金光教教団史覚書

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独立請願運動

 (どくりつせいがんうんどう)

1885年(明治18)6月の神道金光教会の設立は、教祖在世中からの大願である教団独立への前段階であった。1884年(明治17)11月の太政官布達第十九号の発令によって、いわゆる管長制度がはじまり、既成の公認教派の管長の認証をへ、その教派から分派あるいは別派して、独立の公認教派となることができた。そこで教団創設の第一歩として、神道教導職を統括していた神道事務局に所属したのであるが、1886年(明治19)1月に「神道」という公認教派となり、その事務局は初代神道管長・稲葉正邦の指揮下の本局となったので、神道本局の統括をうける一教会となった。しかしながら金光教会と神道本局との教義・布教・運営上の矛盾は、教績の拡大につれて明らかになり、また金光教会の内部にも混迷をきたすこともあった。

 この間の事情について、「金光教独立請願理由書」によれば、まず教義の性格の相違について、「神道本局は、元来、持得の教義を有するものにあらず。単に我国の歴史的教義の上に樹立せるものたるに反し、我教は、教祖の立教せる信条教典を有し、純然たる教法的性質を具備するもの」と述べ、信仰の対象である奉齋主神の問題について「本教に於いては、教祖の定めたる奉教の主神ありて、之を信念して死生安心の地を得んとするにも係わらず、神道本局は、神道教規第二条に於いて奉祭主神を定め、同第三条に於いて……第二条の祭神を奉祀して然るのち、其教会の主神を祭祀すべき旨を規定したり、是において……本教の主神は却りて其客神として合祀せらるるが如き境遇に陥れり」と指摘し、教祖立教の大願に背くことをあげて、別派独立の必要性を強調した。

 また布教の現状について、「今や本教の有する分支教会は全国を通して二百有余に及び、教師の数は無慮九百有余人に上り、本教教師養成所として……金光教会学問所を設立し、本教に属する教師信徒の子弟を入学せしめ、……已に第一回の卒業生を出すに至れり」と述べ、しかるに「神道本局の宣教師、部下を巡教するに当りてや、本教の信徒にむかうて往々本教の主旨と相容れざる宣教をなす事あり。為めに信徒の疑惑を惹起したる実例少なからず。……然れども、神道教規の範囲内に検束せられたる本教は、又之を拒むの権能を有せず。………本教は其名ありて其実を行うこと能はざるものというも過言に非ず」と訴えている。

 さらに運営上の問題点として、「本教会長は、実際に於いて一教派の管長たるべき地位勢力を有せり、……然るに単に教規の法文に拠りて、其位置は却りて分支局長の下にあり。(神道の)分支局長は、本局に直系を有するを以て、往々、本教会の理事者に対しては相容れざる感情を抱き、之を排斥せんとする形跡少なからず。云々」と列記して、「本教が神道本局の管下に在りて、永く平和を保つべからざる気運を示すものにして、分派すべき時機漸く切迫せることを証明せるものなり。」と陳述している。

 そしてさらに、別派独立・管長別置の利点について、「本教が持置の管長を戴かんとするものは、啻に本教拡張の利便をのみ希望するものにあらず……神道本局との関係に於いても将来の紛紜を防ぎ、彼此両教の教義劃然として分明なるべし。……動もすれば、互いに相排斥せんとす今日に方りて、之を分離するは最も適当なる処置と信ず」とのべて、独立請願に対する認可を求めた。

◎ 運動の経過

 この独立運動は、すでに教団創設以来はじまっているが、具体的な行動のはじまりは佐藤範雄と神道本局幹事・野田菅麿との内々の協議の結果、1899年(明治32)5月22日に、教会長金光大陣、専掌・二代白神新一郎、 同・近藤藤守、同・佐藤範雄、信徒総代・藤井恒次郎ら5名が本局へ出頭して、二代神道管長稲葉正善から別派独立請願について承認の内諾があった。引き続き佐藤範雄は在京して、専掌・畑徳三郎とともに金光教教規・同教則の起草に着手し、なお神道本局の維持費の名目で壱万円を、神道管長添書の出願時におさめ、今までの義務金を免除するとの約定が交わされた。

 教規教則の草稿が成ると、金光教会長と白神・近藤・佐藤ら3人の専掌との熟議をへ、7月1日付けで「金光教別派独立ニ付御添書願」が神道管長に提出され、7月10日付けの「金光教別派独立願書」を内務大臣侯爵・西郷従道に差し出す同日づけで、佐藤範雄に本教別派独立請願全権委員を命じた。更に7月13日付けの岡山県知事・高崎親章から内務大臣宛「金光教別派独立ノ件添申」を得て、佐藤は7月22日に内務省社寺局へ出頭して、独立願書・教規教則(案)・神道管長添書・岡山県知事添申及び独立請願理由書・教典信条・その他の参考書類を提出した。書類の受理にあたって一悶着あったが、社寺局長・斯波淳六郎の計らいで受け付けられた。この時、佐藤は教宗派の別派分派を出願するものが多数で、長期にわたるも認可が得られぬ実状を知った。その時すでに政府当局は、宗教法案を帝国議会に提案する準備を進めていたからである。この法案は、この年12月に貴族院に上程され、翌1900年(明治33)2月21日に同院で否決されて廃案となった。その理由は、宗教の国家管理につながる恐れありと、仏教側のみならず神道側議員からも反対があったからである。ところで、この法案が成立していたならば、別派独立という公認教団への道は、はるかに厳しいものになったといわれる。 佐藤範雄は、出願後も殆ど在京して請願運動にあたり、その年を越してもつづけた。のちに、この時のことを「(1900年の)2月1日朝よめる雨の夜も雪の朝もかけめぐりつくすわが身ぞうれしかりける%人曳の人力車にて昼夜を別たず、局長・参事官・課長その他の関係者を訪問しては請願の歩を進む」と記述している。

 1900年(明治33)3月3日に考証官・荻野仲三郎から教義・救済・布教の各面にわたる質疑査問が行なわれ、佐藤は全権を委任された立場で即答した。殊に主神の神名・神性についての質疑は、「金乃大神は国常立命であると答えておいた」と、後に金光管長宛ての復命書で弁明しているほどであった。この質問は49箇条に及んだが、査問がおわるや荻野は、佐藤に「立派な新進宗教ぢや。安心せよ。明日は局長に報告する」と云った。翌3月4日、斯波局長と協議して、教師養成について金光中学に速成科を設け、教師の拡充を図ることとした。その後、独立願書は、内務省参事官会議をへて、3月25日に内閣に回付された。一方、金光教教規に対する内閲(審査)は、幾度となく改訂を命じられが、4月19日にいたって「教規教則認可願」を提出することが出来た。次に教則についての内閲が5月22日よりはじまり、なかでも教則第九号の教会所構造方式案に対して、参事官中川友次郎が「金光教は世界唯一の明教なりとの主張なれば、教会所構造方式も世界唯一の方式でなければならぬ」と提言したので激論となり、一旦は「請願を取り止める」とまで言い放った。佐藤範雄は、翌6月6日に斯波宗教局長(4月26日に社寺局は、神社局と宗教局とに分かれる)に呼ば、懇切な忠告と示唆を受けることができた。早速、畑徳三郎と協議のうえ千住説教所教師で大工棟梁の中島宗七を呼んで、宗教局属・安藤技師と伴に教会所の構造図面を、苦心惨憺のすえ作成したのである。その制作に数日を要したが、中川参事官も「これで宮でも寺でもない、金光教独特の構造方式ができた」と悦んで同意した。これで一切の審査がおわり、1900年(明治33)6月16日付けで、金光教の別派独立が認可された。同年6月18日付けの官報第5086号をもって、「内務省告示第六十一号 神道所轄金光教会ヲ分離シ金光教ト称シ一派独立スル事ヲ許可セリ 明治三十三年六月十八日 内務大臣侯爵西郷従道」と告示された。


 参照事項 ⇒ 教団創設運動  神道金光教会  神道事務局

       管長制度  教規・教則   独立関係文書