■■■京都故事 -京の女とことば 全23話-
東男に京女|京によきもの三つ、女子、賀茂川の水、寺社|京はやせ形にして大坂は骨太なり|京の女郎に 江戸のハリ持たせ 大坂の揚屋で遊びたい|京おんなは長ぶろ|京女立って垂れるがすこしきず | 大原女 | 白川女 | 桂女 | 畑の姥 |
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■ 東男に京女
明和七年(1770)の一月十六日、まだ正月気分の抜け切らない江戸の町は、どことなく浮かれた気分に満ちていた。
この作品はこの後も評判が良く、江戸で作られた浄瑠璃作品のうちの、代表作の一つに数え上げられるのである。
福内鬼外とは平賀源内なのである。
東男に都の女郎、いきと情けを一つに寄せて、色で丸めた恋の山、傍で見るさへ憎らしい、そりゃあんまり強過ぎる。
というのが出てくる。
誰というともなしに一般化されたものであろうが、これは京おんなに対する賞賛の言葉であったとともに、また東男たちの、力強い自負の表明であったともいえる。 荒々しく粗野で、優雅の道を理解できない田舎者の東男が、東夷とさげすまれていた汚名を返上して、イキな気風のよさを売物に、男性としての理想像にまで高まった背景には、上方に対する江戸の繁盛と文化の開花があげられる。 しかし常に都に対して抱いた憧憬は、完全に捨て去ることは出来なかった。 だから京女というものに姿を変えて、その憧憬は存続したのである。
そうした京都の、磨き上げられた伝統文化の粋が集約され、一つの姿として現れたものが、京おんなであると考えられた。
もちろん京都には文字通りの美人も多かった。
たとえば日本では、古代以来采女という制度があった。
かりに上京した地方の人間が美人に出合わなかったとしても、都に憧れたそのものたちの目に、都の女性、京おんなが悪く写る道理がない。
京女のよさゝうなを、つれづれの酒相手に抱やうと思うたれど、何かとして抱へなんだ と残念がるように、地方出身の男性にとって、なによりの誇りと自慢は、京おんなを手に入れることであった。 元禄時代には、大名相手の愛妾周旋の口入屋までが京都にできているのであるから、京おんなの評判は相当高かったものと思われる。 もっとも狂言の「若和布」には、 惣じて京男に伊勢女というて、女は伊勢の名物でおりある とあり、これから察すると室町時代では、京おんなよりも京男のほうが株が上であったように受け取れる。
京女に江戸男
と断然京の女性の人気は上昇する。
京おんながそれほどに賞味されるには、やはりそれだけの理由があった。
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■ 京によきもの三つ、女子、賀茂川の水、寺社
これは江戸の作家滝沢馬琴の『覊旅漫録』のなかに出てくる有名なことばであるが、井原西鶴の『好色一代女』のなかにも「女は都にまして何国を沙汰すべし」ということばが見つかる。
もちろんそれはなにも不思議なことではない。
日本のミヤコとしての長い歴史は、またそこに集められた数々の美しい女性の歴史でもあった。
もっともこうした特定の美女たちを別にしても、一般に京のおんなたちの評判はよかった。
東そだちのすゑヾの女は、あまねくふつつかに足ひらたく、くびすぢかならずふとく肌へかたく、心に如在もなくて情にうとく、欲をしらず物に怖れず、心底まことはありながら、かつて色道の慰みにはなりがたし と評している始末で、これでは京おんながますますクローズアップされたのは当然であったろう。
この京おんなの肌の美しいことについては古くは『人間記』にも認めている。 世俗ニ其国風ハ其水ヲ知ルト云事、誠ナル哉。
というわけである。
そういえば古くから京都でいわれていることばに、
というのがあった。
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■ 京はやせ形にして大坂は骨太なり
やせ方の女性が賞賛されたのは、なにも現代になってからのことではなさそうである。
京も大坂も女は丸顔多し、京はやせかたちにて大坂は少し骨太なり。
とは近世の江戸の作家のルポルタージュの一節であるが、この文より少ししまえのところで京おんなをことばをつくしてほめているので、ここで積極的に表現されていなくても、当然やせかたちの京の女性の方に軍配をあげているのははっきりしている。 しかしこのやせるということであるが、もちろん京おんなたちは、そのように意識的に努力をしてきたのであろうが、またそれに適した歴史的な環境のなかで育ってきたということも忘れることはできない。 それではどのような環境のもとに京おんなは育ったのであろうか。
洛中概ね朝は宵の飯、茶にてカユをたき香のものばかり、昼は飯をたき菜の物を一品拵ひ、夕は又茶漬にて香の物ばかり、味噌汁は月に二、三度位。 と江戸の人間が観察している。
これは単に京都人のけちさだけによるものではなかった。
だから京料理はこうした新鮮な野菜を中心に作られてきた。
と滝沢馬琴もその菜食主義の食生活についての感想を述べている。
京はやせ形にして大坂は骨太なり。 といみじくも美人としての要素に取りあげられ、男たちの魅力をそそったしなやかな柳腰も、一皮むけば栄養障害の病的な体質であったといえる。 京おんなをもやしのように、しなやか育てたもう一つの環境は、京都の住居である。
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■ 京の女郎に 江戸のハリ持たせ 大坂の揚屋で遊びたい
近世の粋人たちが、金と暇にまかせて、もっとも贅沢な男の夢としてこんなことを考えた。 ところで京の女郎といえばすぐに吉野太夫のことが想い出されるが、そのかの女に代表されていたのは、いうまでもなく京の女郎の文化的な洗練さ、教養、気品、情愛、美であった。
まことに虫のいい話であるが、男性の考えることは、いつの時代でも同じことだといえばそうである。
さてこの京の女郎(遊女)であるがその歴史は古い。
もっとも日本で最初に遊郭が誕生したのは、京都の島原であるが、それにも多少の歴史があった。
西洞院といふ所あり。
と。
しかし盛んになればなったでまた問題の起こるものであった。
そして江戸時代に入り遊郭の全盛時代を迎えるわけであるが、なんといってもその頂点を作りあげたのは、五代将軍綱吉の元禄時代のことである。
ヨーロッパにおいても、遊郭がその全盛をきわめ、遊女が花を咲き誇らせたのは、ルネッサンスの時代であった。
もっともローマには中世以来遊蕩の血があふれていた。
すべての道はローマに通ずる。
ということわざまで誕生していた。 ところで話は島原のことであったが、この全盛を誇り、吉野太夫という名妓を出した遊郭も、享和年代には、
ということになってしまっている。
しかれども人気の温和古雅なるところは。
であって、幕末維新の動乱の時代には、新選組隊士や勤皇の志士たちの出入が盛んになり、そうした志士たちにつくした。
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■ 京おんなは長ぶろ
京の女の魅力は、たんに自然にそなわった美しさだけではなく、その上さらに人工的な磨きをかけられたところであった。
たしかに肌はなめらかで、顔立ちの整った美人は、京都ばかりでなく、秋田や新潟にも多い。
ところでこの磨きあげるということであるが、京おんなはまた、この文字通りの”磨きあげ”にも人一倍の神経を使ってきたのである。
女の美への執念はもちろん現代でも少しも変わることはない。
しかし昔の(そして今ではある一部の)京おんなはもっとつつましやかであった。
もっともこの糠袋には、どうやらこれ以外の使い方もあったようで、西鶴の『好色一代男』では世之介が九歳のときの出来事として、つぎのようなことを書いている。
ながれはすねのあとをもはぢぬ臍のあたりの垢かき流し、なをそれよりそこらも糠袋にみだれて、かきわたる湯玉油ぎりてなん。
それはともかく、京のおんなは、この糠袋を使って丹念に肌を磨いたことは間違いない。
今でも先斗町あたりに行けば女性専用の風呂屋が残っているらしいが、残念なことに男性は近寄れない。
ところで風呂といえば、日本で最初に風呂屋が開業されたのも京都のことであったようだ。
太平記、延文五年(1360)の所に「今度の乱は畠山入道の所行也と落書きにもし歌にもよみ、湯や風呂の女童部迄ももてあつかひければ云々」是は京都のことを 云り。当時早く京都の町に風呂屋ありて、湯女などもありしやうに聞ゆ。 と述べている。
京坂は市中、大中は素より小戸に至る迄、自家に浴室あり。
というわけであったからどうしても銭湯の話題は江戸に多い。 しかし京都でも一条堀川あたりにあった柳風呂というところは、ちょっとした名物であったようだ。
慶長九年六月晦日、午後柳風呂ニ赴キ、各々同途ス。
このように、風呂屋で酒茶の接待することについては『色道大鑑』にも出てくるが、こうなると湯女という特殊な職業が、たんなる「垢掻き女」として終わるわけがなかったのは当然である。
湯女といひてなまめける女ども廿人、三十人ならび居てあかをかき、髪をそゞぐ。
もっともこうした風呂屋が、たんに衛生的な見地からのみ発展しなかったのではない。 |
■ 京女立って垂れるがすこしきず
垂れるというからには、それが鼻水でもなければ、びろうな話しであるが、小便のことにきまっている。
有名な『東海道中膝栗毛』は十辺舎一九の作であるが、その主人公、弥次さん喜多さんの目を驚かせたのも、京のこの珍しい風習であった。
扨も小便を寵愛するは京の事也。矢(八)瀬小原など遠方へ持ちかへるは、樽詰にし、日々菜でせう。蕪でせうなどと、野菜の物と替て、値切小切する悪口は、十辺舎が膝栗毛に書たれば、世間に名高し。 と書いている。
小便が野菜と化ける京の町 ところで京都では、江戸時代には町の辻々に、桶で作った公衆便所が設けられていた。
辻々に小便所稀にあれども、只はじきの板ばかりにて、地内へしみこますなれば、その辺に散乱して臭気はなはだし。 という有様であったから、京の文化水準の高さがうかがえる。
小便無用と書きさうな京の町
と、これを取りあげた川柳を数えていればきりがないほどである。 さて話しはようやく本題にもどるが、その往来にある小便桶へ、美しく、しとやかであるはずの京おんなが、立ったままで小便をするのであるから、その驚きにはなお一層のものがあったようだ。 きれいはいいが、立って小便するにはあやまる とは十辺舎一九のことばであるが、もう一人の江戸の作家、滝沢馬琴は、さすがに新進作家らしく、入念な観察のいきとどいたレポートを提出している 京の家々厠の前に小便担桶ありて、女もそれへ小便する。故に、富家の女房も小便は悉く立て居てするなり。但良賤とも紙を用ず。妓女ばかりふところかみをもちて便所へゆくなり。月々六斎ほとづゝこの小便桶をくみに来る なり。或は供二三人つれたる女。道はたの小便たごへ立ながら尻の方へむけて小便をするに恥るいろなく笑ふ人なし。 と。
大坂にてもたまたま往来の小便桶へ婦人の小便する事、老婆幼稚の者は人目も恥ねど、若き女の小便するふりは余り見るべき姿にあらず。江戸は下女に至る迄も小便たごなければ、よん所なくかはしらねど、皆厠へ行くゆ ゑ是だけは東都の女の方勝公事也 まったく京女にとっては、痛い所をつかれたわけである。 京女立って垂れるがすこしきず とうたわれたのは、今から二百年ほど昔のことである。 祇園のあでやかな花街にも、つい最近までこうした姿が残っていたというショッキングな話しは、谷崎潤一郎の『鴨東綺譚』を読まれますよう。 ▼ Link
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■ 大原女
いつ頃からこうした大原女の物売り姿がはじまったかということについては、はっきりしたことは分かっていない。
天野信景の書いた『塩尻』にも
もっとも『近代世事談』などでは、内侍たちが官女であったため、脚絆をつける方法を知らず、皆は結びやすいように、向こうに合わせて結んだが、それが脚絆を前で結ぶ大原女の風習になったと、うがった見方をしている。 しかしいずれにしても、大原女の起源を、この建礼門院の官女たちの薪木売りに求めている点では一致している。 こうして京情緒をもりたてる大原女の行商姿が、京の町に見られるようになったのである。
黒木買わんせ 黒木召せ
などの売り声を上げて、ゆっくりと調子を取りながら歩いたのである。
黒木売呼ぶとやんわりふり返り という、なんともいえない情緒を作りあげていたのである。 そのうえその昔は官女たちが売り歩いていたというだけに、大原女には、どことはなく気品がそなわっていた。
黒木うり横ぐしいやみからみなし と好感をもって、京の人には受け入れられていたようだ。
きげんよくまけずに帰る黒木売 と、川柳はよくこの大原女の生態を伝えてくれる。 この働き者の大原女たちには、一つの楽しみ(?)があった。
大原の里のざこ寝とて、庄屋の内義娘、又下女下人にかぎらず、老若のわかちもなく、神前の拝殿に、所ならひとて、みだりがはしく、うちふして、一夜は、何事をもゆるすとかや、いざ是よりと、朧なる清水、岩の陰道、小松を わけて其里に行て、牛つかむ計の、闇がりまぎれにきけば、まだいはけなき姿にて、迯まはるもあり、手を捕へられて断をいふ女もあり、わさとたはれ懸るもあり、しみじみと語る風情、ひとりを二人して、論ずる有様もなを笑し。 と『好色一代男』の中で書いている。
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■ 白川女
白川女の美しい花売り姿もまた、京都の風景の一つを形づくっていたものである。
瓶にいけた夏の草花のいかにいのち短きかをよく知ってきた私であるが、摘んだばかりの草花の色の余りにあざやかなためにだまされるやうに私はつい何本かの花を買ふ。そしてそんなさゝいなことにも京のみやこの優美さを つくづくうれしく思ふのである。 と、これは河上肇の『自叙伝』のなかにでてくる一節であるが、白川女にたいする愛着がよくしのばれる。
北白川一帯は瓜生山と呼ばれる小さな山を中心に、西南方向つまり京の街の方にむかって扇状形に広がっている沃土地帯で、昔から暖かい風をほどよく受けて、草花がよく育った。
話しはさかのぼって醍醐天皇の延喜年間のことである。
ところでここに別荘をもっていたものの一人、参議宮内卿三善清行は、この里の花々のあまりの見事さに心を奪われ、自分だけではなくこの花を禁中に献上し、天皇をおなぐさめすることができればと考えた。
白川女の花売り衣装は、この時のスタイルが残されたものだと言い伝えられている。
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■ 桂女
京の女人風俗のなかでも、大原女や白川女などは、時代の推移によって昔の面影をそのまま止めてはいないとはいいながらも、なお現在でもその姿を目にすることはできる。
もっとも年に一度だけその姿を見ることはできる。
この桂女をもっともよく特徴づけていたのは、その頭に締められた白い布、桂包みといわれるものであった。
そのゆかりについて『塩尻』という本のなかでは 綿にて製せる帽を戴く。伝へ云神功皇后の三韓御征伐の時、服しましませし御帽を学ぶとかや。 といっている。
山城国桂村上下にあり。上村名主累世相続して桂女と称す。諸役免許なり。遠祖神功皇后御腹帯を持伝へ、代々女子相続して、男子は他家より迎ふ。(中略)女子家督する時、代官所所司代へも参る。下知に任せて関東に も下向し、時服白銀を頂戴する由。(中略)桂女は取次の者案内して殿中に入、かの腹帯を包みて頭に戴きて入る。鎌倉以往其後足利家の時分にさして、其事跡見聞なしとか。豊臣太閤文禄元年挑戦征伐に進発の時、先日 伏見御香宮に参詣せらる。然て後聚楽出陣のみぎり、桂女山崎の辺に至り首途を祝し奉り、神功皇后の嘉例とて物捧をなせり。此時太閤より衣服金銀を賜るとなり。 これらから察すると、どうやらこの桂女も皇室とのかかわりが深いようである。
桂女そのものの名を高め、有名にしたものは、先にもみたように、それはなんといっても豊臣秀吉が朝鮮に遠征したときのことである。
このように戦勝祈願と桂女との関係ができあがるわけであるが、それはいうまでもなく権力者との関係が深まることを意味した。
もともと桂女と呼ばれた場合には、そうした選ばれた女性をのみ指していうものではなかった。
建保のも後のも桂女はみな鮎売なり とありまた「三十二番職人歌合」のなかにも、 春風にわかゆ(若鮎)の桶をいただきてたもとも辻が花をおるかな の歌が収められている。
此ほどは飴を煉出して名物となり、桂飴とて世にもてはやすとかや と桂アメのことをいっている。 こうした一般の行商の女性を指して桂女といったのも、江戸時代までのことであったらしい。
そうしたエリートとなった桂女は、将軍家や諸侯それに公家の家にめでたい祝いごとがあると、かならずよばれてゆくようになった。 いにしへ都の内にさもある人の家にめでたき祝言のある処には、桂の里よりわかき女の参りける。その出立は顔うつくしうけはひ眉つくり、うるはしき小袖をかさね我名をかつらと名乗て、新婦、いりむこ取、家造り、何によらず めでたき御事の候と聞て桂が参りて候、とてその事につけてさまざま詞をかざり、いひつづけ祝言のはらひを致し、その程々の賜物とりて帰る事侍りき。 と『狂歌咄』にも出ている。
だがこのように桂女が特権化し一部の権力に寄生したことは、またその命を短くするものであった。
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■ 畑の姥
おなじ京の近郊に働く女性のなかでも、この畑の姥という呼び名は、正直いってあまりいい響きとイメージをもたらしてはくれない。
もちろん畑の姥といっても、何もぶこつで、あつかましく、しわの寄った老婆を想像する必要はないのであって、働き手の多くは年若い女性であった。
ハゝァさすがは都じゃ。どいつも小ぎれいな面つきだ。ちとひやかしてやろふか。 と浮気心をかり立てているのは、まぎれもなくこの畑の姥たちなのである。
近在の女商人、いづれも頭に柴、薪、あるひは梯子、連木、槌などをいただきて、四五人打つれだち「はしご、かはしやんせかいにやァ。れん木いらんかいにやァ」 と売り歩いていたことがわかる。 ところでこの弥次喜多の物語の方であるが、やめておけばよいものを、例によって弥次さんは、かの女たちをからかいはじめた。
話しかけた相手にハシゴを売らずに引き退るようなかの女たちではなかったから、つい話しにつられた弥次さんが「貮百ばかりなら引受やうさ」と、うっかり口をすべらせたのが運のつきだった。
いかにせん梯子の親とこのよふなやつかいものをひきうけし身は。 とあきらめたものの、京の町なか、ハシゴをかついで歩いて行くさまは、あまり見られたものではなかった。
さてこれでもわかるように、畑の姥たちはただ美しいばかりでなく、またその気性もしっかりしていた。
畑ケ姥といえば北山林業地帯の中心地、有名な北山杉を出しているところである。
それでもこの男まさりの京おんなには、また独特のエロティシズムがあった。
ところで大原女が建礼門院と結びつき、白川女ガ御所への献華をしたということによって皇室と結びつくように、畑の姥もまた、そうした権威との連帯的な背景をもっている。 その話は承久の乱のときにまでさかのぼる。
頭の上に物をのせて運ぶのはいろいろな地方で行われている。
はァしィごォやァ くらァかァけェいらァん かあァいなあァー ▼ Link
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■ 小野小町 |
■ 常盤 |
■ 小督 |
■ 妓王 |
■ 横笛 |
■ 袈裟御前 |
■ 静御前 |
■ 吉野太夫 |
■ 蓮月尼 |
■ モルガンお雪 |
■ 京ヘ、筑紫ニ、坂東サ |
■ おヒモジとは女房ことばのつつましさ |
■ 京の花街ことば |
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