公開2004/01/26「ことば・言葉・コトバ」

丹綾和代の手紙

掲示板事件全記録」の追加資料として掲載します。下線は渡辺知明がのちにコメントを追加するつもりでつけました。事実の誤りあるいは問題を含んだ部分です(2002.12.23)。本文はA4の感熱紙にプリントされ、宛名はこんな筆文字で書かれています(2002.12.26)。後半に登場する「西脇新子」はM氏とコンビの実在の人物と思われる(2004.1.26)。

渡辺知明さま
                              平成14年3月30日
                              丹綾和代(代表執筆)
 前略失礼いたします。
 このたび貴「掲示板」が、「さがの朗読サロン」の方々からの批判を拒絶するためなのでしょうか、突然、私たちへのメッセージもないまま閉鎖されてしまいました。
 それでも、「ご意見・ご感想はメールでどうぞ」とあり、渡辺さまが私たちのおたよりをお待ちくださっているような気がいたしてなりません。新しい「花咲き山」は、渡辺さまの、私たちへのメッセージかと存じます。それで、お手紙をしたためさせていただくことにいたしました。
 私たちの願いにより、渡辺さまは、斎藤隆介作品の新たな「表現よみ」を公開してくださり、その勢いで「ML朗読表現を語る」を開設され、続いて、力作の「斎藤孝論孝批判論文」を執筆され、批判に答えての斎藤隆介作品の再録音を経て第1録音を消去され、わずか4日ほどの限定期間でしたが、<声の「朗読」論>をアップされました。今、それらが、一部は記録としてですけれども、すべて貴HPに残っています。私たちと交流の記録として、大切にいたしたいと存じます。

 さて、まず、祖父からのメッセージをお読みください。
祖父は大久保忠利氏と盟友でしたゆえ、「表現よみ」の事実上の後継者の渡辺氏に、ひそかに注目しておりました。しかし、草創の目的から逸れていく渡辺氏に、いつしか不満をおぼえるようになっておりました。
 次は、その祖父のことばです。

 性急な年寄の癖で、イソップの「北風と太陽」の、北風のような〈手紙〉を1月にさしあげました。外套を堅く纏い、ついぞ心の窓が開かなかったあなたは、「誹謗中傷」の語で一切を片付けてしまわれました。誠に惜しいことでありました。
大久保くんの創案の「表現よみ」は、ひたすら自らの理解(読解)のためのものであり、人に聞かすためのものではありません。それゆえ、アクセントだろうが何だろうが、全く促われる必要が無いのであります。大久保くんはその著書で、広く「表現よみ」をすすめていました。だれにでもできることだからであります。したがって彼は、「表現よみ」の指導者なるものを想像だにしてはおらなかったのであります。しかるに、あなたはその指導者になられた。しかも、「表現よみ」の用語をそのままに、第三者に読んで聞かせるようにもなられた。泉下の大久保くんはさぞよ嘆いておられるでありましょう。「表現よみ」が完全に異質なものになってしまったからであります。
 私は朗読は素人ですが、戦前戦中のラジオ世代でありますから、その善し悪しくらいは分かります。あなたの音声の「よみ」は、失礼ながら正直申して低質であります。幸い心ある専門の方々のご指摘で既に明らかになっておるとおりであります。そのあなたが、自らを顧みず、本質的に畑違いの「朗読」の批評を盛んに行うのはいかがと思うておりました。
また、畏友大久保くんは、文章道にたけた人でした。晩年は文章がやや独善に流れ、また文も乱れがちではありましたが。あなたは、私がご指摘申したように、音声表現はもとより、 文章を人に指摘できるほどの技量をお持ちではありません。
 そこで、改めて5点、ご忠告申し上げます。

1「表現よみ」を本来のものに御戻しください。三省堂新書などに大久保忠利くんが書かれたものを「初心」として、その「初心」をこそ忘るべからず――と、私はひたすら願っております。あなたが大久保くんを尊敬されるのであれば。
2「表現よみ」の指導は、初心に返るならば、もちろん不要であります。これは荒木茂氏にも申し上げたいことです。
3大久保くんはかつての「朗読」を批判して「表現よみ」を創案しましたが、もはや当時のような「朗読」はこの世に存在しません。ありもせぬ「朗読」をでっちあげて批判するのは、もう、お止めください。(声の「朗読」論は見苦しいものでした。)「表現よみ」の優位さを喧伝する「ためにする批判」は、大久保くんの是とするところではありませぬ。
4他人への批評は、批評されるのを嫌うあなたがすべきものではありません。自己批評をこそすべきです。自己研鑽とともに。
5このたびも又あなたは同一文体を見抜かれてしまわれました。見苦しいものでした。あなたはかほどに文章が拙劣であります。書くのも読むのも標準以下であります。文章の指導はお止めください。
                             西蓮寺住職 朝比奈陽源

(本名を1字かえた朝日奈、又、旧筆名の大道寺陽も使用いたしました。失礼多謝。)

 以上が祖父のメッセージ(原文のまま)です。
「北風」流の忠告では批判が相手に入らないのを痛感した祖父は、私と夫の丹綾芳春に、掲示板が再開しだい「太陽」流の交渉をしてほしい、と依頼してきました。折から、斎藤孝氏の奇矯な論文が話題になっており、そこから入るのが適当と判断した夫が、あの最初のお便りを差し上げたのはご記憶に新しいことと存じます。
 祖父は祖父、夫は夫ですから、渡辺さまに悪意もなにもなく、穏やかに交流を続けて来られたのは幸いでした。
 ところで、私の名、丹綾和代は、本名でございます。夫の芳春ももちろん本名です。夫は警察を円満退職し、4月1日から、芳春の両親が経営している私塾の一員に、私に遅れて加わります。
 1男2女も本当ですが、娘たちは実はまだ1年生です(4月に2年生になります)。蘭はひらがなで「らん」と書きますが、「すみれ」も含め、実名です。過日、三渓園で娘たちは渡辺さまが御出でになるものと楽しみにいたしておりました。2人で「死神どんぶら」を朗読して聞かせたいと申して、西脇さんの特訓を受けていたからです。それですから、三重塔の下でずっと留まって動こうとしませんでした。そういうこともあろうかと用意いたしておいたおはがきに書かせて、やっと納得させました。つたないおはがきですが、大事にとっておいていただけましたなら幸いに存じます。
 その娘たちが、渡辺さまの新しい「花咲き山」を一心に聞いておりました。優しさが以前よりも多少あって、それほど怖くないようです。
 さて、私たちはメールアドレスこそ伏せてきましたけれども、祖父からバトンタッチして私たち夫婦が掲示板に書かせていただくようになってからは、止むを得ない場合を除き、基本的には匿名を避けました。それで不都合はないと信じてまいりました。もうお気付きかと存じますが、「西蓮寺さん」とは、祖父のことです。友達も、西脇新子さん以下全員本名です。西脇さんは、あるカルチャー教室の朗読の講師をしていて、ついに10年選手になりました。
 作家志望だった祖父が貴掲示板に書いていたときには、文体実験と称して、「あゆ美」さんと「岸里」さんを登場させていました。祖父の病没したいいなずけの女性の名前が「岸里徹子」さんで、「あゆ美」は徹子さんとの間に女児が生まれたら付けたかった名前なのだそうです。95歳になっても、今なお忘れられないようです。男性の純な思いとは深いものなのですね。
 虚構はそれだけです。1月のときの「内藤節子」さまや「姫」さまや「いのうえ」さまたち、今回の「さがの朗読サロン」の方たちや「美原」さまたちなどのことは存じ上げません。未知のかたがたです。(「さがの」「美里」様とは、本名なのでしょうか。祖父が書いた名前を流用されたのでしょうか。気になるところです。)

 では、もう一つ、西脇新子さんのメッセージも、どうぞお読みください。

 いろいろお教えいたしましたのに、そっけないお礼のことばは少し残念でした。それ以上に残念だったのは、私の書いたことや、「さがの」の方たちや「美原」さまのご意見に、渡辺様が真面目に答えようとなさらなかったことです。狭く「アクセント」のことに終始して、あとはすべて誤魔化してしまわれました。1月のときも同じでした。優れたご発言が「内藤節子」様からもなされましたが、まっとうに向き合われませんでしたね。情けない事でした。これらのすべてに対し、今からでも、誠実に、良心をもってお答えになるべきと存じます。
 渡辺様は、今回、一切を投げ出し投げ捨て、一方的に、次のように書かれました。掲示板を読まれていた一般の方々は、渡辺様の詭弁をどのように思われたことでしょうか。きっと、まっとうなものから逃げたのだと思われたことでしょう。その「お知らせ」から新たに読み始められた読者でも、なにか変だなと渡辺様に疑いの念を持たれることでしょう。
さて、次の左側が「掲示板閉鎖のお知らせ」(部分)、右側は私の、それへの批判です。どうか真剣にお読みください。

・匿名の自由を悪用して無責任な発言をする危険もあります。これまで、わたしはねばり強くさまざまなやりとりをしてきましたが、冷やかし半分で書き込み、最後には誹謗中傷に終わる事件が繰り返されました。もう発展的・生産的な議論のできる状況ではなくなりましたので、
実名でも「無責任な発言」や批評を続けてきたのはあなたの方です。分かっておられるはずです。
↑「さがの」の方や私たちの批判を黙殺し、キレてしまっただけです。どこがねばり強いのですか?
↑あれを「冷やかし」と受けとる卑怯さ! 卑怯です。
あなたの批評と批判の一切こそ誹謗中傷です! 声の朗読論は「朗読」への誹謗中傷。あれを朗読と呼んで、よくお金を取って朗読が教えられますね。
真に発展的・生産的だったのは私たちの側です。

 渡辺様は、最終的にまともに発言できなくなり、それまでの全読者を裏切るようにしてこのような「お知らせ」を書かれました。ほんとうに情けないです。
批評大好き人間なのに、批評されること批判されることを何故あんなにも嫌がられるのでしょう? 〈鋭い批判〉で鳴らした某代議士が、〈鋭い批判〉を受けて辞任に追い込まれたニュースがありました。渡辺様は、その議員さんとは違って、今、貝のようにじつとされて批判の荒波をやり過ごそうとされています。潔くないと思います。みっともないと思います。それでも今までのように平然と活動なさるおつもりですか。きちんと反省していただきたいと存じます。
 もし真面目に反省なさらず、自己の向上に努めず、ひとさへの指導の仕事を御続けなさるのなら、受講されている「お客さま」たちにたいへん失礼です。
西脇新子

追記
 新たな「花咲き山」について。少しだけ。
・「やさしいことを一つすると」などの「やさしい」が「易しい」に聞こえます。
・「おらはいらねえから〜」にあやの心がにじんでいません。
・「縁つづき」は「峰つづき」です。
・「だあれも笑って」は変です。「だあれも 笑って ほんとうにはしなかった。」の係り受けを正しくしてください。
・「っておもうことが   あった」の「間」は変です。読み手の満足のための間になってしまっています。

 以上でございます。
 私は、思いがけず、いろいろと勉強することができて幸せでした。
 今、なんと申し上げてよいやらよく分からないのですが、私がただただ思うのは、渡辺さまが、残りの人生を悔いなく過ごされることでございます。
 「表現よみ」を捨てよ、とは申しません。真に自身のためになる「表現よみ」を追究されて、そこを経て、真に聞き手のためになる音声化表現(すなわち「朗読」)に辿り着いていただきたいと思うばかりでございます。そのためにも、どこかちゃんとしたところで、ほんものの「朗読」のお勉強をなさっていただきたいと存じます。
 早すぎる桜の散るのを惜しみつつ。
 どうぞご自愛くださいますように。
                                   丹綾和代