三浦半島の歴史 P4  

ファミリ−版 三浦半島の歴史 P4

参考文献;郷土出版社「図説・三浦半島の歴史 ーその歴史と文化」 文芸社「三浦半島通史」 三浦市「目で見る三浦市史」 司馬遼太郎「三浦半島記」 神奈川新聞社「三浦半島再発見」 郷土出版社「セピア色の三浦半島」 ほか
関連サイト;かねさはの歴史(弥生時代) ;横浜の歴史(弥生時代)

(V)弥生時代 大陸から稲作が伝わり、牧畜も始まり資源の枯渇を克服、石器の進歩と金属器の普及により再び人口も増え ムラ(集落)が拡がり、やがてそれらが統一、各地の小国家として発展しました。 この時代の三浦半島のムラの遺跡は三浦市赤坂や横須賀市鴨居、逗子市桜山などに見られます。

  <弥生文化の成立>
 採集文化が限界に達し、縄文人が行き詰まっている中、今から2300年前ほど前に朝鮮半
島から日本列島の西端の九州に稲作を中心とする農耕の文化が伝わりました。

【稲の伝来ルート】
                         (稲の伝来時期はこちら)
 中国で最も古い稲作農耕遺跡は、長江下流域の
浙江省河姆渡遺跡などで、紀元前5000年にさか
のぼります。その後、稲作技術は広がり日本にも
伝わりましたが、そのルートについては5つほど
の考えがあり(@〜D)、様々に議論されてきま
したが定説はありません。しかし黄河より北に
は新石器時代に栽培された稲の出土例がないこ
と、日本列島に最初に現れる農耕文化の道具が
朝鮮半島と関係が深いこと、それがまづ北九州
にみられること、日本で栽培される稲は寒さに
強いジャポニカ種(短粒稲)で、熱帯性のインデ
ィカ種(長粒種)がみられないなどの点から、稲
は長江下流域から北上し、寒さに強い品種が優
勢になって、山東半島から朝鮮半島へ伝わり、朝
鮮半島南部を経て北部九州へ伝わったとするB
の考え方が有力のようです。    

  この文化はそれまでの資源を求め、自らが移動していたのに対して、自らの住まいの 近くに、植物の場合は田畑を切り開き、耕し、そこで種をまき育て、刈り入れる農耕を、 動物の場合は牧畜をという方法で自らに必要な資源を作り出していく生活の仕方で す。 この生活の仕方を取り入れたことにより資源の枯渇を人々が克服していけるように なり、人々は日本列島内に短時間に広く定着し、弥生文化が成立しました。 弥生文化の最も大きな特徴は農耕を行なうことですが、その文化の内容は農耕のみで はなく、農耕にともなう生活の仕方や他の大陸や半島の先進的な文物も一緒にもたら され、根づいたものも少なくありません。農耕にともなうものとしては鋤、鍬、田船、田 下駄、畦を保護する矢板など農耕用の道具と、それらを作る木工用の磨製の石器類が挙 げられます。 穂摘み具として石包丁と呼ばれる鎌の形をした三日月形の石製の刃物が使われました が、三浦半島では石包丁はなく、アワビの殻で作った貝包丁が海岸に分布する洞窟遺跡 から多く発見され、これが石包丁に代わるものとして使用されたようです。 <石器から鉄器へ> この時代の石器は縄文時代からの伝統的な石器に対して大陸や半島からもたらされ た異なった機能や形を持つ磨製石器が普及していきましたが、やがて三浦半島でも鉄 器などの金属器の普及と共に姿を消していきます。 鉄器もまた半島から入ってきましたが、その使用は土掘り具、刃物、突刺具、木工用具 などで、それまでにない強さと鋭さを持ち農耕の生産性を高めました。また熱すること によって溶かし形を自由に作り出すことが出来るという使いやすさも兼ね備えている
ことからも急速に普及しました。
 三浦市の赤坂遺跡は弥生時代中
期のものと見られていますが、こ
こからは鉄斧が出土されており、
弥生時代中期には三浦半島でも
鉄器が使われたことが分かりま
す。 
<弥生式土器>
 縄文時代の土器の形は多くが煮炊き用の「深鉢」
であったのに対して弥生時代には貯蔵用の「壷」
と煮炊き用の「甕」などが使われました。
これは保存が利き、年に一度しか収穫されない穀
類が生産され、その貯蔵が一般的に行なわれてい
たことを示しています。
 初め三浦半島で使用された弥生土器は表面に縄
目がつけられ、縄文時代の伝統が色濃く残されて
います。
 火にかける甕は普通装飾が施されませんが、三
浦半島では頸の部分に甕を作る時の粘土の輪積
みの跡をそのまま残して焼かれたもの、脚の付く
ものが特徴的です。

猿島に渡った弥生人

横須賀港に浮かぶ猿島の洞窟からは貝塚とともに 弥生式文化後期に属する土器が他の遺物とともに 発見され、この洞窟が弥生時代の時期に使用された 場所であることが分かりました。
猿島洞窟(横須賀市)
遊ヶ崎遺跡出土の甕(三浦市城ヶ崎遺跡)

弥生文化といってもすべての資源が養 殖、栽培されたわけではなく、前の時代 から引き続いて採集、捕獲なども相当な 割合で行なわれ、特に穀類以外について は殆どが採集、捕獲によっていたものと 考えられています。 <三浦半島のムラと洞窟> 三浦半島に弥生文化がもたらされたの は今から約2000年前の弥生時代の半ば 頃にあたります。 三浦半島では縄文海進によってできた 洞窟やその後の海進によってできた海 岸の洞窟や、その後の海退によって形成

された砂丘の上に、最初の縄文
文化が伝わりました。 
 三浦市城ヶ島・遊ヶ崎・松輪雨
崎、横須賀市津久井尻・芦名浜
の遺跡でこの頃の遺跡が見ら
れますがムラが出来、本格的な
農耕が始められたのはこの次
の弥生時代中期の後半からと
考えられています。この頃のム
ラ(集落)は三浦市赤坂、横須賀
市鴨居上ノ谷、逗子市桜山持田
など周辺に谷戸がある台地の
上にありました。
 丘の上にムラがあり、海岸で
は洞窟が利用されましたが、洞
窟は自然の屋根がついており、
海へも出入りできるため漁業
基地として最適でした。
 洞窟遺跡からは当時の漁業に
使用されたと見られる遺物が
多く発見されています。 
 特にアワビの殻が多く、海底
への採集も行なっていたこと
がうかがえます。

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    またここからは占いに使う骨(人骨)が発見され、占
   いが行なわれていたことが分かりますがこの占いの
   方法は大陸に源を持つものと思われ、ここにも弥生文
   化伝来のルーツを見ることができます。
      (関連サイト・毘沙門洞窟と卜骨)

弥生時代の遺跡分布
略 年 表
弥生時代 前 期 BC400〜BC100 中期 BC100〜AD100 稲作などの弥生 文化がつたわる 後期 AD100〜300