■■■京都故事−京の年中行事
更新:2006.01.15 こちら(知恩院〜銀閣寺) 10/42 嘘かほんまか、仏の数(三十三間堂) - 京の大仏さんは天火に焼けてナ(方向寺) - 清水の舞台から跳びおりる(清水寺) - いざ見にごんせ東山(八坂神社) - 祭りがすんで埒があく(上賀茂神社・競馬) - ささず濡らさず骨となる(知恩院)- 寺大名の悪国師(南禅寺・金地院) - ああ真如堂、飯、黒谷さん(黒谷、真如堂、十夜) - 驕る平家は久しからず(鹿ケ谷・安楽寺) - 満城の紅緑誰が為に肥ゆる(銀閣寺)- 丈山の口が過ぎたり(下り松・詩仙堂) - 神輿振り(延暦寺) - ロレツがまわる魚山橋(三千院・大原) - 近くて遠き九十九折(鞍馬寺・火祭) - 虎の子渡し(竜安寺) - きそん十七寅の年(広隆寺・牛祭) - 三舟の才(車折神社・三舟祭) - あだし野露(化野念仏寺・愛宕念仏寺) - 丹波太郎の雷おこし(愛宕神社) - 十方諸仏出身ノ門(大徳寺) - 魚山山頂ノ天竜(西芳寺) - 天神さん(北野天満宮) - 焼けて口開く蛤御門(京都御所) - 鶯宿梅(相国寺) - 敵は本能寺にあり(本能寺) - 京のへそ(頂法寺) - 弥陀の廂の新京極(誓願寺) - 江戸城の出城(二条城) - 冥土にとどく迎鐘(珍皇寺) - 門は十万石、ふところは加賀さま(東・西本願寺) - 弘法さん(東寺・羅生門) - でっちでんぽ、稲荷のみやげ(稲荷神社) - 京の裏鬼門(城南宮) - 醍醐の春にあひ候へ(醍醐寺) - 白朮詣 - 節分 - 大石忌 - やすらい祭 - 葵祭 - 祇園祭 - 大文字 ■ 関連ページ
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嘘かほんまか、仏の数(三十三間堂)
三十三間堂を文字どおりに換算すると、六十ーメートルになるわけだが、この堂の実際の長さはざっとその倍の百十八メートルもある。
長さが百十八メートルで奥行きは九メートルだから、とほうもなく細長い堂で、長さという点では木造建築で日本一である。 どうしてこんな奇妙な細長い堂を建てたのか・・・・・
京の古い俚謡だが、これは嘘で、実際は一千一体。
本尊を中心に左右に十段五十列で五百体ずつ、その全部が十一面千手観世音だから、堂内は仏像の大合唱を見るような偉観である。
この堂は後白河法皇の発願で平清盛が建立したものといわれ、蓮華王院が正しい名前だが、その建立にまつわる諸話が、いわゆる柳の棟木の由来である。 後白河法皇は前生が熊野の行者で、その髑髏を通して柳の木が生い茂ったために、風が吹くたびに頭痛に悩まされた。
法皇の発願によって、三十三間堂の棟木が求められ、熊野の山中に生い茂った百メートルをこえる柳の老樹が伐られることになった。
柳は伐られ、いよいよ曳きだされることになったのだが、途中でどうしたことかハタと動かなくなる。
百メートルにおよぶ細長い堂の、はしからはしまで矢を射通してみたらどうか、ということを考え出した人がいる。 東山今熊野の別当にたいそう弓好きの人がいて、八坂で射た帰りにこの堂に休んで試してみた。
慶長十一年(1606年)、浅岡平兵衛は五十一本を通して、矢数を記した額を奉納した。
いったん記録といものが打ちたてられると、これに挑戦する人がぞくぞくと現れる。
浅岡平兵衛の記録はあっという間に破られて、矢数は百台から二百台、五百台、たちまち千台を突破して、寛文年間には六千台をこえてしまった。 こんころになると、通し矢も、競技のための弓術になってしまって、弓ははりを強くし、矢は軽いものを使って、鏃も木になっている。
時間も一定に定められて、暮れ六つ(午後六時)から翌日の暮れ六つまでということになり、竹矢来をはって見物が集まり、茶店ができ物売りまで出る。 大矢数弓師親子もまいりたる 蕪村 本堂の縁に立ってみるとわかるのだが、右側は堂の扉と柱の列で、上は軒がふかくはり出している。
寛文二年(1662年)に、尾張家の家臣星野勘左衛門は六千六百六十六本を通して、天下一、すなわち”総一”の名を紀伊家のものとした。
記録を破られた星野は、「八千」と染出した大幟をお仕立てて、寛文九年五月一日三十三間堂の縁に立った。
このとき星野は余裕綽々たるもので、これ以上矢数をあげるとあとの挑戦者に気の毒だといって、六時間も残して切り上げた。
さて、おさまらないのは紀伊家で、あとの挑戦者に気の毒だといわれて黙っているわけにはいかない。
そして貞亨三年(1686年)、弱冠十八歳の青年和佐大八郎が、一藩の期待をになって登場する。 大八郎の父親は、星野があらわれる前に六千台をこえる矢を通して”総一”をとっている。
大八郎はまだ前髪ながら「力衆人にこえて強勢」だったといわれているが、技の方では星野とだいぶひらきがあったようだ。
こうして大八郎は、翌日の定刻までに、一万三千五十三本の矢を射て、うち八千百三十三本を通した。
この後も、矢数をこころみた人は多勢あったが、ついにこの大記録は破れなかった。
三十三間堂の西側の柱や垂木には、たくさんの矢疵が今ものこっている。 -Link-
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京の大仏さんは天火に焼けてナ(方向寺)
天正十三年(1585年)、豊臣秀吉は関白になった。
まさに日の出の勢いのこのときに、秀吉は京都に日本一の大仏を造ろうと思いたったのである。
『太閤記』によると、東大寺の大仏は二十年かかったそうだが、今度は五年で造ってしまえという厳命で、天正十四年に着工した。
ところができてから八年目の慶長元年、大地震にみまわれた。
後日譚がある。
太閤さんの命令とあって、善光寺の如来がはるばる堂守に参上した。
この木造の大仏は、できて四年目に、やはり銅像にしようということになったのだが、鋳工の失火から仏殿もろとも全焼といううき目にあった。
慶長十五年、秀頼は十八歳にし成長している。
大仏の大鐘は、重量八十二トンをこえる巨大なもので、すでに四月二十日に鋳造を終えている。
つかねどこの鐘関東へはひびき というわけか。 こうして大坂冬の陣がはじまる。
豊臣家は滅んだが、十九メートルの大鋳造仏はのこった。
今度はもう改鋳の話もおこらず、替わりに木造の大仏をすえることになって、仏体は江戸の亀井戸へ送られ、銅銭寛永通宝に鋳直された。
秀頼が建てた大仏殿は、東西六十七メートル、南北八十二メートル、高さ四十五メートルの大建築だった。
ところが、この図会が出版されて十年目の寛政十年(1798年)に、またしても災厄にみまわれた。 七月一日、午後十時頃から雷鳴を伴う大雨となり、十一時過ぎ、大仏殿の北東隅に落雷した。
こうして、豊家の記念物は、完全に消滅してしまった。
大仏殿炎上は京童にとっても大衝撃だったようで、 京の京の大仏さんは、天火で焼ァけナ、
というわらべうたがつくられた。 現在の堂と半身の木造大仏は、天保十四年(1843年)に再建されたもので、むかしのおもかげはない、不思議なのは、あれだけの大事件の種をまいた大鐘が、鋳潰されもせずにのこっていることで、この鐘と、堂内に保管されている創建時の鋳物、大和大路に沿ってのこる巨石の石垣などは、充分往時の規模をしのばせてくれる。 -Link-
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清水の舞台から跳びおりる(清水寺)
「清水の舞台から跳びおりたいと思うて」ということばは、今でも生きている。
などと、川柳子にからかわれる。 その清水の舞台、高さが十一メートル余もある懸崖造り。
この断崖に張り出した高さ十一メートル余の舞台から、実際に跳び下りた人のことが『宇治拾遺物語』に見える。 検非違使の忠明、清水の境内で無頼の若者たちと口論をしているうちに、相手方が刀を引き抜いた。
進退きわまった忠明は、堂の内にあった板張りの衝立を脇にはさむと、えいとばかりに舞台から跳んだのである。 忠明は、鳥のように翔って、谷底にふんわりと着陸したそうだ。
もう一人、これは、舞台の欄干を渡った人がいる。
藤原北家の四男、大納言成通がその人で、成道は稀代の蹴鞠の名人だった。 成通の鞠については逸話が多いが、蹴鞠の庭に立つこと七千日、そのうち二千日は連続記録で、大雨が降ると大極殿で蹴り、病気の時は鞠に足をあてながら臥したという熱心ぶりが伝えられている。 人を七、八人並べておいて、鞠を蹴りながらその人々の方を踏んで渡り踏んで戻った。
この成通が、父の宗通にしたがって清水寺に参籠した。
清水寺の本尊は十一面千手観世音だが、三十三年に一度開帳の秘仏とされていて、古来そのあらたかな霊験譚がいろいろ伝えられている。
今は昔・・・・・この千日詣でを双六のかけしろにした男がいる。
おこるかと思いきや、相手の男、承知した。
このようにあらたかな観音さまだが、創建以来、たびたび火災にあっている。 古くから南都興福寺の系列に入っていたものだから、東山の峰つづきの北嶺、延暦寺から目の敵にされた。
大門の焼け跡に、「火を水に変えるという功徳はどうなされた」と落書きをする者があった。
その後もたびたび焼かれたり焼けたりで、現在の建物は、ほとんどが江戸時代に入ってからのものだが、
清水の舞台は、やはり京に欠くことのできない名物のひとつである。 ▼ 余談 江戸期の庶民信仰 願いがかなう?
「清水の舞台」からの飛び降り事件は、江戸時代に計二百三十四件にのぼっていたことが、清水寺(京都市東山区)の学芸員横山正幸さん(77)による古文書調査で、このほど分かった。ことわざ通り「飛び降り」が頻繁に起きていたことが実証されたが、時代背景に「命をかけて飛び降りれば願いごとがかなう」という庶民の信仰があったという。 調査は、清水寺塔頭の成就院が記録した文書「成就院日記」から、飛び降り事件に関する記述を抜き出してまとめた。記録は江戸前期・元禄七(一六九四)年から幕末の元治元(一八六四)年までだが、間に記録が抜けている分もあり、実際は百四十八年分の記述が残っていた。 調査によると、この間の飛び降り事件は未遂も含め二百三十四件が発生した。年間平均は一・六件。記録のない時期も発生率が同じと仮定すると、江戸時代全体では四百二十四件になる計算という。 男女比は七対三、最年少は十二歳、最年長は八十歳代。年齢別では十代、二十代が約七三パーセントを占めた。 清水の舞台の高さは十三メートルもあるが、生存率は八五・四パーセントと高い。十代、二十代に限れば九〇パーセントを超す。六十歳以上では六人全員が死亡している。京都の人がが最も多いが、東は現在の福島や新潟、西は山口や愛媛にまで及んでいる。 門前町の人らが相次ぐ飛び降り事件に耐えかね、舞台にさくを設けるなど対策を成就院に嘆願したという記録も残る。明治五(一八七二)年、政府が飛び降り禁止令を出し、下火になったという。 横山学芸員は「ことわざがなぜ生まれ、現実はどうだったのかという関心から調査を始めた。江戸時代に庶民の間で観音信仰が広まり、清水観音に命を託し、飛び降りて助かれば願い事がかない、死んでも成仏できるという信仰から、飛び降り事件が続いたのだろう」と話している。 調査結果は「実録『清水の舞台より飛び落ちる』」として自費出版した。問い合わせは清水寺事務局 電話075(551)1234へ。 -Link-
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いざ見にごんせ東山(八坂神社)
八坂神社、などと、京の人はあまりいわない。
平安遷都の以前からこの地に祀られていたたいそう古い社なのだが、平安の初め、貞観年間(859〜877)、疫病の守り神である牛頭天皇をあわせ祀った。
『百錬抄』などをみると、よく、延暦寺の山僧がが祇園感神院に集まって気勢をあげている、という記事が出ている。
この祇園の社の近くに白河上皇の女御が住まっていた。
五月雨の降る一夜、殿上人二人と北面の武士を四五人つれて、いつものように祇園の社をぬけようとした上皇は、奇怪なものを見た。
すわ鬼が出たとおじけだった一行のなかに、北面の下臈だった平忠盛がいた。
今、本殿の東南の木立のなかに立っている一基の燈籠が、その時の燈籠だそうで”忠盛燈籠”と呼ばれている。 この世のふるまいが院の御感を得て、忠盛は祇園の女御をたまわることになるのだが、女御はすでに懐妊していた。
八坂神社を東へ抜けて、円山公園の池の手前の道を南へとると、音楽堂の前に小さな堂が一つ立っている。
女御塚から東北へかけてのあたりが、いわゆる真葛ケ原で「虫きくには、真葛か原よし」と滝沢馬琴が折り紙をつけたが、『愚管抄』の著者である大僧正慈円は、この近くに住んで、 わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風さわぐなり と、僧侶らしからぬおだやかでない歌を詠んでいる。 慈円が師と仰いだ西行も、晩年は真葛ケ原の一隅に草庵を結んで閑居した。
さらにくだって江戸後期になると、風狂の画人池大雅が、芭蕉堂のすぐ向かいあたりに棲んだ。
大雅のころになると、風流の原、祇園真葛ケ原も、だいぶにぎやかになっている。
春は花、いざ見にごんせ東山 その東山に京洛の春をあつめて、祇園さんは京の代表的名所の一つになってゆくわけである。 |
祭りがすんで埒があく(上賀茂神社・競馬)
賀茂の社は上と下と二つある。
平安遷都以前からこの地にあった社で、創立は神話の時代になる。
延暦寺に一人の貧しい僧がいた。
賀茂の社というと、五月十五日の葵祭がもっともよく知られているが、同じ五月にもう一つ、古式にのっとった勇壮な神事が行われる。
この神事は堀河天皇の寛治七年(1093年)にはじまったもので、葵祭につぐ盛んな行事として、朝野の見物が群集した。 五月一日には”足汰”といって、出走馬の下見がある。
さて当日、”乗尻”(騎手)は、左と右に分かれ、左は打毯、右は狛桙の楽服を着て菖蒲を身につける。
神事の競馬だから、勝負にこだわらないのどかなものだろうと思われるが、大違いで、この競馬の勝敗は、その年の豊作の豊凶を予告されるものとされていたので、騎手は真剣そのものだった。 賀茂ほどのりっぱな落馬またとなし いかにりっぱでも、落馬をすればもちろん負けである。
そこで勝者と敗者の和解の行事が行われる。
これがすむと競馬の神事はすべてが終わったことになり、馬場に結いめぐらしてあった埒(垣)をとりのぞく。
吉田兼好もこの競馬を見物に行って、その雑踏ぶりに閉口している。
賀茂の社の特殊な地位は、天皇の行幸の回数が六十回をこえていることからも察しられる。
天皇の行幸そのものが二百数十年ぶりのことだったうえに、このときは、徳川十四代の将軍家茂を供に従えるというのだから、それまでは想像もできなかったことだ。
雨をついて行われたこの行幸は一日がかりでとどこおりなく終わったが、途中にエピソードがあった。 家茂の馬が賀茂の河原にさしかかったとき、ひざまずいて行列を拝観していた人垣のなかから「いよう、征夷大将軍!」と大声で野次った者がある。
野次ったのは、ちょうど入洛していた長州の快男児高杉晋作だった。
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ささず濡らさず骨となる(知恩院)
酒仙の詩人頼山陽が、剣菱をかたむけながら端唄をつくった。 ふとん着て寝たる姿は古めかし
その知恩院の石段に落花しきりの春四月、開祖法然上人の忌日法会が行われる。
円光大師法然は、建暦二年(1212)正月二十五日に入寂しているので、維新までは正月十九日から七日間ということになっていた。 なには女や京を寒がる御忌詣 蕪村 京はまだ余寒が厳しいが、もう如月もまぢかで、春の兆しがみえる。
華頂山の一山をほとんど境内にして、その中腹に位置する知恩院は、実に堂々とした大寺院である。
伽藍はすべて江戸初期のもので、書院建築や障壁画に桃山文化の最後の華やぎがうかがえる。
滝沢馬琴も、初上がりの京の旅でこれを見たらしく、「知恩院の傘は今なほ骨ばかりになりて、本堂の右の方の軒下にあり」と書いている。 この上に忘れ傘あり、と張り紙のある真上を見ると、金網に囲われて、なるほど傘の柄らしいものが見える。
誰が言ったのか 小野小町と知恩院の傘は、ささず濡らさず骨となる 小野小町にまつわる伝説で、川柳子も 弁慶はせめて 小町はからむたい とやっている。
この傘は、寺の説明によると、堂を建てた左甚五郎が、完全さを避けてわざと忘れて置いたもので、”甚五郎よろこびの忘れ傘”というとか。
この忘れ傘を筆頭に、知恩院には七不思議といわれるものがある。
御影堂前から女坂を下っていくと、左側の苑内に小さな銅像が見える。
法燈は七百年、友禅染は二百年、どちらも華頂山麓におこって、世の人に深くつながっているわけだ。 -Link-
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寺大名の悪国師(南禅寺・金地院)
幕があくと、舞台いっぱい朱塗の楼門。
並木五瓶がこの出会いの舞台に設定したのが南禅寺の三門で、それ以来、この三門はいちはやく有名になった。
南禅寺の三門は、永仁三年(1295)に建ったのだが、文安四年(1447)に炎上し、復興のならないうちに応仁・文明の大乱にあって、こんどは南禅寺一山が全焼してしまった。
三門はフィクションだが、石川五右衛門は実在した人物のようだ。
五右衛門が出没した頃の南禅寺は、興廃の一番甚だしいときだったが、御所や伏見城の建物をもらったりして、寛永年間には伽藍がととのった。
山門前の小道を南にとると金地院という塔頭の前に出る。
崇伝は家康・秀忠・家光の三代に仕え、幕府の外交・内政に参画した。
金地院には寛永五年(1628)造営の東照宮がある。
江戸時代は、方々にこうした日光廟のミニアチュアが造られた。
寛永三年(1750)というと、家康の没後百五十年あまりのものちのことだが、京の三条の旅籠に泊まっていた谷平之丞という浪人が、荷物をのこしたままどこかへ行ってしまった。
安永元年(1772)、奉行がかわって事務の引継ぎの折に、たまたま二十二年前の神君御尊影が問題になった。
表装があまり粗末だというので、奉行所の書院に表具師を呼んで、表装をしなおさせることになったが、もちろん表具師は精進潔斎で、与力二人がつきそい、いっさい他人の拝見を許さぬというものものしさ。 出来上がったのを三重の箱に入れ、服紗で包み、新調の塗長持に入れ、油単をかけ、さていよいよ金地院に納める運びになったのが、安永三年六月十七日である。 時の奉行山村信濃守が騎馬でお供をして、長持ちのまわりは筆頭与力七人がうやうやしく警護するという大行列。
江戸時代二百数十年間、神君家康の威光はこのように絶大だったのである。 |
ああ真如堂、飯、黒谷さん(黒谷、真如堂、十夜)
「ああしんど、飯くいたい」の語呂合わせで、
もう一つあって、
洛東の名刹三つを詠みこんで洒落のめしている。
その「飯、黒谷さん」の方だが、正しくは今戒光明寺としかつめらしい。
承安五年(1175)、この黒谷の報恩蔵にこもっていた一人の学僧が「一心専念弥陀名号」の八字にうたれて、専修念仏の道を開いた。
法然は山を下りて、この地にたどり着き、石の上に坐って念仏を唱えたところ、紫の雲が湧き起こったという。
涼しさの野山にみつる念仏かな 去来 つまり浄土宗発祥の地なのである。
建久三年(1192)という年は、頼朝が征夷大将軍に任じられて鎌倉に幕府を開いた年だが、この年、法然の門に荒くれた関東武者の弟子が一人増えた。
熊谷はまだ実の入らぬ首をとり などと川柳子は茶化しているが、『平家物語』は一の谷の戦いに平敦盛を討った直実が、生年十七歳の若人を殺したことから「発心の思いはすすみけれ」と書いている。
直実は黒谷を訪れて、法然の手で髪をおろしてもらい、連生坊の名をもらった。
発心した直実が住んだ草案の址に、熊谷堂が建てられている。
連生坊直実は、法然について専修念仏につとめていたが、承元二年(1208)九月十四日午前十時を入寂とみずから予言した。
さて、当日、連生坊入寂の予言を聞いて、黒谷の草庵は結縁を願う人々でうずまった。
年齢は六十八歳だが「かねていささかも病気なし」の人だったので、世人はたいそう不思議がると同時に、念仏に対する信頼を深めたわけである。 黒谷さんの岡つづきの北側に、真如堂がある。
平安の中頃、一条天皇の勅願でひらかれた寺だが、その後いくども寺地を変え、元禄六年(1693)に現在の旧地に戻った。 この寺は、毎年十一月六日から十五日まで行われる十夜念仏で有名である。 慈覚大師のはじめた引声念仏で、堂内に四つの大鉦を置いて、それを打ち鳴らしながら節をつけて念仏を唱和する。
むかしから俗に”蛸十夜”といわれていて、十夜の内に蛸を食べると疫病にかからない信じられてきた。
黒谷の山に引声念仏の声が流れると、京の町はめっきり寒くなる。 -Link-
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驕る平家は久しからず(鹿ケ谷・安楽寺)
大文字の点る如意岳は西南の麓に小さな谷を抱いている。
なにしろ清盛の全盛期である。
と嫌味をいわれるほど、一門の繁栄は絶頂を極めていた。
だが、治承元年(1177)、鹿ケ谷の山荘に集まった連中は、平氏政権転覆の大事を起こすにはどうも粒が小さすぎたようだ。
山荘の持ち主俊寛は、成親から松の前・鶴の前という二人の美女をあてがわれ、鶴の前には子どもまでできてしまったという弱みで、成親にずるずるとひきずりこまれてしまった。 平判官康頼、多田蔵人行綱といった人々もそれぞれ大なり小なり、平氏に対する不満をもっていた。
瓶子がひっくいrかえったからといって、「それ平氏がたおれた」とか、「首をとれ」「獄門にかけよ」とか、いかにも軽薄で騒々しい。
”鹿ケ谷の密議”は、内容としてはお粗末なものだが、平氏にとっては不穏な動きの兆しそめだった。
成親・俊寛らが平家討伐の密議をこらしてから数年後、この谷の直ぐ近く、如意岳の西の麓に小さな草庵が結ばれ、弥陀礼賛の念仏の声が流れ始めた。 黒谷に浄土宗を創めた法然が、弟子の住蓮坊、安楽坊らと、念仏の道場を開いたのである。 天台座主だったことのある慈円は、叡山西塔出身の法然について、なかなか手厳しく書いている。
事実、黒谷上人法然の説く専修念仏の教えは、年とともに都にひろまっていた。
後白河法皇をはじめ、中宮任子や月の輪関白九条兼実なども法然を先達と仰いでいる。
気配はその前から濃厚だったわけで、前々年元久元年(1204)、延暦寺が圧力をかけてきた。
法然の弟子の住蓮坊・安楽坊は、美声の持ち主で宮廷の女性たちに人気があった。
烈火のごとく怒った上皇は、住蓮・安楽を死罪にし、その師法然を土佐に配流した。
この事件は、おそらく都中を震撼させたにちがいない。
談合谷の入口を少し北にゆくと、、住蓮山安楽寺という小さな寺があるが、これが住蓮・安楽二僧の住まい址だという。
この寺の北に接して法然院があるが、これは、江戸時代の延宝八年(1680)に、知恩院の万無心阿が祖師の霊跡に一寺を建てたもの。
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満城の紅緑誰が為に肥ゆる(銀閣寺)
慈照寺(銀閣寺)の東求堂の中に、法体の人物の坐像がある。
銀閣は、義政が祖父義満の金閣にはりあって造ったものといわれるが、義満と義政を比較してみるとおもしろい。
義政は九歳で家督を継ぎ、十五歳で将軍、三十九歳で職を譲って五十六歳で死んでいる。
ちがう点は、義満は守護大名たちを押さえて完全に幕府に従わせ、その記念碑として金閣を造ったのだが、義政は、守護大名たちを押さえきれずに未曾有の大乱をひきおこし、みずからの避難所として銀閣を造ったことである。 義政は、まったく気の毒な時期にm室町幕府という大屋台を支える役目を背負わされた。
将軍としての義政の前半戦は、天災と政争と土一揆とに終止している。
寛正二年(1461)、二十六歳の青年将軍は、花の御所の復旧とその庭造りに熱中していた。
後花園上皇は、見るに見かねてこんな詩をつくり、義政を諷諫した。 残民争いて採る首陽の蕨
寛正五年、義政は、戦国一国の租税をあつめて、花頂山や大原野に盛大な花見の宴をはり、こんな発句を詠んだ。 咲きみちて花よりほかに色もなし 義政の意識には、八万二千の死者も深刻さを加える重臣たちの対立も、かげさえ落としていないかのようである。
義政は実子の義尚に将軍職を譲って退隠する。
文明十四年(1482)二月、義政は東山浄土寺の旧跡をえらんで、山荘の地に定めた。
義満の金閣はm十六人の奉行に命じ諸国の守護大名に工事を分担させたが、このときの義政にはその力がない。
庭づくりに一見識をもっていた義政は、山荘の庭園に異常なまでの情熱を注ぎ込んだ。
義政が生涯にただ一度の情熱をもやしてつくり上げた東山山荘は、その後天文年間に兵火にかかってほとんど焼けうせ、十数棟の建物のうちわずかに東求堂と銀閣だけが当時の姿を残しているにすぎない。 -Link-
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丈山の口が過ぎたり (下がり松・詩仙堂)
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