金光教教団史覚書

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神道金光教会

(しんとうこんこうきょうかい)

 神道関係の教導職を統括していた神道事務局の備中事務分局の付属の普通教会として1885年(明治18)6月13日付で結成され、「神道金光教会規約」を定めて、布教を公認された、金光大神を教祖とする信奉者の宗教集団である。そののち近畿・中国・九州の各地方の信奉者を結集統合し、1887年(明治20)11月21日付で「神道金光教会条規」を定めて、神道管長(本局)の直轄をうける六等直轄教会となった。教績の拡張、教勢の進展にともなって、1890年(明治23)8月12日付で四等直轄教会に、1891年(明治24)10月8日付で三等直轄教会に、越えて1898年(明治31)4月10日付で一等直轄教会となる。

◎ 奉齋主神                         

 教会創設時には、日乃大御神・月乃大神・金乃大神を主神とし、相殿として産土神と教祖神霊を奉齋した。【規約第二条】

 1886年(明治19)1月に神道事務局が、「神道教規」を定めて神道と改称したので、神道本局の直轄教会となった金光教会は、規約を改め「神道金光教会条規」を定めて、奉齋主神として神道教規第二条の祭神を奉戴し、ことに日乃大御神・月乃大神・金乃大神を天地金乃神と奉称し、主神として奉齋することになった。さらに相殿神として産土神と教祖神霊を鎮祭した。【条規第二条】

因みに、神道教規第二条の祭神とは、宮中所齋の神霊を奉戴し、殊に天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・伊邪那岐神・伊邪那美神・天照大御神・須佐之男神・皇孫命・大国主神・天津神八百万・国津神八百万ノ神を奉齋する。 

◎ 教義・教説

 『神道金光教会規約』には、その冒頭に「教会神徳大意」をかかげて日乃大御神・月乃大神・金乃大神の神性や恩徳について述べ、これら三神は、教祖金光大神の信心生活のなかで体験体得された、天地金乃神の恩徳であると説いている。次いで「神道金光教会規約緒言」と題して、教祖の遺教を拡張し、信徒は天性の善念を拡充して神恩に報じ、至尊(天皇のこと)の国体を明かにし、惟神ノ大道を遵奉し、生存中は人たるの通義に達し、死後は教祖とともに神たるの栄光を輝かし、顕幽一致・安心立命の地を得て、無窮の幸福を享受することを願いとする。さらに『神道金光教会条規』によれば、前記の神徳大意と緒言とを集約し、「神道金光教会大意」と題して条規の前文としている。その骨子は、神徳大意や緒言と同様であるが、『神道教規』に準じて、「三條教憲」の教旨を表面に立てて、国体明徴・尊皇愛国の思想を強調している。

 教祖の教えは、規約・条規ともに本条文において一章「慎誡」を設け、「真道乃心得」12ケ条を掲げている。このことは、教粗の在世中の願いであった天地金乃神の神名が、規定のうえで公認されたのとともに、意義深い。要するに、神道金光教会の教義は、当時の国家神道の思想を尊重しつつも、教祖金光大神の独自の教義の大綱を示している。また各地における布教や信心生活の実際も、概ねこれに基づいて行なわれていた。

◎ 組織・運営

金光教会の結成当初は、神道備中事務分局の指揮下にある普通教会という地方的な団体であった。したがつて金光教会の教師・教徒・信徒を直接に監督する権限は、備中国の地域にかぎられ、それ以外の地に居住して信心生活や布教活動をしていた者は、ぞれぞれの地域の神道事務分局に属して、その監督を受けることになっていた。金光教会を総括する所を神道金光教会本部教会所とし、一府県或いは一国の地域を分掌する所を神道金光教会分教会所と称し、一郡区或いは一町村を分掌する所を神道金光教会支教会所と称する。

 1887年(明治20)11月に神道管長(本局)の直轄教会に昇格した金光教会は、各地域の神道事務分局の指揮下にあった信奉者・講社を結収して、直轄する全国的な組織となり、教区を設けてその統括の事務を分掌する所を分所或いは支所と改称したが、1900年(明治33)5月までに、分所は大阪・芸備・由宇・難波・東京・小倉・京都の7ヵ所となり、支所は88ヵ所にのぼった。信奉者の戸数50戸を単位として講社を結び、講社の所在地の郡区を1教区とさだめ、講社の結集の順序にしたがつて教区番号をつけている。例えば、教会本部の所在地である岡山県浅口郡を第一番教区として、岡山県小田郡を第二番教区とし、順次、講社設立にしたがって教区番号を付し、1899年(明治32)末までに二百番を数えた。金光教会が普通教会時には、本部教会所に教長1人・幹事2人・専掌若干人らを置いて教務を総括し、分・支教会所に分・支所教会長を置いて教務を統理した。直轄教会に昇格してからは、教会全体に対する教務の統括者を神道金光教会長と称することになり、本部の運営の責任者として教監を置き、教会全般の布教を監督・監察する者を専掌とし、本部に神事・教務・講務・会計・庶務の5課を設けて、事務を分掌した。また分所・支所の責任者を分所長・支所長と称した。

 これらの組織や運営が、神道本局の制度に準じて行なわれているので、一見調うているが、教会の実態は、これらと別の信心の原理で行なわれていた。つまり教祖の在世中の結界取次が受け継がれ、取次者(教師)と信者との間の信心の授受が、日常の活動のすべてであった。したがって信仰の師弟関係であるA手続Bと、教団の統理関係である教務との違いを、両立させていくことに苦しんだ。

◎ 金光教会の主なる教績と出来事

 1885年(明治18)6月の金光教会設立から1900年(明治33)6月の金光教独立までの教績と出来事の主なるものを掲げる。

 @近畿圏における信徒講社の結収

 A山口県周防地方の信徒講社の結収

 B東京布教と九州布教の開始

 C旧広前の増築と金之神社の建築

 D教監・金光四神君(金光宅吉)の逝去と金光摂胤の取次継承

 E教師養成所(神道金光教会学問所〜金光中学)の創設

 D旧教殿の建築

 G 金光教独立請願運動            


 参照事項 ⇒ 信徒講社の結収事業  本部施設の造営 

       金光宅吉(金光四神貫行君) 金光摂胤 

       教師養成の沿革    独立請願運動