか。先に述べたような文節ごとに生じる疑問や予想を意識しながらよみすすめばいいのである。そのためには、二つの心がけがある。第一は、ゆっくりよむこと、第二は、記号づけをすることである。
 第一については、よみのテンポを常識的な速さよりもずっと遅くするということである。そうすると、よみながら余裕を持って内容を理解したり考えたりできる。いま流行している「速読」とはまるで逆の方向である。
 わたしたちの観念には、すらすらとつかえずに早くよめればいいという価値観がある。おそらく学校教育で養われたものだろう。そんなよみ方は文字に反応して声を発するための訓練である。学校でだれかに教科書をよませるのは、聞き手に文字のよみ方の確認をさせるためである。よみ手に求められているのは、文字を声にする機械的なはたらきである。
 たしかに、初歩の音読では、文字をすらすらよめることが基本的な目標になる。また、できるだけ早く音読から黙読にうつるべきだという教育者もいる。しかし、わたしはむしろ「遅読」をすすめる。声を出しながら表現してよんで、黙読のときと同じように内容を理解できるよみ方である。それこそ、音声表現をともなった言語教育の課題になるだろう。
 わたしは初心者には、一目では理解できない作品を選んで、ことばをかみしめるようにゆっくりよむことをすすめている。次つぎに文字を追って早くよんでしまったら、文章の内容は理解されず、さまざまな疑問や予想は未消化のまま、声だけが響くよみになる。だから、音読したあとで、また黙読して考えなければ内容を理解できないのである。
 世の中に行われている「朗読」の多くは、よみ手自身の理解の欠けたものである。よんでいる当人が中身が分かっていない。それでも、文字のはたらきと同じように情報を伝えることは可能である。そのようなよみが「朗読」だとする考えも世間には多いのである。
 だが、それでは「朗読」ということばがもったいない。「朗読」には、辞書にも書かれているように、文学の鑑賞や表現の可能性があるのだ。文学作品の朗読ということになればなおさらである。人間の声はすぐれた表現装置である。人間の感情と直接に結びついた繊細な心情の表現ができるのである。しかし、残念ながら、今の日本では「朗読」の価値は依然として低いものにとどまっている。また、「朗読」の実践者たちも、そのような低い評価に甘んじているのである。
 第二の記号づけについて、わたしは『表現よみとは何か―朗読で楽しむ文学の世界』(1995明治図書)で基本的なことは書いた。これは文章をよむための単なる目印しではない。文の意味を的確にとらえて声に表現するための分析方法なのである。だから、作品の最初のよみから、声に出しながら記号づけを実行するべきである。文章には句読点がついているが、音声の表現の区切りと文字の表現の区切りとは必ずしも一致しない。声の表現のためには独自の区切りが必要なのである。
 記号づけには、文の文法的な構造を分析するものと、文学作品の「語り」の構造を分析するためのものと二つに分かれる。文については、句読点以外のところにつける切れ目の記号がある。わたしは、a区切り(文字の間に半分入れる線)、b間(文字の間を貫く長い線)、cつなぎ(読点をつなげてよむ)の三つに単純化している。
 「語り」の構造の分析については、三とおりのカッコを使用している。a間接話法(地の文にある人物の会話。記号は「 」、カギと呼ぶ)、b内言(地の文にある人物の心の声。記号は( )、カッコと呼ぶ)、cアクセント(「語り手」や人物によって強調された語句。記号は〈 〉、山カギあるいは山カッコと呼ぶ)である。
 以上の原則的な記号がこれまで使われてきたが、最近の研究から二つの工夫が生まれた。
 一つは、「切りかえ」というものである。先に述べたように、ある語句が次の語句につながらずに、その先の語句につながる場合の記号である。文字の間の右わきに、漢文のレ点のようなVの記号をつける。そこで、よみ手が意識を緊張させて、つながるべき語句まで維持するという意味である。
 もう一つは、プロミネンスの工夫である。どんな文にも原則としてプロミネンスがあるという発見である。音声表現理論でもプロミネンスについては語られている。その語句を強くよむとか、高くよむとか、ゆっくりよむという技術も述べられている。しかし、一般の朗読は、常によみ手の声を均一にしているので、プロミネンスも単一で表現力の乏しいものである。
 今回の工夫では、プロミネンスの表現の基本を、これまでの地声によるもののほかに、一オクターブ上げた声を付け加えたのである。プロミネンスすべき語句のわきに、二重の傍線や波線を引くことにしている。それによって、日常の言語表現にあるプロミネンスの表現を文学作品のよみの表現に応用できるのである。(この二点については別の機会に書くことにする。早く知りたい方は、毎月第4土曜日に行われている日本コトバの会「コトバ総合研究会」「表現よみ勉強会」の例会に参加されるとよい。参照「表現よみ理論入門」

 6 表現よみの未来のために
 四十年近く前、大久保忠利氏が、音声表現の世界に「表現よみ」という呼び名で新しい朗読の理論を持ち込んだ。文学作品をよんで声に表現することを研究して、「よみ」の本質を明らかにするためであった。その後、日本コトバの会を中心とした研究と実践を通じて、表現よみという名称は学校教育などの分野にはいくらか広まった。だが、一般の社会ではまだまだ通用するものにはなっていない。
 今、一時期盛り上がった「朗読」ブームも、そろそろ沈みかかっているように見える。それもブームの当然の成り行きだろう。しかし、「朗読」ブームをきっかけにして、声の表現に関心を持った人たちは決して少なくないはずである。
 今後の声の表現の課題は、次のような単純な問いかけで表わすことができる。この単純な問いかけには、音声表現の本質に関わる重要な意味がある。
 「あなたは声を出して本をよみますか、それとも、声に出して本をよみますか」
 今後、日本に文化において音声表現の重要性が定着するかどうか、音声表現が日本人の思考や行動と結びつくかどうか。「朗読」ということばが音声表現の本質を含んだことばに発展するかどうか。それらの課題が実現されるかどうは、今後の表現よみの理論と実践で、どのような成果が生まれるかにかかっていると、わたしは考えている。(了)
『日本のコトバ』21号所収/2003年11月刊行)