■■■京都故事−京の年中行事 
更新:2006.01.15  こちら(知恩院〜銀閣寺) 10/42

嘘かほんまか、仏の数(三十三間堂) - 京の大仏さんは天火に焼けてナ(方向寺) - 清水の舞台から跳びおりる(清水寺) - いざ見にごんせ東山(八坂神社) - 祭りがすんで埒があく(上賀茂神社・競馬) - ささず濡らさず骨となる(知恩院)- 寺大名の悪国師(南禅寺・金地院) - ああ真如堂、飯、黒谷さん(黒谷、真如堂、十夜) - 驕る平家は久しからず(鹿ケ谷・安楽寺) - 満城の紅緑誰が為に肥ゆる(銀閣寺)- 丈山の口が過ぎたり(下り松・詩仙堂) - 神輿振り(延暦寺) - ロレツがまわる魚山橋(三千院・大原) - 近くて遠き九十九折(鞍馬寺・火祭) - 虎の子渡し(竜安寺) - きそん十七寅の年(広隆寺・牛祭) - 三舟の才(車折神社・三舟祭) - あだし野露(化野念仏寺・愛宕念仏寺) - 丹波太郎の雷おこし(愛宕神社) - 十方諸仏出身ノ門(大徳寺) - 魚山山頂ノ天竜(西芳寺) - 天神さん(北野天満宮) - 焼けて口開く蛤御門(京都御所) - 鶯宿梅(相国寺) - 敵は本能寺にあり(本能寺) - 京のへそ(頂法寺) - 弥陀の廂の新京極(誓願寺) - 江戸城の出城(二条城) - 冥土にとどく迎鐘(珍皇寺) - 門は十万石、ふところは加賀さま(東・西本願寺) - 弘法さん(東寺・羅生門) - でっちでんぽ、稲荷のみやげ(稲荷神社) - 京の裏鬼門(城南宮) - 醍醐の春にあひ候へ(醍醐寺) - 白朮詣 - 節分 - 大石忌 - やすらい祭 - 葵祭 - 祇園祭 - 大文字

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嘘かほんまか、仏の数(三十三間堂)

三十三間堂を文字どおりに換算すると、六十ーメートルになるわけだが、この堂の実際の長さはざっとその倍の百十八メートルもある。
「間」というのは、尺貫法の単位ではなくて、柱と柱のあいだをさすわけで、その数が三十三あるという意味なのだ。

長さが百十八メートルで奥行きは九メートルだから、とほうもなく細長い堂で、長さという点では木造建築で日本一である。

どうしてこんな奇妙な細長い堂を建てたのか・・・・・
 
 京の三十三間堂の仏の数は、三万三千三十三体でござるというが、嘘かほんまか。

京の古い俚謡だが、これは嘘で、実際は一千一体。
ただし、観世音は、三十三身に変化して人を救うということになっているので、一千一体の三十三倍で三万三千三十三体ということになる。

本尊を中心に左右に十段五十列で五百体ずつ、その全部が十一面千手観世音だから、堂内は仏像の大合唱を見るような偉観である。
この千体の観世音を丹念に見てゆくと、そのなかに亡くなった血縁の者の面影を偲ばせる一体が必ず見つかるといわれている。
千体の仏像を容れようとすれば、どうしても百メートルからの細長い堂が必要になるわけなのだ。

この堂は後白河法皇の発願で平清盛が建立したものといわれ、蓮華王院が正しい名前だが、その建立にまつわる諸話が、いわゆる柳の棟木の由来である。

後白河法皇は前生が熊野の行者で、その髑髏を通して柳の木が生い茂ったために、風が吹くたびに頭痛に悩まされた。
この柳の木の精がお柳で、かの女は恩をうけた北面の武士横曾根平太郎と契って一子緑丸をもうける。

法皇の発願によって、三十三間堂の棟木が求められ、熊野の山中に生い茂った百メートルをこえる柳の老樹が伐られることになった。
宿命を知ったお柳は夫と子に別れを告げて消え失せる。

柳は伐られ、いよいよ曳きだされることになったのだが、途中でどうしたことかハタと動かなくなる。
ところが、緑丸がその大樹に触れて音頭をとると、ふたたびかるがると動き出したのだ。
この功によって、平太郎・緑丸の父子は、法皇から賞せられ、柳を棟木につかった百十八メートルの大堂が完成したという。
「祇園女御九重錦」として、宝暦年間に竹本座で演じられたこの物語は、人間と草木の精との哀怨きわまりないきずなをえがいて、「葛の葉狐」とならぶ名作とされている。

百メートルにおよぶ細長い堂の、はしからはしまで矢を射通してみたらどうか、ということを考え出した人がいる。

東山今熊野の別当にたいそう弓好きの人がいて、八坂で射た帰りにこの堂に休んで試してみた。
これがはやりになって、矢数を競いあうようになった。

慶長十一年(1606年)、浅岡平兵衛は五十一本を通して、矢数を記した額を奉納した。
これが”大矢数”のはじまりである。

いったん記録といものが打ちたてられると、これに挑戦する人がぞくぞくと現れる。
あたかも、徳川氏による天下統一が完成されつつあったころで、武家から庶民にいたるまで、この時代の人々の心には、「天下」という意識がしみ通っていた。
「釜つくり天下一」、「鏡つくり天下一」などという称号があったぐらいで、「弓の天下一」をめざす人が、争って三十三間堂に集まってきたわけである。

浅岡平兵衛の記録はあっという間に破られて、矢数は百台から二百台、五百台、たちまち千台を突破して、寛文年間には六千台をこえてしまった。

こんころになると、通し矢も、競技のための弓術になってしまって、弓ははりを強くし、矢は軽いものを使って、鏃も木になっている。
要するに通した矢の数だけを競うわけで、もちろん実戦に役立つ技ではない。
射手も、さらしで腹をかたく巻き、粥をすすり薬を飲んで射つづける。

時間も一定に定められて、暮れ六つ(午後六時)から翌日の暮れ六つまでということになり、竹矢来をはって見物が集まり、茶店ができ物売りまで出る。

 大矢数弓師親子もまいりたる 蕪村

本堂の縁に立ってみるとわかるのだが、右側は堂の扉と柱の列で、上は軒がふかくはり出している。
三方を限られた空間で百メートルの距離を通し、しかも一昼夜ぶっつづけで引きつづけるのは、相当の体力を要するのである。

寛文二年(1662年)に、尾張家の家臣星野勘左衛門は六千六百六十六本を通して、天下一、すなわち”総一”の名を紀伊家のものとした。
このあたりから、尾張・紀伊両徳川家の遺恨試合の様相を呈してくる。

記録を破られた星野は、「八千」と染出した大幟をお仕立てて、寛文九年五月一日三十三間堂の縁に立った。
そして、暮れ六つから初めて、翌日の正午までにみごと八千本を射通して、”総一”を尾張家へ奪い返したのである。

このとき星野は余裕綽々たるもので、これ以上矢数をあげるとあとの挑戦者に気の毒だといって、六時間も残して切り上げた。
そして八千本の記録を報告する為に馬に乗って京都所司代へおもむき、そのまま馬を振り向けて島原へ繰り込んだという。
星野がこのときあげた額が、三十三間堂に残っている。

さて、おさまらないのは紀伊家で、あとの挑戦者に気の毒だといわれて黙っているわけにはいかない。
しかし、さすが八千本は大記録で、これを破るのは容易なことではなく、五十五万石の大藩でもなかなか人材が得られなかった。
十数年がたった。

そして貞亨三年(1686年)、弱冠十八歳の青年和佐大八郎が、一藩の期待をになって登場する。

大八郎の父親は、星野があらわれる前に六千台をこえる矢を通して”総一”をとっている。
大八郎の心境が察しられるわけだ。

大八郎はまだ前髪ながら「力衆人にこえて強勢」だったといわれているが、技の方では星野とだいぶひらきがあったようだ。
自分の記録に挑戦するものがあるときいて、そっと見物に来ていた星野は、にわかに通り矢が減りはじめたのを見て、大八郎の左手を小柄でついてうっ血をとらせた。
紀州藩の面目という重いものを双肩にしょって追い詰められている若者に、そぞろあわれみを覚えたのだろう。
講談に有名なエピソードである。

こうして大八郎は、翌日の定刻までに、一万三千五十三本の矢を射て、うち八千百三十三本を通した。
”総一”は紀伊家のものとなったのである。
この時大八郎があげた額も、星野の額と並んで保存されている。

この後も、矢数をこころみた人は多勢あったが、ついにこの大記録は破れなかった。
宝永年間に柳沢吉保が家臣の米田新八にやらせたが、飛ぶ鳥を落とす柳沢の権勢をもってしても、大矢数”総一”だけは手に入れられなかったのである。

三十三間堂の西側の柱や垂木には、たくさんの矢疵が今ものこっている。

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蓮華王院(三十三間堂)

京の大仏さんは天火に焼けてナ(方向寺)

天正十三年(1585年)、豊臣秀吉は関白になった。
西に九州の島津、東に関東の北条をのこすだけで、秀吉の天下統一の達成はもう目に見えている。

まさに日の出の勢いのこのときに、秀吉は京都に日本一の大仏を造ろうと思いたったのである。
それまでは「南都の半仏が雲狐(鎌倉の大仏)、雲狐の半仏が東福」といわれていて、日本一の名は、八百年来南都東大寺の大仏に独占されていた。
自分の勢威を、日本一の大仏に託して後世に残そうというのは、秀吉らしい着想だった。

『太閤記』によると、東大寺の大仏は二十年かかったそうだが、今度は五年で造ってしまえという厳命で、天正十四年に着工した。
金銅仏を鋳造していては時間がかかりすぎるというので、木心乾漆、そのかわり大きさだけは奈良に負けるなということで、高さ十九メートルもの巨像。
できあがったのは天正十六年である。

ところができてから八年目の慶長元年、大地震にみまわれた。
この地震は、『当代記』に「人死ぬことかぎりなし、伏見城の天守の石垣はひとつものこさず崩る」とあるように、京都の南都から大坂にかけて大きな被害を出した。
建ったばかりの大仏殿の方は無事だったが、堂内の十九メートルの巨像は倒壊したのである。

後日譚がある。
大仏殿へやってきた秀吉は、はかなくつぶれてしまった自作の「天下一」の巨像の残骸をみて、苦りきった。
「かように己の身さえ保つことのできぬ仏像に、衆生を救うことなどは思いもよらぬ」早々に取り片付けて、代わりに善光寺の如来をおさめておけと命じたという。

太閤さんの命令とあって、善光寺の如来がはるばる堂守に参上した。
何しろ、十九メートルの大仏を入れた堂だから、ガランとしてすみ心地も悪かったことだろう。
丸一年で信州へ帰座、そのあとへ木造の大仏を新作安置することになった。
これができあがっていよいよ開眼供養という四日前の慶長三年八月十八日、秀吉は永眠した。
どうも秀吉と京の大仏さんとは折り合いがうまくいかなかったようだ。

この木造の大仏は、できて四年目に、やはり銅像にしようということになったのだが、鋳工の失火から仏殿もろとも全焼といううき目にあった。
あたかも関ヶ原戦の直後の慶長七年の暮れのことで、豊家にとってはいやな感じだったことだろう。

慶長十五年、秀頼は十八歳にし成長している。
家康のすすめで、亡父の意志をついで大仏再建にとりかかることになる。
大坂城に蓄えられていた秀吉の金銀八十二万両が惜し気もなくつぎこまれて、あしかけ五年目の慶長十九年にやっと完成した。
開眼供養は、八月三日ということになったが、その寸前に、家康から難癖がつけられた。
これが史上有名な「大仏鐘銘事件」である。

大仏の大鐘は、重量八十二トンをこえる巨大なもので、すでに四月二十日に鋳造を終えている。
その鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」とあるのだが、家康を呪うものだというわけである。

 つかねどこの鐘関東へはひびき

というわけか。

こうして大坂冬の陣がはじまる。
京の大仏はとうとう豊臣家滅亡の端をひらくことになった。

豊臣家は滅んだが、十九メートルの大鋳造仏はのこった。
徳川の天下が定まって、およそ五十年あまり、この時期が京の大仏さんにとってはもっとも良き時代だったようだ。
寛文二年(1662年)三月、京をおそった大地震にひどく破損したので、首をとっておろし、体内に七寸角の材木を千本も立てて補修したが、五月の地震でついに完全に壊れてしまった。

今度はもう改鋳の話もおこらず、替わりに木造の大仏をすえることになって、仏体は江戸の亀井戸へ送られ、銅銭寛永通宝に鋳直された。
いわゆる「文銭」で、二十年間鋳つづけたというから、仏体の大きさが思いしられる。

秀頼が建てた大仏殿は、東西六十七メートル、南北八十二メートル、高さ四十五メートルの大建築だった。
この建物は、ひきつづき木造の釈迦如来像を容れて、洛東に偉容を誇っていた。
安永年間に出た『都名所図会』には、西面して建つ桃山建築のようすを描いている。

ところが、この図会が出版されて十年目の寛政十年(1798年)に、またしても災厄にみまわれた。

七月一日、午後十時頃から雷鳴を伴う大雨となり、十一時過ぎ、大仏殿の北東隅に落雷した。
堂守や番人が雨の小止みに上って調べてみると丸盆程の穴があいて、くすぶっている。
ただちに寄せ太鼓を打って非常を知らせたが、何分四十五メートルの大建築で、竜吐水などは届かない。
ガヤガヤ騒いでいるうちに裏板に燃え広がって、一度に火を噴いてしまった。
「仏尊に水懸り御鼻より火燃出し、誠に入滅の心地にて、京中の貴賎老若、その外火消のもの、感涙をもよほし、ただ合掌十念を唱へしばかりなり」と、太田南畝はその時のようすを書きのこしている。

こうして、豊家の記念物は、完全に消滅してしまった。
焼けて四年目の夏、京へ初上りをした滝沢馬琴は、その焼跡にたたずんで「その大きさを見んこと、柱のかなものと礎と仏の台坐のみ」と、憮然として旅中日記にしたためている。

大仏殿炎上は京童にとっても大衝撃だったようで、

 京の京の大仏さんは、天火で焼ァけ
 三十三間堂の焼けのォこる

というわらべうたがつくられた。

現在の堂と半身の木造大仏は、天保十四年(1843年)に再建されたもので、むかしのおもかげはない、不思議なのは、あれだけの大事件の種をまいた大鐘が、鋳潰されもせずにのこっていることで、この鐘と、堂内に保管されている創建時の鋳物、大和大路に沿ってのこる巨石の石垣などは、充分往時の規模をしのばせてくれる。

-Link-
方広寺鐘銘事件】【方広寺大仏殿の石垣】【CD写真図録「本朝写真事始」-京都-】【】【】【】

清水の舞台から跳びおりる(清水寺)

「清水の舞台から跳びおりたいと思うて」ということばは、今でも生きている。
たいしたことには引き合いに出されない。
たいてい、しまり屋の京都人が、高価な出費をするときになかば自分を納得させる意味でいうのだから、あんまり威勢のよいせりふではない。
だから
 
 清水はついえな銭にたとへられ

などと、川柳子にからかわれる。

その清水の舞台、高さが十一メートル余もある懸崖造り。
百三十九本の柱に支えられ、横に貫柱を組んで、断崖の上に張り出しているわけだ。
この縦横の柱の組み合わせは、”地獄止め”といって釘を一切使っていない。

この断崖に張り出した高さ十一メートル余の舞台から、実際に跳び下りた人のことが『宇治拾遺物語』に見える。

検非違使の忠明、清水の境内で無頼の若者たちと口論をしているうちに、相手方が刀を引き抜いた。
忠明も太刀を抜いたが、多勢に無勢なので本堂へ逃げのぼって、そこから東へ抜けようとした。
ところが、そこにも抜刀した相手方が先回りをして道をふさいでいる。

進退きわまった忠明は、堂の内にあった板張りの衝立を脇にはさむと、えいとばかりに舞台から跳んだのである。

忠明は、鳥のように翔って、谷底にふんわりと着陸したそうだ。
持っていた衝立に風があたって、滑空に成功したわけなのだろう。
「忠明逃げていにけり」で、若者たちはあれよあれよと驚くばかりだったという。

もう一人、これは、舞台の欄干を渡った人がいる。
ただ渡ったのではない、蹴鞠をやりながら、往復したというのだからおそれいる。

藤原北家の四男、大納言成通がその人で、成道は稀代の蹴鞠の名人だった。

成通の鞠については逸話が多いが、蹴鞠の庭に立つこと七千日、そのうち二千日は連続記録で、大雨が降ると大極殿で蹴り、病気の時は鞠に足をあてながら臥したという熱心ぶりが伝えられている。

人を七、八人並べておいて、鞠を蹴りながらその人々の方を踏んで渡り踏んで戻った。
肩を踏まれた人々は、「沓があたったとも覚えない。鷹を手に据えたほどの感じだった」といったそうだ。

この成通が、父の宗通にしたがって清水寺に参籠した。
ふと「あの舞台の欄干を鞠を蹴りながら渡ったらどうだろう」と思いついた。
さあ、やってみたくてたまらない。
参籠中ということも忘れて、さっそく鞠を取り寄せた。
見物が群集する。
場所は清水の舞台、申し分ない条件なので、調子づいた成通は、西から東へ蹴り渡り、ご丁寧に東から西へ蹴りかえった。
「見るもの、目をおどろかし色を失ひけり」だが、さすがに父の宗通がカンカンになった。
何たる不謹慎な、ということで、参篭を止めさせて追い出し、ひと月あまり家へ寄せ付けなかったという。

清水寺の本尊は十一面千手観世音だが、三十三年に一度開帳の秘仏とされていて、古来そのあらたかな霊験譚がいろいろ伝えられている。
今でも日詣、月詣の願かけをする人も多いが、陰暦七月十日詣といって、この日一日参籠すれば千日参詣したのと同じ功徳が授かることになっている。

今は昔・・・・・この千日詣でを双六のかけしろにした男がいる。
同僚と双六をして負けのこんだこの男、はらうものがなくなって苦しまぎれに、清水参詣二千日分の功徳をはらおうといいだした。
退屈しのぎに人のまねをして千日詣でを二度やったことがある。
合わせて二千日というわけだ。

おこるかと思いきや、相手の男、承知した。
譲渡書を書いて清水の仏前で支払いをして、ばかなやつもいるものと、ひそかに舌を出したわけだが、その後まもなく、この男、思いがけないことで罪を得て牢に放り込まれ、二千度詣をうけとった方の男は、よいつてをもった妻をめとって昇進したという。

このようにあらたかな観音さまだが、創建以来、たびたび火災にあっている。

古くから南都興福寺の系列に入っていたものだから、東山の峰つづきの北嶺、延暦寺から目の敵にされた。
永万元年(1165年)には、二条天皇の葬儀の席順のもつれから、叡山の大衆の焼き討ちにあって丸焼けになり、観音さまは寺僧におぶわれて避難するという騒ぎがあった。

大門の焼け跡に、「火を水に変えるという功徳はどうなされた」と落書きをする者があった。
あくる日、その横に返事を書き添えた者ががあって、「補陀落山へ行かれてお留守の間のできごとにつき、やむをえず」とあったとか。

その後もたびたび焼かれたり焼けたりで、現在の建物は、ほとんどが江戸時代に入ってからのものだが、
 
 添ひとげてのぞけばこはい清水寺

清水の舞台は、やはり京に欠くことのできない名物のひとつである。

▼ 余談 

江戸期の庶民信仰 願いがかなう?  
 清水の舞台から飛び降り234件 

 「清水の舞台」からの飛び降り事件は、江戸時代に計二百三十四件にのぼっていたことが、清水寺(京都市東山区)の学芸員横山正幸さん(77)による古文書調査で、このほど分かった。ことわざ通り「飛び降り」が頻繁に起きていたことが実証されたが、時代背景に「命をかけて飛び降りれば願いごとがかなう」という庶民の信仰があったという。 

 調査は、清水寺塔頭の成就院が記録した文書「成就院日記」から、飛び降り事件に関する記述を抜き出してまとめた。記録は江戸前期・元禄七(一六九四)年から幕末の元治元(一八六四)年までだが、間に記録が抜けている分もあり、実際は百四十八年分の記述が残っていた。 

 調査によると、この間の飛び降り事件は未遂も含め二百三十四件が発生した。年間平均は一・六件。記録のない時期も発生率が同じと仮定すると、江戸時代全体では四百二十四件になる計算という。 

 男女比は七対三、最年少は十二歳、最年長は八十歳代。年齢別では十代、二十代が約七三パーセントを占めた。 

 清水の舞台の高さは十三メートルもあるが、生存率は八五・四パーセントと高い。十代、二十代に限れば九〇パーセントを超す。六十歳以上では六人全員が死亡している。京都の人がが最も多いが、東は現在の福島や新潟、西は山口や愛媛にまで及んでいる。 

 門前町の人らが相次ぐ飛び降り事件に耐えかね、舞台にさくを設けるなど対策を成就院に嘆願したという記録も残る。明治五(一八七二)年、政府が飛び降り禁止令を出し、下火になったという。 

 横山学芸員は「ことわざがなぜ生まれ、現実はどうだったのかという関心から調査を始めた。江戸時代に庶民の間で観音信仰が広まり、清水観音に命を託し、飛び降りて助かれば願い事がかない、死んでも成仏できるという信仰から、飛び降り事件が続いたのだろう」と話している。 

 調査結果は「実録『清水の舞台より飛び落ちる』」として自費出版した。問い合わせは清水寺事務局 電話075(551)1234へ。 

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いざ見にごんせ東山(八坂神社)

八坂神社、などと、京の人はあまりいわない。
祇園さん、でとおってる。

平安遷都の以前からこの地に祀られていたたいそう古い社なのだが、平安の初め、貞観年間(859〜877)、疫病の守り神である牛頭天皇をあわせ祀った。
時の関白基経の寄進によるもので、この精舎を祇園の社と呼んだ。
神仏混淆で、明治の初めまで本堂の横に仏殿や塔があり、寺名は感神院だった。

『百錬抄』などをみると、よく、延暦寺の山僧がが祇園感神院に集まって気勢をあげている、という記事が出ている。
祇園の社は日吉神社の末社になっていたので、延暦寺の息がかかっていた。
いわば延暦寺の、都における足だまりだったわけだ。
たいてい社頭で読経のデモンストレーションをやって、「喚叫の声天にみつ」、行くぞ行くぞとおどかしておいて、効果をねらったものだ。

この祇園の社の近くに白河上皇の女御が住まっていた。
山僧どもに悩まされた上皇は、時々おしのびでこの女御のもとへ通ったらしい。

五月雨の降る一夜、殿上人二人と北面の武士を四五人つれて、いつものように祇園の社をぬけようとした上皇は、奇怪なものを見た。
「かしらは銀の針を磨き立てたるやうにきらめき、左右の手とおぼしきをさし上げたるが、片手には槌のやうなる物を持ち、片手には光る物をぞ持たりける」

すわ鬼が出たとおじけだった一行のなかに、北面の下臈だった平忠盛がいた。
忠盛、勇躍していけどりにしようと組みついてみると、これが感神院の老法師で、燈籠に灯をともそうとして、片手に油を入れた手瓶、片手に火を灯した土器を持っていた。
銀の針のように光っていたのは、麦わらを笠のように引き結んでかぶっていたものだった。

今、本殿の東南の木立のなかに立っている一基の燈籠が、その時の燈籠だそうで”忠盛燈籠”と呼ばれている。

この世のふるまいが院の御感を得て、忠盛は祇園の女御をたまわることになるのだが、女御はすでに懐妊していた。
生まれた子が女なら院の子にしよう。
男なら忠盛が育てよ、という約束だったが、生まれたのは男の子。
これが後に人臣の位をきわめ、一門の栄華を開いた平清盛だと『平家物語』は説いている。

八坂神社を東へ抜けて、円山公園の池の手前の道を南へとると、音楽堂の前に小さな堂が一つ立っている。
この堂の南側にある小さな塚が、”祇園女御塚”で、堂の北側の空き地が女御の邸跡といわれている。
手を加えると祟りがあるとかで、今も空き地のままになっている。

女御塚から東北へかけてのあたりが、いわゆる真葛ケ原で「虫きくには、真葛か原よし」と滝沢馬琴が折り紙をつけたが、『愚管抄』の著者である大僧正慈円は、この近くに住んで、

 わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風さわぐなり

と、僧侶らしからぬおだやかでない歌を詠んでいる。

慈円が師と仰いだ西行も、晩年は真葛ケ原の一隅に草庵を結んで閑居した。
音楽堂の南側に西行庵があり西隣に芭蕉堂がある。
芭蕉もまた、西行を慕ってその庵のあとを訪ねているので、後に門人たちがゆかりをしのんで堂を建てたもの。

さらにくだって江戸後期になると、風狂の画人池大雅が、芭蕉堂のすぐ向かいあたりに棲んだ。
大雅の奇行ぶりは有名で、あるとき商売道具の筆を忘れたまま難波へ旅立った。
妻の玉蘭が気がついてあとを追いかけ、建仁寺の前で追いついて渡すと、大雅はおしいただいて「どこの方か知りませんがよく拾って下さいました」といった。
玉蘭もさる者で、ニコリともせず「いいえ、どういたしまして」といってそのまま立ち帰ったという。

大雅のころになると、風流の原、祇園真葛ケ原も、だいぶにぎやかになっている。
祇園さんの門前町として新地もうまれているし、境内は「参詣日々に群集し、茶店あまた祇園香煎の匂ひ高く、歯磨きうりの居合抜き、売薬のいひ立て、うき世ものまね能狂言、境内に所せまきまでみちみちたり」(『東海道中膝栗毛』)という繁盛ぶり。

 春は花、いざ見にごんせ東山

その東山に京洛の春をあつめて、祇園さんは京の代表的名所の一つになってゆくわけである。

祭りがすんで埒があく(上賀茂神社・競馬)

賀茂の社は上と下と二つある。
上下とならべるのが順当のように思えるのだが、下鴨神社の主神は玉依姫命で、上賀茂神社の主神別雷命の母にあたる。
だから昔から朝廷での序列は、賀茂下、上となっていて、社領も江戸時代下鴨は八千六百石、上賀茂は二千八百石である。

平安遷都以前からこの地にあった社で、創立は神話の時代になる。
平安京ができると、朝廷の崇敬をうけて、賀茂の御神徳はすこぶる盛んだった。

延暦寺に一人の貧しい僧がいた。
もう少し暮らしが楽になりたいというので、鞍馬寺へ百日の参籠をしたところ、その夜の夢に毘沙門さんがあらわれて、「我はえ知らず、清水へ参れ」。
そこであくる日から清水へ詣った。
百日目の夢の中に観音さんが現れて、「私にはどうしてやることもできない。賀茂へ参れ」たらいまわしで、とうとう賀茂の神さまに押しつけてしまった。
僧はあきらめもせずに、また百日の参籠をつづけて、ついに賀茂の神徳は、かように鞍馬、清水をしのいだというわけである。

賀茂の社というと、五月十五日の葵祭がもっともよく知られているが、同じ五月にもう一つ、古式にのっとった勇壮な神事が行われる。
”賀茂の競馬”である。

この神事は堀河天皇の寛治七年(1093年)にはじまったもので、葵祭につぐ盛んな行事として、朝野の見物が群集した。

五月一日には”足汰”といって、出走馬の下見がある。
だいたい九階級に分けて、勝負が一方的にならないように配慮するわけだ。

さて当日、”乗尻”(騎手)は、左と右に分かれ、左は打毯、右は狛桙の楽服を着て菖蒲を身につける。
最初の一番は古礼によって、左が勝つことになっているので、本当の勝負は二番からである。

神事の競馬だから、勝負にこだわらないのどかなものだろうと思われるが、大違いで、この競馬の勝敗は、その年の豊作の豊凶を予告されるものとされていたので、騎手は真剣そのものだった。

 賀茂ほどのりっぱな落馬またとなし

いかにりっぱでも、落馬をすればもちろん負けである。
勝った方の社家では祝宴をはって喜ぶが、負けた方の社家は、当分門を閉じてひっそりとしずまりかえり、外出するのも夜になってからという気のつかいかただったそうだ。

そこで勝者と敗者の和解の行事が行われる。
”笞祭”といって、貴船神社の庭で、負けた方が、勝った方や審判者に苦情をいう式である。
梅の枝を持って、さまざまに因縁をつけながら、勝者を打ちすえるまねをするわけだ。

これがすむと競馬の神事はすべてが終わったことになり、馬場に結いめぐらしてあった埒(垣)をとりのぞく。
「埒があく」といことばは、これから始ったのだといわれている。

吉田兼好もこの競馬を見物に行って、その雑踏ぶりに閉口している。
いつの世も見物人の心理は変わらないらしく、樗の木にのぼって見物している法師がいて、そのうちに居眠りをはじめ、落ちそうになるとハッと目を覚まし、またコックリコックリはじめるので、見ている人がハラハラしたというようなことを『徒然草』に書いている。

賀茂の社の特殊な地位は、天皇の行幸の回数が六十回をこえていることからも察しられる。
この六十数回の行幸のなかで、歴史上大きな意義をもったのが文久三年(11863年)三月十一日の両賀茂行幸である。

天皇の行幸そのものが二百数十年ぶりのことだったうえに、このときは、徳川十四代の将軍家茂を供に従えるというのだから、それまでは想像もできなかったことだ。
いわば将軍の上に天皇があるということを、天下に周知させるための行幸だった。
「孝明天皇の鳳輦が通ると、家茂は鳳輦にお辞儀をする。これはまあよいとしても、そのあとにつづく公卿たちが、将軍に会釈もしないで大手を振って通ってゆく。昔なら、たとえ関白でも、将軍の前を黙って通るなどということはできなかった。公卿たちは、将軍の威信をおとしたいといって、ただそれだけを喜んでいる」と後見職だった徳川慶喜は、にがにがしく当時の思い出を語っている。

雨をついて行われたこの行幸は一日がかりでとどこおりなく終わったが、途中にエピソードがあった。

家茂の馬が賀茂の河原にさしかかったとき、ひざまずいて行列を拝観していた人垣のなかから「いよう、征夷大将軍!」と大声で野次った者がある。
供侍はジロッとその方をにらんだが、咎めだてもせず行列はそのまま進んで行った。

野次ったのは、ちょうど入洛していた長州の快男児高杉晋作だった。
晋作は、「将軍が君臣の分を正し、主上に供奉して攘夷するというから、ひとつ誉めてやっただけだ」といって、ケロリとしていたという。

ささず濡らさず骨となる(知恩院)

酒仙の詩人頼山陽が、剣菱をかたむけながら端唄をつくった。

 ふとん着て寝たる姿は古めかし
 起きて春めく知恩院

その知恩院の石段に落花しきりの春四月、開祖法然上人の忌日法会が行われる。
御忌というのは、天皇・皇后の忌日に行う法会をいうのだが、大永四年(1524)、後柏原天皇の勅旨によって行われることになったので、特に法然忌を”御忌”という。

円光大師法然は、建暦二年(1212)正月二十五日に入寂しているので、維新までは正月十九日から七日間ということになっていた。

 なには女や京を寒がる御忌詣   蕪村

京はまだ余寒が厳しいが、もう如月もまぢかで、春の兆しがみえる。
京都人はこの御忌詣を”弁当始め”といい、訪れてくる遊山シーズンの幕あきとしたものだった。

華頂山の一山をほとんど境内にして、その中腹に位置する知恩院は、実に堂々とした大寺院である。
五山にだけ許される三門が、浄土宗のこの寺の正面に、高さ三十四メートル、文字どおり聳えている。
また三門から北へ、黒門までの石垣の雄大さは、さながら城郭のおもかげがあって、幕府が二条城の代え城に想定したという伝えも、なるほどと思わせられる。
全国八千の浄土宗寺院の総元締の貫禄は充分である。

伽藍はすべて江戸初期のもので、書院建築や障壁画に桃山文化の最後の華やぎがうかがえる。
もっとも、観光客に知られているのは、御影堂の軒庇にある”忘れ傘”だろう。
 

滝沢馬琴も、初上がりの京の旅でこれを見たらしく、「知恩院の傘は今なほ骨ばかりになりて、本堂の右の方の軒下にあり」と書いている。

この上に忘れ傘あり、と張り紙のある真上を見ると、金網に囲われて、なるほど傘の柄らしいものが見える。
「骨ばかりになりて」というが、それがちょっとわからないほどの軒の高さである。

誰が言ったのか

 小野小町と知恩院の傘は、ささず濡らさず骨となる

小野小町にまつわる伝説で、川柳子も

 弁慶はせめて 小町はからむたい

とやっている。
弁慶は生涯に唯一度、だからせめてもだが、小町の方はまるでむちゃ、だから知恩院の傘だというわけ。

この傘は、寺の説明によると、堂を建てた左甚五郎が、完全さを避けてわざと忘れて置いたもので、”甚五郎よろこびの忘れ傘”というとか。
堂の屋根にも二枚の瓦がのせてあって、これがやはり、瓦の葺きのこしを意味するもので、完全なものには魔がさすということからわざと置いたものだそうである。

この忘れ傘を筆頭に、知恩院には七不思議といわれるものがある。
”鶯張りの廊下”もその一つで、御影堂から大方丈、小方丈へかけて、延長五百数十メートルの廊下が、踏むにしたがって鶯の妙音を発する。
二条城の代え城説と結びついて、忍びがえしの工夫だと説明される。
”三方正面真向きの猫”、大方丈の廊下の杉戸に描かれた狩野信政の猫、これがどちらからみても見物者の方を見返しているというわけ。
猫を正面から描いて、瞳を真ん中にいれているわけである。
”抜け雀”というのもある。
大方丈菊の間の襖にのこる庇のあと。
雀が書いてあったのだが、抜け出して飛び去ったのだという。
大方丈の入口の廊下、天井に巨大な”大杓子”が置いてある。
長さが2.5メートル、重さが30kg.というから、実用品ではなさそうで、何のために作られたものかわからない。
三門の中二階には、この門を建てた大工の棟梁夫妻の自作の木像が”白木の棺”におさめて置いてあるそうで、これも不思議の一つ。
最後は黒門の外の道の真ん中にある石。
”瓜生石”という。
貞観二年六月十四日、この石の上に祗園牛頭天王が降臨し、石の上に瓜が生えたとか。
また、この石の下に地下道があって、二条城に通じているなどともいわれている。

御影堂前から女坂を下っていくと、左側の苑内に小さな銅像が見える。
京都の産業の恩人、宮崎友禅の坐像だ。
友禅の伝記ははっきりしていないが、十八世紀の始め頃、知恩院の門前に住んでいたという。
水に浸しても褪めない染法を考案し、友禅染として今に伝わっている。

法燈は七百年、友禅染は二百年、どちらも華頂山麓におこって、世の人に深くつながっているわけだ。

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寺大名の悪国師(南禅寺・金地院)

幕があくと、舞台いっぱい朱塗の楼門。
百日鬘の大盗石川五右衛門が煙管を横ぐわえ、花を眺めながら、「絶景かな絶景かな」の名せりふを吐いてうそぶく。
析入りで、大道具がせり上がって、巡礼姿の真柴久吉が登場。
五右衛門が投げる小柄を柄杓でハッシとうけとめる。
両者、型のごとく見得を切って、幕。
「金門五三桐」の三幕目の返しである。
短いものだが歌舞伎演出の粋を集めたもので、「楼門」の名で独立して演じられてきた。

並木五瓶がこの出会いの舞台に設定したのが南禅寺の三門で、それ以来、この三門はいちはやく有名になった。
そして、眺望を期待して登ってみるとさっぱりなのである。
何が「価い千金」だと憤慨する人がいるかもしれない。

南禅寺の三門は、永仁三年(1295)に建ったのだが、文安四年(1447)に炎上し、復興のならないうちに応仁・文明の大乱にあって、こんどは南禅寺一山が全焼してしまった。
現在の三門は寛永五年(1628)に、藤堂高虎が建てたものである、
したがって、石川五右衛門の在世中には、南禅寺の三門はなかったわけで、芝居作者に事実を求めるのは、だいたいがお門違いだという好例になる。

三門はフィクションだが、石川五右衛門は実在した人物のようだ。
『言継卿記』の文禄三年(1594)八月二十四日の記事に、「盗人スリ十人、又一人は釜にて煮らる。同類十九人はりつけにかかる。三条橋の川原にて成敗なり。貴賎群集也、云々」とあるが、この釜ゆでになった一人というのが五右衛門らしい。
別の記録には、はっきりと五右衛門の名をあげて、母親や同類二十名ともども、所司代前田玄以の手に捕われて、三条河原で処刑されたとみえる。

五右衛門が出没した頃の南禅寺は、興廃の一番甚だしいときだったが、御所や伏見城の建物をもらったりして、寛永年間には伽藍がととのった。
亀山上皇の建立以来、京・鎌倉の五山よりも一段上ということで、「五山之上」の格式を誇っていた南禅寺だが、天下が定まると。いちはやく徳川氏の特別な庇護を受けて、往昔の寺観を取り戻した。
これは、以心崇伝という政治感覚に傑出した僧が出たからである。

山門前の小道を南にとると金地院という塔頭の前に出る。
この金地院が「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝の住院である。

崇伝は家康・秀忠・家光の三代に仕え、幕府の外交・内政に参画した。
なかなかの策士で、”大仏鐘銘事件”の口火を切ったり、寺院法度をつくり、”紫衣事件”をひきおこしたりしながら、天下僧録司として宗教界の人事・行政面に君臨する地位を築き上げた。
金地院の寺領千九百石、世人は”寺大名”と呼び、崇伝のことを”大慾山気根院偕上寺悪国師”といったそうだ。

金地院には寛永五年(1628)造営の東照宮がある。
権現造りの極彩色、日光廟をしのばせるもので、なかには銅の箱があって、「是」の一字を書いた小片が納められているという。
これは、家康が夢の中で自分の掌にこの字を見て、”日下人”すなわち天下を取るしるしだとして、小片に書いて終身護符にしたものだといわれている。

江戸時代は、方々にこうした日光廟のミニアチュアが造られた。
神君家康は、文字どおり神さまだったわけだ。

寛永三年(1750)というと、家康の没後百五十年あまりのものちのことだが、京の三条の旅籠に泊まっていた谷平之丞という浪人が、荷物をのこしたままどこかへ行ってしまった。
旅籠の者が荷物を開けてみると、これが家康の像である。
処置に困って、西町奉行へ届け出た。
奉行所も預かったものをどうしてよいかわからず、蔵へ仕舞い込んでおいた。

安永元年(1772)、奉行がかわって事務の引継ぎの折に、たまたま二十二年前の神君御尊影が問題になった。
このままでは畏れ多いということで、所司代を通して幕府へ問い合わせ、金地院の東照宮へ納めることに決まった。

表装があまり粗末だというので、奉行所の書院に表具師を呼んで、表装をしなおさせることになったが、もちろん表具師は精進潔斎で、与力二人がつきそい、いっさい他人の拝見を許さぬというものものしさ。

出来上がったのを三重の箱に入れ、服紗で包み、新調の塗長持に入れ、油単をかけ、さていよいよ金地院に納める運びになったのが、安永三年六月十七日である。

時の奉行山村信濃守が騎馬でお供をして、長持ちのまわりは筆頭与力七人がうやうやしく警護するという大行列。
受け取る側も、南禅寺門前の松原に、長老以下がずらっとならんで出迎え、無事東照宮のなかへ納めたという。

江戸時代二百数十年間、神君家康の威光はこのように絶大だったのである。

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ああ真如堂、飯、黒谷さん(黒谷、真如堂、十夜)

「ああしんど、飯くいたい」の語呂合わせで、
 ああ真如堂 飯、黒谷さん

もう一つあって、
 ああ真如堂 ここらで一服永観堂 そんなうまいこと南禅寺

洛東の名刹三つを詠みこんで洒落のめしている。
禅も浄土も区別はない。
京童のお寺さんに対する親しみのあらわれである。

その「飯、黒谷さん」の方だが、正しくは今戒光明寺としかつめらしい。
黒谷というのは比叡山西塔にあって、延暦寺五別所の一、谷深い天台の聖地である。

承安五年(1175)、この黒谷の報恩蔵にこもっていた一人の学僧が「一心専念弥陀名号」の八字にうたれて、専修念仏の道を開いた。
これが法然上人源空である。

法然は山を下りて、この地にたどり着き、石の上に坐って念仏を唱えたところ、紫の雲が湧き起こったという。
子院の一つ西雲院に、その石が残っていて”紫雲石”と呼ばれている。
法然はここに草庵を結んで、念仏往生の教えの第一声を発した。

 涼しさの野山にみつる念仏かな  去来

つまり浄土宗発祥の地なのである。
はじめは比叡の方を元黒谷、この地を新黒谷と呼んだが、いつごろからか「新」がとれて黒谷でとおるようになった。

建久三年(1192)という年は、頼朝が征夷大将軍に任じられて鎌倉に幕府を開いた年だが、この年、法然の門に荒くれた関東武者の弟子が一人増えた。
蓮生坊熊谷直実。

 熊谷はまだ実の入らぬ首をとり

などと川柳子は茶化しているが、『平家物語』は一の谷の戦いに平敦盛を討った直実が、生年十七歳の若人を殺したことから「発心の思いはすすみけれ」と書いている。
実際はもう少し現実的な動機であって、所領争いの訴訟で弁論がにがての直実、問いつめられてカッとなり、書類をなげうって座を去ったが、そのまま髻を切って、自宅へも立ち寄らずに京に上ったという。

直実は黒谷を訪れて、法然の手で髪をおろしてもらい、連生坊の名をもらった。
黒谷の御影堂の前には”熊谷鎧掛けの松”というのがあるが、これは、そのとき、方丈の裏の池で鎧を洗ってこの松に掛けたと伝えられるもの。

発心した直実が住んだ草案の址に、熊谷堂が建てられている。
京では、つい近年まで散発を嫌う子どもがあると、この堂へ月代を剃る絵を描いた絵馬をあげて祈ったものだ。
直実の剃髪にあやかるという意味だろうが、土俗の信仰というものはまったくおもしろい発想をとるものである。

連生坊直実は、法然について専修念仏につとめていたが、承元二年(1208)九月十四日午前十時を入寂とみずから予言した。
鎌倉にいた息子の小次郎直家は、これを聞いて、九月三日にあわただしく鎌倉を発った。
小次郎が発ったあとでこのことが将軍実朝の耳に入り、「珍事の由、その沙汰」があった。

さて、当日、連生坊入寂の予言を聞いて、黒谷の草庵は結縁を願う人々でうずまった。
連生坊は端坐合掌し、声高らかに念仏を唱えて、まさに予言の時間に大往生をとげたという。

年齢は六十八歳だが「かねていささかも病気なし」の人だったので、世人はたいそう不思議がると同時に、念仏に対する信頼を深めたわけである。

黒谷さんの岡つづきの北側に、真如堂がある。
この寺も、正式には真正極楽寺というのだが、京都でそんな名前を言ってもみな小首をかしげるだけだ。
真如堂でとおった紅葉の名所である。

平安の中頃、一条天皇の勅願でひらかれた寺だが、その後いくども寺地を変え、元禄六年(1693)に現在の旧地に戻った。

この寺は、毎年十一月六日から十五日まで行われる十夜念仏で有名である。

慈覚大師のはじめた引声念仏で、堂内に四つの大鉦を置いて、それを打ち鳴らしながら節をつけて念仏を唱和する。
室町時代平貞国がここに参籠し、霊験をうけて十日十夜の念仏を修したのが起こりだという。

むかしから俗に”蛸十夜”といわれていて、十夜の内に蛸を食べると疫病にかからない信じられてきた。
以前は境内に露店が並んで、その蛸を売っていたそうである。

黒谷の山に引声念仏の声が流れると、京の町はめっきり寒くなる。

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驕る平家は久しからず(鹿ケ谷・安楽寺)

大文字の点る如意岳は西南の麓に小さな谷を抱いている。
「東山鹿谷という所は、法勝寺の執行俊寛僧都が領なり。
後は三井寺に続いて、如意山深く、前は洛陽遥かに見渡して、しかも在家を隔てたり」
この人里はなれた俊寛の山荘を、反平氏の人々が密議をこらす絶好の場所として使っていた。

なにしろ清盛の全盛期である。
 
 伊予讃岐左右の大将かきこめて欲の方には一の人かな

と嫌味をいわれるほど、一門の繁栄は絶頂を極めていた。
当然、心よからぬ思いをする者がふえてくる。

だが、治承元年(1177)、鹿ケ谷の山荘に集まった連中は、平氏政権転覆の大事を起こすにはどうも粒が小さすぎたようだ。
一味の中心になったのは新大納言成親だが、そもそもがこの人の私怨から発している。
多年ねらっていた左大臣右大臣の位置を、清盛の息子たちに奪われたというので、憤激していたのだ。

山荘の持ち主俊寛は、成親から松の前・鶴の前という二人の美女をあてがわれ、鶴の前には子どもまでできてしまったという弱みで、成親にずるずるとひきずりこまれてしまった。

平判官康頼、多田蔵人行綱といった人々もそれぞれ大なり小なり、平氏に対する不満をもっていた。
愚痴でもこぼしあってるだけなら無事に済んだのだろうが、鹿ケ谷の山荘で酒によってハメをはずし、かなり過激なことをいったりしたりしたわけである。

瓶子がひっくいrかえったからといって、「それ平氏がたおれた」とか、「首をとれ」「獄門にかけよ」とか、いかにも軽薄で騒々しい。
はたして、この有様に愛想をつかした行綱の裏切りで、あっさり露顕してしまった。
今この谷は”談合谷”と呼ばれているが、俊寛の山荘はあとかたもない。
京には珍しく見事な滝があって、滝の上に俊寛の記念碑が建てられている。

”鹿ケ谷の密議”は、内容としてはお粗末なものだが、平氏にとっては不穏な動きの兆しそめだった。
「驕る平家は久しからず」で、三年後にはより強力な反平氏勢力が、全国的に頭をもたげることになるのである。

成親・俊寛らが平家討伐の密議をこらしてから数年後、この谷の直ぐ近く、如意岳の西の麓に小さな草庵が結ばれ、弥陀礼賛の念仏の声が流れ始めた。

黒谷に浄土宗を創めた法然が、弟子の住蓮坊、安楽坊らと、念仏の道場を開いたのである。

天台座主だったことのある慈円は、叡山西塔出身の法然について、なかなか手厳しく書いている。
「専修念仏などといって、ただ阿弥陀仏の名号を唱えておればよい。他の『顕蜜ノツトメ』は行うなと説くものだから無知な尼や入道ともに喜ばれて、たいそう繁昌している」

事実、黒谷上人法然の説く専修念仏の教えは、年とともに都にひろまっていた。
高倉天皇も法然から戒を受けたし、一の谷で捕われた三位中将重衡も、鎌倉へ送られることが決まると、法然にあって「後生の事を申し談」じたいと述べて許されている。

後白河法皇をはじめ、中宮任子や月の輪関白九条兼実なども法然を先達と仰いでいる。
南都・北嶺の旧仏教界が今にお株を奪われはしないかと法然を危険視するのももっともだった。
こうして建永の弾圧がひきおこされる。

気配はその前から濃厚だったわけで、前々年元久元年(1204)、延暦寺が圧力をかけてきた。
翌年には興福寺が、念仏の停止を後鳥羽上皇に訴えている。
どちらもどうにか切り抜けたが、建永元年(1206)、ついにまずい事件にまき込まれてしまった。

法然の弟子の住蓮坊・安楽坊は、美声の持ち主で宮廷の女性たちに人気があった。
その名説法に感動して、宮廷の二人の女性が、東山の草庵で髪を落として尼になってしまったのである。
ただの女性ならよかったのだが、悪いことに二人とも後鳥羽院の寵妃で、しかも院が熊野詣をしている留守中のできごとだった。

烈火のごとく怒った上皇は、住蓮・安楽を死罪にし、その師法然を土佐に配流した。
若い弟子の一人だった親鸞もまた、これに連座して越後へ流されている。
いわゆる”建永の法難”である。

この事件は、おそらく都中を震撼させたにちがいない。
『法水分流記』によると、斬首されたとき、住蓮は頭から光を発し、地に落ちた首が念仏を十遍となえたそうで、安楽もまた、頭が落ちてからも合掌して念珠をくっていたといわれる。

談合谷の入口を少し北にゆくと、、住蓮山安楽寺という小さな寺があるが、これが住蓮・安楽二僧の住まい址だという。
境内の南の隅に二僧の石塔があり、その前を通って奥にゆくと、松虫・鈴虫の石塔がある。

この寺の北に接して法然院があるが、これは、江戸時代の延宝八年(1680)に、知恩院の万無心阿が祖師の霊跡に一寺を建てたもの。
法難当時の念仏道場は、両寺の東方のもう少し山の深みにあったらしいといわれている。

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満城の紅緑誰が為に肥ゆる(銀閣寺)

慈照寺(銀閣寺)の東求堂の中に、法体の人物の坐像がある。
足利八代の将軍義政、この地に東山殿を造り、銀閣を建てた人である。
頬骨が高く顎の細いその顔を見ていると、この人が、政治家失格の文化人将軍であったことが、なんとなくうなずけるような気がする。

銀閣は、義政が祖父義満の金閣にはりあって造ったものといわれるが、義満と義政を比較してみるとおもしろい。
義満は十歳で家督を継ぎ、十一歳で将軍になった。
三十七歳で職を譲り五十一歳で死んでいる。
十一歳から五十一歳まで、丸四十年間、幕府政治の中心に坐っていたわけだ。

義政は九歳で家督を継ぎ、十五歳で将軍、三十九歳で職を譲って五十六歳で死んでいる。
義満より一年長い四十一年間、幕政をみたことになる。
ひきうつしたように、祖父義満と似たコースをたどっている。

ちがう点は、義満は守護大名たちを押さえて完全に幕府に従わせ、その記念碑として金閣を造ったのだが、義政は、守護大名たちを押さえきれずに未曾有の大乱をひきおこし、みずからの避難所として銀閣を造ったことである。

義政は、まったく気の毒な時期にm室町幕府という大屋台を支える役目を背負わされた。
義政は幼名を義成といったが、九歳で将軍職に就いたとき、人々は義成という文字の中にはどちらにも「戈」が入っているから、武をもって天下を定め太平を開くだろうと祝いあったそうだ。
たしかに「戈」は動いたが、それは花の都を焼け野原にする悲惨な内乱で、両軍が戦い疲れてしぜんにおさまるまで、義政はなんら施す術をもたなかった。

将軍としての義政の前半戦は、天災と政争と土一揆とに終止している。
新しいエネルギーに満ちあふれた土一揆に対して、義政の施策はその場しのぎの”徳政令”だった。
『応仁記』は、「借銭を破らんとして前代未聞徳政という事をこの御代に十三ヶ度まで行」なったと記している。

寛正二年(1461)、二十六歳の青年将軍は、花の御所の復旧とその庭造りに熱中していた。
この年は、前年からひきつづいての大飢饉に疫病が流行して、鴨川は上流から流れてきた死体のため流れがせき止められるというほどの惨状を呈していた。
都の餓死者八万二千人。
ある僧が板ぎれで塔婆をつくり、死体に一枚ずつ置いていったところ、八万四千本の塔婆が二千本あましたのみだったという。

後花園上皇は、見るに見かねてこんな詩をつくり、義政を諷諫した。

 残民争いて採る首陽の蕨
 処々炉を閉じ竹扉を鎖す
 詩興吟は酸なり春三月
 満城の紅葉誰が為に肥ゆる

寛正五年、義政は、戦国一国の租税をあつめて、花頂山や大原野に盛大な花見の宴をはり、こんな発句を詠んだ。

 咲きみちて花よりほかに色もなし

義政の意識には、八万二千の死者も深刻さを加える重臣たちの対立も、かげさえ落としていないかのようである。
「天下破れば破れよ、世間滅ばば滅びよ」というその態度には、たいsかにある挫折感と捨てばちな色が濃くただよっているようだ。
こうして、応仁・文明の大乱がおこる。

義政は実子の義尚に将軍職を譲って退隠する。
そして、十一年にわたった大乱が終わると待ちかねていたかのよう二、山荘の造営に着手するのである。

文明十四年(1482)二月、義政は東山浄土寺の旧跡をえらんで、山荘の地に定めた。
そぢて翌年常御所ができあがると、急いでここに移ってしまう。
このころ、家庭においても妻である日野富子との仲が冷たくなっていたのである。
政治からも家庭からも身をさけて、義政は”美”にとりかこまれた自分だけの世界をつくろうとしたのかもしれない。

義満の金閣はm十六人の奉行に命じ諸国の守護大名に工事を分担させたが、このときの義政にはその力がない。
当然、工事の進みは牛の歩みである。
四年がかりで、東求堂、さらに二年を要して銀閣の棟上げにこぎつけたのだった。

庭づくりに一見識をもっていた義政は、山荘の庭園に異常なまでの情熱を注ぎ込んだ。
義政の命をうけた河原者たちは、山城大和の寺々を検分して、名石名樹を徴発して、山荘に運び込んだ。
その為、興福寺の僧侶たちが憤激してあやうく大事をひきおこしそうになったことさえある。

義政が生涯にただ一度の情熱をもやしてつくり上げた東山山荘は、その後天文年間に兵火にかかってほとんど焼けうせ、十数棟の建物のうちわずかに東求堂と銀閣だけが当時の姿を残しているにすぎない。

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丈山の口が過ぎたり (下がり松・詩仙堂)
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 
以後、後日追加予定 !

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