三浦半島の歴史 P5  

ファミリ−版 三浦半島の歴史 P5

参考文献;郷土出版社「図説・三浦半島の歴史 ーその歴史と文化」 文芸社「三浦半島通史」 三浦市「目で見る三浦市史」 司馬遼太郎「三浦半島記」 神奈川新聞社「三浦半島再発見」 郷土出版社「セピア色の三浦半島」 ほか
関連サイト;かねさはの歴史(古墳時代)〜 ;横浜の歴史(古墳時代・飛鳥時代)〜

(W)古墳時代〜平安時代 豪族による古墳の出現は三浦半島では四世紀中頃ですが、やがて半島は「御浦郡」として律令体制に組み込 まれました。 平安時代の後半には武士団が登場、半島中心部には三浦為道が衣笠城を築き、以後三浦一族が半島を支配し ます。

  <古  墳>
 古墳が三浦半島に初めて作られるのは畿内や九州
に比べ、やや遅れ四世紀中頃になってからと考えら
れています。その後七世紀にかけて次第につくられ
ていき現在24基の古墳が確認されていますが、いず
れも海岸に近いところに立地し、大きさはほかの地
域に比べると小型で、一番大きいものでも長柄・桜
山1号墳で全長90bです。(関連サイト:長柄・桜山古墳)
  <横 穴 墓>
 横穴墓は五世紀後半に九州の豊前地域で発生し、
以後徐々に東に伝わり、三浦半島では六世紀末頃か
ら作られたようです。
 この頃の横穴群は逗子市の山の根、横須賀市田戸
台、久里浜、鴨居、長居、佐島や三浦市菊名、向ヶ崎な
どに残っています。

  <御 浦 郡>
 大宝律令施行(701)年以前の三浦半島の政治的な
様子は殆ど不明ですが、日本書紀・持統天皇6(692)
年の記事によると、相模の国司が「御浦郡」において
「赤烏」のひなを捕獲して、朝廷に献上、朝廷は全国
に大赦を発令し、相模国の国司布勢朝臣色布智、御
浦郡小領(郡の次官、郡長官は大領・郡司)某と「赤
烏」を捉えた鹿島臣□樟たちに位と禄を与え、貢物
の献上を2年間免除したことが記されています。
 これにより当時は三浦半島一体は「御浦郡」と呼ば
れていたことが分かります。「御浦郡」は延喜式では
「ミウラ」と読み仮名がつけられています。
 古代律令制では各国は郡から成っていましたが、
相模国は足上、足下、餘綾、大住、愛甲、高座、鎌倉、御
浦の八郡からなり、郡の下の郷については735(天平
7)年の相模国封戸租交易帳には、御浦郡走水郷と御
浦郡氷蛭郷の名が見られますが、承平年間(931〜93
8)に編纂された倭名類聚抄では御浦郡には田津、御
浦、安慰、氷蛭、御埼の五郷が記されています。 

  <三浦半島と古代官道>(関連サイト・武蔵国への道)
 律令制の下で、七道の一つである古東海道は771年
(宝亀2)に武蔵国が東山道から東海道に編入される
までは相模国内を通過して御浦郡を横断して舟で
対岸の上総国に渡って行きました。
 駿河国正税帳(正倉院文書、諸国の米の貯蔵・使用
を記載した帳簿)には御浦郡から徴用されて都で衛
士(宮殿や中央官庁の警備にあたった人)や防人と
してこの古東海道を往来する人々の姿が描かれて
います。
 古事記にも走水から舟で上総に向かうヤマトタケ
ルノミコトの伝説が伝えられています。

 <古代人の暮らし>
 −集落と住居−
 縄文海進後、海水の入っていた谷戸は水が引き、谷
戸の口付近には砂丘が発達し、たびたび水害を受け
るようなこともなくなり、安定した場所となりまし
た。土地によっては丘の上のムラがなくなる所もあ
り、低地へ生活の中心を移していったことが分かり
ます。横須賀市浦郷町、馬掘町、走水、鴨居、久里浜、
長沢、津久井、芦名、三浦市諸磯、葉山町一色等の低
地にはこの頃の生活の跡が残っています。
 竪穴住居は古墳時代から屋根は四本柱で支えられ
た四角形でしたが五世紀中頃からは炉(囲炉裏)に
代わってカマドが住居の中に作られるようになり
ました。
 住居も竪穴式住居に加えて掘立柱建物(地面を掘
って作るのではなく、平地または高床の床をもった
建物で柱を埋めた穴の跡だけが残る建物)が現れま
す。
 −土器と生活−(関連サイト・土師器と須恵器)
 土器は弥生式土器のあとを受けて土師器(日本列
島の伝統的な焼き物で、出来上がりがレンガ色をし
た素焼の土器)に加えて朝鮮半島からもたらされた
須恵器(ろくろで形をつくり、高温で焼かれた灰色
の土器)が作られました。
 三浦半島に須恵器が入って来たのは五世紀後半で
、貴重品でもあり普段の生活には殆ど使われません
でした。この頃の須恵器の出土は古墳などからの副
葬品あるいは祭祀用としてのものです。
 金属器も農耕具や工具ばかりでなく、釣針など漁
具にも使われ始め、奈良時代の頃には生活の面で大
きな変化が見られるようになりました。
 −仏教文化の流入−(関連サイト・仏教伝来)
 朝鮮半島から538年に伝わった仏教は、その後聖武
天皇の国分寺建立などにより日本各地に広まり、三
浦半島でも奈良時代になると仏教文化が伝わりま
した。
 奈良時代の古東海道は三浦半島を横断し、そこか
ら房総半島へ渡るコースであったことは前に述べ
ましたが、この三浦半島のほぼ中央を通る街道すじ
の公卿町に曹源寺があります。曹源寺はかって宗元
寺と称され、寺の出来た由来を記した「縁起」によれ
ば、天平年間(729〜748)に立てられたものであると
され伽藍(建物の配置)は相模の国分寺と同じ方式
だったといわれます。相模の国分寺は高座郡海老名
に建てられましたが、御浦郡にも豪族の手により国
分寺と同じような規模の寺院がつくられたようで
す。
 ほかにも逗子市沼間の神武寺、同市久木の岩殿観
音堂、横須賀市衣笠の大善寺などが奈良時代後期か
ら平安時代初期にかけて建立されたものと見られ
ています。
 平安時代後期になると半島の寺院は1063(康平6)
年にこの地に入ったと伝えられる三浦氏の開発経
営に伴って建立された横須賀市衣笠城址周辺の清
雲寺、同市津久井の東光寺などがあります。

<三浦氏の出現>
 平安時代の後半になると日本の各地に武士団が登
場しますが、三浦半島に現れたのは三浦一族です。
 
 桓武天皇の孫にあたる高見王の子、高望王は上総
介として関東に下りましたが、高望王の子の良文は
919(延喜19)年に鎮守府将軍(陸奥軍政府の長官)と
なり、相模国司を兼任して大船の村岡に住み、村岡
五郎良文と名乗っていました。
 良文の孫に当たる平太夫為道は源頼義に従って
「前九年の役」に出陣し、その功績が認められて1063
年(康平6)年、三浦半島を与えられ半島の中心部に
衣笠城を築き「三浦」の姓を名乗るようになりまし
た。
為道の子、為継や一族の鎌倉権五郎景政もその後 源義家の「後三年の役」で活躍し、その勇壮ぶりが伝 えられています。 1180(治承4)年8月、石橋山の戦いに衣笠城を根拠 とする三浦一族は頼朝の加勢に向かいますが、途 中河川の氾濫などで手間取っているうちに、頼朝 の敗北を知り、衣笠城へ引き返しましたが、畠山重 忠の軍勢に囲まれ、篭城した三浦義明を残して一 行は房総に渡り、安房国で頼朝を迎えました。

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大塚復元古墳(横須賀市池田3丁目)
1924年発見、その後の調査により前方後円墳 3基と円墳3基が確認されました。 土地区画整理事業により姿を消しましたが、 その後80メートル離れた現地に復元されま した。

 御浦の地名

 作家の司馬遼太郎は「三浦半島記」の中で
御浦についてつぎのように記しています。
 
 浦とは、古来の地理用語で、入江、湾のこと
を指す。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この半島は、湾入部のほとんどが険しいリ
 アス式海岸であるに対し、横須賀市の海浜
 だけがうつくしい砂浜なのである。景観が
 、他の湾入部にくらべやさしい。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・
  みうらの "み" とはなにか。
 この接頭詞は、『広辞苑』によると、「神・
 天皇・宮廷などに属するものであることを
 表わす」というから、いまのよこすか海岸
 のこの浦は、単なる浦ではなく、なにか神
 聖なイメージが、当時にあったかと思える。
  察するに相模の国の御浦は、単なる漁村
 ではなかったのだろう。
  その背景に水田地帯を擁していたから、
 "み"が付いたのではないか。日本の古代国
 家は、コメが獲れないと、その地は尊ばれ
 なかった。
  ついでながら、地名事典をひくと、浦に
 "み"をつけた地名は、伊予(愛媛県)の宇和
 島など数ヶ所にその小地名があるだけで、
 大地名としては、この半島の名のみである。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・
関東の古代官道


 ヤマトタケルノミコトの東征
   (古事記、中つ巻・景行天皇五)
 
 ヤマトタケルノミコトは西国熊襲の平定が
 終わると、休む間もなく蝦夷の征伐のため
 東国に向い、相模の上総に行こうとして走
 水にさしかかりましたが、海は荒れ軍船は
 進むことが出来なくなりました。
  そこでお后のオトタチバナノミコトは海
 神の怒りを鎮めようと自ら海中に身を投げ
 たところ、波は静かになり船は進むことが
 できました。それから7日後にお后の櫛が
 海辺に流れ着いたのでヤマトタケルノミコ
 トはその櫛を拾い取って、お墓をつくって
 納め置きました。
走水神社(横須賀市・走水)
曹源寺(横須賀市池田3丁目)
もと宗元寺と言われ天平年間に創建され当時 から広大な寺域と大伽藍を擁していたと伝え られています。 現在は曹洞宗のお寺で1628(寛永5)年に代官 長谷川七左衛門長綱により、もと宗元寺薬師堂 跡に建てられたといわれます。 今の本堂は1932(昭和7)年に建立されました。

 鎌倉権五郎景政と三浦為継

 景政は後三年の役で合戦のさなかに敵の
矢を目に受けましたが、それにもめげず、
自分を射た相手を射返してから陣地に戻っ
てきました。これを見た三浦為継は矢を抜
いてやろうと景政の顔に足をかけましたが
、景政は為継の鎧(よろい)のすそを引きつ
け、刀で突き刺そうとしました。驚いた為継
が理由を尋ねると、景政は「弓矢に当たって
死ぬのは武士の望むところだ。だが生きて
顔を踏まれるのは我慢できない恥だから、
為継と差し違えて死のうと思う」と答えま
した。
 為継はその心意気に感じ、足をおろし膝を
かがめて矢を抜きました。
 このエピソードは「奥州後三年記」・「後三
年絵巻」に残されていますが東国の「つわも
の」の心情を今に伝えるものとされていま
す。

 三浦半島の城郭分布(関連サイト・衣笠城址)

三浦義明以下一族郎党が畠山勢と戦うた めに立てこもった衣笠城は山城であって、 近世の天守閣を持った城ではなく、天然の 要塞地に城主が館をつくり、万一の場合に 備えて防御のためにいくらか人の手を加え たものでした。 衣笠城が築かれたところは、三浦半島の中 心地で交通上、政治上から大変重要な地域 で城が築かれた時は、走水から海を渡って 上総国へ向かう古東海道はすでに北にルー トを変えていましたが、旧道として盛んに 利用され房総半島から京への近道としても 重要な道となっていました。
略 年 表
古墳時代 300 古墳がつくられ 始まる(長柄・桜山 1号墳) 海浜部に集落が 出来始める(夏島 町鉞切遺跡、神明 町蓼原遺跡、鴨居 島ヶ崎遺跡) 飛鳥時代 600 横穴墓が多く作 られる(佐野横穴 群、馬掘横穴群) 金属器、須恵器が 普及する 台地の竪穴住居 は小さくなり、低 地のムラに掘立柱 の建物が出来始め る 692 御浦郡で赤烏 が捕獲され、相模 国司布勢朝臣色布 智がこれを朝廷に 献上 奈良時代 735 「相模国封戸 交易帳」が作成さ れ、御浦郡走水郷 は山形女王、同郡 氷蛭郷は桧前女王 の食封とされる 平安時代 818 相模・武蔵に 大地震発生、圧死 者多数(三崎1.7メ ートル隆起) 857 慈覚、神武寺 を中興し宗派を天 台宗に改める 923 村岡五郎良文 陸奥出羽の探題職 を受ける 931〜8(承平年間) 「倭名抄」編集さ れる。相模国に御 浦郡あり、そこに 田津、御浦、氷蛭、 御崎、安慰の五郷 が記され、また鎌 倉郡に沼平卿が見 える。 1051 村岡良文の 孫、平太夫為道、源 頼義に従って奥州 安部氏と戦う。(前 九年の役) 1062 平太夫為道、 三浦郡を領し衣笠 城を築く。このと き初めて「三浦」を 称す。 1087 三浦為継(為 道の子)後三年の 役に源義家に従っ て戦う。 1092 三浦義継(為 継の子)の長男、大 介義明誕生。 1125 三浦義明の 長男、杉本太郎義 宗誕生。 1144 三浦吉次(義 継)、吉明(義明)父 子ら、清原安行と ともに大庭御厨に 侵入 1159 三浦義澄、平 治の乱に、源義朝 に従い京都で戦う 1177 源頼朝、三浦 をこっそり訪れ、 衣笠、久野谷に立 ち寄る。 1180 三浦義澄、京 都より下向の途中 、伊豆に頼朝をた ずねる。三浦義澄 ら一族、源頼朝の 挙兵に応じ三浦を 出陣。 三浦一族、丸子川 (酒匂川)辺で源氏 方の敗北を聞き引 き返す。その途中、 由比ヶ浜で平家方 の畠山重忠と戦う 衣笠合戦・衣笠城 落城、三浦義明討 死、三浦一族阿波 へ。 三浦義澄ら、阿波 で源頼朝を迎える このとき、和田義 盛、侍所別当職を 望む 源頼朝、鎌倉に入 る。和田義盛を侍 所別当に任ず。 1182 源頼朝、妻政 子安産祈願のため 、佐原義連を芦名 の三浦十二天に代 参させる 源頼朝の側室亀 前、飯島の家を政 子の命を受けた牧 宗親の破却され、 鐙摺りの大多和三 郎義久(三浦義明 の三男)の館に逃 れる 1184 佐原義連、一 の谷の合戦で源義 経に従い、鵯越の さか落しに活躍 源範頼、平家追討 使として鎌倉を進 発。三浦義澄、和田 義盛ら従軍。 1185 源頼朝、政子 とともに栗浜明神 (現在の住吉社)に 参詣。 1189 和田義盛の 発願により、仏師 運慶、芦名浄楽寺 の阿弥陀三尊像、 不動明王、毘沙門 天立像造立。 源頼朝奥州へ進 発、三浦義澄、義村 、和田義盛、佐原義 連らもしたがう。 佐原義連、戦功に より会津四郡を賜 る。