三浦半島の歴史 P6  

ファミリ−版 三浦半島の歴史 P6

参考文献;郷土出版社「図説・三浦半島の歴史 ーその歴史と文化」 文芸社「三浦半島通史」 三浦市「目で見る三浦市史」 司馬遼太郎「三浦半島記」 神奈川新聞社「三浦半島再発見」 郷土出版社「セピア色の三浦半島」 ほか
関連サイト;かねさはの歴史(鎌倉時代)〜 ;横浜の歴史(鎌倉時代)〜

(X)鎌倉時代〜室町時代 源頼朝に従った三浦一族は北条氏と肩を並べる鎌倉幕府の重鎮となりましたが、やがて北条氏によって打 倒され僅かに残った佐原三浦氏も後北条氏によって滅ばされました。 この間の三浦一族の盛衰は戦国時代の日本の歴史そのもので、離合集散を繰り返し血なまぐさい戦いを続 けました。

  <源頼朝と三浦氏>
 衣笠合戦で敗れた三浦一族は房総に向かい、石橋
山の合戦で敗北を喫した源頼朝を安房国で迎えて
、上総介広常、下総千葉介常胤ら有力な豪族ととも
に富士川で平家と戦い、これを破りました。 
 頼朝は相模国府で手柄のあった三浦義澄に「三浦
介」の名を許し、和田義盛(三浦義明の孫)には彼の
望みで侍所の別当に任命しました。

 <和田合戦(建保の乱)>
 1199(建久10)年、源頼朝死後、北条氏が政治の実権
を握ると、頼朝以来の有力御家人を次々に滅ぼし、
北条一族で政権を独占しようとします。
 1200(正治2)年梶原景時、1203(建仁3)年比企能員、
1205(元久1)年畠山重忠、平賀朝雅といった人々の
ほか二代将軍頼家を幽閉ののち暗殺、翌年北条義時
は父時政を追放して執権体制を固め、侍所別当とし
て勢力のあった和田義盛とその一族の滅亡を企て
義盛を挑発し1213(建暦3)年、挙兵した義盛と和田
一族を滅ぼしました。

  <三浦氏の栄光と没落>
 三浦義澄の子義村の弟胤義が当時京都大番役で在
京中の時、後鳥羽上皇に誘われ1221(承久3)年承久
の乱に上皇側に加担しましたが、幕府軍に敗れ自害
、その遺児たちも義村の手によって殺されました。
 義村はその後執権北条泰時に協力、北条氏と肩を
並べる幕府の重鎮となり三浦氏の最盛期を築きま
した。
 1239(延応1)年義村が亡くなると、その子泰村が三
浦氏の家督を継ぎ三浦介を継承し、評定衆の一人と
して幕政に関与しその勢力は一段と強くなりまし
たが、泰村の弟光村の北条氏打倒の計画が発覚、三
浦氏の声望を妬んだ北条時頼の外戚にあたる安達
景盛は時頼の協力のもとに三浦氏打倒を図り、敗れ
た泰村は1247(宝治1)年、頼朝の墓所である法華堂
(現在の白旗神社のあたりにありましたが、明治5年
神仏分離令により白旗神社が建てられ頼朝を祀り
法華堂は廃されました)にこもり、一族276人ととも
に自害、惣領家一族は滅び、僅かに一族の佐原氏が
北条氏との姻戚関係から時頼に味方して三浦氏を
継承しました(宝治合戦)。

 <三浦一族と仏教文化>
 1180(治承4)年、源頼朝は鎌倉に本拠を定め、やが
て幕府を開くと積極的に中央の文化を取り入れ、三
浦の地にもその影響が及びます。
 三浦半島での寺院開創は1189(文治5)年の和田義
盛による浄楽寺(横須賀市・芦名)、1194(建久5)年頃
の源頼朝による満昌寺(横須賀市・大矢部)、1212(建
歴2)年の伝和田義盛による薬王寺(横須賀市・大矢
部、廃絶)、1224(貞応3)年までに佐原家連らによっ
て伽藍が整備されたと考えられる満願寺(横須賀市
・岩戸)などの建立が伝わっています。
 -運慶と東国武士-
 1185(文治元)年源頼朝は父義朝の菩提を弔うため
、鎌倉初の本格的寺院である勝長寿院を建立、本尊
の阿弥陀如来像を作るにあたって中央から奈良仏
師の成朝を招きましたが、これに伴って同系の康慶
、運慶ら慶派と呼ばれる仏師たちと鎌倉の縁が結ば
れました。
 和田義盛が開基した浄楽寺に祀る阿弥陀三尊像、
不動明王像、毘沙門天像(各寄木造)の五体の像は、
1189(文治5)年に運慶の制作によるものです。

 <佐原三浦氏の登場>
 宝治合戦で三浦惣領家は滅びましたが、義明の十
男佐原義連の孫盛時が、佐原氏における初代三浦介
となり、その子孫が鎌倉幕府や室町幕府とも関わり
を持ちながら、かっての勢威には遠く及びませんで
したが三崎、南下浦を中心として三浦半島南部を支
配しました。
 -霜月騒動(1285)と三浦一族-
 三浦氏を滅ぼしたのち、北条氏の権力はさらに拡
大し、なかでも家督をつぐ得宗(北条義時の嫡流)の
勢力が強大となりました。それにつれて得宗の家来
である御内人と、本来の御家人との間の対立も激し
くなり、時宗の子貞時の代になると、1285年に有力
御家人の安達泰盛が御内人の内管領(御内人の頭)
平頼綱に滅ぼされました(霜月騒動)。これにより得
宗専制政治になり、全国の守護の半ば以上は北条一
門が占めて、各地の地頭職も北条氏が握ることにな
りました。
 この騒動では、佐原三浦氏の芦名頼通や泰親・時守
兄弟などが、安達氏側にたって安達氏と運命を共に
したといわれます。
 -正中・元弘の変(1324〜1333)と三浦氏- 
 正中・元弘の変がおきると、幕府は大軍を西に向か
わせました。三浦介時継も笠置山攻略のため鎌倉を
出発し、一族の時明も楠木正成のこもる赤坂城攻め
に参加しました。佐原一族はこの時期は幕府側とし
て戦いましたが、幕府滅亡の際、甲斐の南部時長らと
幕府方から新田方に寝返っています。
 -中先代の乱(1335)と三浦氏-  
 北条高時の遺児時行が鎌倉幕府復活を図って信濃
の諏訪氏の助けを借り武蔵で足利直義らを破り、鎌
倉を占領しましたが、東下した足利尊氏に敗れた中
先代の乱では佐原氏の去就は分かれました。
 三浦時明とその子時継は北条時行に従って鎌倉を
攻めましたが、時継の子高継は父と行動をともにせ
ず尊氏に味方して京から鎌倉に向かっています。
 時行敗走後、時継は捕らえられ京都六条河原で斬ら
れ、時明も自害しました。一方高継は相模大介職およ
び三崎・松輪・金田などの父の遺領をもらい尊氏から
三浦一族の惣領として認められました。
 -観応の擾乱(1350〜52)と三浦高道-
 吉野の南朝と京都の北朝が対立している南北朝時
代、北朝側では1338年に足利尊氏が征夷大将軍とな
り、弟の直義と政務を分担しましたが、漸進派の直
義を支持する勢力と、尊氏の執事高師直を中心とす
る急進派の勢力との対立が激しくなり、遂に1350年
に両派は武力で対決し、各地で争乱となり直義は高
師直を殺しましたが、直義もまた高師直に味方した
尊氏によって滅ぼされました(観応の擾乱)。
 三浦高道は相模守護に任ぜられていましたが、観
応の擾乱に際して足利直義に加担したため、守護を
罷免され一時、武蔵の有力武士である川越直重が相
模守護を務めていました。そして再び1364年秋には
三浦高道が守護に返り咲き、その後高連、高明と三
代にわたって守護職を独占し、室町幕府の東国統治
機関であった鎌倉府を支える有力な武士団であっ
たことをうかがわせます。
 -永享の乱(1438〜39)と三浦時高-
 永享の乱で鎌倉公方の足利持氏は、対立する関東管
領上杉憲実を追って武蔵国府中に出陣するにあたり
、三浦介時高に鎌倉の留守を命じましたが、時高は持
氏を裏切り鎌倉より一旦三浦に退いたのち、体制を
整えて鎌倉に攻め入りました。
 上杉憲実との戦いに敗れた持氏は鎌倉に入ること
も出来ず翌年自害しましたが、一方時高の名声は高
まり新井城を拠点として勢力を伸ばしました。

 <三浦義同(道寸)>
 三浦介時高は永享の乱で鎌倉公方足利持氏に反逆
し、持氏滅亡後関東管領上杉氏と結び、上杉家から上
杉持朝の次男高行を養子として迎え、高行が上杉家
に戻り高救と改名したのち、その子義同を養子とし
ましたが、時高の晩年、実子高教が生まれ時高親子と
義同は対立します。
 義同は小田原の総世寺に退き出家して道寸と名乗
りますが、家臣の多くは義同の下に集まり義同を担
いで挙兵、1494(明応3)年三浦新井城を攻め、時高を
滅ぼしました。義同自らは相模の中央部の岡崎(平
塚市北方)を拠点とする一方、上総の真理谷氏と血
縁関係を結んで安房の里見氏に備え、相模一円に勢
力を伸ばしました。

 <北条早雲との対決>
 伊豆から台頭した北条早雲は関東をその支配下に
おくために、三浦氏を攻略しようとして1512(永正
9)年岡崎城を攻略、三浦勢は後退し逗子市小坪の住
吉城などで北条勢をくいとめようとしましたが、成
功せず最後は新井城に退却しました。
 新井城は自然の要害であったので長期戦となり義
同は義意の義父上杉朝興に援軍をもとめましたが、
上杉軍は来援の途中で早雲に攻められて完敗し、孤
立の状態になりました。三浦一族は最後まで奮戦し
ましたが、義同・義意親子は自害、多くの城兵たちは
海へ身を投げ1518(永正15)年佐原三浦氏は滅びまし
た。
 この時の海の色は奮戦空しく敗れた城兵たちの血
で油のように変色し、以後この湾を「油壷」と呼ぶよ
うになったといいます。

 <里見軍の三崎侵攻>
 北条早雲が三浦半島を支配するようになると安房
の里見氏と対立するようになり、里見義弘は1556(弘
治2)年兵船80隻という大軍で三崎を攻撃しました。
 北条軍は三崎城から梶原備前守らが応戦、三崎十人
衆らの活躍で、里見軍を追い返しました。
 1590(天正18)年、小田原北条氏の滅亡により三浦半
島は徳川家康の領地となりました。
<中世の庶民信仰> 中世になるときわめて易しい救いの教えが説かれ るようになり、仏教は各階層に広く浸透しました。 室町時代には庶民化が一段と進み、三浦半島でもこ の時代、寺院の開創が村々まで及び、仏教が広がりま した。 仏教は庶民の中にも入りこみ、浄土思想による地獄 極楽の教えを主題とした絵画、彫刻も多く見られま す。 絵画では「阿弥陀二十五菩薩来迎図」が東林寺(横須 賀・鎌倉時代)に、「阿弥陀三尊来迎図」が神武寺(逗子 市・十四世紀)や浄称寺(三浦市・十四世紀)に伝えら れており、西方極楽浄土から、念仏を唱え極楽浄土を 求める人々を迎えに、下降してくる様子が描かれて います。 彫刻では「木造阿弥陀三尊像」が往生院(横須賀市・ 永禄元年)、西光寺(葉山町・永禄6年)、海前寺(逗子 市・14世紀)、仏乗院(逗子市・14世紀)、安楽寺(三 浦市・天正6年)などに伝わり、来迎印や来迎相で人 々を救おうとする姿を表わしています。 「地蔵菩薩像」では石造が真浄院(三浦市・鎌倉時代) に、木造が長徳寺(葉山町・鎌倉時代)などにあります が、左右に宝珠錫状を持つ姿で、地獄から人々を救 済する姿を見せています。
和田義盛錦絵(天養院蔵)
和田合戦は鎌倉始まって以来の騒動でした が、和田一族郎党ことごとく由比ガ浜に討ち 死してしまいました
法華堂跡(白旗神社)-鎌倉市-
 三浦惣領家一族終焉の地で源頼朝の墓の
ところにありましたが、その後参道下左手
にある白旗神社あたりに移されたようです。
 江戸時代にはこの場所に法華堂がありま
したが、神仏分離により白旗神社が建てら
れ法華堂は廃されました。
満願寺(横須賀市岩戸)
 三浦大介義明の末子佐原十郎義連の開基
とされ、1183(寿永2)年平家追討に参加し、
念願かなって戦勝と武勲の祈願が満たされ
たため満願寺と名づけられました。
木造毘沙門天立像
(横須賀市芦名・浄導寺蔵)
 運慶の制作によるもので、男性的な力強い
作品は武士が支配する新しい時代の感覚が
表現されているものとされています

 北条早雲の三浦氏攻略 
1495(明応4)年、小田原城の大森藤頼を攻 めて小田原を手中にした早雲は相模征服を 目指しますが、三浦義同(道寸)はこれを阻 止するために家督を嫡男荒次郎義意に譲っ て新井城に置き、自らは相模中央部(現在の 平塚市北方)の岡崎城に移りました。 1512(永正9)年、早雲の率いる北条軍は道 寸がたてこもる岡崎城を包囲して約二ヶ月 かかって落城させました。 岡崎城を退いた道寸は逗子の小坪城に入 りましたが、これも攻められ落城、敗れた道 寸は三浦へと敗走し、葉山と横須賀の境界 である大崩で抵抗しましたが、北条軍の勢 いは止められず義意の守る新井城へと撤退 していきました。

北条軍の進路
延命寺(逗子市逗子)
1513(永正10)年、小坪住吉城が小田原北条 氏に攻められ落城の後、三浦義同の弟の城 主道香はここに逃れ、家来とともに自決し ました。境内には道香以下七基の墓と伝え られる宝筐印塔があります。
荒井浜より新井城址を望む
築城の正確な年代は明らかでありませんが、 三浦時高が1438(永享10)年に自然を利用した 平山城として作られたとされています。 現在の東大臨海実験所の敷地になっている ところが本丸跡で、空掘と土塁の跡が残って います。

 道寸祭り「笠懸」

 油壷の荒井浜海岸で三浦一族の鎮魂祭り
として行なわれる行事です。
 とくに「笠懸」は三浦一族のお家芸であっ
たもので、現在国内ではここだけという貴
重なものでです。毎年5月の最終日曜日に
催されますが、「やぶさめ」、「犬追物」とな
らぶ三大古弓馬術の一つです。 
〔笠 懸〕-三浦市油壷-

 三崎十人衆

 三浦水軍は全軍船をもって城ヶ島を拠点
としていたので、新井城落城後も北条軍は
手の施し様がなく、海上権を確保するため
に鎌倉の円覚、建長両寺に仲介を依頼、こ
の結果和睦が成立し、北条側は水軍の将出
口氏をはじめ大里、鈴木氏らのうちから10
人を選び早雲の配下としました。
 これらの人々は「三崎十人衆」と呼ばれ、
のちの房総里見氏との戦いによく働いて
敵を防いだといいます。
〔城ヶ島の図〕(三浦古尋録)
三浦古尋録は三浦半島の地誌、1812(文 化9)年浦賀の加藤山寿の著を竜崎戒球が 補綴したもので「今その古きを尋ねて之 を記す」とあります。
略 年 表
鎌倉時代 1192 三浦義澄、勅旨よ り頼朝の征夷大将 軍除書(目録)を鶴 岡八幡宮で受け取 る 1194 源頼朝、三浦三崎 山荘に来遊、和田 義盛ら小笠懸の射 手をつとめる 1199 六代禅師、田越川 畔で斬られる。 梶原景時鎌倉追 放、和田義盛・三浦 義村これに加わる 1202 三浦義村の娘(の ちの矢部禅尼)、北 条泰時に嫁ぐ 1203 比企能員の乱、三 浦義村・和田義盛 ら能員追討のため 出撃 1205 北条時政の命に より三浦義村、由 比ヶ浜で畠山重保 を討つ。ついで畠 山重正討伐のため 義村、和田義盛ら 出動  1207 鎌倉の大風によ り勝長寿院倒壊、 和田義盛一堂を芦 名に移す 1212 和田義盛、大矢部 満昌寺の東に薬王 寺を建立、父杉本 義宗、叔父義澄の 菩提を弔う。 1213 和田義盛挙兵(和 田合戦)、三浦義村 、義盛との約束を 破り、北条方に走 る。 1215 将軍実朝、横須賀 に花見に訪れる、 三浦義村駄飯を献 上。 1221 北条義時追討の 宣旨諸国に下る。 (承久の乱) 三浦胤義の遺児 四人、田越河畔に て斬首 1238 三浦泰村、評定衆 となる。 1247 北条時定ら三浦 館を攻撃(宝治合 戦)。三浦一族五百 余人法華堂で自害 1250 三浦介佐原盛時、 鶴岡の放生会で先 陣隋兵をつとめる 1270〜80頃 池上右衛門大夫 宗中、三浦郡池上 村に居住し、この 地より鎌倉に出仕 1319 夢窓疎石、横須賀 に泊船庵を結んで 居住。 1329 沙弥了性、彼岸中 日供養のため、鐘 内納入経を走水沖 にしずめ る(走水円照寺)。 1333 鎌倉幕府滅亡。 室町時代 1335 三浦高継、勲功の 賞として父時継の 大介職と本領(三 崎、松輪、金田、菊 名、網代、諸磯など )を継ぐ。 1356 大友氏時、三浦長 坂郷などの当知行 所領等を注進する 1378 関東公方足利氏 満、長井の長徳寺 に天下安全を祈願 1415 上杉氏憲反乱(上 杉禅秀の乱)、芦名 盛政これに応じ足 利氏に対抗、三浦 介手勢500騎を率 いて化粧坂へむか う。 1431 公卿村田津浦の 永島出雲守正澄、 家督を継ぐ。 1438 鎌倉府留守三浦 介時高、三浦へ退 き足利持氏に背く <戦国時代> 1487 鎌倉に入った堯 恵、芦名村の東常 和を訪れ滞在する 1494 三浦義同、養父時 高を三浦新井城に 滅ぼす。 1510 鴨沢合戦、三浦氏 の家人和泉守討死 1512 伊勢長氏、(北条 早雲)岡崎城に三 浦義同を攻める、 岡崎城落城後、三 浦義同住吉城に退 く。 1513 三浦道香、逗子で 北条氏綱と戦い、 敗れて延命寺で自 害、三浦義同の娘 婿太田資康、江戸 から出撃、三浦で 北条方と戦い討死 、金谷大明寺に葬 られる。 1514 三浦義同、鎌倉に 北条氏を攻めるが 敗れ、小坪、秋谷、 長坂、林(黒石)、佐 原の要所をやぶら れる。 1516 新井城落城、三浦 義同、義意親子討 死、三崎十人衆、北 条氏の支配下に入 る。 1520 田津の永嶋庄太 郎正氏、家を継ぎ、 浜代官海賊役を勤 める。 1523 北条氏綱、三崎城 を修復し、房総の 里見氏に備える。 1532 北条氏綱、三浦郡 の一向宗徒(浄土 真宗)をすべて光 明寺の檀徒とする 1555 北条氏、葛網を田 津浜の永嶋氏に下 知。 1556 里見氏、三浦郡を 攻める。 北条氏康、城ヶ島 、三崎海上で里見 軍と戦う。 1565 北条氏康父子、観 桜のため三崎に来 遊。城ヶ島に渡り、 三日間滞留。 1567 北条綱成、三浦菊 名で里見氏と戦い 、松原新左衛門、功 をたてる

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