■■■京都故事 -京の女とことば 全23話-
東男に京女京によきもの三つ、女子、賀茂川の水、寺社京はやせ形にして大坂は骨太なり京の女郎に 江戸のハリ持たせ 大坂の揚屋で遊びたい京おんなは長ぶろ京女立って垂れるがすこしきず | 大原女 | 白川女 | 桂女 | 畑の姥 |
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■ 東男に京女

明和七年(1770)の一月十六日、まだ正月気分の抜け切らない江戸の町は、どことなく浮かれた気分に満ちていた。
その江戸はここ外記座で、「神霊矢口渡」という時代物の浄瑠璃が、はじめて上演される日であった。
それは前評判通り、大変なうけかたであった。

この作品はこの後も評判が良く、江戸で作られた浄瑠璃作品のうちの、代表作の一つに数え上げられるのである。
作者はその名を福内鬼外(ふくうちきがい)といった。

福内鬼外とは平賀源内なのである。
その彼が書いた浄瑠璃「神霊矢口渡」のクライマックスにあたる四段目、「道行比翼の袖」のなかに唄いあげのところで、

  東男に都の女郎、いきと情けを一つに寄せて、色で丸めた恋の山、傍で見るさへ憎らしい、そりゃあんまり強過ぎる。
  武蔵野の月吉野の桜、景と風情を一つに寄せて、雪で丸めた富士の山、噂聞くさへうらやまし、そりゃ余り強過ぎる

というのが出てくる。
「東男に京女」といった意味の、文献に出てくる最初のものだが、これを見ても、都の女郎、京おんなと東男のカップルが、いかに当時では理想的なものとされていたかがよくわかる。

誰というともなしに一般化されたものであろうが、これは京おんなに対する賞賛の言葉であったとともに、また東男たちの、力強い自負の表明であったともいえる。

荒々しく粗野で、優雅の道を理解できない田舎者の東男が、東夷とさげすまれていた汚名を返上して、イキな気風のよさを売物に、男性としての理想像にまで高まった背景には、上方に対する江戸の繁盛と文化の開花があげられる。

しかし常に都に対して抱いた憧憬は、完全に捨て去ることは出来なかった。

だから京女というものに姿を変えて、その憧憬は存続したのである。
経済的な富の力は大坂に、政治的な実権は江戸に移ってしまっても、都といえば依然として京のことであり、京といえば都以外の何物でもなかった。
千年の文化の重みをになっている土地には、おのずとそれだけの洗練さと気品が満ちているものだったから。

そうした京都の、磨き上げられた伝統文化の粋が集約され、一つの姿として現れたものが、京おんなであると考えられた。
だから京おんなということばの与えるイメージは、たんなる美人像を指していったものとは異なっていた。
それは才、情、美の三拍子そろった理想的な女性像の象徴であったともいえる。

もちろん京都には文字通りの美人も多かった。
しかしそれは高度な文化の集中地であった京には、権力を媒介として天下の美女達が寄せ集められていたからにすぎない。

たとえば日本では、古代以来采女という制度があった。
国中の郡司や小領以上の娘のなかから、器量の優れたものたちを選んで、朝廷に奉仕させたのである。
もとより粒ぞろいの美人たちのことであったから、四、五年の任期の間には公卿の手がつくものもあり、そのまま京にとどまるものも多かった。
だから京都には、そうした美人系の血脈が昔から続いていたといえる。

かりに上京した地方の人間が美人に出合わなかったとしても、都に憧れたそのものたちの目に、都の女性、京おんなが悪く写る道理がない。
「京に田舎あり」(『毛吹草』)とあらためて感嘆しなおすような眼でつねに都を見ていた人間が、「女は都」「女は京」と思いきめるのもしごく当然なことであったろう。
狂言「右流左止」で

  京女のよさゝうなを、つれづれの酒相手に抱やうと思うたれど、何かとして抱へなんだ

と残念がるように、地方出身の男性にとって、なによりの誇りと自慢は、京おんなを手に入れることであった。

元禄時代には、大名相手の愛妾周旋の口入屋までが京都にできているのであるから、京おんなの評判は相当高かったものと思われる。

もっとも狂言の「若和布」には、

  惣じて京男に伊勢女というて、女は伊勢の名物でおりある

とあり、これから察すると室町時代では、京おんなよりも京男のほうが株が上であったように受け取れる。
それが近世になると、

  京女に江戸男
  京女に奈良男

と断然京の女性の人気は上昇する。
しかしこうして近世になって、はじめて爆発的な人気を得たからといって、それを成り上がり的なものとして見ることはできない。

京おんながそれほどに賞味されるには、やはりそれだけの理由があった。
つまり京おんなの持っている伝統と歴史がものをいったのである。

■ 京によきもの三つ、女子、賀茂川の水、寺社

これは江戸の作家滝沢馬琴の『覊旅漫録』のなかに出てくる有名なことばであるが、井原西鶴の『好色一代女』のなかにも「女は都にまして何国を沙汰すべし」ということばが見つかる。
また同じく江戸の文人二鐘亭半山もその『見た京物語』のなかで京に「多きもの寺、女、雪踏直し」といっていた。
十辺舎一九にしても、平賀源内にしても同じことをいっていた。
まったく京おんなに対する賛美のことばを集めれば、それだけで充分一冊の本ができるのではないかとと思われるほどである。

もちろんそれはなにも不思議なことではない。
政治と文化の中心都市、ミヤコにはその時代とその国中で一番の美女たちが集められるのは、いわば歴史の鉄則である。

日本のミヤコとしての長い歴史は、またそこに集められた数々の美しい女性の歴史でもあった。
紫式部、清少納言、小野小町、静、常盤、袈裟、小局、横笛、妓王、阿国、玉蘭、吉野太夫、蓮月尼、幾松、モルガンお雪、ざっとあげただけでもこれだけである。
すべてが京生まれではなかったとしても、京を舞台に生きた女性であったことに違いはない。
日本女性史の大半は京おんなによってしめられていることになるだろう。

もっともこうした特定の美女たちを別にしても、一般に京のおんなたちの評判はよかった。
京のおんな以外の女性について西鶴などは

 東そだちのすゑヾの女は、あまねくふつつかに足ひらたく、くびすぢかならずふとく肌へかたく、心に如在もなくて情にうとく、欲をしらず物に怖れず、心底まことはありながら、かつて色道の慰みにはなりがたし

と評している始末で、これでは京おんながますますクローズアップされたのは当然であったろう。
これからもわかるように、京おんなは「肌へかた」からず「情にうと」からざることが魅力のポイントになっていたようだ。

この京おんなの肌の美しいことについては古くは『人間記』にも認めている。

 世俗ニ其国風ハ其水ヲ知ルト云事、誠ナル哉。
 城州ハ其水潔フシテ、万色ヲ染ムルニ其色余国ニハイル違ヘル事、古ヨリ今ニ至ル。
 斯ノ如ク人之膚滑成事、亦斯ノ如ク女之姿音声之尋常ナル事、ナラブ国ナシ

というわけである。
考えてみればこの説明はなかなか科学的だといえる。
京に流れる川の水質の良さが、女性の肌のなめらかな美しさを作りあげているのだと因果的に説明しているわけだから。

そういえば古くから京都でいわれていることばに、
 
 賀茂川の水で産湯をつかえば美人になる。

というのがあった。
しかもそれがいかに広く知れわたり、信じられていたことか。
産まれたわが娘を美しく、しっとりとした肌に仕立てあげようと、わざわざ賀茂川の水を桶に入れて九州まで持ち帰り、産湯につかわせた殿様さえあったという話が残されているぐらいだから、昔からその効力は広く信じられていたようだ。

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■ 京はやせ形にして大坂は骨太なり

 やせ方の女性が賞賛されたのは、なにも現代になってからのことではなさそうである。
現代ではなお一方ではグラマーという形容で肉体的なボリュームもまた女性の欠かせない魅力の一つになっているが、昔は「柳ごし」というものが美女の欠くべかざるようそであったところからみて、総じてやせ形が賛美される傾向が強かったようである。

 京も大坂も女は丸顔多し、京はやせかたちにて大坂は少し骨太なり。
 顔色(器量)の美悪に至りては京まされり。

とは近世の江戸の作家のルポルタージュの一節であるが、この文より少ししまえのところで京おんなをことばをつくしてほめているので、ここで積極的に表現されていなくても、当然やせかたちの京の女性の方に軍配をあげているのははっきりしている。

しかしこのやせるということであるが、もちろん京おんなたちは、そのように意識的に努力をしてきたのであろうが、またそれに適した歴史的な環境のなかで育ってきたということも忘れることはできない。

それではどのような環境のもとに京おんなは育ったのであろうか。
まず美容と食べものについては現代でもやかましい問題の一つであるが、その食生活についてみるならば

 洛中概ね朝は宵の飯、茶にてカユをたき香のものばかり、昼は飯をたき菜の物を一品拵ひ、夕は又茶漬にて香の物ばかり、味噌汁は月に二、三度位。

と江戸の人間が観察している。
もちろんすべてがこのとおりであったかどうかは、はなはだ疑わしいが、古老の話などによると、京の中心、中京あたりではこれに近い食事が戦前まで続いていたという。

これは単に京都人のけちさだけによるものではなかった。
海に遠いという地理的な条件により、交通機関の未発達であった昔では、新鮮ないきのよい魚は人びとの口に入りにくかったのである。
しかし野菜は土壌がよかったので豊富にあった。
賀茂のなすびにすぐき、深泥ケ池のじゅんさい、聖護院かぶら、九条ねぎ、壬生菜、淀大根、六波羅えんどう、堀川のごぼう、紫野の辛大根、上鳥羽のくわい・・・・・と数えきればきりがないほど沢山あった。

だから京料理はこうした新鮮な野菜を中心に作られてきた。
精進料理、懐石料理、普茶料理、すべてがそうであった。
そういえば
 
 女などいにしへより美人多し、口に油気少なくきれいなゆゑなるべし

と滝沢馬琴もその菜食主義の食生活についての感想を述べている。
このように京おんなは昔から、おのずと美容食によって育てられる運命にあったのである。
その上、京おんなのなによりのたしなみは食の細いことであった。
これでは肥えようにも肥えられようがないといった方が本当だったろう。

 京はやせ形にして大坂は骨太なり。

といみじくも美人としての要素に取りあげられ、男たちの魅力をそそったしなやかな柳腰も、一皮むけば栄養障害の病的な体質であったといえる。

京おんなをもやしのように、しなやか育てたもう一つの環境は、京都の住居である。
間口が狭く、奥行きが深く、細ながい敷地の上に作られた部屋には、日光の射し込むといったようなことはなかった。
だからこのような薄暗い部屋で、野菜ばかり食べていれば、色が白く、しなやかな体になるのも不思議ではなかったろう。

■ 京の女郎に 江戸のハリ持たせ 大坂の揚屋で遊びたい

近世の粋人たちが、金と暇にまかせて、もっとも贅沢な男の夢としてこんなことを考えた。

ところで京の女郎といえばすぐに吉野太夫のことが想い出されるが、そのかの女に代表されていたのは、いうまでもなく京の女郎の文化的な洗練さ、教養、気品、情愛、美であった。
そうした京の女郎に、まだこの上江戸女郎のもっていたハリの強さ、たとえば江戸吉原の高尾太夫に代表されるような諸大名との関係、つまり政治的な手腕をもいっしょにもたせ、経済的な富に恵まれた天下の歓楽境、大坂の揚屋で思いきり遊んでみたら、男冥利につきるものだと、かれらは考えたのである。

まことに虫のいい話であるが、男性の考えることは、いつの時代でも同じことだといえばそうである。
たとえば京の芸妓モルガンお雪が、世界中を騒がしたころ、「日本の女性をつまとして、アメリカの洋館に住み、中華料理が食べてみたい」といったようなことが流行語になっていた。
もちろんいつもそれを実現できるのは、ごくごく少数の男性に限られていたが・・・・・。

さてこの京の女郎(遊女)であるがその歴史は古い。
もっともつい最近にいたるまで残っていたような、遊郭の制度ができたのはそう古くはない。
それは豊臣秀吉が天下を取ったころにはじまるものだが、日本の遊女そのものの歴史は、奈良時代はおろか上代にまでさかのぼらなければならないようだ。
いわゆる巫女は娼を兼ねていたという説もあるぐらいだから、それは驚くほど古い話になる。
『万葉集』のなかにも「遊行女婦」という名前がでてくる。
平安時代に入れば大江匡房の作といわれている『遊女記』や『傀儡子記』などでうかがえるように、遊女の数も多くなり、また社会的な地位もしだいに高まっていた。
ついで平安末期から鎌倉時代にあらわれた舞女、つまり妓王や仏御前で有名な白拍子も、よく知られるようにこれもまた遊女であった。
室町時代に入ると娼家の設置を認め、課税をしている記録が多く見出されるところから、遊郭のはじまりは、このころにもとめることができるのかも知れない。

もっとも日本で最初に遊郭が誕生したのは、京都の島原であるが、それにも多少の歴史があった。
その前身と思われる娼家の模様を、一休和尚宗純はその著『狂雲集』のなかで、つぎのように書いている。

 西洞院といふ所あり。
 諺に謂ふ所の小路なり。
 歌酒の客、此処を過ぎる者、皆風流の清事をなすなり。
 今街坊の間、十家のうち四五は娼楼也

と。
つまりはじめ京都では西洞院のあたりに、娼家が軒を並べていたことがわかる。
これは応仁の乱によって焼野が原と化すが、天正十七年(1589)原三郎左衛門が秀吉の許しを得て、これを柳ノ馬場万里小路に再興している。
その時の申請理由は街の繁栄をはかるためということになっていたが、まことに結構な話であった。

しかし盛んになればなったでまた問題の起こるものであった。
なんといっても商売が商売である。
為政者のものとに教育ママあたりから盛んに投書でもいったのであろう。
柳ノ馬場での営業は風紀上よろしくないということになって、即日移転を命ぜられることになった。
そこで移ったのが、今の島原の地なのである。
なにしろ一夜で引越しを命ぜられたので、その騒動がちょうど三年前に起こった、九州の島原の乱をおもわせるような大騒ぎだったので、それになぞらえてこの名前がつけられたともいう。

そして江戸時代に入り遊郭の全盛時代を迎えるわけであるが、なんといってもその頂点を作りあげたのは、五代将軍綱吉の元禄時代のことである。
この時代は人間が人間としての意識と欲望に目覚めたころで、主情的、感性的なものの発露が、しきりに叫ばれていた。
西鶴の作品にも見られるように、ありのままの人間の姿が、時代の前面に出てきていたのである。
人間性の回復、いわば日本におけるある意味でのルネッサンス期に相当していたともいえる。

ヨーロッパにおいても、遊郭がその全盛をきわめ、遊女が花を咲き誇らせたのは、ルネッサンスの時代であった。
その数と規模とそしてかの女たちが得た社会的な地位において、この時代は他の時代と際立ってちがっていた。
特にローマの場合などは、遊女の数はつねに数千人におよび、しかもそれは自分たちの商売を隠したりしない、”名誉な遊女”たちの数だけであったというから、全体の遊女の数は、想像するに余りある。

もっともローマには中世以来遊蕩の血があふれていた。
フックスの『風俗の歴史』をみれば信じ難いほどの状況が記されているが、それはともかくこのころのたいていの修道院は、ひじょうにいそがしい女郎屋であったということは、間違いないようである。
そういえばルネッサンス史家ブルクハルトも同じようなことをいっていた。
「下半身は女郎、上半身は聖母」といわれ、修道尼と遊女はいつもいっしょのものにされていたのである。

 すべての道はローマに通ずる。
 ローマではすべての道は姦淫に通ずる。

ということわざまで誕生していた。

ところで話は島原のことであったが、この全盛を誇り、吉野太夫という名妓を出した遊郭も、享和年代には、
 
 島原の廓、今は大いにおとろへて、曲輪(くるわ)の土塀なども壊れ倒れ、揚屋町の外は、家もちまたも甚だきたなし。
 太夫の顔色万事祇園にはおとれり。

ということになってしまっている。
しかしなんといっても、その歴史の古さはものをいう。

 しかれども人気の温和古雅なるところは。
 中々祇園の及ぶところにあらず。

であって、幕末維新の動乱の時代には、新選組隊士や勤皇の志士たちの出入が盛んになり、そうした志士たちにつくした。
数々のエピソードは、また京おんな、京の女郎の声価を、いやがうえにも盛りたてるものであった。

■ 京おんなは長ぶろ

京の女の魅力は、たんに自然にそなわった美しさだけではなく、その上さらに人工的な磨きをかけられたところであった。
それは京都の伝統的な文化に、頭のてっぺんから足の指先まで洗われることを意味していた。
香り高いセンスと優雅な趣味、それに豊な教養を身につけていることが絶対条件であったのである。

たしかに肌はなめらかで、顔立ちの整った美人は、京都ばかりでなく、秋田や新潟にも多い。
しかしかの女たちがなお京おんなに勝目がなかったのは、この人工的なみがき方を欠いている点にあった。

ところでこの磨きあげるということであるが、京おんなはまた、この文字通りの”磨きあげ”にも人一倍の神経を使ってきたのである。
美しい肌を一層美しくするために、丹念に肌を磨くこと、そのために自然「京おんなは長ぶろ」という事態になってしまっていた。

女の美への執念はもちろん現代でも少しも変わることはない。
いやかえっていっそうその激しさを増しているさえいえる。
もっとも中世のヨーロッパのある国のように処女の生血が肌の老衰を守ると信じられて、一人の権力者の女のために、大勢の娘たちがいきにえにされたというような、狂気じみた話はさすが日本ではまだ耳にしない。
そのことを思えば、泥を体じゅうに塗ったり、海藻をペタペタ張り付けたりするのは、まだいい方としなければならないだろう。

しかし昔の(そして今ではある一部の)京おんなはもっとつつましやかであった。
糠袋一つをさげて風呂に行くだけだったから。
糠には脂肪、蛋白質、ビタミンなどふんだんにあるといことを考えれば、安宣伝につられて高価な洗顔クリームにうつつを抜かすよりも、ずっとけんめいであったといえるだろう。
しかも糠ならどこの家にもあった。
このように金をかけずに身近なものを利用したあたり、いかにも京おんならしいところがあるのではないだろうか。

もっともこの糠袋には、どうやらこれ以外の使い方もあったようで、西鶴の『好色一代男』では世之介が九歳のときの出来事として、つぎのようなことを書いている。
一人の女房が行水をはじめていた---。

 ながれはすねのあとをもはぢぬ臍のあたりの垢かき流し、なをそれよりそこらも糠袋にみだれて、かきわたる湯玉油ぎりてなん。
 世之介四阿屋の棟にさし懸り、亭の遠目鏡を取持て、かの女を偸間に見やりて、わけなき事どもを見とがめゐるこそをかし。

それはともかく、京のおんなは、この糠袋を使って丹念に肌を磨いたことは間違いない。
だから自然かの女たちは「長ぶろ」ということになったのである。
だから普通の銭湯屋にしてみれば、これはたまったものではない。
回転が悪く商売にならなかったのである。
そこで生まれた(かどうかは怪しいが)のが、女だけの風呂屋である。

今でも先斗町あたりに行けば女性専用の風呂屋が残っているらしいが、残念なことに男性は近寄れない。
そこは京おんながみずからを美しく磨き上げる特権的な場所なのである。

ところで風呂といえば、日本で最初に風呂屋が開業されたのも京都のことであったようだ。
『近世風呂史』のなかで、

 太平記、延文五年(1360)の所に「今度の乱は畠山入道の所行也と落書きにもし歌にもよみ、湯や風呂の女童部迄ももてあつかひければ云々」是は京都のことを 云り。当時早く京都の町に風呂屋ありて、湯女などもありしやうに聞ゆ。

と述べている。
大体鎌倉時代の終わりごろには、今でいう銭湯ができていたようであるが、『太平記』等にも見られるように民間に普及したのは室町時代のことでもあった。
もっとも湯女といい銭湯といい、その話題を豊富にし、かつ爆発的に流行したのは近世はじめの江戸のことである

 京坂は市中、大中は素より小戸に至る迄、自家に浴室あり。
 大中戸は必ず之有り、小戸或は之有り或は之無し。
 如此の故に風呂屋戸数、江戸に比して甚だ少き也。

というわけであったからどうしても銭湯の話題は江戸に多い。

しかし京都でも一条堀川あたりにあった柳風呂というところは、ちょっとした名物であったようだ。
「洛中洛外図屏風」にも、この大きな風呂屋で、大あぐらをかいて湯女に背中を流させて気持ちよさそうにしている男の姿が見える。
『鹿苑日録』という、相国寺のお坊さんの日記のなかにも、この柳風呂のことは出てくる。

 慶長九年六月晦日、午後柳風呂ニ赴キ、各々同途ス。
 浴室ニ於テ粽ニテ酒有リ、酒了テ帰院。
 慶長十年十月十七日、豊光ニ於テ斎有リ。
 今度ノ骨折衆ノ振舞也。
 斎了テ柳風呂ニ赴キ、各会ノ衆残ラズ、浴後風呂ニ於テ酒有リ、酒了テ帰院。

このように、風呂屋で酒茶の接待することについては『色道大鑑』にも出てくるが、こうなると湯女という特殊な職業が、たんなる「垢掻き女」として終わるわけがなかったのは当然である。
承応、明暦期(1652-57)ごろには、この湯女はもっとも流行し、歌舞音曲入りで客の呼び込みを始め、また湯女の引き抜き合戦が、風呂屋同士の間で活発になっていたという。
『慶長見聞録』にもこのことは見えている。

 湯女といひてなまめける女ども廿人、三十人ならび居てあかをかき、髪をそゞぐ。
 扨又其外によふしよくたぐひなく、こころさまゆうにやさしき女房ども湯よ茶よと云ひて持来りたはむれ、うき世語りをなす。

もっともこうした風呂屋が、たんに衛生的な見地からのみ発展しなかったのではない。

■ 京女立って垂れるがすこしきず

垂れるというからには、それが鼻水でもなければ、びろうな話しであるが、小便のことにきまっている。
京の町が、そもそもこの小便ということについては、昔から何かと話題の多いところである。

有名な『東海道中膝栗毛』は十辺舎一九の作であるが、その主人公、弥次さん喜多さんの目を驚かせたのも、京のこの珍しい風習であった。
それは清水寺から三条の宿へ急いで帰る途中の話しなどである。
この話しは、京都以外の人にはよほどめずらしかったとみえて、『皇都午睡』のなかでも

 扨も小便を寵愛するは京の事也。矢(八)瀬小原など遠方へ持ちかへるは、樽詰にし、日々菜でせう。蕪でせうなどと、野菜の物と替て、値切小切する悪口は、十辺舎が膝栗毛に書たれば、世間に名高し。

と書いている。
川柳にも出てきていた。

 小便が野菜と化ける京の町

ところで京都では、江戸時代には町の辻々に、桶で作った公衆便所が設けられていた。
やはり当時としても、文化観光都市としての、万全の備えであったのだろう。
この頃の江戸では、まだ路上や溝に小便をするのが普通で、たまにあっても

 辻々に小便所稀にあれども、只はじきの板ばかりにて、地内へしみこますなれば、その辺に散乱して臭気はなはだし。

という有様であったから、京の文化水準の高さがうかがえる。
だから路上に小便をしないという、今から思えばごくあたりまえのことが、当時の地方から京に来たものには、よほどめずらしいものに思えたらしい。

 小便無用と書きさうな京の町
 地に御経あるで小便どぶへせず
 小便に鳥居は書かぬ京の町

と、これを取りあげた川柳を数えていればきりがないほどである。

さて話しはようやく本題にもどるが、その往来にある小便桶へ、美しく、しとやかであるはずの京おんなが、立ったままで小便をするのであるから、その驚きにはなお一層のものがあったようだ。

 きれいはいいが、立って小便するにはあやまる

とは十辺舎一九のことばであるが、もう一人の江戸の作家、滝沢馬琴は、さすがに新進作家らしく、入念な観察のいきとどいたレポートを提出している

 京の家々厠の前に小便担桶ありて、女もそれへ小便する。故に、富家の女房も小便は悉く立て居てするなり。但良賤とも紙を用ず。妓女ばかりふところかみをもちて便所へゆくなり。月々六斎ほとづゝこの小便桶をくみに来る  なり。或は供二三人つれたる女。道はたの小便たごへ立ながら尻の方へむけて小便をするに恥るいろなく笑ふ人なし。

と。
単に観察だけならばよかったが、なかには鋭い批評まで出てくることになった。
『皇都午睡』の作者がそうである。

 大坂にてもたまたま往来の小便桶へ婦人の小便する事、老婆幼稚の者は人目も恥ねど、若き女の小便するふりは余り見るべき姿にあらず。江戸は下女に至る迄も小便たごなければ、よん所なくかはしらねど、皆厠へ行くゆ  ゑ是だけは東都の女の方勝公事也

まったく京女にとっては、痛い所をつかれたわけである。

 京女立って垂れるがすこしきず

とうたわれたのは、今から二百年ほど昔のことである。

祇園のあでやかな花街にも、つい最近までこうした姿が残っていたというショッキングな話しは、谷崎潤一郎の『鴨東綺譚』を読まれますよう。

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■ 大原女

いつ頃からこうした大原女の物売り姿がはじまったかということについては、はっきりしたことは分かっていない。
室町時代の『七十一番職人歌合』に
 一たきにさも燃えやすき小原木の、あかしもはてず入かたの月
というのがあるから、そうとう古くまでさかのぼれそうである。
一般には建礼門院にまつわる話しが、好んでなされているようだ。
『平家物語』大原御幸で有名なかの女が、大原の寂光院に隠れ住んだとき、いっしょに従っていた阿波の内侍らが裏山に柴を取りに行き、それを集めて京の町に売りに出て生計の足しにしたが、それが黒木売りの起こりだというのである。

天野信景の書いた『塩尻』にも
 山城国小原より出て薪を売る女の脛帯は世俗と異にして、前の方にてあはせ結ぶ。建礼門院此山に入御ありて、御修業の為に薪をいただき下山あるを、人買ふべきよしいへば、やがて背むかせたまひて見せさせましませし 余風にて、はばきを後ろさまにはき侍ると、八瀬なる人かたりし。
と出ている。
そのユニークな衣装の趣が、大原女の特色であるが、それはまた後姿がとくに強調されている点でも、他の行商装束とは異なるものであった。
脚絆を前で結ぶのもかの女たちだけである。
うしろ向きにどうやって薪を売ったのか、ちょっと想像し難い。

もっとも『近代世事談』などでは、内侍たちが官女であったため、脚絆をつける方法を知らず、皆は結びやすいように、向こうに合わせて結んだが、それが脚絆を前で結ぶ大原女の風習になったと、うがった見方をしている。

しかしいずれにしても、大原女の起源を、この建礼門院の官女たちの薪木売りに求めている点では一致している。

こうして京情緒をもりたてる大原女の行商姿が、京の町に見られるようになったのである。
かの女たちは、その黒木を頭の上に乗せて運んだ。

 黒木買わんせ 黒木召せ
 黒木買わしゃんせ

などの売り声を上げて、ゆっくりと調子を取りながら歩いたのである。
もっとも黒木はそう軽くはない。
いきなり呼び止められても、すぐ振り返るわけにはゆかない。
落ちないように、首のすじを違えないように注意する必要があった。

 黒木売呼ぶとやんわりふり返り

という、なんともいえない情緒を作りあげていたのである。

そのうえその昔は官女たちが売り歩いていたというだけに、大原女には、どことはなく気品がそなわっていた。
それがまた商売のうえにも出ていたわけで、

 黒木うり横ぐしいやみからみなし

と好感をもって、京の人には受け入れられていたようだ。
だが商売にかけても気位はちゃんとあったようで、ペタペタしない。

 きげんよくまけずに帰る黒木売

と、川柳はよくこの大原女の生態を伝えてくれる。

この働き者の大原女たちには、一つの楽しみ(?)があった。
それは年に一度、大晦日の夜、大原の江文神社の拝殿で、雑魚寝をすることが許されていたことである。
まことに奇妙で、困った風習だが、それにしてもおおらかなセックス観をもっていたものだと感心させられる。
西鶴なども、さっそくその小説のなかでつかっている。

 大原の里のざこ寝とて、庄屋の内義娘、又下女下人にかぎらず、老若のわかちもなく、神前の拝殿に、所ならひとて、みだりがはしく、うちふして、一夜は、何事をもゆるすとかや、いざ是よりと、朧なる清水、岩の陰道、小松を わけて其里に行て、牛つかむ計の、闇がりまぎれにきけば、まだいはけなき姿にて、迯まはるもあり、手を捕へられて断をいふ女もあり、わさとたはれ懸るもあり、しみじみと語る風情、ひとりを二人して、論ずる有様もなを笑し。

と『好色一代男』の中で書いている。
原始時代の婚礼制度の再来のようであるが、これが大原では近世にいたるまで続いていたのである。
もちろん今は幸か不幸かもう行われていない。

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■ 白川女

白川女の美しい花売り姿もまた、京都の風景の一つを形づくっていたものである。
まだ朝露が、真珠のような光を放っている取立ての花々を、白い手拭をかぶった頭に乗せ、「はアないりまへんかア」「お花どうどすえ」と澄んだ声をあげて、朝の町を通っていったのである。

 瓶にいけた夏の草花のいかにいのち短きかをよく知ってきた私であるが、摘んだばかりの草花の色の余りにあざやかなためにだまされるやうに私はつい何本かの花を買ふ。そしてそんなさゝいなことにも京のみやこの優美さを つくづくうれしく思ふのである。

と、これは河上肇の『自叙伝』のなかにでてくる一節であるが、白川女にたいする愛着がよくしのばれる。
頭には白手拭、脚には白い脚絆、カスリの着物に派手な色のたすきがけで、三幅の前だれを腰にまわしたその姿は、優美で清楚な香りがいっぱいといったところであったろう。

北白川一帯は瓜生山と呼ばれる小さな山を中心に、西南方向つまり京の街の方にむかって扇状形に広がっている沃土地帯で、昔から暖かい風をほどよく受けて、草花がよく育った。
このように花にうずまる白川の里の美しさは、平安朝の昔から歌に詠まれ詩にたたえられ、それは数限りがないほどである。

話しはさかのぼって醍醐天皇の延喜年間のことである。
このころ平安京での悩みといえば、のちの後白河天皇が「朕の意のまゝにならぬもの」の一つにあげていた賀茂川の水の氾濫、つまり水害があった。
だから大宮人は都に近い台地を探し、そこに別荘や寺院を競って建てたのである。
白川の里も例外ではなかった。
むしろその風光明媚なところから、理想郷の別天地と考えられたのである

ところでここに別荘をもっていたものの一人、参議宮内卿三善清行は、この里の花々のあまりの見事さに心を奪われ、自分だけではなくこの花を禁中に献上し、天皇をおなぐさめすることができればと考えた。
これを聞いた白川の里人も、それは何よりもの光栄であると、里の娘たちを集め、簡素ではあるが美しい装いに身を包み、切りたての草花を箕に入れ、頭上にのせて列を作りながら御所に届けたのである。

白川女の花売り衣装は、この時のスタイルが残されたものだと言い伝えられている。
その紺と白のシンプルなコントラストは、花の美しさをいっそう引き立て、京の人々の心に白川女の清楚さをいっそう印象づけるものであった。

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■ 桂女

京の女人風俗のなかでも、大原女や白川女などは、時代の推移によって昔の面影をそのまま止めてはいないとはいいながらも、なお現在でもその姿を目にすることはできる。
しかし桂女の風俗だけは、もう現実には見あたらない。

もっとも年に一度だけその姿を見ることはできる。
つまり京都の時代祭りの行列のなかにあらわれる。

この桂女をもっともよく特徴づけていたのは、その頭に締められた白い布、桂包みといわれるものであった。
細長い麻布を巻いたものだが、その巻き方、結び方は一定していなかった。
時代祭りのときには、頭の横で結んでそのまま長く垂らしているが、巻貝のようにぐるぐる巻いたり、頭の前で蝶ネクタイのように締めたり、両横で結んだものなど色々あった。

そのゆかりについて『塩尻』という本のなかでは

 綿にて製せる帽を戴く。伝へ云神功皇后の三韓御征伐の時、服しましませし御帽を学ぶとかや。

といっている。
そうすれば桂女の起源もずいぶんと古いことになる。
『安斎随筆』という本のなかでは、桂女にふれてつぎのように書いている。

 山城国桂村上下にあり。上村名主累世相続して桂女と称す。諸役免許なり。遠祖神功皇后御腹帯を持伝へ、代々女子相続して、男子は他家より迎ふ。(中略)女子家督する時、代官所所司代へも参る。下知に任せて関東に も下向し、時服白銀を頂戴する由。(中略)桂女は取次の者案内して殿中に入、かの腹帯を包みて頭に戴きて入る。鎌倉以往其後足利家の時分にさして、其事跡見聞なしとか。豊臣太閤文禄元年挑戦征伐に進発の時、先日 伏見御香宮に参詣せらる。然て後聚楽出陣のみぎり、桂女山崎の辺に至り首途を祝し奉り、神功皇后の嘉例とて物捧をなせり。此時太閤より衣服金銀を賜るとなり。

これらから察すると、どうやらこの桂女も皇室とのかかわりが深いようである。
神功皇后といえば仲哀天皇のきさきであったが、三韓征伐がおこなわれたのは、ちょうどかの女が妊娠中のことであったという。
戦いは無事に終わり、神功皇后はすぐに帰国され、九州の地で赤ん坊を生まれたが、それがのちの応仁天皇である。
ところでこの遠征に従い、皇后のお産の世話をしたのが桂女の先祖であるというわけなのである。
お産の世話にまつわって、おはらい、占いなどもおこない、ついにはみこという職業を世襲するまでになった。
だから神功皇后をまつった御香宮や岩清水八幡宮につかえたみこは、桂女であったといわれている。

桂女そのものの名を高め、有名にしたものは、先にもみたように、それはなんといっても豊臣秀吉が朝鮮に遠征したときのことである。
御香宮で戦勝祈願をすませた秀吉の一行を西国街道で待受けていた桂女たちはすぐにみなで出迎え、壮途を祝して山崎まで見送っている。
これを秀吉が喜ばないはずはなかった。

このように戦勝祈願と桂女との関係ができあがるわけであるが、それはいうまでもなく権力者との関係が深まることを意味した。
こののちも皇室、徳川将軍家、公家といった、特権階級との結びつきが深まっていっている。

もともと桂女と呼ばれた場合には、そうした選ばれた女性をのみ指していうものではなかった。
桂の土地に働く、一般の労働婦人をいったものなのである。
大原女、白川女、畑の姥と同じ京都近郊の行商人を指していた。
古くから有名な「桂アメ」と「桂アユ」を売りに京に出ていたのはこの桂女なのである。
『職人尽』には

 建保のも後のも桂女はみな鮎売なり

とありまた「三十二番職人歌合」のなかにも、

 春風にわかゆ(若鮎)の桶をいただきてたもとも辻が花をおるかな

の歌が収められている。
また『狂歌咄』では

 此ほどは飴を煉出して名物となり、桂飴とて世にもてはやすとかや

と桂アメのことをいっている。

こうした一般の行商の女性を指して桂女といったのも、江戸時代までのことであったらしい。
それ以後は特権をもった、特定の家の女性だけを指して桂女というようになったようである。
それも前に書かれていたように、母系相続されるものであった。

そうしたエリートとなった桂女は、将軍家や諸侯それに公家の家にめでたい祝いごとがあると、かならずよばれてゆくようになった。

 いにしへ都の内にさもある人の家にめでたき祝言のある処には、桂の里よりわかき女の参りける。その出立は顔うつくしうけはひ眉つくり、うるはしき小袖をかさね我名をかつらと名乗て、新婦、いりむこ取、家造り、何によらず  めでたき御事の候と聞て桂が参りて候、とてその事につけてさまざま詞をかざり、いひつづけ祝言のはらひを致し、その程々の賜物とりて帰る事侍りき。

と『狂歌咄』にも出ている。
江戸時代はもとより、遠く九州の島津家にもいったという記録さえ残されている。
『春湊浪話』や『山城名勝志』にも、こうした桂女のことが述べられている。

だがこのように桂女が特権化し一部の権力に寄生したことは、またその命を短くするものであった。
寄生する権力の崩壊とともに、桂女もその姿を消さなければならなかったのである。
そこに、白川女や大原女が、まだいまなおその姿を止めているのに反して、桂女がもはや現実的には姿を消さなければならなかった理由があるようだ。

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■ 畑の姥

おなじ京の近郊に働く女性のなかでも、この畑の姥という呼び名は、正直いってあまりいい響きとイメージをもたらしてはくれない。
これが白川女といい、大原女というときは、なにか知らず識らずのうちにも、かいがいしく働く、美しい京乙女の姿が連想されるから不思議である。
だから畑の姥というのは、名前からいってずい分損をしていることになる。

もちろん畑の姥といっても、何もぶこつで、あつかましく、しわの寄った老婆を想像する必要はないのであって、働き手の多くは年若い女性であった。
その証拠には、『東海道中膝栗毛』のなかで弥次さんに

 ハゝァさすがは都じゃ。どいつも小ぎれいな面つきだ。ちとひやかしてやろふか。

と浮気心をかり立てているのは、まぎれもなくこの畑の姥たちなのである。
十辺舎の筆を借りて当時の畑の姥たちの様子を書いてみると、

 近在の女商人、いづれも頭に柴、薪、あるひは梯子、連木、槌などをいただきて、四五人打つれだち「はしご、かはしやんせかいにやァ。れん木いらんかいにやァ」

と売り歩いていたことがわかる。

ところでこの弥次喜多の物語の方であるが、やめておけばよいものを、例によって弥次さんは、かの女たちをからかいはじめた。
しかし都の人ならば誰もが知っていたように、畑の姥といえばそのがめつさと商売上手で名を売っていたのである。
女とはいえ、なんでオノボリさんふぜいにやりこめられて、そのまま引きさがることをしようか。

話しかけた相手にハシゴを売らずに引き退るようなかの女たちではなかったから、つい話しにつられた弥次さんが「貮百ばかりなら引受やうさ」と、うっかり口をすべらせたのが運のつきだった。
値切ったその値で。ついにハシゴを買わされたのである。

 いかにせん梯子の親とこのよふなやつかいものをひきうけし身は。

とあきらめたものの、京の町なか、ハシゴをかついで歩いて行くさまは、あまり見られたものではなかった。
通行人は火事でもあるんだろうとわいわい騒ぐ。
どこかの横町に捨てようとすると、すぐ見つかってどなられる。
そこで
 「是もまた咄しのたねよはるばると京へのぼりし梯子一脚」
と半ばやけっぱちな敗け惜しみをいいながら、宿まで持って帰る羽目となるのである。

さてこれでもわかるように、畑の姥たちはただ美しいばかりでなく、またその気性もしっかりしていた。
京都にもカカア天下の土地があった。
高尾〜梅ケ畑のあたりだったのである。

畑ケ姥といえば北山林業地帯の中心地、有名な北山杉を出しているところである。
ここで男たちは木を切り出し、北山丸太の廃材でハシゴやクラカケを作った。
そして女たちがその販売を一手に引き受け、京に売りに出かけたのである。
このような分業のもとでは、女性が常に貨幣を扱い、したがって男性よりもまさった経済的手腕と能力を発揮するにいたるのは当然だった。
そしてまた経済を制するものがあらゆる実権をもつにいたるのは、これまたあまねく知られた法則の一つであった。
戦後男女同権になって一番ほっとしたのはここの男性たちであったという。

それでもこの男まさりの京おんなには、また独特のエロティシズムがあった。
いうまでもなく腰からヒップにかけての運動が、なんとも魅惑的であったというのだが、それはかの女たちが重いものを頭にかついで歩くため、自然腰の回転によってバランスをとるようにしたためである。
だから足を運ぶごとに肉付いたヒップが左右に大きく揺れ動いたというわけだ。

ところで大原女が建礼門院と結びつき、白川女ガ御所への献華をしたということによって皇室と結びつくように、畑の姥もまた、そうした権威との連帯的な背景をもっている。

その話は承久の乱のときにまでさかのぼる。
目算はずれて逆に北条氏に追われるという、敗軍の将になった後鳥羽上皇は、殺生禁断の聖域であった高雄の奥、菖蒲ケ谷へ逃げこんだ。
この時この上皇を助けるのに一役買ったのが、この土地の者たちだった。
かれらはありあわせの袋に米を詰めてこっそり上皇に差し入れをしたのである。
このとき上皇はこれに感謝しながら自分の着ていた白羽二重の片袖をちぎって、米袋のかわりに村人たちに差し出した。
村人たちはその袖で作った袋を引っさげるのは余りに恐れ多いとして、それからは米を運ぶときその袋を頭にいただくことにしたのである。
それがいま畑の姥の風俗のなかで、特徴的なものとして残されている「戴き袋」の始まりである。

頭の上に物をのせて運ぶのはいろいろな地方で行われている。
普通そのとき「輪」と呼ばれるわらの台を頭の上に乗せて安定をはかるが、畑の姥だけはその輪の方に、もう一枚袋を重ねてクッションを良くする。
これが戴き袋と呼ばれるものなのである。

 はァしィごォやァ くらァかァけェいらァん かあァいなあァー

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