更新2002/11/05「ことば・言葉・コトバ」
【特集・聞かせる表現よみとは?】

「聞き手ゼロ」と表現よみ
渡辺知明

 これまで、「聞き手意識」は必要だが「聞かせ意識」は不要だといわれてきましたが、「聞かせる表現よみ」というと「聞かせ意識」も必要になります。
 「聞き手ゼロ」とは、大久保忠利が「「表現よみ」序説――10年間の自己訓練からの試論として」で述べたことです(『大久保忠利著作選集 第四巻 生きたコトバU[読み・書き]』1992年。三省堂)。

 「はじめてから五、六年目」のころ、聞き手を意識から消して、「自分の満足にいくように読む」こと、「ただし、聞いている人の反応も計算に入れる」ことを考えたそうです。そして、結論として、「聞かせようとする聞き手はゼロだが――聞いている人がいれば反応を起こす、その反応は考慮に入れる」という「境地」だと書かれています。
 その意図は、聞かせる意識が強くて演出過剰になりやすい朗読の欠点を避けるために、いったんは「聞き手」を意識から外して、ゼロにしてみるということでした。しかし、大久保は晩年には「聞き手は有って、無い」という言い方もしました。それは実際のよみの技術的な提案ではなく、よみの原理でした。
 聞き手の前でよむときには、必ず聞かせる意識があります。一人でテープレコーダに録音するときと、五十人の前で読むときでは、よみの調子は変化します。しかし、よみが根本から変わるということではありません。表現の基礎には、作品の内容と文章表現の理解がなければなりません。それを無視した朗読では、作品の表現にはなりません。「聞かせる表現よみ」こそ本来の朗読なのです。
 表現よみでは、まず自分が自分の声の聞き手にならねばなりません。自分のよみを客観的に批評しながら聞ける聞き手を想定します。一人でよんだりテープレコーダに録音するときには、この聞き手がいれば十分です。しかし、「聞かせる表現よみ」として、人前でよむときには、実際の聞き手が存在しますから、「聞き手」は二重になります。

 二重の「聞き手」に向けたよみの注意点を次のようにまとめてみました。

 A 想像上の聞き手(想定する聞き手=抽象的な存在)――よみ手による内容理解(作品のトーン、心情、人物、情感、「語り手」の設定、文体の理解、作品の評価(批判よみ)、間(マ)と区切り01、テーマ、内容、文のつながり、など)
 B 実在の聞き手(そこにいる聞き手=具体的な存在)――聞かせるための演出(発声、発音、声の大きさ、会話と地の文の区別、語句の意味、間(マ)と区切り02、速さ、テンポ、メリハリ、など)

 「聞かせる表現よみ」では、AとBの関係が問題です。Aの確認と批評を受けながら、Bに向けて、どこまで積極的な表現が許されるのでしょうか。それを理論的に明らかにするだけでなく、よみの実践において、よりよいよみを作りあげることが今後の課題です。(日本コトバの会文章教室編『あゆみ55号』1999年3月)