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京の町・京の家 京の味 京の女とことば 京のよそおい 京の年中行事 京の水と道
■ 疎水の水と哲学の道
今の京都の地は、むかし湖の底であったといわれている。
ところが、それが南の方、山崎のあたりで切れて淀川の流れとなり、しだいにその底の地表をあらわしていった。
この地に平安京がさだめられたころは、まだこの地はそのようにして干上がった湖底の姿をよくとどめていたようである。
それだけに、水についてはいろいろと配慮がなされてきた。
京都は、水には不自由をしなかった。
大学を出たばかりの青年技師田辺朔郎が、この大事業の設計者であった。
しかし、当時の京都が”第二の奈良”にならないためには、大勇断が必要であった。
世界で二番目に早いといわれる水力発電所も、このときにつくられた。
ところで、この疎水が南禅寺の境内をとおり、トンネルで若王子の山をぬけて北の方に導かれるているところで、いつのまにか”哲学の道”とよばれるようになった川沿いの小道がある。 この小道は、沿道に桜の並木をつくって、若王子から銀閣寺のあたりまでつづくが、それが西田幾太郎や田辺元といった哲学者の恰好の散歩道となっていた。
その頃は、桜の季節といっても、それほどに人びとは集まらなかった。
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■ 鳥羽の作り道に車牛
慶応四年正月三日、鳥羽街道は、家財道具を山と積んだ車牛が右往左往し、官軍の斥候が白い息をはきながら駆け抜けていった。 一気に幕権を回復しようとした徳川慶喜は、幕軍約一万五千を率いて大坂から上洛を狙った。
驚いたのは幕軍である。
新政府軍の放火作戦によって鳥羽街道筋の民家はまる焼け。
鳥羽街道、それは大坂街道ともいわれ、東寺の南大門にあたる四塚から淀にいたる街道であった。
重要な街道であったから、維新の時をつげる大戦争もおっぱじまることになったが、この街道を中心にした戦は古来たびたび行われた。 頃は建武の昔、足利勢と後醍醐勢は両朝にわかれて激戦を展開していた。
足利軍ではすぐさま軍議を開いて、猛将の誉れ高い土岐頼直を援軍に差し向けた。
尊氏直々に太刀をいただいた頼直、悪源太の異名もあるように、まさに勇気百倍、三人張りの弓を小脇に抱え、作り道付近に布陣する敵軍に突っ込んだ。
まもなく足利尊氏は室町幕府の基礎をきずくことになるが、この鳥羽作り道合戦は、南北朝内乱の歴史の一齣であった。 数々の歴史を眺めたこの街道 - 作り道という言葉がいつごろから呼びならわされたのか、さだかではない。
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■ 神泉苑
禁苑とは、いまも大宮の西に名残を止めている神泉苑。
一方、苑内の空海はひとり祈祷をやめて端坐していた。
にわかに、三千世界が彼の心眼にあらわれた。
空海が唐に渡っていた間に、守敏は巧に天皇にとり入った。
或る日、参内した空海を物陰に隠しておいて、天皇は守敏を呼び寄せた、
それからの幾歳月、守敏の怨みは空海ばかりでなく天皇にも向けられていたのだろうか、国中を灼きつくそうと一念こって竜神をとりこめている守敏の祈りはすさまじい。
飛翔する空海の眼下に、大雪山がさん然と輝き、その北に一つの池が深い碧緑をたたえて現れた。
天皇は空海の奏請をいれて、さらに二十七日のあいだ修法を延長し、インドの無熱地にただひとり守敏の呪力をまぬがれている善女竜王を神泉苑に勧請することにした。
この後神泉苑は、ひでりのたびに雨乞いの祈祷所となり、その池の水を田畑に流して灌漑することが例となった。
それにしても、歴史はしばしば、古いものを惜しげもなく破壊して突き進む。
京都市民は、この苑を”ひぜいさん”または”ひぜん”さんと呼んでいる。
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■ 大沢・広沢の池
心の澄むものは、霞花園夜半の月、秋の野辺、上下も分かぬは恋の道、岩間を漏り来る滝の水 (『梁塵秘抄』) 平安末期に庶民のあいだではやった歌謡のなかに、こんな一首がある。
その中心にある大覚寺は、もと嵯峨天皇の離宮であった。
ひともととおもひし花をおほさはの 池のそこにもたれかうへけん 友則は三十六歌仙の一人に数えられるほど、歌人としては名高かったが、宮廷での位は、さして高くない。
格式や行事にしばられた宮仕えの男女の恋は、恐らくそのように憧れやためらいや、微妙な駆引きと充たされぬ物思いにみちていたことであろう。
時代も下がって、武士が貴族をしのぐ世の巷の歌は、さきにあげたように、雅な風物をかりながらも、そのものずばりと恋の激しさをいいきっている。
波も聞け小磯も語れ松も見よ、我を我といふ方の風吹いたらば、いづれの浦へも靡きなむ。
たくましさとも、投げやりともとれるこのような恋は、没落や、成上がりや、裏切り、殺人など、あからさまな人間模様のよこ糸となって織りなされていた。
大覚寺にも滝殿があった。
滝の音はたえて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞えけれ 小倉百人一首にある藤原公任の歌はこの滝跡を詠んだもので、いまも池の北五十メートルばかりの所に”名古曾滝跡”の碑がある。 広沢池も、大沢と同様月の名所。
或る年仁和寺を修理中、暮方に衣の裾をあげてたったひとり見廻りに出た。
月の名所広沢も夜はちょうど闇だったのか。
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■ 鳴滝
その日、右大臣道綱の母は、十七歳になる息子のほかにわずか三人ほどの供人を連れて、西山への道をたどって行った。 山の緑が影を落として、その頬は一層もの思わしげに青ざめていた。
しかし、現実の厳しさを思い知らされたのは、翌年の夏、道綱を生んだ直後のことだった。
それ以来、かの女の苦しみは始まったのだった。
鳴滝川のほとり、般若寺に入ると、かの女は読経三昧の生活に入った。
或る日、遠縁の者が訪ねてきて、鐘の音も尽きるころまで身の上をこまごまときいて帰った。
世の中は思ひのほかに鳴滝に 深き山路を誰しらせけむ という歌など書かれてある。
身ひとつのかくなるたきを尋ぬれば さらにかへらぬ水もすみけり 鳴滝川の水がもとへ還らぬように、私の運命も京へは帰らずここに住みつくことになっているようです。
しかし、それから間もなくかの女は夫に連れ戻される。
嵯峨野に、その昔響いていた鳴滝の音を、いまきくことはできない。
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■ 清滝と三尾
きよたきのせヾのしら糸くりためて 山わけごろもをりてきましを 神たい法師(『古今集』) 山わけごろもとは、山の草木をわけて行くときの着物で、修行僧などが着たものである。
「今は昔」、と当時の人々は語り始める。
五六十町川上に一つの庵があり、清浄な気配があたりに漂っている。
当時鉢を飛ばして食物を得た仙人の話はたくさんあるが、特に水が神通力を発揮した話は。清滝ならではのことであろう。
清滝にふさわしく、ここは栂尾茶の発祥地でもある。
建永元年(1206)、明恵上人はここの度賀尾寺を再興して高山寺と名づけた。
栄西が貴重な茶種を明恵に贈ったというのも、並々ではない間柄を示している。
そのとき、栄西は抹茶法をも初めて伝えた。
一方、栄西入宋の年、三尾の一つである高雄山神護寺には一人の荒法師が入寺した。
しかしこの激情的な若者は、絶望の世界に出てなおかつ行動的であった。
『平家物語』はそのときのようすを事細かに語っている。
真っ先に詰め寄った資行判官は、だいじな烏帽子を打落とされて、ほうほうの体で床の上へ逃げのぼった。
文覚は勧進帳のなかで高雄の環境を褒めちぎったらしい。
ところで、さすがの荒法師文覚も一目おいた相手がある。
その相手が、知ってかしらずか、一夜の宿を乞いにきた。
弟子たちが今度は、口ほどにもない師の不甲斐無さに腹を立てて問いただすと、文覚はすましかえって答えた。
歌人西行も、もとは鳥羽院北面武士であった。
栄西・明恵・文覚・西行・・・・・彼らは俗世を捨てながら、もっとも人間に近くいる人々だった。
清滝や波に塵なき夏の月 ▼ お奨めサイト
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■ 一条戻り橋
ここは、北山に源を発し紙屋川の水を集めて南下した堀川と、上賀茂から小川通りを流れ一条に沿って西行してきた小川とが出合う地点である。 延喜といえば、天暦と並び称された平安朝の黄金時代である。
そのとき、はるか南の方からかっかっと馬蹄の響きが近づいてきた。
ひとしきり身も世もあらず泣きもだえた浄蔵は、ふいに顔をあげ、念珠をおしもんだ。
その時である。
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■ 五条大橋
月のいい夜、五条大橋の上からりょうりょうと笛の音が鳴り響いて、鴨川の水をわたってゆく。
史実として確かめられる義経の伝説は、貧弱なものである。
ともあれ、義経の伝説がこのように人々の血肉と化している以上、たとえ現在の五条大橋が、義経の生きていたころの橋とはまったく別の位置にあるのだと聞かされても、神童牛若のはなれわざを空想する妨げとはならない。 平安京の五条大橋は、いまの橋よりも北、松原通りに架かっていた。
頼朝と義経との対立は、政治の倫理と人間の情との対立だったといわれるが、義経はいつも政治には弱いとみえ、ゆかりの橋の架け替えにも政治の必要がはたらいてくる。 秀吉が伏見城から内裏へ御機嫌伺いに、実のところは公家へのデモンストレーションもかねて、しばしば参上する道筋からいうと、もとの六条坊門通り、いまの五条通りに橋が架かっている方が、ずっと便利だったのである。
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■ 三条大橋
三条大橋の欄干の擬宝珠は石川五右衛門が三条河原で処刑されるより四年前、天正十八年(1590)につくられた。
徳川三百年の太平を覆す地鳴りのような一揆や打ちこわしが全国に起こり、お蔭参りの群集が伊勢へと旅立つ光景も見られた頃、幕府を批判する政治的な動きは、その弾圧にもかかわらずいっそう激しくなった。
三条大橋は、この血なまぐさい政争の真っ只中にあった。
元治元年(1864)六月五日夜、三条小橋西入る池田屋での乱闘は、こうしたなかで起こった。
若い志士たちはこうして果てたが、犠牲は黙って見過ごされはしなかった。
涼風にさらされて、鴨川の床から眺める三条大橋は、そのような激しい時代を経てきたとは思えない澄んだ流れの上に優しい曲線を描いている。
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■ 京の名水
土用の丑の日、下賀茂神社は賑わう。
石橋に立つと、御手洗の泉は細かな砂利を分けて優しく流れている。
ききわたる御手洗川の水清み 底の心をけふぞみるべき (国基『金葉集』) 「底の心」とは、誰の心であろうか。 水といえば茶。
有名な上田秋成の茶の書『清風瑣言』は、かくれた研究家である大枝流芳の『青湾茶話』を、ちゃっかりと拝借して書かれたという説がある。
京都の夏が暑いのは、湖底に土砂が積もってできた盆地だからというが、湧水が多いのもまたそのせいだとすれば、湖の功罪はいずれとも決めかねる。
因みに、明星水とか落星水とかいう井戸はほかにも多くある。
醒井通六条佐女手井町にある醒井も、またの名を左女牛明星水という。
町名の由来になった井戸は、たとえば一条堀川東にあった草紙洗の水もそうである。
しかし、一名清和水ともいうこの井戸は、安倍晴明が占いに使ったという清明水とともに、いまは跡形もない。
少将井町は烏丸通竹屋町から夷川上がるまで、少将井御旅町は車屋町通竹屋町下がるから夷川までの所をいう。
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■ 京で上がりの初日の出(京の七口)
トントンとろりと戸を開けりゃ
桃割れ時代を懐かしむ手まり歌、「京で上がりの初日の出」である。 いろいろの種類のすごろくがあったが、そのなかでも東海道すごろくは、もっともポピュラーなものであったろう。
わらべ歌や絵すごろくにまでとりあげられた旅の終着点、京都は歴史においても、まさに交通の終着点であり、出発点でもあった。
面白いは京下りの商人
この歌は、広島あたりですでに鎌倉期の末ごろからうたわれていたのであるが、京商人によって当世流行の京櫛や京織物がどっと地方に流れ込んでいた様子がわかる。
京を中心にしていきかう人々の群れは、時代を経るにしたがって大きくなっていった。
中世の七口といわれるものを列挙してみると、鞍馬口(艮口)、小原口(八瀬口・北陸道)、今道之下口(北白川・東山道)、鳥羽口(西街道)、東寺口(山陽道)、西七条口(山陰道)、長坂口(丹波道)があり、このほかに粟田口(東山口・東海道)、西三条口、伏見口(南海道)の三口が数えられている。
ところで、中世も室町、それも東山時代といわれる後期の八代足利義政将軍のころ、この”京の七口”には関が設けられ、率分所というところで、関銭が徴収されていた。
だが、室町幕府の関銭徴収というのは、いままで山科家や万里小路家などの公卿がもっていた徴収権利を奪い取ったうえで、行われたものである。
日野家は、三代将軍義満に女をとつがして以来、代々将軍家の室として、この家からだすならわしみたいなものができあがっていた。
富子も先例によって義政夫人になったときは、まだ十六歳。
さて、義政のほうであるが、この将軍、政治にはまことにうとい男であったが、遊びにかけては天下一品であった。
能楽者をあつめて歌舞の宴をはったり、朝から晩まで酒の飲みどおしという、ドンチャン騒ぎをやらかすかと思えば、連歌師を集めて連歌の会。
政治に弱いというのは、まだよいが、おまけにこれまたすこぶる付きの好色である。
義政がこのように女狂いすれば、御用がなくなった富子としては頭にくるのは当然である。
旦那が女狂いすれば、妻としてはヒステリーを起こして旦那にくいつくか、もうあきらめてただ子供の成長をたのしみに隠忍自重してしまうか、どちらかのケースが多いのであるが、富子はその両方でもないのである。
京を焼野原にしてしまうこの応仁の大乱、東軍(細川)西軍(山名)にわかれて大乱戦を行うのであるが、その戦況の推移はともかくとして、この東西両軍の戦費が実は富子の資金から出ていることである。
この富子の資金源は、いうまでもなく、さきにふれた関銭である。
とにかく天下おしなべて、このえげつない富子の蓄財方法に憤慨したのだから、関銭徴収によって実害を受ける一般庶民が怒って蜂起したのも至極あたりまえのことだ。
近世に入ってからは、こうした関銭徴収を行うことは、なくなったが、新しい政治経済の発展に応じて、京の七口はしだいに変化をとげて、ある口はさほど重要でなくなり、ある口は、街道の整備とともにさらに重要視されて発展していった。 お奨めサイト
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■ 粟田口(東三条口)
「江戸より京への入り口は三条大橋なり」と『見た京物語』にはかかれてあるが、京から江戸に行くときは、ここが出発点である。 粟田口(三条口)、普通この街道の入り口はそう呼ばれるが、京の人は、西三条にも嵯峨、嵐山へ抜ける街道があるので、これを東三条口ともいっている。 この東三条付近の鴨川東側(東石ともいっている)から四条にかけては茶屋町がずらり、軒を並べていた。
もっとも、この俳優たちは、後家ばかりに奉仕するのではなく、おかま好みの旦那衆にもサービスこれつとめたというから、前と後ろの両刀使いである。
よしのとげ折れ込んで後家大騒ぎ
そうしたにぎわいを見せる、東三条を東へ白川橋をこえると、粟田口(東三条)に到着する。
しかし、以前は洛外の粟田刑場があった町はずれであった。
粟田口の歴史は古い。
宗近はそら恐ろしき手間を入れ
あるとき宗近は一条院から刀剣の製作を依頼された。
名匠につきものの宗近のエピソードは、このほかにもいろいろある。
粟田口は名匠の居住地としてばかり有名であったのではない。
仁阿弥道八、青木木米はその代表的な人たちである。
鍛治の地、陶業の地として名をはせた粟田口を出て、華頂山の麓を通り過ぎてゆくと蹴上にいたる。
承安の昔、源義経遮那王は、金売り吉次にともなわれて陸奥へ逃げ延びようとした。
義経遮那王は、十六歳の少年、いでたちの時は薄化粧に眉を細くつくった稚児姿である。 蹴上のあたりまで来たとき、遮那王は、平家の侍関原与一に戯れをうけた。
しかし、義経はこれを拒絶した。
『都名所図会』にも「牛若の美少年に戯れ」とあるから、そうでなくても衆道(男色)全盛の時代ゆえ、「よか稚児、今晩可愛がろうか」などという戯れもありえたかもしれない。
とはいえ、日のないところには煙はたたぬというから、蹴上水にまつわる「美少年」への戯れもどこかで起こりえたことであるかもしれない。
ただし、義経が「美少年」であったかどうかは、一説には背は小柄、色は白いが出っ歯のブ男であったというから、その説どこまで信用してよいかわからない。 お奨めサイト
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■ ”鴨川の水”
賀茂川にまつわる一番古い物語も、男女のロマンスから始まった。 神代のころ、賀茂川は”清川 すみかわ”とか”瀬見小川 せみのおがわ”と呼ばれ、清く澄んだ美しい水が流れていた。
かれは妻の神伊可古夜日女との間に二人の子供をもうけた。
その夜、かの女はその見事な赤塗りの矢をまくらべに飾って眠ってしまった。
しかし、よく考えてみれば赤塗りの矢が美男の若者に変化する道理はない。
こうして玉依日売は十月十日の後、男の子を生んだ。
この物語にある赤塗りの矢は火雷命であり、男の子は賀茂別雷命といってともに上賀茂神社の祭神となった。
この神話は賀茂氏と呼ばれる人たちによってつくられたものらしいが、雷は雨を降らせる神と考えられ、古来より農耕の水と深い関連性をもっている。
北大路橋をさらに下ると出雲路橋が架けられている。
いままで述べてきたカモ川は、賀茂川と呼んでおり、発音は同じであるが、文字の上では賀茂川と鴨川を本来は区別している。
昔の鴨川は実に幅の広い地域を気ままに流れていたらしい。
白河法皇の有名なエピソードにも、自分の思い通りにならないものの一つに鴨川の水をあげている。
平安朝も中ごろをすぎ、京都が都市として発展してくると、家屋や橋などをつくる建築資材がどんどん必要になってきた。
一方、朝廷も防鴨河使という役所を設置したが、基礎的なかわざらいや築堤の工事すら放任しがちであった。
いま、四条南座の東側、大和大路東入ルに「眼疾地蔵」の堂が残っている。
こう見てくると、鴨川はいま考えるほど情緒のある川ではない。
また、罪人の処刑場としても、鴨川の河原ほど多くの人間の断末魔の悲鳴を聞いた川はない。
天下の大盗賊、石川五右衛門も、文禄三年(1594)に捕らえられ、この河原で処刑された。
こうして鴨川の河原は幕末の動乱期になると暗殺と処刑が繰り返される毎日がつづいた。
鴨川の流れだけは、今日も変わらぬ都の永い歴史をたんたんとして物語っているようである。 ▼ お勧めサイト 【「日本の原風景・鴨川」と「明日の鴨川の
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■ 伏見口
京から南へ下がるには、古来四つの口があった。
とくに伏見口は奈良街道に直結する出入り口として有名である。
方広寺前、三十三間堂を通り過ぎて、東福寺の前にいたるが、これからが伏見街道に入ることになる。
稲荷社は五穀豊穣の神、倉稲魂神を祭った社で京都開発の大恩人、秦氏の創建といわれている。
弁才天信仰とともに、金儲けの神様の両横綱といってよい。 稲荷山、松のふぐりにかゝれるは、
十返舎一九は、稲荷社につづく藤の森でこんなものを書き残している。
やきものの、牛の細工に買う人も、
藤の森から、深草へ入ると街道の家ごとにやきもの、土細工を作っては売っていたので一九には、こういう句が浮かんだらしい。
その一つ
この歌をまねて、一発茶化した歌がある。 一つとり、二つとりては焼いて食ひ
ところで、深草の里で思い出すのが、深草の少将と小野小町の物語。
小野小町が永遠の処女であったかどうか、その辺のところはあきらかではないが、京都には 小野小町と知恩院の傘は
という狂歌が残っているから、とりあえず小野小町処女説に軍配をあげるべきか。 小野小町には「穴なし伝説」というものもある。この場合の穴とは膣のことで、あれだけ多くの男に言い寄られながらついに誰にもなびかなかったので、こんな伝説が生まれたのだ。ちなみに、裁縫に使う穴のない針を「待ち針」と呼ぶのは、「小町針」が語源だとの説もある。 墨染めの欣浄寺がでたついでに、撞木町の傾城町へ。
すみぞめの、おやま(遊女)のかほの真白さは、
と笑っている。
墨染を出ると伏見。
伏見街道の行き着くところは伏見港。
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■ 長坂から越えれば山国へ(長坂口)
長坂口 - 京の七口の一つで、今の京北町、北丹波山国庄へ通じる、いわゆる周山街道なのであるが、明治以後この街道が荒廃した。 長坂口の周辺、そこは深い山々にとざされ、水美しい紙屋川の流れが、人間とのつながりを思わせるようである。
そのなかにあって、ひときわ目立つのが鷹ケ峰の景観である。
江戸初期の頃は往来する旅人以外、おとずれる人とてない無住の地であった。
しかしこの鷹ケ峰に集団移住した一群が現れた。
かれの近世初期教養人としての深さは、三藐院や松花堂、烏丸光広、小堀遠州、角倉素庵、林羅山、千宗旦など往時第一級の文化人との交流にもみられる。 光悦がどうしてこの地を自分たち一族の集団移住地として決めたのか。
つまり、家康の命によって鷹ケ峰の地を賜ったというのである。 京都に居あきて、何処か新しい天地を求めようとしていた光悦にとって、この家康の命はまさに願ってもないことであったろう。
ところで光悦は、どうして鷹ケ峰に移住したのであろうか。
そういえば光悦は母妙秀の深い宗教的心情から、強く影響をうけていた。
法華宗に帰依した京都町人のなかには、本阿弥家をはじめ、尾形、茶屋、後藤、佐野、狩野、俵屋、楽など代表的人物が網羅されている。
このような芸術と宗教の理想郷を求める法華宗一族集団移住の鷹ケ峰はどんな状況であったのだろうか。
鷹ケ峰の入り口は、天正十九年秀吉が命じて築造させた、京の洛中を囲む”御土居”の切口(出入り口)を出たところにある。
この坂道を登りつめて、突き当たった所に、東西に貫通する道路がある。
この小学校を東へ、長坂口の方向に歩いていくと南側に光悦寺がある。
光悦が作りあげたこの鷹ケ峰村は、やがて一族一門とは関係のないものが移住することによって、宗教的団結、血族的団結はしだいにうすれていく。
かくして延宝七年(1679)、光悦の曾孫にあたる光伝は、鷹ケ峰村の経営を放棄し、その地を幕府に返上した。 ▼ お勧めサイト 【本阿弥光悦と芸術村vol.1】【赤茶碗(本阿弥光悦作)】【光悦寺】【本阿弥光悦】【本阿弥光甫】【水墨画リンク】【光悦と宗達】【本阿弥光悦】
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■ 我が待つらん宇治の橋ひめ
三十万人という大群衆が押し寄せてくるのは”宇治のあがた祭”。 大祭の六月五日、夜半を過ぎると、すべての明り火を消して、暗闇のなかで梵天の渡御が行われる行事だ。
この行事の起こりは、江戸時代、文化文政期の頃から始められ、幕末になるにつれて盛んになったといわれる。
封建社会の庶民生活では、自由に旅をしたり、見知らぬ他郷者に宿を貸したりすることは禁じられていた。
とくに、この”あがた祭”などは、百姓や町人にとって大きな開放感の絶頂を味わえたものの代表的な行事と考えてよいであろう。
もともと、この女神は結婚守護の神でもあり、安産の神でもある。
県神社の関白藤原頼道が平等院を建立したさいに同院の鎮守神として奉祀したことにはじまるといわれている。
神話によれば、あるとき邇々芸能命が笠沙の御前で木花開耶姫に会われ、その夜のうちに、しとねをともにしてたがいの情愛が結ばれたという。
そうした由来から、木花開耶姫は酒造の神ともいわれ、また、貞操の女神・結婚・安産の守護神にもなった。
しかし、いつの世になっても男というものは他愛のない動物である。
この宇治川に架けられた奈良街道への大橋が有名な宇治橋である。
九世紀の初め、嵯峨天皇の時代に大変激しい嫉妬心を抱いた女がいたという。
この物語の女も、夫に棄てられてからは、恋しさがいっそうつのるばかりであった。
異句同様の話しは、『平家物語』の”剣の巻”にも書かれている。
こうした伝説によって、橋姫は嫉妬深い神様となり、嫁入りするときにこの神社の前を通ると神の嫉みから夫婦が円満にゆかないなどといわれたこともある。 宇治橋の西詰、南へ五十メートルのところに住吉神社とならんで、この橋姫神社がある。
橋姫神社のおこりとされるのは、六世紀の中頃、欽明天皇三年の洪水のとき、宇治川上流の桜谷に鎮座していた神像が流されて、宇治橋に止まったところから、この橋を守る神として祭られたとされている。
宇治の橋姫にまつわる伝説も、平安朝、鎌倉時代では文学のうえでも決して嫉妬心の激しい女として描かれていたない。
とくに日本各地の民俗信仰には”水の精”と祭祀したものが、ひじょうに多い。
宇治は交通の要衝にあたり、宇治川の急流をひかえて、南部と東国より京都に入る要害の地でもある。
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■ 丹波から山城への水路 - 舟下嵐峡
嵐山の名勝はもとよりこの大堰川の清流を生命とした。
平安時代の貴族たちが好んで船遊びにでかけたのも、この風光明媚な山水の趣に魅せられたからであろう。
江戸時代に入って、海外貿易に大きな働きをしめした京都の大商人、角倉了以は大堰川を通して丹波と水上運送を開こうと考えていた。
慶長十一年(1606)三月、大堰川の開鑿工事は始められた。
このような難工事と非常な努力のすえ、秋の八月に完成した。
角倉了以、与一父子の開鑿事業によって、丹波から京都への舟運が通じたという意味は、京都の発展と庶民生活にあたえた利益を考えただけでも計り知れないほど大きいものであった。
慶長十九年、六十一歳の生涯が終わったとき、かれの遺名によって大悲閣が建てられた。
渡月橋の下流にある臨川寺は流筏集積場である。
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■ 堀河や声ききたらぬ蛙かな
堀川は京都市の中央を北から南へ直線に流れる小川で、北は一条戻橋から堀川通りに沿って十条の南で鴨川にそそいでいる。 もともと堀川通りはもっとせまい通りであったのだが、太平洋戦争の疎開対策によって西側の民家が壊され、現在のように広い幅のものとなった。 堀川の水源は紫竹一帯の小流が小川通りに沿うて南下すると小川と、西陣一帯の諸溝の水を集めた有栖川を加えたものである。
平安遷都のときには、堀川はもともと賀茂川の本流であったらしい。
九世紀の中頃には堀川で鮎をとって食べたという記載が『三代実録』に残っている。
中世になると、祇園社の堀川十二町の堀川神人が、この川筋を貯木場として特許をもち、材木商で栄えたことがうかがえるのである。
堀川通りに残る町名にも、古をしのばれるものがある。
明治二十五年には、わが国最初の電車が四条通から中立売りまでの堀川を走り、北野神社が終着駅であった。
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■ 淀の川瀬の水車
淀の小橋のあの水車
淀の城郭の水ぎわにには水車がおかれていた。
天正年間から文禄(十六世紀末)にかけて、大坂城と伏見城が築かれ、伏見・大坂間の淀川筋の堤防が整備されると、淀川を上下する諸船の往来は陸上交通にもまして頻繁となってきた。
淀川輸送にもっとも活躍したのが、いわゆる淀船であった。
船は出てゆく帆かけて走る
伏見の港を出てゆくときは、船乗りたちが中書島の遊郭でさかんに命の洗たくをして遊妓の情けに別れを惜しんだという。
伏見の観月橋を向島に渡ろうとする橋詰に石標がひとつ立っている。
琵琶湖から流れてきた宇治川はここで終わり、これから淀川がはじまろうとするのだ。
江戸時代の中頃になると、淀川三十石船が往来した。
世に聞こえた”くらわんか”舟の伝説によると、大坂夏の陣の戦いで、家康は淀川べりにまで大坂方に追い討ちされてきた。
商ひにへつひもなく言葉まで
一雛の詠んだ狂歌にも、くらわんか舟の商売根性が、まことにもって見事によまれている。
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■ 春雨やすこし水ます紙屋川
紙屋川は柏川というのが正しいらしいが、これを訛って替川といったり、他にもいろんな名称がつけられている。
本来、西堀川の紙屋川は川幅も広く、優雅に流水していたと想像できる。
春雨やすこし水ます紙屋川 虚子の詠んだ俳句をみても、紙屋川の水がよくあふれたことを物語っている。
それはともかく、紙屋川が平安京の時代から日本の製紙事業を語る名称として、京洛の人たちになつかしまれてきた存在であることは事実である。 九世紀の初め、嵯峨天皇のとき、官営の製紙工場である紙屋院が設けられた。
こうした紙を漉いたところから、この川を紙屋川といったのであろう。
この宿紙は漉返しの紙で、色が薄黒くねずみ色であり、むらがあるところから薄墨紙とも水雲紙とも呼ばれていた。
これらの紙をつくっていた紙師たちは、北野神社の天神川附近と丸太町円町の東方、紙屋川沿いに紙座を組織していたという。
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■ 白河の花
銀閣寺の北、滋賀県坂本にいたる山中越の街道口を白川村と称し、いまは北白川と呼ばれているところである。
何となく春のこころにさそはれて
王朝の昔から、白川の一帯には四季の花々が、絶えることなく咲きみだれていたのであろう。
それはともかく、最初は御所や公家の屋敷に年貢の一部として生産物を納めていたのが、京都の町の商業的な発展とともに、近郊の村々の女たちも、思いきって商いに出てきたのではなかろうか。 白川と呼ばれる川は、もともと源が滋賀県に通じる山中越の山中村で発生し、如意ケ嶽、白川山の渓水を取り入れて清流となった川である。
いま、この川は北白川の町なかを東から西南にむけて流れ、鹿ケ谷、南禅寺の西側を経て疎水運河にそそいでいる。
いまの岡崎、白河の地は、藤原頼道の伝領した別業の地で、院政の時代には貴族たちの別荘地となった。
この地で白河の名をとどめているものに白河橋がある。
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