ジュニア版 神社仏閣ミニ辞典
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ー入門篇・仏教の部ー
参考文献:仏教入門(藤井正治)・仏教(渡辺照宏)
日本仏教史(吉川弘文館)・仏教語大辞典(東京書籍)
・・・日本の仏教T(仏教伝来〜平安時代)・・・
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仏教伝来 |
わが国に仏教が公式に伝来したのは、538年百済の聖明王から欽明天皇に対して、仏像や経典・幡蓋(ばんがい=かざりの道具)などが献上されたことにはじまるとされています。 当時朝鮮半島は三韓時代と呼ばれ、高句麗・新羅・百済の三国が対立、百済は日本の朝廷に対して、友好関係を深め、軍事的援助を得たいという思惑があったようです。 仏教受容については、当時の権力者であった蘇我氏は賛成、物部氏は反対として対立し両者の権力争いともなりましたが、587年蘇我氏は廐戸皇子(のちの聖徳太子)らと共に物部氏を倒し、ここにようやく仏教受容の道が公にひらかれることになりました。 |
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593年摂政となった聖徳太子は就任早々「仏教興隆の詔」を発し604年には十七条憲法を制定し、その2条には「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり・・・」としています。 また太子は推古帝に対し「法華経」「勝鬘経」「維摩経」の三経を講釈し、さらにそれらをまとめて「三経義疏」(疏=しょ=解説書)を著述されたと言われます。 さらに太子は四天王寺や法隆寺・中宮寺など数多くの寺院を建立され飛鳥文化を開花させました。 法隆寺は現存する世界最古の木造建築物で釈迦三尊や救世観音、玉虫厨子(厨子=仏像を安置する仏具)など各時代の遺宝の多いことで有名です。 中宮寺の天寿国繍帳は太子妃橘郎女が太子の死後その冥福を祈って奉納されたもので、そこに書き込まれている「世間虚仮、唯仏是真」(世間はすべて仮偽りで頼みにならないが、仏こそ真実であり拠り所である)という銘文は太子が生前いつも妃に語られて言葉として伝えられています。 |
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聖徳太子の死後、中大兄王子(後の天智帝)や中臣鎌足らによる蘇我氏滅亡後は仏教はやや低調気味でしたが、壬申の乱(672)などののち天武朝(天智帝の弟)になると、再び国教的地位を取り戻し盛んになり白鳳文化が生まれ奈良朝へと引き継がれます。 奈良時代に入ると、政教一致を背景に仏教の国家的色彩はますます濃くなり、聖武帝は全国各地に国分(尼)寺を、都に総本山として東大寺を建立し、さらに「僧綱」(僧尼を統制する官職)をおいて、僧尼を国の監督下に置き、僧正・僧都・律師などの階級性を設けました。 奈良時代には三論・成実・法相・倶舎・華厳・律の六宗があり「南都六宗」とよばれていますが三論、成実、倶舎の三宗は早く衰え今日まで伝承されているのは法相、華厳、律の三宗だけです。 ●法相宗(ほっそうしゅう) 入唐僧道昭が653年に唐から持ち帰ったものです。 宗旨は一切が心を離れて存在しないという唯心・唯識の立場にたって迷・悟の因縁を究めていけば執着からも次第に離れることができると教えています。「一水四見」(注1)が代表的な教えです。 本山は興福寺と薬師寺の二山です。戦後独立して聖徳宗を名のる法隆寺や北法相宗を名のる清水寺も、元は法相宗所属の寺院でした。 ●華厳宗 ●律 宗
律宗は戒律を重んじ、それを自ら実践することをもって成仏の因とする宗旨で総本山は唐招提寺です。 |
(注1)一水四見
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奈良時代には南都六宗を中心に国家仏教として繁栄しましたが、次第に仏教が政治に入り込み、道鏡の出現により、本来の仏教から離れてきました。 桓武帝が平城京を捨てて平安京に移られたのも政・教の癒着をなくしたいとの決意からだと言われています。このような背景のもとに最澄(*2)と空海(*3)があらわれます。 ●天台宗 ●真言宗
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(*3)空海(774〜835) (*4)念仏宗=浄土教 |