金光教教団史覚書

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教団創設運動

〔きょうだんそうせつうんどう〕

金光大神を教祖とする信奉者が、金光大神の教義を布教し、その信心を伝承していくために、国家の公認を得る目的で教団の結集をおこなった運動である。

◎ 動機・発端

1878年・(明治11)から金光大神の四男・金光萩雄を中心に、金神社再建をめざして公認を取得する動きがあったが、金光大神の望むところではなかった。その主たる理由は天地金乃神を奉齋することが許されなかったからであった。1882年(明治15)1月に、いわゆる神官・教導職の分離がおこなわれ、神官は葬儀等の宗教行為を禁ぜられた。そこで今まで神社に所属していた講社や教導職は、それぞれの神道教派として独立した。かねてより、金光大神の道の独自性が公然と布教できることを念願していた佐藤範雄は、備後国鞆津の沼名前神社宮司・吉岡徳明を訪ねて、教団創立の手続きについて尋ね、その方途として信条(教訓の箇条書き)を定めることを教えられた。佐藤は、金光大神にこの旨を申しあげて取次ぎを願った。金光大神は、「此方(生神金光大神のこと)は、独立してもせいでも、人が助かることさえ出来れば、それで結構である」と答えた。その真意をはかりかねた佐藤は、「金光様(教祖のこと)がお居での間は、仰せのとおりで結構でありますが、後のち何か書いたものがありませんと、世の流行神と同様に思われます」と、さらに押して願った。金光大神は、神前にこの旨を奏上すると「神の教えることを何かと書いて置くがよかろう」とのご裁伝があって、「あのような神様のお許しがあった」と、喜びを伝えた。そこで佐藤範雄と金光萩雄は、1882年(明治15)の夏より金光大神の語る「神の教え」を書き留め、校閲を請いつつ神誡・神訓の記録にあたり、翌る1883年(明治16)9月8日までに82箇条を算えた。同年10月10日金光大神は現身としての取次を終える、約1月前まで収録のことが、昼夜を問わず続けられた。

◎ 経過と背景

 佐藤範雄が、後に「神誡・神訓の拝記」と題して、このことが金光教独立運動の始まりであるとのべているが、当時の状況は、佐藤さえも信条の何たるかを知らなかったのだから、布教の公認についても、金光大神の側近者たちは神社の崇敬講社を目指す程度の認識であった。然るにすでに時代は、明治社会の近代化のなかで、教義を中心とする宗教が台頭し、既成仏教も教義の再解釈を目指す改革運動やキリスト教(新教)の流入と宣教活動など、教義論に基づく宗教活動が盛んになった。このような時代の潮流から言っても金光大神の話を聞いて助かる道≠ニいう信心が、その在世中に教義の結集をみたことは、近代的教団として成立するための基本条件がととのったことであり、この運動の第1歩であつた。

 1880年(明治13)前後から急激に信徒が増加してきた大阪布教は、その中心であった初代白神新一郎が1882(明治15)4月24日に死去し、またその門下である近藤藤守が違警罪で拘留されるなど、布教上の混迷期にあった。そこで1883年(明治16)の初夏、神道大阪事務分局から吉本清逸と亀田加豆美の2人が、布教公認の方策を進言するという名目で、信仰の実態を調査するために、金光大神を訪ねて来ることになった。二代白神新一郎と近藤藤守とは、その対応について金光大神の指示をうけて佐藤範雄と相談することとなり、6月10日夕刻に御領の佐藤宅を訪ねた。それから3人は、当面の神道事務分局員への対応のことのみならず、夜を徹して教団創設の方途を協議した。佐藤範雄は、6月12日に金光大神の広前へまいり、3者の協議の次第を上奏したところ、金光大神は「上下揃うた」と大変お喜びになったと伝えている。佐藤は、「このご一言にて、教祖(金光大神のこと)がご時節を待たせ給ひしご神意が伺い奉られる」と述べ、上は大谷(現金光町)より東方、下は大谷より西方の意で、東方から二代白神新一郎と近藤藤守の2人・西方から金照明神(高橋富枝のこと)と佐藤範雄の2人が打ち揃うて、教団創設の心願を立てることになったと解している。【信回65】 

 その年(1883)の11月28日に教祖五十日祭が仕えられて、遺業継承の旨が告げられた。この後で、金光萩雄・二代白神新一郎・近藤藤守・佐藤範雄の4人が教団創設の準備について打ち合せ、白神と近藤は布教の拡張につとめ、佐藤は公認の交渉を進めることになった。白神と近藤は、数年にして大阪・京都・兵庫の府県に教勢を伸ばした。一方佐藤は、玉島の羽黒神社祠官・大賀磐人の妨害を避けて、広島神道事務分局の協力を得つつ岡山・備中の両事務分局と直接の交渉をもち、1885年(明治18)3月15日に備中事務分局長・井上泰憲に「教会講社開設進達御願」を添えて「金光教会講社結収之件御願」の願書を出すに至った。同年6月2日付で神道管長・稲葉正邦の認可をうけ、次いで同じく6月10日付の「金光教会所設置願」を岡山県令・千坂高雅代理高津 暉に提出したが、この時、大賀の縁戚である浅口郡長・窪津義雄が故意に進達を遅らせたので、佐藤は自ら役所と県庁に出向いて督促せざるを得なかった。ついに1885年(明治18)6月13日付で、神道備中事務分局附属金光教会という形で、念願の教団が創設されたのである。  


 参照事項 ⇒ 金光大神の生涯W    信徒講社の結収

       金神社の再建 金光萩雄  佐藤範雄

       二代白神新一郎  近藤藤守